地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 2026年1月、北海道十勝地方で、43年前の政治史を知る人には意外に映る出来事があった。鈴木宗男が、衆議院北海道第11区から立候補する中川紘一への支援を表明したのである。中川紘一は、かつて自民党総裁の座を目指した中川一郎の孫であり、元財務大臣の中川昭一の甥に当たる。2月8日の総選挙では86,019票を獲得し、初当選を果たした。

 同じ自由民主党に所属する政治家が、党の候補者を支援したというだけなら、それほど珍しいことではない。しかし、鈴木宗男という名前が加わると、この出来事は別の意味を帯びてくる。鈴木は1983年、中川一郎の死後に長男の中川昭一と政治的後継を争い、同じ選挙区から立候補した人物だった。以来、両者の関係は長く確執という言葉で語られてきた。その鈴木が、2021年には中川昭一の妻である中川郁子を支援し、2026年には中川一郎の孫を支援したのである。

 対立はいつ終わったのだろうか。あるいは、そもそも両者は、世間で語られてきたほど一貫して敵対していたのだろうか。この疑問をたどっていくと、一人の政治家の死をきっかけに複数の政治的な系譜へ分かれた北海道の保守勢力が、その後の選挙制度改革や政党間関係の変化の中で、競争と協力を繰り返してきた歴史が見えてくる。

中川一郎が残したものは、議席だけではなかった

 北海道の政治を理解する際、国会議員個人の経歴だけを追っても十分ではない。十勝平野には広大な農地が広がり、東へ向かえば釧路や根室の沿岸地域が続く。農業、漁業、建設業、商工業など、それぞれの地域には異なる産業があり、国政に対する要求も一様ではない。道路や港湾の整備、農業基盤の整備、公共事業の確保、地域産業への支援など、国の政策と地元の生活が直接結び付く領域も広い。政治家の影響力は、国会での役職や発言力だけでなく、こうした地域の要望を受け止める後援会や地方議員、支援者との関係によっても形成されてきた。

 中川一郎は、そのような北海道の保守政治を代表する政治家の一人だった。北海道広尾町の出身で、北海道開発庁の官僚などを経て1963年に衆議院議員に初当選し、農林水産大臣などを歴任した。1970年代には自民党内の保守系政治家として存在感を高め、1982年には自民党総裁選挙にも出馬している。

 中川の政治活動は、地元選挙区にとどまらなかった。北海道立図書館が公開する『北海道現代史 資料編1(政治・行政)』には、1981年12月12日の中川一郎の帯広事務所開きでの発言が収録されている。中川はこの席で、全国各地に後援会を広げていることを説明し、その組織づくりに鈴木宗男が尽力していると述べていた。当時の鈴木は中川の秘書であり、政治活動の実務を担う立場にあった。

 ここに後の対立を考える重要な手掛かりがある。中川一郎の長男である中川昭一は、父の名声と政治的なつながりを継承し得る立場にあった。一方、長年の秘書だった鈴木宗男には、政治活動を通じて築いた支援者との人間関係や、選挙組織を運営してきた経験があった。政治家が残すものには、家族が引き継ぐ名前や象徴的な地位だけでなく、秘書や後援会幹部が担ってきた組織運営の技術も含まれている。

 もっとも、中川一郎が生前、長男と鈴木のどちらを政治的後継者に指名していたのかについては、確実な一次資料を確認できていない。後年の鈴木の回想によれば、当時は若狭靖や武部勤の名前も後継候補として挙がっており、鈴木自身は若狭を後継者とする考えを持っていたという。ただし、これは後年の当事者証言であり、1983年当時の党内記録によって全容が裏付けられたものではない。少なくとも、中川一郎の死後に生じた後継問題は、長男と秘書の二者だけで完結するような単純なものではなかった。

1983年、父の死が二つの政治人生を生んだ

 1983年1月9日、中川一郎が57歳で死去した。自民党総裁選挙への出馬から間もない突然の死は、北海道の政界に大きな空白を生んだ。その年の12月に行われる衆議院議員総選挙では、その空白を誰が埋めるのかが問われることになった。

 中川昭一は当時30歳で、日本興業銀行に勤務していた。一方、鈴木宗男は35歳で、中川一郎の秘書として長年政治活動を支えてきた。自民党公認を得たのは中川昭一であり、鈴木宗男は無所属で立候補した。さらに、後に自民党幹事長を務める武部勤も無所属で出馬している。自民党の公認決定をめぐる党内の詳しい協議過程は確認できていないが、中川一郎の死後、複数の人物がそれぞれの政治的な立場から国政への進出を目指したことは確かである。

 当時の北海道旧第5区は、現在の小選挙区とは大きく異なっていた。十勝だけでなく、釧路、根室、網走方面まで含む広い地域を対象とし、定数5人の中選挙区だった。1人しか当選できない現在の小選挙区と違い、同じ保守系の候補者が複数立候補し、それぞれ異なる地域や後援会を基盤に議席を争うことができた。この制度上の特徴が、中川と鈴木の双方が立候補し、双方とも当選するという結果を可能にした。

 1983年12月18日の選挙では9人が立候補し、中川昭一は163,755票を獲得してトップ当選した。鈴木宗男は67,436票で4位当選となり、武部勤は61,762票で落選した。中川の得票は鈴木の約2.43倍に達していたが、鈴木も無所属ながら自民党公認の現職候補2人を上回っている。中川昭一の支持規模が突出していた一方で、鈴木宗男にも独自の支持基盤が存在していたことが分かる。

 さらに興味深いのは、地域別の開票結果である。中川一郎の出身地である広尾町では、中川昭一が3,923票、鈴木宗男が1,407票だった。これに対して、鈴木宗男の出身地である足寄町では、中川が1,607票、鈴木が3,861票を獲得している。帯広市では中川が43,525票、鈴木が14,036票であり、同じ選挙区でも地域によって両者の得票構造は大きく異なっていた。

 地域の人口規模による違いを取り除くため、各町の全候補者の得票合計を分母として計算すると、広尾町では中川昭一の得票率が約55.4%、鈴木宗男が約19.9%だった。一方、足寄町では中川が約20.0%、鈴木が約48.1%となる。広尾町では中川が有効投票の過半数を獲得したのに対し、足寄町では鈴木が半数近くを集めていたことになり、両者の支持には明確な地域差があった。

 ただし、この結果だけで旧中川一郎後援会の票がどちらへ移動したかを特定することはできない。候補者の出身地、地域活動、支援団体、他候補との競合など、複数の要因が関わっていた可能性があるからである。特に、地域全体の得票率から個々の有権者の投票動機を推定することは、統計学でいう生態学的誤謬につながる。後援会名簿や当時の関係者の記録を照合できない以上、具体的にどの組織が何人の支持者を動かしたのかまでは断定できない。

 中川一郎の政治的遺産は、一人の後継者へそのまま移されたわけではなかった。少なくとも選挙の結果としては、長男の中川昭一が圧倒的な得票で国政への道を開き、元秘書の鈴木宗男も独自の政治家として出発した。中川一郎の死によって生じた政治的な空白は、複数の政治的な系譜へ分かれる形で埋められたのである。

対立が激しかったからこそ、票が集まったのか

 1983年の選挙を中川昭一と鈴木宗男の二人だけの争いとして見ると、見落としてしまう事実がある。定数5人の北海道旧第5区では、日本社会党も3議席を獲得しており、保守陣営内部の競争は他党にとっても重大な問題だった。

 北海道立図書館所収の『北海道現代史 資料編1(政治・行政)』には、日本社会党北海道本部が1984年にまとめた総選挙の総括が収録されている。そこでは、中川昭一の大量得票について、後継争いによる内部対立が強い集票活動につながったという分析が示されている。また、町内会などの地域組織や商店、会社を通じた組織的な選挙運動についても言及されていた。

 これは社会党側による当時の選挙分析であり、客観的に証明された因果関係として扱うことはできない。しかし、対立する政党の側が、中川と鈴木の後継争いを保守陣営の弱体化としてだけでなく、強い動員力を生み出す要因としても捉えていた点は重要である。

 一般に、同じ政治勢力の内部で候補者が競合すれば、票が割れて不利になると考えられやすい。ところが中選挙区制では、それぞれの候補者が異なる支持層を組織し、競争によって投票への働きかけを強める場合もある。1983年の選挙で中川昭一と鈴木宗男が獲得した票を合計すると231,191票となり、日本社会党の当選者3人の得票合計208,749票を上回る。ただし、中川と鈴木の票を単一の支持勢力として扱うことはできず、対立がなかった場合の得票数も分からないため、競争によって票が増えたとまで結論付けることはできない。

 ここで重要なのは、当時の政治制度が内部競争を許容し、その競争を通じて個別の後援会組織が発展する余地を与えていたことである。中川昭一と鈴木宗男の関係も、本人同士の感情だけでなく、この制度の中で理解しなければならない。

1995年、争った後援会が同じ候補を支えた

 1983年の後継争いから12年後、釧路で一見矛盾するような政治的協力が成立していた。

 1995年4月の北海道議会議員選挙で、伊東良孝が14,753票を獲得し、4位で初当選した。この選挙について伊東本人の公式経歴には、1994年10月に釧路市の自民党道議が離党したことを背景に、中川昭一後援会、武部勤後援会、鈴木宗男後援会の3派連合から期待を寄せられ、道議選への出馬を決意したと記録されている。

 鈴木宗男も2015年6月26日の公式ブログで、1995年の道議選では3後援会が協力して伊東を議会へ送り出したと回想している。伊東自身の記録と鈴木の説明が一致していることから、後援会レベルでの協力については複数の当事者資料による裏付けが得られる。

 この事実は、二人の確執を考えるうえで見過ごせない。1983年には中川一郎の後継をめぐって別々の候補者を支えた政治組織が、その後は同じ候補者を当選させるために協力していたのである。しかも、そこには1983年に落選した武部勤の後援会も加わっていた。

 なぜ、そのような協力が可能だったのだろうか。伊東の公式記録によれば、直接の背景には釧路市の自民党道議の離党があった。つまり、過去の政治的な関係とは別に、地方選挙で候補者を擁立し、議席を確保するという共通の課題が生じていたのである。もっとも、3後援会がどのような交渉を経て連合に至ったのか、政治家本人がどこまで協議に関与したのかについては、詳細な記録を確認できていない。

 ここで区別すべきなのは、政治家本人の関係と後援会組織の関係である。後援会同士が協力したからといって、中川昭一と鈴木宗男が個人的に和解していたとは限らない。地方選挙では、候補者の地元での評価、支持政党、他陣営との競争などによって、以前の対立関係を超えた協力が成立することがある。個人の感情と政治組織としての利害は、必ずしも同じ方向へ動かないのである。

 もう一つ重要なのは、この協力が1995年に成立していたという時期である。衆議院の小選挙区比例代表並立制は1994年に法制化されたが、新制度による最初の総選挙が行われたのは1996年だった。したがって、1995年の道議選における協力を、新しい衆議院選挙制度の直接的な結果と断定することはできない。

 むしろ、この1995年の協力は、政治的な確執があっても、地域の選挙事情に応じて支持組織同士が連携する仕組みが北海道の保守政治に存在していたことを示している。1983年の対立だけを根拠に、その後の二人を一貫した敵同士と描くことが適切ではない理由も、ここにある。

選挙制度が変わると、争う相手も変わった

 1990年代、日本の選挙制度は大きく変化した。1994年の政治改革関連法によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年10月の総選挙から新制度による選挙が始まった。

 それまでの中選挙区では、同じ政党や政治勢力に属する複数の候補者が、地元の後援会を基盤に議席を争っていた。しかし小選挙区では、原則として1つの選挙区から当選できるのは1人だけである。同じ政治勢力の候補者が同一選挙区で競合すれば、支持票が分散して議席獲得に不利となる可能性があり、政党による候補者調整の重要性が増した。

