地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 選挙が近づくと、政治家は急に私たちの日常の風景へ近づいてくる。商店街を歩き、地元の食堂で丼を食べ、祭りでは法被を着て、スーパーでは野菜や米の値段を眺め、ときには腕まくりをして住民と握手する。それだけを見れば、どれも特別な行動ではないのだが、同じ光景を見ても「親しみやすい人だ」と感じる人がいる一方、「選挙のときだけでしょう」と冷めた目を向ける人もいる。政治家が食べているものも、歩いている商店街も同じなのに、その光景はある人には自然体に、別の人には舞台装置のように映る。

 この違いを、「本当に庶民なのか、それとも庶民を演じているのか」という二択だけで説明するのは難しい。そもそも国会議員や自治体の首長は、一般の生活者とはかなり異なる仕事をしている。国家予算や条例を扱い、多くの職員や支援者と仕事をし、政治的な交渉や政策決定に参加する以上、生活のすべてが一般の有権者と同じであるはずはない。それにもかかわらず政治家は繰り返し「普通の人」であることを見せようとし、有権者の側もまた、政治家に普通の生活感覚を失わないでほしいと願っている。

 ここには、民主政治につきまとう少し奇妙な矛盾がある。私たちは政治家に、自分たちとは違うほど高い能力を求めながら、自分たちと同じ感覚も求めているのである。

「特別な能力」と「普通の感覚」を同時に求める

 外交、安全保障、財政、社会保障、医療、産業政策のような複雑な問題を扱う以上、政治家には専門知識だけでなく、交渉力や判断力、長期的な見通しが必要になる。その意味では、有権者より政治に詳しく、政治を職業として扱える人物でなければ困る。しかし一方で、食料品が値上がりしたときの負担や、子育てにかかる費用、地方で病院へ通う不便さ、年金で暮らすことへの不安まで理解していてほしいとも思う。

 政治家はそこで、「私は政治を任せられる特別な能力を持っている」と示しながら、同時に「私はあなた方と遠い世界にいる人間ではない」と伝えなければならなくなる。この二つを両立させるために、政治家は政策だけでなく、自分がどのような人間なのかを絶えず見せる。

 政治コミュニケーションの研究では、このような政治家の「本物らしさ」を考える際、Ordinariness(普通らしさ)、Consistency(一貫性)、Immediacy(即時性・自然に内面が表れているように感じられること)といった要素が重要だと考えられている。興味深いのは、本物らしさが政治家本人に備わった客観的な性質というより、政治家の行動、発言、それを伝えるメディア、そして受け手である有権者との間で作られる評価だという点である。

 だから、政治家が地元のラーメン店へ行ったから庶民派になるわけでもなければ、高級店を利用したから庶民感覚がないと直ちに判断できるわけでもない。私たちが見ているのは、行動そのものだけではなく、その行動がその人物にどれほど自然につながって見えるかなのである。

牛丼一杯が「小道具」に変わる瞬間

 たとえば、ある政治家が駅前の立ち食いそば店へ入り、一般客に交じって昼食を取ったとする。その政治家が以前からその店を利用していたと知っていれば、多くの人は特に奇妙には感じないだろう。しかし選挙運動の最中だけ突然そこへ現れ、入店から注文、食事、店主との会話までが丁寧に撮影され、その映像が「庶民の暮らしを知る政治家」といった物語とともに繰り返し発信されれば、見る側が別の意味を読み取り始める可能性がある。

 そばの値段も味も変わっていない。変わったのは、その行動を「食事」と見るか、「食事をしている自分を見せる行為」と見るかという受け手の解釈である。

 人は他人の行動を見るとき、行動だけでなく、その背後にある意図まで推測する。「この人は本当にここへ来たかったのだろうか。それとも、ここへ来ている自分を見せたかったのだろうか」という疑問が生じれば、庶民的な行動そのものが演出の証拠になるわけではなくても、その行動を見る視線は変わってくる。

 だから庶民派アピールの成否は、食事の価格では決まらない。むしろ、高級店を利用することを隠さず、自分の生活を必要以上に庶民的に見せようとしない政治家の方が、場合によっては一貫した人物として受け取られることさえある。一方で、普段の人物像と明らかに離れた行動を突然始め、その行動に「庶民派」という意味を強く持たせようとすると、安い食事をしているにもかかわらず、かえって生活者との距離を感じさせることがある。

