地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家の経歴を一本の線として眺めたとき、小池百合子ほど、所属する政党や政治活動の舞台を何度も変えながら、長期間にわたって国政や東京都政の主要な役職を経験してきた人物は多くない。

 1992年に日本新党から参議院議員として初当選し、翌年には衆議院へ転じ、その後は新進党、自由党、保守党、自由民主党と所属先を変えてきた。自由民主党では環境大臣、防衛大臣、党総務会長を務め、2008年には総裁選挙にも立候補している。しかし、2016年には自民党東京都連の推薦を受けずに東京都知事選挙へ立候補し、当選後は地域政党「都民ファーストの会」を率いて都議会で勢力を拡大させた。2017年には国政政党「希望の党」を立ち上げたものの、その国政進出が期待された成果を十分に得られなかった後は、東京都知事としての活動を中心に政治的な影響力を維持してきた。

 こうした経歴から、「政界渡り鳥」や「政党を渡り歩いてきた政治家」という評価が生まれるのは理解できる。ただし、その見方だけでは、1990年代の激しい政党再編、選挙制度の違い、政治組織との関係、東京都知事という公職の特性など、長期的な政治活動を理解するうえで重要な要素が見落とされてしまう。

 2026年10月現在、小池は東京都知事3期目にある。1992年の初当選から34年が経過し、その間には自民党総裁選挙での敗北、衆議院小選挙区での落選、希望の党の国政進出の失速なども経験した。それでも、国会議員や東京都知事として公職を維持し、政治活動を継続してきたことは事実である。

 では、なぜ小池百合子は、所属する組織や政治活動の舞台が変わっても、長期間にわたって政治的な地位を維持できたのだろうか。その理由を一つの能力や個人の性格だけに求めることは適切ではない。本人の政治的選択に加え、政党組織、選挙制度、知名度、支援関係、その時々の政治情勢がどのように作用したのかを、具体的な事実から考える必要がある。

「政界渡り鳥」という言葉では、1990年代を説明できない

 小池が国政へ進出した1992年は、日本の政党政治が大きく変化し始めた時期だった。細川護熙が率いる日本新党から参議院議員選挙に立候補して初当選し、1993年には衆議院議員選挙へ転じた。その後の所属政党は、日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と変わっていくが、この党籍変更をすべて本人の自由な意思による移籍として扱うことはできない。

 日本新党は1994年に新進党へ合流し、その新進党も1997年末に解党した。さらに、新進党解党後に結成された自由党も、2000年には連立政権への対応をめぐって分裂している。小池はその後、保守党を経て2002年に自由民主党へ入ったが、最初の約10年間には、所属政党そのものが消滅したり、分裂したりする政治環境が存在していた。

 ここで区別しなければならないのは、安定して存在する政党を自ら離れる場合と、所属政党が解党した場合、さらに政党の分裂によって所属先の選択を迫られた場合とでは、政治的な意味が異なることである。政党の解党や分裂は本人が直接決定できるとは限らない外部条件である一方、その後にどの政治勢力へ参加するかには本人の判断が含まれる。したがって、小池の党籍変更を理解するには、政界再編という構造的な要因と、本人による政治的な選択を分けて考える必要がある。

 もっとも、こうした環境を経験したことが、小池の政党観や政治行動にどの程度影響したのかは、経歴だけでは証明できない。政党組織を永続的な帰属先とは考えにくくなった可能性はあるものの、それを本人の心理や思想として断定するには、当時の発言や行動を継続的に検証する必要がある。

 確実に言えるのは、小池の政治家としての出発点が、政党の離合集散を繰り返した時代だったということである。その歴史的背景を取り除いて所属政党の数だけを比較しても、政治家としての行動を十分に説明することはできない。

変わったのは政策思想なのか、政治活動の足場なのか

 所属政党が変わったことと、政策的な立場がその都度反転したことは同じではない。小池が経験した日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党という流れには、政治改革、行政改革、市場経済、安全保障政策などをめぐる違いが存在する一方、非社会党系の改革勢力や保守系政治勢力という一定の連続性も認められる。

 ただし、これをもって小池の政策思想が一貫していたと証明できるわけでもない。政党には複数の政策領域があり、経済政策では近い立場でも、安全保障、社会保障、環境政策、地方分権などでは異なる立場を取る場合がある。政治家本人の政策的な位置を比較するには、所属政党名だけではなく、国会での採決、政策公約、質問、発言、実際の行政判断などを時系列で整理することが必要になる。

 例えば、経済政策における規制改革への姿勢、安全保障政策への考え方、社会保障制度に対する立場を別々に検証し、それぞれがどの時期にどの程度変化したのかを比較すれば、政策思想の継続性と変化をより具体的に確認できる。しかし、所属政党が変わった回数だけから、理念的一貫性の有無を結論することはできない。

 この点を踏まえると、小池の政治経歴を理解するうえでは、何を主張してきたのかという政策上の問題と、どの組織や公職を通じて政治活動を行ってきたのかという制度上の問題を分けて考えることが重要になる。

テレビキャスターの経験と「伝える政治」

 小池を同時代の政治家と比較する際に注目される特徴の一つが、政界入り以前からテレビキャスターとして活動し、政治や経済に関する情報を伝えていたことである。テレビの仕事では、限られた時間の中で複雑な出来事を整理し、視聴者が理解できる形で説明することが求められる。その経験が政治活動における発信方法に影響した可能性は考えられるが、キャスター経験によって政治的な発信能力がどの程度高まったのかを、経歴だけから測定することはできない。

 小池の政治活動における分かりやすい発信の事例として、2005年に環境省が推進したクールビズが挙げられる。当時、環境大臣だった小池は、地球温暖化対策の一環として、夏季の軽装を通じて冷房に伴うエネルギー消費を抑える取り組みの推進に関わった。温室効果ガスの排出、企業活動、室内温度、エネルギー需要という複数の問題を、服装という日常的な行動に結びつけた点で、政策の内容を生活者に伝える手法として注目できる。

 もっとも、クールビズの普及を小池個人の能力だけで説明するのは適切ではない。環境省による政策立案と広報、企業や官公庁による導入、報道機関の取り上げ方、社会的な認知の広がりなど、多くの要因が関わっている。政策の普及が確認できたとしても、その成果のうち小池個人の発信による寄与がどの程度だったのかは、別途検証しなければならない。

 小池の政治的な発信を考えるうえで重要なのは、複雑な政策を短い言葉で説明する方法を使ってきたという観察可能な特徴である。しかし、分かりやすく伝えることと、政策の内容が適切であること、さらに政策によって実際に成果が生まれることは、それぞれ異なる問題として評価する必要がある。

2005年の郵政選挙で示された、政治的な対立構図の力

 2005年の衆議院議員選挙では、小泉純一郎首相が郵政民営化への賛否を大きな争点とし、民営化関連法案に反対した自民党議員を公認せず、別の候補者を擁立する選挙戦略を採った。小池も兵庫県の選挙区から東京10区へ移り、いわゆる「刺客候補」の一人として当選した。

 郵政民営化は、金融制度、公共サービス、政府の役割、地方への影響など、複数の論点を持つ政策だった。しかし選挙戦では、改革を進める側と改革に抵抗する側という対立構図が強く打ち出され、政策の専門的な内容とは別に、政治的な選択の分かりやすさが重視された。小池は、そのような選挙戦略の中で候補者となり、議席を獲得している。

 この経験が、その後の小池の政治的な判断へどの程度影響したのかは明らかではない。ただし、政策そのものの説明に加え、誰が改革を進め、誰が既存の仕組みを守ろうとしているのかという構図が選挙で用いられたことは、2016年の東京都知事選挙を考える際にも比較対象となる。

 一方、分かりやすい対立構図には限界もある。政策を二つの陣営の対立として示すことで争点が理解しやすくなる場合がある反面、制度の複雑さや政策上の不利益が十分に伝わらなくなる可能性もある。発信が選挙で有効に働いたかという問題と、政策に対する有権者の理解を深めたかという問題は、区別して考える必要がある。

自民党総裁選挙で見えた、知名度と党内支持の違い

 自由民主党へ入った後、小池は環境大臣や防衛大臣を歴任し、党内でも一定の役職を経験した。そして2008年には自民党総裁選挙へ立候補するが、その結果は、一般社会における知名度と政党内部で支持を集めることの違いを考えるうえで重要な材料となる。

 2008年9月22日の自民党総裁選挙では、麻生太郎が351票、与謝野馨が66票、小池百合子が46票、石原伸晃が37票、石破茂が25票を獲得した。小池は5人中3位であり、有効投票525票に占める得票割合は約8.76%だった。全国的な知名度や閣僚経験を持っていても、それだけで党総裁に選ばれるための支持が形成されるわけではないことが、結果として示された。

 ただし、46票という数字から、その原因を一つに決めることはできない。総裁選挙では、国会議員同士の関係、政策的な立場、派閥や党内集団の動向、地方組織、当時の政治情勢などが複雑に作用する。また、自民党総裁選挙の投票権者は一般の有権者全体ではないため、選挙結果を社会全体における支持率と同じように扱うこともできない。

 小池の46票は、当時の自民党総裁選挙という制度の下で得られた支持の規模を示しているのであって、政治家としての能力全体を数値化したものではない。逆に、一般有権者から一定の支持を得ていたとしても、党内で必要な多数を形成できなければ総裁には就任できないという制度上の違いは明確である。