 中川昭一と鈴木宗男の政治地盤も、この改革によって分かれることになった。中川昭一は十勝を中心とする北海道第11区から立候補し、97,428票で当選した。一方、鈴木宗男は釧路・根室地方を含む当時の北海道第13区から立候補したが、55,491票にとどまり、83,490票を獲得した新進党の北村直人に敗れた。ただし、鈴木は比例代表北海道ブロックで当選し、議席を維持している。

 1983年には同じ広大な選挙区で競争しながら双方が当選した二人が、1996年には異なる小選挙区で活動するようになった。政治的な競争が消えたわけではないが、少なくとも中川と鈴木が同一選挙区で直接票を奪い合う構造は変化したのである。

 この変化を、個人的な和解によって説明する必要はない。政治制度そのものが候補者の行動に影響を与え、各政治家が地盤を再編する条件を作ったと考える方が、確認できる事実に整合的である。

 もっとも、選挙区が分かれれば政治的な利害関係が完全に切り離されるわけではない。北海道全体の党内人事や選挙協力、地域政策では引き続き関係が生じる。その後の二人の歩みは、政治的な競争の形が変わっても、人間関係や組織間の関係が簡単には消えないことを示している。

異なる政治人生が、再び十勝で交差する

 1990年代後半以降、中川昭一は農林水産大臣、経済産業大臣、自民党政務調査会長、財務大臣などを歴任した。一方、鈴木宗男は北海道開発庁長官などを務め、北海道開発や北方領土問題、対ロシア関係で政治活動を展開した。

 2002年には、鈴木宗男と外務省との関係が国政上の大きな問題となった。外務省は、北方四島住民支援などをめぐる調査で、鈴木の意向が省内の意思決定に影響する不正常な状況があったと認識し、その経緯を公表している。これは当時の外務省による調査結果であり、刑事責任の認定とは区別する必要がある。鈴木はその後、自民党を離れ、2005年には新党大地を結成した。かつて同じ自由民主党に属していた中川と鈴木は、異なる政治的な立場から活動するようになっていった。

 そして2009年、二人の関係は再び十勝の選挙を通じて交差することになる。ただし、今度は1983年のように二人が直接立候補したわけではなかった。鈴木が支援する側に回ったのは、民主党の石川知裕だった。

 ここで確認しておかなければならない事実がある。2008年11月7日、民主党と新党大地は次の衆議院選挙に向けた選挙協力で合意していた。連合北海道の当時の選挙総括には、小沢一郎民主党代表の来道に合わせて新党大地との選挙協力を締結したことが記録されている。さらに鈴木は2009年のインタビューでも、小泉政権以降の自民党政治を批判し、地方や生活者を重視する政治の必要性を訴えていた。石川への支援には、政党間の選挙協力や政策的な立場の変化という背景が存在していたのである。

 もちろん、1983年以来の中川との関係が、鈴木の判断に何ら影響しなかったと断定することもできない。しかし、政治家の行動に複数の理由が存在し得る以上、確認できない個人的な感情だけで選挙協力を説明することは避けなければならない。

 2009年8月30日の総選挙で、民主党の石川知裕は118,655票を獲得し、中川昭一の89,818票を上回って当選した。中川にとっては1983年の初当選以来、初めて議席を失う選挙となった。全国的にも民主党が大勝して政権交代が実現しており、中川の敗北を鈴木の支援活動だけに帰することはできない。

 落選後の9月14日、中川昭一は自らの政治的な発信を記録した文章を残している。そこでは、支持者への感謝を述べながら、選挙での敗北について政権への逆風、自身をめぐる報道問題、政策的な訴えが有権者に受け入れられなかったことなどを理由として挙げていた。そして「十勝の総意として、私は否定された」と記している。

 興味深いのは、その文章が鈴木宗男への批判ではなく、自らの敗北と自由民主党の今後を論じる内容だったことである。中川が選挙後に何を考え、何を政治的課題としていたかを知るうえで重要な記録だが、そこから鈴木に対する個人的な感情を推測することはできない。

中川昭一の死に、鈴木宗男は涙を流した

 2009年10月4日、中川昭一が東京都内の自宅で亡くなっているのが発見された。56歳だった。中川家が公開している公式プロフィールでは死亡日を10月3日としており、発見された10月4日とは区別する必要がある。

 訃報を受けた鈴木宗男は記者会見を開き、涙を流しながら中川の死について語った。当時の報道では、鈴木が強い驚きと悲しみを示し、政治の世界の厳しさに言及したことが伝えられている。長年にわたる政治的な競争を経てきた人物が、かつての政敵の死に涙を流したという出来事は、両者の関係を考えるうえで印象的である。

 そもそも鈴木にとって、中川昭一は単に選挙で競争した相手ではなかった。政治家として長年仕えた中川一郎の息子であり、自らと同じ1983年に国政へ進出した人物でもあった。個人的な感情について外部から断定することはできないものの、両者の政治人生が一つの出発点を共有していたことは確かである。

 ただし、この記者会見を、生前の二人が和解していた証拠として扱うことはできない。死を悼むことと、生前の政治的な対立が解消していたことは別の問題だからである。

 それでも、中川昭一の死によって政治的な関係は新しい段階へ進んだ。中川家の政治的な地盤を誰が引き継ぐのかという問題が、再び十勝に現れることになったのである。

2021年、鈴木宗男が中川昭一の妻を支援した理由

 中川昭一の死後、妻の中川郁子が政治の世界に入り、2012年の衆議院選挙で初当選した。しかし、北海道第11区では、その後も旧中川系の支持組織と、鈴木宗男に近い政治勢力との関係が複雑に絡み合っていた。

 その関係に変化が生じたのが2021年である。4月13日、鈴木宗男は札幌市で記者会見を開き、同年の衆議院選挙で中川郁子を新党大地と自らの後援会が推薦すると表明した。中川郁子も会見に同席し、支援に謝意を示している。

 ただし、この協力は突然生まれたものではなかった。報道によれば、2017年の総選挙でも鈴木は中川郁子の応援演説を予定していたが、当時は自民党北海道連などの反対によって実現しなかったという。少なくとも2017年の段階で、鈴木側には中川郁子を支援する意向があったとされている。

 2021年に鈴木が説明した支援理由は、立憲民主党と日本共産党による選挙協力への対抗だった。ここでも、政治的な協力を個人的な感情の変化だけで説明することはできない。野党側の協力関係が進む中で、保守系の支持組織が選挙協力を重視するようになったという、政党間競争の変化が背景にあった。

 選挙結果を比較すると、2017年には立憲民主党の石川香織が98,214票、中川郁子が82,096票で、得票差は16,118票だった。2021年には石川香織が91,538票、中川郁子が85,336票となり、得票差は6,202票まで縮小している。中川郁子は小選挙区では敗れたが、比例代表で復活当選した。

 4年間で両者の得票差は9,916票縮まった。ただし、これをそのまま鈴木宗男の推薦効果とみなすことはできない。2017年と2021年はともに2人の候補者による選挙だったため、候補者の得票率は比較しやすい条件にあるが、投票率や政党支持、選挙運動の内容、候補者の評価なども変化している。2017年の中川郁子の得票率は約45.5%、2021年は約48.3%であり、数字の上では約2.7ポイント上昇しているものの、その変化のうち鈴木の推薦による部分がどの程度あったのかは、開票結果だけでは分からない。

 それでも、2021年に中川郁子と鈴木宗男の政治的協力が実現したこと自体は重要である。中川一郎の死から38年を経て、かつて分かれた政治的な系譜が、同じ候補者を支援する関係になったのである。

 一方、政治家本人の協力が、後援会の支持者全員の感情まで変えたとは限らない。長年の選挙競争で培われた人間関係や支持者の帰属意識は、政党幹部の合意だけで簡単に消えるものではない。政治組織としての協力と、支持者間の関係修復を分けて考える必要がある。

2024年、十勝の選挙が示した別の現実

 2021年の中川郁子支援から2026年の中川紘一支援までを、一続きの保守勢力の結集として描くことは適切ではない。その間には、2024年10月27日の衆議院議員総選挙が存在しているからである。

 2024年の北海道第11区では、立憲民主党の石川香織が84,522票、自民党の中川郁子が66,877票、日本共産党の佐藤耕平が10,367票を獲得した。石川が当選し、中川郁子は小選挙区で敗れ、比例代表でも議席を得られなかった。2021年には比例復活で議席を維持した中川だったが、2024年には国会から退くことになった。

 得票率を計算すると、中川郁子は2021年の約48.3%から2024年の約41.3%へ低下している。ただし、2021年は候補者2人による選挙だったのに対し、2024年は3人が立候補しており、政党の競合状況が異なる。したがって、得票率の低下をそのまま支持者の離反と解釈することはできない。鈴木宗男による2021年の協力が、その後も同じ効果を持ち続けていたかどうかについても、この数字だけでは検証できない。

 ここから見えてくるのは、後援会の協力が成立しても、その関係だけで選挙結果が決まるわけではないという現実である。政党全体への評価、地域の政治情勢、候補者の顔ぶれ、投票率などが変われば、選挙の結果も変化する。長年の確執が政治的な協力によって緩和されたとしても、それが直ちに安定した集票力を生むとは限らないのである。

 2024年の落選後、中川郁子は次の衆議院選挙への不出馬を表明した。これを受けて自民党北海道第11区では後任候補者の選定が進められ、2025年6月には中川一郎の孫である中川紘一が、次期衆院選の公認候補予定者となる選挙区支部長に選任された。中川家の政治的な系譜は、新しい候補者によって引き継がれることになったのである。

2025年、鈴木宗男自身が自民党に戻った

 2026年の中川紘一支援を理解するには、もう一つ見逃せない政治的な変化がある。鈴木宗男自身が、2025年6月20日に自由民主党へ復党していたことである。

 鈴木は2002年に自民党を離れてから、新党大地の結成や日本維新の会での活動など、複数の政治的な立場を経験してきた。しかし2025年6月、自民党の党紀委員会で復党が認められ、同年7月20日の参議院議員通常選挙では自民党の比例代表候補として当選した。中川紘一への支援を表明した2026年1月の時点では、鈴木自身も自民党所属の参議院議員だったのである。

 この変化は、2021年と2026年の政治的協力の性質が異なることを意味する。2021年には異なる政党に所属する政治家が、選挙上の利害から協力する形だった。一方、2026年には同じ自民党に所属する政治家同士の協力という側面が加わっている。

 もちろん、同じ政党に所属しているからといって、すべての政治家が同じ候補者を積極的に支援するとは限らない。しかし、鈴木の復党という事実を抜きにして2026年の支援を説明すれば、個人的な関係の変化を必要以上に強調することになりかねない。1983年の対立から続く歴史を理解するには、個人の感情だけでなく、所属政党の変化を含めて考える必要がある。

 こうして見ると、北海道の保守政治をめぐる関係は、一定の方向へ直線的に変化してきたわけではない。1983年には自民党公認候補と無所属候補として競争し、1995年には後援会が協力し、2009年には異なる政党間の選挙競争を通じて再び対立する立場に立った。その後、2021年には党派を超えた協力が実現し、2025年の鈴木の復党によって、2026年には同じ党に所属する政治家として協力する条件が整ったのである。

43年後、中川一郎の孫を支えた鈴木宗男

 2026年1月19日、鈴木宗男の十勝連合後援会は帯広市内で会合を開いた。鈴木はこの場で、衆議院北海道第11区から立候補する中川紘一を支援する考えを表明した。中川紘一は、中川一郎の孫であり、中川昭一の甥に当たる。1983年に中川昭一と後継を争った鈴木が、43年後には中川家の政治的な系譜に連なる候補者を支援する立場になったのである。

 2月8日の総選挙では、中川紘一が86,019票、中道改革連合の石川香織が72,951票、参政党の宇都隆史が12,613票を獲得し、中川が当選した。候補者3人の有効得票の合計は171,583票で、中川紘一の得票率は約50.1%だった。

