総理にならなかった最高実力者・金丸信はなぜ日本政治を動かせたのか
日本政治において、最も力を持つ人物は誰か。
そう問われれば、普通は内閣総理大臣と答えるだろう。閣僚を任命し、政府を代表して外交を行い、衆議院の解散を決定する政治過程でも中心的な位置を占める。その権限だけを見れば、総理大臣こそ政治権力の頂点にいる。
ところが、昭和の終わりから平成の初めにかけて、この常識だけでは説明しきれない政治家がいた。
金丸信である。
建設大臣、防衛庁長官、自民党幹事長、副総理、自民党副総裁まで上りつめながら、彼はついに総理大臣にはならなかった。それでも一時期の日本政治では、「次の総理を誰にするのか」という、本来なら総理大臣を目指す政治家たちが争うはずの問題について、金丸の判断が決定的な意味を持った。
不思議なのは、金丸が総理になれなかったことではない。
むしろ考えるべきなのは、なぜ総理にならなくても、日本政治の最高実力者と呼ばれるほどの力を持てたのかということである。
その答えをたどっていくと、金丸信という一人の政治家の人物像を越えて、いまではかなり姿を変えてしまった「昭和型自民党政治」の構造そのものが見えてくる。
総理候補が「お願い」に行った時代
金丸信の権力が最もわかりやすい形で現れたのは、1991年の自民党総裁選だった。
海部俊樹首相の退陣が決まり、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博らが後継総裁を争った。このとき自民党最大派閥だった竹下派、正式名称を経世会という巨大集団が誰を支持するかによって、勝敗は大きく左右される状況になっていた。
そこで起きたのが、後に「小沢面談」と呼ばれる場面である。
宮沢、渡辺、三塚という総裁候補たちが、竹下派会長代行だった小沢一郎と個別に面談した。総理を目指す政治家が、自分より若い一派閥の幹部を訪ね、政権構想を説明する。その光景そのものが、当時の自民党において最大派閥がどれほど大きな力を持っていたかを物語っていた。
そして、この話にはさらに興味深い続きがある。
小沢一郎が後年語ったところによれば、三人との面談が終わった後、小沢は金丸信、竹下登とともに誰を支持するかを話し合った。そこで三人はいったん、宮沢ではなく渡辺美智雄を支持することで一致したという。金丸自身も「それではミッチーにするか」と同意し、その日の結論は渡辺支持だったと小沢は回想している。
ところが翌朝、金丸は竹下と小沢を再び呼び出した。
そして前日の結論を覆し、「宮沢にしてくれ」と頼んだという。
なぜ金丸が一夜にして判断を変えたのか。その理由について小沢自身も真相は分からないと語っているため、そこから先を史実として断定することはできない。しかし重要なのは、理由ではない。
竹下派が誰を支持するのかという最終局面で、金丸の判断がそれほど大きな意味を持っていたという事実である。
竹下と小沢を含む派閥中枢がいったん渡辺支持で一致しても、翌朝に金丸が宮沢支持を求めれば、結論そのものが動いた。そして竹下派は宮沢支持へと進み、宮沢は総裁選に勝利して首相となった。
ここには、現在の政治感覚では少し理解しにくい光景がある。
総理になりたい人物が、総理経験者の許可を求めていたのではない。総理経験のない金丸信が率いる巨大派閥の判断が、誰が総理になるのかを左右していたのである。
つまり金丸の力は、憲法にも法律にも書かれていなかった。
それでも現実の政治を動かした。
なぜなら当時の自民党では、政治権力のかなりの部分が首相官邸だけではなく、「党」と「派閥」の中にも存在していたからである。
金丸を強くしたのは、金丸だけではなかった
金丸信は1958年の衆議院議員総選挙で初当選し、その後、建設大臣、国土庁長官、防衛庁長官などを歴任した。1984年には自民党幹事長となり、1986年の第3次中曽根内閣では、内閣法第9条に基づいて首相に事故があった場合などに職務を代行する国務大臣、いわゆる副総理に指定された。
だが、こうした肩書だけを追っても、金丸の本当の力は見えてこない。
重要なのは、彼が政治家として成長した時代の選挙制度である。
