地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

「民意の直接反映」という利点と、分断・単純化・誤情報がもたらす危険を検証する

 SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治の情報流通の仕組みを大きく変えた。かつて政治家が多数の有権者へ直接語りかけるには、新聞、テレビ、ラジオ、街頭演説、政党機関紙などを利用する必要があったが、現在では政治家がスマートフォンから投稿するだけで、短時間のうちに何万人、場合によっては何十万人へ情報が届く。有権者も、その発言に直接反応し、共有し、批判し、自ら別の情報を発信できる。

 この変化には明確な民主的価値がある。既存メディアが十分に取り上げなかった問題を社会へ知らせることができ、大きな政党や組織を持たない政治家や市民運動にも発信の機会が生まれる。政治家本人の発言や政策資料へ直接アクセスできることも、条件によっては政治の透明性を高める。その意味で、SNSそのものを民主主義の敵と考えるのは適切ではない。

 しかし、SNSの情報流通構造と非常に相性のよい政治手法がある。ポピュリズムである。「既得権益を持つエリート対普通の国民」「われわれ対あいつら」「複雑な制度より国民の常識」「専門家より民意」「既存メディアは真実を隠している」といった構図は、短く、理解しやすく、感情を刺激し、共有しやすい。

 SNSは政治参加の障壁を下げる一方で、複雑な政治問題を単純な敵味方の対立へ置き換え、怒りや不信を政治資源へ変換する装置にもなり得る。本稿では、ポピュリズムが既存政治の問題を発見する是正機能を持ち得ることを認めたうえで、それでもなぜ長期的には議会制民主主義、多元主義、専門知、少数者の権利、制度的な権力抑制と衝突しやすいのかを、政治学、メディア研究、近年の実証研究から検討する。

1.そもそもポピュリズムとは何か

 「ポピュリズム」という言葉は、日本の日常的な政治報道では「人気取り政策」「大衆迎合」「ばらまき政策」という意味で使われることがある。しかし、政治学上のポピュリズムは、それだけではない。

 政治学者カス・ムッデの定義は、現在のポピュリズム研究で広く参照されている。そこではポピュリズムを、社会を基本的に「純粋な人民」と「腐敗したエリート」という二つの同質的で対立する集団に分け、政治は人民の一般意思を表現すべきだと考える「薄い中心を持つイデオロギー」と捉える。

 重要なのは、ポピュリズムそのものが右翼や左翼を意味するわけではないことである。右派ポピュリズムにも左派ポピュリズムにもなり得るし、保守主義、ナショナリズム、社会主義、反緊縮政策など別の政治思想と結びつく。その核心は個々の政策内容ではなく、「正しい人民」と「腐敗したエリート」という形で政治を道徳的対立として捉えるところにある。

 ここが通常の多元的な民主政治との重要な違いになる。議会制民主主義は、社会には複数の正当な利益と価値観が存在すると考える。農業者と消費者、労働者と経営者、若年者と高齢者、都市住民と地方住民、納税者と給付を必要とする人など、それぞれの利益は異なり、一方だけが「本当の国民」なのではない。民主政治とは、本来、この異なる利益や価値を制度の中で調整する仕組みである。

 ポピュリズムはこれに対し、「国民には一つの本当の意思があり、それを自分たちが代表している」という方向へ傾きやすい。この反多元主義的傾向こそが、ポピュリズムと立憲民主主義との緊張を生む重要な理由である。

2.SNSはなぜポピュリズムと相性がよいのか

 SNS以前、政治家が大勢の国民へ情報を届ける場合、新聞記者、テレビ局、編集者などの中間過程を通ることが多かった。記者が質問し、発言の背景を確認し、反対側にも取材し、数字を検証し、編集者が記事や番組を確認する。もちろん、既存メディアが常に公正で正確だったわけではなく、誤報も偏向も存在する。それでも、大量の人へ情報が届くまでには、一定の確認過程が存在していた。

 SNSでは、その中間過程を大幅に迂回できる。政治家の発言は政治家から支持者へ直接届く。これは民主主義上の長所でもあり、既存メディアによる情報流通の独占を弱める効果を持つ。しかし同時に、第三者による検証も迂回できる。「マスコミが報じない真実です」と政治家が投稿すれば、その文章自体が支持者にとって一次情報となり、報道機関による確認を経なくても急速に共有される。

 さらにSNSでは、支持者自身が情報流通の主体になる。「いいね」、共有、引用、コメント、動画の切り抜き、再編集、短い解説などを通じて、一人ひとりが政治情報の拡散に参加する。これは市民参加という意味では大きな変化だが、政治運動の側から見れば、支持者自身が宣伝ネットワークになることを意味する。

 従来の「政治家から有権者へ」という一方向型の情報伝達は、「政治家から支持者、支持者から知人、さらに別の利用者へ」というネットワーク型へ変化した。しかも実際のSNSネットワークでは、利用者ごとのフォロワー数、共有確率、推薦アルゴリズム、利用者同士の重複などが大きく異なるため、単純に「共有人数×平均フォロワー数」で到達人数を計算することはできない。少数の非常に影響力の強いアカウントが拡散を大きく左右する場合もある。

 それでも、感情的な政治メッセージが拡散に適しているという傾向には研究上の裏付けがある。政治的・道徳的テーマでは、道徳的感情を含む表現が増えるほど共有されやすくなることを示した大規模なSNS研究も存在する。したがって、「許せないと思ったら拡散してください」というメッセージが、「制度上の制約と複数の政策選択肢を比較します」という説明よりSNS上で有利になる可能性は十分に考えられる。

3.ポピュリズムの最大の長所は、既存政治が見落とした不満を可視化すること

 ポピュリズムを一方的に否定することも適切ではない。政治学では、ポピュリズムには民主主義の「是正機能」があり得ることが議論されてきた。既成政党が十分に代表していなかった人々を政治へ取り込み、既存の代表制が見落としていた問題を可視化する可能性があるからである。

 地方衰退、実質賃金の停滞、雇用不安、社会保障への不満、行政の不透明性、都市と地方の格差、大企業と政治との関係などについて、既成政党や大手メディアの問題認識が弱ければ、それらの不満を拾い上げる政治運動には民主的な意味がある。

 したがって、ポピュリスト政治家の支持者を一律に「情報弱者」「政治を理解していない人」と考えるのも誤りである。政治的不満の背後には実際の所得低下、雇用不安、地域衰退、制度的不公平感などが存在する場合がある。ポピュリズムの支持拡大は、民主主義の代表機能に問題が発生していることを知らせる警報器として働くことがあるが、問題は警報が鳴った後である。不満の存在が確認されたことと、ポピュリストが提示する原因分析や解決策が正しいことは別問題であり、診断が正しくても治療法が正しいとは限らない。

4.SNSは政治参加を増やすのか

 SNSは政治参加の費用を大きく下げた。かつて大規模な政治運動を行うには、政党組織、新聞広告、テレビ出演、ビラ、街宣車、事務所、支持団体、資金などが必要だった。現在ではスマートフォン一台でも、理論上は全国規模で政治的主張を届けられる。

 これは新規政党、小規模政党、市民運動にとって大きなメリットである。一方、「SNSを利用すれば政治参加が増える」と単純な因果関係として断定するのは慎重でなければならない。複数の研究を統合した分析では、SNS利用と政治参加との間に正の関連が確認されることが多いものの、すべての研究で同じ結果が得られているわけではない。

