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田中角栄の支持勢力は、どのように形成されたのか~1971年7月から1972年5月、佐藤派の後継者争い

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 1972年5月9日の夜、東京・柳橋の料亭で、田中角栄を次期自民党総裁に推そうとする国会議員たちの集会が開かれた。衆議院40人、参議院41人、合わせて81人が参加者として数えられたという。ところが、肝心の田中本人は姿を見せず、田中支持の有力政治家だった愛知揆一、橋本登美三郎、竹下登も出席していなかった。それでも、集会の規模は当時の自民党にとって無視できないものだった。現職首相の佐藤栄作が長年率いてきた政治勢力の内部から、別の指導者を推す議員集団が公然と姿を現したのである。

 当時の佐藤派は、自民党内でも大きな勢力を持つ派閥だった。佐藤は福田赳夫を後継者として重視していたが、福田への政権継承は容易に実現しなかった。佐藤政権を支えてきた議員たちが、次期総裁については必ずしも佐藤と同じ考えを持っていなかったからである。長期政権を維持することができた首相が、なぜ自らの後継者を思いどおりに選ぶことは難しかったのか。この問題を考えるには、田中が福田を破った1972年7月の自民党総裁選だけでなく、その前年から約10か月間にわたって進んだ佐藤派内部の変化を調べる必要がある。

 もっとも、1971年夏の時点ですでに田中派という独立した組織が完成していたわけではない。また、後年の田中派に所属した議員が、その時期から田中を支持していたとも限らない。政治史を振り返るときには、最後に誰が勝利したかを知っているため、そこへ向かうすべての出来事が最初から計画されていたように見えてしまう。しかし、当時の議員たちはまだ総裁選の結果を知らず、田中自身が次の総裁選に出馬するかどうかさえ、1972年春には複数の見方が存在していた。そうした不確実な状況のなかで、誰が、いつ、どのような行動を取ったのかを追うことが、佐藤派の後継者争いを理解する出発点となる。

佐藤栄作は、なぜ1970年に政権を譲らなかったのか

 1971年7月の内閣改造を理解するためには、さらに9か月ほど前の1970年10月29日にさかのぼらなければならない。この日の自民党総裁選で、佐藤栄作は353票を獲得し、111票だった三木武夫らを破って総裁四選を果たした。1964年11月に首相へ就任して以来、すでに約6年間も政権を維持していた佐藤が、なお続投を選んだのである。

 佐藤は福田赳夫を後継者として重視しており、その背景には岸信介と福田の政治的な関係もあった。しかし、佐藤自身が福田を後継者と考えていたとしても、福田を支持する党内勢力が総裁選で多数を獲得できるとは限らなかった。佐藤の長期政権を支えてきた議員の中には、田中を将来の指導者として期待する者も存在しており、政権の継承には佐藤派内部の支持関係だけでなく、他派閥の協力も必要だった。

 佐藤政権の内部資料を研究した解題では、福田への後継態勢が十分に整わなかったことが、佐藤続投の背景として指摘されている。一方、田中は1970年の総裁選では自ら立候補せず、佐藤の四選を支える立場にあった。結果として佐藤の続投は、田中が独自の支持基盤を形成するための時間を延ばすことにもなった。ただし、田中が最初からその効果を狙って佐藤の四選を支持したのかどうかは、当時の本人の発言や政治的な交渉記録によって、別に検証すべき問題である。

 そもそも、政権を支える議員の結束と、その政権が終わった後の後継者を選ぶ際の結束は、同じではない。佐藤が総裁である間は、政府や党の運営、選挙協力、政治的な人脈によって一つの派閥として活動できても、佐藤退陣後に誰を推すかとなれば、議員それぞれの考え方や将来の政治的な立場が問題になる。1970年の佐藤四選は、この後継問題を解決したというより、解決を先へ延ばした出来事として位置付けることができる。

