地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

政治家の経歴を一本の線として眺めたとき、小池百合子ほど、その線が何度も違う方向へ曲がりながら途切れなかった人物は珍しい。

日本新党から国政へ入り、新進党、自由党、保守党を経て自由民主党へ移った。その自由民主党では環境大臣、防衛大臣、党総務会長まで務めながら、2016年には党東京都連の推薦を受けずに東京都知事選挙へ立候補する。翌年には自民党を離れ、地域政党「都民ファーストの会」の代表となり、さらに国政政党「希望の党」を立ち上げた。しかし、その国政進出が期待したほどの成果を上げられなくなると、再び東京都政を自らの政治活動の中心に据えた。

それだけを追えば、「政党を渡り歩いてきた政治家」という評価が生まれるのも理解できる。

けれども、この三十数年を単なる変節の歴史として読んでしまうと、一つの重要な事実を見落とす。

所属する場所は何度も変わったのに、小池百合子という政治家そのものは、政治的な存在感をほとんど失わなかったのである。

2026年現在、小池は東京都知事3期目にある。1992年に参議院議員として初当選してから、国政と東京都政を合わせて三十年以上、政治の第一線に立ち続けてきた。東京都の公式略歴を見ても、1992年の参議院初当選、1993年の衆議院転出、環境大臣、防衛大臣、自民党総務会長を経て、2016年、2020年、2024年と三度東京都知事に当選している。

なぜこれほど長く残ることができたのか。

その理由を考えていくと、「所属政党を変える能力」よりも、もっと重要なものが見えてくる。

小池百合子が繰り返してきたのは、単なる移籍ではない。政治環境が変わるたびに、自分の知名度、発信力、組織との距離、そして選挙制度の特徴を組み合わせ直し、自らが政治的に有効でいられる場所をつくり直すことだった。

「政界渡り鳥」という言葉では、1990年代を説明できない

小池が政治家になったのは1992年である。細川護熙が率いる日本新党から参議院選挙に立候補して初当選し、翌1993年には衆議院へ転じた。

その後の所属は、日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と変わっていく。確かに党名だけを並べれば多い。

しかし、ここで時計を現在から巻き戻しておかなければならない。

1990年代の日本政治は、現在のように主要政党の枠組みが比較的安定していた時代ではなかった。小池が最初に所属した日本新党は1994年に解党し、その流れから参加した新進党も1997年末に解党した。その後に加わった自由党も、2000年には連立政権への対応をめぐって分裂する。小池はその後、保守党を経て2002年に自由民主党へ入った。

つまり、小池の党籍変更をすべて同じ種類の行動として数えてしまうこと自体が危うい。

「自分の意思で安定した政党を離れた場合」と、「所属政党そのものが消滅した場合」と、「政党が分裂して所属先を選ばなければならなくなった場合」は、政治的な意味がまったく違うからである。

所属政党の数を数えて、その数が多いから理念が弱いと結論することはできない。党籍変更という観測された結果には、本人の選択だけではなく、1990年代の政界再編という外部環境が含まれている。

むしろ、この時代に政治家としての最初の十年を送ったことは、小池の後の政治行動を理解するうえで重要なのかもしれない。

日本新党も新進党も消えた。

昨日まで同じ党だった政治家が別々の党へ分かれ、昨日まで別々だった政治家が同じ党へ集まる。そんな政治を間近で経験すれば、政党という組織を永久不変の帰属先として見る感覚は生まれにくい。

これは小池本人がそう考えていたと証明できる話ではない。

ただ、少なくとも彼女の政治家としての出発点が、「党に入ればその党で政治人生を終える」という時代ではなかったことは確かである。

変わったのは思想より、政治活動の足場だった

もう一つ注意したいのは、小池が所属政党を変えるたびに、政策的立場まで正反対へ移動してきたわけではないという点である。

日本新党から新進党、自由党、保守党、自由民主党という大きな流れを見れば、政治改革や行政改革、市場を重視する政策、安全保障への積極姿勢などを持つ非社会党系の改革勢力から、次第に保守政治の中へ位置を定めていったと見る方が自然である。

もちろん、三十年以上の政治人生の中で政策上の変化がなかったという意味ではない。

政治家は社会状況によって政策判断を変えるし、政党間で政策そのものも変化する。

それでも、「所属政党が変わった」という事実と「基本的な政治的位置が毎回反転した」という評価は同じではない。

ここに小池政治の特徴が一つ見えてくる。

変化してきたのは、何を主張するかだけではなく、どこから主張するかだったのである。

テレビの経験が与えた「伝える政治」という武器

小池百合子を他の政治家と分ける特徴として、政界入りする以前からテレビの世界で広く知られていたことがある。

キャスターとして政治や経済を伝えてきた経験は、政策を作る能力とは別の能力を小池にもたらした。

複雑な問題を、短い言葉や映像で理解できる形に変換する能力である。

2003年に環境大臣となった小池は、地球温暖化対策の一環としてクールビズの推進役となった。

温室効果ガス、冷房温度、企業活動、エネルギー消費という話だけなら、多くの人にとって政策は遠い。しかし「夏の仕事ではネクタイを外して軽装する」と置き換えれば、政策が日常生活の行動になる。

