選挙の季節になると、どこかで聞き覚えのある名字を目にする。父が国会議員だった人、その父も政治家だった人、祖父が大臣を務めた人。政治家の家に生まれた子どもが政治家になり、やがてその子どもも選挙に出る。その光景を前にすれば、「これでは民主主義ではなく、現代の世襲制ではないか」と感じる人がいても不思議ではない。王や大名の時代は終わったはずなのに、政治の世界だけは名字と地盤が受け継がれているように見えるからである。
しかし、この問題は「世襲政治家が多いから民主主義は壊れている」と簡単に結論づけられるほど単純ではない。少なくとも代表民主制の基本原則から考えれば、政治家の子どもが政治家になること自体が民主主義に反しているわけではなく、政治家の家に生まれた人にも、そうでない人と同じように政治に参加し、立候補する自由がある。有権者が自由な選挙を通じてその人物を選んだのであれば、その結果だけを見て「非民主的だ」と断定することはできない。
むしろ、政治家の子どもであるという理由だけで立候補を禁止すれば、別の問題が生まれる。日本国憲法第44条は、国会議員や選挙人の資格について、門地、つまり家柄などによって差別することを認めていない。もちろん、世襲候補に一定の規制を設ける制度が直ちに憲法違反になると単純には言えないが、出生によって立候補の可能性を制限する制度は、立候補の自由や平等原則との関係で重大な憲法上の検討を必要とする。
それでは、世襲政治家がどれほど増えても民主主義には何の問題もないのだろうか。ここで話は反転する。世襲政治の核心は、「政治家の子どもが政治家になること」にあるのではなく、「政治家の子どもでなければ政治家になりにくい仕組み」が形成されているかどうかにあるからである。
投票箱の前では平等でも、その手前は平等なのか
選挙の日、有権者には同じ一票が与えられる。大企業の経営者も大学生も会社員も年金生活者も、投票箱に入れられる票は一票であり、この意味で民主主義は驚くほど平等な制度である。しかし、その一票を投じる候補者がどのような過程を経て投票用紙に名前を載せたのかまで遡ると、景色は少し違って見えてくる。
政治の世界では昔から、選挙に強い候補には「地盤・看板・鞄」があると言われてきた。地盤とは後援会や支持組織などの人的基盤、看板とは知名度、鞄とは政治活動や選挙運動を支える資金力を意味する。一般の新人候補者は、これらをほとんど何もないところから築かなければならないが、現職政治家の親族であれば、長年形成された支援者との関係、知られた名字、政治活動の経験、政党や業界との人脈といった政治的資源を引き継げる場合がある。
日本の世襲政治を対象とした実証研究でも、この差が単なる印象ではないことはかなり明確に示されている。1990年代後半から2000年代にかけての選挙を分析した研究では、世襲政治家は非世襲政治家より選挙資源に恵まれ、選挙に強い傾向が確認されている。また、自民党の新人候補を比較した研究でも、世襲候補には非世襲候補より有利な選挙条件が存在することが示されている。
ここで重要なのは、有権者が世襲候補を強制的に選ばされているわけではないという事実である。最終的には有権者自身が投票している。しかし、選挙という競争を100メートル走にたとえるなら、全員が同じゴールを目指していても、スタート地点まで同じとは限らない。ある候補者は知名度も後援組織もないところから走り始め、別の候補者はすでに整備された支援組織と名字を背負って走り始める。最後に誰が勝ったかだけを見れば競争は成立しているが、その競争に参加するまでの条件まで公平だったかどうかは、別に考えなければならない。
世襲だから能力が低いとは言えない
ただし、ここで世襲批判を一歩進めすぎると、別の誤りに陥る。選挙上のスタート地点が有利であることと、その人物の政治家としての能力が低いことは、まったく別の問題だからである。
政治家の家庭で育てば、政治、行政、選挙、政策形成に触れる機会が一般家庭より多くなる可能性は十分考えられる。親の仕事を通じて政治家、官僚、企業、地方自治体、支援者などが政策について語る場面を見ることもあるだろうし、政治という職業を身近な進路として認識する機会も多いだろう。このような人的・情報的環境が、政治家として必要な知識や人脈の形成に有利に働く可能性はある。
もっとも、これは世襲政治家の能力が高いことを証明するものでもない。重要なのは、少なくとも「世襲だから能力が低い」と判断できる十分な実証的根拠が存在するわけではないということである。世襲議員と非世襲議員の国会活動を比較した研究でも、世襲議員が一貫して活発であるとも、一貫して不活発であるとも言えない。政治家の能力には政策立案、行政監視、交渉、外交、地域調整など多くの側面があり、血縁関係だけからその優劣を判断することはできない。
つまり、問題にすべきなのは血筋そのものではなく、その血筋を通して政治的資源まで継承され、それが競争条件にどの程度の差を生み出しているのかという点なのである。
