地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

知名度は民主政治の「能力」なのか、それとも「資源」なのか

 選挙になると、ほとんど条件反射のように聞こえてくる言葉がある。「またタレント候補か」「有名人を出せば票が取れると思っている」「政治を人気投票にするな」。俳優、スポーツ選手、アナウンサー、文化人など、すでに広く知られた人物が立候補すると、その人の政策や準備状況を検討する前から、「人気だけ」という判決が下されることさえある。しかし、この批判には一つ厄介な問題がある。私たちは「人気で政治家が選ばれること」を嫌いながら、民主政治そのものが、人々に知られ、支持され、一票を託されなければ成立しない制度であることを、ときどき忘れてしまうのである。

 もちろん、有名であることと政治家として有能であることは同じではない。俳優として成功したから国家予算を読めるわけではなく、オリンピックでメダルを取ったから社会保障制度を設計できるわけでもなく、テレビ番組で気の利いた発言ができることと、法律の条文を読み込み、行政組織を動かし、複雑な利害を調整することの間には明らかな距離がある。したがって、「有名だから政治家に向いている」という推論は、論理的にも科学的にも成立しない。

 しかし、ここで話を終えてしまうと、反対方向にも同じ間違いを犯すことになる。「有名だから政治家として能力が低い」という推論もまた、根拠がないからである。タレント経験のある候補者集団が、それ以外の候補者集団より平均的に政治能力が低いという事実が確認されていない以上、「タレント候補だから中身がない」と最初から決めつけることは、候補者の能力を評価したことにはならない。それは職歴から能力を推定しているにすぎず、実のところ「芸能人だから駄目」という判断も、「元官僚だから優秀」「弁護士だから法律に強い」「経営者だから経済に強い」といった肩書による評価と、構造的にはそれほど違わない。

 ここで問題になるのが、政治家をどのような能力によって評価するのかという、もう少し深い問いである。政策知識だろうか、学歴だろうか、行政経験だろうか、それとも法律や経済への理解度だろうか。確かに、こうした能力はいずれも重要である。しかし、それだけが政治家の能力だと考えるなら、選挙という仕組みはずいぶん奇妙な制度になる。政治家として必要な知識を試験で測り、得点の高い順に議席を与えた方が効率的だからである。それでも私たちがその制度を採用しないのは、政治家が単なる専門家ではなく、市民から権力を預かる代表者だからである。

 民主政治の厄介さは、政治家が専門能力と代表能力の両方を求められるところにある。政策に詳しいだけでは足りず、その政策を人々に説明し、異なる意見を持つ人々の声を聞き、ときには妥協し、最終的な判断について責任を負わなければならない。どれほど優れた制度を考えても、それを社会に伝えられず、理解も支持も得られないのであれば、民主政治の中で実行することは難しい。政治とは、知識の競争であると同時に、信頼を形成し、人々との関係をつくる仕事でもある。

 だからといって、知名度そのものを「政治能力」と呼ぶのは正確ではない。ここは明確に区別した方がよい。知名度は政治能力そのものではなく、選挙において非常に強い「政治資源」である。候補者の名前を知っている、有権者が顔を認識できる、過去にどのような人物だったかについて何らかの印象を持っているという状態は、その候補者が自分の政策を届ける入口をすでに持っていることを意味する。

 無名の候補者は、まず自分が存在することを知ってもらわなければならない。ポスターを貼り、駅前に立ち、街宣車で名前を繰り返し、地域を回りながら、ようやく「この名前を聞いたことがある」という段階にたどり着く。一方、著名人はその最初の壁をすでに越えている。選挙という競争だけを見れば、この差は小さくない。

 政治学や行動科学では、有権者がすべての候補者について完全な情報を集めることは現実的ではないと考えられている。仕事があり、家事があり、子育てや介護があり、日々の生活がある中で、立候補者全員の政策集を読み、過去の発言を確認し、財政政策や外交政策を比較し、さらにその実現可能性まで検証することを全有権者に求めるのは無理がある。情報を調べるためには時間も労力も必要であり、その費用に比べて、自分一人の一票が選挙結果を変える可能性は極めて小さいため、有権者が政治情報の収集に無限の時間を使わないことには、それなりの合理性がある。

 この考え方は、政治学では「合理的無知」と呼ばれてきた。有権者が愚かだから政治について知らないのではなく、限られた時間や労力を仕事、家庭、趣味、健康などにも配分しなければならない以上、政治情報への投資を一定のところで止めることには合理性があるという考え方である。民主政治は、全有権者が政治学者になることを前提として設計されているわけではない。

 そこで人間は、複雑な判断を簡略化するための手掛かりを使う。所属政党、現職か新人か、職歴、過去の実績、推薦団体、話し方、人物像、そして知名度などである。こうした判断方法をヒューリスティクス(heuristics・複雑な判断を簡略化する認知上の手掛かり)という。ヒューリスティクスを使った判断がいつも正しいわけではないが、情報が限られた環境で人間が意思決定する以上、完全に排除することも難しい。

 その中で、「名前を知っている」ということも一つの手掛かりになる。日本の選挙を利用した研究でも、候補者名が認識されやすい条件が得票に影響し得ることが示されているほか、海外の実験研究でも候補者名の認知が支持に影響する場合が確認されてきた。一方で、近年の追試では、単に名前を繰り返し見せれば支持が上昇するという単純な効果は十分に再現されていない。つまり、現在の研究から言えるのは「知名度は条件によって投票に影響し得る」というところまでであり、「有名になれば自動的に票が増える」とまで単純化することはできない。

 ここは、タレント候補を論じるうえで非常に重要である。知名度は選挙において有利に働く可能性が高いが、それだけで当選が決まるわけではない。所属政党、候補者本人の評価、政策、選挙区の事情、現職効果、資金、組織力、報道量など、さまざまな要因が同時に作用する。したがって、タレント候補が当選したからといって、「知名度だけで当選した」と断定することも、科学的には慎重であるべきだ。

 統計学の言葉を借りれば、ここには「交絡」の問題がある。著名人は、単に名前が知られているだけではなく、人前で話す経験が豊富かもしれないし、メディアの扱い方に慣れているかもしれないし、政党から有力候補として手厚い支援を受けているかもしれない。反対に、著名人だからこそ過去の言動を厳しく調べられ、失言やスキャンダルが広く報道されることもある。したがって、「知名度」と「得票」の関係だけを見ても、その背後に何が働いているのかは簡単には分からない。

 同じことは政治能力についても言える。知名度が高い人物ほど政治能力が高いという関係は証明されておらず、逆に知名度が高い人物ほど政治能力が低いという関係も証明されていない。知名度は能力そのものではなく、候補者について何らかの情報を与える可能性のあるシグナルにすぎないのである。そして、そのシグナルがどれほど有用なのかは、知名度が何によって形成されたかによって大きく変わる。

 例えば、十年以上にわたって社会活動を続け、その中で多くの人に知られるようになった人物の知名度と、一時的にテレビ番組に大量出演したことで生まれた知名度は、同じ数字で表されるとしても意味は違う。スポーツ選手として長期間チームをまとめてきた人物なら、組織管理やプレッシャー下での意思決定について経験を持っているかもしれない。しかし、それが財政政策や外交政策への理解を保証するわけではない。重要なのは「有名である」という結果だけを見るのではなく、その知名度がどのような経験から生まれ、政治家として何に転換できるのかを見ることである。

 これは情報の問題として考えると、さらに分かりやすい。私たちが本当に知りたいのは候補者の政治能力だが、その能力を投票前に完全に観察することはできない。そのため、経歴や実績、所属政党、発言、知名度といった観察可能な情報から、見えない能力を推測することになる。もし知名度が政治能力について何らかの情報を含んでいるのであれば判断材料にはなるが、知名度と政治能力がまったく関係していないのであれば、名前を知っているという事実だけから能力を推測することはできない。

 つまり、「有名だから優秀」という判断も、「有名だから中身がない」という判断も、統計的には同じ誤りを犯す可能性がある。私たちが知らなければならないのは知名度の大きさではなく、その知名度の背後にある情報なのである。

 ここまで考えると、タレント候補への批判の仕方にも修正が必要になる。問題なのは、芸能人やスポーツ選手が政治に入ってくることではない。問題なのは、政党がその人物の政治的準備や適性を十分に検証せず、「この人なら名前だけで票が取れる」と考えて候補者にする場合である。

 これはかなり重要な違いである。前者を批判すれば、政治の世界に入れる職業を事実上制限することになるが、後者を批判するのであれば、候補者選定の質を問うことになる。民主政治にとって必要なのは、政治家一家、官僚、政党職員など限られた経路だけから候補者を供給することではなく、社会のさまざまな分野から政治に参加する人が現れ、そのうえで同じ基準によって能力を評価されることである。

 むしろ不思議なのは、タレント候補の知名度には厳しい視線が向けられる一方、既存政治家の知名度については同じほど疑問が向けられないことである。何期も当選した現職議員は、当然ながら名前も顔も知られている。世襲候補なら、本人が政治活動を始める以前から名字そのものが地域の政治ブランドになっていることさえある。それにもかかわらず、芸能人が持ち込む知名度だけを「不純な人気」と呼ぶのであれば、評価基準には一定の偏りがある。

 ただし、ここでも単純な同一視は避けなければならない。現職議員の知名度には、過去に選挙で選ばれたこと、議員として活動したこと、政治的判断の実績が存在することなどの情報が含まれている。一方、芸能活動によって形成された知名度は、必ずしも政治的実績について何も教えてくれない。どちらも「知っている名前」ではあるが、有権者に伝えている情報の中身は同じではないのである。

 したがって、「タレントも現職も有名なのだから同じだ」と言ってしまうのも正確ではない。より妥当なのは、どの候補者にも「既知であることによる優位」は存在し得るが、その知名度が政治家としての能力についてどの程度の情報を含むのかは、それぞれ異なると考えることだろう。

 ここで、もう一つ見落としてはいけない問題がある。私たちはタレント候補に対して「人気だけで選ぶな」と言うが、そもそも政策だけで候補者を選ぶことも、それほど簡単ではない。選挙公約には魅力的な言葉が並び、財源の説明が十分でない政策もあれば、前提条件を変えれば結果が大きく変わる試算もある。政策集を詳しく読んだからといって、その実現可能性まで正しく評価できるとは限らない。

 さらに、候補者本人が政策集のすべてを書いているわけでもない。政党スタッフ、秘書、専門家などが政策形成に関与することは珍しくなく、文章が精緻だから本人の政治能力が高いと単純に判断することもできない。結局、有権者は政策だけでなく、「この政策を語っている人物は信頼できるのか」「分からないことを学ぶ姿勢があるのか」「専門家の話を聞けるのか」「失敗したときに説明責任を果たすのか」という人物評価まで含めて判断するしかない。

 この意味で、人々に伝える能力は確かに政治家として重要である。ただし、ここにも一つ注意が必要である。知名度とコミュニケーション能力を同じものとして扱ってはいけない。非常に有名でありながら説明能力の低い人物もいれば、ほとんど知られていなくても複雑な政策を分かりやすく説明できる人物もいる。

 因果関係として考えるなら、コミュニケーション能力が高いために多くの人に知られるようになることはあり得るが、有名だからコミュニケーション能力が高いとは限らない。この向きの違いは大切である。テレビへの露出量、所属事務所、出演作品の成功、競技成績、時代的な流行など、本人の説明能力とは別の理由で知名度が形成されることはいくらでもある。

 だからこそ、有権者が見るべきなのは「人気があるかないか」という単純な二分法ではなく、その人物が何によって支持され、どのような能力を持ち、何を学び、分からない問題にどう向き合うのかという複数の情報である。政治家に必要なのは、すべてを自分一人で知っていることではない。現代国家の政策領域はあまりに広く、税制、医療、外交、安全保障、教育、エネルギー、科学技術、社会保障のすべてに一人で精通することなど不可能だからである。