 この選挙を、後の東京都知事への転身を説明する一つの背景として位置づけることは可能だが、2008年の敗北が直接の原因となって2016年の立候補を決めたと断定することはできない。両者には8年の時間的な隔たりがあり、その間の政治活動や東京都の政治情勢も考慮する必要がある。

2009年の敗北と比例復活~政治生命を支えた選挙制度

 小池の長期的な政治活動を理解するうえで、2009年の衆議院議員選挙も見落とせない。この選挙では民主党への政権交代が実現し、自民党は多くの議席を失ったが、小池も東京10区で民主党候補の江端貴子に敗れている。

 東京10区での得票は、江端が10万5512票、小池が9万6739票だった。小池は小選挙区では落選したものの、比例代表東京ブロックで復活当選し、衆議院議員としての議席を維持した。その後、2012年の衆議院議員選挙では再び東京10区で当選している。

 この事例は、「選挙に勝ち続けたから政治の第一線に残った」という単純な説明が成立しないことを示している。2009年の小池は小選挙区では敗北しており、それでも議員として活動を続けられたのは、比例代表との重複立候補が認められる衆議院の選挙制度が存在したためである。

 比例代表での復活当選には、本人の小選挙区での得票状況だけでなく、所属政党が比例代表で獲得した議席数や名簿上の取り扱いが関係する。つまり、このときの政治的な地位の維持には、小池個人の選挙活動とともに、自由民主党という組織と選挙制度が重要な役割を持っていた。

 小池の政治経歴を個人の自立性だけで説明することが不十分なのは、このためである。大政党の内部で支持を集めることに限界があったとしても、大政党に所属することで利用できる制度的な資源も存在していた。政治家と政党の関係は、組織から独立することが常に有利なのではなく、所属することによる利益と制約の両方を持っている。

2016年の東京都知事選挙~党内競争とは異なる政治の舞台

 小池の政治活動が大きく変わったのは、2016年の東京都知事選挙である。自民党東京都連の推薦を受けないまま立候補し、自民党などが支援する増田寛也と争った。ただし、この時点で小池は自民党を正式に離党していたわけではなく、離党届を提出したのは翌2017年6月1日だった。したがって、「自民党を離党して選挙に挑んだ」と説明するのは正確ではない。

 2016年の選挙では、自民党東京都連との対立が小池の政治的な位置づけを特徴づけた。通常、大政党の正式な支援を受けられないことは、選挙組織や政治資源の面で不利に働く可能性がある。しかし、小池の立候補は既存の都政や党組織との対立としても受け止められ、組織に支援されていないことが、既存の政治勢力から一定の距離を置く候補者という印象につながった可能性がある。

 選挙結果は、小池が291万2628票、増田が179万3453票で、小池が初当選した。ただし、この結果だけを根拠に、自民党東京都連との対立が勝因だったと結論することはできない。候補者の知名度、政策公約、報道量、選挙組織、対立候補の構成、当時の都政への評価なども投票行動に影響したと考えられるからである。

 それでも、この選挙には制度上の重要な特徴がある。自民党総裁選挙では、党内の限られた投票権者から支持を集めなければならない一方、東京都知事選挙では東京都の有権者が一人の知事を直接選ぶ。政党内部で形成される多数と、有権者全体を対象とした直接選挙で形成される多数は、同じではない。

 東京都知事選挙では、党内の人事や派閥関係とは異なる条件の下で、候補者への評価が投票結果に反映される。ただし、直接選挙であっても政党組織や支持団体の影響がなくなるわけではなく、候補者個人への支持と組織的な支援が組み合わされることもある。2016年の選挙は、小池が異なる制度環境で支持を形成した事例として理解するのが適切である。

2017年の東京都議会議員選挙と二元代表制の問題

 2016年の知事就任後、小池を中心とする政治的な動きは東京都議会へ広がった。2017年の東京都議会議員選挙では、都民ファーストの会が公認候補49人を当選させて第一党となり、自民党は選挙前の57議席から23議席へ減少した。都民ファーストの会は選挙後の追加公認によって議席を増やしているが、選挙で獲得した公認議席数と、追加公認後の所属議員数は区別して考える必要がある。

 この結果は、2016年に知事候補者個人に集まった支持が、翌年には複数の都議会議員候補を当選させる政治勢力へと拡張されたことを示している。ただし、都民ファーストの会の候補者が獲得した票をすべて小池個人の人気によるものとみなすことはできない。各候補者の地域活動、選挙区の事情、他党への評価、政党組織による選挙運動なども関わっているためである。

 ここで注目したいのが、小池と都民ファーストの会の組織上の関係である。小池は2017年6月1日に同党代表へ就任したものの、7月2日の東京都議会議員選挙が終わると、翌3日に代表を退任する意向を表明した。代表として活動した期間は約1か月であり、本人は知事職に専念することや、二元代表制に関する懸念を考慮したことを説明している。

 二元代表制とは、地方自治体の首長と議会議員がそれぞれ住民から直接選出され、相互に独立した立場から行政運営とその監視を担う制度である。知事を支持する政治勢力が議会で多数の議席を持つことは、政策を実現するうえで協力関係を形成しやすくする一方、議会が行政を十分に監視できるかという問題も生じさせる。首長が政党代表を兼ねること自体が直ちに二元代表制に反するわけではないが、行政と議会の関係を評価する際には重要な論点となる。

 したがって、小池が都民ファーストの会代表を短期間で退任した行動は、選挙後の政治的な距離の取り方という側面だけでなく、地方自治制度の下での首長と議会の関係という視点からも検討する必要がある。

希望の党で明らかになった、個人の知名度と全国政党の組織運営の違い

 東京都議会議員選挙で都民ファーストの会が勢力を拡大した後、小池は2017年9月に国政政党「希望の党」を立ち上げた。東京都知事選挙と東京都議会議員選挙で形成された政治的な勢いを、国政へ広げる動きだったが、同年の衆議院議員選挙では期待されたほどの成果を得られなかった。

 民進党との合流をめぐる過程では、候補者の受け入れについて小池が「排除します」と発言したことが大きく報道された。しかし、希望の党の選挙結果をこの発言だけで説明することは適切ではない。民進党との候補者調整、政策的な違い、立憲民主党の結成、選挙までの準備期間、小池自身が衆議院議員選挙には立候補しなかったことなど、複数の要因が同時に存在していた。

 2017年の衆議院議員選挙で希望の党は50議席を獲得した一方、立憲民主党は選挙結果の当初集計で54議席を獲得し、野党第一党となった。希望の党が獲得した50議席という数字は、議席数だけを見れば決して小さなものではない。しかし、東京都で生まれた政治的な勢いが全国へ広がるという選挙前の期待と比較すると、その結果には限界があったと考えられる。

 東京都知事選挙では一人の候補者が東京都全域の有権者に支持を求めるのに対し、衆議院議員選挙では多数の選挙区で候補者を擁立し、地域組織や選挙運動を維持する必要がある。また、全国政党を継続的に運営するには、政策調整、候補者育成、資金管理、党内意思決定、地方組織との関係など、候補者個人の知名度だけでは代替できない機能が求められる。

 希望の党の経験は、個人の発信力や知名度を政治組織の支持へ転換する際に、組織運営上の制約が存在することを考える材料となる。ただし、希望の党が期待された成果を得られなかった原因のうち、組織基盤の弱さがどれほど影響したのかは、他の政党や過去の新党結成事例との比較なしには明確にできない。

失敗した後も政治活動を継続できた理由

 政治家の長期的な経歴を考える場合、選挙で勝つことだけでなく、敗北や政治的な失速の後にどのような地位を維持していたのかが重要になる。小池は2008年の自民党総裁選挙では敗れ、2009年の衆議院小選挙区でも落選したが、国会議員としての活動を継続した。また、2017年の希望の党の国政進出が失速した際には、すでに東京都知事としての公職を持っていた。

 ここには、長期的な政治活動を可能にする制度上の違いがある。2009年には比例代表制度によって国会議員としての議席が維持され、2017年には希望の党の選挙結果にかかわらず、東京都知事としての任期が継続していた。いずれの場合も、政治活動を続けるための制度的な地位が残されていたことになる。

 希望の党の国政進出が失速した後、小池は国政政党の立て直しに自らの政治活動を集中させるのではなく、東京都知事としての行政運営を中心に活動を続けた。この行動を、失敗した政治活動から撤退する判断だったと解釈することは可能だが、本人の動機を外部から確定することはできない。

 重要なのは、国政政党の党首としての活動と、東京都知事としての活動が、制度上は別の政治的地位に基づいていたことである。国政政党の選挙結果が期待を下回っても、知事としての職務や権限が直接失われるわけではない。この違いを考慮すると、小池の政治的な継続性は、本人の判断だけでなく、複数の制度的な環境を経験してきたこととも関係している。

2020年と2024年の都知事選挙が示した支持の変化

 小池は2020年の東京都知事選挙で366万1371票を獲得して再選し、2024年には291万8015票を獲得して3選を果たした。2016年の初当選から8年間で、選挙ごとの得票数には大きな変動があったが、2016年と2024年の得票数だけを見ると、その差は5387票と非常に小さい。