政治課題そのものを単純化することと、政治課題を理解可能な形へ翻訳することは同じではない。

小池の強みは、後者にあった。

それがより鮮明に表れたのが、2005年の郵政選挙だった。

小泉純一郎首相は郵政民営化に反対した自民党議員を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。小池も兵庫から東京10区へ選挙区を移し、いわゆる「刺客候補」の一人として当選した。

この選挙では、郵政制度という本来複雑な政策が、「改革を進める側」と「改革に抵抗する側」という極めて分かりやすい対立構図へ変換された。

小池がそこから何を学んだのかを外部から断定することはできない。

しかし、その後の政治活動を見ると、政治課題を有権者が理解できる構図へ変える能力が、繰り返し重要な役割を果たしたことは確認できる。

自民党の中で見えた、知名度だけでは越えられない壁

自由民主党に入った後、小池は環境大臣、防衛大臣などを歴任し、党内でも地位を上げていった。

そして2008年、自民党総裁選挙へ立候補する。

結果は麻生太郎351票、与謝野馨66票、小池百合子46票、石原伸晃37票、石破茂25票だった。小池は5人中3位で、得票は全体のおよそ9%にとどまった。

この結果から、「なぜ46票しか取れなかったのか」という原因を一つに決めることはできない。

派閥、人間関係、当時の政局、候補者それぞれの党内基盤など、総裁選挙の結果には多くの要因が作用するからである。

しかし、少なくとも一つだけ確実に言えることがある。

全国的な知名度を持ち、閣僚経験があっても、それだけでは自民党総裁に選ばれるだけの党内支持を形成できなかったということである。

一般有権者からの知名度と、巨大政党の内部で頂点へ上がる力は同じではない。

テレビに強いことも、全国で顔を知られていることも、自民党国会議員や地方組織から多数の支持を集めることを自動的には意味しない。

小池の政治的な強みと、自民党総裁選挙という制度との間には、少なくとも2008年の段階では距離があった。

その後も小池は国政から退出したわけではない。衆議院議員として当選を続けた。

しかし2016年、その政治活動の舞台を大きく変える選択をする。

永田町とは異なる「中心」~東京都知事という選択

2016年の東京都知事選挙で、小池は自民党東京都連から推薦を受けないまま立候補した。

ここには正確な区別が必要である。

この時点で小池は自民党を正式に離党していたわけではない。離党届を提出したのは翌2017年6月1日で、小池自身が東京都の記者会見でその経緯を説明している。

したがって2016年の行動は、「自民党を辞めて自民党と戦った」というより、自民党籍を残したまま党東京都連の推薦を得ず、自民党側が支援する候補と争ったと表現する方が正確である。

政治的にはきわめて危険な選択だった。

大政党の正式な組織支援を受けられないことは、通常なら選挙で不利になる。

しかし小池は、その不利を別の意味へ読み替えることに成功した。

党組織に支援されていない候補ではなく、既存の都政や党組織に挑む候補として自らを位置づけたのである。

結果は鮮明だった。

小池は291万2628票を獲得し、自民党などが支援した増田寛也の179万3453票を大きく上回って初当選した。

ここで起きたことは、小池百合子という政治家を考えるうえで重要である。

政治では、客観的な条件そのものと同じくらい、その条件が有権者から何を意味するものとして受け取られるかが重要になる。

大政党の推薦を得られないことが「孤立」と解釈されれば弱点になる。

しかし「既存勢力から独立している」と解釈されれば、改革を期待する有権者には強みに変わる。

2016年の小池は、その意味の転換に成功した。

2017年、個人の人気が政党を動かし、そして限界も見せた

知事就任後、小池の政治的勢いは東京都議会へ広がった。

2017年東京都議会議員選挙では、小池が率いた都民ファーストの会が49議席を獲得して第1党となり、自民党は選挙前の57議席から23議席へ激減した。

これは興味深い現象だった。

2016年には一人の候補者に集まった支持が、翌年には複数の候補者を当選させる力へ転換されたからである。

個人ブランドが、短期間ではあっても政治組織のブランドへ拡張された。

そして小池は、さらに国政へ踏み出す。

2017年9月、希望の党を立ち上げた。

しかし、ここでは東京都知事選挙や都議会選挙と同じ展開にはならなかった。

民進党との合流をめぐる過程で、小池が候補者について「排除します」と発言したことは大きく報道され、それまで改革者として機能していた強い言葉が、今度は別の印象を与える結果となった。