 むしろ重要なのは、自分が知らないことを認識し、専門家の意見を聞き、異なる立場の説明を比較し、そのうえで政治的責任を引き受けて判断する能力だろう。そこには知識だけでなく、学習能力、判断力、説明力、倫理性、交渉能力などが関わってくる。政治能力とは、本来一つの数字では測れない多次元的な能力なのである。

 そう考えると、「タレント候補」という言葉そのものが、かなり粗い分類であることが分かる。数十年間社会問題に関わってきた著名人もいれば、選挙直前まで政治にほとんど関心を示してこなかった著名人もいる。同じ「元タレント」というラベルで、この二人を同じように評価することに意味はない。

 それは「元官僚」や「弁護士」でも同じである。官僚だったという経歴から行政制度への一定の知識を推測することはできるが、政治家としての調整能力や説明能力まで保証されるわけではない。弁護士であれば法律知識を期待できるが、経済政策や外交能力まで自動的に備わるわけではない。肩書は候補者について何らかの情報を与えるが、政治能力を丸ごと説明するものではない。

 ここまで来ると、「タレント候補は人気だけだ」という言葉が、かなり奇妙に見えてくる。候補者の政策、過去の活動、学習姿勢、説明能力を確認したうえで、「この人物には知名度以外に政治家として評価できるものがほとんどない」と結論づけるのであれば、それは正当な批判である。しかし、候補者が芸能人だったというだけで「人気だけ」と判断するのであれば、その批判は本人の政治能力を検証していない。

 皮肉なことに、それは「名前を知っているから投票する」という行為とよく似ている。前者は知名度を見ただけで肯定し、後者は知名度を見ただけで否定する。方向は正反対だが、どちらも候補者本人を十分に評価せず、一つの特徴だけから全体を判断しているという点では同じである。

 民主政治は、候補者の真の能力を完全に測定してから投票できる制度ではない。私たちはいつも不完全な情報の中で人を選ばなければならない。そのため、知名度、経歴、政党、政策、実績、人物像など、いくつもの情報を組み合わせながら判断するしかない。重要なのは、その中の一つだけを絶対視しないことである。

 だから、知名度は民主政治における「能力」なのかと問われれば、厳密な答えは「それ自体は能力ではない」となる。しかし、知名度は候補者が有権者に届くための重要な政治資源であり、場合によっては候補者について何らかの情報を伝えるシグナルにもなる。そのため、民主政治から完全に切り離すこともできない。

 そして、知名度という資源を持っていること自体を非難するより、その資源を何に使うのかを見る方がはるかに重要である。議席を得るためだけの広告塔として使うのか、それとも多くの人に政治を説明し、これまで政治と距離のあった人々を公共的な議論へ引き込むために使うのか。同じ知名度でも、その使われ方によって民主政治に与える意味は大きく変わる。

 政党についても同じである。著名人を候補者にすること自体を問題視するのではなく、その人物をなぜ候補者にしたのかを見るべきである。政策形成能力、社会経験、説明能力などを評価した結果なのか、それとも候補者名簿に有名な名前を載せれば票が増えるという計算だけなのか。後者であれば、批判されるべきなのはタレント本人の出自よりも、候補者を得票装置として扱う政党の選考姿勢だろう。

 民主政治は、少し不格好な制度である。最も賢い人物を試験で選ぶ制度でもなければ、最も政策知識の多い人物に自動的に権力を与える制度でもない。さまざまな経歴を持つ人間の中から、市民が「この人物に一定期間、権力を預ける」と決める仕組みである以上、政策だけでなく、信頼、説明力、人物像、実績、知名度といった人間的で曖昧な要素が入り込むことは避けられない。

 その曖昧さは民主政治の弱点でもあるが、同時に民主政治そのものでもある。もし政治能力を完全に客観評価できるのであれば、選挙など必要ない。しかし現実には、政治能力そのものを完全には観測できないからこそ、私たちは不完全な情報を持ち寄りながら代表者を選んでいる。

 だからこそ、タレント候補を「人気だけ」と笑う前に、一度問い直してみる必要がある。その人物は本当に人気しか持っていないのか。それとも私たちが、元芸能人、元スポーツ選手という肩書を見た瞬間に、その先を調べることをやめているだけなのか。

 知名度だけで候補者を選ぶ社会は危うい。しかし、知名度が高いというだけで候補者を低く評価する社会もまた、合理的とは言えない。知名度は政治能力そのものではないが、民主政治の中では無視できない政治資源であり、それが何を意味するのかは候補者ごとに検証しなければならない。

 結局、タレント候補をめぐる本当の問いは、「有名人を政治家にしてよいのか」ではない。もっと厄介で、逃げることのできない問いは、「私たちは候補者の何を見て、政治家としての能力を判断しているのか」である。

 その問いを避けたまま、「有名だから選ぶ」のであれば危うい。しかし、「有名だから駄目だ」と切り捨てるのであれば、それもまた同じくらい危うい。民主政治に必要なのは、人気を嫌うことでも、人気を信じることでもなく、その人気の背後に何があるのかを見ようとすることである。

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 政治家を見て、「この人は強い」と感じることがある。しかし、そのとき私たちは何を見ているのだろうか。選挙に勝つ力なのか、党内を掌握する力なのか、迷わず決断しているように見えることなのか、それとも反対意見に動じない態度なのか。「強い政治家」という言葉は便利だが、その内側には性質の異なるいくつもの評価が折り重なっている。

 高市早苗という政治家を考えると、この問題がよく見える。2026年2月の衆議院議員総選挙で自由民主党は316議席を獲得した。465議席の約68%であり、単独で3分の2を超える規模である。この結果だけを見ても、現在の高市には単なるイメージでは説明できない実際の政治的力量がある。しかし、それとは別に、高市は選挙以前から「強そうな政治家」として認識されやすい人物でもあった。

 ここで注意したいのは、選挙に強いことと、強く見えることを同じものにしないことである。選挙結果は観測できるが、「強く見える」という感覚は有権者の心理の中にある。高市がなぜ強く見えるのかを考えるなら、政策そのもの、話し方、政治家としての経歴、支持する人々の構成、さらには現在の社会状況を分けて考えなければならない。

 そして、もう一つ慎重でなければならない点がある。以下で考える「なぜ強く見えるのか」という説明のすべてが、高市本人を対象とした実験や統計分析によって証明されているわけではない。確認できる政治的事実と、政治心理学やコミュニケーション研究から導かれる仮説を組み合わせながら考える。その線を越えないことが、この人物を冷静に見るためには重要なのである。

政策が正しいことと、政策の輪郭が見えることは違う

 高市政治を見たとき、まず目につくのは政策の方向性が比較的見えやすいことである。積極的な財政政策、経済安全保障、防衛力の強化、国内投資、エネルギー安全保障、情報機能の強化といった政策が、個別に並んでいるだけではなく、「国力を強化する」という一つの物語の中に配置されている。

 2026年2月の施政方針演説でも、「日本列島を、強く豊かに」という表現のもと、外交力、防衛力、経済力、技術力、情報力、人材力を総合的に強める方向が示された。半導体、造船、エネルギー、医療、サイバーセキュリティーといった分野も、その延長上に置かれている。政策の一つ一つに賛成するかどうかとは別に、「この政権が何を優先しようとしているのか」は比較的理解しやすい。

 ただし、ここで「高市は他の政治家より政策が明確である」とまで断定することはできない。本当に比較するなら、歴代首相の施政方針演説や記者会見を同じ基準で分析し、「実現する」「進める」「守る」といった断定的な動詞と、「検討する」「考える」「状況を見ながら」といった留保表現の頻度を計測する必要があるからだ。

 それでも、政策の輪郭が有権者に認識されやすいことは、政治家を強く見せる条件の一つになり得る。人は必ずしも、最も慎重で複雑な説明をする人物を強いと感じるわけではない。複雑な問題について多数の条件を付けながら説明する政治家は、政策的には誠実であっても、見る側には迷っているように映ることがある。その一方で、まず進む方向を示し、その後から細部を説明する政治家には、決断力があるという印象が生まれやすい。

 ここで重要なのは、その印象と政策の正しさを混同しないことである。方向が明確だから、その方向が正しいとは限らない。積極的な財政政策にも、成長投資によって生産能力や産業競争力を高められる可能性がある一方で、財政赤字、国債金利、物価、為替への影響という問題がある。政策評価とは、本来こうした利益と費用の双方を時間をかけて検証する作業であり、話し方の明快さとは別の問題なのである。

「強く聞こえる」理由を、言葉だけで説明してよいのか

 高市の話し方について、「断定的だから強く見える」と説明したくなる。しかし、この説明にも慎重さが必要である。高市本人について、断定的な言葉がどれほど多いのか、他の政治家と比較して本当に有意な差があるのかを数量的に分析した研究がなければ、「高市は断定表現が多い」と事実として言い切ることはできない。

 それでも、人間が政治家の話し方から能力や指導者らしさを判断するという一般的な現象には、心理学や政治コミュニケーション研究から一定の根拠がある。話す内容だけではなく、声の高さ、話す速度、言葉の確信度、姿勢、表情などが、能力や支配性、信頼性の判断に影響することが知られている。つまり有権者は政策資料だけを読み、その結果として政治家を選んでいるのではなく、人物から発せられる多くの情報を一瞬のうちに統合して評価している。

 高市について言えるのは、「結論を先に置きやすい話法に見える」というところまでだろう。たとえば衆議院解散の意味を説明するとき、制度上の複雑な事情を前面に出すよりも、「高市早苗が内閣総理大臣でよいのか、国民に決めてもらう」という形で問いを単純化すれば、政治的な選択肢は分かりやすくなる。問題を単純化することには、複雑な事情を隠してしまう危険がある一方、政治家の立ち位置を明確にする効果もある。

 ここで「高市はこの効果をよく理解して意図的に使っている」と書いてしまえば、本人の内面を推測することになる。確認できるのは、あくまで結果としてそのような構造の発言が存在するというところまでである。政治家の演説や記者会見には本人だけでなく、秘書官、官僚、政党スタッフなど多くの人が関わる可能性があるため、「自分の言葉で話している」と見えることと、本当にすべて本人が作った言葉であることも区別しなければならない。

 しかし有権者にとっては、この「見える」という部分こそ重要である。政治家の頭の中を直接見ることはできない以上、人は話している姿から「自分で理解しているようだ」「迷いが少ないようだ」「この人なら決断しそうだ」という印象を作る。高市の強さを考えるなら、その印象形成こそ分析の対象になる。

選挙で勝ったから強く見えるのか、強く見えたから勝ったのか

 2026年2月の衆議院議員総選挙における自由民主党の316議席は、高市政権の政治的な強さを示す明確な数字である。しかし、この選挙結果から「高市が強く見えたから勝った」と結論することはできない。選挙結果は一つの原因だけで決まらず、野党の状況、候補者配置、経済環境、選挙制度、政党組織、争点設定など多くの要因が同時に働くからである。

 逆方向の因果関係も考えなければならない。つまり、「強そうだから選挙で勝った」のではなく、「大勝したことによって、さらに強い政治家として見られるようになった」という可能性である。実際には、この二つが循環している可能性もある。選挙前に高い人気や存在感があり、それが選挙結果に多少なりとも影響し、その大勝が今度は本人の強さの印象をさらに強める。政治では、こうしたフィードバックがしばしば起きる。

 したがって、高市の現在の「強さ」には二つの層がある。一つは以前から形成されていた人物イメージであり、もう一つは316議席という選挙結果によって後から加わった制度的な強さである。この二つを分けて考えると、高市が以前より一段大きな政治家に見える理由が理解しやすくなる。

若者支持は存在するが、それだけで支持者像を描いてはいけない

 高市支持について特に興味深いのは、「保守政治家は高齢男性に支持される」という従来型の固定観念だけでは説明しにくい点である。2026年の選挙前後には、若年層における高市支持の強さが複数の調査や報道で確認された。