 さらに、「SNSを使ったから政治参加する」のではなく、「もともと政治への関心が高く、政治参加する人ほどSNSでも政治情報を利用する」という逆方向の因果関係も考えられる。したがって現在の研究からは、「SNSと政治参加には正の関連があり、政治的ネットワーク形成の費用を下げる可能性があるが、SNS利用そのものが政治参加を引き起こす効果の大きさは一様ではない」と考えるのが適切である。

5.政治家本人の発信は「透明性」を自動的には高めない

 SNSによって、国会議員、地方議員、首長、政党が法案、国会質問、地域活動、災害対応、政策資料などを直接公開できるようになったことには大きな価値がある。既存メディアの記事だけではなく、政治家本人の説明や官公庁の一次資料へアクセスしやすくなった。

 しかし、政治家本人が情報を直接公開することと、政治の透明性が高まることは同義ではない。政治家が自分に有利な数字だけを掲載したり、不都合な事実を示さなかったり、前提条件を省略したりすることもできるからである。したがってSNSによる直接発信は、「一次情報へのアクセス可能性を高め、条件によっては政治の透明性を改善する」と評価するのが適切であり、透明性には情報の公開だけでなく、情報の完全性、検証可能性、訂正可能性、説明責任が必要である。

6.SNS上の「多数」は国民全体の多数ではない

 SNSでは、フォロワー数、いいね数、共有数、動画再生数、コメント数などが数字として可視化される。このため、「これほど多くの人が支持している」「国民は怒っている」という感覚が生まれやすい。

 しかし、100万回再生された動画が100万人の有権者の支持を意味するわけではない。同じ人が複数回再生している場合もあり、有権者でない人、国外の利用者、批判目的で見ている人も含まれる。推薦アルゴリズムによって同じ利用者へ繰り返し表示されている場合もある。

 さらにSNS利用者そのものが国民全体の無作為標本ではない。2025年のReuters Institute for the Study of Journalism(ロイター・ジャーナリズム研究所)の調査では、日本でSNSを週単位のニュース取得手段として利用する割合は24%とされている。これはSNSが政治情報の重要な経路ではあるものの、SNS上の政治的反応をそのまま日本全体の民意とみなせないことを意味する。

 SNSを積極的に利用する人と利用しない人では、年齢、政治関心、情報行動、意見の強さなどが異なる可能性がある。特に投稿や返信まで行う人は、単なる閲覧者より政治的関心や態度が強い可能性がある。したがって、投稿数は票数ではなく、トレンド入りも国民投票ではない。

7.怒りはSNS上で政治資源になりやすい

 政策とは本来、多くの条件を同時に考える必要がある。社会保障であれば、給付水準、保険料、税負担、世代間公平、財政持続可能性を考えなければならない。財政政策であれば、家計の可処分所得だけではなく、税収、国債、歳出、金利、物価、所得分配、将来負担などを検討する必要がある。

 ところがSNSでは、「政府は国民を見捨てた」「若者だけが損をしている」「官僚が国民から金を奪っている」といった短い表現の方が理解しやすい。敵が明確で、感情を刺激し、共有もしやすいからである。

 ここには重要な構造的問題がある。情報として正確な文章と、拡散に適した文章の性質が一致するとは限らないのである。政策として必要な情報量が多いほど説明は長く複雑になるが、SNSでは短く感情的で対立構造の明確なメッセージが有利になる可能性がある。

8.プラットフォーム企業の合理性と民主主義の合理性は同じではない

 民間SNS企業には、利用者にサービスを長く利用してもらう経済的動機がある。利用者が投稿を見て反応し、共有し、再びアクセスすれば、広告表示などの機会が増える。

 OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)は、デジタル技術によって誤った情報や誤解を招く情報が低コストかつ高速に拡散できるようになったことに加え、オンラインプラットフォームのエンゲージメント最大化のインセンティブが、感情的・政治的反応を生みやすい情報を増幅する可能性を指摘している。

 これは「SNS企業が意図的に民主主義を壊している」という意味ではない。企業として利用時間や反応を増やす合理性と、民主主義に必要な情報環境が完全には一致しないという問題である。民主的意思決定には、正確な情報、反対意見、不確実性の表示、慎重な分析、長期的な視点が必要である一方、利用者の注意を集めやすい情報には、驚き、怒り、恐怖、対立、スキャンダルなどが含まれる可能性があり、この二つの合理性の間に構造的な緊張が存在する。

9.「アルゴリズムが分断を作る」と単純化してはいけない

 SNS批判では、「アルゴリズムがエコーチェンバーを形成し、政治的分断を生んでいる」と説明されることが多い。しかし、科学的には因果関係はそれほど単純ではない。

 2020年米国大統領選挙期のFacebookを対象とした大規模研究では、利用者が接触するコンテンツの多くが政治的に同質的な情報源から来ていることが確認された。一方、2万3,377人を対象に、自分と同じ政治的立場の情報への接触を約3分の1減らす実験を行っても、感情的分極化、思想的極端化、候補者評価、誤情報への信念などについて、測定可能な変化は確認されなかった。

 つまり、「エコーチェンバーが存在する」ことと、「エコーチェンバーを減らせば政治的分断が短期間で改善する」ことは別問題である。政治的分断には、社会階層、地域、所得、教育、政党政治、既存メディア、家族や友人関係、歴史的対立など多くの要因が関係するため、SNSだけを政治分断の原因と考えることも、複雑な社会現象を一つの原因へ還元するという意味で、ポピュリズム的な単純化と似た問題を持つ。

10.それでもエンゲージメント重視が問題を増幅する可能性はある

 一方で、推薦システムの設計が政治的分極化や誤情報の流通へ影響する可能性を示す研究も存在する。2026年にJournal of Public Economicsへ掲載された研究では、「いいね」や共有などの社会的反応を強く重視する推薦システムがエンゲージメントを増やす一方、極端な情報や誤情報を相対的に有利にし、政治的分極化を増幅し得る構造が数理モデルによって示されている。

 Facebookが2018年に導入したMeaningful Social Interactions(意味のある社会的交流を重視するランキング更新)についても、イタリアや米国のデータを利用した研究から、社会的反応を強く重視する変更が思想的極端化や感情的分極化を強めた可能性が示されている。

 したがって、現在の研究から導かれる妥当な結論は、「SNSアルゴリズムが政治分断の唯一の原因である」ではない。より慎重には、「既存の政治的対立や社会的不満が存在する状況において、エンゲージメントを優先する情報流通構造が、感情的・対立的な情報を増幅する場合がある」と考えるべきである。

11.誤情報とポピュリズムの関係も単純ではない

 ポピュリズムを批判する場合にも、「ポピュリストは嘘をつく」と一括して扱ってはならない。2025年にオンライン先行公開され、その後The International Journal of Press/Politicsへ掲載された研究では、26か国、8,000人を超える国会議員による2017年から2022年までの約3,200万件のTwitter投稿が分析されている。

 ただし、この研究は3,200万件すべての投稿内容を一件ずつ「真実か虚偽か」と判定したものではない。投稿に含まれる共有URLを抽出し、それらの情報源について外部の信頼性評価データと照合し、低信頼性情報源へのリンクをどの政治勢力が共有しやすいかを統計的に分析したものである。

