地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

上州戦争の半世紀~福田赳夫と中曽根康弘は群馬県民に何を残したのか

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 2006年3月7日、前橋市にある自由民主党群馬県支部連合会の建物で、戦後群馬県政の一時代を画する決定が下された。福田赳夫元首相の系統に属する県議会議員の「政策同志会」と、中曽根康弘元首相の系統に属する「県政塾」が、それぞれの組織を解消し、統合することになったのである。政策同志会の所属議員は30人、県政塾は13人。翌日の朝日新聞は、この出来事を「福中戦争ついに幕」と報じた。

 不思議なのは、この2つの政治組織が、長年にわたって対立していたにもかかわらず、県議会には同じ自由民主党として会派を届け出ていたことである。政党が異なるわけではなく、基本的な政治理念にも大きな隔たりがあるとは限らない。それなのに、なぜ別々の組織を維持し、知事との関係や県政人事にまで影響する競争を続けていたのだろうか。しかも、その対立は群馬県議会だけで完結せず、市町村長や地方議員を含む地域政治の人脈にも及んでいたという。

 群馬県は、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三という3人の内閣総理大臣を生んだ土地である。中央政界に強い影響力を持つ政治家が複数存在すれば、地域にとって有利に働くと考えることもできる。国への要望を伝える経路が増え、道路や河川などの公共事業、産業振興、地域の課題への対応が進みやすくなる可能性があるからだ。しかし、政治家同士が同じ地元の票を争い、地方議員や有力者が別々の陣営に分かれるとすれば、その影響は単純ではない。政治的競争によって住民の声が届きやすくなったのか、それとも地域社会や自治体運営に余分な対立を持ち込んだのかという疑問が生まれる。

 戦後群馬県を舞台に繰り広げられた「上州戦争」、または「福中戦争」は、福田と中曽根という2人の政治家の因縁として語られることが多い。だが、選挙の勝敗や中央政界での権力争いだけを追っていては、その歴史の半分しか見えないのではないだろうか。高崎の市街地から吾妻川沿いの山間地域まで、同じ選挙区に暮らしていた有権者にとって、この競争は何を意味していたのか。その問いを解くため、まだ自由民主党という政党さえ存在していなかった1952年までさかのぼってみたい。

まだ同じ政党ではなかった2人が、なぜ生涯の競争相手になったのか

 福田赳夫が初めて衆議院議員に当選したのは、1952年10月1日の総選挙だった。福田は群馬県群馬郡金古町、現在の高崎市に生まれ、大蔵省の官僚を経て47歳で政界に進出した。一方の中曽根康弘は高崎市出身で、内務省の官僚を経て1947年に28歳で初当選しており、1952年には既に3回目の当選を目指す現職議員だった。

 当時の衆議院旧群馬3区は定数4人で、福田は無所属、中曽根は改進党から立候補した。選挙結果を確認すると、中曽根が71,967票で第1位、福田が46,531票で第2位となり、両者の得票差は25,436票だった。この時点では所属政党が異なり、後年の自由民主党内の派閥争いという構図もまだ成立していなかった。それでも、同じ地域の有権者から票を集める政治家として、2人の競争はこの選挙から始まった。

 1955年11月、自由党と日本民主党が合同して自由民主党が成立すると、福田と中曽根は同じ政党に所属することになった。本来ならば、政治的な立場が近い候補者同士は協力関係を築くと考えることもできるが、当時の衆議院選挙制度は、同じ党の政治家を競争させる仕組みを持っていた。旧群馬3区では4人の議員を選出する一方、有権者が投票できる候補者は1人だけだったため、同じ自由民主党から複数の候補者が立候補すれば、それぞれが自分自身の得票を確保しなければならなかったのである。

 現在の小選挙区制では、原則として1つの選挙区から1人しか当選できないため、政党は候補者を一本化する必要がある。しかし、当時の中選挙区制では、同じ党の候補者が複数当選することが可能であり、自由民主党が選挙区内で多くの議席を獲得するためには、複数の候補者を擁立することに合理性があった。その反面、候補者個人にとっては、同じ党の候補者であっても自分の票を奪い合う競争相手となる。政党全体の支持が増えても、自分自身に票が集まらなければ当選できないからである。

 こうした制度の下では、政治家個人を継続的に支持する後援会や、地方議員、地域有力者との関係が重要になる。政治学でも、中選挙区制における同一政党候補者間の競争が、候補者個人の支持基盤の形成や選挙運動のあり方に影響したことが論じられている。福田と中曽根の競争を、単なる性格の不一致や個人的な感情の問題として説明できないのは、このためである。