 一例として長野県内で行われた選挙後調査では、18歳から30代の高市政権支持が7割を超え、年齢が上がるほど支持率が下がる傾向が示された。ただし、この数字には重要な注意点がある。この調査は選挙人名簿などから無作為に抽出した住民を対象にしたものではなく、あらかじめ登録されたモニターを対象としているため、その割合をそのまま長野県全体や日本全国へ一般化することはできない。

 ここは統計を見るうえで非常に重要である。仮に100人程度の完全な無作為標本で支持率が74%だったとしても、標本誤差によって真の割合にはかなりの幅が生じる。さらに登録モニター調査では、「調査に参加する人」と「参加しない人」の性質そのものが違う可能性があるため、単純な誤差計算だけでは捉えられない選択バイアスも存在する。

 それでも、若年層における支持の強さが一つの調査だけで観測された特殊現象とは言い切れず、全国的な調査や報道でも同様の傾向が指摘されてきたことを考えれば、「高市支持は高齢の保守層だけで構成されている」という理解も適切ではない。

 難しいのは、その理由である。若者が高市を支持しているからといって、若者全体が保守化したと結論することはできない。経済政策への期待かもしれず、既存政治への不満かもしれず、政治家としての分かりやすさや人物像への評価かもしれない。原因を特定するには、年齢だけでなく所得、職業、性別、居住地域、政治的立場、利用する情報媒体などを同時に分析する必要がある。

 したがって現在分かっているのは、「若い層でも高市支持が比較的強い可能性が高い」というところまでであり、「なぜ若者が支持しているか」はなお仮説の領域にある。

短い動画との相性という仮説

 高市の発言は短い動画や切り抜き映像と相性がよい、と評されることがある。確かに結論が明確で、一つの発言の中に主張が収まりやすければ、短時間の映像でも人物像が伝わりやすい。しかし、これも現時点では魅力的な仮説ではあっても、厳密に実証された事実ではない。

 この仮説を本当に確かめようとすれば、高市だけではなく他の政治家についても大量の動画を集め、再生回数、視聴完了率、共有率、コメント率などを比較し、さらに投稿時刻、フォロワー数、動画の長さ、扱ったテーマといった条件を統計的に調整する必要がある。単に高市の切り抜き動画が多く見られるという事実だけでは、話法が動画向きだから人気なのか、もともと人気だから動画が多く作られているのかを区別できない。

 これは政治分析で頻繁に起きる逆因果の問題である。見えている現象から、原因の向きを早急に決めないことが重要になる。それでも、政治情報がテレビや新聞の長い記事だけでなく、数十秒の動画を通して流通する時代において、「短時間でも立場が伝わる政治家」が一定の優位性を持つという仮説自体は十分に検討する価値がある。

支持されているのは人物なのか、政策なのか、それとも比較の結果なのか

 高市政権の支持理由を考えるうえで興味深いのが世論調査の変化である。2026年8月の全国調査では、内閣を支持する理由として「他の内閣よりよさそうだから」が32.4%で最も多く、「政策に期待が持てるから」が24.1%、「高市総理の人柄が信頼できるから」が19.7%だった。

 この数字だけを見ると、高市支持には人物や政策への積極的な支持だけでなく、「他と比較した結果としてよい」という相対評価がかなり含まれているように見える。しかし、ここにも注意が必要である。この質問は複数の理由を自由に選ぶ形式ではなく、いくつかの候補から一つを選ぶ形式である。実際の人間は「政策にも期待しているし、人物も信頼しており、他の政権よりよいとも思っている」という複数の理由を同時に持ち得るため、この数字をそのまま支持者の心理構造と考えることはできない。

 さらに面白いのは、同じ調査でも2026年2月には支持理由の順位が異なり、「政策に期待が持てるから」が31.1%、「人柄が信頼できるから」が24.2%、「他の内閣よりよさそうだから」が21.1%だったことである。半年ほどの間に、「政策への期待」から「他よりよい」という相対評価へ重心が移ったことになる。

 この変化は、高市支持を固定された一つの感情として考えてはいけないことを示している。政権発足直後には期待によって支持され、その後は実績や他の政治勢力との比較によって支持されるというように、同じ支持率の背後にある理由は時間とともに変化する。

 したがって、「高市支持者は高市という人物よりも『決める政治』を支持している」とまで断定することはできない。しかし、人物への無条件の支持だけではなく、他の選択肢との比較によって支持が成立している人が相当数いる可能性は高い。これは、高市人気を一種の個人崇拝として説明する見方にも、単純な思想的支持として説明する見方にも修正を迫る。

企業の評価と国民の評価は別のものである

 高市政権の経済政策については、2026年9月の企業調査で約3分の2が肯定的に評価した。しかし、この数字についても母集団を明確にしなければならない。

 企業経営者が経済政策を評価する基準と、一般家庭が政権を評価する基準は同じではない。企業にとっては設備投資、法人税、規制、金利、エネルギー価格、為替、輸出環境などが大きな問題になる一方、家計にとっては物価、賃金、社会保障、住宅費、教育費などの重みが大きい。

 さらに企業調査では、調査対象企業すべてが回答しているわけではないため、回答した企業と回答しなかった企業の間に違いが存在する可能性もある。したがって「企業の多数が高市政権の経済政策を評価している」という事実から、「国民全体が経済政策を評価している」と結論してはいけない。

 この違いは細かな統計上の注意に見えるが、政治記事の信頼性を大きく左右する。数字には必ず「誰を測った数字なのか」という母集団があり、その母集団を越えて一般化した瞬間に、数字は正確でも説明は誤り得るからである。

不安な時代は本当に「強い指導者」を求めるのか

 高市が強く見える背景として、日本社会の不安を挙げる説明には一定の説得力がある。人口減少、物価、実質賃金、社会保障、安全保障、産業競争力といった問題が同時進行する社会では、政治に対して「慎重に調整してほしい」という要求だけでなく、「早く方向を決めてほしい」という要求が生まれやすいと考えられる。

 政治心理学にも、不確実性や脅威の知覚が高まったとき、支配的あるいは決断力のある指導者への選好が強まる可能性を示した研究がある。ただし、この関係は単純ではない。別の研究では、不確実な状況でも、人々は単純に強権的な指導者だけを好むわけではなく、能力や尊敬によって支持される指導者を求める場合があることも示されている。

 したがって、「社会が不安だから高市が支持された」という一本の因果関係で説明することはできない。そもそも高市を支持する人と支持しない人では、同じ社会状況を見ても脅威の感じ方や望ましい政策が違う可能性がある。また政治的立場が先に存在し、それに合う政治家を「決断力がある」と評価している可能性も考えなければならない。

 因果関係を逆に考える必要もある。高市を支持しているから、その言葉を力強く感じるのかもしれない。支持していない人には、同じ発言が「決断力」ではなく「強引さ」に見える可能性がある。政治家の「強さ」は発信する本人だけで作られるものではなく、受け取る側の価値観との相互作用によって生まれるのである。

「強さ」という一語の中に、別々の評価が潜んでいる

 高市を論じるとき、「強い」という言葉を一つの尺度として使うことには危険がある。2026年の選挙結果が示す「選挙上の強さ」、国会で大きな議席を持つ「制度的な強さ」、迷わず判断しそうだと感じさせる「決断力の知覚」、政治課題を理解していそうに見える「能力の知覚」、対立を恐れないように見える「支配性の知覚」は、本来まったく別の性質だからである。

 科学的に調査するのであれば、高市を見た有権者に対し、「決断力がある」「能力が高い」「信頼できる」「支配的である」「政策を実行できそうだ」などを別々に評価してもらい、さらに支持政党、政治的立場、年齢、所得、情報源などを加えて統計的に分析する必要がある。そこで初めて、何が「強い」という印象を形成しているのかが少しずつ見えてくる。

 現在利用できる情報だけから言えるのは、高市にはこの複数の「強さ」が重なって見える条件がそろっているということである。政策の方向が比較的認識しやすく、言葉の結論が明確に見え、支持率が高く、選挙でも大勝し、議会でも強い基盤を持つ。これらが重なるほど、人間は個々の要素を分けず、「この政治家は強い」という一つの印象にまとめやすくなる。

強そうに見えることと、実際に優れた政治をすることの距離

 ここまで高市がなぜ強く見えるのかを考えてきたが、最後に最も重要な区別が残る。「強く見える政治家」と「優れた政治を行う政治家」は同義ではない。

 選挙で圧勝することは政治力を示すが、その政策が長期的に国民の利益になることを保証しない。迷わず決断することはリーダーシップに見えるが、誤った判断を素早く実行すれば損害も大きくなる。反対意見に動じないことは強さにも見えるが、必要な修正を拒む頑固さにもなり得る。

 本当に政治家の能力が問われるのは、むしろ状況が悪化したときかもしれない。経済予測が外れたとき、外交で譲歩を迫られたとき、支持率が下がったとき、自ら進めた政策に予想外の副作用が現れたとき、当初の方針を修正できるかどうかである。誤りを認めて政策を変更する行為は、表面的には「ぶれた」と見えるかもしれないが、科学や経営では新しい情報に応じて仮説を修正することこそ合理的な行動である。

 政治家の本当の強さも、おそらくこれに近い。断言する力だけでなく、必要なときに修正する力を含んでいる。

高市早苗が映し出しているもの

 高市早苗が「強い政治家」に見える理由を一つに絞ることはできない。2026年の衆議院議員総選挙における大勝という客観的な政治力があり、政策の方向が比較的認識しやすく、決断を感じさせる人物像が形成されている。若い世代にも一定の支持が広がり、現在の社会が抱える不確実性と、方向を示す政治家への期待が重なっている可能性もある。

 しかし、その一つ一つについて因果関係が完全に証明されているわけではない。短い動画との相性も、若者が支持する理由も、社会的不安と高市支持の関係も、現段階では有力な仮説ではあっても確定した答えではない。

 それでも、高市早苗という政治家を分析することには意味がある。なぜなら、彼女を観察していると、私たち自身が政治家の何を見て「強い」と判断しているのかが浮かび上がってくるからだ。

 私たちは政策の中身だけを見て政治家を評価しているわけではない。言葉の断定性、選挙結果、支持率、表情、語る速度、政治家としての物語、さらには自分自身が社会に感じている不安までを無意識に混ぜ合わせ、一人の人物像を作っている。その意味で「高市早苗はなぜ強い政治家に見えるのか」という問いは、高市本人についての問いであると同時に、政治家を見る私たち自身についての問いでもある。

 そして、ここにこのテーマの最も興味深いところがある。高市早苗が本当に強い政治家なのかどうかは、選挙で大勝した瞬間だけではまだ決まらない。政策が期待通りに進まなかったとき、支持率が低下したとき、反対意見が増えたとき、それでも合理的に判断し、必要なら自らの政策を修正し、その理由を説明できるか。その場面まで見なければ、政治家としての本当の強さは測れない。

 強そうに見えることは、一瞬で分かる。しかし、本当に強いかどうかを判断するには時間がかかる。高市早苗という政治家を評価するうえで、おそらく最も重要なのは、その二つを最後まで混同しないことである。

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 「友愛」という言葉ほど、日本政治の中で不思議な運命をたどった言葉も珍しい。自由でもない。平等でもない。改革でも成長でもない。2009年、民主党が政権交代を実現し、鳩山由紀夫が首相になったとき、この柔らかな2文字が国家を動かす政治理念として掲げられたが、その後の政権運営の混乱とわずか8か月余りという短命によって、「友愛」はいつしか理想主義、優柔不断、あるいは現実を知らない政治の象徴であるかのように語られるようになった。