 その結果、低信頼性情報を共有する傾向との最も強い関連が確認されたのは「急進右派ポピュリズム」だった。一方、ポピュリズム一般、左派ポピュリズム、単なる右派的政治立場のそれぞれ単独では、同じ関連は確認されなかった。したがって研究から、「右派は嘘をつく」「左派は嘘をつく」「ポピュリストは全員嘘をつく」と結論づけることはできず、確認されているのは特定の政治的組み合わせと低信頼性情報源の共有との統計的関連である。この区別は、政治的立場に関係なく守る必要がある。

12.なぜポピュリズムは反証を困難にしやすいのか

 ポピュリズムは、「われわれの常識」と「腐敗したエリート」を対立させる。この構造が極端になると、専門機関からの反論そのものを陰謀の証拠として扱えるようになる。統計機関が否定すれば「政府機関だから信用できない」、大学研究者が否定すれば「御用学者だ」、新聞社が否定すれば「既存メディアは隠している」、裁判所が否定すれば「司法も既得権側だ」と説明することが可能になる。

 もちろん、政府機関、大学、新聞、裁判所が常に正しいわけではない。しかし、反証を提示する主体の属性だけを理由として証拠そのものを無効化すれば、どのような反証が出ても主張を維持できる。科学的方法では、仮説が証拠によって修正され得る反証可能性が重要であり、あらゆる反証を「敵の工作」と説明できる理論は政治的には強力でも、事実検証の方法としては極めて弱い。

13.短文政治は政策のトレードオフを消してしまう

 財政政策を例に考えると分かりやすい。減税すれば家計の可処分所得が増える可能性があるが、同時に税収が減少する。その穴を国債で埋めるのか、歳出削減で対応するのか、将来の増税で補うのか、物価や金利にどの程度影響するのか、所得階層ごとの恩恵はどう変化するのかを考える必要がある。

 政策分析とは、本来、便益だけでなく費用、副作用、分配、時間軸を同時に検討する作業である。ところがSNSでは、「減税か増税か」「国民か財務省か」という二項対立へ圧縮できる。この方が政治的メッセージとしては強力だが、政策分析としての情報量は低下する。ポピュリズムの問題の一つは、複雑な政策上のトレードオフを、善悪や敵味方の問題へ変換しやすいことである。

14.「専門家は間違う」と「専門知は不要」は違う

 専門家は間違う。経済学者も医師も官僚も研究者も新聞記者も誤ることがある。だからこそ、データ、再検証、反論、査読、司法審査、選挙など複数の検証制度が必要になる。

 しかし、「専門家が間違うことがある」という事実から、「一般的な直感と専門的な分析には同じ情報価値しかない」という結論は出ない。橋の耐震構造を多数決だけで決めることはできず、感染症の治療法を人気投票だけで決定することもできない。金融政策、原子力安全、感染症対策、社会保障制度などにも専門的な制約が存在する。

 民主政治において国民が決めるべきなのは、社会として何を目標にするかという価値判断である。具体的な実現方法や予想される副作用については専門知が必要になる。国民が目的を選び、専門家が複数の選択肢、費用、効果、不確実性を示し、最終的な政治責任を政治家が負うという役割分担が合理的である。

15.ポピュリズムと「中間制度」の関係

 議会、裁判所、官僚組織、独立行政機関、中央銀行、報道機関、大学、専門家組織、地方自治体などは、政治家と国民の間に存在するため、時に「国民の意思を邪魔する存在」のように見える。実際、これらの制度には遅さや非効率性があり、改革すべき問題が存在する場合もある。

 しかし、これらをすべて同じ役割を持つ制度として扱うのも正確ではない。裁判所などは多数派政治を直接制約する役割を持つ一方、中央銀行や独立機関には専門性や政策の時間的一貫性を確保する機能がある。地方自治には権力分散と住民自治の役割があり、報道機関や大学には情報と知識の多元性を維持する機能がある。

 共通するのは、政治権力を一つの主体へ集中させないことである。多数派であっても法律を守り、政府も司法審査を受け、政府統計を政治家が自由に書き換えず、政権が批判的報道を直接統制しない。こうした制度的制約を含めて立憲民主主義が成立している。

16.実証研究では、ポピュリスト政権の民主主義への影響は概して否定的である

 ここはポピュリズムを評価するうえで重要である。近年の国際比較研究を整理した2025年の政治学研究では、ポピュリストが政権を握った場合、自由権、報道の自由、政府に対する水平的な権力抑制、選挙の公正性などへ悪影響が生じる傾向が、複数の研究でかなり一貫して確認されている。

 一方、ポピュリズムが政治参加や代表性を改善するという「是正効果」については、肯定的証拠が存在するものの、民主主義制度への悪影響ほど一貫した結果にはなっていない。

 欧州とラテンアメリカを対象とした研究でも、ポピュリスト政権下では平均的に、選挙民主主義、自由民主主義、熟議民主主義の指標が悪化する一方、参加民主主義や平等民主主義について期待された改善効果が明確には確認されなかった。この研究は2022年にオンライン公開され、2023年に学術誌へ掲載されたものであり、「2026年の研究」とするのは適切ではない。

 さらに2026年にも、より新しい比較研究が発表され、ポピュリスト政権と自由民主主義的制度の弱体化との関連が改めて報告されている。したがって、「ポピュリスト政権は常に民主主義を破壊する」と断定することはできないものの、平均的には自由民主主義の制度と緊張しやすいという評価には相当な実証的根拠がある。

17.民主的に選ばれることと、民主的に統治することは同じではない

 「選挙で選ばれた政権なのだから民主的ではないか」という疑問は当然である。実際、選挙によって政府を選択することは民主主義の中核であるが、民主主義には少なくとも二つの側面がある。一つは国民が政府を選べることであり、もう一つは選ばれた政府であっても権力が制限されることである。

 ポピュリズムは前者の正統性を非常に重視する。「われわれは国民から選ばれた」という主張自体は正しい。しかし、それが「選挙に勝った以上、裁判所、野党、報道機関、独立機関、少数派などが政権を制限するのは民意への反逆だ」という考えに変われば、立憲民主主義との衝突が始まる。51%の支持を得た政府にも、49%の国民の権利を自由に制限する権限が与えられるわけではなく、多数決は民主主義に必要だが、多数決だけでは民主主義は完成しない。

18.SNSは人物中心型政治を強める可能性がある

 従来の政党政治では、党首、幹事長、政策責任者、国会議員、地方組織、党員など複数の階層が存在する。SNS時代になると、一人の政治家の個人アカウントが政党そのものより大きな影響力を持つ場合がある。

 その結果、「政党や政策を支持する」という関係から、「特定の人物を支持する」という関係へ変化することがある。政治家本人が日常的に直接発信するため、支持者が疑似的な親密さを感じる場合もあり、人物中心型政治が極端になると、党内の異論が「政策上の反対」ではなく「リーダーへの裏切り」とみなされやすくなる。しかし健全な政党には内部の異論が必要であり、政策の誤りを修正する最初の機会だからである。

19.支持者による自発的攻撃という問題

 SNSでは、政治家本人が「この記者を攻撃しろ」「この研究者へ嫌がらせをしろ」と直接命令しなくても、一部の支持者が大量の批判や攻撃を行うことがある。影響力の大きな政治家が特定の記者、研究者、議員などについて、「偏っている」「国民を理解していない」「裏切り者だ」と強い言葉で繰り返し名指しすれば、それを受け取った多数の支持者が自発的に行動する可能性がある。

 政治家本人が攻撃を直接指示していない以上、支持者のすべての行動について責任を負わせることはできない。しかし、影響力の大きな人物には、自分の発言が支持者の行動へどう影響するかについて一定の注意が求められる。これは右派か左派かに関係しない。

