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福田康夫はなぜ総理大臣を突然辞め、その後は長老外交で存在感を示したのか

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 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民には唐突に映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と問われた福田が、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」と応じた場面は、その後長く繰り返し紹介され、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、奇妙なことが残る。総理大臣としては、政局を突破できずに短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは少し違う場所で対話の糸をつなぐ役割を長く果たしたからである。総理大臣という最大の権力を持っていた時には行き詰まり、権力を失った後には別のかたちで存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣になったのは2007年9月だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方で、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律をまったく成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。実際、ガソリン税の暫定税率をめぐって、その手法は使われている。しかし、法律を成立させることが可能であることと、安定した政治運営が可能であることは同じではない。参議院での審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すという政治が続けば、時間もかかり、野党との対立も深まり、世論から「強引な国会運営」と批判される危険も高まる。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害C型肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。後期高齢者医療制度をめぐる批判も強まり、2008年6月には参議院で福田首相に対する問責決議まで可決される。世論調査でも内閣支持率は低迷し、政権が政策の内容を説明する以前に、「福田政権そのものを続けるべきなのか」が政治問題になりつつあった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かった

 福田康夫は、群衆を熱狂させ、強い言葉によって反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。

 もちろん、それを福田の生まれつきの性格だけで説明することはできない。政治家の行動は本人の資質だけではなく、議会制度、党内事情、選挙、世論、相手となる野党の戦略などによって決まるからである。それでも、福田政権の行動を見ると、対立を一方的に押し切るより、相手との合意によって政治を前へ進めようとした形跡は確かに見える。

 その象徴が、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想だった。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとしたのである。構想は民主党内の反発によって実現しなかったが、ここには福田政治の特徴がよく表れている。相手を倒して前へ進むより、相手との間に妥協できる場所をつくり、そこから前へ進もうとする政治である。

 ところが、当時の民主党にとって次の衆議院選挙で政権交代を実現することは、すでに現実的な政治目標になっていた。だからといって民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明することはできず、後期高齢者医療制度や年金、ガソリン税などをめぐる実質的な政策対立も存在したが、福田政権に協力して実績を積ませることが、野党の選挙戦略と必ずしも一致しなかったことも確かだろう。合意を前提にした政治家が、政権交代を争う二大勢力の正面衝突の中へ入れば、調整能力だけでは解けない問題が生まれる。

「何もしなかった首相」ではないが、「物語を作れなかった首相」だった

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い。しかし実際には、道路特定財源の一般財源化、消費者行政を一元化する消費者庁構想、社会保障制度をめぐる議論など、後の政策につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを自らの政権が進めてきた課題として挙げていた。

 ただし、それらをすべて福田個人の「大きな実績」と評価するのも慎重であるべきだろう。政策は一つの政権だけで完成するとは限らず、前政権から引き継いだ議論を整理する場合もあれば、ある政権が構想し、次の政権が法律を成立させ、その後の政権が制度として定着させる場合もある。福田は、目立つ成果を自分の名前と結びつける政治より、制度の方向を整える仕事を好んだように見えるが、それはテレビや世論調査を通じて指導者の「分かりやすさ」が求められる時代には不利だった。

 小泉純一郎には「郵政民営化」があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」が生まれた。しかし福田政権には、国民が一言で記憶できる政治的な物語がほとんど残らなかった。政策がなかったのではなく、政策を自分の政治的物語として演出する力、あるいは演出しようとする意欲が弱かったのである。

では、なぜ辞めたのか

 2008年9月の辞任を一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会があり、内閣支持率の低迷があり、参議院での問責決議があり、与野党対立があり、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情もあった。8月には内閣改造を行ったものの、政権を劇的に立て直すほどの効果は生まれなかった。

 そのなかで福田自身が示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者行政など重要案件が控えている以上、自分がそのまま首相を続けて対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相に交代した方が政策を進めやすいというのである。本人の辞任会見は重要な一次資料だが、それだけを辞任の「真相」とみなすことはできない。それでも少なくとも、福田が自分自身を政権運営上の一つの変数として見ていたことは確かである。

 普通、政治家は自らを政策実現の主体として考える。しかし福田は、自分自身が政策実現を妨げる要因になったなら、主体そのものを交換すればよいと考えたように見える。これは責任ある判断だったとも、総理大臣として踏ん張る責任を放棄したとも評価できる。後世から一方だけに決める必要はない。ただ、少なくとも「嫌になったから突然辞めた」という説明だけでは、この判断の構造を十分には捉えられない。

 そして「あなたとは違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の色を帯びる。言い方としては感情的であり、首相の言葉として洗練されたものでもなかったが、福田が言おうとしたのは、自分自身を政権の外側から見ることができるということだった。権力の中心にいながら、自分自身まで政治状況を構成する一要素として眺める。その考え方は、総理大臣としては珍しく、同時に危ういものでもあった。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所で生き始めた

 福田は首相を退任した後も国会議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、政治的活動そのものをやめたわけではなかった。むしろこの頃から、首相時代とは違う形で外交の世界に居場所をつくっていく。

 2010年から2018年まで、福田はボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務めた。中国海南省で開催されるこの国際会議には、アジア各国の政治家、経済人、研究者が集まり、福田はそこで長期間にわたって人的関係を築いた。中国との関係だけでなく、日本インドネシア協会会長として東南アジアとの交流にも関わり続けている。