1971年7月、最後の内閣改造に隠れていた後継問題

 1971年7月5日、佐藤は第3次佐藤内閣を改造し、それまで大蔵大臣だった福田赳夫を外務大臣に、自民党幹事長だった田中角栄を通商産業大臣に起用した。内閣官房長官には竹下登が就任し、田中の後任の党幹事長には、佐藤との関係が深い保利茂が就いた。後継者問題を研究した市川周佑の研究では、この人事は福田への政権継承構想と関係するものとして分析されている。ただし、人事の意図を考える際には、佐藤自身の構想と、実際に配置された政治家の支持関係を区別する必要がある。

 福田は外務大臣として日本外交の中心に位置し、田中は通商産業大臣として経済外交や産業政策を担当することになった。福田が外交、田中が通商を担当したことだけから、佐藤がどちらを有利に扱おうとしたのかを断定することはできないが、両者が佐藤内閣の重要閣僚として、それぞれ異なる政策課題に向き合う立場になったことは確かである。一方、田中が1968年以来務めていた党幹事長を離れたことは、党内の人事や選挙対策への直接的な関与のあり方を変える出来事でもあった。

 ところが、この改造からわずか10日後の7月15日、ニクソン米大統領が中国訪問計画を発表し、日本政府は対中外交の再検討を迫られた。さらに8月15日には、米国がドルと金の交換停止を含む新経済政策を発表し、戦後の国際通貨制度が大きく揺らいだ。福田外相は日米関係や中国政策への対応を担当し、田中通産相は輸出産業への影響や日米間の通商問題に向き合わなければならなかった。後継者争いの当事者となる二人は、同時に佐藤政権が直面した国際的な課題を処理する責任を負っていたのである。

 1971年10月15日には、田中と米国のケネディ特使との間で、長く難航していた日米繊維問題について基本的な了解が成立した。政府間取極は翌1972年1月に正式に署名され、日米間の懸案が一つ解決した。しかし、この合意は日本の繊維製品の対米輸出を制限する内容でもあり、政府は関連産業の過剰設備の買い上げなどの対策を講じる必要があった。したがって、交渉がまとまったことを田中の政治的な実績として評価する場合にも、関連業界が負担を受けた側面を無視することはできない。

 福田が担当した中国問題にも、後年の評価からは見落とされやすい事実がある。1971年10月19日の外交演説で、福田は中華人民共和国との国交正常化を歴史的な流れと捉え、その実現に取り組む意思を明確にしていた。福田は国交正常化そのものに反対していたのではなく、台湾との関係や国際的な信義への配慮を重視していたのである。したがって、後に田中内閣が日中国交正常化を実現したという結果から、田中を推進派、福田を反対派と単純に対比することは、1971年当時の政策論争を正確に表現したことにならない。

 このように佐藤政権の最終段階では、後継者争いが国際政治の大きな変化と重なっていた。ただし、ニクソン・ショックや繊維交渉の結果によって、具体的に何人の議員が田中支持へ移ったのかを示す資料は確認できていない。外交や経済政策の変化が党内政治に影響する可能性はあっても、出来事の発生時期が重なっているだけで因果関係を確定することはできないのである。

1971年末、沖縄返還を審議する国会の陰で始まった接触

 1971年秋、日本の国会では沖縄返還協定の審議が進んでいた。沖縄返還は佐藤が政権の重要な目標として掲げてきた政策であり、同年6月17日に協定へ署名した後、11月24日に衆議院、12月22日には参議院で承認され、翌年5月15日の返還実現に向けて手続きが進められた。佐藤政権が長年の政策目標を実現しようとしていたこの時期、自民党内部では佐藤退陣後の後継総裁をめぐる議員間の接触も始まっていたとされる。

 1972年3月10日付の共同通信は、佐藤派の田中系、大平派、中曽根派の議員たちが、前年の沖縄問題を審議した国会の後半から接近していたと報じている。この記述は、1971年末に作成された会合記録そのものではなく、翌年3月の報道がそれ以前の経過を振り返ったものである。そのため、最初の接触が具体的に何月何日に行われ、誰が参加したのかまでは確定できない。それでも、田中を推す勢力と他派閥の関係を、1972年5月の擁立集会より前にさかのぼって考える手掛かりにはなる。