ただし、希望の党の失速をこの一言だけで説明するのは適切ではない。

候補者調整、民進党との合流過程、政策上の違い、立憲民主党の急速な結成、小池自身が衆議院選挙に立候補しなかったことなど、複数の要因が同時に存在していたからである。

最終的に2017年衆議院選挙で希望の党は50議席を獲得したが、立憲民主党の54議席を下回り、野党第一党にはならなかった。

50議席は小政党として見れば決して小さな数字ではない。

しかし、選挙前に生まれていた「小池旋風が国政まで変えるのではないか」という期待との比較では、成功とは評価されなかった。

ここで小池政治の重要な限界が見えた。

東京都知事選挙では、一人の候補者の知名度、発信力、行政実績が大きな力になる。

しかし全国の多数の選挙区で候補者を擁立する国政政党には、地方組織、候補者育成、政策調整、党内統治、資金、継続的な人材供給が必要になる。

一人の政治家のブランドが極めて強くても、それだけで全国政党を短期間に完成させることは難しい。

希望の党の経験は、小池百合子の強さだけではなく、その強さが最も機能する政治空間の範囲まで示したのである。

勝ち続けたのではない。失敗した場所に居続けなかった

小池の長期的な政治生命を考えるとき、ここから先がむしろ興味深い。

政治家の能力というと、人は勝つ力を考える。

しかし三十年という時間で見れば、負けない政治家などほとんどいない。

重要になるのは、失敗した後に何をするかである。

希望の党の国政進出が失速した後、小池は国政で主導権を取り返そうとして政治資源を投入し続ける道を選ばなかった。

東京都知事としての活動へ軸足を戻した。

結果として、2020年東京都知事選挙では366万1371票を獲得して再選した。2016年より約75万票多い。

そして2024年には3選を目指した。

ここでは2016年とは政治的な景色が大きく変わっていた。

2016年には自民党東京都連と対立することが、小池の選挙戦の重要な構図だった。

ところが2024年には、小池は無所属で立候補しながら、自民党、公明党、都民ファーストの会などから支援を受けた。公明党は党として「自主的に支援する」と明確に表明している。