 もっとも、中選挙区制であれば必ず上州戦争のような長期対立が生じるというわけではない。制度は競争を生みやすくする条件の1つであって、政治家の経歴、支持組織、中央政界の派閥関係、地域の社会構造などによって、競争の強さは変わる。同じ高崎市にゆかりを持つ福田と中曽根が、別々の政治的人脈を形成しながら選挙を重ねたことが、その後の長い競争につながったと考えられる。

当選するだけでは足りなかった~地元の1位を争う意味

 1952年の初対決では中曽根が福田を上回ったが、その順位は固定されたものではなかった。1958年の衆議院選挙では、福田が88,027票を獲得し、70,852票だった中曽根を初めて逆転した。その後、1960年、1963年、1967年も福田が首位を維持したものの、1969年には中曽根が106,823票、福田が99,466票となり、再び順位が入れ替わった。

 ここで考えたいのは、なぜ両者が当選順位にこだわる必要があったのかという問題である。旧群馬3区の定数は4人であり、上位4人に入れば衆議院議員としての地位は確保できる。実際に福田も中曽根も、長年にわたって当選を重ねている。それでも首位を争い続けた背景には、得票順位が地元での支持の厚さを示す分かりやすい指標となり、中央政界や後援会に対する政治的な影響力の表現にもなっていた可能性がある。

 ただし、首位当選した候補者が常に最大の組織力を持っていたと判断することはできない。選挙ごとに有権者数や候補者数が変化し、他の候補者の得票状況によっても順位は変わるからである。実際、1969年の旧群馬3区では7人が立候補していたが、1972年には5人に減少している。候補者数が変われば、同じ有権者が同じ判断を続けていたとしても、選挙全体の得票構成は変わり得る。

 それでも、1969年の中曽根による首位奪回は、2人の競争が一方的なものではなかったことを示している。福田が中央政界で地位を高めても、中曽根には独自の支持基盤があり、その逆も成り立っていた。2人がともに当選できる選挙制度の下で、それぞれが独立した政治組織を維持する合理性が存在したのである。

 この仕組みを考えると、上州戦争の特徴が少し見えてくる。議席を失わないための競争だけでなく、地元での政治的主導権を維持するための競争が重なっていた可能性があるのだ。そして1972年、中央政界の大きな出来事が、その競争をさらに複雑なものにしていく。

1972年、福田に集まった178,281票をどう読み解くか

 1972年7月5日、自由民主党総裁選挙で福田赳夫は田中角栄に敗れた。自由民主党の公式記録によれば、決選投票では田中が282票、福田が190票を獲得している。中曽根康弘は田中支持に回っており、同じ群馬県出身の福田とは異なる立場を取った。この総裁選挙は「角福戦争」と呼ばれる中央政界の権力争いを象徴する出来事だったが、その約5か月後、福田と中曽根の地元でも注目すべき選挙結果が現れた。

 同年12月10日の衆議院選挙で、旧群馬3区の福田は178,281票を獲得し、第1位となった。中曽根は93,879票で第2位、続いて日本社会党の山口鶴男が57,909票、自由民主党の小渕恵三が37,258票を獲得して当選し、日本共産党の遠藤功は18,544票で落選している。福田と中曽根の得票差は84,402票に広がり、福田は他の候補者を大きく引き離した。

 この結果を、田中角栄に敗れた福田への地元の同情や、中曽根が田中支持に回ったことへの反発で説明したくなるかもしれない。しかし、選挙結果を数理的に検証すると、そのような解釈だけでは説明しきれない変化が起きていたことが分かる。

 1969年の旧群馬3区では、全候補者の得票合計が363,109票だったのに対し、1972年は385,871票となり、増加率は約6.3%だった。一方、福田個人の得票は1969年の99,466票から1972年の178,281票へと78,815票増え、増加率は約79.2%に達している。有効得票総数に占める福田の割合も、1969年の約27.4%から1972年の約46.2%へ上昇した。選挙全体の投票数の増加だけでは、福田への票の集中を説明できないのである。

 さらに、自由民主党全体の得票構成を調べると、別の事情が浮かび上がる。1969年に福田、中曽根、小渕の3人が獲得した票の合計は256,474票で、有効得票総数の約70.6%を占めていた。1972年には3人の合計が309,418票となり、その割合は約80.2%へ上昇している。つまり、この期間には福田個人の得票が増えただけでなく、旧群馬3区における自由民主党3候補の得票割合そのものが約9.6ポイント上昇していた。

 それでも、福田の突出した得票増加を党全体の支持拡大だけで説明することは難しい。自由民主党3候補の合計得票に占める福田の割合を計算すると、1969年は約38.8%だったが、1972年には約57.6%へ上昇している。これは、自由民主党の候補者間でも、福田への得票集中が進んでいたことを意味する。