 ここで重要なのは、佐藤派内部の田中系議員と、他派閥の議員が、なぜ接触する必要を感じていたのかという問題である。自民党総裁選で勝利するためには、佐藤派だけでなく、党全体で多数の支持を獲得しなければならない。しかも、佐藤が後継候補として福田を重視している以上、福田以外の総裁選出を目指す議員たちにとっては、佐藤の意向による後継者調整ではなく、公選によって総裁を決めることが重要な政治的課題になっていた。

 当時の自民党総裁選における公選とは、現在のような全国的な党員・党友投票を含む制度とは異なり、党所属国会議員と都道府県連の代表によって総裁を選出する方式だった。一般党員が参加する予備選挙の導入は1978年であり、1972年当時の公選を、今日の党員投票と同じものとして理解することはできない。また、現職総裁の意向や有力政治家の話し合いによる後継者選びを「禅譲」と呼んでいたが、これは党則上の正式な選出手続きの名称ではなく、当時の政治的な調整方法を表す言葉だった。

 したがって、田中系、大平派、中曽根派の議員が総裁公選を求めることは、必ずしも全員が田中の総裁就任を支持したことを意味しない。佐藤から福田への継承を既定のものとしないことと、誰を新総裁に選ぶかという問題は、別々に考える必要があった。1971年末から始まったと報じられる接触は、後の田中支持連合が完成していた証拠というより、次期総裁の選出方法をめぐって、異なる派閥の議員が協議を始めた過程として理解するのが適切である。

1972年1月から3月、政治家の実名が連携を物語り始める

 1972年に入ると、前年末からの接触について、日付を伴う具体的な記録が現れる。3月10日付の共同通信によれば、佐藤派田中系、大平派、中曽根派の間では、1月9日と2月23日に幹部級の接触が行われ、その後3月9日に東京都内で中堅議員17人が参加する会合が開かれた。これまで確認できているのは、共同通信の報道を中国側が翻訳・抄録した資料であり、日本語原文との照合は終わっていないものの、当時すでに会合の存在と参加者が報じられていたことは確認できる。

 3月9日の会合で実名が挙げられているのは、佐藤派田中系の亀岡高夫と仮谷忠男、大平派の斉藤邦吉と浦野幸男、中曽根派の蔵内修治と田川誠一である。17人全員の名前を確認できたわけではないが、この6人については、それぞれの所属勢力と会合への参加が報じられている。とりわけ亀岡と仮谷が、当時すでに佐藤派田中系として活動していたことは、田中支持勢力の形成を議員単位で追うための重要な手掛かりになる。

 共同通信の報道によれば、会合では次期総裁を一部の有力者による調整で決めることに反対し、公選を通じて選出することや、党の政策を刷新する必要性について、基本的な意見の一致があったとされる。この点を重視すれば、3月9日の会合は、単なる政治家同士の懇談ではなく、佐藤退陣後の党運営に関する共通の立場を確認する機会だったと考えられる。

 ただし、亀岡と仮谷について確認できるのは、少なくとも3月9日には田中系として活動していたということであって、その日に初めて田中支持を決めたということではない。また、大平派や中曽根派の議員たちについても、会合への参加をもって田中への投票を約束したと解釈することはできない。政治的な協議への参加、後継者の選出方法に関する合意、特定候補への支持表明は、いずれも異なる行為だからである。

 むしろ、この時期の特徴は、誰を次期総裁にするかという最終的な合意に至る前に、佐藤の後継者調整に対する考え方を共有する議員たちの接触が拡大していたことにある。田中系の支持勢力が他派閥へ働きかけるだけでなく、大平派や中曽根派の側にも、佐藤政権の後継問題について独自の判断が存在していた。こうした関係が、後に総裁選をめぐる派閥間協力につながることになるが、1972年3月の段階ですべての協力関係が確定していたわけではなかった。