つまり、かつて対立することで政治的な力を生み出した組織と、後には協力関係を形成したのである。

これを「一貫性がない」と見ることもできる。

しかし選挙戦略という観点から見ると、別の構造が見えてくる。

小池は、一つの政党との永続的な対立を自らの政治的アイデンティティーにはしなかった。

必要なときには距離を取り、別の局面では協力する。

固定された敵と味方を持つというより、その選挙、その政策、その時点の政治状況によって支援連合を再構築する。

その柔軟性が、小池の政治生命を長くしている可能性は高い。

三つの都知事選挙の数字が示すもの

ここで感覚的な評価から少し離れ、実際の票数を見てみると興味深い。

小池の東京都知事選挙での得票は、2016年が291万2628票、2020年が366万1371票、2024年が291万8015票である。

2016年から2024年まで8年が経過している。

対立候補も違う。政治情勢も違う。投票に参加した有権者も同じではない。

それにもかかわらず、2016年と2024年の小池の得票差はわずか5387票だった。

2016年の得票を基準にすれば、差は約0.18%にすぎない。

もちろん、この数字から「小池には290万人の固定支持者がいる」と結論することはできない。

2016年に小池へ投票した人と2024年に投票した人が同じであることを示すデータは存在しないからである。

むしろ注目すべきなのは、異なる政治状況の下でも、最終的に約290万票規模の支持を二度形成できたという事実である。

さらに2020年には、その水準を約75万票上回る366万票を獲得した。

この推移は、小池支持を一つの固定集団だけで説明するより、一定の支持基盤に、その時々の選挙環境によって異なる層が加わったり離れたりすると考えた方が自然である。

2024年の共同通信の出口調査でも、自民党支持層の66%が小池へ投票した一方、無党派層でも30%が小池を選んでいる。

つまり小池の強みは、一種類の支持者だけを固めることよりも、性質の異なる支持層を同じ選挙で重ね合わせられるところにある。

無所属なのに孤立しないという政治的位置

一般的な政治家は、所属政党から多くの政治資源を受け取る。

政党名による信用、地方組織、選挙運動、政策スタッフ、資金、支持団体である。

その代わり、政治家自身も党の政策、人事、内部秩序に拘束される。

小池の場合、この関係が少し異なっている。

2024年東京都知事選挙での党派は「無所属」だった。東京都選挙管理委員会の公式結果にもそのように記録されている。

しかし、無所属だから政治組織と無関係だったわけではない。

自民党や公明党、都民ファーストの会などから組織的な支援を受けている。

ここで重要なのは、「無所属」と「無組織」が同義ではないことである。

小池は政党に完全に包摂される位置から離れながら、政党組織の支援を排除しているわけでもない。

この中間的な位置は、政治家にとって強い。

党の不人気がそのまま本人の評価になる危険を一定程度避けながら、必要な選挙協力は得ることができるからである。

もちろん誰でも同じことができるわけではない。

政党側から見て支援する価値があるだけの知名度や当選可能性を持つ政治家だから成立する関係でもある。

小池百合子の政治的自立とは、組織を必要としないことではない。

一つの組織だけに政治生命を預けなくても、複数の組織と関係を結べることなのである。

政治的生存を一つの能力で説明しない

三十年以上にわたって政治の第一線に残る現象を、「メディア戦略がうまいから」「選挙に強いから」「政党を渡り歩いたから」と、一つの理由だけで説明するのは無理がある。

長期的な政治的生存には、いくつもの条件が必要になる。

全国的な知名度があっても、選挙に勝てなければ議席は得られない。

選挙に強くても、行政能力への評価を失えば現職として再選を重ねることは難しい。

政策を持っていても、それを有権者へ伝える能力がなければ支持につながりにくい。

個人人気が高くても、必要な場面で政党や議会と協力できなければ行政運営は行き詰まる。

逆に巨大な政党組織だけに依存していれば、その党内で地位を失った瞬間に政治生命そのものが弱くなる。

小池はこれらの要素を、すべて最高水準で持っていると断定する必要はない。

重要なのは、一つが突出しているのではなく、知名度、発信力、選挙適応力、行政経験、組織との接続力が同時に一定水準を超えていることである。

政治家の長期生存は、足し算というより掛け算に近い。

どれか一つが極端に弱ければ、ほかの能力だけでは補えない。

小池百合子という政治家の珍しさは、その組み合わせを三十年以上維持し、政治環境に応じて比重を変えてきたところにある。

ただし、「生き残る能力」と「政治的成果」は同じではない

ここまで小池の政治的生存力を見てくると、一つ注意しなければならないことがある。

政治家として長く残ること自体が、政治家として高く評価されることを意味するわけではない。

選挙に勝つ能力と、良い政策を実現する能力は異なる。

政党間の距離を柔軟に調整する能力と、理念的一貫性も同じではない。

さらに個人のブランドによって作られた政治勢力には、その本人がいなくなった後も制度や組織を残せるのかという問題がある。

2017年の希望の党が短期間で求心力を失った経験は、この弱点を示している。

強い個人を中心に形成された政治勢力は、選挙では急速に拡大できる。

しかし、その個人の人気を党組織、政策体系、次世代の政治家へ転換できなければ、継続的な政治勢力にはなりにくい。

この点で、小池百合子自身の政治的成功と、小池が作った政治組織の持続性は別に評価する必要がある。

もう一つは、政治的な居場所を柔軟に変える姿勢が、「理念より勝てる場所を優先しているのではないか」という批判につながりやすいことである。

この評価についても、外部から本人の動機を断定することはできない。

実際に確認できるのは、小池が複数の政党を経験し、自民党内部で総裁選に挑戦し、東京都知事へ転じ、地域政党と国政政党を設立し、国政進出の失速後には東京都政を再び中心に据えたという行動の軌跡である。

その軌跡を「変節」と評価するか、「適応」と評価するかは、政治を見る立場によって変わる。

だからこそ人物評ではなく、構造を見る必要がある。

所属する場所を変えたのではなく、「政治の中心」の定義を変えた

小池百合子はなぜ、所属する場所を変えながら政治の中心に残り続けることができたのか。

一つの答えだけでは足りない。

1990年代の激しい政党再編の中で政治家として出発したこと。

テレビキャスターの経験から、複雑な政治を有権者が理解できる言葉へ変換する力を持っていたこと。

自由民主党という巨大組織の資源を利用しながらも、政治生命そのものを党内地位だけに依存しなかったこと。

自分の強みが生きにくい政治空間に固執せず、東京都知事という別の巨大な政治空間へ移ったこと。

そして失敗した局面があっても、その失敗した場所で消耗し続けず、自分が再び多数を形成できる場所へ政治活動の重心を戻したこと。

これらが重なっている。

ここまで考えると、小池百合子を単に「所属政党を変えてきた政治家」と呼ぶことが、急に狭い見方に思えてくる。

国会議員から東京都知事へ移ることを、国政の中央から地方政治へ降りたと考えることもできる。

しかし東京都は人口1400万人規模を抱え、日本最大の自治体予算を動かし、その知事の政策や発言は全国ニュースになる。

東京都知事になることは、必ずしも政治の周辺へ移ることではない。

むしろ小池にとっては、自民党内部で多数の国会議員から支持を集めなければ頂点へ行けない世界から、東京都民が直接一人の知事を選ぶ世界へ舞台を変えることだった。

2008年の自民党総裁選挙では46票だった政治家が、8年後の東京都知事選挙では291万票を得た。

もちろん二つの選挙は制度も有権者も違うから、数字そのものを単純比較することはできない。

しかし、この違いこそ重要なのである。

政治家の力は、本人だけで決まるのではない。

その能力と、その能力が使われる制度との組み合わせによって決まる。

小池百合子は、どの制度の中でも最強だった政治家ではない。

2008年の自民党総裁選挙と2017年の希望の党は、そのことを示している。

しかし、自分の強みが生きる制度を見つけ、その場所で政治的な支持を再構築する能力については、戦後日本の政治家の中でも際立っている。

政治の中心とは、永田町の一か所に固定されているわけではない。

人々の関心が集まり、大きな予算と行政権限を持ち、政党の選挙戦略にまで影響を及ぼす場所もまた、政治の中心になり得る。

小池百合子は、中心から外れそうになるたびに同じ場所へ戻ってきた政治家ではない。

三十年以上の軌跡を見るかぎり、むしろこう表現した方が近いだろう。

所属する場所が変わっても、自分が政治的に意味を持てる場所を探し、その場所を新しい「中心」に変えてきた政治家なのである。

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石原慎太郎という人物を振り返るとき、最初に注意しなければならないことがある。彼は、作家をやめて政治家になった人ではない。