 しかし、本当にそうだったのだろうか。鳩山政権が十分な成果を残せなかったことと、鳩山が掲げた「友愛」という理念そのものが非現実的だったことは、本来まったく別の問題である。政権の失敗から理念の誤りを直接導くことはできず、政策の理念、制度設計、政治家の交渉能力、官僚機構との関係、連立政権の事情、国際環境といった異なる要素を分けて考えなければ、私たちは鳩山政権の失敗を説明したつもりになりながら、実際には何も説明していないことになる。

「友愛」は、単なる「みんな仲良く」ではなかった

 鳩山由紀夫が語った「友愛」は、日常生活でいう友情や人間関係の温かさをそのまま政治に持ち込もうとする思想ではなかった。その背景には祖父の鳩山一郎が影響を受けたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの思想があり、由紀夫自身もそこから受け継いだ友愛を、「自立」と「共生」を結びつける政治原理として説明していた。

 ここで重要なのは、「友愛」を自由や平等と対立する理念としてではなく、それらの緊張を調整する原理として捉えていたことである。人間の自由を最大限に尊重すれば、競争によって経済的な活力や革新が生まれる一方、資産、教育、雇用、地域などの条件によって結果の格差が拡大する可能性がある。逆に平等を強く追求すれば、再分配や社会保障によって生活の安定を高められる一方、その方法によっては個人の自由な選択や自発性との間に緊張が生まれる。この問題に対し、クーデンホーフ=カレルギーから鳩山一郎、さらに鳩山由紀夫へとつながる思想の中では、人間が互いの人格と自由を認めながら支え合う「友愛」が、その緊張を和らげる原理として考えられたのである。

 したがって、友愛を単なる感情論として片づけるのは正確ではない。それは政治思想全体に共通する唯一の答えでも、科学的に証明された社会原理でもないが、少なくとも鳩山本人が政治理念として組み立てた思想には明確な系譜があり、そこには市場の自由と社会的連帯をどのように両立させるのかという、現在まで続く問題意識が存在していた。

市場か国家か、その間に残される領域

 友愛という言葉を政治思想として理解するうえでは、市場と国家の関係を考えると分かりやすい。市場には、価格を通じて資源を効率的に配分し、競争によって新しい商品やサービスを生み出す大きな力があるが、その一方で、人間にとって必要なものが必ずしも十分な利益を生むとは限らない。

 たとえば介護サービス自体は民間市場でも成立するが、高齢者が少なく移動距離の長い地域、利用者の支払能力が低い地域、24時間に近い対応を必要とする分野では、利益だけを基準にすると社会的に必要な量を供給できないことがある。鉄道やバス、医療、買い物支援でも同じ問題が起こり、人口密度が低下すれば、住民にとって必要なサービスであっても事業として採算が取れなくなる。

 しかし、その問題をすべて国家に任せれば解決するとも限らない。政府には税を集めて再分配する力がある反面、地域ごとに異なる細かな事情を中央から把握するには限界があり、財政にも制約があるため、市場と国家のどちらか一方ですべてを解決しようとすると、どうしても取りこぼされる領域が生まれる。

 その隙間を地域社会、協同組合、非営利組織、社会的企業、住民同士の互助などによって補おうという考え方は、鳩山だけの特殊な思想ではない。現代でも世界各地で「社会的経済」や地域共生といった異なる名前のもとに、同じ問題への制度的な模索が続いている。その意味では、友愛の核心にあった「自由な個人が孤立せず、相互に支え合う」という発想それ自体を、現実離れしたものとして退ける根拠は弱い。

2009年という時代に置き直してみる

 鳩山政権が誕生した2009年は、前年の世界金融危機による衝撃が世界経済を覆っていた時期だった。金融市場の急激な混乱は、市場に任せれば経済は常に望ましい方向へ向かうという単純な考え方に疑問を投げかけ、雇用不安、所得格差、金融資本の巨大化などが各国で改めて問題になっていた。

 そうした環境の中で、鳩山が市場原理だけでは社会は維持できないと考え、「友愛」を市場原理主義への対抗軸として提示したこと自体は、当時の国際的な問題意識から大きく外れていたわけではない。むしろ世界金融危機後という時代背景を考えれば、効率や競争だけでは捉えられない社会的な価値を政治の中に戻そうとした試みとして理解することができる。

 さらにその後、先進国では地域社会の衰退、所得や資産の格差、孤独、供給網の脆弱性、経済安全保障などが重要な政策課題となり、市場の効率性だけでは測れない価値が重視される場面は増えた。しかし、ここで「後の世界が鳩山の正しさを証明した」とまで言ってしまえば、それは後知恵になる。後年に社会的連帯が重要な課題となった事実は、2009年の鳩山の政策判断が正しかったことを自動的に証明するものではない。ただ、鳩山が当時提起していた問題の一部と、その後の社会が実際に直面した問題との間に重なる部分があった、と評価することはできるだろう。

理念には翻訳装置が必要になる

 ここから、鳩山政治の最大の問題が見えてくる。政治理念は、それだけでは政策にならない。

 自由という理念なら、表現の自由、職業選択の自由、規制のあり方といった制度に変換できる。平等という理念なら、税制、社会保障、教育政策、所得再分配などに落とし込むことができる。それに対して友愛は、「誰と誰が、何を、どこまで分かち合うのか」という具体的な条件を定めなければ、非常に広い意味を持つ言葉であるため、政策の優先順位を決める基準として曖昧になりやすい。

 地域主権を友愛の実践として考えるなら、国と地方の財源をどう配分するのか、自治体間の税収格差をどこまで調整するのか、人口の少ない自治体の行政サービスをどの水準まで保障するのかという制度設計が必要になる。外交に友愛を持ち込むなら、価値観や体制の異なる国家とどこまで協力し、どこから先は安全保障上の利益を優先するのかという境界線を設定しなければならない。

 つまり理念が壮大であればあるほど、その下には数字、財源、期限、優先順位、法制度、交渉手順という極めて冷たい装置が必要になる。鳩山政権について問うべきなのは、友愛という理念が美しすぎたことではなく、その理念を現実の政策へ変換する装置が十分に機能したのかという点なのである。

普天間問題に現れた理念と制約

 その問題を最も鮮明に示した事例の1つが、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題だった。

 沖縄に集中している基地負担を軽減したいという問題意識自体には、十分な政治的根拠がある。安全保障が日本全体の利益のために必要なのであれば、そのために生じる負担が特定の地域へ長期間集中することについて、政府は当然説明責任を負うからである。その意味で、沖縄の負担を減らそうとする発想は、他者の人格や負担を自分自身の問題として考えるという友愛の考え方とも結びつけて理解できる。

 しかし、友愛という視点から普天間問題を見るなら、ここはその理念と現実政治の制約が最も激しく衝突した場所の1つだったと考えるべきだろう。アメリカ軍の運用、海兵隊の配置、抑止力、既存の日米合意、移設先となる自治体の受け入れ、沖縄県民の意思、連立政権内の立場という複数の条件が同時に存在しており、どれか1つを動かせば他の条件にも影響が及ぶ構造になっていたからである。

 ここで必要だったのは、沖縄の負担軽減という目標を捨てることではなく、どの条件をどの順番で変更し、どの程度の時間をかけ、誰と交渉し、実現できなかった場合にはどの代替案を採るのかという工程を示すことだった。しかし結果として、鳩山政権は当初示した期待と最終的な合意との間に大きな落差を残し、2010年5月には日米両政府が日米同盟の重要性と沖縄におけるアメリカ軍の前方展開の必要性を改めて確認することになった。

 したがって、普天間問題から「友愛は外交や安全保障では通用しない」と結論づけるのは早い。より正確なのは、「道徳的に望ましい目標を掲げても、制約条件と実行工程を設計できなければ、その理念は政策として十分に機能しない」という教訓をそこから読み取ることだろう。

東アジア共同体には、海図がまったくなかったわけではない

 鳩山外交のもう1つの象徴が「東アジア共同体」である。当時この構想は、日本がアメリカから距離を置き、中国を中心とするアジアへ軸足を移そうとしているのではないかという警戒を招いたが、鳩山政権が公式に示した構想を細かく見ると、それだけで説明するのは正確ではない。

 鳩山は日米同盟を日本外交の重要な基軸と位置づけ、アメリカのアジアにおける存在が地域の平和と安定に重要だという認識を示していた。そのうえで東アジアでは、貿易や投資だけでなく、金融、環境、災害対策、感染症、海難救助、教育、文化交流など、参加可能な国々が具体的な分野ごとに協力を積み重ね、複数の「機能的共同体」を重ね合わせていくという構想を語っていた。

 したがって、「東アジア共同体には具体策がほとんど存在しなかった」と評価するのは適切ではない。協力分野という意味での海図は、すでにある程度描かれていたのである。

 しかし同時に、共同体をどの国々で構成するのか、加盟や参加の条件をどうするのか、意思決定をどのように行うのか、既存のアジアの国際機構とどう整理するのか、どの程度の期間で何を実現するのかという制度的な輪郭は十分に定まっていなかった。欧州のように主権の一部を共同機構へ移す統合を想定していたわけでもなく、むしろ幅広い分野で協力を積み重ねる長期的な構想だったからこそ、「共同体」という大きな言葉に比べ、完成形が見えにくかったのである。

 鳩山の東アジア共同体構想を表現するなら、「羅針盤しかなかった」というより、「進みたい方角といくつかの航路は描かれていたが、港の場所、航行規則、到着時期までは確定していなかった」とした方が実態に近い。問題は夢を語ったことではなく、長期構想と当面の外交政策との関係を国民や同盟国に十分な明確さで伝えきれなかったところにあったと考えられる。

鳩山政治の弱点は本当に「理想主義」だったのか

 ここまで考えると、鳩山由紀夫の政治を「理想主義だったから失敗した」と説明することには疑問が生じる。政治には本来、まだ存在していない社会の姿を構想する機能があり、現状を管理することだけが政治の仕事ではないからである。

 歴史を振り返れば、大きな制度改革の多くは、開始時点で結果が完全に予測できていたわけではない。社会保障制度も地方分権も国際協力も、理念を掲げ、その理念と現実との距離を測りながら制度を作り変えてきた。理想を掲げること自体が政治的な欠陥なのであれば、政治は現在ある制度を管理する行政技術だけになってしまう。

 だからといって、鳩山政権の問題を「理想が時代より早すぎただけだった」と擁護するのも正確ではない。普天間問題や東アジア共同体構想を見る限り、理念と政策実装との間には確かに大きな距離が残り、国民や関係国に対して、その距離をどのような工程で埋めるのかを十分に示せなかった場面があった。

 ここで「鳩山には実行能力がなかった」と人物全体を断定する必要はない。政治家個人の能力を客観的に測定することは難しく、政権の結果には党内事情、官僚組織、連立相手、国際環境、時間制約など多くの要因が関わっているからである。より慎重に言うなら、鳩山政権では少なくとも重要な政策課題の一部において、理念を優先順位、期限、制度、財源、交渉戦略へ変換する過程が十分に完成しないまま政治判断を迫られた、と評価するのが妥当だろう。

「友愛」を現代に置き直すと何が見えるのか

 ここで少し時間を進め、現在の日本社会から友愛を振り返ってみると、この言葉が持っていた別の側面が見えてくる。

 人口が減少し、高齢化が進む地域では、鉄道、路線バス、病院、商店、金融機関、介護、宅配といった生活基盤を、利用者1人当たりの採算だけで維持することが難しくなっている。都市でも単身世帯が増え、介護や育児を家族だけに負わせることは困難になりつつあるが、その一方で、すべてを行政サービスとして供給するには人口構造と財政の制約が存在する。

 これはまさに、市場か国家かという2択では処理しにくい問題である。市場の効率性を利用しながら、自治体、企業、医療機関、非営利組織、地域住民などが役割を分担し、単独では採算の合わないサービスをどう維持するのかという制度設計が必要になるからである。