20.政策評価と人格攻撃を分けなければならない

 SNSでは、政策批判より人物批判の方が短く、理解しやすく、拡散しやすい。「この財政政策では政府債務がどの程度増えるか」という説明より、「この政治家は無能だ」という言葉の方が瞬間的に理解できる。

 しかし、政治家の能力は、政策立案能力、説明力、交渉力、実績、政策修正能力、法制度への理解、組織運営能力などから評価すべきである。容姿、家族、出身地、性別、話し方などを政治的攻撃の材料にしても政策の良否は分からず、ポピュリズムが感情政治へ接近すると、政策への批判と政治家個人への人格攻撃との境界が崩れやすくなる。

21.「敵を作る政治」は集団を結束させやすい

 集団を結束させる方法の一つが、共通の敵を設定することである。「われわれ」という定義だけでは集団の境界は曖昧だが、「われわれは、あいつらに搾取されている」と説明すると境界が明確になる。

 敵として設定される対象は右派と左派で異なる。官僚、大企業、外国人、富裕層、既存メディア、政治家、専門家、労働組合、金融機関、国際機関など、さまざまな対象が使われ得る。

 もちろん、それぞれの組織や集団について正当な政策批判はあり得る。企業が違法行為をすれば処罰すべきであり、官僚制度に問題があれば改革すべきであり、報道機関が誤報すれば検証すべきである。問題は、個別の行為や制度を批判することから、集団全体を道徳的な「敵」とみなす方向へ移行することである。

22.ポピュリズムは政策失敗を修正しにくくする可能性がある

 政治で重要なのは、最初から完璧な政策を選ぶことだけではない。実施した政策の効果が予想と異なった場合に、それを修正できることも重要である。

 しかし、政策と政治家への支持が道徳化すると、政策への批判が政治家本人への攻撃、支持者への攻撃、さらには「国民への攻撃」と受け取られることがある。その結果、「この政策の効果は予想より小さかったので変更する」という合理的な政策修正が、政治的敗北や裏切りのように扱われる。

 科学では、証拠によって仮説を修正することは進歩である。民主政治でも、本来はデータによって政策を修正できることが統治能力の一部であり、「われわれは常に正しい」という政治文化は、この修正能力を弱める危険がある。

23.SNS上の成功と政策上の成功は違う

 SNSでは成功が数値として見える。再生回数、共有数、フォロワー数、トレンド順位などである。一方、政策の成功は別の指標で測定しなければならない。経済政策なら、実質賃金、生産性、雇用、物価、税収、企業投資、財政収支、所得分布などを見る必要があり、医療政策なら死亡率、罹患率、医療アクセス、費用、地域格差などを検証する必要がある。

 100万回再生された経済政策が優れた経済政策とは限らない。逆に、社会的に重要でも説明が難しい制度改革は、ほとんど共有されない場合がある。SNSにおいて情報市場で勝つ能力と、政策を成功させる能力は別の能力であり、人気は統治能力の代理変数ではない。

24.「国民の声を聞く」と「声の大きい人に従う」は違う

 SNSによって政治家は国民の反応を即座に確認できるようになった。しかし、投稿へ積極的に返信する人々は国民の無作為標本ではなく、政治への関心が高い人、強い意見を持つ人、強く支持している人、強く反対している人ほど発言する可能性が高い。この自己選択があるため、政治家がSNS上の反応をそのまま「民意」と考えると、声の大きい少数者へ政策が引っ張られる可能性がある。

 民主主義では、選挙、世論調査、公聴会、議会、パブリックコメント、統計、当事者調査など複数の方法を組み合わせて民意を把握する必要がある。SNSはその一つではあるが、国民全体を代表する測定装置ではない。

25.ポピュリズム批判がエリート主義になってもいけない

 ポピュリズムを批判する側が、「一般市民は複雑な政治を理解できない」「専門家に任せればよい」という態度を取れば、かえって政治不信を深め、ポピュリズムを強める可能性がある。

 専門家は政策を決定する主権者ではない。例えば、「税負担を増やして社会保障を厚くするか」「税負担を抑えて給付を限定するか」という問題は、科学だけでは決められない。どのような社会を望むかという価値判断を含むからである。

 専門家ができるのは、それぞれの選択肢について、予想される費用、効果、副作用、不確実性を示すことである。国民が目的を選び、専門知が実現可能性を検証し、政治家が決定と結果について責任を負うことが民主政治と専門知の合理的な関係である。

26.左右どちらのポピュリズムも同じ基準で評価すべきである

 ポピュリズムは右派だけの問題ではない。右派では外国人、国際機関、リベラルなエリートなどが敵として設定される場合があり、左派では富裕層、大企業、金融機関、経済エリートなどが敵として設定される場合がある。

 それぞれに正当な政策批判はあり得る。移民政策、国際機関の権限、大企業の市場支配、所得格差、金融規制などは民主政治の正当な争点である。しかし、「具体的な制度や行為を批判する」ことと、「特定の集団そのものを悪とみなす」ことは別であり、評価基準は左右によって変えてはならない。本稿が問題視するのは特定の政治思想ではなく、複雑な社会を「純粋な人民対敵」という構図だけで説明し、異論の正統性そのものを否定する政治手法である。

27.SNS時代のポピュリズムのメリットとデメリット

項目 メリット デメリット
政治参加 参加の費用を下げる 熱心な少数を民意と誤認しやすい
政治家との距離 本人の説明へ直接アクセスできる 第三者による検証を迂回できる
小規模政党 発信機会が増える 強い感情を伴う情報が有利になり得る
既存政治批判 見落とされた問題を可視化できる 政治不信そのものを動員資源にできる
メディア批判 誤報や偏向を監視できる 報道機関全体への不信へ発展し得る
専門家批判 権威や専門知を検証できる 専門知そのものを否定しやすい
情報流通 高速かつ低コスト 誤情報も高速に流通する
政治的動員 無関心層を参加させ得る 怒りや敵意による動員になり得る
政策説明 簡潔に伝えられる 複雑なトレードオフが消えやすい
リーダーシップ 責任者が明確になる 人物中心政治や組織弱体化につながり得る

 このように見ると、SNS政治の特徴には、多くの場合、長所と短所が同時に存在していることが分かる。直接発信は情報アクセスを改善する一方で検証を迂回でき、政治参加の費用低下は新規参入を促す一方で感情的動員も容易にする。したがって、問題はSNSという技術そのものではなく、どのような制度、政治文化、メディア環境の中でSNSを利用するかである。

28.ポピュリズムの危険性は政権獲得後に大きくなる

 野党時代のポピュリズムには、既存権力を監視し、見過ごされていた問題を政治課題にする効果がある。しかし、政権を取れば自分自身が権力者になる。

 それにもかかわらず、「われわれは人民であり、批判者はエリートである」という物語を維持すると、政府を批判するメディア、政府の行為を違法と判断する裁判所、政府を監査する機関、政府に反対する野党などが、制度的なチェックではなく「人民の敵」とみなされる可能性がある。

 近年の国際比較研究がポピュリスト政権下で自由権、報道の自由、水平的権力抑制、選挙制度などの悪化を確認していることは、この問題と整合的である。したがって、ポピュリズムの本質的な危険は単に言葉遣いが激しいことではなく、権力を抑制する制度そのものの正統性を弱める可能性にある。