 庶民性は、何円の食事をしたかではなく、その行動が人物のこれまでとどのようにつながっているかによっても判断されるのである。

SNS時代には「自然体」まで設計できる

 この問題をさらに複雑にしたのが、SNS(交流型ソーシャルメディア)の普及である。かつて、有権者が政治家の日常を見る機会は新聞やテレビにほぼ限られていたが、現在では政治家本人が、移動中の車内、控室、食事、趣味、家族との時間、スタッフとの会話まで発信できるようになった。

 正式な記者会見よりも、スマートフォンで撮影された短い動画の方が「本人の素顔を見ている」と感じることもある。画面が少し揺れ、完全には整えられていない場所で話し、言葉につかえる場面まで残されていれば、従来型の政治広告より自然に見えるかもしれない。しかし研究上は、こうした映像形式そのものが必ず本物らしさを高めるとまでは確認されていない。むしろ重要なのは、その形式が「作り込まれていない」「その場で話している」という印象を与える技法として利用できることである。

 つまり、自然体に見えることと、本当に自然であることは同じではない。

 政治家が「飾らない姿には価値がある」と理解すれば、飾らない姿そのものを広報戦略へ取り込むこともできる。服装を少し崩し、執務室ではなく廊下で撮影し、整った原稿ではなく話し言葉で語ることによって、従来型の政治広告とは異なる親近感を作ることは可能である。しかし、その手法が広く知られるほど、有権者の側も「これは本当に舞台裏なのか、それとも舞台裏という舞台なのか」と考えるようになる。

 ここに現代政治の少し滑稽なところがある。本物らしさを示そうとすればするほど、「本物らしく見せる技術」が発達し、その技術が発達すればするほど、本物らしさそのものが疑われるようになるのである。

不器用なら本物、というほど単純でもない

 政治家が言葉につまったり、料理を失敗したり、予想外の出来事に戸惑ったりする姿に親近感を覚えることもある。実験研究の中には、政治家の失敗や不完全さが、状況によってはコミュニケーションを本物らしく感じさせる可能性を示したものもある。

 しかし、ここにも単純な公式は存在しない。不器用であればあるほど本物らしくなるわけではなく、政治的オーセンティシティを測る研究では、「欠点があること」そのものが普通らしさと必ず強く結び付くわけではないことも示されている。

 考えてみれば当然かもしれない。経済政策を任せる人物が数字を理解できない姿を見せれば、それは親しみやすさより能力への不安につながるだろうし、祭りで餅をうまく丸められない程度なら、かえって人間らしく感じる人もいるだろう。失敗が好感へ変わるか、不安へ変わるかは、その人物に求められている能力と、失敗の種類によって異なる。

 有権者は、完全無欠の機械のような政治家を必ずしも望んでいないが、だからといって能力不足まで「人間味」として歓迎するわけではないのである。

一枚の写真より「時間のつながり」がものを言う

 庶民派アピールが演出に見え始める重要な境界の一つが、過去との一貫性である。

 近年の政治心理学の実験研究では、政治家が政治的な圧力を受けた場面で、それまで表明してきた立場と一致した行動を取ると、その政策について回答者自身が賛成しているかどうかとは別に、その政治家がより本物らしく評価されやすいことが示されている。ここで重要なのは、「自分と同じ意見だから本物らしい」というだけではなく、「この人物は自分の言ってきたことに沿って行動している」という認識そのものが評価に関係している点である。

 もっとも、本物らしさを決める要因が一貫性だけだと考えるのも正確ではない。政治的オーセンティシティの尺度研究では、普通らしさと一貫性の双方が本物らしさと強く関係しており、さらに両者そのものも強く結び付いている。つまり有権者の中では、「以前からこういう人だった」という感覚と、「自分たちから遠すぎない人だ」という感覚が、完全に別々に存在しているわけではない可能性がある。

 これは庶民派アピールを考えるうえで非常に興味深い。政治家が庶民的な行動を一度見せるだけではなく、「この人は以前からこうだった」と感じられることによって、その行動が自然なものとして受け入れられやすくなるからである。

 たとえば長年同じ商店街へ通い、当選後も選挙前と同じようにその地域へ顔を出している政治家なら、選挙期間中にそこを歩いていても特別な違和感は生じにくい。反対に、選挙が始まった途端、それまでほとんど関係のなかった市場、大衆食堂、農作業の現場などへ集中的に姿を現し、選挙が終わるとその光景がほとんど消えてしまえば、一つ一つの行動が事実であったとしても、全体として「選挙用だったのではないか」という解釈が生まれやすくなる。