 もっとも、1969年には35,942票を獲得した公明党候補者がいたのに対し、1972年には同党の候補者がいなかったことも考慮しなければならない。小渕の得票も1969年の50,185票から1972年には37,258票へ減少しており、候補者の顔ぶれや競争条件が変化したことで、票の配分が変わった可能性がある。ただし、個々の有権者が誰から誰へ投票先を変更したのかは、候補者別の集計結果だけでは分からない。地域全体の得票構成をもとに、個人の投票行動まで決めつけることは、統計学でいう生態学的誤謬につながる。

 なお、1972年の旧群馬3区の有権者数は452,648人であり、福田の178,281票は有権者全体の約39.4%に相当する。先ほどの46.2%という数字は有効投票に占める割合であり、有権者全体に占める割合とは異なる。どちらも同じ選挙結果から計算できる正しい数字だが、何を分母としているかによって意味が変わるのである。

 したがって、1972年の福田への票の集中には、中央政界の総裁選挙、候補者構成の変化、自由民主党全体の得票増加、党内候補者間の得票配分の変化など、複数の要因が重なっていたと考えるのが妥当だろう。中曽根の田中支持に対する地元の反応がどの程度影響したのかは、当時の新聞報道や後援会関係者の証言、市町村別の得票記録をさらに調べなければ判断できない。

 しかし、この選挙結果は、中央政界の権力争いが地方の選挙と切り離されたものではなかったことを考える重要な手がかりになる。首相候補としての期待、政治家への信頼、後援会との関係、国政での行動への評価など、有権者の投票にはさまざまな動機が重なり得る。上州戦争は、その複雑な関係を数字の中に残しているのである。

県知事を選ぶ問題が、なぜ自民党県議団を2つに割ったのか

 上州戦争が地方政治に与えた影響を考えるうえで、1975年から1976年にかけての群馬県知事選挙をめぐる動きは重要である。2006年3月8日付の朝日新聞は、福田系と中曽根系の県議会二派閥が形成された背景について、1975年ごろに両元首相の周辺で知事候補者選びが難航し、最終的に中立的な立場にあった元県議が擁立されたことを挙げている。

 1976年7月25日の群馬県知事選挙では、清水一郎が484,459票を獲得し、373,443票だった山田譲を破って当選した。群馬県選挙管理委員会の記録で確認できるのは、この選挙結果であり、福中両陣営がどのような過程を経て候補者選びに関与したのかについては、当時の県議会記録や政党関係文書、報道をさらに照合する必要がある。

 それでも、知事候補者の調整をめぐる対立が県議会内の政治組織に影響したという報道は、上州戦争の性格を考えるうえで示唆的である。国会議員の選挙で票を争っていた2つの陣営が、県知事という地方行政の責任者を選ぶ問題にも関与するようになったとすれば、競争の舞台は国政選挙から県政運営へと広がったことになるからである。

 ここで忘れてはならないのが、国会議員と県知事の制度上の関係である。県知事は住民による直接選挙で選ばれ、県の予算案や条例案を提出し、行政組織を統括する。一方、県議会は予算や条例、人事案件などを審議する機関であり、国会議員が知事や県議会議員に対して法的な指揮命令権を持つわけではない。国政政治家の系列が県政に影響したとしても、それは選挙支援、党内調整、地方議員との関係などを通じた政治的な影響であって、行政制度に定められた上下関係ではないのである。

 この区別は、福中両系統の対立を考察するうえで欠かせない。同じ自由民主党に所属する県議会議員が別々の組織を維持していたとしても、それ自体が直ちに不適切というわけではない。民主政治では、同じ政党の議員が政策や人事について異なる意見を持つことはあり得るし、内部に複数の意見が存在することが、政策の検討を深める場合もあるからだ。

 問題となるのは、意見の違いが何に基づいていたかという点である。行政運営上の合理性や政策内容をめぐる対立だったのか、それとも国会議員の政治的系列との関係が判断に強く影響していたのか。その違いを確認するには、県議会に提出された議案の内容、審議で示された理由、採決結果などを具体的に調べなければならない。

 2006年の派閥統合を伝えた朝日新聞は、約2年半前にも、小寺弘之知事が出納長を副知事に起用しようとした人事案をめぐって、福田系と中曽根系の県議の間で賛否が分かれたと報じている。これは両系統の違いが県政人事に表れた事例として重要だが、現段階では該当議案の原文や採決記録まで照合できていないため、対立の具体的な理由を断定することはできない。

 上州戦争が県政に与えた影響を明らかにするには、こうした個別案件を積み重ねて検証する必要がある。知事との関係が変わったことで行政の意思決定が円滑になったのか、逆に調整が難しくなったのか。政治的な系列によって政策の賛否が分かれた場合、その違いは県民にどのような結果をもたらしたのか。政治家同士の対立が存在したという事実と、それが行政運営に与えた効果は、別々に評価しなければならないのである。