当時の衆議院選挙では、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区制が採用されていた。自民党が一つの選挙区で複数議席を獲得しようとすれば、同じ選挙区に自民党候補を複数立てることになる。すると奇妙な競争が起きる。同じ自民党でありながら、候補者同士が票を奪い合わなければならないのである。
政党も大きな政策の方向も同じなら、候補者は別の違いを有権者に示さなければならない。そこで重要になったのが、個人後援会であり、地元との結びつきであり、政治資金であり、そして派閥だった。
派閥は単なる政治家同士の親睦団体ではなかった。選挙で候補者を支援し、政治資金を集め、党内人事や閣僚人事をめぐって所属議員を後押しし、総裁選になるとまとまった票を提供する。
議員にとって派閥は、自分の政治生命を支えてくれる組織だった。
そして派閥領袖にとって所属議員は、自分の政治力を数字として示す存在だった。
つまり、金丸が強かったから派閥が強くなっただけではない。
派閥が力を持ちやすい政治制度が存在し、その制度の中で人と金と人事を動かす方法を金丸が誰より深く理解していたから、金丸は強くなったのである。
ここを見落とすと、金丸信は「裏で政治家を操った怪物」という人物伝で終わってしまう。
しかし実際には、金丸は当時の政治制度が生み出した権力の流れを、驚くほど正確に読んでいた政治家だったと考えた方が理解しやすい。
田中角栄から受け継いだ「数」の政治
その政治を金丸に教えた巨大な存在が、田中角栄だった。
田中派は1970年代から1980年代前半にかけて自民党最大級の派閥となり、田中本人が首相を退いた後も大きな影響力を保ち続けた。
田中政治の核心にあったものは、華麗な演説や抽象的な理念だけではない。
政治では、最後には数が必要になる。
総裁選で何票あるのか。国会で法案を成立させるために何人を動かせるのか。大臣や党幹部を何人送り込めるのか。そして選挙になったとき、仲間を何人当選させられるのか。
数を持っている者は、他の派閥と交渉できる。数を持たない者は、どれほど立派な政策を語っても、最後には誰かの協力を求めなければならない。
金丸は、その単純で冷徹な原理を知っていた。
しかし1980年代半ばになると、田中派内部にも世代交代を求める動きが強くなる。竹下登を中心としたグループは1985年に創政会を結成し、その後、田中派は大きく揺れる。そして1987年、竹下登を中心に経世会、いわゆる竹下派が発足した。
竹下が首相になると、金丸は経世会会長となる。
ここで金丸は、田中角栄とは少し違う位置に立った。
田中角栄は自ら総理大臣になり、その後も巨大派閥を背景に政界へ強い影響を及ぼした。
ところが金丸は、総理大臣にならないままキングメーカーになったのである。
この違いは小さいようでいて、実は大きい。
総理になれば、自分自身が政権の責任者になる。経済が悪くなれば批判され、選挙に負ければ退陣を迫られ、政策判断をするたびに支持する者と反対する者が生まれる。
一方、キングメーカーは自ら政権の看板にならずに、政権形成へ大きく関与することができる。
もっとも、ここから「金丸は総理になるより裏から動かす方が得だと計算していた」とまで断定することはできない。
ただ、金丸が結果として手にしたのは、総理大臣とは異なる種類の権力だった。
自分が総理になるのではなく、誰を総理にするのか。
金丸の政治人生が最終的に到達した場所は、そこだった。
「自分がなる」より「誰をならせるか」
もちろん、「金丸が望めば簡単に総理になれた」と考えるのも行き過ぎだろう。
自民党総裁になるには他派閥との関係、年齢、世論、政治的なタイミングなど多くの条件があり、最大派閥の実力者だから自動的に総理になれるわけではない。
しかし小沢一郎は後年、金丸について興味深い証言を残している。
小沢の回想では、金丸は自分自身がトップに立つことを強く望む人物ではなく、若い議員であっても意見を聞き、納得すれば受け入れる人物だったという。
これは小沢という金丸に近かった政治家から見た人物像であって、それ自体を客観的事実として一般化することはできない。しかし、金丸の政治行動を理解する手掛かりにはなる。
彼が得意としていたのは、自分が舞台中央に立って拍手を浴びること以上に、人と人の間に立つことだった。