 このとき有権者が見ているのは、「今日、この人がそばを食べたか」という一点ではない。「この人は以前からこういう人だったのか」という長い時間のつながりなのである。

検索できる時代には、過去が現在についてくる

 かつて政治家は、現在の演説や新聞記事によって人物像を作り直す余地が今より大きかった。しかし現在は、昔の発言、過去の映像、SNSへの投稿、議会での発言、政策判断などが長く残り、簡単に検索される。

 そのため、選挙期間中に「生活者の痛みが分かる」と語る政治家は、その言葉だけで評価されるとは限らない。過去に物価について何を語ったのか、社会保障をどう考えてきたのか、地方交通や子育てについてどのような政策判断をしてきたのかという履歴と並べて見られる可能性がある。

 そこで現在の姿と過去の姿が自然につながれば、一杯のラーメンもその人の日常に見える。しかし二つの姿が大きく食い違えば、同じラーメンが急に小道具のように見え始める。

 もちろん、有権者全員が政治家の過去を詳細に調べるわけではないし、誰もが同じ矛盾を同じように評価するわけでもない。支持政党、政治的関心、人物への好悪、メディア環境などによって受け止め方は変わる。それでも、過去の記録を参照しやすくなったことで、「今日一日だけ普通の人に見せればよい」という政治コミュニケーションは以前より難しくなったと考えることはできる。

「庶民であること」と「庶民を理解すること」は違う

 ここまで考えると、そもそも政治家に求めるべきなのは、「庶民そのもの」であることなのかという疑問が出てくる。

 政治家がスーパーで自分で買い物をしていることと、物価高によって低所得世帯の可処分所得がどれほど圧迫されているかを理解していることは別の問題である。政治家が電車へ乗っていることと、地方で鉄道路線やバス路線が縮小したとき、高齢者の通院がどれほど難しくなるかを理解していることも同じではない。

 裕福な政治家であっても、統計を読み、現場を訪れ、多様な生活者の話を聞き、それを政策へ結び付けることはできる。一方で、庶民的な服装を好み、大衆食堂へ頻繁に通い、日常生活では親しみやすい政治家であっても、それだけで生活者に有効な政策を設計できるわけではない。

 政治家に本来求められるのは、庶民になることではなく、自分とは異なる立場にいる人の生活を理解し、それを制度や予算や政策へ翻訳する能力なのだろう。

 ところが、その能力は写真一枚では伝わりにくい。所得分布を読み、社会保障制度を設計し、複数の利害を調整したという話より、商店街でコロッケを食べている写真の方が、一瞬で「生活者に近い政治家」という印象を作ることができる。ここに庶民派アピールが繰り返される理由がある。

庶民派アピールだけを笑うこともできない

 政治家が商店街を歩いたり、地元の祭りへ参加したりする姿を見ると、「また選挙用の演出か」と切り捨てたくなることもある。しかし、政治家が有権者の前へ姿を現すことそのものを否定してしまえば、別の問題が生じる。

 民主政治では、政治家は見知らぬ多数の人から代表者として選ばれる。政策だけでなく、その人物が何を大切にし、どのような判断をし、どのような人間なのかを有権者が知ろうとすること自体は不合理ではない。政治家が自分の人柄を示そうとする行為にも一定の意味がある。

 問題なのは、演出があるかないかではない。政治の世界で「まったく演出されていない政治家」を探すこと自体、ほとんど意味を持たないからである。演説する場所を選ぶこと、ネクタイを選ぶこと、ポスターの写真を選ぶこと、どの政策を前面に出すかを決めること、そのすべてが政治的な自己提示であり、広い意味では演出を含んでいる。

 重要なのは、その演出が本人の言動や履歴から大きく離れているかどうかである。

「普通の人」を演じ続けなければならない政治

 政治家はこれからも商店街を歩き、地元料理を食べ、祭りで法被を着て、SNSでは舞台裏を見せ続けるだろう。それをすべて欺瞞と呼ぶ必要はない。しかし、それを見ただけで「この政治家は庶民の味方だ」と判断する必要もない。