道路を造ってほしいとき、住民は誰を頼ったのか

 政治家の競争が住民の日常生活に影響するとすれば、その接点の1つは行政への陳情だったと考えられる。道路の拡幅、橋の架け替え、河川の護岸整備、学校施設の改善、農業用水の確保など、地域に暮らす人々の要望には、市町村の予算だけでは対応できないものが少なくない。県や国との協議、補助制度の活用、事業計画への位置付けが必要になる場合には、地方議員や国会議員が要望を取り次ぐこともある。

 中選挙区制の下では、同じ選挙区に複数の有力政治家が存在するため、住民や自治体が要望を届ける経路も複数になり得る。福田系と中曽根系の政治組織がそれぞれ地域との接点を持っていたなら、住民にとっては相談先の選択肢が増えていた可能性がある。その一方で、どちらの系列に属する議員や後援会を通じて要望するかによって、地域内の政治的な関係が複雑になっていた可能性も否定できない。

 ただし、こうした可能性をそのまま群馬県の実態として記述することはできない。福田系の支持が強かった自治体が多くの公共事業を獲得したとか、中曽根系の地域が予算配分で優遇されたという事実は、現在確認できている選挙結果と県議会派閥の記録だけでは証明できないからである。実際にそのような関係があったかどうかは、当時の陳情記録、行政文書、事業採択の経緯などを照合する必要がある。

 しかも、自治体間の公共事業費を比較する場合、単純な金額の大小だけでは意味を取り違える。山間部の自治体では、人口が少なくても長い道路や多くの橋梁を維持しなければならず、急傾斜地や河川の存在によって工事費も高くなる場合がある。一方、人口が集中する市街地では、同じ道路延長でも交通量や利用者数が異なる。公共事業費が多いというだけで、政治的な優遇があったと判断することはできないのである。

 例えば、人口1人当たりの公共事業費、道路延長1キロメートル当たりの維持管理費、面積1平方キロメートル当たりの道路整備費などを計算すれば、単純な総額比較よりも地域の条件を把握しやすくなる。ただし、これらの指標にも限界がある。道路延長当たりの費用が高い自治体でも、橋梁やトンネルが多ければ合理的な支出である可能性があり、人口1人当たりの事業費が大きくても、広域的な交通網を維持している場合には、その利益を受ける人々が自治体の住民だけとは限らない。

 さらに、事業の計画、予算化、着工、完成には時間差がある。ある政治家が首位当選した年に公共事業費が増えていたとしても、その事業は数年前から計画されていたのかもしれない。国の制度改正や災害対策によって予算が増えた可能性もあり、政治家の支持基盤と行政資源の配分の間に統計的な関連が見つかったとしても、それだけで因果関係を断定することはできない。

 上州戦争が公共事業の獲得競争として地域の発展を促したのか、それとも政治的な系列による調整を増やしただけだったのか。この問いに答えるには、特定の政治家が支持されていた地域と、実際に事業が採択された地域を照合し、その事業が必要とされた行政上の理由を一つずつ確かめる必要がある。

吾妻川の谷で、政治家たちの争いはどう見えていたのか

 上州戦争と住民生活の関係を考えるうえで、特に複雑な問題を投げかけるのが八ッ場ダムである。群馬県長野原町に建設されたこのダムは、1952年に調査が始まり、2020年3月31日に完成し、同年4月1日から管理段階に移行した。調査開始から完成まで68年に及ぶ事業であり、利根川流域の洪水調節や首都圏の水利用などを目的として計画された。

 下流域に暮らす人々にとって、ダムは洪水被害の軽減や水の安定供給に関係する施設である。しかし、建設予定地に住む人々にとっては、家や土地、農地、地域の歴史をどうするかという問題でもあった。公共事業の利益を受ける地域と、建設によって生活環境が大きく変わる地域が必ずしも一致しないことは、広域的なインフラ整備が抱える難しさを示している。

 群馬県が公開している八ッ場ダムの歴史によれば、計画が発表された当初、水没予定地の住民は強く反対し、その後も地域内で賛成と反対の立場が分かれた。1980年には群馬県が生活再建案を提示し、1990年には建設省と群馬県が地域居住計画を作成した。その後、1992年に長野原町、1995年に旧吾妻町で建設に関する基本協定が締結され、補償や生活再建を含む長い協議が進められていった。

 ここで注目したいのは、八ッ場ダムの計画が福田赳夫の初当選と同じ1952年に始まり、福田と中曽根が政治的競争を続けていた時期に、地元住民との交渉が重なっていたことである。住民団体「八ッ場あしたの会」は、福田がダム推進の立場を取り、中曽根が水没予定地で慎重な姿勢を示していたと説明している。同団体の記録には、ダム計画をめぐって地元住民が中央政界の政治家に働きかけようとした経緯も記されている。