対立する派閥をつなぐ。若手を引き上げる。国会運営の落としどころを探す。総裁候補の力関係を読み、最後に誰へ票をまとめるかを決める。
それは政策を細部まで設計する政治家というより、政治という巨大な人間関係を動かす政治家の姿だった。
金丸が何度も自民党国会対策委員長を務め、後に幹事長まで上りつめたことも、この政治スタイルと無関係ではない。
国会対策とは、正論を述べれば仕事が終わる場所ではない。与党と野党、政府と党、派閥と派閥の間で妥協点を探し、「ここまでなら相手が受け入れる」という境界を見極める世界である。
そこで必要になるのは、法律や政策についての知識だけではない。
人間を読む力である。
誰が何を欲しがっているのか。誰と誰が対立しているのか。どこまで譲れば相手の顔が立つのか。そして今日の譲歩や恩義が、数年後の政治でどのような関係になって返ってくるのか。
金丸の政治とは、人間関係を長い時間軸で読む政治でもあった。
だからこそ彼には、肩書そのものを越えた力が生まれた。
金と人事が一つの回路につながっていた
だが、ここから金丸政治のもう一つの顔が現れる。
人を束ねるには選挙を支えなければならず、選挙を支えるには金がいる。派閥が議員の選挙や昇進を支援する制度の中では、「数」と「金」は切り離すことができない。
金丸は建設行政との関係が深い政治家でもあり、1972年には田中角栄内閣で建設大臣を務めた。その後、政界での影響力を増していくにつれて、建設会社を含む企業などから多額の政治献金が金丸周辺へ集まるようになっていったことは、後の事件や裁判を通じても明らかになっている。
ただし、ここで注意しなければならない。
建設業界との関係が深かったことと、個々の公共事業が献金の直接的な見返りとして決められたとすることは、同じ意味ではない。根拠のない因果関係まで広げれば、歴史分析ではなく推測になってしまう。
それでも、当時の自民党政治において政治資金と派閥が密接に結びついていたことは重要である。
派閥には所属議員の選挙を助け、人事を調整し、組織を維持する役割があった。そのためには莫大な政治資金が必要になる。一方、企業側にも政治との関係を維持しようとする動機があった。
企業や支援者から政治へ資金が流れ、その資金によって議員の選挙や政治活動が支えられ、議員は派閥へ所属し、その人数が総裁選や党内人事で派閥領袖の力になる。
こうして金と人と票が、一つの循環をつくる。
その循環の中央に立つ人物ほど強くなる。
金丸の権力は、その回路の中で膨張した。
だからこそ後に明らかになる政治と金の問題も、一人の政治家の蓄財問題だけでは終わらなかった。それは、戦後日本の長期政権を支えてきた政治資金と派閥の仕組みそのものへの疑問へと広がっていったのである。
外交まで「個人のパイプ」が動かした
金丸の政治手法は国内だけにとどまらなかった。
1990年9月、金丸は自民党代表団を率い、社会党の田辺誠らとともに北朝鮮を訪問して金日成主席と会談した。
この訪朝を契機として、長く抑留されていた第18富士山丸の日本人船員が帰国し、その後の日朝国交正常化交渉へつながる流れが生まれた。
ここにも金丸政治の特徴がよく表れている。
本来、外交を担うのは政府である。
ところが政府間関係が動かないとき、政党間交流や政治家同士の人的関係が別の通路をつくることがある。制度が動かないなら、人間関係から動かしてしまう。
金丸は、国内政治でも外交でも、この種の政治を得意としていた。
現代から見れば、こうした方法には危うさもある。
外交政策がどのような手続きで決まり、誰が責任を負うのかが曖昧になりやすいからである。その一方で、正式な政府間交渉だけでは解決できなかった問題に政治家同士の接触が突破口をつくることもある。
金丸政治には、この二面性が常につきまとっていた。
制度から見ると不透明である。
しかし、その不透明な人間関係だからこそ、公式の制度だけでは動かないところを動かす場合がある。
その便利さと危険さは、ほとんど同じ場所から生まれていた。
頂点からの転落は、あまりにも突然だった
その巨大な権力は、1992年に崩れ始める。