 私たちは政治家に、高度な判断力を要求しながら、自分たちと同じ生活感覚も要求する。その矛盾が存在するかぎり、政治家は「権力を扱う特別な人」でありながら、「あなたと同じ普通の人」でもあるという二つの顔を見せ続けなければならない。

 そして庶民派アピールが自然に見えるか、演出に見えるかを決めるものは、ラーメンの値段でも、袖をまくった回数でも、商店街で握った手の数でもない。普通らしさ、一貫性、自然さ、これまでの発言や行動とのつながり、そしてそれを見る有権者自身の認識が重なって、一つの政治家像を作っていく。

 政治家の「庶民派アピール」が演出に見え始める場所には、誰にでも共通する一本の境界線が引かれているわけではない。それでも、目の前で見せられている一枚の風景と、その人物がこれまで積み重ねてきた長い物語との間に距離が生まれ、その距離を私たちが意識した瞬間、何気ない食事も握手も作業着も、それまでとは少し違って見え始める。

 おそらく庶民派というものは、政治家が自分で名乗って完成する属性ではない。政治家が何を食べ、何を着て、どこへ行ったかという一場面ではなく、「この人なら、カメラがなくても同じことをするかもしれない」と有権者が感じられる時間の積み重ねによって、初めて成立する印象なのである。

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 政治家の写真を一枚見ただけで、その人物が何を語っているのか知らないにもかかわらず、「強そうだ」「頼りになりそうだ」「少し怖そうだ」と感じることがある。考えてみれば不思議な話で、予算案を読んだわけでも外交政策を比較したわけでもなく、そこにあるのはスーツを着た人物の写真にすぎないのに、私たちはすでにその政治家について何かを判断し始めている。

 麻生太郎という政治家ほど、この奇妙な現象を考えるのに適した人物も少ないだろう。濃色のスーツ、きっちりと結ばれたネクタイ、コート、そして時折かぶる中折れ帽。口元には独特の形があり、笑っていてもどこか皮肉めいて見えることがある。その姿には、他の政治家とは少し違う輪郭がある。もし顔を隠して服装だけを見せても麻生氏を連想する人がいるのではないか、と思わせるほど、長い年月のうちに人物と装いが結びついてきた。

 しかし、ここで考えたいのは麻生氏がおしゃれかどうかではない。もっと興味深いのは、なぜ帽子やスーツや表情といった、本来なら政策能力とは直接関係のないものが、いつの間にか政治家としての印象と結びつき、ついにはその人物を説明する政治的な記号にまで変わっていくのかという問題である。

帽子は、いつから「麻生太郎」になったのか

 麻生氏が外遊などでかぶる帽子として知られてきたものの一つが、イタリアの老舗帽子メーカー、ボルサリーノである。もちろん、政治家が帽子をかぶること自体は政治思想でも政策でもなく、本人の趣味や実用品としての選択である可能性が高い。ところが同じ人物が、同じような服装を長い期間にわたって繰り返し見せ、その姿が新聞写真、テレビ映像、インターネット上の画像として何度も社会に流通すると、帽子は単なる帽子ではなくなっていく。

 企業のロゴを考えてみると分かりやすい。最初は単なる図形にすぎなかったものが、繰り返し目にするうちに、会社名が書かれていなくても企業を思い出させるようになる。同じことは人間の外見にも起こり得る。ある政治家なら眼鏡、別の政治家なら髪型や話し方が記憶の手掛かりになるが、麻生氏の場合には、帽子や仕立てのよいスーツ、独特の表情が一つのまとまりとして認識されるようになったと考えることができる。

 ここで注意しなければならないのは、それを最初から計算された政治広告だったと考える必要はないということである。麻生氏本人が「政治的なブランドを作るためにこの帽子をかぶっている」と説明しているわけではない以上、本人の意図を外部から断定することはできない。しかし、個人的な好みから始まった装いであっても、それが何年、何十年と繰り返され、多数の人々の記憶の中で特定の人物と結びつけば、結果としてブランドのような働きをすることは十分にあり得る。

 ブランドとは、本人が「これは私のブランドです」と宣言した瞬間に生まれるものではない。他人の頭の中で「あの人といえばこれだ」という連想が成立したときに生まれるのであり、その意味では、麻生氏の帽子は本人の頭の上にあるだけではなく、見る側の記憶の中にも置かれている。