 ここで2024年と2026年の選挙を比較すると、中川側の得票率は約41.3%から約50.1%へ上昇している。しかし、2024年の候補者は中川郁子、2026年は中川紘一であり、同じ人物への支持率を比較したものではない。対立候補だった石川香織の所属政党も変わり、2026年には中道改革連合から出馬している。さらに、北海道第11区の投票率は2024年の59.90%から2026年の64.07%へ上昇しており、選挙参加の規模も変化している。中川側の得票率が上昇したという結果は確認できるが、その要因を鈴木宗男の支援に限定して説明することはできない。

 むしろ注目すべきなのは、この選挙が中川家の政治的な系譜を継承する候補者の当選であると同時に、かつての後継争いの当事者だった鈴木宗男が、その候補者を支援する政治的な立場にいたことである。

 ただし、それをもって個人的な確執が完全に解消したと結論付けることはできない。中川昭一は2009年に亡くなっており、当事者同士の関係について新たな相互証言を得ることはできないからである。2026年に確認できるのは、中川家の政治的な系譜に連なる候補者と鈴木宗男との間で、選挙上の協力関係が成立していたという事実である。

 それでも、1983年の後継争いから続く43年間を振り返れば、政治的な関係が一度の対立によって永久に固定されるものではないことが分かる。個人の関係、後援会組織、選挙制度、所属政党はそれぞれ異なる時間の流れの中で変化し、ときに対立を生み、ときに協力を成立させてきたのである。

確執の歴史が残したもの

 中川昭一と鈴木宗男の関係について、最終的にどの時期に個人的な確執が解消されたのかを確定できる資料は十分ではない。中川昭一本人が鈴木についてどのように考えていたのかも、鈴木側の回想に比べて直接的な記録が限られている。そのため、二人の関係を個人的な憎悪や報復の歴史として断定することはできない。

 しかし、選挙結果や当事者の政治活動記録、政党間の協力関係をたどると、別の事実が明確になる。1983年の後継争いでは、中川一郎の関係者や地域の支持勢力が異なる候補者を支え、中川昭一と鈴木宗男がそれぞれ国会議員となった。旧中川後援会の組織がどのように分かれたのか、その全容を裏付ける名簿や内部資料は十分ではないものの、両者が独立した政治活動を展開し、その後も異なる支持基盤を持ち続けたことは確認できる。

 その一方で、1995年には両者の後援会を含む3派が協力し、地方議会に候補者を送り出した。1996年の衆議院選挙制度改革によって、二人が同じ選挙区で直接競争する構造は変化し、2009年には政党間の選挙協力を背景に異なる候補者を支える立場となった。さらに2021年には鈴木が中川昭一の妻を支援し、2025年の自民党復党を経て、2026年には中川一郎の孫を支援した。

 この流れを、対立から和解へという単純な物語にまとめることはできない。1983年の争いを生んだ中選挙区制の仕組みと、1996年以降の小選挙区制の仕組みは異なっており、2009年、2021年、2026年では政党間の関係も変化している。それぞれの政治的な選択を生んだ要因は同一ではなく、個人的な感情、地域の政治組織、選挙制度、政党間の利害を区別して考えなければならない。

 そして、この歴史は特定の政治家だけに限られるものではない。地域の国会議員が引退したり亡くなったりしたとき、政治的な支持組織は誰に引き継がれるのか。後継者の選出を決めるのは血縁なのか、長年の活動実績なのか、それとも地元の支持者の選択なのか。選挙制度が変わったとき、それまでの人間関係や後援会の力はどのように組み替えられるのか。中川と鈴木の歴史には、地方政治を考えるうえでの普遍的な問いが含まれている。

 十勝の広い農地、足寄の内陸部から釧路・根室の沿岸地域へと続く北海道東部には、産業も生活条件も異なる市町村が連なっている。そこで政治家を支えてきた後援会や地域の人間関係は、国会の議席が変わっても直ちに消えるわけではない。政治家本人が亡くなった後にも、その名を記憶する人々や支援組織が残り、次の選挙で新たな関係を築くことがある。

 中川一郎の政治的遺産をめぐる1983年の後継争いは、北海道保守政治の支持組織が複数の政治的な系譜へ分かれる契機となった。しかし、それらの組織は一貫して敵対していたわけではなく、地方選挙の事情、衆議院の選挙制度改革、政党間の協力関係、政治家の所属政党の変化に応じて、競争と協力を繰り返してきた。

 2026年、鈴木宗男が中川一郎の孫を支援したという出来事は、43年前の後継争いがなかったことになったという意味ではない。むしろ、かつて争った政治家たちの支持組織や人間関係が、時代と制度を越えて別の形に変わりながら残り続けていることを示している。

 政治的な確執は、しばしば個人の感情として語られる。しかし、その背後には選挙制度があり、政党の利害があり、地域の支持組織がある。中川昭一と鈴木宗男の43年間をたどると、政治とは人間同士の対立だけで動くものでも、一度の和解ですべてが変わるものでもないという、より複雑な現実が浮かび上がってくる。

 1983年、中川一郎の死によって生じた政治的な空白をめぐって、長男と元秘書は異なる道を歩み始めた。そして43年後、鈴木宗男は中川一郎の孫を支援する立場にいた。その間に何が変わり、何が変わらなかったのかを考えることは、北海道の保守政治だけでなく、日本の地方政治における政治的継承の仕組みを理解することにもつながるのである。

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選挙が終わったのに、なぜ後援会は解散しないのか

 選挙期間中には街に候補者のポスターが並び、選挙カーが走り、駅前や商店街では演説が行われ、事務所には支持者や運動員が出入りするが、投票日が終わって当落が決まると、それまでの騒がしさが嘘のように消えていくため、有権者の側から見れば「選挙が終わったのだから、後援会もいったん役目を終えてよいのではないか」と感じても不思議ではない。しかし現実には、選挙後も存続して政治活動を続ける後援会は少なくなく、その理由を単に「次の選挙に備えているから」と説明してしまうと、政治家と後援会との関係をかなり単純化することになる。

 政治家にとって選挙は政治活動そのものではなく、数年間にわたって続く政治活動の途中で有権者から評価を受ける機会であり、当選した政治家には投票日の翌日から議会活動、政策判断、地域との連絡、住民への説明などの日常が再び始まる。公職選挙法も、特定の候補者や公職にある者の政治上の主義や施策を支持したり、その人物を推薦、支持したりすることを主な政治活動とする団体を「後援団体」として想定しており、後援会を選挙期間だけ存在する臨時組織として制度化しているわけではない。

 したがって、「選挙が終わったのに、なぜ後援会が残っているのか」という問いは、少し角度を変えて考えた方が分かりやすい。政治活動そのものが投票日で終了するわけではないのなら、その活動を支えてきた組織まで投票日の翌日に当然に消滅する理由もなく、むしろ問題になるのは、政治家が選挙と選挙の間に後援会をどのように利用し、なぜその組織を維持する価値があると考えるのかという点なのである。

選挙運動と政治活動は、似ているようで同じではない

 後援会について考える際に最初に整理しておかなければならないのが、「選挙運動」と「政治活動」の違いである。公職選挙法上の選挙運動には期間や方法についてさまざまな規制があり、候補者がいつでも自由に投票を求める活動を始められるわけではない一方、政治家が政策について説明したり、議員としての活動を報告したり、地域住民から意見や要望を聞いたり、政治団体が平常時の政治活動を行ったりすることまで、選挙終了と同時に消えるわけではない。

 もちろん、選挙期間外であれば何をしてもよいという意味ではなく、事前運動、寄附、文書図画、政治活動用の看板、選挙後のあいさつ行為などについても公職選挙法には細かな規制が設けられており、後援会もその外側に置かれているわけではない。それでも、法律が後援団体による平常時の政治活動を前提として規制を設けていることから分かるように、選挙が終わった後に後援会が存在し、適法な範囲で政治活動を続けること自体を、直ちに次の選挙のための選挙運動とみなすことはできない。

 選挙を数年に1度の定期試験にたとえるなら、政治家の仕事の大部分は試験当日ではなく、その間の長い時間にある。後援会もまた、試験の日だけ現れる応援団というより、その長い時間の中で政治家と地域社会との関係を支える組織の一つとして存在している、と考えた方が実態には近い。

後援会が持っているのは、名簿よりも時間である

 後援会という言葉から、支持者名簿、会報、集会、事務所、選挙時の電話連絡などを思い浮かべる人は多いかもしれないが、組織として考えたときに本当に重要なのは、そこに何人の名前が記録されているかだけではなく、その人々との関係がどれだけの時間をかけて形成されてきたかである。ある地域に政治家を長く知る人がいて、その人を通じて別の住民との接点が生まれ、地域の行事や会合を通じて話を聞く機会が増え、地域で起きている問題が政治家側へ伝わり、反対に議会や行政で議論されていることが地域へ戻っていくという往復が何年も続けば、後援会は単なる名前の一覧ではなく、人と人との関係そのものを含む組織になっていく。

 しかも、人間関係にはコンピューターのデータのような保存機能がないため、一度活動を完全に止めても、必要になったときに以前と同じ状態へ戻せるとは限らない。次の選挙が近づいてから数年前の名簿を取り出したとしても、その間には転居した人もいれば、高齢になって活動から離れた人もおり、地域の役職や人間関係も変化し、新しく転入してきた住民との接点も作らなければならないため、組織を完全に停止させてから再構築することには相応の時間と労力が必要になる。

 この意味では、選挙後も政治活動を続ける政治家にとって、すでに存在する人的なネットワークを一定程度維持することには組織運営上の合理性があり得る。ただし、ここで重要なのは「後援会を持てば必ず選挙に有利になる」とまでは言えないことであり、選挙区の人口、都市化の程度、政治家自身の知名度、政党組織の強さ、後援会を維持するための費用などが違えば、その価値も当然変わってくる。

実は、後援会に入る人は長期的に減っている

 ここで、現在の後援会を考えるうえで見落としてはならない数字がある。明るい選挙推進協会が2023年の第20回統一地方選挙後に実施した全国意識調査では、「今回の統一地方選挙の候補者の後援会に加入している」と回答した人は7.1%であり、同じ質問に対して1991年の調査では27.1%、1995年には26.9%、1999年には26.0%、2003年には23.1%、2007年には21.4%、2011年には16.3%だった。

 ただし、この数字を一直線につないで「1991年から2023年まで同じ条件で測定した結果、後援会員が4分の1近くまで減少した」と単純に結論づけることには注意が必要であり、第17回までの調査は面接方式だったのに対して、第18回以降は郵送方式へ変更されているため、2011年の16.3%から2015年の8.7%への大幅な変化には、実際の社会変化だけでなく調査方法の変更による影響が含まれている可能性がある。

 それでも、調査方式が変更される以前だけを見ても1991年の27.1%から2011年の16.3%へ低下しており、郵送方式になった後についても2015年8.7%、2019年8.4%、2023年7.1%と推移していることから、後援会への加入が長期的に縮小してきたという大きな方向そのものは読み取ることができる。つまり、現代の後援会を理解する際には「昔ながらの巨大な後援会が今も変わらず日本政治を支配している」という前提を置くべきではなく、むしろ勢力を縮小させながら、それでも完全には消えていない組織として考える必要がある。

7.1%という数字にも、読み方がある

 2023年調査では3,150人が調査対象となり、1,666人から有効回答を得ているため、有効回収率は52.9%だったが、この調査は統一地方選挙で議会議員選挙が行われなかった東京都など6都県を対象地域から除いており、さらに年代によって回答率にも違いがあるため、7.1%という数字を「日本の全有権者のうち正確に7.1%が政治家の後援会員である」と読み替えることはできない。

 調査が実際に尋ねているのは、今回の統一地方選挙候補者の後援会に加入しているかどうかであり、この7.1%は日本に存在するすべての国会議員、地方議員、首長その他の政治家の後援会への加入状況を網羅した数字ではない。それでも、同じ調査系列の中で後援会との接点が長期的に弱まっていることを知る資料としては意味があり、後援会を現在も巨大な大衆組織であるかのように説明することには慎重でなければならない。