 ただし、こうした記述には、住民団体の立場から見た歴史的な評価が含まれることに注意する必要がある。同団体の説明だけで、福田と中曽根が各時期にどのような公式見解を示し、行政にどのような働きかけを行ったかを確定することはできない。政治家の発言や行動については、国会会議録、当時の建設省の文書、群馬県と地元自治体の交渉記録などによる裏付けが必要である。

 国土交通省の事業記録では、1967年に実施計画調査が始まり、1970年に建設事業へ移行したことが確認できる。しかし、そこから2020年の完成までには、住民との補償交渉、生活再建、事業費や工期の見直し、治水と利水の必要性をめぐる議論、さらには政権交代に伴う建設中止方針と再検証など、多くの出来事が存在している。これほど長期にわたる事業の経過を、福田と中曽根の対立だけで説明することはできない。

 それでも、地元の政治的な関係が住民の要望を届ける経路に影響していた可能性は、検証する価値がある。ダム建設への賛否だけでなく、移転先の確保、補償条件、道路や鉄道の付け替え、地域振興策など、住民が行政に求めた内容は時期によって変わったはずである。その中で国会議員や地方議員がどのような役割を果たしたのかを明らかにすることができれば、上州戦争と県民生活との接点を、より具体的に捉えられるだろう。

 八ッ場ダムの完成によって、吾妻川沿いには新たな湖面を中心とした風景が生まれた。しかし、現在の景色だけを見ても、かつてそこにあった集落の暮らしや、計画を受け入れるまでの住民の判断を十分に知ることはできない。政治家たちの競争が地域社会に何をもたらしたのかを考えるなら、完成した施設の規模だけでなく、その実現に至る過程で住民がどのような選択を迫られたのかという問題にも目を向けなければならない。

現職首相になっても、地元の首位は簡単には譲らなかった

 1976年12月24日、福田赳夫は内閣総理大臣に就任した。1952年の初当選から24年後のことである。一方、中曽根康弘が首相に就任したのは1982年11月27日であり、福田から約6年遅れて首相の座に到達した。2人は同じ選挙区で競争しながら、ともに日本の政治の頂点に立つことになったのである。

 ところが、中央政界での地位と地元での得票順位は必ずしも一致しなかった。1986年7月6日の衆議院選挙では、中曽根が現職首相として選挙を迎えたにもかかわらず、旧群馬3区の第1位は120,500票を獲得した福田であり、中曽根は115,381票で第2位だった。両者の得票差は5,119票と小さかったが、福田は首相退任後も中曽根を上回る得票を維持していたことになる。

 全候補者の有効得票総数410,218票に占める割合を計算すると、福田は約29.4%、中曽根は約28.1%であり、その差は約1.2ポイントだった。1972年に福田が他の候補者を大きく引き離した状況とは異なり、1986年には両者の得票がかなり接近している。ただし、中曽根は現職首相でありながら地元で第2位だったという事実だけで、首相としての政治的評価が低かったと結論付けることはできない。国政全体の支持と、特定の選挙区での個人の得票順位は異なる指標だからである。

 興味深いのは、同日に行われた参議院選挙でも、福田と中曽根の政治的系列が競争していたことである。群馬県選挙管理委員会の公式記録によると、中曽根康弘の長男である中曽根弘文が364,103票、福田赳夫の実弟である福田宏一が354,964票を獲得し、ともに当選した。衆議院では福田赳夫が中曽根康弘を上回り、参議院では中曽根弘文が福田宏一を上回る結果となった。

 もっとも、衆議院旧群馬3区と参議院群馬県選挙区では、有権者の範囲が異なる。衆議院は県内の一部地域を対象としていたのに対し、参議院は群馬県全体を対象としているため、得票数の大小をそのまま比較して、どちらの系列が県全体で優勢だったかを判断することはできない。

 それでも、両院で福田と中曽根の政治的系列がそれぞれ候補者を擁立し、議席を確保していた事実は重要である。上州戦争は、2人の政治家が首相になれば終わるような一時的な対立ではなく、後援会や地方政治家を含む政治組織によって支えられ、次の世代にも引き継がれていたのである。

4人を選ぶ選挙が終わったとき、長年の競争はどう変わったのか

 上州戦争の競争構造を大きく変えたのは、政治家個人の引退だけではなく、選挙制度そのものの改革だった。1994年の政治改革関連法の成立を経て、1996年の衆議院選挙から小選挙区比例代表並立制が導入され、それまで1つの選挙区から複数の議員を選んでいた仕組みは大きく変化した。

