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作家石原慎太郎はなぜ政治家になり、東京を自分の舞台にしたのか

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石原慎太郎という人物を振り返るとき、最初に注意しなければならないことがある。彼は、作家をやめて政治家になった人ではない。

一橋大学在学中の1955年、『太陽の季節』で文学界新人賞を受賞し、翌1956年には同作で芥川賞を受けた。作品が描いた戦後の若者像は大きな論争を呼び、「太陽族」という言葉まで生み出した。それから12年後の1968年、石原は参議院議員選挙に立候補して政治の世界へ入るが、その後も小説を書くことをやめなかった。国会議員になった後の1970年には長編『化石の森』を刊行し、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞している。1988年には「生還」で平林たい子文学賞を受け、1995年に衆議院議員を辞職した後には弟・石原裕次郎との関係を描いた『弟』を発表した。さらに東京都知事になってからも、小説や随筆を発表し続けている。

したがって、石原慎太郎の人生を「文学から政治への転身」とだけ捉えると、重要な部分を見失う。

彼は作家であることをやめて政治家になったのではなく、作家として言葉によって社会に働きかけながら、政治という別の方法でも社会へ働きかけるようになった。文学と政治は交代したのではなく、長い期間にわたって並行していたのである。

そう考えると、石原慎太郎という人物を理解するための問いも少し変わってくる。

なぜ作家が政治家になったのか、だけではない。

なぜ文章によって十分な名声を得ていた人物が、なお現実の政治権力を必要としたのか。そして長い国政経験の末に、なぜ東京都という都市を自らの政治の中心舞台に選んだのか。

その二つを追っていくと、作家・石原慎太郎と政治家・石原慎太郎は、意外なほど近いところでつながっている。

『太陽の季節』の青年と、後年の政治家は同じではない

晩年の石原慎太郎を知る人にとって、彼には強硬な保守政治家という印象が残っているかもしれない。国家、安全保障、憲法、中国、米国との関係について強い言葉で発言し、時には激しい批判を受けた人物でもある。

しかし、若いころから同じ政治思想を一直線に持っていたわけではない。

1950年代末には、警察官職務執行法改正に反対した文化人グループ「若い日本の会」に参加している。そこには開高健、大江健三郎、江藤淳ら当時の若い知識人が集まっていた。後年の石原の政治姿勢だけから振り返れば、多少意外に見える経歴である。

もっとも、人間の政治思想が数十年間まったく変化しない方が珍しい。若い時代の立場と後年の立場が違うこと自体を、ただ「変節」と呼んでも石原慎太郎という人物は理解できない。

むしろ、思想の内容が変わっても残り続けたものを見る必要がある。

その一つが、傍観者であることに対する強い違和感だったのではないだろうか。

『太陽の季節』に描かれた若者たちは、慎重に社会を観察し、その中で穏やかに折り合いをつけて生きる人物ではない。既成の道徳や秩序から距離を取り、自ら行動し、その結果として他者を傷つけ、自分自身も傷ついていく。

もちろん、小説の登場人物を作者本人と同一視することはできないし、小説から政治思想を直接導き出すべきでもない。それでも石原の作品世界に、行為、肉体、競争、海、冒険、危険といった主題が繰り返し現れることは確かである。

世界について考えるだけではなく、その世界の中へ自分から踏み込んでいく。

後年の政治家・石原慎太郎にも、この性質はかなり色濃く残っていた。

政治家になろうと決めたベトナムでの経験

石原自身は、なぜ政治家になったのかについて後年かなり具体的に語っている。

1960年代、石原はベトナム戦争を現地で経験した。2011年の東京都知事記者会見で当時を振り返った石原は、サイゴンの知識人たちと話しているうちに、戦争という深刻な問題が身近で進行しているにもかかわらず、知識人ほどそこから距離を置こうとしているように感じたと説明している。

そして、その姿が当時の日本の知識人にも似ていると考え、「この国は危なくなるのではないか」と心配し、政治家になろうと決心したという。

これは重要な証言だが、扱いには少し注意が必要である。

2011年になって本人が40年以上前を振り返った回想であり、ベトナム戦争だけが政界入りの唯一の原因だったと断定することまではできない。当時の石原はすでに著名作家であり、社会評論や文化活動にも関わっていた。本人の思想的関心だけでなく、高い知名度を政治的資源へ転換できる環境も整っていた。