4月、田中支持の政治家たちは公然と名前を挙げられるようになった

 1972年4月になると、田中を支持する議員たちの存在は、より具体的な形で新聞に登場するようになる。4月28日付『日刊工業新聞』は、田中がすでに45人の議員を自らの側に引き寄せたとする情報を紹介し、その支持勢力には長老格の木村武雄、中堅の坪川信三や二階堂進、比較的若い世代の竹下登らが含まれると報じた。ただし、この45人は当時の報道による人数であり、全員の氏名と支持確認方法が明らかになった確定名簿ではない。

 興味深いのは、同じ記事が田中の次期総裁選への出馬について、なお複数の見方が存在すると伝えていたことである。岸信介は田中が次の総裁選への出馬を見送り、その次の機会を目指すという見通しを示していたとされる一方、木村武雄は田中を次期首相に推すべきだという考えを明確にしていた。後年の歴史を知る立場からは、田中と福田の対決が既定の路線だったように見えがちだが、1972年4月の時点では、田中が実際に出馬するかどうかも政治的な関心事だったのである。

 この時期の田中支持勢力を考える際、木村武雄と二階堂進の役割には特に注目する必要がある。木村は長老格の政治家として田中擁立を訴え、二階堂は田中側の調整役として活動していた。田中支持が特定の世代の議員だけに限られず、長老から中堅、若手にまで広がっていたことは当時の報道から読み取れるが、木村や二階堂がそれぞれ何人の議員を説得したのか、資金や選挙支援がどの程度関係したのかを示す直接的な記録は、現段階では確認できていない。

 さらに複雑だったのは、佐藤政権の内部における支持関係である。竹下登は内閣官房長官として佐藤を補佐していたが、佐藤政権の内部資料に関する研究では、竹下が田中支持に回っていたことが指摘されている。一方、党幹事長の保利茂は佐藤による後継者調整に関わっていた。現職首相を補佐する官房長官と、同じ首相のもとで党運営を担う幹事長の政治的な立場が、次期総裁問題では一致していなかったのである。

 ただし、竹下が田中支持を決めた正確な日付や、佐藤がその動きをいつ認識したのかについては、官邸内部の原記録をさらに調べる必要がある。また、田中支持者として報じられた議員を、すべて一律に佐藤への反対者と分類することもできない。佐藤を現職首相として支えることと、次期総裁には田中を推すことは、政治的に両立し得たからである。

 こうして1972年4月には、佐藤派内部の田中支持者が実名を伴って報じられる一方、他派閥との協力関係や田中自身の出馬判断については、なお流動的な状況が続いていた。田中支持の議員が増加していたという当時の認識は確認できるものの、1971年7月から毎月何人ずつ支持者が増えたかを示す継続的な名簿は見つかっていない。支持勢力の形成を数量的に考えるためには、ここで数字の持つ意味を慎重に区別しなければならない。

45人から81人へ、支持者は本当に36人増えたのか

 1972年4月28日付の新聞報道に現れる45人と、5月9日の田中擁立集会で報じられた81人を比べると、わずか11日間で36人が新たに田中支持に加わったように見える。しかし、この計算をそのまま支持者の増加数とすることはできない。4月の45人は、田中が自らの側に集めたと報道された議員数であるのに対し、5月の81人は集会への参加を計上した人数であり、集計の対象も方法も同一とは確認されていないためである。

 5月9日の集会について、5月11日付『サンケイ』の記事を翻訳・抄録した資料では、衆議院40人、参議院41人の計81人のうち、12人が代理出席だったとされている。これに従えば、本人が出席した議員は69人となる。しかし、集会に欠席した田中支持者も存在していたため、本人出席69人という数字も、田中を支持する議員全体の人数を示すものではない。