一橋大学在学中の1955年、『太陽の季節』で文学界新人賞を受賞し、翌1956年には同作で芥川賞を受けた。作品が描いた戦後の若者像は大きな論争を呼び、「太陽族」という言葉まで生み出した。それから12年後の1968年、石原は参議院議員選挙に立候補して政治の世界へ入るが、その後も小説を書くことをやめなかった。国会議員になった後の1970年には長編『化石の森』を刊行し、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞している。1988年には「生還」で平林たい子文学賞を受け、1995年に衆議院議員を辞職した後には弟・石原裕次郎との関係を描いた『弟』を発表した。さらに東京都知事になってからも、小説や随筆を発表し続けている。

したがって、石原慎太郎の人生を「文学から政治への転身」とだけ捉えると、重要な部分を見失う。

彼は作家であることをやめて政治家になったのではなく、作家として言葉によって社会に働きかけながら、政治という別の方法でも社会へ働きかけるようになった。文学と政治は交代したのではなく、長い期間にわたって並行していたのである。

そう考えると、石原慎太郎という人物を理解するための問いも少し変わってくる。

なぜ作家が政治家になったのか、だけではない。

なぜ文章によって十分な名声を得ていた人物が、なお現実の政治権力を必要としたのか。そして長い国政経験の末に、なぜ東京都という都市を自らの政治の中心舞台に選んだのか。

その二つを追っていくと、作家・石原慎太郎と政治家・石原慎太郎は、意外なほど近いところでつながっている。

『太陽の季節』の青年と、後年の政治家は同じではない

晩年の石原慎太郎を知る人にとって、彼には強硬な保守政治家という印象が残っているかもしれない。国家、安全保障、憲法、中国、米国との関係について強い言葉で発言し、時には激しい批判を受けた人物でもある。

しかし、若いころから同じ政治思想を一直線に持っていたわけではない。

1950年代末には、警察官職務執行法改正に反対した文化人グループ「若い日本の会」に参加している。そこには開高健、大江健三郎、江藤淳ら当時の若い知識人が集まっていた。後年の石原の政治姿勢だけから振り返れば、多少意外に見える経歴である。

もっとも、人間の政治思想が数十年間まったく変化しない方が珍しい。若い時代の立場と後年の立場が違うこと自体を、ただ「変節」と呼んでも石原慎太郎という人物は理解できない。

むしろ、思想の内容が変わっても残り続けたものを見る必要がある。

その一つが、傍観者であることに対する強い違和感だったのではないだろうか。

『太陽の季節』に描かれた若者たちは、慎重に社会を観察し、その中で穏やかに折り合いをつけて生きる人物ではない。既成の道徳や秩序から距離を取り、自ら行動し、その結果として他者を傷つけ、自分自身も傷ついていく。

もちろん、小説の登場人物を作者本人と同一視することはできないし、小説から政治思想を直接導き出すべきでもない。それでも石原の作品世界に、行為、肉体、競争、海、冒険、危険といった主題が繰り返し現れることは確かである。

世界について考えるだけではなく、その世界の中へ自分から踏み込んでいく。

後年の政治家・石原慎太郎にも、この性質はかなり色濃く残っていた。

政治家になろうと決めたベトナムでの経験

石原自身は、なぜ政治家になったのかについて後年かなり具体的に語っている。

1960年代、石原はベトナム戦争を現地で経験した。2011年の東京都知事記者会見で当時を振り返った石原は、サイゴンの知識人たちと話しているうちに、戦争という深刻な問題が身近で進行しているにもかかわらず、知識人ほどそこから距離を置こうとしているように感じたと説明している。

そして、その姿が当時の日本の知識人にも似ていると考え、「この国は危なくなるのではないか」と心配し、政治家になろうと決心したという。

これは重要な証言だが、扱いには少し注意が必要である。

2011年になって本人が40年以上前を振り返った回想であり、ベトナム戦争だけが政界入りの唯一の原因だったと断定することまではできない。当時の石原はすでに著名作家であり、社会評論や文化活動にも関わっていた。本人の思想的関心だけでなく、高い知名度を政治的資源へ転換できる環境も整っていた。

それでも、本人が政界入りの契機としてベトナム体験を語っていることには意味がある。

そこに表れているのは、「知識人が論評しているだけでは現実は変わらない」という感覚だからである。

作家は社会について書くことができる。しかし、法律をつくることも予算を執行することもできない。

言葉によって社会を描くことと、政治権力によって社会の仕組みそのものを変えること。その二つの間にある距離を、石原は強く意識するようになったのかもしれない。

1968年、石原は参議院議員選挙の全国区に出馬し、300万票を超える最高得票で当選した。

この結果には当然、作家としての知名度が作用している。

つまり政治家・石原慎太郎の出発点には、すでに作家・石原慎太郎がいたのである。

文学と政治はここで切断されたのではない。文学によって築いた社会的知名度と言葉の力が、選挙によって政治的な力へ変換されたと考える方が実態に近い。

国政の中枢には近づいたが、その頂点には届かなかった

石原の国政経歴は決して短くない。

1972年には参議院から衆議院へ移り、その後連続8回当選した。環境庁長官、運輸大臣を務め、1989年には自由民主党総裁選挙にも立候補している。単なる「作家出身のタレント議員」として政治生活を終えた人物ではない。

