地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争を経験し、敗戦直後に国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後そのものが映っている。

中曽根はしばしば「大統領型首相」、より正確には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制であり、中曽根が総理大臣になったことで制度そのものが変わったわけではない。彼が変えようとしたのは制度の名称ではなく、総理大臣という職の使い方だった。それまでの自民党政治では、総理とは派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かったのに対し、中曽根は総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論を味方につけながら党と官僚を動かしていく政治を求めたのである。後年の研究でも、その政治手法は「大統領的首相」と位置づけられている。

しかし、その発想は1982年に総理大臣になって突然生まれたものではなかった。むしろ中曽根の政治人生を振り返ると、若いころから一貫して抱いていた問題意識が、長い時間をかけて総理在任中に形になったものだと考えた方が分かりやすい。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

中曽根康弘は1918年、群馬県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業した後、官僚の道に入ったが、ほどなく海軍に入り、戦争を経験した。終戦時には海軍主計少佐となり、敗戦後は内務省系の官僚として勤務した後、1947年、新憲法下で行われた衆議院議員総選挙で初当選する。まだ28歳であり、その後2003年まで衆議院議員を務めることになるのだから、国会議員としての経歴だけで半世紀をはるかに超えることになる。

ここには、中曽根という政治家を理解するうえで重要な原点がある。彼は戦後に政治家になった人物ではあるが、精神形成そのものは戦前の日本で行われ、しかも国家の敗北を軍人として経験した世代だった。戦争に敗れ、それまで絶対的なものに見えていた国家の制度が一夜にして崩れ、占領政策の下で新しい憲法と新しい政治制度がつくられていく光景を、彼は青年期に目撃している。だから中曽根にとって「国家とは何か」「日本は誰が統治するのか」という問いは、政治学の教科書に書かれた抽象的な問題ではなく、自分の青春そのものに刻み込まれた問題だったのである。

戦後の中曽根が自主憲法制定や自主防衛を強く唱えたのも、この経験と切り離して考えることは難しい。ただし、彼を単純な戦前回帰の政治家として理解すると、その後の政治人生を読み誤る。中曽根は後に「戦後政治の総決算」を掲げることになるが、それは戦後40年間そのものを否定するという意味ではなく、本人も国会で、戦後日本が平和、民主主義、平等、経済的繁栄において大きな成果を上げてきたことを明確に認めている。そのうえで、40年という時間の中で制度に生じたひずみを修正し、日本が次の時代に進むための政治を行うというのが、彼のいう「総決算」だった。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

中曽根の「大統領型首相」という発想の源流を探ると、1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼がかなり早い段階から、総理大臣と国民との関係そのものを変えようとしていたことが分かる。

なぜ国会議員でありながら、国会が選ぶ総理ではなく、国民から直接政治的正統性を得る総理を考えたのか。その背景には、中曽根が戦後の議院内閣制の運用に感じていた不満があった。研究では、中曽根の首相公選論には、派閥政治、政権の不安定、激しい政争によって政治責任の所在が曖昧になることへの問題意識があり、民意をより直接的に政治の中心へ取り戻そうという考えがあったと整理されている。

戦後自民党政治では、総理大臣になるために国民から直接選ばれる必要はなかった。それよりも重要なのは、自民党総裁選挙で派閥の支持を集めることであり、そのためには政策だけでなく、誰と組み、誰と妥協し、誰の支持を受けるかが決定的な意味を持った。中曽根が嫌ったのは、まさにこの構造が政治の最終的な責任者を曖昧にすることだったのだろう。総理が国民に向かって国家の方向を示すのではなく、党内の実力者たちの合意をまとめる議長のような存在になってしまえば、政治は誰の意思によって動いているのか分からなくなる。中曽根が求めたのは、国民から政治的な力を得た指導者が、自分の責任で決断する政治だった。

もっとも、ここに中曽根という政治家の面白さがある。理念としては強い指導者を求めながら、自分自身が総理になるまでの道のりでは、誰よりも自民党派閥政治の海を巧みに泳いだからである。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

中曽根には長い間、「風見鶏」というあまりありがたくない呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄ら自民党の実力者が次々と主役を演じる時代、中曽根は政界の中心から完全に外れることなく、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、総理の椅子に近づいていった。