東京佐川急便から金丸側への5億円の献金問題が発覚し、金丸は自民党副総裁を辞任した。政治資金規正法違反で略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けたが、問題となった金額の大きさに比べ処分が軽すぎるという世論の強い反発が起きた。
金丸はその年の10月、衆議院議員を辞職する。
翌1993年には脱税容疑で逮捕され、巨額の所得を隠したとして所得税法違反で起訴された。裁判は続いたが、金丸は公判中の1996年に死去し、公訴は棄却された。
しかし政治史として重要なのは、一人の大物政治家が失脚したことだけではない。
金丸の退場を契機として、それまで最大派閥の内部に存在していた亀裂が急速に表面へ現れた。
ただし、ここを「金丸がいなくなったから竹下派が割れた」と単純化するのは正確ではない。
竹下派内部では、金丸の後を誰が率いるのかという後継問題に加え、政治改革をどのように進めるのか、小沢一郎らの改革志向と旧来型の党運営を重視する勢力との関係をどうするのかという路線対立が重なっていた。金丸という巨大な調整役が退場したことで、それまで一つの派閥の内部に押し込められていた複数の対立が、一気に政治問題として噴き出したと見る方が実態に近い。
小沢一郎、羽田孜らのグループは、竹下登、小渕恵三らの側と袂を分かち、新たな政策集団を形成する。
その対立はやがて派閥内部だけでは収まらなくなった。
1993年、政治改革をめぐる宮沢政権への不信任決議案に自民党の一部議員が賛成し、衆議院は解散される。総選挙後、小沢、羽田らは自民党を離れて新生党を結成し、細川護熙を首相とする非自民連立政権の成立へとつながっていった。
したがって、金丸一人が消えたことで自民党政権が崩壊したわけではない。
しかし、金丸の失脚が、それまで巨大派閥の内部で抑えられていた後継争いと路線対立を表面化させる重大な契機になったことも確かである。
その意味では、金丸の権力は彼が力を持っていたときだけでなく、彼がいなくなった後にまで、その大きさを示したと言える。
金丸事件だけが政治改革を生んだわけではない
金丸信の失脚から1994年の政治改革へと歴史を一直線につなぐと、話は分かりやすくなる。
しかし、歴史はそれほど単純ではない。
日本政治で「政治と金」が大きな問題となり、選挙制度や政治資金制度を変えるべきだという議論が本格化したのは、金丸事件から突然始まったわけではなかった。
1980年代末にはリクルート事件が政治を揺るがし、政治家と企業との関係、政治資金の透明性、派閥政治の弊害に対する国民の不信はすでに強くなっていた。その流れの中で政治改革は自民党内でも大きな課題となり、海部政権、宮沢政権へと持ち越されていた。
そこへ東京佐川急便事件と金丸問題が起きる。
巨額の政治資金をめぐる問題と、それに対する司法処分への国民の強い不満は、それ以前から存在していた政治不信をさらに深刻なものにした。
つまり、金丸事件が政治改革をゼロから生み出したのではない。
すでに燃えていた政治改革への要求に、大量の油を注いだ事件の一つだったのである。
そして1993年には政治改革をめぐって宮沢政権が行き詰まり、自民党が分裂して政権を失う。細川護熙を首相とする非自民連立政権は政治改革を最重要課題に掲げ、与野党の激しい交渉を経て、1994年に政治改革関連法が成立した。
衆議院選挙は、それまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へ移行する。
政治資金制度も改められ、政党を中心とする政治へ制度の重心が移っていった。
この変化が、その後の自民党政治の権力構造を大きく変えていくことになる。
なぜ「金丸信のような政治家」は生まれにくくなったのか
1994年の政治改革は、金丸信という一人の政治家を消すために行われたものではない。
しかし結果として、金丸のような政治家が力を持つための土壌の一部を弱めることになった。
中選挙区制では、一つの選挙区で自民党候補同士が競争する。そのため候補者は、自分を支えてくれる派閥の資金や組織を必要とした。
ところが小選挙区制では、一つの選挙区から原則として一人の自民党候補しか公認されない。