 このような仕組みを「友愛」と呼ぶ必要はない。地域共生、社会的経済、互助、官民連携など別の名称を使う方が、政策としては分かりやすい場合もある。しかし、人間を市場の中の消費者としてだけでも、国家から給付を受ける対象としてだけでも捉えず、自立した個人同士が何らかの形で支え合うという思想の骨格には、鳩山が語った友愛と重なる部分が確かにある。

 重要なのは、この類似をもって「鳩山は未来を予見していた」と神話化しないことである。現在の社会問題と2009年の友愛思想に共通点があることと、鳩山政権の具体的な政策が正しかったことは別である。それでも、当時は曖昧な理想論として笑われることもあった問いが、別の言葉を使いながら現在の政策論の中に残っているという事実は、「友愛」を単なる失敗した政権の標語として忘れてしまうには惜しいことを示している。

「友愛」が失敗したのではない

 鳩山由紀夫という政治家に対する評価と、「友愛」という思想に対する評価は分けなければならない。鳩山政権が短期間で終わり、普天間問題などをめぐって大きな政治的混乱を残したことは、友愛という理念の正しさを証明する材料にはならないが、同じように、その政権が失敗したという事実だけから友愛という理念そのものが誤っていたと結論づけることもできない。

 政治理念の評価には少なくとも2つの問いがある。第1は、その理念が社会の問題を適切に捉えているかという問いであり、第2は、その理念を実際に機能する制度へ変換できるかという問いである。鳩山の友愛は、第1の問いについては再検討する価値が十分に残っている一方、第2の問いでは鳩山政権自身が大きな課題を残した、と考えるのが最も公平だろう。

 政治理念は、美しければ美しいほど、現実へ降ろすための技術を必要とする。制度という歯車、財源という燃料、期限という時計、交渉という技術、そして失敗したときに別の道を選ぶための代替案がなければ、理念は政策にならない。それは友愛に限った話ではなく、自由、平等、改革、地方創生、成長、安全保障といった、あらゆる政治的な言葉について同じことがいえる。

 だから鳩山由紀夫の「友愛」を振り返るとき、「非現実的な理想だった」と一言で片づけるだけでは、あまりに簡単すぎる。より正確なのは、友愛が提起した問題の中には現在にも通じるものがあった一方、その理念を政策へ変換するための制度設計と政治工程は十分な完成度に達しなかった、と評価することではないだろうか。

 そして、そこにこの政治理念の少し皮肉な運命がある。鳩山政権が終わった後も、人口減少、地域社会の衰退、孤独、格差、生活サービスの撤退、国際社会の分断といった問題は残り続け、市場だけでも国家だけでも解決できない領域が広がっている。かつて「友愛」という少し古風な言葉で語られた問いは、言葉そのものの政治的な寿命が尽きた後も、別の名称を身にまとって社会の中に残ったのである。

 それをもう一度「友愛」と呼ぶ必要はない。しかし私たちは今も、自立した個人の自由を守りながら、互いを見捨てない社会をどのように作るのかという、鳩山由紀夫が2009年に政治の正面へ持ち込んだ問いの周辺を歩き続けている。

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~市川房枝との微妙な距離から見えてくる「市民派政治家」の実像~

 日本の総理大臣には、ある程度決まった入口がある。政治家の家に生まれて地盤を継ぐ者、中央官庁で経験を積んで政界へ転じる者、大政党に入り派閥や党内組織の階段を一段ずつ上っていく者である。菅直人は、そのどれにもきれいには当てはまらなかった。東京工業大学を卒業し、弁理士資格を取得した後、市民運動や選挙運動に参加し、自ら国政選挙に挑戦して三度敗れ、それでも政治の世界を去らず、1980年に衆議院議員となった。その後、厚生大臣、民主党代表、副総理、財務大臣を経て、2010年には内閣総理大臣に就任する。結果だけを見れば華々しい出世であるが、その道筋は一直線ではなく、むしろ敗北、政党再編、失脚、復帰を何度も繰り返す長い政治人生だった。

 そのため菅の経歴は、「一人の市民運動家が既成政治に挑戦し、ついには国家権力の頂点へ到達した」という魅力的な物語にまとめられやすい。しかし、この説明だけでは実像を取り逃がす。菅が総理大臣まで到達できた理由を考えるには、市民運動家としての理念だけでなく、選挙実務を覚え、政党政治へ入り込み、政界再編に適応し、政策上の問題を争点化しながら、何度政治的に傷ついても完全には退場しなかったという長期的な行動の積み重ねを見る必要がある。

市川房枝との出会いは「政治的原点」だった

 菅直人の政治人生を語るうえで、市川房枝を避けることはできない。1974年の参議院全国区選挙で、当時27歳だった菅は、市川を国政選挙に擁立する運動に参加し、選挙事務長を務めた。単に街頭で応援した若者の一人だったわけではなく、選挙運動の中核にいた人物であり、この経験を菅自身も後年、政治活動の原点として繰り返し振り返っている。

 市川房枝は、戦前から女性参政権運動に取り組み、戦後も金のかからない選挙、組織に依存し過ぎない政治、政治腐敗への厳しい姿勢を主張してきた政治家だった。そうした人物の選挙を若い時期に間近で経験したことが、菅の政治観や選挙観に大きな影響を与えたこと自体は疑いにくい。企業や巨大組織だけに頼らず、個人の寄付や市民ボランティアを集めながら選挙を組み立てる経験は、後に「市民派」を掲げる菅にとって非常に重要な政治的資産となった。

 では、市川は菅をどの程度信頼していたのだろうか。ここになると、後世に広まった「市川房枝の愛弟子」という単純なイメージとは少し違った姿が現れる。1974年の選挙で選挙事務長という重要な役割を任せた以上、市川が菅の行動力や実務能力を全く評価していなかったとは考えにくい。しかし、そのことと、「政治的後継者として全面的に信頼していた」ということは同じではない。

市川房枝は、菅直人の選挙に距離を置いた

 その違いがはっきり表れたのが、菅自身が1976年の衆議院選挙に立候補した時だった。市川が後に残した記録によれば、菅は立候補に際して市川に応援を求めたものの、市川は正式な推薦や選挙応援をせず、「自力で闘いなさい」という趣旨の対応を取った。ただし、完全に突き放したわけではなく、50万円をカンパし、秘書らが手伝えるよう配慮もしている。

 この事実だけでも、二人の関係が単純な絶縁でも、無条件の師弟関係でもなかったことが分かる。市川は若い菅を一定程度支援しながらも、自分の名前によって当選させることまではしなかったのである。しかも選挙が進むと、市川は菅が自分の名前や過去の支援者とのつながりを利用して選挙活動を展開したことについて、自分が主張してきた「理想選挙」とはかなり違うという趣旨の批判を残している。

 この記録は重要である。市川房枝が菅直人を政治家として全面的に認定し、後継者として送り出したという説明は、少なくとも史料上は成り立ちにくい。むしろ市川は、菅の行動力を認めつつ、その政治手法には警戒や違和感も抱いていたと考えるのが自然である。したがって、菅が後に自らを市川房枝の政治的伝統につながる「市民派政治家」として位置づけたとしても、市川側から見た二人の関係には、最後まで一定の距離があったと見るべきだろう。

三度落選しても政治から去らなかった

 1976年の衆議院選挙で菅は落選し、1977年の参議院選挙でも敗れ、1979年の衆議院選挙でも当選できなかった。現在の有名政治家という結果から過去を見ると忘れがちだが、国政選挙に三度続けて落ちた無名に近い若者である。政治家の家に生まれたわけでもなく、巨大な後援会や企業組織を持っていたわけでもない菅が、この段階で政治の道を諦めていたとしても不思議ではなかった。

 しかし菅は政治活動を続けた。江田三郎らと社会市民連合を結成し、それが社会民主連合へ発展すると副代表を務め、1980年の衆参同日選挙でようやく衆議院議員に初当選する。ここで重要なのは、菅が「市民運動家だから政党政治を嫌った」のではなく、かなり早い時期から政党という組織の必要性を理解し、その内部で活動する道を選んでいたことである。

 後から見れば、この経験は菅の政治人生を特徴づけるものとなった。市民運動を出発点としながら、政党政治を拒絶するのではなく、その中に入り込んで政策実現の可能性を広げていく。これを「変節」と見るか、「現実政治への適応」と見るかは評価が分かれる。しかし少なくとも、菅が少数の市民運動の世界にとどまり続けなかったことが、後に総理大臣へ到達する条件の一つになったことは間違いない。

菅直人には、制度を調べて問題を掘り出す政治手法があった

 菅を単なる運動型政治家と考えると、もう一つの特徴を見落とす。国会議員となった1980年代初頭から、菅は薬事行政や審議会制度などについて、資料や制度の仕組みに踏み込む国会質問を行っていた。製薬会社、薬の承認過程、審議会委員の立場などを具体的に取り上げ、行政判断が本当に中立的なのかを問いただしている。

 ここから「菅は生来、官僚を信用しない性格だった」とまで断定することはできない。人物の内面は、国会質問だけから科学的に証明できるものではないからである。しかし、「行政資料や制度の内部構造を具体的に調べ、それを国会で追及する政治手法を早い時期から取っていた」と評価することはできる。この違いは小さいように見えて重要であり、人物の性格を推測するのではなく、確認可能な行動から政治家としての特徴を描く方が、歴史記事としてははるかに信頼できる。

 この政治手法が最も強く注目されたのが、1996年の厚生大臣時代だった。薬害エイズ問題をめぐって、それまで存在が確認できないとされていた資料の調査が進められ、いわゆる「郡司ファイル」を含む資料が発見され、公表された。菅は国の責任を認め、被害者に謝罪する姿勢を示し、それまでの厚生行政とは異なる対応として大きく報道された。

 もちろん、薬害エイズ問題を菅一人が発見したわけではない。患者や家族、弁護士、支援者、研究者、報道機関、国会議員らが長年にわたって問題を追及しており、その蓄積の上に厚生大臣としての菅の行動があった。ここを「一人の英雄が巨大官僚機構の隠蔽を暴いた」と描けば、歴史を単純化し過ぎることになる。

 それでも菅の役割が小さかったわけではない。長年問題が指摘されていても、行政組織の内部を大臣の権限で調査させ、資料を公表し、国の責任を認めるという行為には政治権力が必要だった。市民運動の側から行政を批判していた人物が、大臣となって行政組織そのものを動かしたのである。この経験によって菅は、「市民派」の政治家というだけではなく、行政を動かすことのできる政治家として全国的な知名度を高めた。

「市民派」と「権力」は、本当に対立するものだったのか

 1990年代の日本政治は、大きな政界再編の時代だった。菅は社会民主連合という小政党にとどまらず、新党さきがけに参加し、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の中で厚生大臣となった。その後、鳩山由紀夫らと民主党を結成し、共同代表、代表へと進んでいく。

 この歩みを見れば、「市民派政治家」という言葉から連想される人物像と、菅の実際の政治行動の間には興味深い緊張関係があったことが分かる。既成政治を批判する立場から政治を始めながら、その後は連立政権へ入り、大臣となり、政党をつくり、党首となり、自ら国家権力の中枢へ近づいていったからである。

 ただし、これを直ちに「権力欲」や「野心」で説明してしまうのは慎重であるべきだろう。政党移動の背景には政策、選挙制度、政界再編、人間関係、政党の存続可能性など複数の要因が存在し、本人の内面的動機を一つに決めることはできない。その一方で、観察可能な行動として明らかなのは、菅が少数政党の政治家であり続ける道ではなく、より大きな政治的影響力を持てる組織へ活動の場を広げていったということである。