だが、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけると、中曽根の半分しか見たことにならない。むしろ彼には、自分が実現したい国家像を持ちながら、それを実現するためにはまず権力を握らなければならないという、極めて現実主義的な政治観があったように見える。政治家は思想家ではない以上、正しいことを語っているだけでは国家を動かせない。昨日の敵とも必要なら手を結び、党内で少数派なら多数派の力を借り、機会が来るまで待つというその姿勢は、美しくはないかもしれないが、権力というものの性質を熟知した政治家の姿でもあった。

そして皮肉なことに、その中曽根が1982年11月に総理大臣になったとき、彼を首相の座へ押し上げる大きな力となったのが田中角栄だった。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら自民党最大級の勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」とまで揶揄された。長年、国家の指導者として強い首相を構想してきた中曽根が、いざ首相になってみると、背後には巨大な田中派の影が見えるという、何とも皮肉な出発だったのである。

だからこそ、中曽根にとって「大統領型首相」という政治手法は、単なる好み以上の意味を持ったのではないか。党内の後ろ盾によって総理になった人物が、その後ろ盾から自立するためには、別の政治的な力が必要になる。その力を中曽根は、官邸と政策、そして何より国民世論の中に求めたのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が政治の物語をつくったことである。政策を各省庁に任せ、出来上がったものを総理が説明するのではなく、まず総理が「何を変えるのか」という大きなテーマを国民に提示し、そのテーマを中心に政治を動かしていく。テレビというメディアが政治に大きな影響を持ち始めていた時代、中曽根はその性質をよく理解していた。

1985年の国会で中曽根は、自らの政治手法について、政権発足以来「国民にわかりやすい政治」「国民に語りかける政治」を目指してきたと説明している。審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、そこで議論を起こし、その問題を社会全体の議論にしていくという方法も多用した。これは党内や官僚組織の調整だけで政策を決める従来型の政治とは違い、先に世論を動かし、その世論を背景に既得権益を動かしていく手法だった。

ここに「大統領的」と呼ばれる理由がある。中曽根は議会を無視したわけではないし、実際には自民党内の派閥調整も続けていた。しかし政治の表舞台では、総理自身が国民に語り、国家の方向を示し、政策に自分の名前を刻もうとした。総理大臣を巨大な調整機構の最終承認者から、政治の中心的な演者へ変えようとしたのである。

後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権で「官邸主導」という言葉が頻繁に使われるようになるが、その遠い原型を中曽根政治に見ることは十分可能だろう。ただし、中曽根の時代には現在ほど首相官邸の制度的権限が強化されていたわけではない。だから彼は制度の力ではなく、政治技術と世論と個人的な力量によって、総理の力を大きく見せなければならなかったのである。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。もっとも、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではなく、第二次臨時行政調査会は鈴木善幸内閣時代の1981年に設置され、中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっていた。彼は当時から、戦後の日本が欧米への追いつきをほぼ実現した以上、明治以来続いてきた中央集権的で規制中心の行政から、民間の創意や活力を生かす行政へ変える必要があると国会で論じていた。

しかし行政改革とは、誰もが賛成できる抽象的な言葉ほど簡単なものではない。実際に改革を始めれば、省庁の権限、国会議員の利害、業界団体、労働組合、地域経済など、既存の制度によって利益を得ているさまざまな勢力と衝突する。つまり行政改革を実現するためには、関係者全員の合意を待つ調整型政治では動かない場面が必ず出てくる。そこで必要になるのが、「国家全体の利益」という大きな物語を掲げ、個別の利害を乗り越えようとする強い首相だった。

中曽根政権下では、日本電信電話公社と日本専売公社の民営化が1985年に実現し、さらに最大の難題であった日本国有鉄道の分割・民営化も進められ、1987年4月に新しい鉄道会社へ移行した。日本国有鉄道は巨額の累積赤字と長期債務を抱えており、改革は以前から国家的課題となっていたが、巨大組織を実際に解体し、新しい経営形態へ移す作業には極めて大きな政治的エネルギーが必要だった。

行政改革は、中曽根がなぜ強い首相を求めたのかを最もよく説明している。大統領型首相とは、威張る総理のことではない。中曽根にとってそれは、巨大な制度を変更するとき、誰が最終的な政治責任を引き受けるのかという問題だったのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