 2016年の291万2628票を基準に計算すると、2024年の得票数の増加率は約0.185%である。8年間で得票数がほぼ同じになったという事実は興味深いものの、これをそのまま支持の安定性と解釈することはできない。選挙のたびに投票率、対立候補、政治的争点、選挙に参加した有権者の構成が変わっているためである。

 有効投票に占める小池の得票率を見ると、2016年は44.49%、2020年は59.70%、2024年は42.77%だった。2016年と2024年の得票数はほぼ等しい一方、得票率は1.72ポイント低下している。また、東京都知事選挙全体の投票率も、2016年が59.73%、2020年が55.00%、2024年が60.62%と変化していた。

 さらに、選挙当日の有権者全体に対して小池の得票数が占める割合を計算すると、2016年が約26.28%、2020年が約32.43%、2024年が約25.71%となる。この指標は、有効投票に占める得票率とは異なり、投票しなかった有権者も分母に含めているため、各年における支持の規模を別の角度から確認できる。

 2020年には、2016年より約75万票多い得票を得ているが、この増加を行政実績に対する評価だけで説明することはできない。新型コロナウイルス感染症への対応が社会的な重要課題となっていたこと、現職候補者としての認知度、対立候補の構成、政党や支持団体の動向など、複数の条件が異なっていた。2024年の得票数の減少についても、行政実績への評価が低下した結果だと直ちに判断することはできない。

 なお、2016年と2024年の得票数がほぼ一致していても、その間に同じ約290万人が小池へ投票し続けたことを意味するわけではない。2016年に小池へ投票した有権者の一部が別の候補者へ移り、それと同程度の新たな支持が加わった可能性もあれば、投票参加者の変化や人口移動などが相殺された可能性もある。

 統計学では、集団全体の数値から個人の行動を推測してしまうことを、生態学的誤謬という。都知事選挙の得票数は各時点の集計結果であり、同じ有権者を継続的に追跡した調査ではない。そのため、固定支持層の規模や支持者の入れ替わりを確認するには、個人単位の継続調査などが必要になる。

 こうして見ると、3回の都知事選挙が示しているのは、政治情勢や投票環境が異なる中で、小池が3回とも当選に必要な得票を獲得したという事実である。その背景に固定的な支持基盤がどの程度存在したのか、また選挙ごとにどのような有権者が支持を加えたり離れたりしたのかは、選挙結果の集計値だけでは明らかにできない。

2024年の無所属出馬と、複数の政治組織による支援

 2016年と2024年を比較すると、小池を取り巻く政党との関係にも大きな違いがある。2016年には自民党東京都連との対立が選挙戦の特徴だったのに対し、2024年には無所属で立候補しながら、自由民主党、公明党、都民ファーストの会などから支援を受けていた。さらに、国民民主党東京都連も自主的な支援を決定し、連合東京も支持を表明している。

 ここで区別すべきなのは、選挙管理委員会に届け出た党派名と、実際に候補者を支援する政治組織との関係である。2024年の小池の党派は無所属だったが、無所属という表示は政党や政治団体から一切の支援を受けないことを意味しない。また、正式な推薦、自主的支援、政治団体による支持にはそれぞれ違いがあり、支援を表明した組織に関係する有権者が全員その候補者へ投票したことを意味するものでもない。

 2024年の共同通信社による出口調査では、自民党支持層の66%、無党派層の30%が小池へ投票したと報じられている。この数字は、異なる政党支持層や無党派層から得票していたことを示す材料になるが、出口調査は標本調査であり、調査対象者の構成や回答状況に伴う誤差も存在する。また、この割合だけでは、政党の支援が投票行動をどの程度変化させたのかは分からない。

 無所属という政治的位置には、特定政党の政策や党内事情から一定の距離を置けるという側面がある一方、支援政党との関係が有権者に認識されれば、その政党への評価が候補者自身への評価に影響する可能性もある。無所属であることが必ず有利に働くわけではなく、その効果は選挙環境や有権者の認識によって異なる。

 小池の場合、2016年には自民党東京都連と対立し、2024年には自民党側から支援を受けるという関係の変化が確認できる。この変化を政策理念の一貫性という観点から評価することも、選挙ごとの支援関係の再構築という観点から分析することもできるが、いずれにしても本人の動機と、実際に形成された政治的な協力関係は区別して考える必要がある。

2025年の東京都議会議員選挙が示した、地域政党の継続性

 小池が関わった政治組織の持続性を考える場合、希望の党の経験だけでは不十分である。国政政党としての希望の党は短期間で求心力を失った一方、地域政党としての都民ファーストの会は、その後も東京都議会で議席を維持している。

 都民ファーストの会の獲得議席数は、2017年の東京都議会議員選挙が49議席、2021年が31議席、2025年も31議席だった。2025年6月22日の選挙では再び第一党となり、2026年9月14日時点の東京都議会公式会派構成でも、都民ファーストの会東京都議団は31人となっている。

 この経過は、小池個人の影響力が強い政治勢力は短期間で衰退するという説明だけでは、都民ファーストの会の活動を十分に理解できないことを示している。2017年に小池が代表を退任した後も、同党は複数回の選挙で議席を獲得し、地域政党として活動を継続してきた。

 ただし、これによって都民ファーストの会が小池の政治的影響力から完全に自立したと証明できるわけでもない。小池との関係、都議会議員による地域活動、候補者の擁立、議会内での政策活動、政党としての意思決定などを確認しなければ、組織としての自立性を判断することは難しい。

 希望の党と都民ファーストの会の違いを考えるうえでは、国政政党と地域政党で必要とされる組織基盤が異なることも重要になる。国政政党は全国各地の選挙区で候補者を擁立し、国政全般に関わる政策を調整しなければならない。一方、地域政党は活動対象を一定の地域へ集中させることができ、地方議会での政策活動や地域ごとの支持関係を継続的に蓄積することが可能である。

 もっとも、全国規模の活動が必ず失敗し、地域への集中が必ず成功するということではない。希望の党と都民ファーストの会では、設立経緯、候補者の構成、活動範囲、選挙制度、政治的な争点が異なっている。両者の結果を比較することで、個人の知名度だけでは説明できない政治組織の条件を検討することができる。

政治家の長期的な生存は、本人の能力だけで決まるのか

 ここまでの経歴を整理すると、小池が長期間にわたって政治活動を続けてきた背景には、本人の政治的な判断だけでなく、複数の制度的、組織的な条件が存在していたことが分かる。

 1990年代には政党再編という外部環境があり、2005年には自民党の選挙戦略の下で選挙区を変更して当選した。2008年には自民党総裁選挙で党内の多数を獲得できなかったが、2009年には比例代表制度によって国会議員の地位を維持した。2016年には東京都知事の直接選挙で当選し、2017年には都民ファーストの会の勢力拡大と希望の党の国政進出を経験した。その後は東京都知事として再選を重ね、2024年には複数の政党や政治団体から支援を受けて3選を果たしている。

 こうした経歴を、知名度が高かったから、発信力があったから、政党を変えることができたからという一つの原因で説明することには無理がある。選挙制度、所属政党、地域組織、対立候補、現職としての立場などは、政治家が置かれる状況によって異なる影響を持つ。

 政治家の活動を分析する際には、個人の知名度、政策に関する経験、選挙区での支持、党内での人間関係、組織との協力関係などを別々の要素として考えることができる。さらに、これらの要素は相互に作用する可能性があり、例えば知名度が高くても候補者擁立や選挙運動の組織が十分でなければ、全国政党として議席を獲得することは難しくなる場合がある。

 ただし、政治家の長期的な生存を複数の能力の掛け算で説明する場合にも注意が必要である。どの能力をどのように測定するのか、それぞれの要素がどの程度重要なのか、要素同士がどのように影響し合うのかを確認しなければ、数理的な表現を用いても実証的な説明にはならない。

 さらに、小池のように長期的な政治活動を継続した人物だけを観察すると、生存者バイアスが生じるおそれがある。生存者バイアスとは、結果として活動を継続できた対象だけに注目することで、その人物に見られる特徴を成功要因として過大評価してしまう問題である。

 小池と同じ時期に政界へ進出し、複数の政党を経験した政治家、全国的な知名度を持ちながら選挙で議席を失った政治家、国政から地方政治へ活動の場を移した政治家などを比較しなければ、何が小池に固有の条件で、何が当時の政治環境に共通した条件だったのかを区別することは難しい。

 小池の政治経歴は、政治制度と個人の活動の関係を考える事例として有用だが、その事例だけから、長期的に政治家として生き残るための一般法則を導くことはできない。

「政治的に生き残る能力」と「政策を実現する能力」は同じではない

 ここまで小池の政治活動の継続性を見てきたが、長期間にわたって公職を維持していること自体が、政治家としての政策的な成果を証明するわけではない。選挙で支持を得る能力と、行政上の課題を解決する能力は異なるものであり、政党間の支援関係を調整する能力も、政策理念の一貫性を示すものではない。

 東京都知事としての行政実績を評価するのであれば、選挙結果とは別に、政策目標と実績、都民生活への影響、費用と効果を検証する必要がある。例えば、子育て支援、住宅政策、都市防災、高齢化対策、福祉、環境政策などについて、施策の導入前後で何が変化したのかを確認することが求められる。

 その際にも、政策の実施と社会指標の改善が同じ時期に起きたというだけでは、政策の効果が証明されたことにはならない。国の制度改正、景気変動、人口構成の変化、民間企業の行動、他の自治体で起きた変化などを考慮し、可能な限り政策そのものの寄与を分けて評価する必要がある。