私たちは政治家を「政策だけ」で見ているわけではない

 民主政治の建前からいえば、政治家は政策、実績、能力によって評価されるべきである。しかし現実の人間は、すべての候補者について政策集を読み、予算案を調べ、過去の国会答弁を比較してから一人ずつ評価しているわけではない。むしろ日常生活の中で政治家に接するのは、数十秒のニュース映像、一枚の写真、短い発言、あるいは見出しだけということの方が多い。

 情報があまりにも多いとき、人間はすべてを精密に計算することができないため、限られた情報から素早く判断する。その際に使われるのが、顔つき、服装、声、姿勢、年齢、話す速さといった手掛かりであり、心理学ではこのような簡便な判断の仕組みが長く研究されてきた。

 特に興味深いのが、アレクサンダー・トドロフらによる政治家の顔についての研究である。候補者の顔写真を短時間見せ、「どちらが有能そうに見えるか」を判断してもらうと、その評価と実際の選挙結果との間に統計的な関連が見られた。だからといって、顔が選挙結果を決定するわけではないし、顔から本当の政治能力が分かるわけでもない。政党、現職であるかどうか、選挙運動、資金、地域事情など無数の要因が選挙には存在するため、この研究から言えるのは、私たちが政治家を評価するときに外見から受ける第一印象を完全には無視していないらしい、ということである。

 さらに興味深い実験がある。同じ人物の顔に、経済的地位が高そうに見える服と低そうに見える服を組み合わせると、顔そのものは同じであるにもかかわらず、裕福そうな服を着ている人物の方が「有能そうだ」と評価されやすかった。しかも、服装と実際の能力には関係がないと注意されても、その影響は完全には消えなかった。

 ここには重要な逆説がある。私たちは頭では「服装と能力は別だ」と理解していても、実際に人物を見るときには、服装から受けた印象が知らないうちに人物評価へ入り込むことがあるのである。

 だからこそ、「服装から能力が分かる」と考えてはいけない。科学的に示されているのは、服装が実際の能力を変えるということではなく、服装によって「能力が高そうに見える」という知覚が変化する可能性である。この違いは小さく見えるが、政治を考えるうえでは決定的に重要である。

麻生太郎の服装が作るのは「親しみ」なのか「距離」なのか

 選挙になると、政治家はしばしば有権者との距離を縮めようとする。商店街を歩き、祭りに参加し、腕まくりをし、ときには作業着を着る。もちろん、そのすべてが計算された演出だという意味ではないが、政治家が「あなたと同じ場所に立っています」という印象を与えようとすることは珍しくない。

 麻生氏の服装から受ける印象は、それとは少し違う。長年仕立てていると報じられてきた端正なスーツ、コート、帽子、小物まで含めた姿は、少なくとも見る側からすれば、「どこにでもいる普通の人」を強調する装いとは違って見えることがある。

 その服装から何を感じるかは見る人によって異なる。ある人はそこに「風格」を見るかもしれないし、別の人は「庶民感覚からの距離」を感じるかもしれない。さらに別の人には、「国際舞台に慣れた政治家」「古い政財界を知る重鎮」「裕福な家柄の政治家」といったイメージが重なって見えるかもしれない。

 ここで重要なのは、そのどれか一つが客観的な正解だということではない。同じ服装から正反対の評価が生まれるという点にこそ、政治的ブランドの面白さがある。「威厳」と「尊大さ」、「余裕」と「庶民感覚の欠如」、「格好よさ」と「気取り」は、それぞれ境界線が曖昧であり、見る人がどちら側から読むかによって意味が変わってしまう。

 ブランドが強いとは、必ずしも万人から好かれることを意味しない。むしろ一目見ただけで何らかの人物像を呼び起こすことの方が重要である。誰にも嫌われないが翌日には思い出せない人物より、「あの人らしい」と瞬時に識別される人物の方が記憶には残りやすく、その意味で麻生氏の装いは、好悪とは別の次元で強い識別力を持っていると考えることができる。

「似合っている」という言葉は何を意味しているのか

 麻生氏の服装について語られるとき、「似合っている」という言葉がよく使われる。しかし、この何気ない言葉を少し掘り下げてみると、政治的ブランドというものの正体が見えてくる。

 仮に、昨日初当選したばかりの若い議員が、麻生氏とほとんど同じ帽子、同じようなコート、同じようなスーツを着て国会へ現れたとしよう。おそらく私たちは同じ印象を受けない。「風格がある」と感じる人より、「格好をつけている」と受け取る人の方が多いかもしれない。