すると政治家にとって重要になるのは、派閥がどれほど支援してくれるかだけではなく、まず党から公認を得られるかどうかになる。
その結果、候補者公認を握る党執行部、そして自民党総裁の力が相対的に大きくなる。
さらにテレビ政治の発達、世論調査の影響力増大、政党助成制度の導入などが重なり、政治資金、人事、選挙のすべてを一つの派閥領袖が握ることは以前より難しくなっていった。
この変化を逆から眺めれば、金丸信がなぜあれほど強かったのかがよく分かる。
金丸が超人的だったからだけではない。
中選挙区制があり、派閥が選挙を支え、派閥領袖が人事に大きな影響を持ち、政治資金が派閥を通じて所属議員を支え、総裁選では派閥単位の票が勝敗を左右する。
そのいくつもの制度と慣行の交差点に、金丸信が立っていたのである。
彼はその交差点で、誰より巧みに交通整理をした。
だから自分自身が常に車を運転していなくても、どの車をどの方向へ走らせるのかに影響を及ぼすことができた。
金丸信とは何者だったのか
金丸信を評価するのは難しい。
「政界のドン」という言葉だけで英雄視すれば、政治と金をめぐって起きた重大な問題が消えてしまう。
逆に「金権政治家」の一言だけで片づければ、なぜその人物が三十年以上にわたって政治の中心に近づき、最後には総理大臣を選ぶほどの影響力を持ったのかを説明できない。
金丸は、昭和型自民党政治の異常な例外だったのではない。
むしろ、その仕組みが持っていた特徴を極端なほど鮮明な形で体現した政治家だったのではないだろうか。
政治を理念だけではなく、数で見る。
数を維持するために人を育てる。
人を育てるために選挙を支える。
選挙を支えるために政治資金を集める。
そして、その数を使って人事を動かし、総裁選を動かし、政権形成に影響を及ぼす。
こうした循環を動かす能力において、金丸は抜群だった。
しかし、その循環が強くなりすぎれば、やがて「誰が正式な権限を持っているのか」が見えにくくなる。
選挙によって国会議員となり、国会によって指名された首相がいる。その一方で、法律上は首相を指揮する権限など持たない派閥の実力者が、首相候補の選定や党内人事に大きな影響を及ぼす。
制度上の権力と、現実に政治を動かす権力が一致しなくなるのである。
金丸政治の強さは、そのまま金丸政治の危うさでもあった。
そして金丸が失脚すると、その人物によって調整されていた巨大派閥の内部対立が表面化し、自民党の分裂と政界再編へつながっていった。
同じ時期、リクルート事件以来積み重なっていた政治不信に佐川急便事件などが重なり、日本政治は選挙制度と政治資金制度そのものを改める大きな政治改革へ向かっていく。
そう考えると、金丸信の人生には奇妙な歴史の皮肉がある。
彼は総理大臣にはならなかった。
それでも総理大臣をつくる側に立った。
1991年には、渡辺美智雄で一度まとまったとされる最大派閥の判断を、自ら翌朝に宮沢喜一へと変えたという証言さえ残っている。
総理になった人物の名前は歴代首相一覧に残る。
しかし、誰をその一覧に載せるのかを決める政治家が、その背後にいた時代もあったのである。
金丸信が政治の頂点近くにいたころ、日本政治の権力の中心は、必ずしも首相官邸だけにあったわけではなかった。
派閥事務所にあり、議員会館にあり、料亭での会合にあり、ときには一本の電話や、政治家同士の長年の人間関係の中にあった。
法律には書かれていない権力である。
だからこそ強く、だからこそ見えにくかった。
そして一度その仕組みが崩れ始めると、その下から政治資金と派閥、人事と選挙、企業と政治を結んできた昭和型自民党政治の骨組みまでが姿を現した。
「総理にならなかった最高実力者」という金丸信の奇妙な肩書は、一人の政治家を表しているだけではない。
それは、総理大臣という肩書を持たなくても、総理大臣を選び、政権の行方に影響を与えられる政治構造が、日本に実際に存在したことを示している。
そして金丸信という政治家を理解することは、その人物の栄光と転落を眺めることではない。
総理大臣よりも目立たない場所にありながら、ときに総理大臣以上の影響力を発揮する権力とは何なのか。
昭和から平成へ移る日本政治の境目で、金丸信はその問いを、最も極端な形で残した政治家だったのである。