 また、政治的な発信力についても、政策への関心を高めることと、政策の内容を正しく理解してもらうことは同じではない。短い言葉によって政治的な争点が明確になる場合がある一方、複雑な問題が過度に単純化されることもある。発信によって支持が増えたとしても、それだけで行政運営の適切さが確認できるわけではない。

 さらに、政党との関係を柔軟に変える行動については、政治環境への適応という評価と、理念的一貫性に疑問があるという評価の両方が考えられる。どちらの評価が適切かを検討するには、本人が掲げた政策、過去の発言、実際の政治判断、政策実現の状況などを比較しなければならない。

 小池の政治的な地位が長期間維持された理由を考えることと、その政治活動が東京都民や日本社会にどのような成果をもたらしたのかを評価することは、明確に分けるべき問題である。

東京都知事という「政治の中心」は、永田町と何が違うのか

 小池の政治経歴を考えるうえで、最後に注目したいのが、政治活動の中心を国政から東京都政へ移したことの意味である。

 国政では、衆議院議員や参議院議員として議席を獲得するだけでなく、政党の内部で政策決定や人事に関わり、場合によっては党首や首相を目指すという政治的な競争が存在する。特に自民党のような大規模政党では、党内で多数の支持を形成することが重要になる。

 一方、東京都知事は東京都民による直接選挙で選ばれ、地方自治制度に基づいて行政を統括する立場にある。東京都は人口1400万人規模の自治体であり、その予算規模、都市機能、経済活動は日本全体に対しても大きな意味を持つ。東京都知事の政策判断は東京都民の生活に直接影響するだけでなく、国の政策や他の自治体の制度設計に関する議論へ波及することもある。

 ただし、東京都知事が巨大な予算を扱う立場にあるからといって、予算や政策を単独で自由に決定できるわけではない。予算の議決、条例の制定、行政への監視などには東京都議会が関わり、国の法律や財政制度による制約も存在する。知事の権限は大きいものの、国政の権限とは性質が異なり、行政運営には議会や関係機関との調整が必要となる。

 2008年の自民党総裁選挙で46票を獲得した小池が、2016年の東京都知事選挙では291万2628票を獲得したという対比は、印象的な数字である。しかし、この二つの得票数を直接比較して政治的な能力の大小を判断することはできない。自民党総裁選挙と東京都知事選挙では、投票権者の範囲、投票方法、候補者の選出条件、選ばれる役職が根本的に異なっているからである。

 むしろ重要なのは、異なる政治制度の下では、政治家に求められる支持の形成方法も異なるということである。党内で多数を集める能力と、東京都全域の有権者から支持を得る能力には重なる部分もあるが、同じものではない。さらに、知事として再選を重ねるためには、初当選時の対立構図だけでなく、現職としての活動や支援組織との関係も選挙の判断材料となる。

 小池が国政から東京都政へ移ったことを、政治的な中心から周辺へ移動したと考える必要はない。一方で、東京都知事が国政の党首や首相と同じ政治的役割を担っているわけでもない。両者は異なる制度的な権限を持ち、政治的な影響力が生じる仕組みも異なっている。

 小池の経歴から読み取れるのは、一つの制度の中で常に多数を形成してきたのではなく、複数の政治制度を経験し、それぞれの環境の下で政治的な地位を確保してきたという事実である。

所属する場所が変わっても、政治的な地位を維持してきた理由

 小池百合子はなぜ、所属する場所を変えながら政治の中心に残り続けることができたのだろうか。その答えを、政党を移ることが巧みだったから、テレビで培った発信力があったから、あるいは選挙に強かったからという一つの説明にまとめることはできない。

 1990年代の政界再編という歴史的な環境、テレビキャスターとしての経歴、自由民主党での閣僚経験、2009年の比例復活を可能にした選挙制度、2016年の東京都知事への転身、2017年の地域政党と国政政党の展開、その後の知事としての再選など、それぞれの局面には異なる条件が存在していた。

 また、小池本人の政治活動と、所属政党や支援組織の役割を切り離すこともできない。大政党の内部では党内支持を形成する必要があり、衆議院選挙では政党の比例代表制度が議席維持に関わり、都知事選挙では一般有権者の支持と政治組織の支援が関係していた。地域政党の活動においても、個人の知名度だけでなく、候補者や議員による継続的な組織運営が必要となる。

 こうした経歴を「変節」と評価する立場もあれば、政治環境への「適応」と評価する立場もある。しかし、本人の動機を推測するだけでは、そのどちらが実態に近いのかを十分に説明することはできない。政治的な行動を評価するのであれば、当時利用できた選択肢、本人の政策的な立場、所属組織との関係、その後の選挙結果を具体的に比較する必要がある。

 そして、長期的な政治活動の継続性を理解するためには、成功した局面だけでなく、失敗した局面も同じように検証しなければならない。2008年の総裁選挙、2009年の小選挙区での敗北、2017年の希望の党の国政進出は、その意味で重要な事例となる。小池の政治経歴は、常に勝ち続けた歴史ではなく、異なる制度の下で敗北や政治的な失速を経験しながら、公職や政治組織との関係を通じて活動を継続してきた歴史でもある。

 この事実から、政治家の長期的な地位は、本人の知名度や発信力だけでなく、その政治家が置かれた制度、所属する組織、支援関係、選挙環境との組み合わせによって左右されるという仮説が導かれる。ただし、その中で何が最も重要だったのかを確定するには、同時代の政治家との比較や、選挙ごとの支持構造に関する追加の分析が必要である。

 小池百合子の政治経歴を単に「所属政党を何度も変えた政治家」と捉えるだけでは、こうした制度的な違いを見落としてしまう。一方、その行動をすべて卓越した政治的な適応力の結果として説明することも、個人の役割を過大評価するおそれがある。

 より正確に表現するなら、小池百合子は、政党再編、党内競争、国政選挙、東京都知事選挙、地域政党の活動という異なる政治環境を経験しながら、その時々の制度と組織の下で政治的な地位を形成し直してきた政治家だと言える。

 政治の中心は、必ずしも永田町の一か所に固定されているわけではない。国政の党内人事を左右する立場と、大都市の行政を担う立場では、政治的な影響力が生まれる仕組みが異なる。小池は、その異なる制度の中で活動を続け、国会議員から東京都知事へと政治活動の中心を移してきた。

 その歩みが示しているのは、政治家の地位を維持する条件が、本人の能力だけで完結しないということである。政治制度、政党組織、選挙環境、本人の政治的選択が相互に関わる中で、政治活動の継続が可能になってきた。

 小池百合子という政治家を理解するために重要なのは、所属する場所を変えた回数ではなく、それぞれの場所でどのような制度的条件と政治的な支持関係によって地位を維持してきたのかを検証することである。

 そして、その政治的な生存の仕組みを明らかにすることと、政治家として実現した政策や行政上の成果を評価することは、最後まで区別しなければならない。長く政治の中心に存在し続けたという事実は、それ自体が一つの研究対象となるが、そのことだけで政治的な成果の大きさや政策判断の適切さが決まるわけではないのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 石原慎太郎という人物を振り返るとき、最初に注意しなければならないことがある。彼は、作家をやめて政治家になった人ではない。文学によって社会的な名声を得た後、政治の世界へ進み、国会議員や東京都知事として活動する一方、生涯にわたって小説や評論を書き続けた人物である。

 一橋大学在学中の1955年、『太陽の季節』で文學界新人賞を受賞し、翌1956年には同作で芥川賞を受けた。戦後の若者の欲望や行動を描いた作品は大きな論争を呼び、「太陽族」という流行語を生み出すほどの社会現象になった。それから12年後の1968年、石原は参議院議員選挙に立候補して政界入りするが、文学活動を中断したわけではない。1970年には長編小説『化石の森』を刊行し、翌1971年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1988年には「生還」で平林たい子文学賞を受け、1995年に衆議院議員を辞職した後も、弟の石原裕次郎との関係を描いた『弟』などを発表している。

 さらに東京都知事に就任してからも、2001年の小説『僕は結婚しない』をはじめ、随筆や評論などの執筆活動を継続した。つまり石原慎太郎の人生は、文学から政治へ転身し、政治を引退して文学に戻ったという単純な経歴では説明できない。作家と政治家という二つの活動が長期間にわたって並行し、ときには互いに影響し合っていたと考える方が、その実像に近い。

 そう考えると、石原慎太郎を理解するための問いも変わってくる。なぜ文学者が政治家になったのかというだけでなく、文章によって十分な知名度と社会的影響力を獲得していた人物が、なぜ現実の政治権力を必要としたのか。そして長い国政経験を積みながら、なぜ東京都知事という職に二度も挑戦し、東京から日本を変えようとしたのか。これらを考えることによって、作家としての石原と政治家としての石原に、どのような連続性と相違点があったのかが見えてくる。

『太陽の季節』の青年と、後年の保守政治家

 晩年の石原慎太郎には、国家、安全保障、憲法、対米関係、中国との関係などについて強い言葉で発言する保守政治家という印象が残っている。既存の政治や官僚機構に対する批判を繰り返し、時には国内外で激しい論争を引き起こした人物でもあった。しかし、若いころから晩年と同じ政治的立場を一貫して保持していたと考えるのは正確ではない。