一方で、首相になることも、自由民主党総裁になることもなかった。

ここを「国会では主人公になれなかった」と評してしまうと、石原の長い国政経歴を過小評価することになる。それよりも重要なのは、国会議員と東京都知事では政治家として持つ権限の性質が大きく異なるという点だろう。

一人の国会議員には、自分だけの判断で行政組織を動かす権限はない。与党政治家であっても、党内調整、国会審議、官僚組織、予算、他党との関係などを通じて政策を実現していかなければならない。

これは政治家の自由を妨げるだけの仕組みではない。異なる意見を調整し、権力を一人に集中させないための民主政治の制度でもある。

これに対して都道府県知事は、住民による直接選挙で選ばれ、地方公共団体の執行機関の長として行政組織を率いる。もちろん議会の議決や法律による制約を受けるため、知事が何でも自由に決められるわけではない。それでも、一議員と比較すれば政策課題を設定し、予算案や条例案を提出し、行政組織を通じて政策を実施していく能力ははるかに大きい。

この制度上の違いは、後の石原都政を理解するうえで重要である。

1975年、石原は一度東京に敗れている

石原と東京都知事という職の関係は、1999年に突然始まったものではない。

1975年、石原は東京都知事選挙に出馬している。

当時の現職は美濃部亮吉だった。社会党や共産党などの支援を受けた美濃部に対して、石原は世代交代を訴えて戦ったが敗れた。

その後、石原は国政へ戻り、二十年間にわたって衆議院議員を続ける。

1995年には突然、衆議院議員を辞職した。

その後は作家活動に比重を戻し、弟・裕次郎との関係を描いた『弟』などを発表する。一度は政治生活を終えたかに見えた。

ところが四年後の1999年、石原は再び東京都知事選挙に立候補する。

このとき石原は66歳だった。

東京都知事として政治の世界へ戻った石原は、その後2012年まで約13年半にわたって都政を率いることになる。

なぜ、再び東京だったのか。

ここに石原慎太郎という政治家の特徴を読み解く鍵がある。

「東京から日本を変える」という発想

石原は後年、1999年の都知事選に出馬した理由について、東京を「文明工学的に、社会工学的に大事な意味合い」を持つ都市だと考えていたと説明している。

そして掲げたのが、「東京から日本を変える」という考えだった。

この言葉は、単なる選挙用の標語として片づけない方がよい。

石原都政を通して見ると、この発想がその後も繰り返し現れるからである。

東京は日本の47都道府県の一つである。しかしその人口、企業集積、税収、大学、情報機関、金融機関、文化産業、官公庁の集中度を考えれば、他の自治体とは異なる影響力を持っている。

東京都が新しい政策を実施すれば、その影響は都内だけにとどまらない。

事業者が東京市場に対応するため全国の商品やサービスを変更することもある。周辺県が同様の制度を採用することもある。東京都の政策が国の制度変更を促す場合もある。

石原は、この東京の特殊性を政治的な力として利用しようとした。

国会の中から国を変えるのではなく、東京という巨大都市を動かすことによって国を動かす。

それが「東京から日本を変える」という言葉の実質だった。

そしてこの方法は、作家時代から一貫していた石原の発信力と非常に相性がよかった。

黒い煤を見せるという政治

石原都政を象徴する政策の一つが、ディーゼル車の排出ガス規制である。

当時、東京では自動車から排出される粒子状物質などによる大気汚染が大きな問題となっていた。東京都は1999年に「ディーゼル車NO作戦」を開始し、条例による規制へ進む。2003年10月からは東京都を含む一都三県で、一定の粒子状物質排出基準を満たさないディーゼルトラックやバスなどの走行が規制された。

この政策で記憶されているのが、石原がペットボトルに入れた黒い煤を示した場面である。

大気汚染は目に見えにくい。

「粒子状物質の排出量」と説明しても、多くの人にとって実感しにくい。

しかし透明な容器の中に黒い煤を入れて見せれば、問題は一瞬で視覚化される。

ここには作家としての石原慎太郎と政治家としての石原慎太郎が重なって見える。

複雑な問題から象徴的な場面を一つ取り出し、人々が理解できる物語に変えて提示するのである。

ただし、政治における分かりやすさには危険もある。

ディーゼル車問題は、「ディーゼルエンジンは悪い」という単純な問題ではない。規制対象となる車種や排出基準、粒子状物質低減装置、低硫黄軽油への転換、事業者が負担する車両更新費用など、多くの要素から成り立っていた。東京都の規制でも乗用車は対象外で、一定の基準を満たした車両は走行可能だった。

政治家には複雑な問題を国民に理解できる形で説明する能力が必要である。

しかし分かりやすくすることと、単純化することの間には細い境界がある。

石原慎太郎の政治は、その境界の上を歩くことが多かった。

成功した「突破」と失敗した「突破」

東京から日本を変えるという政治手法が一定の成果につながった政策がある一方、同じような決断型の政治が問題を生んだ例もある。

その代表が新銀行東京である。

石原都政は、既存の金融機関から十分な融資を受けにくい中小企業への資金供給などを目的として、新しい銀行の設立を進めた。

政策の目的それ自体には理解できる部分があった。

中小企業が資金調達に困っているのであれば、東京という巨大な自治体が新しい金融の仕組みをつくる。これもまた、「国や既存制度ができないなら東京がやる」という石原都政らしい発想だった。