それでも、本人が政界入りの契機としてベトナム体験を語っていることには意味がある。

そこに表れているのは、「知識人が論評しているだけでは現実は変わらない」という感覚だからである。

作家は社会について書くことができる。しかし、法律をつくることも予算を執行することもできない。

言葉によって社会を描くことと、政治権力によって社会の仕組みそのものを変えること。その二つの間にある距離を、石原は強く意識するようになったのかもしれない。

1968年、石原は参議院議員選挙の全国区に出馬し、300万票を超える最高得票で当選した。

この結果には当然、作家としての知名度が作用している。

つまり政治家・石原慎太郎の出発点には、すでに作家・石原慎太郎がいたのである。

文学と政治はここで切断されたのではない。文学によって築いた社会的知名度と言葉の力が、選挙によって政治的な力へ変換されたと考える方が実態に近い。

国政の中枢には近づいたが、その頂点には届かなかった

石原の国政経歴は決して短くない。

1972年には参議院から衆議院へ移り、その後連続8回当選した。環境庁長官、運輸大臣を務め、1989年には自由民主党総裁選挙にも立候補している。単なる「作家出身のタレント議員」として政治生活を終えた人物ではない。

一方で、首相になることも、自由民主党総裁になることもなかった。

ここを「国会では主人公になれなかった」と評してしまうと、石原の長い国政経歴を過小評価することになる。それよりも重要なのは、国会議員と東京都知事では政治家として持つ権限の性質が大きく異なるという点だろう。

一人の国会議員には、自分だけの判断で行政組織を動かす権限はない。与党政治家であっても、党内調整、国会審議、官僚組織、予算、他党との関係などを通じて政策を実現していかなければならない。

これは政治家の自由を妨げるだけの仕組みではない。異なる意見を調整し、権力を一人に集中させないための民主政治の制度でもある。

これに対して都道府県知事は、住民による直接選挙で選ばれ、地方公共団体の執行機関の長として行政組織を率いる。もちろん議会の議決や法律による制約を受けるため、知事が何でも自由に決められるわけではない。それでも、一議員と比較すれば政策課題を設定し、予算案や条例案を提出し、行政組織を通じて政策を実施していく能力ははるかに大きい。

この制度上の違いは、後の石原都政を理解するうえで重要である。

1975年、石原は一度東京に敗れている

石原と東京都知事という職の関係は、1999年に突然始まったものではない。

1975年、石原は東京都知事選挙に出馬している。

当時の現職は美濃部亮吉だった。社会党や共産党などの支援を受けた美濃部に対して、石原は世代交代を訴えて戦ったが敗れた。

その後、石原は国政へ戻り、二十年間にわたって衆議院議員を続ける。

1995年には突然、衆議院議員を辞職した。

その後は作家活動に比重を戻し、弟・裕次郎との関係を描いた『弟』などを発表する。一度は政治生活を終えたかに見えた。

ところが四年後の1999年、石原は再び東京都知事選挙に立候補する。

このとき石原は66歳だった。

東京都知事として政治の世界へ戻った石原は、その後2012年まで約13年半にわたって都政を率いることになる。

なぜ、再び東京だったのか。

ここに石原慎太郎という政治家の特徴を読み解く鍵がある。

「東京から日本を変える」という発想

石原は後年、1999年の都知事選に出馬した理由について、東京を「文明工学的に、社会工学的に大事な意味合い」を持つ都市だと考えていたと説明している。

そして掲げたのが、「東京から日本を変える」という考えだった。

この言葉は、単なる選挙用の標語として片づけない方がよい。

石原都政を通して見ると、この発想がその後も繰り返し現れるからである。

東京は日本の47都道府県の一つである。しかしその人口、企業集積、税収、大学、情報機関、金融機関、文化産業、官公庁の集中度を考えれば、他の自治体とは異なる影響力を持っている。