 1958年には、警察官職務執行法の改正に反対する文化人らの活動に関わり、「若い日本の会」に参加している。この活動には開高健、大江健三郎、江藤淳ら、後にそれぞれ異なる思想的立場を取ることになる若い知識人たちも参加していた。当時の活動を現在の政治的分類だけで理解することは難しいが、少なくとも石原が若い時代から国家権力や社会制度に対して独自の問題意識を持ち、既存の枠組みに異議を唱える活動に加わっていたことは確認できる。

 政治思想は社会情勢や個人の経験によって変化し得るものであり、若いころの立場と後年の立場が異なることだけをもって、政治的な一貫性の欠如を証明することはできない。一方、思想の変化を説明するには、その時代の政治環境や本人の発言を追う必要があり、初期の文学作品から後年の政治思想を直接導き出すことも適切ではない。

 それでも石原の文学作品を読むと、行動、肉体、競争、海、冒険、危険といった主題が繰り返し登場することに気づく。『太陽の季節』の登場人物たちは、既成の秩序に従って慎重に行動するというより、自らの欲望や衝動によって現実へ踏み込み、その結果として他者を傷つけ、自分自身も傷ついていく。もちろん、登場人物の性格と作者本人の人格は同一ではない。しかし、社会を傍観するよりも、何らかの行為によって既存の秩序に働きかける人間像が、石原の文学に重要な位置を占めていたことは指摘できる。

 後年の政治家・石原慎太郎にも、既存の制度や慣習を批判し、自ら行動して状況を変えようとする姿勢が見られた。ただし、文学作品の主題が政治家としての決断を直接生み出したと証明できるわけではない。両者に共通する特徴を読み取ることは可能だが、それは人物理解のための解釈であり、実証された因果関係とは区別すべきである。

ベトナム戦争の取材は、なぜ政界入りにつながったのか

 石原慎太郎は、なぜ政治家になったのかについて、後年の公式な場で繰り返し説明している。その中で重要な位置を占めるのが、1966年末から1967年にかけて行ったベトナム戦争の取材である。

 1995年4月14日、石原は衆議院本会議で議員辞職に際して演説し、かつて新聞社の特派員としてベトナム戦争を取材した経験を振り返った。そこで強く印象に残ったのは、戦争が進行しているにもかかわらず、当時のサイゴンの知識人たちが自国の政治や戦争に対して無関心で、冷笑的な態度を示しているように見えたことだったという。そして、その姿勢が日本の知識人の政治に対する態度と似ていると感じたことを語っている。

 2011年9月30日の東京都知事記者会見でも、石原はベトナムでの経験と政界入りの関係について同様の説明をしている。政治や戦争が社会に深刻な影響を与えているにもかかわらず、知識人が現実の政治から距離を置き、批評する立場にとどまっていることへの違和感が、政治参加を考える契機になったという趣旨である。

 この証言には、歴史資料として一定の重みがある。1995年の国会演説と2011年の知事会見という異なる時期に、本人がほぼ同じ経験を政界入りの理由として説明しているからである。ただし、どちらも1968年の政界入りから長い年月を経た後の回想であり、ベトナム体験だけが政治家になる唯一の原因だったと断定することはできない。

 当時の石原はすでに全国的な知名度を持つ作家であり、社会評論や文化活動を通じて政治的な問題にも関心を示していた。本人の思想的動機に加え、その知名度を選挙での支持へ転換し得る環境が存在していたことも、政界入りを理解するうえで無視できない。

 それでも本人の説明から読み取れるのは、社会について論じるだけでなく、現実の政治過程に参加する必要性を感じていたということである。作家は文章によって世論や価値観に影響を与えられるが、その立場だけで法律を制定したり、予算を決定したり、行政機構を動かしたりすることはできない。社会を描写し批評することと、公的な制度を通じて社会に働きかけることには、異なる権限と責任が存在する。

 1968年、石原は参議院議員選挙の全国区に立候補し、300万票を超える最高得票で当選した。この結果には作家としての知名度や発信力が有利に働いたと考えられるが、どの程度の票が文学的名声によって獲得されたのかを正確に測定することは難しい。それでも、作家として築いた社会的な知名度が、政治家としての出発点を支える重要な資源になったことは確かだろう。

国政の中枢に近づきながら、頂点には届かなかった

 石原慎太郎の政治経歴を、作家出身の著名人が一時的に政界へ進出した程度のものとして扱うことはできない。1972年には参議院から衆議院へ転じ、その後連続8回当選した。1976年には環境庁長官、1987年には運輸大臣に就任し、1989年には自由民主党総裁選挙にも立候補している。党内競争に参加し、行政の責任者も務めた経験を持つ、長期の国政政治家だった。

 一方で、自由民主党総裁になることも、内閣総理大臣になることもなかった。政治的な影響力を持ちながら、国政の最高権力を自らの立場で行使する機会には至らなかったのである。ただし、これを単純に国政での失敗と解釈するのも適切ではない。国会議員として政策形成に関与すること、閣僚として行政に責任を持つこと、政党の最高指導者になることは、それぞれ異なる政治的役割だからである。

 国会議員は国の立法に参加し、行政を監視し、政府の政策形成にも影響を与える。しかし、個々の議員が自らの意思だけで行政機構を動かせるわけではない。政策の実現には、政党内の調整、国会審議、予算手続き、官僚組織との協議、他党や関係団体との交渉など、多数の関係者による意思決定が必要になる。

 こうした制度は、政治家の行動を制限するだけのものではない。異なる利害を調整し、権力の集中を防ぎ、多様な国民の意見を政治へ反映するために設けられている。したがって、国会で思いどおりに政策を実行できないことは、民主政治の欠陥であるとは限らない。

 これに対して都道府県知事は、住民の直接選挙で選ばれる地方公共団体の長であり、地方自治法に基づく執行権限を持つ。予算案や条例案の提出、行政組織の指揮監督、政策の実施など、行政運営に直接関わる権限が与えられている。もちろん、議会による議決、法律による制約、監査、司法審査、国との権限分担などが存在するため、知事が自由にすべてを決められるわけではない。それでも、一人の国会議員と比較すれば、所管する行政組織を通じて自らの政策を具体化する機会は大きい。

 この違いは、石原が後に東京都知事として行った政策を理解するうえで重要である。ただし、本人が国会議員の権限に限界を感じたことだけを理由に都知事を選んだと断定する資料があるわけではない。国政と地方行政の制度的な違いは、あくまで石原の政治的選択を理解するための一つの説明要因である。

1975年の敗北と、1999年の再挑戦

 石原慎太郎と東京都知事という職の関係は、1999年に突然始まったわけではない。1975年、石原は東京都知事選挙に立候補し、現職の美濃部亮吉に挑戦している。社会党や共産党などの支援を受けた美濃部に対し、石原は世代交代などを訴えて戦ったが、選挙では敗れた。

 その後は国政の舞台へ戻り、衆議院議員として活動を続けた。環境庁長官や運輸大臣を歴任し、自由民主党総裁選挙にも挑戦したことを考えれば、1975年の敗北によって東京都への関心だけに政治活動を集中させたわけではない。それでも、東京を自らの政治活動の場として選ぼうとした経験が、1999年より24年も前に存在していたことは重要である。

 1995年、石原は衆議院議員を辞職した。その後は作家活動に比重を移し、弟の裕次郎との関係を描いた『弟』を発表するなど、再び文学の世界で注目を集めた。長年にわたる国政生活を終え、一度は政治活動から距離を置いたように見えたが、1999年には66歳で再び東京都知事選挙に立候補し、初当選を果たす。

 ただし、ここで重要なのは、1999年の立候補が最初から周到に計画された政治的復帰だったとは限らないことである。石原は2011年の記者会見で、1999年の都知事選挙について、当初は立候補するつもりがなかったと述べている。そのうえで、当時の有力候補者たちによる政策論争が介護問題などに偏っていると感じたこと、東京にはそれ以外にも重要な課題があると考えていたことを説明している。

 具体的には、国会議員時代から関心を持っていた横田基地の問題を挙げ、中央政府や関係機関が十分に動かないことへの不満も、立候補を決断する理由になったと語っている。横田基地をめぐる問題は国の外交・安全保障政策にも関係するため、東京都知事になれば独自の判断だけで解決できるものではない。しかし、首都東京の行政責任者という立場から中央政府へ働きかける政治的な影響力を期待した可能性はある。

 この本人の説明を踏まえると、1999年の立候補は、東京という巨大都市を使って日本を変えるという思想だけでなく、当時の候補者や政策論争に対する不満、具体的な行政課題への関心などが重なって決断されたものと理解する方が適切である。東京が持つ政治的可能性を以前から認識していたことと、1999年の立候補を当初から予定していたことは、区別して考えなければならない。

「東京から日本を変える」という政治構想

 1999年の東京都知事選挙で石原が掲げた中心的な考え方が、「東京から日本を変える」というものだった。この言葉は選挙用の標語としても機能したが、その後の都政を振り返ると、政策運営を理解するための重要な手掛かりにもなっている。

 石原は2011年の記者会見で、東京が文明工学的、社会工学的に重要な意味を持つ都市であり、さまざまな機能の集中と集積によって日本を動かす原動力になり得ると説明している。東京都は47都道府県の一つであり、行政区域としては23特別区だけでなく、多摩地域や島しょ地域も含む広域自治体である。一方、人口規模、企業集積、金融機関、大学、研究機関、文化産業、情報発信機能などの点で、国内の他の自治体とは異なる大きな影響力を持っている。