中曽根の大統領的な政治手法が最も映像的に表れたのは、国内政治より外交だったかもしれない。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。

しかし、これは単なる仲良し外交ではなかった。1980年代、日本はすでに世界有数の経済大国となりながら、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間にはなお距離があった。中曽根は、その日本を単なる経済大国から国際政治の主体へ押し上げようと考え、日米同盟を外交の基軸として明確に位置づける一方、中国や韓国との関係構築にも力を入れた。外務省の当時の記録でも、中曽根はレーガンとの首脳外交を通じ日米の相互信頼を強化すると同時に、中国の指導者とも関係を深めている。

首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と非常に相性がよかった。国と国との関係を官僚同士の交渉だけで処理するのではなく、国家の指導者同士が信頼関係をつくり、その姿を世界と国民に見せる。そこでは総理は国内の派閥代表ではなく、「日本」という国家そのものを演じる人物になる。中曽根が求めていた大統領的首相像は、サミットという舞台に立ったとき最も完成された姿を見せたともいえる。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

中曽根政治を語るとき避けて通れないのが、「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度全体を一度検証し直そうとする意志が込められていた。

防衛政策でも、中曽根政権は従来より積極的な姿勢を取った。1976年の三木内閣以来、防衛関係費について国民総生産の1%を上限の目安とする方針が続いていたが、中曽根政権末期の1987年度予算ではこの枠を適用しないことが決まり、結果として1%を超えることになった。ただし中曽根自身は、防衛費を無制限に増やす考えではなく、専守防衛や非核三原則などを維持しながら防衛力を整備するという説明をしていた。

このあたりが、中曽根という政治家を単純な「保守強硬派」という一語で説明できないところでもある。国家意識や自主防衛を強調する一方で、現実の外交ではアメリカとの同盟を重視し、中国や韓国との関係にも気を配る。理念だけを見れば一直線に進みそうに見えるが、現実政治では何度も速度を落とし、ときには方向を修正する。その姿を「風見鶏」と見るか、「現実主義者」と見るかによって、中曽根への評価は大きく変わる。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

その矛盾が最も鮮明に現れた出来事の一つが靖国神社参拝だった。戦後40年にあたる1985年8月15日、中曽根は首相として靖国神社を公式参拝した。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにすることが目的だと説明したが、中国から強い批判が寄せられ、外交問題となった。

興味深いのは、その後である。中国側からの反発を受け、1986年と1987年には中曽根首相の靖国参拝は行われなかった。外務省の後年公開資料にも、1985年の公式参拝を契機に中国側から強い批判があり、その後の首相参拝が見送られた経緯が記録されている。

ここには「大統領型首相」の限界と、中曽根の現実主義が同時に表れている。強い指導者だからといって、自分の信念だけで国家を動かせるわけではない。国内で支持される象徴的行動が外交では重大な摩擦を生むこともあり、そのとき政治家は理念と国益の間で判断しなければならない。中曽根は踏み込み、反発を受け、そして引いた。その姿は一見すると一貫性を欠いているようでありながら、政治とは自分の意思を貫くだけの仕事ではないことを誰より理解していたとも読めるのである。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

1986年の衆参同日選挙で、自民党は衆議院304議席を獲得する大勝を収めた。 田中角栄の力を借りて総理になり、「田中曽根」と揶揄された男は、4年後には自分自身の人気と政権実績を背景に自民党を歴史的勝利へ導く首相となっていたのである。

ここで中曽根の「大統領型首相」は一つの完成を見る。党内派閥の合意によって選ばれた総理が、国民に直接語り、選挙で大勝し、その結果によって党内に対する自らの権威を強める。制度として首相公選を実現することはできなかったが、政治的には国民の支持を自らの権力基盤とする総理像をかなりの程度まで実現したともいえる。

中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。戦後の総理大臣としては異例の長期政権であり、短命内閣が珍しくなかった昭和の自民党政治の中では、それ自体が中曽根政治の力を示している。

だが、政治の絶頂は永遠には続かない。1987年に導入を目指した売上税は激しい反発を受けて挫折し、中曽根自身も後に、国民への説明時間や手続きが十分ではなく、理解を得られなかったことを認めている。 それは皮肉にも、「国民に語りかける政治」を掲げて成功してきた中曽根が、最後に国民への説明不足によって大型改革につまずいた出来事だった。