東京都が新しい政策を実施すれば、その影響は都内だけにとどまらない。

事業者が東京市場に対応するため全国の商品やサービスを変更することもある。周辺県が同様の制度を採用することもある。東京都の政策が国の制度変更を促す場合もある。

石原は、この東京の特殊性を政治的な力として利用しようとした。

国会の中から国を変えるのではなく、東京という巨大都市を動かすことによって国を動かす。

それが「東京から日本を変える」という言葉の実質だった。

そしてこの方法は、作家時代から一貫していた石原の発信力と非常に相性がよかった。

黒い煤を見せるという政治

石原都政を象徴する政策の一つが、ディーゼル車の排出ガス規制である。

当時、東京では自動車から排出される粒子状物質などによる大気汚染が大きな問題となっていた。東京都は1999年に「ディーゼル車NO作戦」を開始し、条例による規制へ進む。2003年10月からは東京都を含む一都三県で、一定の粒子状物質排出基準を満たさないディーゼルトラックやバスなどの走行が規制された。

この政策で記憶されているのが、石原がペットボトルに入れた黒い煤を示した場面である。

大気汚染は目に見えにくい。

「粒子状物質の排出量」と説明しても、多くの人にとって実感しにくい。

しかし透明な容器の中に黒い煤を入れて見せれば、問題は一瞬で視覚化される。

ここには作家としての石原慎太郎と政治家としての石原慎太郎が重なって見える。

複雑な問題から象徴的な場面を一つ取り出し、人々が理解できる物語に変えて提示するのである。

ただし、政治における分かりやすさには危険もある。

ディーゼル車問題は、「ディーゼルエンジンは悪い」という単純な問題ではない。規制対象となる車種や排出基準、粒子状物質低減装置、低硫黄軽油への転換、事業者が負担する車両更新費用など、多くの要素から成り立っていた。東京都の規制でも乗用車は対象外で、一定の基準を満たした車両は走行可能だった。

政治家には複雑な問題を国民に理解できる形で説明する能力が必要である。

しかし分かりやすくすることと、単純化することの間には細い境界がある。

石原慎太郎の政治は、その境界の上を歩くことが多かった。

成功した「突破」と失敗した「突破」

東京から日本を変えるという政治手法が一定の成果につながった政策がある一方、同じような決断型の政治が問題を生んだ例もある。

その代表が新銀行東京である。

石原都政は、既存の金融機関から十分な融資を受けにくい中小企業への資金供給などを目的として、新しい銀行の設立を進めた。

政策の目的それ自体には理解できる部分があった。

中小企業が資金調達に困っているのであれば、東京という巨大な自治体が新しい金融の仕組みをつくる。これもまた、「国や既存制度ができないなら東京がやる」という石原都政らしい発想だった。

しかし、銀行経営は政治的意思だけで成立するものではない。

融資には信用リスクがあり、預金を集め、審査を行い、適切な金利を設定し、不良債権を抑えながら収益を確保しなければならない。

新銀行東京は経営難に陥り、東京都は設立時の1000億円に加えて、2008年に400億円を追加出資することになった。都議会では、事業計画そのものに無理があったのではないかという批判や、東京都および石原知事の政治的責任を問う議論が続いた。

一方で、石原の説明も書いておく必要がある。

石原自身は新銀行東京を発案したのは自分だと認めながら、経営危機の直接的な責任については、実際の経営を担った旧経営陣にまずあるとの立場を取っていた。そのうえで取締役会や株主である東京都にもそれぞれの責任があるという整理を示している。

この問題を「石原が1400億円を失敗した」とだけ書けば正確ではないし、反対に「経営陣だけの責任だった」としても問題の全体像は見えない。

重要なのは、政策の発案責任と企業の日常的な経営責任を区別しながら、公的資金を用いて自治体が銀行を設立するという政策判断そのものが妥当だったのかを検証することである。

そして、ここには石原政治の一つの限界が表れている。

政治家が強い意志を持って制度を突破することと、事業が経済的に持続可能であることは同じではない。

ディーゼル規制では「東京が先に動く」ことが制度革新につながった。

新銀行東京では、同じ「東京が自分でやる」という発想が大きな財政リスクを生んだ。

成功と失敗は別々の人物から生まれたのではない。

同じ政治手法の表と裏だったのである。

石原慎太郎は、言葉によって政治をした

石原慎太郎ほど、言葉そのものが政治的評価に直結した東京都知事も珍しい。

支持者から見れば、既成の政治家が避ける問題をはっきり語る人物だった。

しかしその言葉は、しばしば社会的な批判も引き起こした。

2000年には、自衛隊の式典で「三国人」という言葉を用いた発言が問題となった。東京都議会には撤回や謝罪を求める請願や陳情が出され、当時の河野洋平外務大臣も、公職者がそうした言葉を不用意に使用すれば、傷ついたり名誉を損なわれたと感じたりする人がいる可能性があるとして慎重な使用を求める趣旨の発言をしている。