有権者は本当に「名字」だけで選んでいるのか
世襲政治を批判するとき、「有権者が有名な名字に弱いから世襲が残る」と説明されることがある。しかし、この説明も単純すぎる。
日本の有権者を対象とした近年の研究では、世襲候補であることそのものに対して必ずしも好意的ではない人でも、政治的ネットワークを持っていること、大臣などの重要な役職に就く可能性が高いこと、中央政府との交渉力を持っていること、地元に公共事業や予算をもたらす能力があることなどは、候補者を評価する要素として重視する傾向が確認されている。
ここから見えてくるのは、「世襲だから支持される」というより、「世襲によって蓄積された政治資源が評価されている」可能性である。有権者にとっては、長く地域を代表してきた政治家一族の後継者であれば、前任者との人的・政策的な連続性を予測しやすく、地域事情を知っていると期待する理由もある。政治家本人への白紙委任ではなく、「この候補者なら中央との交渉ができる」「困ったときにどこへ相談すればよいか分かる」といった現実的な判断が投票行動に影響しているのであれば、有権者の選択を単なる無知や旧習として片づけることも適切ではない。
民主主義を真剣に考えるなら、有権者が世襲候補を選んだという結果だけではなく、なぜその候補者を合理的な選択肢だと感じたのかまで見なければならない。
地元に利益を持ってくる政治家は「良い政治家」なのか
世襲政治家については、興味深い研究結果がもう一つある。日本の選挙区を調べた研究では、世襲政治家が非世襲政治家より多くの政府支出や補助金を選挙区へもたらす傾向が報告されている。
これは世襲政治を単純に批判できない理由の一つでもある。地方の有権者からすれば、中央政府との人脈を持ち、道路、公共施設、補助事業などの予算を地域へ持ってこられる政治家を選ぶことには現実的な利益がある。政治家が地域の代表である以上、「地元のために何を持ってきたか」は評価基準になり得る。
しかし、ここにはもう一つの難しい問題が隠れている。政府から多くの予算を獲得した地域が、その結果として長期的に豊かになるとは限らないからである。日本の世襲政治家を分析した研究では、選挙区への分配的利益が多い一方で、それが地域経済の良好な成果に直結しているとは言えないことも示されている。ただし、地域経済には人口構造、産業構成、都市化、高齢化など多くの要因が影響するため、「世襲政治家が地域経済を悪くする」とまで断定することはできない。
それでも少なくとも、「予算を持ってくる能力」と「地域を長期的に豊かにする能力」は同じではない。ここには地方政治にも国政にも付きまとう古い矛盾がある。自分の選挙区にとって優秀な政治家が、国全体にとって最適な政治家であるとは限らないのである。
民主主義には二つの入口がある
世襲政治について考えていると、民主主義には二つの入口があることが見えてくる。一つは有権者が誰を選ぶかという入口であり、もう一つは誰が候補者として「選ばれる側」に立てるかという入口である。
私たちは前者には非常に敏感である。投票が強制されれば民主主義ではないし、票が改ざんされても民主主義ではない。しかし後者については、選挙そのものほど注意を向けてこなかった。政党の公認を誰が受けるのか、選挙資金を誰が集められるのか、支援組織を誰が持てるのか、政治家を志す普通の市民に候補者になる現実的な道が開かれているのかという問題である。
仮に、選挙自体は完全に自由であっても、主要政党の候補者になれる人が事実上ごく限られ、長年蓄積された後援組織や政治資金、人脈を持つ者だけが有力候補になれる社会であれば、投票箱の中では自由な競争が行われていても、その前段階には大きな参入障壁が存在することになる。
もっとも、どこまでの条件差を「民主主義の欠陥」と呼ぶべきかは、実証研究だけでは決められない。医師の家庭から医師が生まれやすく、経営者の家庭から経営者が生まれやすいように、家庭環境によって知識や人脈、職業への関心が次世代へ伝わること自体は、政治家だけに見られる特殊な現象ではない。
だからこそ、世襲政治を考えるうえでは、家庭を通じて自然に形成された経験や知識と、政治制度や政党組織によって閉鎖的に継承される選挙資源を区別する必要がある。親が政治家だったため政治に詳しくなったことと、親の後援会や政治的地位がそのまま子どもの当選可能性を押し上げることは、同じ「世襲」であっても民主主義にとって持つ意味が違う。
権力は次の権力を生むのか
この問題をさらに考えさせる研究がアメリカにある。1789年以来の連邦議会を長期的に分析した研究では、政治家として長く権力を持った議員ほど、その後に親族が連邦議会へ進出する可能性が高くなることが示されている。
この研究が興味深いのは、単に「政治家一族はもともと政治家になりやすい」という相関だけを見ているわけではなく、長く政治権力を持つこと自体が次世代の政治進出を促す可能性を統計的に検討している点にある。政治家として在職する間に築かれた知名度、人脈、資金調達能力、政党との関係などが、本人の引退後にも家族の政治資源として残るのであれば、政治権力は一代限りで消えるものではなく、次の権力を生み出す装置になり得る。