 東京に集まる人々や企業の経済活動は、行政区域の境界を越えて広がっている。東京都内で実施される規制や制度変更に企業が対応する過程で、全国の商品やサービスの仕様が変わることもあれば、周辺自治体が同様の政策を採用することもある。東京都の取り組みが社会的な注目を集め、中央政府による制度改正の議論につながる場合もある。

 このような現象は、東京都が他の自治体に対して法的な命令権を持つことを意味しない。むしろ、人口や市場、企業活動、行政機能の集積によって、東京都の政策が他地域にも影響するという経済的・社会的な波及効果である。人口規模や経済規模が大きいほど必ず政策が成功するわけではないが、東京には地域内の政策を全国的な課題へと発展させ得る条件が存在していた。

 石原の「東京から日本を変える」という発想は、この東京の特殊性を政治的に利用しようとする構想だったと解釈できる。国会や中央政府の内部だけから国の制度を変えるのではなく、東京都が先行して政策を実行し、その結果を社会へ示すことによって国や他の自治体へ影響を与える。こうした政治手法は、強い発信力を持つ石原の個性と相性がよかったと考えられる。

黒い煤を見せたディーゼル車規制

 石原都政の政策の中でも、政治的な発信と行政による実行が結びついた代表例が、ディーゼル車の排出ガス規制である。

 1990年代の首都圏では、自動車から排出される粒子状物質や窒素酸化物による大気汚染が大きな社会問題となっていた。東京都は1999年に「ディーゼル車NO作戦」を開始し、条例による規制を進めた。そして2003年10月には、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の一都三県で、一定の粒子状物質排出基準を満たさないディーゼルトラックやバスなどの走行規制が始まった。

 この政策を象徴する場面が、石原がペットボトルに入れた黒い煤を示し、大気汚染の問題を訴えたことである。排出ガスに含まれる粒子状物質の濃度や健康への影響は、科学的な数値だけでは一般の人々に伝わりにくい。しかし、黒い煤を透明な容器に入れて示せば、自動車の排出ガスがもたらす問題を視覚的に理解しやすくなる。石原は、複雑な政策課題から象徴的な場面を取り出して社会に提示することに長けていた。

 ただし、ディーゼル車規制は、ディーゼルエンジンそのものを一律に禁止した政策ではない。東京都の条例では乗用車は規制対象外であり、規制対象となるトラックやバスなどでも、排出基準に適合した車両や、認められた粒子状物質低減装置を装着した車両は走行可能だった。規制を実現するには、自動車メーカーによる技術開発、事業者による車両更新、燃料の品質改善、周辺県との連携など、複数の取り組みが必要だった。

 その効果については、後年の実証研究も存在する。2022年に公表された経済産業研究所の研究では、差の差分析と呼ばれる統計的手法などを用い、規制対象地域と比較対象地域の変化を分析した結果、ディーゼル車走行規制によって規制地域の浮遊状粒子状物質の大気中濃度が平均5.4%低下したと推定された。また、規制地域で生まれた子どもの出生時体重について、平均4.2グラムの増加に相当する効果も推定されている。

 これらは規制の有効性を裏付ける重要な研究結果である。ただし、統計モデルに基づく推定値であり、すべての地域や個人に同じ効果が発生したことを意味するものではない。差の差分析では、規制がなかった場合の地域間の変化について一定の仮定を置くため、分析結果の解釈には慎重さも必要である。それでも、排出規制が大気環境の改善に寄与したという評価には、科学的な根拠が存在する。

 ここで忘れてはならないのは、政策の実現が石原個人の決断だけによるものではなかったことである。東京都の行政職員、周辺県の行政機関、技術者、事業者など、多数の関係者による制度設計と実行が必要だった。政治家の発信が政策の推進力となったことと、実際の政策成果が行政組織や技術的対応によって実現したことは、分けて評価しなければならない。

 石原の政治的な特徴は、専門的な政策課題を社会の関心事として提示し、行政の行動を促すことにあったと考えられる。しかし、問題を分かりやすく説明することと、問題の本質を過度に単純化することの間には危険な境界も存在する。ディーゼル車規制は、その発信力が政策形成に有効に働いた事例として位置づけられるだろう。

新銀行東京は失敗だったのか

 石原都政の政策評価を考えるうえで、ディーゼル車規制と対照的に取り上げられることが多いのが、新銀行東京である。

 新銀行東京は、既存の金融機関から十分な融資を受けにくい中小企業などへの資金供給を目的として設立された。東京都は2004年に1,000億円を出資し、2005年に銀行が開業した。自治体が新たな金融機関を設立して中小企業の資金調達を支援しようとした点では、既存の制度だけに依存せず、東京都が自ら政策手段を用意するという石原都政の特徴が表れている。

 中小企業の資金調達には、経済学でいう情報の非対称性の問題がある。金融機関は融資先企業の将来の収益や返済能力を完全には把握できないため、貸倒れの危険を避けようとして、事業の将来性があっても十分な担保や実績を持たない企業への融資を抑える場合がある。こうした問題に対して、公的な信用保証や政策金融、自治体による支援を利用することには、一定の経済的な合理性がある。

 しかし、中小企業支援の必要性と、新しい銀行を設立することの合理性は同じではない。政策目的を実現する手段として、既存の金融機関との連携、信用保証、利子補給、直接的な補助制度などと比較したとき、自治体による銀行設立が最も効率的だったのかを検証する必要がある。銀行経営には信用リスク、資金調達コスト、営業経費、貸倒引当金、自己資本管理など、多くの専門的な課題が伴うため、政治的な意思だけで経営を成功させることはできない。

 新銀行東京は開業後に経営難へ陥り、2008年には累積損失が1,016億円に達した。東京都は同年、400億円の追加出資を決定し、その妥当性や経営責任をめぐって都議会で厳しい議論が続いた。当初の事業計画が過大だったことや、経営管理、信用リスクへの対応などに問題があったことも指摘されている。

 この経緯は、新銀行東京の当初の経営計画とリスク管理に重大な問題があったことを示している。石原自身は銀行設立を発案したことを認める一方、直接的な経営責任については実際に経営を担った旧経営陣の責任を重視する立場を取っていた。しかし、政策を発案した責任、出資者として監督する責任、銀行経営者として日々の業務を管理する責任は、それぞれ異なる。経営陣の責任を問うことと、公的資金を投じて銀行を設立するという政策判断の妥当性を検証することは、両立する問題である。

 一方、新銀行東京については、経営危機の時点だけで評価を終えることも正確ではない。銀行はその後、経営再建を進め、2018年には他の銀行との合併によってきらぼし銀行へ統合された。さらに、2026年5月25日には、東京きらぼしフィナンシャルグループが東京都保有の第二種優先株式を総額400億円で取得し、消却した。これにより、2008年の追加出資400億円については、その株式取得を通じた資金回収が完了した。

 ただし、追加出資分が回収されたことと、当初の1,000億円を含む政策全体が財政的に成功したことは同じではない。当初の銀行経営では多額の損失が発生しており、最初の出資に伴う損失と、後年に回収された追加出資分は区別して評価する必要がある。また、厳密な財政評価には資金を投入した時期、回収までの期間、資金の時間価値、配当や関連する行政費用なども考慮しなければならない。

 中小企業支援についても、一定の成果を示す記録がある。2024年の東京都議会では、2008年当時、赤字や債務超過となっていた融資先約5,600社について、経営統合時点でおおむね8割が融資を完済するか、事業継続に至ったとの都の説明が示された。しかし、これは支援を受けた企業のその後の状況を示す数値であり、新銀行東京の融資がなければ何社が倒産していたのかまで明らかにするものではない。政策の純粋な効果を測定するには、同じような経営状況にありながら支援を受けなかった企業との比較が必要になる。

 したがって、新銀行東京を単に「1,400億円を失った政策」と表現することも、反対に「400億円を回収したから成功した政策」と評価することも適切ではない。当初の経営計画に重大な問題があったこと、巨額の損失が発生したこと、追加出資が経営継続を支えたこと、後年に400億円が回収されたこと、中小企業への支援が一定程度継続されたことを、それぞれ区別して判断すべきである。

 新銀行東京の経験が示すのは、政治的な決断力と事業経営の持続可能性は異なるということである。行政が解決すべき問題を発見する能力と、金融機関を適切に経営する能力も同一ではない。公的な目的が正当であっても、政策手段の選択が合理的でなければ、社会全体に大きな負担が生じ得るのである。

ディーゼル規制と新銀行東京は、同じ政治手法の結果なのか

 ディーゼル車規制と新銀行東京には、既存の制度や中央政府の対応に限界を感じ、東京都が先行して政策を実行しようとしたという共通点がある。この意味では、両者を石原都政に特徴的な決断型の政治手法として比較することには一定の意義がある。

 しかし、政策の成果を比較する際には、それぞれの問題の構造が異なることに注意しなければならない。ディーゼル車規制は、大気汚染による健康被害や環境への負担という外部不経済に対して、行政が規制を設ける政策だった。一方、新銀行東京は、金融市場における情報の非対称性や中小企業の資金調達問題に対して、自治体が銀行経営に参加する政策だった。