29.SNSを規制すれば解決するのか

 ここにも単純な答えはない。誤情報対策として政府がSNSの投稿内容を強く規制すれば、今度は政府が「何が真実か」を決定する危険が生じる。政権に不都合な正当な批判まで削除されれば、ポピュリズム以上に深刻な民主主義上の問題となる。

 OECDも、偽情報対策では表現や意見の自由を守りながら、プラットフォームの透明性と説明責任を高め、多元的で質の高い情報環境を形成する方向を重視している。必要なのは、投稿内容を政府が全面的に管理することより、推薦システムの透明性、政治広告の公開、自動アカウントの識別、広告主や資金源の表示、研究者へのデータ提供、訂正情報へのアクセスなどを改善することである。

30.政治家側にもSNS利用の原則が必要である

 政治家のSNS利用についても、右派・左派を問わず一定の原則が必要である。一次資料を提示し、統計には年度と出典を示し、速報段階の情報を断定せず、誤りが判明した場合には訂正することが重要である。

 さらに、支持者へ特定個人への攻撃を促さず、批判者を「国民の敵」と扱わず、政策の便益だけでなく費用や副作用も説明する必要がある。自分に不利な事実についても、合理的な反証であれば無視せず説明することが望ましく、SNSは政治家の説明責任を弱める道具にも、強める道具にもなり得る。最終的には使い方の問題である。

31.有権者が確認したいポピュリズムの兆候

 SNS上の政治発信を見るときには、「われわれだけが本当の国民を代表している」という主張が繰り返されていないかを確認する必要がある。選挙で多数を得たとしても、支持しなかった人も同じ国民だからである。

 また、社会問題の原因が毎回、官僚、外国人、企業、富裕層、メディアなど特定の集団だけに帰されていないか、複雑な社会保障、人口問題、外交、財政などに副作用のない極端に簡単な解決策が提示されていないかを見ることも重要である。

 専門家の反論を内容ではなく「御用学者だから」「官僚だから」と属性だけで否定すること、個々の報道への批判から「すべてのメディアは敵だ」という全面的不信へ飛躍すること、「みんな怒っている」といった感情だけで政策効果を説明すること、政策への異論を人格的な裏切りとみなすことなどが重なるほど、反多元主義的ポピュリズムの性格は強くなる。

32.日本の議会制民主主義では「直接性」と「熟議」の両方が必要である

 SNSは非常に直接的であり、国民の反応を即座に政治家へ届ける。しかし、民主主義は意思決定が速ければよいわけではない。

 法律を作るには、問題を把握し、法案を作成し、利害関係者の意見を聞き、委員会で審議し、野党が問題点を指摘し、必要なら修正し、衆議院と参議院で審議する。こうした手続きは遅く、面倒に見えるが、この遅さには意味がある。間違いを発見し、異なる利害を調整し、副作用を確認する時間だからである。

 熟議民主主義の観点から見れば、SNS上で一時的に多数となった意見を、そのまま即座に政策へ反映することが常に民主的とは限らない。熟議とは国民の意思を無視する制度ではなく、異なる国民の意思を調整し、より検証可能な政策へ変換する過程である。

33.必要なのは「参加型の熟議民主主義」

 ポピュリズムが指摘する問題の中には正当なものがある。政治家が国民から遠い、行政が分かりにくい、政策決定が閉鎖的である、専門家の説明が難しい、既存メディアにも誤報や偏りがあるという問題は改善されなければならない。

 しかし、その解決方法を「議会や専門家を排除し、指導者と国民を直接結べばよい」と考える必要はない。むしろ、政策資料を公開し、議会審議を分かりやすくし、政府統計を利用しやすくし、住民参加を増やし、パブリックコメントを実質化し、政策評価を公開する方向が重要である。

 政治家は短いスローガンだけではなく、必要であれば長文でも政策を説明し、専門家は専門用語だけではなく国民が理解できる言葉で不確実性や選択肢を説明する。そのうえで国民が判断する。こうした仕組みは時間がかかり、SNS映えもしないが、民主主義を持続させるには、派手な政治的動員より地道な制度改善の方が重要である。

34.総合評価 ポピュリズムは民主主義の警報器にはなるが、統治原理としては問題が大きい

 ポピュリズムについては、「既存政治が見落としている問題を発見する機能」と、「社会を人民と敵へ二分して統治する原理」を分けて考える必要がある。

 前者には価値がある。既成政党が見落としてきた生活不安、地域格差、行政への不信、政治と経済権力との関係などを政治課題として可視化することは、民主主義の代表機能を修正する契機になる。

 一方、後者には大きな問題がある。「われわれだけが国民を代表する」と考え、異論を正当な政治的立場ではなく「人民の敵」と位置づければ、多元主義、司法、報道の自由、独立機関、少数者の権利などと衝突する。

 近年の国際比較研究でも、ポピュリスト政権は平均的に、自由権、報道の自由、政府への権力抑制、選挙の公正性、熟議民主主義などへ否定的な影響を与える傾向が確認されている。一方、政治参加や代表性を改善する効果については、それほど一貫した証拠が得られていない。したがって、ポピュリズムは民主主義の異常を知らせる警報器として役立つ場合はあるが、国家を継続的に運営する統治原理として採用することには大きなリスクがある。

結論 SNSが民主主義を壊すのではなく、単純な政治がSNSによって増幅されることが問題である

 SNSは民主主義に重要な利益をもたらした。政治家と国民の距離を縮め、小さな政治勢力にも発言機会を与え、既存メディアを経由しない一次情報へのアクセスを容易にし、市民が政治情報の流通へ参加できるようにした。したがって、SNSそのものを民主主義の敵とみなす結論は適切ではない。

 問題は、その情報環境がポピュリズム的な政治コミュニケーションと非常に相性がよいことである。ポピュリズムは複雑な社会を「人民対エリート」という単純な物語へ変換しやすく、SNSは短く、感情的で、対立構造の明確な情報を高速に流通させることができる。

 この二つが結びつけば、怒りが政治的支持へ変わり、支持が共有へ変わり、大量の共有や再生回数が「民意」のように見え、その可視的な多数がさらに政治的正統性として利用される可能性がある。しかし、SNS上の多数は国民全体ではなく、共有回数は投票ではなく、再生回数は政策効果ではなく、フォロワー数は統治能力ではない。この区別を失ってはならない。

 同時に、ポピュリズムの支持者を批判するだけでは問題は解決しない。ポピュリズムが支持される背景に政治不信、地域格差、生活不安、行政の不透明性、既成政党の代表機能の低下、メディアへの不信などが存在するのであれば、それらを民主主義の制度の中で解決する必要がある。

 SNSについても、政府が発言内容を一元的に管理する方向ではなく、推薦システム、政治広告、自動アカウント、資金源などの透明性を高め、研究者や市民が情報流通の仕組みを検証できる環境を整える方が望ましい。

 民主主義に必要なのは、国民の怒りを無視することでも、その怒りを無制限に増幅することでもない。怒りや不満の原因を検証し、それを政策へ翻訳する過程で、事実、専門知、少数意見、費用、副作用、不確実性を確認することである。

 熟議民主主義と立憲民主主義の観点から見れば、政治家の役割は、有権者がすでに持っている怒りをさらに増幅して敵を作ることではなく、複雑な現実を説明し、自らの理念を示し、異なる利害を調整し、実現可能な政策によって国民を説得することにある。「敵を作って結束させる政治」と「事実を示し、異論を認めながら説得する政治」は同じではなく、SNS時代だからこそ、この二つを明確に区別する必要がある。