もちろん、これはアメリカ議会を対象とした研究であり、同じ因果関係がそのまま日本に当てはまると断定することはできない。しかし、世襲政治を文化的な「血筋好き」だけで説明するのではなく、政治権力そのものが継承可能な資産を作り出すという視点は、日本の政治を考えるうえでも重要である。
日本人は本当に血筋を好むのか
日本では世襲政治家が目立つため、ときに「日本人は家柄を重視するから世襲政治が残る」と説明される。しかし、これも十分な説明ではない。
日本の選挙制度は1994年に大きく改革され、それ以前の中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制へ移行した。この改革によって候補者個人の後援会を中心とした選挙から、政党をより強く意識した選挙へと環境が変わり、その後、政党による候補者公募なども広がった。研究では、こうした制度や候補者選定方式の変化に伴って、新人世襲候補が以前より減少したことが確認されている。
この事実は重要である。もし世襲政治が日本人固有の血統志向だけから生じているのであれば、選挙制度や政党の候補者選定方式を変えても、世襲候補の割合はそれほど動かないはずである。ところが実際には制度変更によって変化している。したがって、日本の世襲政治は文化的な血統志向だけでは説明できず、選挙制度や政党組織のあり方によって増減する政治現象だと考える方が妥当である。
ここまで来ると、世襲政治の問題は「政治家一族の倫理」の問題から、「候補者を生み出す制度」の問題へと姿を変える。
世襲政治家を禁止すれば解決するのか
それなら、世襲候補そのものを禁止してしまえば問題は解決するのだろうか。おそらく、それほど簡単ではない。
政治家の子どもであるという本人には選べない事情だけで、一定期間、親と同じ地域から立候補できないようにする制度や、親族の立候補そのものを制限する制度を設ければ、立候補の自由や平等原則との緊張関係が生じる。世襲候補の規制が直ちに憲法違反になると断定することはできないものの、少なくとも強い憲法上の検討が必要になる。
それ以上に重要なのは、世襲候補を一律に排除しても、政治への参入障壁そのものが残っていれば、本質的な問題は解決しないことである。政治資金を集められる富裕層、有名人、大企業や大組織の支援を受けられる人だけが候補者になるのであれば、政治家の親族を排除しても別の形の閉鎖性が生まれる可能性がある。
したがって民主主義の改善策として重要なのは、特定の家系を排除することより、政治家の家に生まれていない人でも有力候補になれる仕組みを作ることだろう。政党が候補者をどのように選んでいるのかを透明にし、公募などを通じて政治参加への入口を広げ、政治資金や後援組織についても透明性を高める。そして有権者が名字や知名度だけではなく、政策、実績、専門性、政治活動を比較できる情報環境を整えることの方が、民主主義の原則には適している。
問うべきなのは「世襲議員が何人いるか」だけではない
世襲政治家の割合を見ると、私たちはつい、その数字そのものを民主主義の成績表のように扱いたくなる。しかし、世襲政治家が一人もいない国が必ず民主的であるわけではなく、世襲政治家が存在する国が必ず非民主的であるわけでもない。
政治家の息子と無名の会社員が同じ選挙に立候補し、同じように政党公認を得る機会があり、有権者が政策や実績を比較したうえで政治家の息子を選ぶのであれば、その結果は民主主義の敗北とは言えない。ところが、無名の会社員には政党公認を得る機会も政治資金を集める機会もほとんどなく、政治家の息子だけが既存の支援組織と知名度を引き継いで有力候補になれるのであれば、民主主義の問題は投票日よりずっと前に始まっている。
投票箱だけを見ていると、その違いは見えない。
民主主義とは、誰を選ぶのかを決める制度であると同時に、誰が「選ばれる側」に進むことができるのかを決める制度でもある。そう考えるなら、世襲政治家の多さは民主主義の欠陥そのものというより、政治への入口がどれほど開かれているかを測る一つの警告灯だと考えた方が正確だろう。
だから本当に知りたい数字は、国会議員の何割が世襲なのかだけではない。政治家の家に生まれなかった普通の市民が政治を志したとき、政党の候補者になる機会がどれだけあり、十分な情報と資金を得て選挙を戦うことができ、現職や世襲候補と現実的に競争できるのかという数字である。
世襲政治について考えているつもりが、最後に私たちがたどり着くのは、血筋の問題ではない。民主主義とは、投票する権利だけを平等にすれば完成する制度なのか、それとも政治家になろうとする人がスタートラインへたどり着く機会まで含めて考える制度なのかという、もっと根本的な問いなのである。