 前者では排出基準、技術的な対応、規制の実施体制などが成果を大きく左右する。後者では融資審査、貸倒れの予測、組織運営、自己資本管理、収益構造などが事業の持続可能性を左右する。したがって、一方が一定の成果を収め、他方で巨額の損失が生じた理由を、政治家の個人的な性格だけに求めることはできない。

 石原の政治的な決断が政策の開始に影響した可能性は高い。しかし、その後の成果は制度設計、行政能力、企業の対応、経済環境、技術条件など、多数の要因によって左右される。政治的な発信力は政策を開始するためには有効でも、政策が長期的に成功するための十分条件ではないのである。

 この二つの政策を比較することによって見えてくるのは、強い政治的指導力の有効性と限界である。既存制度が対応できていない問題を可視化し、行政を動かすことには価値がある。しかし、政策手段の選択と実施段階では、専門的な検証、費用対効果の分析、リスク管理、議会による監視が欠かせない。石原都政の評価は、こうした複数の要素を分けて行う必要がある。

言葉によって政治を動かし、言葉によって批判された

 石原慎太郎の政治家としての特徴を語るうえで、言葉の問題は避けて通れない。作家として出発した石原は、政策課題を印象的な言葉に置き換え、既存の政治家が避けがちな問題についても強い表現を用いて発言した。その姿勢は支持者にとって、政治的な曖昧さを避け、自らの考えを明確に語る人物として魅力的に映った。一方で、その言葉が社会的な批判を引き起こすことも少なくなかった。

 代表的な例が、2000年の自衛隊の式典で用いられた「三国人」という表現である。この発言をめぐっては、外国籍住民などに対する差別的な意味合いを持つとして批判が起こり、東京都議会には撤回や謝罪を求める請願や陳情が提出された。当時の河野洋平外務大臣も、公職者がこうした言葉を不用意に使用すれば、傷ついたり名誉を損なわれたりしたと感じる人がいる可能性があるとして、慎重な使用を求める趣旨の見解を示している。

 石原側は、自らの発言の意図について説明し、差別を目的としたものではないという立場を示した。一方、問題となった発言をめぐる関連請願が東京都議会で不採択となった経緯もあり、社会的な批判と議会としての判断は必ずしも一致していない。しかし、発言の意図や議会の判断だけで、公職者の言葉が社会に与える影響をすべて評価できるわけではない。

 東京都知事は、政治思想、国籍、民族的背景、職業、所得、年齢、生活環境などが異なる多数の住民に対して行政責任を負う立場にある。政策上の意見が異なる住民や、自分を支持していない住民に対しても、公平に行政を運営する責務がある。この点で、作家として表現することと、公権力を担う政治家として発言することには決定的な違いが存在する。

 文学では、挑発的な表現や極端な人物造形を通じて、人間や社会の矛盾を描くことができる。読者を不快にさせる表現が、作品の意味を成立させることもある。しかし、行政の長が発する言葉には、政治的な意思表示だけでなく、公的機関の姿勢として受け止められる側面がある。したがって、表現の自由が保障されていることと、公職者としての発言が適切であることは、同じ問題ではない。

 石原は政治家になった後も、作家時代から持っていた強い表現方法を手放さなかった。それが既存の政治に不満を抱く人々の支持につながった可能性がある一方、特定の人々に対する偏見や排除を助長しかねないと批判された場面もあった。石原の言葉が持つ政治的な力と危うさは、同じ発信方法から生じていたと考えることができる。

尖閣諸島購入構想で、東京は国政へ働きかけた

 東京都を通じて国政に影響を与えようとする石原の姿勢が、特に鮮明に表れたのが2012年の尖閣諸島購入構想だった。

 2012年4月、石原は東京都による尖閣諸島の購入方針を表明した。東京都は寄付金の募集を開始し、14億円を超える寄付金が寄せられた。その後、日本政府は同年9月11日に魚釣島、北小島、南小島の三島を購入して国有化した。政府の説明でも、東京都による購入の動きが国有化に至る経緯の一つとして位置づけられている。

 この出来事は、地方自治体の長が国の外交・安全保障に関係する問題へ、政治的な影響を与えようとした事例である。ただし、東京都が土地の取得を構想することと、国家の外交権を行使することは同じではない。地方自治体による財産取得には、自治体の事務との関連性、公益性、財政上の手続きなどの制度的な検討が必要になる。国の外交や領土政策に関わる問題だからといって、自治体がそれに関連するすべての行動を禁止されるわけでもなければ、自治体が独自に外交政策を決定できるわけでもない。

 石原が東京都による購入を構想した背景には、国の対応が十分ではないという本人の政治的な認識があった。しかし、東京都による購入方針と日本政府による国有化の関係を考える際には、政府自身の政策判断、土地所有者との交渉、日本国内の政治状況、日中関係など、複数の要因を考慮する必要がある。

 尖閣諸島をめぐっては、それ以前から日本政府と中国政府の間で領有権に関する立場が対立していた。日本政府は領有権問題は存在しないとの立場を取る一方、中国政府は異なる主張を示しており、中国公船の活動や国内外の政治情勢も緊張に影響していた。したがって、国有化後の日中関係の悪化を石原一人の責任とすることは適切ではないが、東京都による購入構想が中央政府の判断を促した重要な要因の一つだったことも否定しにくい。

 ここにも「東京から日本を変える」という発想との共通性が見られる。中央政府の対応が不十分だと考えた問題について、東京都が先行して行動を示し、国政の判断に影響を与えようとするのである。ただし、この政治手法が適切だったかどうかは、国内政治への影響だけでなく、外交上の利益と費用、制度上の妥当性なども含めて評価しなければならない。

東京都民はなぜ石原慎太郎を選び続けたのか

 石原慎太郎は1999年に東京都知事に初当選し、2003年、2007年、2011年にも再選された。約13年半にわたり東京都政を率いた事実は、選挙を通じて継続的に政治的支持を獲得したことを示している。しかし、長期間当選したという事実だけで、東京都民が石原の政策や言動を全面的に支持していたと解釈することはできない。

 東京都選挙管理委員会の記録によると、石原の得票数は1999年が166万4,558票、2003年が308万7,190票、2007年が281万1,486票、2011年が261万5,120票だった。有効投票に占める得票率は、それぞれ約30.5%、70.2%、51.1%、43.4%である。2003年には得票数、得票率ともに大きく上昇しているが、その後の2回は低下している。

 この変化を理解するには、投票率と対立候補の構成も考慮する必要がある。例えば1999年の都知事選挙では有力候補者が多数立候補し、石原は有効投票の過半数を得たわけではなかった。一方、2003年の選挙では約70%という高い得票率を記録したが、投票率は44.94%であり、1999年の57.87%より低かった。つまり、得票率の高さをそのまま東京都の全有権者による支持の割合とみなすことはできない。

 また、知事選挙で投票する人々が、すべて同じ理由で候補者を選択しているわけでもない。政策実績を重視した有権者、政治的な発信力を評価した有権者、政党や既存政治に対する不満から投票した有権者、他の候補者との比較で選択した有権者など、動機は多様である。投票行動の理由を厳密に分析するには、選挙時点の世論調査や有権者調査などの資料が必要になる。

 石原の政治的な魅力として、政策を自ら決断し、分かりやすい言葉で社会へ訴える姿勢が評価された可能性はある。一方、その姿勢を独断的だと受け止めた有権者もいたと考えられる。しかし、どの要因が何票の獲得につながったかまで推定するには、現時点の選挙結果だけでは不十分である。

 したがって、石原が4回連続して都知事選挙に勝利したことは重要な政治的実績であるが、それを個々の政策への全面的な信任と同一視することはできない。選挙で勝つことは民主的な正統性を獲得するための基本条件である一方、選挙後の政策には議会の審議、情報公開、行政評価、司法による統制などが引き続き必要になるのである。

なぜ石原は2012年に東京都知事を辞めたのか

 石原慎太郎の政治経歴を考えるうえで、2012年の東京都知事辞職と国政復帰は極めて重要である。なぜなら、東京を政治的な中心舞台として活用してきた石原が、最終的にはその職を自ら離れ、再び国政に戻ったからである。

 2012年10月25日、石原は東京都知事を辞職する意向を表明し、国政への復帰を目指す考えを明らかにした。その後、新党結成や政党再編に関わり、同年12月の衆議院議員選挙では日本維新の会から比例東京ブロックに立候補して当選した。80歳になってからの国政復帰であり、石原の政治活動が東京都知事という職で完結したわけではなかったことを示している。

 この事実は、「東京こそ石原が最終的に選んだ政治の舞台だった」という解釈を修正する必要があることを意味する。東京都知事には大きな行政権限と発信力があるが、国の法律、憲法、外交、安全保障制度などを直接決定できるわけではない。石原が国政復帰を目指した背景には、東京都知事の立場から中央政府へ働きかけるだけでは実現できない政治的課題があると考えていたことも関係していたとみられる。

 一方、2012年の国政復帰が、東京都知事としての政治活動を否定するものだったと考える必要もない。東京都政で得た経験や政治的知名度を背景に、再び中央政治へ直接関与する道を選んだと理解することもできる。ただし、その選択の動機を一つに限定することは難しく、政党再編をめぐる当時の政治情勢や本人の国家観も含めて考える必要がある。