 統計は数字が細かいほど正確に見えるが、小数点以下まで示された数字であっても、その背景には調査対象、抽出方法、回収率、質問文、調査方式が存在する。後援会の7.1%という数字も例外ではなく、数字そのものより「何を、誰に、どのように尋ねた結果なのか」を理解したうえで使うことが重要になる。

後援会との距離には、世代や地域による違いが見える

 同じ2023年調査を年代別に見ると、今回の統一地方選挙候補者の後援会に加入していると回答した割合は50歳未満で4.0%、50~60歳代で6.7%、70歳以上では10.5%となっており、少なくともこの調査では高い年齢層ほど加入率も高かった。また都市規模別では大都市が4.5%だったのに対し、人口20万人以上の市では8.9%、人口10万人以上の市では7.1%、人口10万人未満の市では7.4%、町村では9.1%となっており、大都市よりその他の地域で比較的高い割合が観察されている。

 もっとも、この数字だけから「高齢だから後援会に入る」「町村だから後援会が強い」と因果関係まで断定することはできない。町村には大都市より高齢者が多い可能性もあり、職業構成、居住年数、政治関心、地域社会との結び付きなど別の要因が関係している可能性もあるため、ここで確認できるのは年齢や都市規模と後援会加入との間に一定の関連が見られるというところまでで、それぞれが独立した原因であることを示したものではない。

 それでも、この違いは後援会について一括りに語ることの難しさを示している。「地方では後援会がなければ選挙にならない」という説明も、「若い人は後援会とは無縁である」という説明も、それだけでは根拠が足りず、政治家の種類、地域、世代、政党組織、選挙の性格によって後援会との距離は大きく異なると考える方が現実的だろう。

後援会は地域の情報を運ぶ経路にもなり得る

 政治家本人が直接会って話を聞ける人数には物理的な限界があるため、地域に継続した人的ネットワークが存在すれば、ある制度について住民がどのような不便を感じているのか、地域で何が問題になっているのか、以前とは関心がどのように変わってきたのかといった情報が政治家へ届く経路になり得る。人口減少という数字一つを取っても、どの地区で買い物が難しくなったのか、どの道路を高齢者が危険だと感じているのか、公共交通の変化が誰の生活に影響しているのかといった細かな事情まで行政統計だけで把握することは難しく、人を介した情報には統計とは異なる意味がある。

 しかし、ここでも後援会を万能な情報網と考えることはできない。後援会から政治家へ届く声は、当然ながらその政治家を支持する人や政治への関心が高い人の意見に偏る可能性があり、その情報だけを地域全体の意見だと受け取れば、かえって住民の考え方を見誤る危険があるため、行政統計、各種調査、議会での議論、支持者ではない住民との対話など、別の情報と組み合わせて判断する必要がある。

 後援会を「地域のセンサー」と表現するとすれば、それは地域社会のあらゆる場所を均等に測定する精密機器ではなく、接点を持っている場所については細かな変化を伝えてくれる一方、そのネットワークの外側で起きていることを捉えにくいセンサーということになる。それでも政治家にとって、そのような情報経路を長期間かけて形成してきたのであれば、選挙が終わったという理由だけで直ちに手放さないことには一定の合理性がある。

政治団体として続けるなら、会計事務も続く

 後援会には人間関係とは別に、政治団体としての制度的な側面もある。政治資金規正法は、政治団体について届出や政治資金の収支報告などの仕組みを設けており、政治団体の会計責任者には収支を記録し、法律が定める収支報告書を提出するなどの事務が求められているため、政治団体として後援会を継続するのであれば、それに伴う会計や報告の仕事も年間を通じて発生する。

 ただし、この会計制度そのものが「だから政治家は後援会を残したがる」という動機を生み出しているわけではなく、むしろ会計や報告に必要な手間は後援会を維持する側から見ればコストでもある。政治資金規正法が説明しているのは、後援会をなぜ維持するのかという政治家の動機ではなく、政治団体として活動を続けるのであれば、資金についてどのような責任を負わなければならないかという制度的な枠組みである。

 この区別は重要であり、後援会が存在していることと、その活動が適法かつ適切に行われていることも同じではない。政治家による選挙区内の人への寄附をはじめ、公職選挙法や政治資金規正法にはさまざまな規制が設けられているため、「後援会だから許される」という特別な領域が存在するわけではなく、後援会という制度的な存在を説明することと、個々の団体の活動を評価することは分けて考えなければならない。

数理的に考えると、なぜ「維持する」という選択が生まれるのか

 後援会を維持するかどうかを極めて単純な組織の意思決定として考えれば、政治家側が後援会を維持することで将来得られると期待する便益と、その組織を維持するために負担しなければならない費用を比較する問題として捉えることができる。将来の便益には、すでに形成された人的関係、政治活動への協力、地域との接点、情報の伝達、さらに一度失った組織を将来になって再構築しなくて済むことなどが考えられる一方、維持する側には人員、通信、会合、事務所、会計、時間などの費用が発生する。

 そこで、将来得られると期待される便益の現在価値が維持費用を上回ると政治家側が考えるなら組織を残すことには合理性があり、逆に費用の方が大きいと判断すれば規模を縮小したり、活動を停止したりする選択も合理的になる。この考え方は、特定の政治家について「後援会を維持すれば何票増える」という実測値を示すものではなく、経済学や組織論で用いられる合理的選択の枠組みから、なぜ選挙終了後にも既存組織を残す行動が生まれ得るのかを説明するモデルである。

 特に人間関係を含む組織では、再構築に必要な費用を考える必要がある。選挙のたびに完全に解散して数年後にゼロから同じ組織を作り直せるのであれば平時の維持には意味が少なくなるが、実際には一度失われた信頼、地域での接点、連絡網を以前と同じ状態へ戻せる保証はないため、すでに形成された組織を一定程度維持する選択には理論上の説明がつくのである。

「結局、次の選挙のためではないか」という疑問

 ここまで説明しても、「それでも結局は次の選挙で当選するために後援会を残しているのではないか」と感じる人はいるだろうし、その見方を完全に否定する必要もない。再選を目指す政治家であれば、任期中に維持した支持者との関係や地域での活動が将来の選挙に結び付く可能性はあり、後援会が選挙の際の人的基盤として働き得ることは、後援会という組織を考えるうえで無視できない側面である。

 しかし、それだけで説明してしまうと、政治活動から選挙へ向かう一方向の関係だけを見ることになる。実際には次の選挙までの間にも政治家は議会に出席し、政策について判断し、地域から要望を聞き、自らの活動を説明し続け、その過程で支持を続ける人もいれば離れる人もおり、新しく接点を持つ人も現れるため、日常の政治活動によって維持された人間関係が結果として次の選挙でも利用され得る、と考える方が現実には近い。

 つまり、「次の選挙のために数年間ずっと後援会を維持している」という説明だけでなく、「選挙と選挙の間にも政治活動があり、その活動を支えるために維持された組織が、結果として次の選挙でも機能することがある」という循環として見ることによって、後援会がなぜ投票日とともに消えないのかが理解しやすくなる。

SNSが普及すれば、後援会は不要になるのか

 現在では政治家本人がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用し、議会での発言、政策についての考え方、地域活動の様子などを有権者へ直接発信できるようになり、かつて会報や集会などを通じなければ広く届けにくかった情報を、短時間で多数の人へ届ける手段は大きく広がった。

 しかし、そこから直ちに「SNSが後援会を代替した」と結論づけることはできない。SNSは多くの人へ直接情報を届けることに適している一方、オンラインで投稿を見る人と、地域で長年活動を続ける人との関係は同じではなく、反対に従来型の後援会には、若い世代や組織外の住民へ幅広く情報を届けるという点で限界があるため、両者は単純に一方が他方を置き換えるものではなく、性質の異なる政治的な接点として併存していると考える方が無理がない。

 後援会への加入率が長期的に低下していることを考えれば、将来も昔と同じ形の後援会が維持されるとは限らず、政治家と有権者を結ぶ経路の中で後援会が占める比重は今後さらに変化する可能性がある。それでも、SNSが普及したという一つの事実だけから後援会の消滅を導くことはできず、オンラインによる情報発信と、地域に蓄積された人的ネットワークがどのように組み合わされていくのかという問題として考える必要がある。

後援会が残る理由を、一つに決めることはできない

 政治家の後援会が選挙後も存続する理由について、「最大の理由はこれである」と一つだけを取り出して順位付けすることは難しい。全国の政治家本人を対象として、後援会を維持する理由を同じ尺度で測り、その寄与度を比較した資料が十分に存在するわけではない以上、次の選挙、日常の政治活動、既存の人的ネットワーク、地域との情報交換、組織を再構築する費用など、複数の事情が重なっていると考える方が慎重である。

 しかも、1991年には27.1%だった統一地方選挙候補者の後援会加入割合が、調査方法の変更という注意点を抱えながらも2023年には7.1%になっていることを考えれば、後援会は日本政治の中で不変の存在ではなく、すでに大きな変化の途中にある。だからこそ興味深いのは、「後援会は重要なのか、それとも不要なのか」という二者択一ではなく、これほど加入する人が減ってきたにもかかわらず、なぜ後援会という組織が完全には姿を消していないのかという問いである。

選挙は1日で決まるが、人間関係は1日では作れない

 投票所が閉まり、当落が決まり、候補者が支持者と万歳をして選挙事務所の明かりが消えれば、外から見える選挙はそこで終わるが、その翌日から当選した政治家は議会や行政との仕事へ戻り、地域住民の話を聞き、政策について判断し、自らの活動について説明し続けるため、政治家と有権者との関係まで投票終了時刻に合わせて白紙になるわけではない。

 後援会は、その長い時間をつなぐ仕組みの一つとして日本政治の中に存在してきたが、現在では加入する人が大幅に減り、政党、議員事務所、SNS、地域活動など政治家と有権者を結ぶ経路も多様化しているため、昔と同じ後援会像だけで現代政治を説明することはできない。それでも、時間をかけて形成された人間関係には再構築の費用があり、日常の政治活動は選挙後も続き、その組織が将来の選挙でも利用され得る以上、後援会を投票日の翌日に解散せず、一定の形で維持することには制度面から見ても組織論から見ても説明可能な合理性がある。

 選挙期間だけを切り取れば、後援会は票を集めるための組織に見えやすい。しかし視野を選挙と選挙の間にある数年間へ広げると、そこには政策を説明する時間、住民の声を聞く時間、支持する人が離れる時間、新しい人と関係を作る時間があり、それらが積み重なった先に次の選挙がやって来る。選挙は1日で結果が決まっても、人と人との関係は1日では作れず、数年間の空白を置いて以前と同じ状態へ戻せるとも限らないという、ごく現実的な事情こそが、加入者を減らしながらも後援会がなお残っている理由を考えるうえで重要なのである。

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55年体制は、永田町だけにあった政治体制ではない

 1955年10月に左右の日本社会党が再統一し、同年11月には日本民主党と自由党の保守合同によって自由民主党が結成された。ここから、自民党が長く政権を担い、日本社会党が最大野党として対峙する、いわゆる55年体制が形成された。しかし、この時代を国会の議席数や自民党と社会党の対立だけで眺めていると、戦後政治を動かしていたもう1つの世界を見落としてしまう。55年体制は東京の国会議事堂の中だけに存在したのではなく、県庁、市役所、町村役場、地方議会、農村、商店街、企業、労働組合、そして政治家の後援会を結ぶ網の目のような関係を通じ、地方社会の隅々にまで伸びていたからである。

 ただし、ここで注意したいのは、後援会をはじめとする個人政治家中心の組織が1955年になって突然生まれたわけではないという点である。1927年の内務省資料を用いた研究では、すでに戦前の全選挙区の約4割に個人後援会が存在していたことが確認されており、後援会には明確な戦前からの系譜がある。55年体制が生み出したのは完全に新しい政治文化というより、それ以前から存在していた地縁、人脈、個人後援、職業団体などを、長期政権、選挙制度、高度経済成長期の利益配分と結び付け、地方政治の中に安定した仕組みとして定着させた構造だったと見るほうが正確である。