 旧群馬3区では、自由民主党から福田、中曽根、小渕という複数の有力候補が立候補し、それぞれ議席を確保することができた。しかし、小選挙区制では1つの選挙区から選ばれる議員は1人となるため、同じ政党の候補者同士が競争して議席を分け合うことはできなくなる。政党にとっては、候補者の選定や選挙区の調整が以前よりも重要になったのである。

 福田赳夫は1990年の衆議院選挙を前に政界を引退し、長男の福田康夫が旧群馬3区から初当選した。1996年の選挙では、福田康夫が群馬4区、小渕恵三が群馬5区で当選し、中曽根康弘は比例代表北関東ブロックから当選している。かつて同じ選挙区で票を争った政治家とその後継者たちは、新しい制度の下で異なる選挙の枠組みに置かれることになった。

 ただし、選挙制度が変われば後援会や地方議員の人脈も直ちに消えるというわけではない。長年にわたって形成された政治組織は、特定の制度に対応するためだけのものではなく、地域の人間関係や選挙協力、政治活動を通じて維持されているからである。そのため、衆議院で同じ党の候補者同士が競争する仕組みが弱まった後も、福中両系統の対立は県議会や参議院選挙に残ることになった。

 その後の動きを考えるうえで重要なのが、2004年7月11日の参議院選挙である。当時の群馬県選挙区の改選定数は2人で、自由民主党は中曽根弘文と上野公成の2人の現職を擁立した。しかし、選挙結果は民主党の富岡由紀夫が314,996票で第1位、自由民主党の中曽根弘文が276,229票で第2位となり、ともに当選した一方、同党の上野公成は268,043票で第3位となって落選した。

 自由民主党の2候補の得票を合計すると544,272票であり、民主党候補の314,996票を大きく上回っている。それにもかかわらず、同党が獲得した議席は2議席のうち1議席だけだった。これは、候補者間で票を合算して議席を配分する制度ではなく、候補者個人の得票順位によって当選者が決まるためである。

 ただし、この結果から、自由民主党が候補者を1人に絞っていれば必ず異なる結果になったと断定することもできない。候補者の顔ぶれが変われば投票行動そのものが変化する可能性があり、2候補の得票を単純に足して仮想的な1候補の得票とみなすことは適切ではない。

 2004年の選挙では、自由民主党が同じ選挙区に2人の候補者を擁立して競争することの難しさが、議席配分という具体的な形で表れた。さらに、その後の参議院選挙区の定数見直しによって、群馬県選挙区の改選定数は2人から1人へ減ることになった。これによって、同じ政党が2人の候補者を当選させ、別々の政治的系列を維持する余地は、制度上さらに小さくなったのである。

2006年、半世紀の争いを終わらせたのは和解だったのか

 2006年3月7日、福田系の政策同志会と中曽根系の県政塾は、それぞれの組織を解消して一本化することを確認した。2つの政治組織が形成されたとされる1975年ごろから数えれば約30年、福田と中曽根が初めて選挙で対決した1952年から数えれば54年が経過していた。

 2006年3月8日付の朝日新聞は、統合の背景として、2004年参議院選挙での自由民主党候補の落選、参議院選挙区の定数見直し、市町村合併による県議会選挙区の変化などを挙げている。選挙区が広がったり、定数1人の選挙区が増えたりすれば、従来のように同じ党の内部で複数の候補者や政治組織が競争することは難しくなる。選挙制度や議席配分の変化が、党内組織を再編する動機になったと考えられる。

 ここで注目すべきなのは、統合が実現した2006年には、福田赳夫が既に亡くなっていたことである。福田は1995年に死去しており、本人の死後も県議会の政治的系列は10年以上存続していた。それは、上州戦争が単に2人の政治家の個人的な対立ではなく、地方政治家や後援会を含む組織として維持されていたことを示している。

 もっとも、2006年の統合を政治家同士の和解という言葉だけで説明することは難しい。記事で確認できるのは県議会二派閥の組織的な一本化であり、個々の後援会や地域の政治的人脈まで一斉に解消されたという事実ではないからである。長年形成された人間関係は、組織の名称が消えた後も残る可能性があり、その影響がどの程度続いたかは、統合後の県議会活動や選挙協力の実態を調べなければ分からない。

 むしろ、2006年の出来事から読み取れるのは、政治家個人の対立以上に、選挙制度が政治組織のあり方を左右するということである。中選挙区制の下では独立した後援会を維持する合理性があり、候補者間の競争が長く続いていたが、小選挙区制への移行や参議院の定数見直しによって、同じ党の内部で競争を続けることの合理性は変化した。制度が変わると、それまで政治的な意味を持っていた組織の区分も、見直しを迫られることがあるのである。