 ここに、市民運動家から首相へ至る一つの逆説がある。市民の声を政治へ届けたいのであれば、政治権力から距離を置くだけでは政策を実現できない。行政を動かし、法律を変え、予算を決めようとすれば、最終的には権力を獲得しなければならない。その意味では、菅が市民政治を掲げながら次第に権力の中心へ近づいていったことは、必ずしも論理的矛盾とは言えない。しかし同時に、権力を批判する側から権力を行使する側へ移れば、それまで自分が批判してきた政治と同じ問題に直面することになる。

民主党という「大きな器」を得たことが決定的だった

 菅が首相候補になれる政治家へ変わるためには、本人の能力だけでは不十分だった。総理大臣になるためには、衆議院で多数を確保できる政党または政党連合の中心人物にならなければならないからである。社会民主連合のような小政党に所属し続けていれば、どれほど知名度を上げても首相への道はほぼ存在しなかった。

 その意味で、1996年に結成された民主党と、その後の党勢拡大は菅にとって決定的だった。菅は党代表を務め、自民党に対抗し得る野党第一党の指導者として活動するようになった。民主党はその後、合流と再編を重ねながら勢力を拡大し、2009年の衆議院総選挙で大勝して政権交代を実現する。

 ここまで来ると、菅直人はもはや1970年代の市民運動家ではない。国会議員として約30年の経験を持ち、厚生大臣経験者であり、大政党の代表経験者であり、民主党政権成立後には副総理・国家戦略担当大臣、さらに財務大臣を務める政治家になっていた。市民運動家という出発点は消えていなかったが、それだけで彼を説明することはすでにできなくなっていた。

2010年、首相の椅子は突然転がり込んできたのか

 2010年6月、鳩山由紀夫首相が退陣すると、民主党は新しい代表を選ぶ必要に迫られた。菅は代表選に立候補し、樽床伸二を291票対129票で破って民主党代表となり、その日の衆議院本会議では313票を得て内閣総理大臣に指名された。

 鳩山の突然の退陣によって菅に機会が生じたという意味では、首相就任には偶然的な要素があった。しかし政治における偶然とは、その瞬間に資格を持っている人物にしか利用できない偶然でもある。この時の菅は、副総理であり、財務大臣であり、民主党代表経験者であり、厚生大臣として全国的知名度を持つベテラン政治家だった。岡田克也や前原誠司ら有力政治家が自ら立候補せず菅支持に回ったことで、後継候補として急速に優位な立場を確保した。

 したがって、菅が首相になったことを単なる「棚ぼた」と見るのも正確ではない。鳩山退陣という偶然は存在したが、その偶然を首相就任につなげられる位置に菅がいたことには、約30年間の政治経験があった。政治家の成功を考えるとき、能力と偶然は対立するものではない。偶然によって機会が生まれ、その機会を利用できるだけの経歴、党内基盤、知名度、役職を事前に獲得していた人物が最後に選ばれるのである。

菅直人の最大の特徴は「何度でも政治の中心へ戻ってきたこと」だった

 菅直人を卓越した思想家と見るか、優れた行政指導者と見るかについては評価が分かれる。首相在任中の政治運営についても、東日本大震災や福島第一原子力発電所事故への対応を含め、現在まで議論が続いている。しかし、市民運動家から首相までの上昇過程だけを見れば、一つの特徴が浮かび上がる。それは、一度の成功によって頂点へ駆け上がったのではなく、何度も政治的に敗れながら、そのたびに別の形で中心舞台へ戻ってきたことである。

 国政選挙に三度落選しても戻ってきた。小政党から出発しながら政界再編の中で活動の場を広げた。民主党代表を退いた後も政治生命を失わず、政権交代時には副総理として政権中枢に戻った。こうした長期的な行動から、「非常に強い上昇志向の人物だった」と評価することは可能だが、それを本人の心理として断定する必要はない。確認できる事実だけでも、菅が政治的敗北によって完全に退場することを避け続けた人物だったことは十分に分かる。

 そして、そこに市川房枝との関係を重ねると、菅直人という政治家の少し皮肉な輪郭が見えてくる。市川は若い菅に政治への入口を与え、重要な選挙実務を経験させた一方、菅が自ら選挙へ出ると、その方法には批判的な視線を向けた。菅は市川の政治的理念から影響を受けながら、市川の政治手法をそのまま継承したわけではなかったのである。

「市川房枝の弟子だから総理になった」のではない

 したがって、菅直人が総理大臣まで上り詰めた理由を、市川房枝からの信頼や後援だけで説明することはできない。市川との関係は非常に重要な政治的出発点だったが、市川自身が菅を無条件に政治的後継者として扱っていたとは言い難く、むしろ1976年の選挙では菅の手法を明確に批判していた。

 菅の上昇をより現実的に説明するなら、市民参加型の選挙を若い時期に実地で経験したこと、三度の落選後も政治活動を続けたこと、政党政治の内部へ入り政界再編に適応したこと、国会で行政制度の具体的な問題を調査し争点化したこと、厚生大臣として薬害エイズ問題への対応によって全国的な知名度を得たこと、民主党という政権獲得可能な大政党の指導者となったこと、そして2009年の政権交代後に副総理・財務大臣という首相候補になり得る位置を占めていたことが重なった結果と見るべきである。

 言い換えれば、菅直人の政治人生は、「清廉な市民運動家が国民から支持され続け、自然に総理大臣になった」という物語ではない。市民運動、選挙、政党、行政、政界再編という異なる世界を渡り歩きながら、その都度、自分の政治的な立ち位置を作り直してきた人物の物語である。

 1974年、市川房枝を国会へ戻すために奔走していた27歳の青年が、36年後には自分自身が国会から総理大臣に指名される立場になった。この事実だけを見れば、一つの立身出世物語のようにも映る。しかし、その36年間を丁寧にたどれば、そこにあるのは英雄譚というより、理想と現実、市民運動と政党政治、権力批判と権力行使の間を往復しながら生き残った一人の政治家の姿である。

 市川房枝から受け継いだものと、市川房枝から離れていったもの。その両方を持っていたからこそ、菅直人は単なる「市民運動家」で終わらず、最終的に総理大臣という日本政治の頂点まで到達したのかもしれない。そしてその成功の中には、市川が若き日の菅に感じた違和感さえ、後の政治家・菅直人を考えるための一つの手がかりとして残っているのである。

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 地方議会を傍聴すると、議員が演壇に立ち、地域交通、高齢者福祉、学校教育、観光、防災、道路整備と、行政が抱えるさまざまな問題について首長や担当部長に問いを投げかけていく。議員が質問し、行政側が答弁し、必要なら再質問が行われ、持ち時間が終われば次の議員へ移るという光景は、地方政治の中でも住民にとって最も「議員が仕事をしている」と感じやすい場面だろう。しかし、議場のマイクが消えたあとに一つだけ問いを残してみると、一般質問という制度の別の姿が見えてくる。その質問によって、町は実際に何か変わったのだろうか。

 もちろん、一般質問そのものに意味がないわけではない。むしろ地方議会にとって、行政がこれまで十分に説明してこなかった問題を公の場所へ引き出し、首長や幹部職員に公式な見解を示させる機能は重要である。一般質問は地方自治法に独立した一つの制度として細部まで規定されているというより、地方議会の運営の中で定着してきた仕組みだが、行政監視や政策提案、住民への情報公開という役割を担ってきた。一人の住民が感じていた不便や疑問が議員を経由して議場に持ち込まれ、それまで行政内部だけで扱われていた問題が町全体の課題として共有されることもある。

 その意味で一般質問は、政策をその場で決定する装置というより、行政が無視できない問いを公開の場所に置く装置と考えた方が実態に近い。首長が「現在は実施する予定がない」と答えれば、それも一つの政策判断として記録に残り、「必要性は認識している」「今後研究する」と答えれば、その認識もまた公式な答弁として残る。議事録に刻まれた言葉には、行政内部の会議では得られない公開性があるため、一般質問にはそれだけでも一定の価値がある。

 しかし、ここで問題になるのが、問いを投げたこと自体が議員活動の成果として自己完結してしまう場合である。「今回も一般質問を行いました」「三つの問題について質問しました」「町長に改善を求めました」といった活動報告は珍しくないが、質問したという事実と政策が変わったという事実の間には、かなり大きな距離がある。一般質問に立った回数や発言の多さが活動量を示す材料として扱われる例は確かにあるものの、それが全国すべての地方議会に共通する評価方法だとまで断定することはできない。それでも、質問という行為が写真にも動画にも文章にもなりやすく、有権者に伝えやすい政治活動であることは間違いない。

 その一方で、予算書を読み込み、決算資料を何年分も比較し、担当課から資料を取り寄せ、制度の問題点を調査し、他の議員と意見を調整する仕事は、外からほとんど見えない。実際にはそうした地味な作業の方が政策形成に重要な場合があるにもかかわらず、本会議で首長と向かい合う姿の方が政治活動としてはるかに分かりやすいため、政策の成果より政治の光景の方が評価されやすくなる危険が生まれる。

 たとえば、高齢者の買い物支援について議員が一般質問し、「高齢化が進むなか、買い物に困る住民への支援を考える必要があるのではないか」と行政へ尋ねたとする。行政が「重要な課題と認識しており、今後研究していく」と答えれば、その日の議会だけを見れば一定の成果があったようにも見える。しかし、その後一年たっても調査が行われず、二年たっても予算に現れず、三年後に再び同じ質問が繰り返されているならば、最初の質問が政策形成のどこまで進んだのかを改めて考える必要がある。

 ここで注意しなければならないのは、一般質問の後に政策が変わったからといって、直ちに「一般質問によって政策が変わった」とは言えないことである。これは政治を科学的に見るうえで非常に重要な問題であり、時間的に前後して起きた二つの出来事と、その一方がもう一方を引き起こしたという因果関係とは区別しなければならない。

 ある議員が買い物支援を質問した半年後に移動販売への補助制度が始まったとしても、行政内部では質問以前から制度設計が進んでいた可能性がある。国や都道府県が新たな補助制度を始めたのかもしれず、住民団体から以前から要望が出ていた可能性もあれば、首長の政策判断や担当職員の提案が主要な原因だった可能性もある。したがって、「質問の後に政策が実施された」という時間的な関係だけでは、質問そのものの効果を証明したことにはならない。

 これは一般質問の効果を測ることの難しさでもある。政策は、一人の議員の発言だけで生まれることは少なく、住民の需要、行政内部の検討、国や都道府県の制度、財政状況、首長の判断、他の議員の働きかけ、社会環境の変化などが重なって形成される。そのため「一般質問は政策を変えているのか」という問いに対して、全国の地方議会について単純な割合を示し、「何%の質問が政策を変えた」と答えられるほど十分な統計が整っているわけではない。

 だから、この問いへの最も慎重な答えは、「一般質問が政策変更の契機になることはあるが、一般質問だけによる効果を切り分けて測定するのは難しい」ということになる。一般質問によって行政が初めて調査を始めたことが資料から確認でき、その後予算化され、担当部署が質問を契機として制度を設計したことまで確認できれば、質問の寄与はかなり強く推定できる。しかし行政計画が質問以前から存在していたならば、一般質問は政策変更の原因というより、すでに進んでいた政策を表面化させた可能性もある。

 それでも、一般質問の価値を測る方法がまったくないわけではない。質問が行われたという入口だけを見るのではなく、その後どこまで政策が進んだのかを追跡すればよいのである。質問しただけで何も変化していない段階、行政が調査や研究を始めた段階、政策方針や答弁が変化した段階、予算や計画、条例、要綱などに反映された段階、実際の事業として実施された段階、さらに実施後の効果を検証して改善まで行われた段階というように、政策の進行を連続した過程として見ることができる。

 仮にそれを便宜的に零から五までの六段階で捉えるならば、質問しただけで変化がないものを零、行政が調査を開始したものを一、方針が変わったものを二、予算や制度に反映されたものを三、事業として実施されたものを四、実施後の効果検証や改善まで進んだものを五とすることができる。もちろん、この数字自体に絶対的な意味があるわけではないが、「何回質問したか」より「質問した問題がどこまで政策として進んだか」を見る方が、議員活動の実質を測る指標としてははるかに情報量が多い。