政党名よりも「誰の票か」が重要だった時代

 55年体制期の自民党政治を特徴づけたものの1つが、候補者個人を支える後援会である。当時の衆議院では中選挙区制が採用され、1つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党が強い地域では同じ自民党の候補者同士が競争することも珍しくなかった。その場合、「自民党を支持する」というだけでは候補者を選び分ける理由にならず、「この地域はこちらの先生」「この業界はこちらの先生」という個人的な支持基盤を築く必要が生じる。こうして政治家は地域の支持者を組織し、地方議員や有力者、各種団体との関係を積み重ねながら、自分自身の票を確保する政治を発達させていった。

 もっとも、中選挙区制だけを後援会発達の原因と考えるのは単純すぎる。近年の研究では、日本の厳格な選挙運動規制や1954年の公職選挙法改正も重要な役割を果たしたとされており、1952年の総選挙では個人票を獲得する手法の1つにすぎなかった後援会活動が、1958年頃には事前の政治活動を担う主要な仕組みへと広がっていったことが指摘されている。つまり後援会は、中選挙区制による党内競争、選挙運動規制、既存の地縁や人間関係といった複数の条件が重なることで発達したのであり、1つの制度だけから生まれたものではなかった。

政治家は東京と地方を往復する「回路」になった

 こうして形成された後援会は、選挙の直前だけ開く臨時の応援組織ではなかった。政治家と地域住民の間には日常的な関係が作られ、地方議員、地域団体、企業、農業関係者、商工業者などがその間を結んだ。国会議員にとって地元とは、数年に1度票をもらいに帰る場所ではなく、自らの政治的基盤そのものであり、地域側から見れば国会議員は東京の中央政府へ要望を届けるための窓口でもあった。

 道路、河川、港湾、農業基盤、学校、公共施設などが急速に整備されていた高度経済成長期には、この関係はとりわけ大きな意味を持った。自治体や地域団体が国の予算や事業を求め、国会議員が中央省庁や与党との間をつなぎ、地元ではその働きが政治家の実績として評価されるという循環が成立しやすかった。ただし、すべての公共事業を選挙目的の利益誘導とみなすのも適切ではなく、実際にはインフラ整備そのものに強い社会的必要性があった。重要なのは、政策上必要な公共投資の配分過程と、政治家の人的ネットワークが重なる場面が多かったことであり、その重なりが「中央とのパイプを持つ政治家」という評価を生んだことである。

組織政治は自民党だけのものではなかった

 55年体制を地方から眺めると、自民党の後援会だけが地域を支配していたわけではないことも見えてくる。日本社会党には労働組合を中心とする組織的な支持基盤があり、公明党や日本共産党などにも、それぞれ異なる形の支持組織があった。会社員、労働者、農家、商店主など、人々が所属している職場や地域団体と政治との距離が現在より近い社会では、個人の政治参加も所属組織を経由しやすかった。

 この意味で55年体制とは、単に自民党と社会党が国会で対立した制度ではなく、社会の中に存在するさまざまな集団が、それぞれ異なる形で政治と接続されていた時代でもあった。ただ、その社会的基盤は現在まで同じ強さで残っているわけではない。例えば労働組合の推定組織率は1955年には35.6%だったのに対し、2024年には16.1%まで低下している。労働組合だけをもって地域政治全体の組織力を測ることはできないが、55年体制期を支えた代表的な中間組織の1つが長期的に縮小してきたことは、数字からも確認できる。

1993年に体制が崩れても、人間関係まで消えたわけではない

 1993年の衆議院総選挙後、自民党は結党以来続けてきた政権の座を離れ、一般に55年体制の終焉を象徴する政権交代が起きた。さらに1994年の政治改革によって衆議院には小選挙区比例代表並立制が導入され、同じ選挙区で自民党候補同士が競争することを前提としていた中選挙区時代の政治環境は大きく変わった。制度だけを見れば、政治家が独自の個人後援会を抱えて党内候補と争う必要性は以前より小さくなった。

 しかし、法律には施行日があっても、人間関係には施行日がない。長崎県を対象とした研究では、新しい選挙制度が導入された後も、多くの国会議員が中選挙区時代の後援会組織を基本的に維持し、新しい選挙区から外れた地域でも政治活動を続けていたことが確認されている。ただし、これは長崎県を対象とした2000年代初頭までの事例研究であるため、そのまま2026年の全国すべての地域へ一般化することはできない。それでも、選挙制度が変更されても、それ以前に形成された政治組織や支持者との関係が直ちに消滅するわけではないことを示す重要な実証例である。

現在の地方政治にも「個人」が強く残っている

 それでは現在の地方政治を見るとどうだろうか。総務省が2024年12月31日時点で在職していた地方政治家について、立候補届出時の所属党派を調べた統計では、都道府県知事47人のうち45人、95.7%が無所属であり、市区町村長では1,740人のうち1,719人、98.8%が無所属だった。また、市区町村議会議員28,941人のうち19,885人、68.7%が無所属である。一方で都道府県議会議員では無所属は2,614人中551人、21.1%にとどまっており、地方政治をひとまとめにして「無所属中心」と表現するのも正確ではない。自治体の段階や選挙の種類によって、政党の存在感には大きな差がある。

 さらに、この統計には重要な注意点がある。ここでいう所属党派とは2024年12月31日時点の政治的な立場ではなく、各政治家が立候補を届け出た時点の所属党派である。また、無所属の候補者であっても政党から推薦や支援を受けることはあり、「無所属であること」と「政党と関係がないこと」は同じではない。したがって、この数字は55年体制の組織が現在まで残っていることを直接証明するものではなく、現在の基礎自治体政治では国政ほど政党名だけで候補者を分類できないことを示す数字として読むべきである。

無所属の多さを、55年体制の名残だけで説明してはいけない

 ここで、55年体制との連続性を考える際に重要な区別が生まれる。現在の地方政治で候補者個人の名前や地域での活動が重要なのは、昔の後援会文化が残っているからだけではない。地方議会や首長の選挙制度そのものが、国政とは異なる条件を持っているからである。市町村議会では自治体全体を選挙区として複数の議員を選ぶ場合も多く、有権者は政党ではなく候補者個人に投票するため、同じ政党の候補同士で票を競う状況も生じる。首長選挙では自治体全体から1人を選ぶため、政党公認ではなく無所属として立候補し、複数の政党や団体から支援を受ける形も成立しやすい。

 つまり現在の地方政治に個人中心の性格が残っている理由を因果関係として考えるなら、「55年体制の組織が残ったから現在も個人政治が強い」という1本の線では足りない。過去から受け継がれた後援会や人的ネットワークという歴史的要因と、現在の地方選挙制度が候補者個人を前面に出しやすいという制度的要因が同時に作用していると考えるほうが妥当である。ここを区別しなければ、現在観察される無所属の多さという結果から、その原因まで55年体制に求めることになり、相関関係と因果関係を混同してしまう。

古い組織は弱くなったが、政治から「人間関係」が消えたわけではない

 それでも、55年体制期の地方政治と現在の地方政治がまったく別世界になったわけでもない。政治家の後援会、地域団体との関係、国会議員と地方議員の協力、自治体から国への要望活動などは現在も存在している。一方で、人口移動、高齢化、過疎化、都市化、職業構造の変化、地域団体や労働組合の組織率低下などによって、それらを支える社会の側は大きく変化した。かつて同じ町内、職場、農村、商店街の人間関係を通じて政治的支持が伝わった地域でも、転入者が増え、勤務先と居住地が離れ、インターネットやソーシャルメディアから直接政治情報を得る人が増えれば、従来型組織だけで有権者をまとめることは難しくなる。

 その変化は、55年体制の政治組織が一斉に消滅したというより、古い組織の外側に新しい有権者が広がっていった過程と考えると分かりやすい。長く地域に住み、政治家や地方議員との接触を持つ層には従来型の人的ネットワークが残る一方、転入者や若い世代ではそれとは異なる情報経路が形成される。そのため現在の地方政治には、昔ながらの後援会政治と、政党を重視する政治と、インターネットを通じて候補者を直接評価する政治が、同じ地域の中で重なって存在している。

利益誘導政治も、同じ姿で残っているわけではない

 55年体制期の地方政治については、「地元へ道路や公共施設を持ってくる政治家」というイメージが強く残っている。しかし、現在の地方政治をそのまま同じ図式で説明することはできない。国と地方の財政関係、行政手続、公共事業の評価方法、情報公開、地方分権などが進み、政治家個人の働きかけだけで公共投資が決まると考えるのは現実的ではない。

 それでも自治体が国や都道府県に予算、制度改正、道路、鉄道、防災、医療、産業振興などを要望する必要はなくなっていない。政治家が中央省庁や政党と接点を持ち、地域の要望を政策過程へ伝える機能も残っている。昔の「利益誘導」という言葉でひとまとめにするより、現在では政策要望、予算確保、国と地方の調整という制度的な活動の中に、人的ネットワークの効果も重なっていると考えたほうが実態に近い。

では、55年体制は地方にどれほど残っているのか

 ここまでを見ると、「55年体制の地方政治は現在も残っているのか」という問いに、単純に「残っている」あるいは「消えた」と答えることが難しい理由が見えてくる。個人後援会には戦前からの歴史があり、55年体制期にそれが広く定着したが、1994年の制度改革後には国政レベルで個人後援会を必要とする条件の一部が弱まった。それでも旧来の後援会が制度改革後も残った地域は確認されており、現在も地方では候補者個人を中心とする政治が強く表れる。ただし、それをすべて55年体制の遺産とみなすことはできず、地方選挙制度そのものが個人中心の政治を生み出している部分もある。

 さらに科学的に考えるなら、1955年から2026年まで同じ後援会や系列関係がどの程度連続して残っているのかを全国規模で測定した完全な時系列データが存在するわけではない。そのため、「55年体制期の政治組織がそのまま現在まで保存されている」と断定することは難しい。一方、戦前の後援会、1950年代の後援会拡大、1994年以降も組織が維持された事例、現在の地方政治における個人中心性という複数の証拠をつなげれば、制度や社会環境が変わりながらも、人的ネットワークを重視する政治文化の一部に歴史的連続性があると考えることには十分な根拠がある。

55年体制は消えた。しかし、その時代に太くなった根は残っている

 地方政治を古い家にたとえるなら、55年体制が終わった1993年に建物そのものが取り壊されたわけではない。選挙制度という間取りが変わり、人口移動や高齢化によって住人が入れ替わり、インターネットという新しい窓が取り付けられた。それでも、昔から使われてきた柱や基礎の一部は残り、その上に新しい政治が増改築されている。

 だから現在の地方政治で、国政とは違って政党名より候補者本人の評判が重視されたり、「誰と誰がつながっているのか」が意味を持ったり、地域と中央を結ぶ人間関係が注目されたりする場面があっても、それをただ「古い政治が残っている」と切り捨てるだけでは実態を捉えられない。その一部は55年体制期から受け継がれた歴史的遺産であり、別の一部は現在の地方自治と選挙制度が新たに生み続けている政治の性質だからである。

 55年体制そのものは、すでに過去の政治体制である。しかし、その時代に発達し定着した人的ネットワークの一部と、候補者個人を重視しやすい現在の地方政治制度とが重なり合うことで、当時とよく似た政治の風景が今も現れることがある。昔の組織がそのまま生き残ったというより、古い根から新しい枝が伸び続けていると考えたほうが、現在の地方政治をより正確に理解できるだろう。