 ポピュリズムは、民主主義の異常を知らせる警報器として役立つかもしれない。しかし、警報器に国家を運転させるべきではない。民主政治を動かすべきなのは、熱狂や敵意だけではなく、事実、議論、制度、妥協、そして検証可能な政策である。

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 国会議員や各国の政治家の発言を見ていると、中立的、中道的な立場から離れ、保守、右派、リベラル、左派といった政治的位置を強く打ち出す政治家ほど、表現が激しくなり、相手を非難する言葉が増えるように感じることがある。しかし、この印象から直ちに「右派は危険である」「左派は非常識である」「中道だけが良識的である」と結論づけることはできない。

 政治思想が右か左かということと、その政治家が攻撃的な言葉を使うかどうかは、本来別の変数である。穏健な保守政治家もいれば穏健な社会民主主義者もおり、反対に左右のどちらにも、相手への敵意をあおり、複雑な事実を単純化し、支持者の怒りや不安に訴える政治家は存在する。したがって、考えるべきなのは「どちらの思想が危険なのか」ではなく、どのような政治的、制度的、情報的条件の下で、政治家にとって強い言葉を使う利益が大きくなるのかという問題である。

最初に確認すべきこと~「端にいる政治家ほど過激」という印象は事実なのか

 この問題を考えるうえで最も重要なのは、私たちが日常的に目にする政治家の発言が、政治家全体の発言から無作為に抽出されたものではないということである。テレビ、新聞、インターネットニュース、動画配信、SNS(交流サイト)では、平穏な政策説明より、対立を生む発言、失言、強い批判、驚きを伴う発言の方がニュースや投稿として取り上げられやすい。

 ある政治家が一日に何時間も政策について説明していたとしても、ニュース映像に使われるのが相手を強く批判した十秒間だけなら、視聴者の記憶にはその十秒が残る。つまり、私たちが観察しているのは政治家の全発言ではなく、情報環境によって選別された発言であり、このような現象は選択バイアスと呼ばれ、観察された標本が母集団を正確に代表していない可能性を意味する。

 したがって、「中道から離れた政治家ほど必ず過激になる」とまでは現在の研究から断定できない。より慎重に表現するならば、思想的に先鋭化した政治家の一部では強い言葉を使う政治的利益が大きくなる場合があり、さらにそのような発言が報道やSNSによって可視化されやすいため、私たちには「端ほど過激」という形で観察される可能性がある、ということになる。

政治的位置と攻撃性は、一つの軸ではなく二つの軸で考える

 この問題を理解するには、政治家を単純な「左から右までの一直線」に並べるだけでは不十分である。横軸に政策や思想上の位置を置き、中央を0、左方向と右方向への距離を表すとし、それとは別に縦軸として、相手への攻撃性、排他性、虚偽情報への依存、威圧的表現などの程度を置く必要がある。

 この二軸で考えれば、政策的にはかなり右または左に位置していても、事実やデータを示しながら穏健に議論する政治家が存在できる一方、政策的には中道に近くても、相手を侮辱したり、事実を歪めたりする政治家も理論上存在する。したがって、「政策が急進的であること」と「政治的言動が攻撃的であること」は区別しなければならない。

 これは歴史を考えるうえでも重要である。普通選挙、女性参政権、労働者の権利、人種差別撤廃、障害者の権利など、現在では広く認められている制度の中には、提唱された当初には既存秩序に対する急進的な要求と受け取られたものもあったため、政策的位置が当時の中央から遠いというだけで、その主張が非合理的、非民主的であるとは判断できない。

政策的分極化と感情的分極化は違う

 政治学では、政治的分極化を一つの現象として扱うのではなく、少なくとも政策的分極化と感情的分極化を区別する必要がある。政策的分極化とは、税制、社会保障、防衛、移民、環境、エネルギーなどについて、政党や政治家の政策的位置が互いに離れていくことである。

 政策的分極化そのものは、必ずしも民主主義にとって悪いとは限らない。政党間の政策差がほとんどなければ、有権者は選挙で何を基準に選択するのか分かりにくくなるため、明確な政策上の違いには民主主義上の意味がある。

 一方、感情的分極化とは、自分と異なる政党や政治集団を単に「政策の異なる相手」と見るのではなく、「信用できない人々」「社会にとって危険な存在」「自分たちとは本質的に異なる集団」と見る傾向である。政治的対立が、「この政策には反対である」という段階から、「この政策を支持する人間は無知である」「相手陣営は国民を代表していない」といった人物や集団そのものへの敵意へ移ったとき、政策上の対立は感情的な対立へ変わっていく。

 比較政治学の研究でも、感情的分極化は複数の民主主義国で観察されているが、その程度には大きな国差があるため、米国で確認された現象をそのまま日本に当てはめることも、日本の一時期の政治状況から普遍的な法則を導くこともできない。

数理的に考える~政治家が発言の強さを選択すると仮定する

 政治家の行動を人格や道徳心だけで説明すると、政治環境が行動に与える影響を見落としやすい。政治家も限られた時間、資金、人員、知名度の中で、再選、政策実現、党内での影響力など複数の目的を追求している主体であるため、発言も一定の費用と利益を伴う選択として考えることができる。

 政治家の発言の先鋭度を x とし、x が大きくなるほど言葉が強くなり、支持者と反対派を明確に分ける発言になると仮定する。そして、その発言によって得られる政治的便益を B(x)、失う政治的費用を C(x) とすれば、政治家の期待効用 U(x) は、単純化して U(x) = B(x) - C(x) と表すことができる。

 便益には、熱心な支持者の動員、SNSでの拡散、寄付や協力者の増加、報道での露出、党内での存在感の上昇などが含まれ、一方の費用には、無党派層や穏健層の離反、所属政党からの処分、社会的信用の低下、選挙での不利益、発言訂正や説明に必要となる政治的コストなどが含まれる。

 政治環境が比較的穏健で、無党派層の比率が高く、強い発言によって広い有権者を失う可能性が高ければ、xを大きくする費用は急速に増えるため、この場合、政治家にとって最適な発言は比較的穏健な位置にとどまりやすい。

 反対に、支持者が明確に分断され、反対陣営の人々が最初から自分に投票する可能性が極めて低い場合には、反対派から嫌われることによる追加的な損失は小さくなる。その一方で、強い表現によって熱心な支持者の拡散、寄付、選挙運動への参加を増やせるのであれば、xを大きくする利益が費用を上回る範囲が広がる。

 ここで重要なのは、「政治家の人間性が突然悪くなった」と考えなくても過激化を説明できることであり、政治環境が変化し、強い言葉を使ったときに得られる利益と失う利益の関係が変われば、同じ政治家であっても発言戦略が変化する可能性がある。

「支持者の数」だけでなく「支持の強さ」が重要になる

 中道に近い政党や政治家は、通常、異なる利害を持つ幅広い有権者から支持を得なければならない。会社員、自営業者、高齢者、若者、都市住民、地方住民など、多様な層を取り込む必要があるため、特定集団だけを強く喜ばせる発言には別の集団を失う危険がある。

 一方、支持基盤が狭くても熱心な支持者によって政治活動を維持できる政治家の場合、単純な支持者数だけでは政治的影響力を測れない。仮に100万人の支持者がいても、その大部分が投票以外にはほとんど行動しない場合と、10万人の支持者が継続的に情報を拡散し、寄付を行い、選挙運動に参加する場合とでは、政治家にとっての価値は単純な人数比では決まらない。