 その後、石原は2014年の衆議院議員選挙に次世代の党から立候補したが落選し、政界から退いた。作家として出発し、国会議員として長い活動を続け、東京都知事を4期務め、最後に再び国政へ戻って政治生活を終えたことになる。

 この経歴を通して見ると、石原にとって東京は単なる国政への代替手段ではなく、独自の権限と影響力を持つ重要な政治活動の場だったと考えられる。しかし、東京だけが政治的な最終目的だったわけではない。石原が強い関心を示し続けた対象には、東京の行政課題だけでなく、日本という国家のあり方そのものが存在していたのである。

なぜ東京は石原慎太郎に適した政治の舞台だったのか

 石原が東京都知事という職を重視した理由を考えると、東京の制度的な性格と、石原の政治的な発信方法が組み合わさっていたことが見えてくる。

 国政には国家全体の制度を決定する権限があるが、一人の国会議員が独自に行政を動かすことは難しい。一方、地方自治体の首長は行政の運営に直接関与できるものの、自治体の規模や政策分野によって、全国への影響力は限られる場合がある。東京都は、地方自治体として知事による行政運営の仕組みを持ちながら、日本最大の人口を有し、経済、金融、文化、情報の機能が集中するという特徴を備えている。

 そのため、東京都知事は行政の長であると同時に、全国的な政治的発信力を持つ立場にもなり得る。東京都が制度を導入すれば、その政策は企業活動や周辺自治体を通じて広がる可能性があり、中央政府との関係でも独自の意見を示すことができる。ただし、その影響力は東京の集積に由来するものであり、東京都知事が国政全体を指揮できるという意味ではない。

 石原は、このような東京の特徴を利用して、自らの政策構想を現実の行政行動へ結びつけようとした。政策課題を発見し、強い言葉によって問題を社会に提示し、行政組織を通じて具体的な行動を起こし、その結果を全国へ発信する。こうした政治の進め方は、作家として人々の関心を引く表現方法を磨いてきた石原の経験と、一定の共通性を持っていたと考えられる。

 ただし、共通性があることと、作家としての才能が政策成果を生み出したことは別である。政治的な発信力があっても行政が適切に機能するとは限らず、政策への注目が高まっても経済的な合理性が保証されるわけではない。東京都知事の強い発信が政策の実施を促す場合もあれば、過度な政治的対立や制度上の問題を生む可能性もある。

 石原にとって東京が魅力的だったのは、政策を実施する権限と、全国的な世論へ訴える機会を同時に持つ場所だったからではないだろうか。ただし、それは本人の行動や発言から導かれる合理的な解釈であり、すべての政治的選択を説明できる唯一の原因ではない。

作家としての資質は政治にどう影響したのか

 石原慎太郎の政治を振り返ると、「政治も彼にとって一つの作品だった」と表現したくなるかもしれない。しかし、文学作品と行政運営を同じものとして扱うことには慎重であるべきだろう。

 作家は、現実の出来事や人間の心理から題材を選び、人物や事件を配置し、作品の構成によって読者へ一定の世界を提示することができる。これに対して政治家は、自分とは異なる価値観や利害を持つ人々が暮らす現実社会の中で意思決定を行わなければならない。政治家がどれほど強い理念を持っていても、社会全体を自分の構想だけで動かすことはできないし、動かすべきでもない。

 石原が示した黒い煤のペットボトルや、「東京から日本を変える」という短い言葉には、複雑な問題を象徴的な場面に置き換える表現能力が見られる。多くの制度や統計を説明しなければ理解しにくい政策課題を、人々の記憶に残る形で社会へ提示することは、政治家にとって大きな能力である。

 一方、政治的な物語が強くなりすぎると、現実の複雑さが見失われる危険もある。大気汚染対策には技術的な検証が必要であり、金融政策には信用リスクの分析が必要である。外交問題には相手国の行動や国際関係の理解が必要であり、社会的な対立を生む言葉については、発言者の意図だけでなく、その言葉を受け取る人々への影響も考慮しなければならない。

 こうした制約は、政治家の行動力を妨げるだけのものではない。専門家の知見、行政手続き、議会の審議、情報公開、監査、司法による統制などを通じて、誤った判断や権限の濫用を防ぐための仕組みでもある。

 石原の政治には、既存制度の問題点を可視化し、行政を動かす力があったと評価できる場面がある。同時に、強い指導力が過度に個人へ集中した場合の危険や、政治的な意思と政策の実現可能性を混同する問題も見られた。これらを単純に長所と短所へ分類するのではなく、どのような制度的条件の下で有効に働き、どのような条件の下で問題を生んだのかを検討する必要がある。

文学と政治を同時に生きた石原慎太郎

 石原慎太郎の生涯を振り返ると、文学と政治は必ずしも交互に現れた活動ではなかった。1950年代には若い作家として戦後社会の価値観に衝撃を与え、1968年には国政へ進出しながら執筆活動を続けた。環境庁長官や運輸大臣を務め、自由民主党総裁選挙にも挑戦した後、1995年に国会を去ったが、1999年には東京都知事として政治へ復帰した。そして2012年には都知事を辞職して再び国会議員となり、2014年に政界を退いた後も、作家としての活動を続けた。

 この経歴を考えると、石原にとって文学と政治は、社会に働きかけるための異なる二つの方法だったと解釈することができる。文学では、自分の言葉によって世界を描き、人々の価値観に問題を投げかけることができた。政治では、自分が必要だと考える政策を、法律や予算、行政組織などの制度を通じて現実へ反映しようとした。

 ただし、この二つの活動には決定的な違いがある。文学作品では作者が表現の内容を決められるが、民主政治では政治家が社会のすべてを自分の意思で決めることはできない。行政権限は住民のために行使されるものであり、選挙による支持を得た政治家であっても、法律、議会、行政手続き、基本的人権などの制約を受ける。

 石原は、強い言葉によって社会の問題を提示し、自ら行動して現実を変えようとする姿勢を持ち続けた政治家だった。その姿勢は支持者から決断力として評価され、批判者からは独断的であると受け止められた。どちらか一方の評価だけで人物像を説明することは難しいが、政治的な魅力と危うさが、ときに共通する行動様式から生じていた可能性はある。

 そして東京は、そのような石原が自らの政治を実行するために、大きな可能性を見いだした場所だった。巨大な行政組織を率いることができ、企業や周辺自治体にも影響を与え、国政や外交にも関わる問題を社会へ提示できる。石原にとって東京都知事という職は、国会議員とは異なる経路から日本社会へ働きかけるための、有力な政治的手段だったと考えられる。

東京という巨大な舞台が示したもの

 石原慎太郎を称賛するだけなら、ディーゼル車規制のような政策成果や、都知事選挙で4回連続当選した実績を挙げればよい。一方、批判するだけなら、新銀行東京の巨額損失や問題発言、外交問題をめぐる政治的対立を取り上げることもできる。しかし、そのどちらかだけでは、石原が長期間にわたり東京都民の支持を獲得した理由も、同時に強い批判を受け続けた背景も十分には説明できない。

 石原の政治を理解するには、政策を前へ進める決断力と、専門的な検証を軽視しかねない危険を区別して考える必要がある。また、複雑な問題を分かりやすく示す発信力と、現実を単純化してしまう危険についても、同時に評価しなければならない。既存制度への挑戦が有効に働く場合もあれば、十分な制度設計やリスク管理がなければ、大きな社会的負担につながる場合もある。

 23歳で芥川賞を受賞し、若くして文学界の注目を集めた石原慎太郎は、その後も長く文章を書き続けた。同時に政治の世界へ入り、国政の中枢に近づき、二度目の挑戦で東京都知事となり、約13年半にわたって巨大な自治体を率いた。そして、80歳で再び国政へ戻るという選択をした。その生涯は、文学から政治への一方向の転身ではなく、言葉と政治権力という異なる手段を用いて社会に働きかけ続けた歩みとして捉えることができる。

 「東京から日本を変える」という言葉は、石原が東京都知事という職にどのような可能性を見いだしていたのかを象徴している。東京は一つの地方自治体でありながら、日本の人口、経済、文化、情報機能が集積する場所であり、そこでの政策が国全体に影響を与える可能性を持っていた。石原は、その条件を利用して、中央政府とは異なる立場から日本社会を動かそうとしたのである。

 石原慎太郎にとって東京は、自らの政治的な構想を描き、社会へ提示するための巨大な舞台だったのだろう。それを作家としての人生になぞらえるなら、東京は石原が見つけた巨大な原稿用紙だった、と表現することもできる。

 ただし、小説の原稿用紙と東京という現実の社会には、決定的な違いがある。小説では作者が人物の運命や物語の結末を決められるが、現実の東京には、政治的な立場も価値観も生活環境も異なる一千万人を超える人々が暮らしている。行政による決定は、政策に賛成する人々だけでなく、反対する人々の生活にも影響を与える。そのため政治には、個人の発想力や決断力だけでなく、制度的な制約と民主的な統制が必要になる。

 石原慎太郎という政治家を評価するとき、最後まで忘れてはならないのは、この違いである。政治家にとって都市は自由に書き換えられる作品ではなく、そこに暮らす人々が共有する社会である。石原の東京都政は、強い発信力と政治的指導力が社会を動かす可能性を示すと同時に、それらの力が民主政治の制度や専門的な検証によって支えられなければならないことも示したのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る