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当確師とは、何をする人なのか

 選挙になると、表舞台には候補者が立つ。駅前でマイクを握り、街角で頭を下げ、集会では政策を語り、選挙カーから名前を繰り返す。しかし、その少し後ろには、候補者とはまったく違う景色を見ている人物がいる。「この地区では票が足りない」「この訴え方では高齢層には届いても、若い世代には響かない」「支持を表明している人は多いが、実際に投票してくれるかどうかは分からない」と考えながら、目の前の一人ではなく、選挙区全体を眺めている人である。

 こうした人物は、時代によって選挙参謀、選挙プランナー、選挙コンサルタントなど、さまざまな名前で呼ばれてきた。その姿を象徴する言葉の一つに「当確師」がある。作家・真山仁が2015年に発表した同名の小説でも、候補者を当選へ導く選挙コンサルタントが描かれている。ただし、「当確師」という公的な資格や正式な職業が存在するわけではない。本稿では、候補者の当選を目指して選挙情勢を読み、戦略を組み立てる人々を象徴する呼び名として使用する。

 そもそも「当確」とは、報道機関が世論調査や出口調査、開票状況などをもとに当選が確実と判断することであり、候補者を当選させるための仕事とは本来異なる。選挙参謀は、まだ確定していない有権者の行動を予測するだけでなく、限られた時間、人員、資金をどのように使うかについても考える。つまり、結果を予測する人と、その結果に影響を与えようとする人という二つの役割を持つのである。

 もっとも、昭和、平成、令和の当確師を、まったく別の種類の人間として考えるのは正確ではない。昭和の技術が平成になって消え、平成の技術が令和になって使われなくなったわけではなく、地域の人間関係や組織を読む技術の上に、世論調査や候補者イメージの設計が加わり、さらにインターネット上の情報や統計的な分析が積み重なってきたと考える方が実態に近い。ただし、この三つの時代区分は選挙参謀の仕事を理解するための概念的な整理であり、各時代にどの業務が何割を占めていたかを実測した分類ではないことにも注意が必要である。

昭和の当確師は「人間関係の地図」を持っていた

 昭和の選挙を考えるとき、現代のような巨大なデータベースやスマートフォンを思い浮かべる必要はない。当時の選挙参謀にとって重要な情報資産の多くは、コンピューターの中ではなく、人間の頭と足によって蓄積されていたからである。どの集落では誰に話を通せば人が集まるのか、商店街では誰の発言が信頼されているのか、農家同士の関係はどうなっているのか、前回は積極的に応援していた人物が今回はなぜ静かなのか。そうした細かな情報が積み重なり、選挙区全体の人間関係を示す一枚の地図になっていた。

 戦後の衆議院選挙では、長く中選挙区制が用いられていた。一つの選挙区から複数の議員が当選するため、同じ政党から複数の候補者が立候補することもあり、候補者は他党の候補者だけでなく、同じ党の候補者とも個人票を争う必要があった。この仕組みでは、政党への支持だけでは十分に差別化できない場合があり、「どの政党を支持するか」に加えて「その政党の誰を支持するか」という個人的な結びつきが重要になる。そこで大きな意味を持ったのが、候補者と地域社会を長期的につなぐ後援会だった。

 ただし、後援会の発達を中選挙区制だけで説明することはできない。個人を中心とする支援組織は戦前から存在しており、戦後に後援会活動が広がった背景には、選挙制度だけでなく、公職選挙法による選挙運動の規制も関係していた。1950年代の後援会についての政治学研究では、同一政党内の競争に加え、1954年の公職選挙法改正などが後援会活動の広がりに影響したことが指摘されている。選挙期間だけの運動には法的な制約があるため、候補者と有権者の関係を日常的に維持する活動が重要になったのである。

 その結果、地域行事への参加、業界団体との関係、後援会の集まり、冠婚葬祭などを通じた日常的な接点が、政治家の支持基盤を形づくるようになった。ただし、こうした歴史的な活動のすべてが、現在の法律でそのまま認められるという意味ではない。今日の公職選挙法では、日常の政治活動と特定の選挙で投票を勧める選挙運動は区別され、選挙運動の期間や方法にも制限がある。昭和の政治家と地域社会との関係を理解することと、その活動を現代の選挙で再現してよいかという判断は、分けて考えなければならない。

 こうした環境において、選挙参謀が見るべきものは数字そのものというより、数字になる前の人間関係の変化だった。「この地区は前回より集まりが悪い」「いつも顔を出す人が今回は来ない」「こちらを支持すると言っていた人物の返事が曖昧になった」といった小さな変化から、まだ集計表には表れていない選挙情勢を読み取ろうとしたのである。その判断は経験に支えられていたが、経験が豊富だからといって必ず正しいわけではなく、地域の有力者から聞いた話が、その地域の住民全体の意見を代表しているとも限らなかった。

昭和の票読みは、数字を使わなかったわけではない

 昭和の選挙参謀も、票数を計算していなかったわけではない。「この地区からは千票程度を期待できる」「この団体の支持は前回より弱くなっている」「前回の得票に上積みが必要だ」といった票読みは、現代と同じように行われていた。しかし、その数値の根拠には、過去の選挙結果、組織の人数、地域の事情、後援会幹部の感触などが入り交じっており、統計的な標本抽出や推定誤差が明示されているとは限らなかった。

 例えば、ある業界団体に千人の会員がいたとしても、その千人が同じ候補者に投票するとは限らない。そもそも全員がその選挙区の有権者とは限らず、別の政党を支持する人もいれば、投票しない人もいる。それにもかかわらず、団体の代表者が候補者への支持を表明したという理由だけで、会員数に近い票が得られると見積もれば、票読みは大きく外れる可能性がある。

 さらに、日本の選挙は秘密投票であるため、本人が誰に投票したかを候補者側が確認することはできない。昭和の選挙で「見える票」が多かったという表現は、実際の投票先が見えていたという意味ではなく、支持表明や組織的な結びつきを通じて、支持の所在を推測しやすい部分が比較的大きかったという意味で理解する必要がある。

 つまり、昭和の当確師とは、数字を使わなかった人ではなく、人間関係の中から数字を掘り出そうとしていた人である。その強みは地域事情の深い理解にあったが、弱点は、限られた人間関係から得た情報を選挙区全体へ広げて解釈してしまう危険にあった。今日の統計学でいう標本の偏りや選択バイアスの問題は、当時から存在していたのである。

平成の政治改革が変えたもの

 平成に入ると、日本の国政選挙では大きな制度変更が起きた。1994年の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年10月の総選挙から新しい制度による選挙が始まった。小選挙区では一つの選挙区から一人しか当選しないため、同じ政党の候補者が一つの選挙区で議席を争う旧来の構図は大きく後退し、政党間の競争が選挙の中心的な要素になった。

 ただし、この改革によって地方選挙の制度が一斉に変わったわけではない。知事や市町村長を選ぶ選挙と、都道府県議会や市町村議会の議員を選ぶ選挙では、それぞれ制度の仕組みが異なる。地方議会には複数の候補者が同じ選挙区で競う仕組みが現在も広く残っており、衆議院の制度改革をそのまま地方選挙全体に当てはめることはできない。

 それでも、国政における政党間競争の構造が変化し、テレビ報道や世論調査、政治家の知名度や印象が選挙で注目されるようになることは、地方政治にも影響を及ぼしたと考えられる。ただし、こうした変化が1994年を境に突然始まったわけではなく、テレビを活用した選挙や世論調査、候補者のイメージ形成は昭和の時代から存在していた。平成の特徴は、それまでの政治的な情報伝達の手法が、選挙制度の改革やメディア環境の変化と結びつき、新たな重要性を持つようになったことにある。

 従来型の選挙では、後援会や組織の支持を固め、長期的に維持することが大きな武器だった。しかし、政党間の競争が前面に出る選挙では、候補者本人を強く支持する人だけでなく、支持政党を決めていない人、選挙ごとに投票先を変える人、政策や候補者の印象によって判断する人にも、情報を届ける必要がある。この変化によって選挙参謀の仕事には、「どこを回ればよいか」という問いに加えて、「何を伝えれば候補者を理解してもらえるか」という問いが重みを増していったのである。

平成の当確師は、候補者を「編集」するようになった

 平成の選挙で重要性を増したと考えられるのは、候補者が自分自身をどのように評価しているかではなく、有権者からどのように見えているかという視点だった。本人は自分を慎重で誠実な政治家だと思っていても、有権者からは決断力が弱いと受け取られるかもしれない。改革派を自称していても、長年議員を続けていれば既存政治の一部と見られることがあり、本人の意図と有権者の評価が一致するとは限らない。

 そこで、選挙参謀や選挙コンサルタントには、候補者の経歴、専門性、政策、実績、人柄、話し方、写真、服装、キャッチフレーズなどを組み合わせ、有権者に伝わりやすい人物像を整理する仕事が加わった。候補者の人格を別のものに作り変えるというより、もともと持っている複数の特徴の中から、どの部分を中心に伝えれば候補者の考えや能力を理解してもらえるかを考える。いわば、候補者を一人の人物として「編集」する役割である。

 しかし、候補者のイメージ形成は、商品の広告と完全に同じではない。政治家は選挙が終われば消える商品ではなく、当選すれば議会や行政の中で実際の判断を求められるため、選挙期間中に示した人物像と本人の実像が大きく離れていれば、やがて矛盾が表面化する。選挙で成功した印象づくりが、政治家としての長期的な信頼につながるとは限らず、場合によっては当選後の評価を損なう原因にもなる。

 この意味で、平成型の当確師は「候補者を商品化する人」というより、「候補者を翻訳する人」と考える方が適切かもしれない。候補者が持つ専門的な政策や政治的理念を、有権者が日常生活の問題として理解できる言葉へ置き換え、複雑な人物像を伝わりやすい形に整理するのである。ただし、このような編集が平成になって初めて現れたわけではなく、昭和から続く選挙技術が新しいメディア環境の中で発展したものと考える必要がある。

インターネット選挙は平成に始まり、令和に広がった

 選挙の情報環境に新たな変化をもたらしたのが、インターネットの普及である。2013年、平成25年の公職選挙法改正によって、ウェブサイトやブログ、SNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流し、情報を発信するサービス)などを利用した選挙運動が解禁された。つまり、ネット選挙は令和になって突然始まったものではなく、平成の後半に制度上の転換点を迎え、令和に入って情報流通の規模と影響がさらに注目されるようになったのである。

 それまで街頭演説は、基本的にその場に集まった人々へ候補者の考えを伝える活動だった。しかし、演説の動画がインターネットで配信されれば、その場にいなかった人も後から内容を確認でき、演説の一部分だけが切り取られて広まることもある。一度の街頭演説が、現実の会場とインターネット上という二つの空間で評価されるようになり、候補者の発言や振る舞いには従来とは異なる広がり方が生まれた。

 もっとも、インターネット選挙運動が解禁されたからといって、すべての電子的な選挙活動が自由になったわけではない。選挙運動用の電子メールを送信できる主体には制限があり、有権者による電子メールでの選挙運動は認められていない。また、18歳未満の者による選挙運動は禁止されており、インターネット上であっても公職選挙法の規制から自由になるわけではない。

 ネット選挙の効果についても、慎重に考える必要がある。日本の選挙研究では、2013年の解禁によって有権者の情報接触が一挙に大きく変化したとは確認できないとする分析がある一方、政治的な交流を目的としたソーシャルメディアの利用が、政治への関心や参加に影響する可能性を示した研究も存在する。両者は必ずしも矛盾しておらず、制度の解禁そのものの効果と、個々の有権者が実際にインターネットを利用することの効果は区別しなければならない。

 さらに、2013年当時と現在ではスマートフォンの利用状況、動画配信の仕組み、情報の推薦方法なども変化している。ある時期の研究結果を、そのまま別の時期の選挙へ当てはめることはできないため、令和の当確師に必要なのは、「ネット選挙は効果がある」「ネット選挙は効果がない」という二者択一ではなく、どのような情報接触が、どのような有権者の認識や行動に関係しているのかを見極める姿勢なのである。