石原側は、自分の発言の意図について説明し、差別を目的としたものではないという立場を取った。

しかし政治家の言葉を評価するとき、本人の意図だけで十分とはいえない。

東京都知事は、政治的意見や国籍、民族的背景、年齢、職業、生活環境の異なる多くの人々を代表する公職である。その立場から発せられる言葉には、私人や作家とは異なる重みがある。

ここに作家と政治家の決定的な違いが現れる。

作家には、読者を不快にさせる表現を書く自由もある。挑発や極端な人物造形によって人間や社会の矛盾を描くことも文学の方法になり得る。

しかし行政の長は、挑発するだけでは済まない。

言葉によって社会に問題を投げかけることと、異なる立場の住民を統治することは別の仕事だからである。

石原は政治家になった後も、作家時代から持っていた強い言葉を手放さなかった。

それが政治的魅力になった場面もあれば、公職者としての慎重さを欠くと批判された場面もあった。

評価が大きく分かれる原因は、実は同じところにあったのである。

東京はついに外交の領域まで踏み込んだ

石原が東京都を単なる地方自治体として考えていなかったことを最も象徴する出来事が、2012年の尖閣諸島購入構想だった。

石原は東京都による尖閣諸島の購入方針を打ち出し、東京都は寄付を募集した。

本来、外交や領土、安全保障は中央政府が担う分野である。

それでも石原は、国の対応が十分ではないと考え、東京都という自治体を使って問題を動かそうとした。

政府はその後、魚釣島、北小島、南小島の三島を購入して国有化した。外務省の説明資料でも、その背景として2012年4月以降に東京都による購入の動きがあったことが示されている。