群馬県民は利益を得たのか、それとも政治的対立に付き合わされたのか

 ここまでの歴史から確認できるのは、福田と中曽根の競争が長期にわたり、国政選挙だけでなく、県議会の組織や知事選挙にも影響する政治的な系列を形成していたということである。しかし、その競争が群馬県民の暮らしに利益をもたらしたのか、不利益をもたらしたのかという問いに対して、選挙結果と県議会の派閥史だけから結論を出すことはできない。

 競争する有力国会議員が複数存在することによって、地域の行政課題が中央政界に届きやすくなる可能性はある。政治家が地元への働きかけを重視するほど、住民の要望を聞く機会が増えることも考えられる。一方、県議会内の派閥対立が人事や政策調整を複雑にしたり、行政への要望が後援会との関係に左右されたりする可能性もある。いずれも制度上は考えられる影響だが、群馬県で実際にどの程度生じたかは、個々の行政判断や事業記録で確かめなければならない。

 例えば、上州戦争が公共事業の配分に影響していたかを検証するなら、市町村別の選挙結果と公共事業費を組み合わせた時系列分析が考えられる。ただし、1950年代と現在では市町村の区域が大きく変化しており、異なる時点のデータをそのまま比較することはできない。旧市町村の区域に合わせてデータを再集計するか、行政区域の違いを明示したうえで比較する必要がある。

 さらに、政治的な支持と公共事業費の間に相関が認められたとしても、それだけで因果関係が成立するわけではない。公共事業を多く必要とする地域が特定の政治家を支持していた可能性もあれば、その政治家が要望を国や県に伝えたことで事業が進んだ可能性もある。どちらが原因でどちらが結果なのかを区別するには、事業計画が作成された時期、陳情の記録、予算の決定過程、政治家の実際の行動を確認する必要がある。

 また、公共事業による利益は自治体の境界内だけで完結するとは限らない。山間部に建設されたダムが下流の都市部に治水や利水の利益をもたらす場合もあれば、特定の町を通る道路が広域交通の改善につながる場合もある。事業費が計上された自治体と、その利益を受けた地域が異なる可能性があるため、単純な地域別予算の比較だけでは、政治家の活動が県民生活に及ぼした影響を十分に測定できないのである。

 こうした分析上の限界を踏まえても、政治的競争と県民生活の関係を検証する意味は大きい。政治家の後援会が住民の声を行政に届ける機能を果たしていたなら、その仕組みは政治参加の1つの経路だったと考えられる。しかし、行政サービスの提供や政策判断において、政治家との個人的な関係が過度に重視されていたとすれば、行政の公平性という別の問題が生じる。

 民主政治では、政治家を支持することも、支持しないことも、有権者に認められた自由である。特定の政治家や後援会との関係を持たない住民であっても、行政から公平に扱われるべきことに変わりはない。上州戦争を県民の側から検証するなら、どちらの陣営が多くの票を集めたかだけでなく、政治的な系列と距離を置いていた住民が、行政にどのように要望を伝えていたのかという問題も重要になる。

福田でも中曽根でもなかった人々の声

 上州戦争を福田と中曽根の2人だけの物語として描くと、旧群馬3区の政治構造を正確に捉えられなくなる。実際には、小渕恵三という第三の保守系有力候補が存在し、日本社会党などの候補者を支持する有権者も一定の勢力を維持していたからである。

 1963年の衆議院選挙では、福田、中曽根、小渕の3人が自由民主党から当選した一方、日本社会党の栗原俊夫も議席を確保している。同じ選挙では、後に旧群馬3区の社会党有力政治家となる山口鶴男も立候補したが、わずかな差で落選していた。その後、山口は1967年の選挙で議席に復帰し、1969年、1972年も当選を重ねた。

 この選挙結果から分かるのは、旧群馬3区が単純に福田系と中曽根系の2つに分かれていたわけではないということである。保守系候補者が複数存在する一方で、社会党を支持する有権者も継続して存在し、政治的な選択肢は福田と中曽根だけに限られていなかった。

 小渕恵三の存在も、上州戦争を理解するうえで欠かせない。1963年に26歳で初当選した小渕は、福田と中曽根という先輩政治家が競争する選挙区で、独自の支持基盤を築きながら議席を維持した。1998年には小渕自身も首相となり、旧群馬3区から3人の首相が生まれることになったが、その政治的な位置付けを福中両陣営のどちらかに単純に組み込むことはできない。

 同じ自由民主党の候補者であっても、中央政界で所属する派閥や地元の後援会は異なり、党内には複数の政治的な人脈が存在していた。また、社会党などの候補者を支持する人々にとっては、福田と中曽根のどちらが首位になるかよりも、労働政策、社会保障、農業、教育、地域の生活条件などが重要だった可能性もある。ただし、それぞれの有権者が何を重視して投票していたのかは、候補者別得票数から直接読み取ることはできない。