令和には、画面の中にも選挙区ができた

 令和の選挙では、道路や住宅地によって区切られた現実の選挙区とは別に、スマートフォンの画面の中にも、候補者が知られ、評価され、議論される空間が広がっている。かつては候補者の名前を地域で何度も聞くことによって知名度が高まる場合が多かったが、現在では一本の動画や一つの投稿が、短期間で多くの人に届く可能性がある。そのため、現実の地域では無名だった候補者が、インターネット上では広く知られるという状況も考えられる。

 ただし、ここで重要なのは、画面の中に広がる情報空間と、法律上の選挙区が一致していないことである。町議会議員選挙の候補者が全国的に注目されたとしても、その候補者に投票できるのは当該選挙の有権者に限られる。全国から集まった投稿への反応には、選挙区外の住民、選挙権を持たない人、批判的な立場の人も含まれるため、インターネット上で有名になることと、実際の得票が増えることは同じではない。

 また、インターネット上の情報は、利用者全員に均等に表示されるわけではない。閲覧履歴や利用者の関心、投稿への反応などに応じて、表示される情報が異なる仕組みもあり、特定の候補者に関心を持つ人の画面には、その候補者に関係する情報が繰り返し表示される場合がある。その結果、候補者や支持者は、自分たちの周囲では大きな支持が広がっているように感じても、実際には情報を見ている人々が偏っている可能性がある。

 これは従来の後援会にも存在していた問題と、構造的には似ている。昭和の後援会幹部が周囲の支持者の熱意から選挙区全体の支持を過大評価したように、令和の選挙関係者も、画面上に集まった好意的な反応から有権者全体の支持を過大評価する危険がある。情報を集める技術が変わっても、観測できる人々が必ずしも全体を代表しないという問題は残り続けているのである。

一万の「いいね」が、一万票にならない理由

 令和の選挙では、昭和とは比較にならないほど多くの数字を集めることができる。投稿への反応数、動画の再生回数、検索回数、フォロワー数、世論調査、年代別人口、地区別投票率など、多様な情報が選挙情勢の判断材料になる。しかし、数字が増えれば現実を正確に理解できるとは限らず、何を測定している数字なのかを取り違えれば、情報量の増加がかえって判断を誤らせることになる。

 例えば、ある候補者の投稿に一万件の「いいね」が付いたとしても、それは一万人の有権者が支持していることを意味しない。反応した人の中には選挙区外の住民もいれば、投票資格のない人もおり、複数のアカウントを利用している人が含まれている可能性もある。さらに、好意的な反応をした人であっても、投票日まで同じ候補者を支持し続けるとは限らず、実際に投票へ行くとも限らない。

 数字の単位が異なることにも注意が必要である。動画の再生回数は再生という出来事の数であり、閲覧した人数そのものではない。フォロワー数はアカウントの数であって、選挙区内の有権者数ではない。投稿への反応件数と、候補者を支持する人数、実際に投票された票数は、それぞれ異なるものを測定しているのである。

 仮に、反応が一万件あり、そのうち選挙区内の投票資格者による重複のない反応が二割、候補者を実際に支持している割合が七割、支持者の投票参加率が六割だったとすれば、単純計算では一万に0.2、0.7、0.6を順に掛けた840人という数字になる。しかし、これは現実の得票予測ではない。割合は仮定にすぎず、さらに、支持を表明した人が実際に同じ候補者へ投票するかどうかも分からないためである。

 結局、インターネット上の反応を得票数に換算するための普遍的な係数は存在しない。選挙の種類、候補者の知名度、地域の人口構成、情報の拡散経路などが異なれば、同じ一万件の反応でも意味は変わってくる。令和の当確師が数字を読むときには、その大きさより先に、誰のどのような行動を測定した数字なのかを確認する必要がある。

人気が票を生むのか、支持が人気を生むのか

 さらに難しいのは、インターネット上の人気と選挙での支持との因果関係である。ある候補者の動画が多く再生され、その後の選挙で得票が増えたとしても、動画の再生によって支持が増えたとは直ちに結論できない。もともと支持の強い候補者だったから動画が多く見られたのかもしれず、新聞やテレビでの報道が知名度と再生回数の両方を増やした可能性もある。

 統計学では、このように複数の現象の間に関係が見られても、一方が他方の原因とは限らないことを重視する。候補者の知名度、政党、地域での活動歴、報道量などが、インターネット上の人気と実際の得票の両方に影響しているなら、それらは因果関係を推定する際の交絡要因になり得る。単純な相関だけで政策や広報活動の効果を判断すれば、もともとの支持の強さを、インターネット上での活動の成果だと誤認する危険がある。

 さらに、政治的関心が強い人ほど候補者の投稿を閲覧しやすく、投票にも参加しやすいとすれば、インターネットをよく利用する人と、利用しない人を比較しただけでは、情報接触の効果を正確に測定できない。このような選択バイアスを減らすには、年齢、政治関心、過去の投票行動など、観測可能な条件の違いを考慮する必要があるが、条件を調整しても観測されていない要因の影響が残る可能性はある。

 昭和の当確師は、限られた人間関係から選挙区全体を推測することに苦労した。令和の当確師は、膨大な情報を手にしても、その中のどの数字が実際の投票行動と関係し、何が単なる見かけ上の関係なのかを見極めなければならない。情報が不足していた時代と、情報が過剰になった時代では問題の形は異なるが、不完全な観測から現実を推定するという課題は共通している。

支持率だけでは選挙は読めない

 選挙を数理的に考えると、支持者の人数を数えるだけでは十分ではない。重要なのは、その人が現在どの候補者を支持しているかだけでなく、実際に投票へ行く可能性と、投票した場合に最終的に誰を選ぶ可能性があるかという点である。選挙戦の途中で支持を表明した人が、投票日まで考えを変えないとは限らず、投票へ行くつもりだった人が何らかの事情で棄権することもある。

 仮に候補者Aを支持する人が一万人いて、その六割が投票するとすれば、六千人が投票に参加する計算になる。一方、候補者Bの支持者が八千人で、その九割が投票するとすれば、投票に参加する支持者は七千二百人になる。この例では、支持者の総数は候補者Aの方が多いにもかかわらず、支持者の投票参加人数は候補者Bの方が多くなる。

 ただし、この計算で得られる六千人や七千二百人は、そのまま候補者の確定得票数になるわけではない。実際に投票した人が支持していた候補者を最後まで選ぶという仮定が必要であり、支持者以外から新たに得る票も含まれていない。例えば、候補者Aの支持者一万人の投票参加率が六割で、投票した人の九割が最終的に候補者Aを選ぶと仮定すれば、この支持者集団から期待される得票は五千四百票になる。

 より一般的には、有権者ごとに投票参加の確率と、投票した場合に特定の候補者を選ぶ確率を考え、それらを掛け合わせた値を全有権者について合計することで、期待得票数を表現できる。ただし、個々の有権者の確率を正確に知ることは現実には難しく、候補者間の競争や選挙戦中の出来事によっても変化するため、計算結果は条件付きの推定値であって、確実に得られる票数ではない。

 ここで大切なのは、支持していることと、実際に投票すること、そして最後にその候補者を選ぶことを、別々の現象として考える姿勢である。昭和の選挙参謀が「固い票」と呼んでいた支持であっても、数学的に見れば投票が保証された票ではなく、実際には一定の不確実性を伴っていたのである。

世論調査にも、見えない誤差がある

 現代の選挙では、世論調査が重要な判断材料になっている。しかし、世論調査の支持率は、有権者全員に質問して得られた数字ではなく、通常は一部の人々の回答から全体の傾向を推定したものである。したがって、得られた数値には標本抽出による誤差があり、たとえ調査方法が適切でも、調査対象者を変えれば結果は一定の範囲で変動する。

 例えば、千人を単純無作為抽出して、ある候補者の支持率が五割だったとする。回答が独立しているなどの標準的な仮定のもとでは、支持率の95%信頼区間の誤差幅は、おおよそプラスマイナス3.1ポイントとなる。したがって、調査結果が50%と47%だったというだけで、必ずしも両者に明確な支持率の差があるとは判断できない。ただし、実際の誤差は調査設計によって異なるため、この数値をすべての世論調査に当てはめることもできない。

 さらに注意が必要なのは、標本誤差だけでなく、回答拒否や調査方法による偏りなどの非標本誤差が存在することである。政治に強い関心を持つ人ほど回答しやすい場合や、特定の属性の人が調査に参加しにくい場合には、回答者の割合と有権者全体の割合が一致しない可能性がある。また、調査時点で候補者を支持すると答えた人が、実際に投票するとは限らない。

 世論調査の数値が小数点以下まで細かく表示されていても、その結果を同じ精度で予測できるという意味ではない。調査対象者の人数、抽出方法、回答率、調査時期、質問文、補正方法などを確認しなければ、数字の信頼性は評価できない。令和の当確師に求められるのは、数字を速く読む能力だけではなく、その数字がどの程度不確かであるかを理解する能力でもある。

投票率は、天候だけでは決まらない

 投票参加には、候補者への支持や政治的関心だけでなく、投票制度や生活上の条件も関係している。仕事や家庭の事情、投票所までの距離、交通手段、健康状態などによって、投票のしやすさは異なる。とりわけ高齢化が進む地域では、投票所までの移動が負担となる場合もあるが、その影響を考えるには、年齢だけでなく、交通環境や期日前投票の利用状況なども併せて確認する必要がある。

 天候についても、単純に「雨が降れば投票率が下がる」と決めつけることはできない。日本の衆議院議員選挙を対象に、1963年以降の気象条件と投票率の関係を調べた研究では、風速には投票率を低下させる関係が認められた一方、降雨量については安定した効果が確認されなかった。この結果は、悪天候の影響が雨だけで決まるものではなく、風やその他の条件も考慮する必要があることを示している。

 ただし、こうした研究結果を、すべての地方選挙にそのまま当てはめることはできない。投票所までの交通事情や地域の人口構成、選挙の規模によって、同じ気象条件でも影響が異なる可能性がある。また、期日前投票を利用する人が増えれば、投票日当日の天候だけで投票参加を説明することはいっそう難しくなる。

 選挙の投票率を予測する際には、個人の政治的関心、社会的な条件、制度上の仕組み、投票日までに起きた出来事を総合的に考える必要がある。一つの要因を取り出して投票率の変化を説明しようとすると、見かけ上の関係を本当の原因だと取り違える可能性があるのである。

地区別の票読みが抱える統計上の落とし穴

 選挙参謀にとって、地域ごとの人口構成や過去の選挙結果は重要な情報である。地区別の有権者数、年齢構成、投票率などを整理すれば、地域によって選挙への参加状況が異なることは分かる。しかし、地区全体の数字から、その地区に住む一人ひとりの投票行動を直接推定することには限界がある。

 例えば、高齢者の割合が高い地区で候補者Aの得票率も高かったとしても、それだけで高齢者の多くが候補者Aに投票したとは結論できない。実際には、その地区の比較的若い人々が候補者Aを支持していた可能性もある。このように、集団全体で観測された傾向を、その集団に属する個人にも当てはめてしまう誤りを、統計学では生態学的誤謬と呼ぶ。

 さらに、一般に公表される選挙結果は、投票区や自治体など一定の単位で集計されたものであり、個々の有権者の投票先を示しているわけではない。候補者側が地域の支持を推測する際には、どの範囲の集計結果が利用できるのか、人口統計と選挙結果の地域区分が一致しているのかについても確認しなければならない。

 また、支持が弱い地区だからといって、そこに活動を集中させることが必ず合理的とは限らない。もともとの支持が低くても、住民の意見が変わりやすい地区もあれば、支持が安定していて大きな変化を期待しにくい地区もある。逆に、現在の支持率が高い地区であっても、投票参加の変動によって結果が変わる可能性があるため、支持の高低と、追加的な活動によってどれほど変化するかという問題は分けて考える必要がある。

 選挙区全体を理解するために地区別の数字を利用することには意味があるが、地域を細かく分ければ自動的に正確な判断ができるわけではない。むしろ、観測できる人数が少なくなるほど割合が大きく変動する場合もあるため、集計単位、標本の大きさ、過去の傾向、地域の事情を慎重に見なければならないのである。