 このため、政治家の目的関数が「支持者数の最大化」から「熱心な支持者による政治活動量の最大化」に近づくと、支持者の感情を強く刺激する発言が合理的になる場合がある。怒りや危機感を共有する外部集団を設定すれば、支持者の集団帰属意識が強まり、政治参加を促す可能性があるからである。

 ただし、このモデルはあくまで一つの説明仮説であり、すべての先鋭的な政治家が意図的に敵を作っていると断定するものではなく、政治家本人の信念と選挙戦略を外部から完全に区別することも困難である。

ポピュリズムとは単なる「人気取り」ではない

 日本ではポピュリズムが「大衆迎合」と説明されることが多いが、政治学ではより限定された意味で使われる。代表的な定義では、社会を「善良な人民」と「腐敗したエリート」という対立する集団に分け、政治は人民の一般意思を実現すべきだと考える政治思想や政治的言説を指す。

 そのため、単に人気の高い政策を掲げることだけではポピュリズムとはいえず、また、ポピュリズムは右派だけ、あるいは左派だけに存在する政治思想でもない。右派的な政策と結合する場合もあれば、左派的な経済政策と結合する場合もある。

 重要なのは個々の政策内容以上に、「人民」と「エリート」をどのように定義し、政治的正統性をどこに求めるかである。社会には職業、所得、地域、世代、文化、宗教、家族構成などによって異なる利害が存在するため、「国民全体が一つの意思を持っている」と仮定すると、現実社会の多様性を過度に単純化する危険がある。

 国際民主化選挙支援機構などの研究でも、ポピュリズムの影響を評価する際には、左右の政策内容だけを見るのではなく、議会、司法、報道、行政などの制度的な抑制と均衡がどのように扱われているかを見る必要があるとされている。

SNSはなぜ強い言葉を目立たせるのか

 SNSは政治家と有権者が直接情報を交換できる手段を大幅に増やした。従来は新聞、テレビ、記者会見、議会中継などが政治情報の主要な入口だったが、現在では政治家自身が短い文章や動画を直接発信でき、小規模政党や新人候補であっても情報を広く届けられる可能性がある。

 これは政治参加や情報へのアクセスという点では大きな利点である一方、SNSの仕組みでは、利用者が反応し、共有し、コメントした情報ほど可視性を高める場合があるため、怒り、恐怖、道徳的非難、相手集団への敵意などを含む情報が注目を集めやすいことが複数の研究で確認されている。

 ただし、ここから「SNSが政治的分極化を生み出す」と単純な因果関係を導くことはできない。デジタルメディアに関する数百件の研究をまとめた体系的レビューでも、インターネットやSNSは政治参加や政治情報への接触を増やす一方、政治的不信、分極化、誤情報などとの関連も確認されており、その方向や強さは国や制度によって異なる。

 SNSそのものを原因とみなすより、政治制度、利用者の選択、SNSの推薦機能、既存の社会的対立、政治家の発信戦略などが相互作用する情報環境として考える方が現実に近い。

反対意見を見れば人は穏健になるとは限らない

 民主主義では異なる意見への接触が重要だが、反対意見を見せれば自動的に人々が中道化するわけではなく、自分とは異なる政治的立場の情報に接触した結果、逆に従来の立場を強めた例を報告した実験研究も存在する。

 ただし、この結果についても一般化には注意が必要である。特定の国、特定のSNS、特定の参加者を対象にした研究結果が、すべての社会で再現されるとは限らず、他方では異なる意見への接触によって感情的分極化が低下した研究もあるため、「反対意見への接触は分極化を悪化させる」という単一の法則は成立していない。

 重要なのは、情報への接触だけではなく、その情報を誰が、どのような文脈で、どのような言葉を使って提示するかである。相手から侮辱されたと感じれば、自分の所属集団を守ろうとする反応が起きる可能性があり、その結果、反対派の強い発言が自陣営の結束を強め、さらに相手陣営も強い表現を使うという相互増幅が発生する可能性がある。

過激化が左右で同じ程度に起きるとは限らない

 政治的に中立な分析を行うことは、左右双方に必ず同じ数の問題が存在すると仮定することではない。ある時代、ある国、ある政策領域では一方の陣営に攻撃的言説や虚偽情報が多く観察され、別の条件では反対側に多く観察される可能性がある。

 科学的な比較で重要なのは、結論を人工的に左右均等にすることではなく、同じ測定基準を双方に適用することである。例えば、事実と異なる情報の使用頻度、反対派を正統な政治参加者として認めるか、暴力や威圧を容認するか、司法や議会など制度上の抑制を尊重するか、少数者の権利をどう扱うか、政策の費用や副作用を説明しているか、といった共通指標によって比較する必要がある。

 その結果として左右に差が生じても、それ自体は分析上の問題ではない一方、研究を始める前から「右派の方が危険である」「左派の方が過激である」と仮定すれば、分析者自身の確証バイアスが入り込む危険がある。

党内競争は政治家を先鋭化させることがある

 政治家が競争している相手は他党だけではなく、政党内でも候補者選定、役職、政策決定への影響力、資金、人事などを巡る競争があり、その競争の構造によって発言のインセンティブが変化する。

 一般有権者全体を対象とする選挙と比較して、党員、活動家、熱心な支持者の影響が大きい候補者選定では、政党としての立場を明確に示すことが重要になる場合がある。その結果、他党との妥協、法案修正、発言の訂正などが、一部の支持者から「弱腰」「信念の後退」と受け止められる可能性がある。

 ただし、候補者選定制度が常に候補者を極端化させるとは限らず、選挙制度、候補者数、党組織、支持者の構成などによっては穏健な候補者が有利になる場合もあるため、制度と過激化の関係は条件付きで考える必要がある。

メディア環境は複雑な説明を不利にする

 政治政策の多くは、本来単純な二択ではない。原子力発電であれば、電力価格、二酸化炭素排出、事故リスク、廃棄物、立地地域の経済、再生可能エネルギー、送電網などを同時に考えなければならず、外国人労働者の受け入れであれば、人手不足、賃金、社会保障、教育、地域社会への統合、企業責任などが関係する。

 しかし、複雑な説明は短時間のニュースやSNSでは伝えにくく、「賛成か反対か」「改革か抵抗か」といった単純な対立の方が見出しになりやすいため、政治家にとっても支持者へ明確なメッセージを送りやすい。

 ここで、政治家が悪意を持って政策を単純化していると決めつける必要はない。限られた情報空間の中で複雑な政策を伝えるために一定の単純化は避けられないからであり、問題になるのは、重要な費用、例外、副作用、不確実性まで省略され、その単純化された説明だけが政策の全体像であるかのように提示される場合である。

政治不信と「強い言葉」への需要

 政治的過激化は政治家側の供給だけでは説明できず、有権者側の需要も考える必要がある。既存政治や行政への不信が強い社会では、「慎重に検討する」「関係者と調整する」「段階的に実施する」といった通常の政策形成に必要な言葉が、「何もしない」「責任を取らない」と解釈されることがある。

 その反動として、短期間で全面的な変更を約束する政治家や、問題の原因を明確な集団や制度に帰属させる政治家が注目されやすくなる可能性がある。経済的不安、雇用不安、地域格差、公共サービスへの不満などとポピュリズム支持との関連は比較政治学で研究されているが、その強さは国や時代によって異なり、文化的、社会的要因も同時に作用している。