 さらに精密に分析するなら、その政策変更に一般質問がどの程度寄与したのかも別に評価する必要がある。行政が質問以前から検討していたのか、質問後に初めて担当部署が調査を始めたのか、予算説明や行政資料の中で質問が政策変更の契機として言及されているのかを確認すれば、単なる前後関係と因果関係をある程度区別できる。政治の世界では完全な実験を行うことは難しいが、少なくとも「質問した後に政策が変わったから、その議員が変えた」という単純な物語から距離を置くことはできる。

 この視点に立つと、「毎回一般質問をしている議員ほど優秀なのか」という問いにも別の答えが見えてくる。質問回数は活動量の一部を示すことはあっても、それだけで政策形成能力を測ることはできない。十回質問して十回とも「研究します」という答弁で終わり、その後何も追跡しなかった場合と、一つの課題について二年間調査を続け、他の議員と合意をつくり、予算や制度変更まで到達させた場合とでは、政策的な成果は同じではない。

 もっとも、ここでも議員一人だけに政策結果を背負わせるのは適切ではない。地方議会は個々の議員が活動する場所であると同時に、複数の議員が議決を行う合議制の機関でもある。一人の議員が一般質問で提案しても、他の議員が支持するとは限らず、条例や予算の変更には議会全体の判断が必要になる場合がある。行政側にも財政、人員、法令、既存事業との整合性があり、優れた提案だからといって直ちに実現できるわけではない。

 したがって、政策を変える能力とは、質問する能力だけではない。地域の問題を見つけ、その原因を調べ、数字や資料で裏付け、実現可能な政策案へ加工し、行政や他の議員と議論し、必要なら住民の理解を得ながら制度化へ進み、実施後にも結果を確認するという長い工程全体に関わる能力である。一般質問はその途中にある重要な道具ではあるが、それだけを切り取って議員活動全体と考えるならば、政策形成という長い物語から、最も目立つ一場面だけを取り出して評価していることになる。

 それでも一般質問が政治的に強い存在感を持つのは、そこに劇場性があるからだろう。議員が問い、首長が答えるという構図には対立と緊張があり、住民にとって理解しやすい。予算書の数字を比較する作業や、担当課との地道な協議よりも、議場で「町長に問う」姿の方が政治らしく見える。そのため、議員側も活動報告に一般質問を載せやすく、住民側も一般質問の回数や内容を議員評価の材料にしやすい。

 この構造そのものを悪いと決めつける必要はない。住民に議会活動を伝えるためには、分かりやすさも必要だからである。しかし、その分かりやすさが評価のすべてになった瞬間に、政治には一種の逆転が起きる。政策を変えるために質問するのではなく、活動している姿を示すために質問するという方向へ傾く可能性が生まれるからだ。

 この問題は、一般質問だけの問題ではなく、政治の成果を何によって測るのかという、もっと大きな問題につながっている。測定しやすいものが、必ずしも重要なものとは限らない。質問回数、発言時間、議会報告の回数などは数字にしやすいが、政策の質、合意形成への貢献、無駄な事業を止めた効果、行政の判断を改善した影響などは簡単には数字にならない。それでも、人は測りやすい数字を評価指標に使いたくなる。

 この性質は政治に限らない。学校で試験の点数だけを重視すれば試験対策が増え、企業で営業件数だけを評価すれば件数を増やす行動が強くなる。同じように、議員活動を質問回数で評価するならば、質問は増える可能性がある。しかし、質問の数が増えることと、住民の暮らしが改善することは同じではない。評価指標が行動を変える以上、何を成果として測るのかは慎重に考えなければならない。

 だからこそ、一般質問を減らすことよりも、「一般質問のその後」を見えるようにすることの方が重要である。過去にどの議員が何を質問し、そのとき行政はどう答え、その後調査が始まったのか、予算に反映されたのか、制度が変わったのか、事業が実施されたのか、そして結果はどうだったのかを継続して確認できる仕組みがあれば、一般質問の意味は大きく変わる。

 実際、過去の一般質問がその後の町政へどう反映されたかを追跡する地方議会も存在する。こうした取組が示しているのは、一般質問を一回限りの発言として扱うのではなく、政策形成の履歴として残すことが可能だということである。質問の直後には「研究します」としか答えられなかった問題が、二年後に制度として実現することもあれば、逆に何年たっても動かないこともある。その時間の流れまで見なければ、質問の価値は十分には分からない。

 議員自身の活動報告も、「一般質問を行いました」で終わらせる必要はない。「二年前に取り上げた問題について行政の調査が始まり、翌年度に実証事業が行われ、今年度から本格実施された」と報告すれば、住民は質問から政策実施までの過程を見ることができる。反対に、「三年間提案したが実現しなかった」と説明することにも意味がある。議員の提案が常に正しいわけではなく、財政的に実施できない場合や、調査の結果として必要性が低いと判断される場合もあるからだ。

 政策が実現しなかったことをすべて失敗と考える必要もない。むしろ、調査した結果として当初の提案に問題があることが分かり、実施を見送ったのであれば、それも政治の一つの成果である。重要なのは「私が実現しました」という成功談だけを並べることではなく、課題が提起され、どのような検討が行われ、何が判断され、その結果として何が起きたのかを住民が追えることである。

 住民側の議会を見る視点も、そこから少し変わってくる。「あの議員は毎回質問している」という評価だけでなく、「去年質問していた問題はその後どうなったのだろう」と考えるようになれば、議員に求められる能力も変わる。発言の巧さだけでなく、資料を読む力、問題の原因を分析する力、実行可能な政策へ組み立てる力、他者と合意をつくる力、予算を検証する力、そして一度取り上げた問題を数年後まで追跡する力が見えるようになる。

 一般質問は地方議会に必要である。行政が答えにくい問題を公開の場所で問い、住民が感じていた小さな違和感を政治の議題へ変え、首長の判断を公式記録として残す働きには大きな意味がある。しかし、それだけで政策が変わったと考えることも、質問回数だけで議員の働きを評価することも適切ではない。

 一般質問はゴールではなく、政策形成の入口の一つである。問いを投げたあとに行政が調べ、議会が議論し、必要なら予算や制度が変わり、実施された政策が住民の生活にどのような影響を与えたのかまで確認して、初めて一つの政策過程が見えてくる。そこまで追ってみれば、華々しく見えた質問がほとんど何も生まなかったこともあれば、地味な一つの問いが数年後に大きな制度変更へつながっていたことも分かるだろう。

 議場では今日もマイクが点灯し、議員が首長へ問いを投げかけている。その光景を見たとき、私たちは「良い質問だった」「厳しく追及していた」という感想だけで終わらず、もう一つの問いを持っていた方がよい。

 この質問によって、一年後の町は何が変わっているのだろうか。

 そして一年後、その答えを確かめに行くことまで含めて議会を見るようになったとき、一般質問は単なる政治の舞台から、政策が生まれ、あるいは生まれなかった過程を検証するための記録へ変わっていくのだろう。

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当確師」の変遷

 選挙になると、表舞台には候補者が立つ。駅前でマイクを握り、街角で頭を下げ、集会では政策を語り、選挙カーから名前を繰り返すが、その少し後ろには、候補者とはまったく違う景色を見ている人物がいる。「この地区では票が足りない」「この訴え方では高齢層には届くが若い世代には響かない」「こちらの支持者は多いが投票所まで来てくれるか分からない」と考えながら、目の前の一人ではなく、選挙区全体を眺めている人である。

 そうした人物は、時代によって選挙参謀、選挙プランナー、選挙コンサルタントなど、さまざまな名前で呼ばれてきた。本稿では、それらを少し俗っぽく、象徴的に「当確師」と呼ぶことにしたい。もちろん「当確師」という公的な資格や正式な職業が存在するわけではないが、この言葉には、結果の見えない選挙において、誰よりも早く勝敗の形を読もうとする人間の姿がよく表れている。

 もっとも、昭和、平成、令和の当確師を、まったく別の種類の人間として考えるのは正確ではない。昭和の技術が平成に消え、平成の技術が令和に消えたわけではなく、むしろ地縁や組織、人間関係を読む技術の上に、世論調査やイメージ設計が加わり、さらにデータ分析やインターネット上の情報が積み重なってきたと見る方が実態に近い。選挙は時代ごとに着替えてきたのではなく、古い服の上に新しい布を縫い足しながら、次第に複雑な装いになってきたのである。

昭和の当確師は「人間関係の地図」を持っていた

 昭和の選挙を考えるとき、現代のような巨大なデータベースやスマートフォンを思い浮かべる必要はない。当時の優秀な選挙参謀にとって最大の情報資産は、コンピューターの中ではなく、人間の頭と足の中に蓄積されていたからである。どの集落では誰に話を通せば人が集まるのか、商店街では誰の一言が効くのか、農家同士の関係はどうなっているのか、前回はこちらに入れた家が今回はなぜ静かなのかといった細かな情報が積み重なり、それが選挙区の「地図」になっていた。

 戦後の衆議院選挙では長く、複数の候補者が同じ選挙区から当選する中選挙区制が用いられ、同じ政党から複数候補が立つことも珍しくなかった。そのため候補者は他党の候補者だけでなく、同じ党の候補者とも個人票を争わなければならず、「政党に入れる」というより「この人に入れる」という支持を確保する必要が強かった。そこで大きな意味を持ったのが後援会であり、候補者本人と地域社会を長期的につなぐ組織だった。

 ただし、後援会の発達を中選挙区制だけで説明するのは正確ではない。戦前から個人後援会は存在しており、戦後に広く発達した背景には、中選挙区制による候補者間競争だけでなく、公職選挙法によって選挙期間中の運動が細かく規制されたことも関係していたと考えられている。選挙期間だけ活動するのでは足りないため、日常から人間関係を保ち続ける必要があり、冠婚葬祭や地域行事、業界団体、町内会などとの接点が政治活動の一部になっていったのである。

 こうした環境では、選挙参謀が見るべきものは数字そのものというより、数字になる前の空気だった。「この地区は前回より集まりが悪い」「いつも顔を出す人が今回は来ない」「こちらを支持すると言っていた人物の返事が曖昧になった」といった小さな変化から、まだ集計表には現れていない潮目を読み取ろうとしたのである。

 もちろん昭和にも票読みはあった。「この地区なら千票は固い」「この団体からは七割程度が出る」といった数字が語られたが、それらは今日の統計モデルのように大量の観測データから機械的に算出されたものではなく、過去の選挙、地域事情、人間関係、担当者の経験を組み合わせて作られることが多かった。つまり昭和の当確師とは、数字を使わなかった人ではなく、数字を人間関係の中から掘り出していた人なのである。

平成の政治改革が変えたもの

 平成に入ると、日本の国政選挙では大きな制度変更が起きた。1994年の政治改革によって衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年の総選挙から新しい制度による選挙が始まった。小選挙区では一つの選挙区から原則一人しか当選しないため、同じ党の候補者同士が一つの選挙区で競う旧来の構図は大きく後退し、候補者や政党は選挙区全体で相手候補より多くの票を獲得する必要に迫られた。

 ただし、この変化をそのまま地方選挙へ当てはめることはできない。市長選や町長選、知事選、地方議会議員選挙が1994年を境に同じ制度へ変わったわけではなく、衆議院選挙の制度改革と地方選挙の制度は別に考えなければならない。それでも、国政の政治環境が変化し、政党間競争やメディアの役割、世論調査の重要性が高まれば、その影響は地方政治にも徐々に広がっていくため、平成という時代を「選挙の見方が変わっていった時期」と捉えること自体には意味がある。