選挙参謀にも、法律の境界線がある

 ここまで選挙参謀の技術について見てきたが、現代の当確師を考えるうえでは、もう一つ重要な問題がある。それは、選挙を支援する活動のすべてが、自由に行えるわけではないということである。日本では、公職選挙法が選挙運動の期間や方法を規制しており、選挙の公平性を守るため、買収や戸別訪問などの行為が禁止されている。

 一般に、政治上の主義や政策を訴える日常的な政治活動と、特定の選挙で特定の候補者への投票を勧める選挙運動は、法律上区別される。選挙運動が認められるのは原則として立候補の届出後から投票日前日までであり、それ以前に特定の選挙での当選を目的として投票を働きかければ、禁止されている事前運動に該当する可能性がある。したがって、後援会活動や地域での交流が認められることと、いつでも選挙運動を行えることは同じではない。

 さらに、選挙コンサルタントが報酬を受け取る場合にも注意が必要である。2025年4月の国会審議では、業者が主体的、裁量的に選挙運動の企画立案を行い、選挙運動の主体と認められる場合、その対価として報酬を支払うことは公職選挙法上の買収罪に該当するおそれがあるとの政府答弁が示されている。実際に違法となるかどうかは個別の事実関係によって判断されるが、専門業者であれば選挙戦略の立案から実行まで、どのような業務でも自由に請け負えるというわけではない。

 これは、候補者の広報活動を支援すること自体が違法だという意味ではない。問題となるのは、具体的にどのような仕事を行い、誰が選挙運動を主体的に企画・実行し、何に対する報酬が支払われたのかという点である。令和の選挙では動画制作やインターネット上の広報を専門業者へ依頼する場面もあるが、その場合にも、通常の制作業務と選挙運動そのものへの対価を区別する必要がある。

 同時に、データ分析にも個人情報の問題がある。人口統計や地区別投票率のような集計情報を利用することと、個人を識別できる政治的支持情報を収集し、他の情報と結びつけて分析することは同じではない。政治団体の政治活動については個人情報保護法の一部規定に適用除外が設けられているものの、個人情報を無制限に利用してよいという意味ではなく、適正な取扱いや安全管理、プライバシーへの配慮が重要となる。

 昭和の当確師が地域社会の慣習や人間関係を理解する必要があったように、令和の当確師には、公職選挙法や個人情報の取扱い、インターネット上の情報発信に関する制度を理解する能力も求められる。分析技術に優れていても、その使い方が法律に反していれば、候補者を支えるどころか、選挙そのものの信頼を損なうことになるのである。

令和の当確師は、何を見なければならないのか

 現代の選挙参謀が見なければならないものは、候補者の人気だけではない。有権者がどのような情報に接しているか、何を評価し、何に不満を持っているか、投票へ参加するうえでどのような条件があるか、そして現在得られている数字にどの程度の不確実性があるかといった複数の問題を、同時に考える必要がある。

 選挙活動に使える時間、人員、資金には限界があるため、すべての地区ですべての活動を同じ規模で行うことは難しい。しかし、どこに活動を集中させればよいかという問題にも、単純な正解は存在しない。支持率が低い地区、人口の多い地区、投票率の高い地区のどこを重視するかは、それぞれの地域事情や選挙の構造によって意味が異なり、過去の数値だけから最適な判断が導かれるわけではない。

 また、候補者の認知度が上がったことと、政策が理解されたことも区別しなければならない。名前を知っている人が増えても、政策に共感しているとは限らず、逆にインターネット上では目立たなくても、長年の活動を通じて地域社会から信頼されている候補者もいる。候補者の評価には、知名度、政策への共感、人物への信頼、政党への支持、現職に対する評価など、複数の要素が重なっているのである。

 この意味で、令和の当確師は、世論を自在に操る魔術師ではなく、不完全な情報から複雑な人間の行動を推定する戦略家に近い。統計やデータ分析は、思い込みや経験則を検証し、判断の根拠を整理するために役立つが、分析結果だけで候補者の信頼や政策の価値まで決められるわけではない。選挙は数字だけの競争ではなく、公共の課題について誰に判断を委ねるかを有権者が選ぶ政治的な過程だからである。

それでも、昭和の選挙は消えていない

 令和の地方選挙でも、地域での活動歴、後援会、業界団体、日常的な人間関係は依然として意味を持っている。候補者が地域でどれほど知られているか、住民の話を聞いてきたか、地域の問題に継続して取り組んできたかといった評価は、スマートフォンが普及しても簡単には消えない。むしろ、インターネット上の情報が増えたことで、実際に接したことのある人物への信頼が、別の意味を持つ場合も考えられる。

 ただし、自治会や町内会のような地域組織を、当然に特定候補者の支援組織と考えることは適切ではない。地域の共同活動を目的とする組織と、特定の政治家を支援する後援会は、その目的や立場が異なる。地域の人間関係が政治に影響することと、地域組織が一体となって特定候補者を支持することは、区別しなければならない。

 一方で、昭和型の地縁や組織だけでは、有権者全体の行動を把握できないことも確かである。地域の集まりには参加しない人、後援会に所属していない人、職場や団体との関係から投票先を決めない人、インターネットで情報を集める人など、有権者が候補者を評価する経路は多様である。従来の組織を通じて得られる情報は、選挙区の一部分を理解するうえで有用であっても、それだけで全体を代表するものではない。

 現代の当確師は、昭和の地域社会を読む技術を捨てた人ではなく、地域の人間関係を理解しながら、平成に発展した世論調査や候補者イメージの形成、令和に存在感を増したデジタル情報の分析まで扱うようになった人と考えられる。道具の増加によって選挙が単純になったのではなく、異なる性質の情報を照合し、その矛盾を判断しなければならなくなったのである。

「見える票」から「見えにくい票」へ

 昭和の選挙では、現在と比べて地域組織や職場、業界団体、後援会などとの結びつきが強く、候補者側が支持の所在を推測する手掛かりを得やすい部分があったと考えられる。ところが、現在では後援会に入らず、政治集会にも参加せず、インターネット上でも政治的な意見を表明しないまま、投票日だけ静かに投票所へ向かう有権者もいる。そのような人々の政治的な判断は、候補者側から観測しにくい。

 もっとも、「昭和は票が見え、令和になって見えなくなった」という単純な理解は正確ではない。昭和にも組織に所属しない有権者は存在しており、平成には無党派層がすでに重要な政治学上の研究対象となっていた。また、組織との関係があっても、実際に誰へ投票したかは秘密投票によって守られているため、過去の選挙で候補者側が個々の票を確実に把握できたわけでもない。

 重要なのは、従来の組織的な結びつきだけでは説明できない投票行動が、選挙を理解するうえで無視できないということである。有権者は新聞、テレビ、インターネット、家族や知人との会話、候補者との直接の接触など、さまざまな情報を通じて判断する。しかも、同じ情報に接した人々が同じ結論に達するとは限らず、政策を評価する人もいれば、人物の印象を重視する人もいる。

 この複雑さを考えると、当確師が求めるべきものは、すべての有権者の行動を見通すことではなく、観測できる情報と観測できない情報を区別し、推定の限界を理解することだろう。数字が示している範囲を超えて断定しないこと、地域の有力者の発言を住民全体の意見と取り違えないこと、インターネット上の盛り上がりをそのまま得票に換算しないことが、時代を超えて重要なのである。

当確師が進化したのではなく、見るべき世界が増えた

 昭和の当確師は地域の人間関係を読み、平成の当確師はそれに世論調査や候補者イメージの形成を重ね、令和の当確師はさらにインターネット上の情報や多様な統計データを扱うようになった。しかし、この三つは互いに排他的な技術ではなく、現在の選挙では同時に存在している。昭和にも数量的な票読みやメディアの活用があり、平成にも地域組織の重要性が残り、令和になっても候補者と住民の直接的な関係は選挙の一部であり続けている。

 ただし、このような変遷を、そのまま歴史的に証明された発展段階と考えるべきではない。選挙参謀の業務が各時代にどのような割合で変化したのか、地域との関係構築、世論調査、デジタル情報の分析がそれぞれどの程度選挙結果に影響したのかについては、選挙の種類や時期をそろえた実証的な検証が必要である。本稿の時代区分は、選挙を取り巻く情報環境の変化を理解するための整理であり、すべての候補者や地域に同じ変化が起きたと主張するものではない。

 それでも、情報源が増え、異なる技術を組み合わせて判断する必要が高まったという見方には、十分な合理性がある。地域の声を聞くときには、その声がどの範囲の住民を代表しているのかを考え、世論調査を見るときには誤差や回答者の偏りを確認し、インターネット上の数字を見るときには、それが何を測定したものなのかを理解しなければならない。

 選挙参謀の優劣を、最新の分析技術を使えるかどうかだけで判断することはできない。地域の人間関係に詳しいことも、データの分析に優れていることも、それぞれ重要な能力ではあるが、どちらか一方だけで複雑な選挙を完全に説明することはできない。異なる情報の性質を理解し、自分の予測が外れる可能性まで考慮できることが、現代の選挙参謀に求められる能力だろう。

最後に残るのは、やはり人間である

 昭和の当確師は手帳を開き、平成の当確師は世論調査を読み、令和の当確師は画面いっぱいに並んだ数字を見る。しかし、どの時代の選挙参謀も、最後には同じ問いに向き合っている。それは、有権者がなぜ特定の候補者に一票を投じるのか、あるいは、なぜ投票しないのかという問いである。

 その理由は、政策への共感かもしれないし、候補者の人柄への信頼かもしれない。政党への支持によって選ぶ人もいれば、現職への不満から別の候補者を選ぶ人もいる。地域で長く活動してきた姿を評価する人もいれば、選挙期間中に初めて接した情報によって考えを変える人もいる。投票用紙に書かれる候補者の名前は一つでも、そこへ至る理由は一つではなく、同じ候補者に投票した有権者同士でも、判断の過程が大きく異なることがある。

 選挙という現象は、政治学だけでなく、社会学、心理学、統計学、制度研究など、複数の学問領域から説明することができる。しかし、どの学問も単独では有権者の行動を完全に予測することはできない。人間の判断には観測できない要因があり、同じ人でも時間の経過や新しい情報によって考えを変えることがあるため、過去のデータから将来の行動を確実に言い当てることには原理的な限界がある。

 仮に、すべての有権者の投票行動を正確に予測できる仕組みが存在すれば、選挙の不確実性は大きく減るだろう。しかし、現実には有権者の判断も候補者の行動も固定されたものではなく、選挙戦の途中で新しい出来事が起こり、その情報に対する受け止め方も人によって異なる。統計モデルによって予測の精度を高めることはできても、選挙を完全に決定された計算問題に変えることはできないのである。

 だからこそ当確師には、いつの時代にも経験と判断が求められる。ただし、その経験は検証されなければならず、直感は事実と区別されなければならない。数字を読むことと、その数字から何を言えるのかを理解することは同じではなく、地域の人々をよく知っていることと、有権者全体の意思を把握していることも同じではない。

 昭和から平成、そして令和へと変わったのは、候補者を必ず当選させるための魔法ではない。人間の行動を理解するために利用できる情報が増え、情報の種類が多様になり、それらを判断するために必要な知識も広がったのである。選挙参謀の仕事が複雑になったのは、道具が不足しているからだけでも、情報が多すぎるからだけでもなく、もともと人間の政治的な判断が、単純な数字では表現しきれない性質を持っているからなのだろう。

 そして、その複雑な世界の中心には、今も変わらず一人の有権者がいる。政党を支持する人も、候補者の人格を評価する人も、政策を比較する人も、最後には自分自身の判断によって一票を投じる。候補者を勝たせようとする人々が昭和から令和まで見つめ続けてきたのは、結局のところ、数字の向こう側にいる、その一人ひとりの人間なのである。

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