しかし、銀行経営は政治的意思だけで成立するものではない。

融資には信用リスクがあり、預金を集め、審査を行い、適切な金利を設定し、不良債権を抑えながら収益を確保しなければならない。

新銀行東京は経営難に陥り、東京都は設立時の1000億円に加えて、2008年に400億円を追加出資することになった。都議会では、事業計画そのものに無理があったのではないかという批判や、東京都および石原知事の政治的責任を問う議論が続いた。

一方で、石原の説明も書いておく必要がある。

石原自身は新銀行東京を発案したのは自分だと認めながら、経営危機の直接的な責任については、実際の経営を担った旧経営陣にまずあるとの立場を取っていた。そのうえで取締役会や株主である東京都にもそれぞれの責任があるという整理を示している。

この問題を「石原が1400億円を失敗した」とだけ書けば正確ではないし、反対に「経営陣だけの責任だった」としても問題の全体像は見えない。

重要なのは、政策の発案責任と企業の日常的な経営責任を区別しながら、公的資金を用いて自治体が銀行を設立するという政策判断そのものが妥当だったのかを検証することである。

そして、ここには石原政治の一つの限界が表れている。

政治家が強い意志を持って制度を突破することと、事業が経済的に持続可能であることは同じではない。

ディーゼル規制では「東京が先に動く」ことが制度革新につながった。

新銀行東京では、同じ「東京が自分でやる」という発想が大きな財政リスクを生んだ。

成功と失敗は別々の人物から生まれたのではない。

同じ政治手法の表と裏だったのである。

石原慎太郎は、言葉によって政治をした

石原慎太郎ほど、言葉そのものが政治的評価に直結した東京都知事も珍しい。

支持者から見れば、既成の政治家が避ける問題をはっきり語る人物だった。

しかしその言葉は、しばしば社会的な批判も引き起こした。

2000年には、自衛隊の式典で「三国人」という言葉を用いた発言が問題となった。東京都議会には撤回や謝罪を求める請願や陳情が出され、当時の河野洋平外務大臣も、公職者がそうした言葉を不用意に使用すれば、傷ついたり名誉を損なわれたと感じたりする人がいる可能性があるとして慎重な使用を求める趣旨の発言をしている。

石原側は、自分の発言の意図について説明し、差別を目的としたものではないという立場を取った。

しかし政治家の言葉を評価するとき、本人の意図だけで十分とはいえない。

東京都知事は、政治的意見や国籍、民族的背景、年齢、職業、生活環境の異なる多くの人々を代表する公職である。その立場から発せられる言葉には、私人や作家とは異なる重みがある。

ここに作家と政治家の決定的な違いが現れる。

作家には、読者を不快にさせる表現を書く自由もある。挑発や極端な人物造形によって人間や社会の矛盾を描くことも文学の方法になり得る。

しかし行政の長は、挑発するだけでは済まない。

言葉によって社会に問題を投げかけることと、異なる立場の住民を統治することは別の仕事だからである。

石原は政治家になった後も、作家時代から持っていた強い言葉を手放さなかった。

それが政治的魅力になった場面もあれば、公職者としての慎重さを欠くと批判された場面もあった。

評価が大きく分かれる原因は、実は同じところにあったのである。

東京はついに外交の領域まで踏み込んだ

石原が東京都を単なる地方自治体として考えていなかったことを最も象徴する出来事が、2012年の尖閣諸島購入構想だった。

石原は東京都による尖閣諸島の購入方針を打ち出し、東京都は寄付を募集した。

本来、外交や領土、安全保障は中央政府が担う分野である。

それでも石原は、国の対応が十分ではないと考え、東京都という自治体を使って問題を動かそうとした。

政府はその後、魚釣島、北小島、南小島の三島を購入して国有化した。外務省の説明資料でも、その背景として2012年4月以降に東京都による購入の動きがあったことが示されている。