したがって、石原の構想が中央政府の判断に影響したこと自体は否定しにくい。

しかし、その後の日中関係の緊張をすべて石原一人の責任とするのも適切ではない。

尖閣諸島をめぐっては、それ以前から日本と中国の間に認識の対立があり、中国公船の活動、日本国内の世論、中央政府の判断など複数の要因が重なっていた。

石原の行動は、その複雑な過程を大きく動かした一つの要因として位置づけるのが妥当だろう。

それでも、この出来事は石原の政治観を鮮明に示している。

国が動かないと考えれば東京が動く。

東京が動けば国が動かざるを得なくなる。

1999年に掲げた「東京から日本を変える」という政治思想は、13年後には地方自治の範囲を越えて、外交問題にまで及んだのである。

なぜ東京は石原慎太郎に適していたのか

ここまで振り返ると、なぜ石原が東京を自分の政治的舞台にしたのかが見えてくる。

国政には巨大な権力がある。

しかし一人の国会議員がそれを自由に使えるわけではない。

反対に、小規模な自治体の首長なら行政に直接関与する力は強くなるが、その政策が日本全体を動かすほどの影響力を持つとは限らない。

東京はその二つの中間に位置していた。

地方自治体であるため、知事は直接選挙による独自の政治的正統性を持ち、巨大な東京都庁の執行機関を率いる。

同時に、日本最大の都市として、そこで行われる政策は全国的なニュースとなり、周辺自治体、企業、中央政府、場合によっては外国にまで影響を与える。

石原自身も、東京にはさまざまな「集中、集積」があり、日本を動かす原動力になり得るという認識を示している。

この都市の性格と、石原慎太郎の政治手法はよくかみ合っていた。

自ら問題を発見する。

それを強い言葉で社会に提示する。

行政組織を動かす。

そして、その行動自体を全国へ発信する。

こうして政策と政治的演出が一つの流れになる。

石原にとって東京都知事になることは、国政から地方政治へ格下げされることではなかったのだろう。

別の経路から国政へ影響する方法を手に入れることだったのである。

作家として培ったものは、政治の中にも残った

石原慎太郎の政治について考えるとき、「政治も彼にとって作品だった」とまで断定するのは慎重であるべきだろう。

政治と文学は同じものではないからである。

それでも、両者に共通する方法を見ることはできる。

作家は複雑な現実の中から一つの問題を取り出し、人物や事件を配置し、読者に理解できる形へ変える。

政治家・石原慎太郎も、複雑な政策問題を象徴的な場面に変えることに長けていた。

黒い煤が入ったペットボトルは、その典型だった。

「東京から日本を変える」という言葉もそうである。

多くの制度論を説明する代わりに、一つの短い言葉によって自分の政治を物語にしてしまう。

この能力は政治家として強力だった。

一方で、現実社会には小説のような作者はいない。

東京都という都市には、石原慎太郎に賛成する人だけが暮らしているわけではない。思想も利益も生活環境も異なる一千万人を超える人々が同じ都市を共有している。

政策には予想外の副作用が生じ、経済事業は失敗することもある。強い言葉を好む人がいる一方、その言葉によって排除されたと感じる人もいる。

だから民主政治には、強いリーダーだけでなく、議会、行政手続き、専門家による検証、情報公開、反対意見、司法といった複数の仕組みが必要になる。

石原慎太郎の東京都政は、「決められる政治」の魅力を示したと同時に、決断する人物を過度に中心に置く政治が抱える危うさも示した。

作家と政治家を往復したのではなく、二つを同時に生きた

石原慎太郎の人生を振り返ると、文学から政治へ、政治から文学へという単純な往復では説明しにくい。

1950年代には若い作家として時代の価値観を揺さぶった。

1968年には政治へ入りながら、その後も小説を書き続けた。

1995年に国会を去れば作家活動に比重を戻し、1999年には再び政治へ戻った。それでも執筆活動は続いた。

つまり石原慎太郎の中では、文学と政治は完全には分離していなかった。

文学では、自分が世界をどう見るかを書いた。

政治では、自分が考える世界へ現実を近づけようとした。

前者には作者の自由があり、後者には公権力と責任が伴う。その違いは決定的である。それでも、「自分の言葉によって現状を動かそうとする」という点では共通するものがあった。

だから石原慎太郎は、政治家になったことで作家でなくなったのではない。

むしろ作家として身につけた発信の方法を持ったまま、政治という別の領域へ入っていった。

そして長い国政経験の末に、その方法を最も大きく使える場所として見つけたのが東京だったのではないだろうか。

東京という巨大な舞台

石原慎太郎を称賛するだけなら、ディーゼル車規制のような実績を並べればよい。

批判するだけなら、新銀行東京や問題発言を並べればよい。

しかし、そのどちらかだけでは、なぜ石原慎太郎という政治家が長期間にわたって東京都民から選ばれ続けたのかも、なぜ同時にこれほど強い批判を受け続けたのかも説明できない。

政策を前へ動かす決断力と、独断的になり得る危うさ。

複雑な問題を理解しやすくする発信力と、現実を単純化してしまう危険。

既存制度に挑戦する姿勢と、制度的な慎重さを軽視する可能性。

石原政治では、こうした長所と短所が別々に存在していたのではなく、しばしば同じ性質の裏表として現れた。

だから評価が割れる。

そして、その評価の割れ方そのものが、石原慎太郎という人物の特徴だったともいえる。

23歳で『太陽の季節』によって世間を騒がせた若い作家は、その後も長いあいだ文章を書き続けた。

同時に政治家になり、国会へ入り、閣僚を務め、総裁選にも挑み、一度は政治の世界を去った。

そして66歳で再び東京という場所に立った。

そこには日本最大の人口と企業集積があり、巨大な行政組織があり、テレビカメラがあり、国政へ届く影響力があった。

「東京から日本を変える」という言葉ほど、石原慎太郎がなぜ東京都知事という職を選んだのかを簡潔に表したものはない。

東京は地方自治体でありながら、日本そのものに向かって語ることのできる場所だった。

言葉によって社会を刺激してきた作家にとって、これほど大きな舞台はなかったのだろう。

石原慎太郎にとって東京とは、最後に見つけた巨大な原稿用紙だった、と表現することもできる。

ただし、小説と違って、その原稿用紙の上には一千万人を超える人々が実際に生活していた。

石原慎太郎の政治を評価するとき、最後まで忘れてはならないのは、おそらくその違いなのである。

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