 さらに、渡部恒三の後年の回想によれば、衆議院側の参加者40人には、当時無派閥だった渡部本人と小沢辰男が含まれていたという。この証言が正しければ、少なくとも衆議院側の40人全員が佐藤派所属だったわけではない。田中支持81人をすべて佐藤派所属議員として扱うと、派閥内部の支持関係を実際より単純化してしまうことになる。

 当時の新聞は、佐藤派の勢力を衆議院60人、参議院65人の計125人と報じていた。この125人に対して81人は64.8%に相当するが、その数値を厳密な田中支持率として使用することには問題がある。分母は佐藤派全体の報道上の人数であるのに対し、分子の81人には代理出席や無派閥議員が含まれている可能性があり、集計対象が一致していないからである。仮に無派閥の2人を除けば79人となるが、参議院側にも佐藤派以外の議員がいたかどうかは確認できておらず、79人を確定した佐藤派所属の支持者数とすることもできない。

 こうした数字の違いは、細かな計算上の問題にとどまらない。集会の規模が大きかったことは政治的に重要でも、それが佐藤派の何%に相当し、何人がいつ支持を転換したかという問題は、議員の所属と行動を一人ずつ確認しなければ正確に答えられない。4月の45人と5月の81人は、田中支持の動きが大きな政治的関心事になっていたことを示す資料ではあるが、同一の定義で継続的に観測された統計ではないのである。

 また、5月9日の集会に本人が出席した69人と、代理出席を含めて81人が参加を表明したという関係から、政治的な意思表示の方法にも注意が必要になる。本人出席と代理出席では会合への関与の形式が異なり、本人出席した議員についても、総裁選で必ず田中に投票すると正式に約束していたかどうかまでは、参加の事実だけで判断できない。集会への参加、田中支持の表明、実際の総裁選での投票行動は、区別して考えなければならない。

5月9日の柳橋で、佐藤派内部の対立が表面化した

 1972年5月9日の柳橋の集会では、木村武雄が中心的な役割を担った。5月11日付『サンケイ』の報道を紹介した資料によれば、木村は隅田川の花火に触れながら、集会を歴史的なものにしたいという趣旨の演説を行ったとされる。日本語の原紙を直接確認できていないため発言の逐語的な再現は避けるべきだが、田中支持勢力の存在を明確に示そうとする意図を持った集会だったことは、当時の報道内容からうかがえる。

 集会には二階堂進も出席した一方、田中本人のほか、愛知揆一、橋本登美三郎、竹下登ら主要人物が姿を見せなかったと報じられた。こうした欠席者がいたことは、集会の参加者数だけでは田中支持勢力の全体を把握できないことを示している。他方で、欠席の理由が確認できない以上、主要人物が意図的に距離を置いたのか、それとも別の事情で出席しなかったのかについても、推測を事実として書くことはできない。

 後年の回想には、渡部恒三が高鳥修、小沢一郎、羽田孜らとともに柳橋へ向かったという記述もあり、亀岡高夫や小沢辰男の名前も登場する。しかし、参加者81人全員の氏名と、12人の代理出席者の内訳については、確認できる公開資料だけでは確定できていない。また、1972年9月に正式に組織された田中派「七日会」の所属議員を、そのまま5月9日の集会出席者として扱うことも適切ではない。後年の所属から過去の支持関係を逆算すれば、実際には存在したかもしれない支持の変化や態度未定の期間を見落としてしまうからである。

 それでも、集会が持った意味は小さくなかった。佐藤が福田への政権継承を志向するなかで、佐藤派内部の田中支持勢力が大きな集会を開き、その人数と存在を党内外に示したのである。楠田實が残した佐藤官邸関係資料の研究解題でも、1972年5月の81人規模の動きは、田中による派内派形成の重要な出来事として位置付けられている。