したがって、石原の構想が中央政府の判断に影響したこと自体は否定しにくい。

しかし、その後の日中関係の緊張をすべて石原一人の責任とするのも適切ではない。

尖閣諸島をめぐっては、それ以前から日本と中国の間に認識の対立があり、中国公船の活動、日本国内の世論、中央政府の判断など複数の要因が重なっていた。

石原の行動は、その複雑な過程を大きく動かした一つの要因として位置づけるのが妥当だろう。

それでも、この出来事は石原の政治観を鮮明に示している。

国が動かないと考えれば東京が動く。

東京が動けば国が動かざるを得なくなる。

1999年に掲げた「東京から日本を変える」という政治思想は、13年後には地方自治の範囲を越えて、外交問題にまで及んだのである。

なぜ東京は石原慎太郎に適していたのか

ここまで振り返ると、なぜ石原が東京を自分の政治的舞台にしたのかが見えてくる。

国政には巨大な権力がある。

しかし一人の国会議員がそれを自由に使えるわけではない。

反対に、小規模な自治体の首長なら行政に直接関与する力は強くなるが、その政策が日本全体を動かすほどの影響力を持つとは限らない。

東京はその二つの中間に位置していた。

地方自治体であるため、知事は直接選挙による独自の政治的正統性を持ち、巨大な東京都庁の執行機関を率いる。

同時に、日本最大の都市として、そこで行われる政策は全国的なニュースとなり、周辺自治体、企業、中央政府、場合によっては外国にまで影響を与える。

石原自身も、東京にはさまざまな「集中、集積」があり、日本を動かす原動力になり得るという認識を示している。

この都市の性格と、石原慎太郎の政治手法はよくかみ合っていた。

自ら問題を発見する。

それを強い言葉で社会に提示する。

行政組織を動かす。

そして、その行動自体を全国へ発信する。

こうして政策と政治的演出が一つの流れになる。

石原にとって東京都知事になることは、国政から地方政治へ格下げされることではなかったのだろう。

別の経路から国政へ影響する方法を手に入れることだったのである。

作家として培ったものは、政治の中にも残った

石原慎太郎の政治について考えるとき、「政治も彼にとって作品だった」とまで断定するのは慎重であるべきだろう。

政治と文学は同じものではないからである。

それでも、両者に共通する方法を見ることはできる。

作家は複雑な現実の中から一つの問題を取り出し、人物や事件を配置し、読者に理解できる形へ変える。

政治家・石原慎太郎も、複雑な政策問題を象徴的な場面に変えることに長けていた。

黒い煤が入ったペットボトルは、その典型だった。

「東京から日本を変える」という言葉もそうである。

多くの制度論を説明する代わりに、一つの短い言葉によって自分の政治を物語にしてしまう。

この能力は政治家として強力だった。

一方で、現実社会には小説のような作者はいない。

東京都という都市には、石原慎太郎に賛成する人だけが暮らしているわけではない。思想も利益も生活環境も異なる一千万人を超える人々が同じ都市を共有している。

政策には予想外の副作用が生じ、経済事業は失敗することもある。強い言葉を好む人がいる一方、その言葉によって排除されたと感じる人もいる。

だから民主政治には、強いリーダーだけでなく、議会、行政手続き、専門家による検証、情報公開、反対意見、司法といった複数の仕組みが必要になる。

石原慎太郎の東京都政は、「決められる政治」の魅力を示したと同時に、決断する人物を過度に中心に置く政治が抱える危うさも示した。

作家と政治家を往復したのではなく、二つを同時に生きた

石原慎太郎の人生を振り返ると、文学から政治へ、政治から文学へという単純な往復では説明しにくい。

1950年代には若い作家として時代の価値観を揺さぶった。

1968年には政治へ入りながら、その後も小説を書き続けた。

1995年に国会を去れば作家活動に比重を戻し、1999年には再び政治へ戻った。それでも執筆活動は続いた。

つまり石原慎太郎の中では、文学と政治は完全には分離していなかった。

文学では、自分が世界をどう見るかを書いた。

政治では、自分が考える世界へ現実を近づけようとした。

前者には作者の自由があり、後者には公権力と責任が伴う。その違いは決定的である。それでも、「自分の言葉によって現状を動かそうとする」という点では共通するものがあった。

だから石原慎太郎は、政治家になったことで作家でなくなったのではない。

むしろ作家として身につけた発信の方法を持ったまま、政治という別の領域へ入っていった。

そして長い国政経験の末に、その方法を最も大きく使える場所として見つけたのが東京だったのではないだろうか。

東京という巨大な舞台

石原慎太郎を称賛するだけなら、ディーゼル車規制のような実績を並べればよい。

批判するだけなら、新銀行東京や問題発言を並べればよい。

しかし、そのどちらかだけでは、なぜ石原慎太郎という政治家が長期間にわたって東京都民から選ばれ続けたのかも、なぜ同時にこれほど強い批判を受け続けたのかも説明できない。

政策を前へ動かす決断力と、独断的になり得る危うさ。

複雑な問題を理解しやすくする発信力と、現実を単純化してしまう危険。

既存制度に挑戦する姿勢と、制度的な慎重さを軽視する可能性。

石原政治では、こうした長所と短所が別々に存在していたのではなく、しばしば同じ性質の裏表として現れた。

だから評価が割れる。

そして、その評価の割れ方そのものが、石原慎太郎という人物の特徴だったともいえる。

23歳で『太陽の季節』によって世間を騒がせた若い作家は、その後も長いあいだ文章を書き続けた。

同時に政治家になり、国会へ入り、閣僚を務め、総裁選にも挑み、一度は政治の世界を去った。

そして66歳で再び東京という場所に立った。

そこには日本最大の人口と企業集積があり、巨大な行政組織があり、テレビカメラがあり、国政へ届く影響力があった。

「東京から日本を変える」という言葉ほど、石原慎太郎がなぜ東京都知事という職を選んだのかを簡潔に表したものはない。

東京は地方自治体でありながら、日本そのものに向かって語ることのできる場所だった。

言葉によって社会を刺激してきた作家にとって、これほど大きな舞台はなかったのだろう。

石原慎太郎にとって東京とは、最後に見つけた巨大な原稿用紙だった、と表現することもできる。

ただし、小説と違って、その原稿用紙の上には一千万人を超える人々が実際に生活していた。

石原慎太郎の政治を評価するとき、最後まで忘れてはならないのは、おそらくその違いなのである。

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