強い首相でも、世論を越えて政治を行うことはできない。むしろ中曽根政治の成功と失敗は、大統領的リーダーシップとは世論を無視する政治ではなく、世論との関係を絶えずつくり続けなければ成立しない政治であることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

1987年11月、中曽根は竹下登を後継に選び、総理の座を退いた。だが、そこで政治家としての人生が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済について研究・政策提言を行う拠点をつくり、政界の長老として発言を続けた。

もちろん、その晩年が完全に平穏だったわけでもない。リクルート問題をめぐって自民党を離党する時期もあり、中曽根政治の影の部分が消えたわけではなかった。それでも国会議員としての活動を続け、2003年まで衆議院議員の座にあった。

その政界最後の場面も、中曽根らしい。85歳となった2003年、小泉純一郎首相が自民党の比例代表候補に73歳定年制を厳格に適用しようとしたため、中曽根は引退を求められた。当初は強く反発したものの、最終的には立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

ここには奇妙な歴史の巡り合わせがある。中曽根が開拓した「総理が国民に直接訴え、党内の長老や派閥を越えて決断する政治」を、より鮮明な形で実践した政治家の一人が小泉だった。その小泉による党改革の対象となり、昭和政治を代表する中曽根自身が舞台から降ろされることになったのである。

自分がつくった新しい政治の型が、やがて自分の属していた古い政治の世界を壊していく。その場面は、中曽根康弘という政治家の終幕として、不思議なほど象徴的だった。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。

それは単純に権力欲が強かったからではない。もちろん、政治家として強烈な上昇志向を持った人物であったことは否定できない。しかしその奥には、戦争と敗戦を経験し、戦後日本の政治を最初から見続けてきた人物として、「誰が国家の方向を決め、その結果に責任を負うのか」という問いがあったのではないだろうか。

派閥が総理を選び、官僚が政策をつくり、業界団体が利益を守り、政治家がそれを調整する。その仕組みは高度経済成長期の日本を安定させるうえで大きな役割を果たしたが、経済大国となり、国際政治でも責任を求められるようになった1980年代には、従来の調整型政治だけでは国家の方向を決めにくくなっていた。中曽根はそこに、国民へ直接語りかける首相、政策の優先順位を自ら決める首相、外国の首脳と国家を代表して渡り合う首相を置こうとしたのである。

その試みには危うさもあった。指導者の個人的信念が強くなれば、議会や党内の慎重な議論が軽視される危険があり、世論への直接訴求が政治的演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられる可能性もある。中曽根自身、靖国参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会の合意との間にある難しさを経験した。

それでも、中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身がテレビの前に立ち、国民へ政策を説明し、首脳外交を自ら演出し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治で繰り返し現れるようになった。中曽根が完全な形で大統領型首相を完成させたというより、総理大臣という職にはこれほど大きな政治的可能性があることを、日本政治に見せたと考える方が適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、令和の日本まで生きたことになる。

その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで世界政治を語り、21世紀には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

だから中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないのだろう。国家とは何か、憲法とは何か、安全保障とは何か、日本は世界でどのような国になるべきなのかという巨大な問いを、政治家自身の言葉で語ることをためらわなかった最後の世代に属していた、という意味の方が近い。

その思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政治には功績もあれば、現在まで評価の分かれる政策や言動もある。しかし、半世紀を超えて政治の中心近くに居続けながら、最後まで「日本という国をどうするのか」という問いを手放さなかったことだけは確かだろう。

中曽根康弘が求めた「大統領型首相」とは、結局のところ権力の形式ではなく、政治家が国家の進路について自ら決断し、自ら国民に説明し、その結果について自ら歴史の評価を受けるという政治家像だったのではないか。

昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。強い総理がよいのか、調整する総理がよいのかという単純な二者択一ではなく、民主主義の中で政治的リーダーシップはどこまで強くあるべきなのか。そして、強い指導者を望むとき、その力を誰が監視し、誰が最後に裁くのか。

中曽根康弘という政治家の生涯は、その問いへの答えではない。

むしろ、昭和から令和へ残された、まだ終わっていない問いなのである。

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