 ここで重要なのは、福田の退任後外交を本人の性格だけで説明しないことである。対話を重視する姿勢が外交に適していたことは確かだとしても、彼が一定の役割を果たすことができた背景には、「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきたアジア各国の指導者との人的関係、ボアオ・アジア・フォーラムでの地位、そして現職政治家ではないという自由さがあった。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会えば、その言葉は日本政府の公式見解として受け止められる。ところが元首相には、正式な交渉権限がない代わりに、政府が正面から動きにくい時でも相手と会える余地がある。何かを約束することはできないが、相手の考えを聞き、日本側の考えを伝え、完全に切れそうになった関係に細い糸を残すことはできる。

 福田自身は、こうした役割を野球の「球拾い」のようなものだと表現したことがある。自分が試合の主役になるのではなく、外へ飛んでいった球を拾い、もう一度試合ができる場所へ戻す。政治家として華やかな比喩ではない。しかし、福田康夫という人物には不思議によく似合っている。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた「非公式の通路」

 福田の長老外交が最も注目されたのは、2014年の日中関係だった。尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相の靖国神社参拝などを背景に、日本と中国の政治関係は深く冷え込み、首脳会談さえ開けない状態が続いていた。

 そのなかで福田は北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。日中双方が関係悪化に危機感を持っていることが確認され、その後、11月には北京で安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談が実現する。

 もっとも、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめ、外務省、中国政府、政党関係者、経済界など複数の経路が動いており、日中双方にも関係悪化をこれ以上続けることへの経済的・外交的な懸念が存在していた。福田の接触は、そうした複数の対話ルートの一つであり、そのなかでも元首相という立場を利用した比較的重要な経路だったと考えるのが妥当だろう。

 ここに長老外交の本質がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な外交が始まる前の空間をつくることはできる。扉そのものを開ける権限はなくても、扉の向こう側にまだ話のできる相手がいることを確かめることはできるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではない。2007年12月、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語っている。翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」を包括的に推進する共同声明を発表した。

 この考え方には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について語っているため、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできるだろう。

 ただし、父親がそう考えたから息子も同じ外交観を受け継いだ、と単純に結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人自身の経験や時代状況によっても変わる。それでも、国家間の関係は一度の会談や一人の首相で完成するものではなく、何十年という時間をかけて維持するものだという感覚が、福田康夫の外交姿勢に強く表れていたことは確かだろう。

総理時代には弱点だったものが、外交では違う価値を持った

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と長老外交には一定の連続性が見えてくる。ただし、それを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という一つの物語だけに閉じ込めるべきではない。政治家の成功や失敗は、性格だけでなく、制度と環境によって大きく変わる。

 総理大臣には、最後には決断しなければならない場面がある。国会で多数派を形成し、反対を押し切ってでも予算や法律を成立させる必要がある。その役割では、福田の慎重さや対話志向は、ときに指導力不足として映った。しかし元首相の外交には、決定権がないからこそできる仕事がある。結論を急がず、相手を屈服させず、意見の違いが残っていても次の会談への道だけは閉ざさない。その役割では、総理時代に弱点と見られた政治姿勢が、別の価値を持つことになる。

 さらに福田の場合には、元首相という肩書、長年築いてきた中国や東南アジアとの人的関係、国際会議での活動、現職政府から一定の距離を持つ立場が重なった。つまり、福田が長老外交で存在感を示したのは、性格が外交向きだったからだけではなく、その性格と経歴と立場が、退任後の国際環境のなかでうまく組み合わさったからだった。

「あなたとは違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は365日だった。それだけを見れば、日本政治に数多く存在する短命政権の一つにすぎない。しかし、総理大臣を辞めた後に外交へ関わった期間は、その何倍にもなる。2020年代に入っても中国側要人との会談を続け、日本インドネシア協会を通じた交流にも関与している。

 考えてみれば、福田康夫という政治家には、最初から主役らしくないところがあった。総理大臣になっても大きな言葉で時代を名付けず、退任した後も自分の外交を歴史的業績として語ろうとはしない。その代わり、関係が壊れそうになった時に相手と会い、話し合いの場所がなくなりそうになれば細い通路を残す。その仕事は、選挙で票になるわけでもなく、大きな政策名として教科書に残るわけでもない。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして受け取られた。しかし、その後の歩みまで含めて見ると、もう一つの読み方ができる。

 自分が権力の中心にいることと、自分が政治に役立つことは同じではない。総理大臣でいることが政治を動かすなら総理大臣でいればよいが、自分が退くことで政治が動くなら退く。そして権力を失った後には、権力を持たない者だからこそできる仕事を探す。福田の辞任を正しかったと評価する必要はないし、長老外交を過度に美化する必要もない。それでも、彼の政治人生には、「自分が主役であること」より「関係や仕組みを次へ渡すこと」を重視する一つの一貫性があったように見える。

 福田康夫は、総理大臣として大きな物語を残した政治家ではなかった。しかし政治には、物語を作る人だけでなく、物語が途切れないように次のページへつなぐ人もいる。総理大臣としては、その静かな政治手法が時代に合わなかった。そして総理大臣を辞めた後、その同じ静けさが、外交という別の場所で初めて居場所を見つけたのかもしれない。

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