 ただし、この段階で佐藤派全体が田中派へ変わったと理解するのは正確ではない。佐藤派にはなお福田への政権継承を支持する政治家たちが存在し、佐藤本人も現職の首相・党総裁として政権と党を率いていた。集会が示したのは、佐藤派の結束が完全に消滅したということではなく、後継者問題について異なる支持関係を持つ議員たちが、もはや一つの政治的な意向にまとめられていなかったという事実である。

 このような集会が佐藤の後継者調整にどの程度の影響を及ぼしたのかについては、さらに検証が必要である。しかし、少なくとも佐藤が福田を後継者として推そうとするとき、田中側の議員たちが大規模に結集しているという事実を無視することは難しくなった。現職総裁の意向によって次期総裁を決める余地と、党内の実際の支持勢力を反映した総裁選によって後継者を決めるべきだという考えが、佐藤派の内部でも鋭く交差する状況になっていたのである。

田中角栄の支持は、何によって広がったのか

 1971年7月から1972年5月までの経過を振り返ると、田中支持勢力の形成を一つの理由だけで説明することは難しい。田中は通産相として日米繊維交渉に関与し、佐藤派内部の政治家たちとの関係を維持する一方、田中系の議員たちは大平派や中曽根派との接触を重ねていた。また、木村武雄のような長老格、二階堂進のような調整役、竹下登のような現職官房長官が田中側に位置付けられていたことから、支持関係が単純な世代別の対立でもなかったことが分かる。

 もっとも、それぞれの議員がなぜ田中を支持したのかについて、同じ理由を当てはめることはできない。佐藤による福田への政権継承に反対した議員もいれば、公選による総裁選出を重視した議員、田中の政治的な活動や人脈に期待した議員もいた可能性がある。しかし、各議員の支持表明や行動を裏付ける記録が不足している以上、そのような理由を個人に割り当てて断定することはできない。

 政治資金や選挙支援についても同じ問題がある。1972年の総裁選では資金の影響が当時から報道されていたが、1971年7月から翌年5月までに田中側がいくら支出し、その資金が具体的に何人の支持獲得に結び付いたのかを示す確定的な会計資料は確認できていない。資金力が政治活動に影響した可能性と、特定議員の支持転換を資金によって説明できることは別問題であり、後年の逸話や金額の推計だけを根拠に因果関係を決め付けることは避けるべきである。

 また、参議院から41人が参加計上されたことを、参議院議員が衆議院議員より田中支持に積極的だった証拠とみなすことにも注意が必要になる。佐藤派の規模について当時報じられた衆議院60人、参議院65人を基準にすると、参加計上数の比率は衆議院が約66.7%、参議院が約63.1%となり、単純な比率では衆議院側の方がやや高い。ただし、衆議院側には無派閥議員が含まれたとの証言があり、厳密な支持割合として比較できる数字ではない。

 参議院自民党では、1971年7月に重宗雄三から河野謙三へ議長が交代しており、その背景には参議院内の人事や政治的な勢力関係をめぐる対立があった。この変化と翌年の田中支持勢力との関係は検討する価値があるが、1971年の議長交代が1972年5月の参議院議員41人の参加を直接引き起こしたとする証拠は、現段階では十分ではない。参議院側の個々の参加者名簿を確認し、以前の政治的な所属や人事上の利害と照合して初めて、その関係を具体的に説明できるようになる。

 結局のところ、田中支持勢力の拡大を理解するには、田中個人の政治的な働きかけだけでなく、佐藤政権の後継問題、党内の人事と選挙制度、他派閥との協議、外交・経済政策をめぐる判断を、相互に関係する問題として考える必要がある。ただし、これらの要因が存在したことと、それぞれが支持拡大へ何%ずつ寄与したかを計算できることは同じではない。個々の議員について継続的な支持動向が観測されていない以上、支持転換率や要因別の影響を数量的に推定することには限界がある。