 政治家同士の対立が激しく、報道で大きく取り上げられるほど、その対立に加わっていなかった人々の存在は見えにくくなる。福田と中曽根の支持者だけでなく、小渕や社会党の候補者を支持した人々、特定の後援会に属さなかった人々の経験を含めて考えなければ、戦後群馬県の政治と社会の全体像を描くことはできないのである。

半世紀の競争が終わった後、県民の暮らしには何が残ったのか

 2006年の県議会派閥統合は、1952年に始まった上州戦争の歴史を考えるうえで象徴的な出来事だった。しかし、2つの組織が解消されたからといって、その日を境に群馬県の政治文化が根本から変わったと判断することはできない。政治家を支えてきた後援会や地域の人間関係は、単なる組織名ではなく、長年の選挙運動や政治活動によって形成されたものだからである。

 また、上州戦争を支えてきた制度が変化しても、住民が政治家に地域の課題を伝え、行政への働きかけを期待すること自体はなくならない。重要なのは、そのような働きかけが透明性と公平性を持って行われるかどうかであり、政治家との個人的な関係よりも、行政上の必要性や政策の合理性によって事業の採否が判断される仕組みが機能しているかという問題である。

 2006年の統合前後で群馬県議会の人事や議案審議がどのように変わったのか、国政選挙での候補者調整が円滑になったのか、地方自治体から国や県への要望を届ける仕組みが変化したのかについては、引き続き検証の余地がある。統合前後の記録を比較することで、長年続いた党内二派閥の存在が県政運営に及ぼしていた影響を、より具体的に把握できるかもしれない。ただし、この時期には市町村合併や選挙制度改革などの変化も重なっているため、統合後に生じた変化をすべて派閥解消の効果とみなすことは適切ではない。

 もう一度、1952年の衆議院選挙に戻ってみる。中曽根康弘は71,967票、福田赳夫は46,531票で当選した。34歳の中曽根と47歳の福田が初めて同じ選挙区で競争したこのとき、2人の政治的な関係が半世紀以上にわたって地域政治の組織に影響を残すことを、選挙結果の数字だけから読み取ることはできなかっただろう。

 その後、2人はともに内閣総理大臣となり、群馬県議会にはそれぞれの政治的系列に基づく組織が形成され、選挙制度の改革と地方政治の変化を経て、2006年に統合へ至った。この歴史の骨格は、選挙記録、政党の公式記録、県政史、当時の報道などからたどることができる。

 しかし、県民が何を得て、何を失ったのかという最初の問いには、まだ十分な答えが出ていない。政治家同士の競争が公共事業を進めたのか、県政上の対立が意思決定を難しくしたのか、後援会活動が政治参加を促したのか。それぞれの可能性を確かめるには、政治家の回顧録だけではなく、当時の行政文書、事業記録、議会の審議内容、地域社会の経験をさらに重ね合わせる必要がある。

 上州戦争という呼び名には、政治家同士の激しい競争を強調する響きがある。しかし、選挙で繰り返された競争を戦争という比喩だけで理解してしまうと、そこに暮らしていた人々の姿が遠ざかってしまう。政治家がどちらの陣営に属していたかという問題と、住民がどのような生活上の課題を抱えていたかという問題は、本来同じではないからである。

 高崎の市街地にも、吾妻川沿いの山間集落にも、政治家の当落とは別に日々の暮らしがあった。人々は働き、家族を支え、地域の道路や学校の整備を求め、将来の生活について考えていた。福田と中曽根の競争が、そうした暮らしに何をもたらしたのかは、地域や個人によって異なっていた可能性がある。その違いを丁寧に確かめることなく、上州戦争を地域に利益をもたらした競争だったとも、住民を政治的対立に巻き込んだだけの争いだったとも、結論付けるべきではない。

 中央政界に大きな足跡を残した政治家の歴史は、首相就任や派閥抗争の年表にまとめることができる。しかし、地方政治の歴史はそれだけでは終わらない。政治家が持った権力が、行政の判断をどのように変え、その判断が地域の人々の生活に何をもたらしたのかまで検証して初めて、政治史は住民の歴史としての意味を持つ。

 2006年3月7日、福田系と中曽根系の県議会派閥は統合された。組織としての福中戦争は、そこで1つの区切りを迎えた。しかし、半世紀以上に及ぶ政治的競争が県民生活と自治体運営に残した影響は、派閥の解消という出来事だけでは測れない。

 政治家がどれほど多くの票を集め、どれほど大きな権力を手にしたかではなく、その権力が地域社会の中でどのように使われ、住民の暮らしに何をもたらしたのか。上州戦争の歴史が現在の私たちに問いかけているのは、結局、その問題なのである。

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