 OECD(経済協力開発機構)の国際調査でも、政府への信頼は単に所得や年齢だけで決まるのではなく、自分の意見が政治に反映されると感じているか、政府が公平に行動していると感じるかと強く関係しているため、政治的不信が深まった社会で過激な政治家だけを批判しても、不満を生み出している制度的背景を放置すれば問題の根本的な解決にはならない。

「能力不足を隠す」とまで断定することはできない

 政治的な強い言葉と政策能力の関係には特に慎重さが必要であり、攻撃的な政治家だから政策能力が低いとも、穏健な政治家だから政策能力が高いとも限らない。

 ただし、政策成果を十分に示せない政治家にとって、失敗の原因を外部の集団や制度に帰属させることが政治的戦略になる可能性はある。政策が実現しなかった理由を野党、官僚、報道機関、外国などに求めれば、自らの政策設計や実施過程への評価を回避できる場合がある。

 しかし、「制度設計能力の低い政治家ほど敵を攻撃する」という一般的な因果関係まで確立されているわけではなく、政治家の能力を外部から客観的に測定すること自体が難しいうえ、攻撃的発言との因果方向も明確ではないため、この部分は仮説として扱うべきである。

政治家の発言をどう検証すればよいのか

 政治的立場が中央にあるか端にあるかだけで政策や政治家を評価することはできず、重要なのは、その主張を独立した基準で検証できるかどうかである。

 例えば「この政策によって雇用が増える」と主張するのであれば、何年間でどの程度の雇用増を想定しているのか、その効果をどの統計で測定するのかを示す必要があり、「犯罪を減らす」と主張するなら対象とする犯罪類型と統計指標を示し、「地域経済を活性化する」と主張するなら所得、雇用、税収、人口、事業継続率など、成果を判断する指標をあらかじめ設定することができる。

 これは科学における反証可能性に近い考え方であり、政策が正しいと主張するだけでなく、どのような結果が得られた場合には修正するのかを明らかにすれば、理念と実証的検証を分けて議論できる。

「左右の端ほど過激」という仮説を統計的に検証するには

 この問題は印象論だけではなく、データによって検証することも可能であり、政治家ごとに政治的位置を数値化し、中道を0としたときの距離を測り、それとは別に発言の攻撃度を数値化する。

 政治家 i の時点 t における攻撃的発言度を Y、政治的位置を x とすれば、中道からの距離は |x| で表すことができる。分析では、攻撃的発言度 Y を、|x|、SNS利用頻度、与党か野党か、選挙までの期間、党内競争の程度などによって説明する回帰モデルを構築する。

 もし「中道から離れるほど攻撃的になる」という仮説が正しければ、他の条件を統制した後でも、|x|の係数が正になることが予想される。さらに |x| の二乗を加えれば、中道から少し離れた程度ではほとんど変化せず、左右の端に近づいたところで急速に攻撃性が高まるという非線形関係も検証できる。

 また、左側と右側について別々の係数を推定すれば、左右で同じ形の関係が存在するのかも統計的に検証できるため、このような分析を行わず、数人の目立つ政治家だけを見て「左右の端ほど過激である」と結論づければ、選択バイアスの影響を受ける危険がある。

日本については、さらに検証が必要である

 ここまで述べた政治的分極化、SNS、ポピュリズムなどに関する研究の多くは米国や欧州を中心に蓄積されているため、海外で確認された結果をそのまま日本の国会議員に当てはめることはできない。

 日本でこの仮説を検証するなら、国会会議録、記者会見、政党の公式発信、議員のSNS投稿などを長期間収集し、政治的位置と発言の攻撃性を独立に測定する必要がある。さらに、与党と野党、衆議院と参議院、選挙前と選挙後、党首と一般議員などの条件を分けなければならない。

 例えば、自然言語処理を用いて侮辱語、敵対語、恐怖を喚起する表現、相手集団を一般化する言葉などを測定し、政治家ごとの政策的位置と比較すれば、日本において「端ほど攻撃的」という関係が本当に成立しているのかを数量的に検証できる。

 したがって、日本の政治について現時点で言えるのは、「海外研究で確認されている複数のメカニズムが日本でも働いている可能性がある」というところまでであり、「日本の左右両端の政治家ほど実際に過激である」という命題が統計的に確立しているわけではない。

政治的過激化を考えるときに重要なこと

 政治的対立そのものをなくすことは民主主義の目的ではない。税制、社会保障、安全保障、エネルギー、移民などについて意見が分かれることは当然であり、異なる社会像を提示することも政治の重要な役割である。

 問題になるのは、政策上の対立が相手集団の人格や正統性への攻撃へ変化し、政策の費用や副作用を検討する余地が失われることであり、また、SNS上の反応数をそのまま国民全体の世論と考えることにも注意が必要である。政治情報を頻繁に投稿したり共有したりする人々が、有権者全体を統計的に代表しているとは限らない。

 そのため政治を検証するときには、「誰を攻撃しているか」だけでなく、「どの政策を提案しているか」「財源や制度設計を説明しているか」「実施後の成果を検証できるか」「反対意見や不都合なデータを検討しているか」といった要素を分けて見る必要がある。

結論~「端だから過激」ではなく、過激さが利益になる構造を見る

 中道から離れた政治家ほど過激に見えるという現象を、一つの理由だけで説明することはできず、政治的位置そのもの、感情的分極化、支持者の構成、党内競争、メディア環境、SNSの情報拡散、政治不信、経済的不安など、複数の要因が相互に作用している可能性がある。

 数理的に見れば、政治家が発言の強さを選択するとき、強い発言によって得られる支持者の動員、注目、寄付、党内影響力などの利益が、無党派層の離反や社会的信用の低下などの費用を上回れば、発言を先鋭化させるインセンティブが生まれ、逆に、強い言葉を使う政治的費用が高い制度や社会では、穏健な発言の方が合理的になる。

 ただし、このモデルは「左右の端にいる人間ほど性格が過激である」という説明ではなく、政治家個人の性格ではなく、政治家が置かれた制度と情報環境によって行動の利益と費用が変化するという説明である。

 また、「左右の端ほど過激」という関係そのものが、すべての国と時代で統計的に確認されているわけでもなく、政策的に急進的であること、攻撃的な言葉を使うこと、虚偽情報を利用すること、民主主義制度を尊重しないことは、それぞれ別の変数として測定する必要がある。

 政治を客観的に分析するうえで必要なのは、左右のどちらかを最初から危険視することでも、機械的に左右を同じものとして扱うことでもなく、同じ評価方法と同じデータを双方に適用し、その結果としてどのような差が現れるのかを確認することである。

 したがって、「政治家は左右の端に近づくほど過激になる」と断定するより、「政治的分極化や情報環境など一定の条件が重なると、左右を問わず、政治家にとって強い言葉を使う利益が大きくなり、その発言がさらに社会から観察されやすくなる」と考える方が、現在の政治学、行動科学、情報科学、数理モデルの知見に近い。

 そして、この問題を本当に確かめるには印象や個別事例だけでは不十分であり、政治的位置、発言内容、SNSでの拡散、選挙結果、党内競争などを長期間にわたって測定し、「政治的位置が端に近づくこと自体が攻撃的発言を増やしているのか、それとも別の要因によって両方が同時に起きているのか」を統計的に区別する必要がある。

 政治的過激化を理解するために必要なのは、政治家を単純に左右へ分類することではなく、どのような政治制度、情報環境、有権者行動の組み合わせによって、冷静な政策説明より強い言葉の方が政治的に得になるのか、その構造を明らかにすることである。

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