長期政権を支えた派閥は、なぜ後継者を一人に絞れなかったのか

 佐藤栄作は1964年11月から長期にわたり首相を務め、沖縄返還という重要な政策目標の実現に近づいていた。1972年5月15日の沖縄返還を目前にした5月9日、その佐藤を長年支えてきた派閥内部では、田中角栄を推す議員たちが大規模な集会を開いていた。政権の政策目標が実現しようとする時期に、政権を支える政治勢力の次期指導者をめぐる関係が分かれていたという事実は、長期政権の終幕を理解するうえで重要である。

 この問題の背景には、派閥という組織の性格がある。自民党の派閥は、党の公的な機関として構成員の政治的な意思を一律に拘束する仕組みではなく、領袖との関係、議員間の協力、選挙支援、人事上の期待などによって維持されてきた政治的な集団だった。そのため、現職総裁を支える目的では一致していた議員たちも、次期総裁を選ぶ段階では、それぞれ異なる判断をすることがあり得る。佐藤が福田を後継候補として重視していたとしても、その意向が佐藤派全体の支持決定を意味するわけではなかったのである。

 しかも、1972年の後継問題は佐藤派だけでは完結しなかった。3月9日の三派合同会合に見られるように、田中系の議員たちは大平派や中曽根派の議員と接触し、後継総裁を公選で選ぶことや党の政策を刷新することについて協議していた。これによって佐藤派内部の後継争いは、党全体の総裁選出のあり方と結び付く問題になっていった。佐藤が福田への継承を望んだとしても、その実現には佐藤派の支持だけでなく、他派閥を含む党内の政治的な合意が必要だったのである。

 もっとも、佐藤が福田への政権継承を実現できなかった理由について、5月9日の集会だけで結論を出すことはできない。この段階ではまだ総裁選は実施されておらず、田中を推す議員たちの支持関係にも未確認の部分が残っていた。総裁選における最終的な協力関係が固まるのは、この集会より後のことであり、5月9日の時点で7月の結果が必然的に決まっていたわけではない。

 それでも、1971年末から1972年春までの記録を時系列で重ねると、佐藤派内部の支持関係がどのように可視化されたかを追うことはできる。前年末からの接触が1972年3月の共同通信で報じられ、1月と2月には幹部級の接触があったとされ、3月9日には亀岡高夫や仮谷忠男らの実名を伴う会合が開かれた。そして4月には木村武雄、二階堂進、竹下登らを含む田中支持勢力が報道され、5月9日には衆参両院から81人の参加を計上する擁立集会が開かれた。この経過は、当初から完成していた田中派の活動というより、佐藤派内部の田中支持勢力が、他派閥との接触を重ねながら公然とした政治集団として姿を現していく過程だった。

 1972年5月9日、田中角栄はまだ通商産業大臣であり、福田赳夫は外務大臣、竹下登は内閣官房長官として、ともに佐藤内閣を構成していた。佐藤も現職の首相として沖縄返還を目前に控えていた。しかし、その政権を支えてきた議員たちの間では、すでに次の総裁をめぐる異なる支持関係が表面化していたのである。

 歴史の結末を知る現在の立場から見れば、田中が1972年7月5日の総裁選で福田を破り、7月7日に首相へ就任したことは確定した事実である。しかし、前年の1971年7月から1972年5月9日までを生きた政治家たちにとって、次期総裁の地位はまだ決まっていなかった。田中が出馬するかどうか、佐藤が後継者を調整できるのか、大平や三木、中曽根らの勢力がどのように行動するのかという問題は、いずれも未確定だったのである。

 だからこそ、柳橋の81人集会は、後の総裁選勝利を祝うような場面としてではなく、まだ結果の分からない後継者争いのなかで、田中を推す議員たちが自らの存在を明確に示した出来事として理解すべきだろう。佐藤栄作が長期政権を維持できたことと、その政権を支えた議員たちの支持を福田赳夫へ引き継げることは、別の問題だった。その違いが次第に表面化していった約10か月間にこそ、1972年の自民党総裁選を理解するための重要な政治過程が存在していたのである。

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