 昭和型の選挙では、自分の支持者を固め、その支持を長期的に維持する力が大きな武器だったが、小選挙区を中心とした競争では、それだけでは足りない場面が増える。自分を強く支持している人だけでなく、支持政党を決めていない人、選挙ごとに投票先を変える人、政策や候補者の印象によって判断する人まで含めて、選挙区全体にメッセージを届ける必要が大きくなったからである。

 ここで当確師の仕事には、新しい問いが加わる。どこを回ればよいかだけではなく、どの言葉を使えばよいか、何を候補者の中心的なイメージにするか、どの政策を前面に出し、どの政策は詳しく説明するにとどめるかといった「見せ方」の設計が、従来以上に重要になっていったのである。

平成の当確師は、候補者を「編集」するようになった

 平成の選挙で重要になったのは、候補者自身が自分をどう評価しているかではなく、有権者からどう見えているかという視点だった。本人は「慎重で誠実な政治家」と考えていても、有権者には「決断力が弱い」と映るかもしれず、「改革派」を自称していても、長年議員を続けていれば「既存政治の一部」と受け取られることもあるため、自己評価と外部評価のずれを把握する必要が生じる。

 そこで選挙参謀や選挙コンサルタントは、候補者の人格を作り変えるというより、候補者の中にすでに存在している複数の特徴から、どの部分を前面に出せば有権者に伝わりやすいかを考える編集者のような役割を担うようになる。経歴、年齢、専門性、家族像、政策、話し方、服装、写真、キャッチフレーズといったさまざまな要素の中から、「この人は何者なのか」という像を一つにまとめる作業である。

 これは商品の広告に似ているようで、完全には同じではない。政治家は選挙が終われば消える商品ではなく、当選すれば議会や地域に残り続けるため、選挙期間中につくったイメージと本人の実像が大きく離れていれば、やがて矛盾が表面化する。したがって長期的に強い候補者ほど、別人を演じるのではなく、自分が本来持っている特徴の中から、有権者に伝わりやすく、しかも本人が維持できる姿を選び取る必要がある。

 この意味で、平成型の当確師は「候補者を商品化する人」というより、「候補者を翻訳する人」と考えた方が適切だろう。候補者が持つ専門用語や政治的理念を、有権者が日常生活の中で理解できる言葉へ置き換え、複雑な人物像を一つの分かりやすい印象へまとめるのである。

令和には、画面の中にも選挙区ができた

 そして令和になると、選挙区にはもう一つの空間が加わった。道路や住宅地によって区切られた現実の選挙区とは別に、スマートフォンの画面の中にも、人々が候補者を知り、評価し、語り合う空間が広がったのである。

 2013年にはインターネットを利用した選挙運動が解禁され、ウェブサイトやSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使った情報発信が選挙運動の一部として定着していった。候補者の演説は、その場にいる数十人や数百人だけに届くものではなくなり、撮影された動画が後から何千人、何万人に見られる可能性を持つようになったため、街頭演説は同時に映像素材でもあり、候補者の一つの発言が切り取られて広がることも珍しくなくなった。

 ただし、ネット選挙の効果を過大評価してはいけない。日本の選挙研究では、インターネット上の情報接触が政治認知や一部の投票行動に影響する可能性は確認されているものの、ネット選挙運動の解禁だけで投票行動が大きく変わったとまでは言えず、特に選挙参加については年齢、政治関心、所得、従来型メディアへの接触など、さまざまな要因が重なっていることが示されている。

 そのため、令和の当確師が「SNSで話題になれば勝てる」と考えるなら、それはむしろ危険である。地方選挙では特に、投稿に反応している人の多くが選挙区外に住んでいる可能性があり、選挙権を持たない人、同じ人による複数の反応、支持ではなく批判としての反応も混ざるため、画面上の数字と票数は直接対応しないからである。

一万の「いいね」が、一万票にならない理由

 ここで令和の選挙が抱える難しさが見えてくる。データは昭和より圧倒的に増えたが、データが増えれば真実がそのまま見えるわけではない。SNSの反応数、動画の再生回数、検索回数、世論調査、年代別人口、地区別投票率など、多くの数字を集めることはできるものの、その数字が何を表しているのかを間違えれば、情報が多いほど判断を誤る危険さえある。

 例えば、ある候補者の投稿に一万件の反応が付いたとしても、その一万人がその候補者に投票するとは限らない。選挙区外の人が半分を占めているかもしれず、候補者を批判する目的で見ている人もいれば、投票日に投票所へ行かない人もいるため、SNS上の人気と実際の得票の間には複数の段階が存在する。

 さらに重要なのは、人気と得票の因果関係である。SNSで人気になったから票が増えたのか、それとも元々支持の強い候補者だからSNSでも反応が多かったのかは、単純な観察だけでは分からない。候補者の知名度、政党、地域での基盤、報道量などが両方に影響している可能性もあり、データサイエンスの言葉で言えば、選択バイアスや交絡を無視してはならない。

 昭和の当確師には情報が足りないという苦労があったが、令和の当確師には、情報が多すぎる中から「本当に票につながる情報」を選ばなければならないという別の苦労がある。道具は進歩しても、判断が簡単になったわけではない。

支持率だけでは選挙は読めない

 選挙を数理的に考えると、支持者の人数だけを数えても十分ではない。重要なのは、その人が候補者を支持しているかだけでなく、実際に投票へ行く可能性、投票所へ行ったときに最終的にその候補者を選ぶ可能性まで考えることである。

 仮に候補者Aを支持している人が一万人いても、そのうち六割しか投票に行かなければ、得られる票は単純計算では六千票程度になる。一方で候補者Bの支持者が八千人しかいなくても、その九割が投票すれば七千二百票程度になるため、「支持者が多い候補者が必ず勝つ」とは言えない。

 実際の選挙はこれよりはるかに複雑で、選挙戦中の出来事、候補者間の競争、投票日の条件、期日前投票の広がりなども影響するが、少なくとも「支持」と「実際の投票行動」を分けて考える必要があることは変わらない。また、天候についても単純に「雨が降れば投票率が下がる」と決めつけるのは危険で、日本の選挙研究では降雨量よりも風など別の気象条件が影響している可能性も指摘されているため、悪天候や交通事情など、その日の条件が投票参加に影響することがある、という程度に考える方が慎重である。

令和の当確師が本当に見なければならないもの

 現代の選挙参謀が見るべきものは、単なる人気ではない。誰が支持しているか、その支持はどの程度強いか、投票まで行動する可能性はどの程度あるか、どの地区で支持が不足しているか、無党派層の関心はどこにあるか、相手候補の支持がどれほど固いかといった複数の要素を、同時に考える必要がある。

 だから選挙戦終盤で最も合理的な行動が、必ずしも「もっと有名になること」とは限らない。新しい支持者を一万人増やそうとするより、すでに好意的な有権者の中から投票に迷っている人を動かした方が有効なこともあり、地域によって支持の偏りが大きい場合には、選挙区全体へ均等に働きかけるより、弱い地区へ重点的に足を運ぶ方が合理的な場合もある。

 この意味で、令和の当確師は世論を自在に操る魔術師ではなく、不完全な情報から人間の行動を推定し、限られた時間、人員、資金をどこへ配分するかを決める戦略家へ近づいている。統計やデータはその判断を助けるが、最後の判断まで自動化してくれるわけではない。

それでも昭和は消えていない

 ここまで読むと、昭和、平成、令和で選挙の技術が完全に入れ替わったように見えるかもしれないが、実際にはそうではない。令和の地方選挙でも、地域の有力者、自治会、業界団体、後援会、日常の人間関係は依然として意味を持ち、候補者が地域でどれほど顔を知られているか、何年活動してきたか、困ったときに相談できる人物だと思われているかといった評価は、デジタル時代になっても簡単には消えない。

 一方で、昭和の当確師が使っていた地縁だけでも足りず、平成に広がった世論調査や候補者イメージの設計だけでも足りず、令和ではさらにSNSや動画、人口統計、投票データなどを組み合わせなければならない。現代の当確師は、昭和を捨てた人ではなく、昭和の技術を持ったまま平成と令和の技術まで背負わされるようになった人なのである。

 この累積こそが、現代の選挙を難しくしている。使える道具が増えたから仕事が簡単になるのではなく、見るべきものが増え、判断しなければならないことが増えたため、選挙参謀には以前より広い視野が求められるようになった。

「見える票」から「見えにくい票」へ

 昭和の選挙では、現在より地域組織や職場、業界団体、後援会などとの結びつきが強く、候補者側から見て支持の所在を把握しやすい部分が大きかったと考えられる。それに対して現在では、後援会にも入らず、政治集会にも参加せず、SNS上でも政治的な意見を表明しないまま、投票日だけ静かに投票所へ向かう有権者も少なくない。

 ただし、「昭和はすべての票が見え、令和は見えなくなった」とまで言うことはできない。無党派層は平成期からすでに政治学上の重要な研究対象となっており、政党や組織との結びつきが弱い有権者は以前から存在していたため、正確には、従来の組織関係だけでは投票行動を把握しにくい人々の存在が、選挙戦略上ますます重要になったと考えるべきだろう。

 つまり、当確師の仕事が難しくなった理由の一つは、データ不足だけでもデータ過剰だけでもなく、有権者そのものが以前より多様な情報源を持ち、投票先を決める経路が複雑になったことにある。

当確師が進化したのではなく、見るべき世界が増えた

 昭和の当確師は地域の人間関係を読み、平成の当確師はそれに世論や候補者イメージの設計を加え、令和の当確師はさらにデジタル空間の反応と大量のデータを見るようになった。しかし、この三つは互いに排他的なものではなく、現代の選挙ではすべてが同時に存在している。

 だから優秀な選挙参謀とは、最新の分析ツールを使える人だけでもなければ、地域の有力者を多く知っている人だけでもない。数字を見るときに、その数字の後ろにいる人間を想像でき、地域の声を聞くときに、それが選挙区全体を代表しているとは限らないことを理解し、ネット上の盛り上がりを見ても、それがそのまま票になるとは考えない人である。

 選挙という現象は、政治学であると同時に、社会学であり、心理学であり、統計学でもあるが、そのどれか一つだけで完全に説明することはできない。だからこそ当確師という存在には、いつの時代にも最後まで職人の部分が残る。

最後に残るのは、やはり人間である

 昭和の当確師は手帳を開き、平成の当確師は世論調査を読み、令和の当確師は画面いっぱいに並んだ数字を見る。しかし、最後に知りたいことは三つの時代で変わっていない。

 人は、なぜこの候補者に一票を入れるのか。

 政策への共感かもしれないし、人柄への信頼かもしれない。政党を支持しているからかもしれず、現職への不満から対立候補を選ぶ人もいれば、知人から頼まれたことが最後の一押しになる人もいる。投票用紙に書かれる名前は一つでも、そこへ至る理由は有権者の数だけ存在する。

 だから選挙のプロが最後に向き合うのは、統計そのものではなく、統計の向こう側にいる人間である。

 昭和には、その人間を集落の道を歩きながら見た。平成には、世論調査やテレビ、候補者の印象を通じて見た。令和には、地域の人間関係に加えて、データやスマートフォンの画面を通じても見ようとしている。

 道具は変わった。情報量も変わった。しかし、完全に予測できないという選挙の本質までは変わっていない。

 もし誰かが、すべての有権者の行動を正確に予測し、必ず候補者を当選させる方法を発明したなら、その瞬間に選挙は不確実な政治過程ではなく、計算問題になってしまうだろう。しかし現実には、投票箱が閉じられるまで人間は考えを変え、迷い、時には最後の瞬間に選択する。

 だから当確師は、いつの時代にも数字を読み、人を読み、空気を読み、それでも最後には完全には読めない何かを残したまま投票日を迎える。

 昭和から平成、そして令和へと変わったのは、当選させるための魔法ではない。見なければならない世界が増えただけである。

 そして、その世界の中心には今も変わらず、一枚の投票用紙を前にして最後の名前を決める、一人の有権者がいる。

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