 つまり、帽子そのものに威厳が入っているわけではない。

 長い政治経歴、首相経験、閣僚経験、党内での立場、年齢、話し方、過去に報道されてきた姿といった情報がすでに見る側の記憶にあり、それらが現在の服装と重なったときに、「麻生太郎らしい」という感覚が生まれるのである。

 ブランドとは物の集合ではなく、物語の一貫性なのだ。

 帽子だけを取り出しても麻生太郎にはならず、仕立てのよいスーツだけでもならない。独特の口調だけでも、口元の表情だけでも十分ではない。しかし、それらが何十年にも及ぶ政治経歴と重なり、多くの写真や映像の中で反復されると、個々の要素を切り離すことが難しくなってくる。

 やがて帽子を見れば人物を思い出し、人物を見れば帽子を思い出す。

 そこまで来ると、服装は政治家の外側に付着した装飾ではなく、その政治家について社会が共有している物語の一部分になっている。

笑顔なら政治家は得をするのか

 麻生氏についてもう一つ興味深いのが、表情である。選挙ポスターを見ると、多くの候補者が笑顔を選んでいるため、政治家は笑っていた方が選挙で有利なのではないかと思いたくなるが、実際の研究はそれほど単純ではない。

 日本の地方選挙を扱った研究では、候補者の笑顔と得票との関係が検討されているが、「笑えば常に得票が増える」という単純な結果にはなっていない。投票率などの状況によって関係が変わることが示されており、政治家の表情が持つ意味は、その人物だけでなく選挙環境によっても変化するらしい。

 それでも、表情が人の第一印象に影響すること自体は不思議ではない。笑顔には親しみやすさを感じる人が多い一方、政治家には親しみやすさだけでなく、危機の際に判断できるのか、交渉相手に押し切られないのか、組織をまとめられるのかという「強さ」や「有能さ」も求められるため、どの表情が政治家として有利なのかは一つの答えに決められないのである。

 麻生氏の場合、満面の笑顔だけが代表的な表情として定着しているわけではない。口元をわずかに曲げたように見える表情、何かを見定めるような視線、独特の立ち姿などが長年写真に収められてきた。

 もちろん、それらの写真から本人の性格や本心が分かるわけではない。同じ表情を見て「自信がある」と感じる人もいれば、「尊大だ」と感じる人もいるだろう。しかし政治的ブランドという観点から見れば、その曖昧さは必ずしも弱点ではない。「あの表情」と呼べるほど特徴が定着していれば、それ自体が人物を思い出す手掛かりになるからである。

なぜ「マフィアのようだ」という連想まで生まれるのか

 濃色のスーツ、コート、中折れ帽、厳しく見える表情という組み合わせから、映画に登場するマフィアのようだという比喩が語られることがある。当然ながら、これは政治的事実ではなく、外見から生まれる文化的な連想にすぎない。

 しかし、なぜそのような連想が生まれるのかを考えると、政治家の外見が持つもう一つの面白さが見えてくる。

 私たちは現実の政治家だけを見て、「権力者とはどのような姿をしているのか」を学んできたわけではない。映画、テレビドラマ、小説、漫画、広告といった文化の中で、何十年にもわたり「権力を持つ人物らしい姿」を見続けている。暗いスーツ、帽子、落ち着いた歩き方、鋭く見える視線といった要素が一つの画面にそろうと、現実の政治家に対しても、過去に映画やドラマで覚えた権力者のイメージを重ねてしまうことがある。

 つまり政治家のブランドは、政治の世界だけで作られているわけではない。映画の記憶、小説の人物像、テレビドラマで学習した「偉い人らしさ」までが、現実の政治家を見る私たちの目に入り込んでいる。

 この点を考えると、一枚の写真が政策についての長い記事以上の速度で広がる理由も分かってくる。政策を理解するには背景知識が必要だが、写真なら一秒で見ることができ、その一秒の中へ私たちは驚くほど多くの意味を書き込んでしまうからである。

「麻生太郎の帽子が政治ブランドを作った」とまでは言えない

 ここまでの話で、最も注意しなければならない点がある。

 心理学の研究からは、顔、服装、表情などが人物評価に影響し得ることが分かっている。しかし、「麻生太郎氏が帽子をかぶった場合とかぶらない場合で、政治家としての評価がどの程度変化するか」を直接測定した実験があるわけではない。

 本当に確かめるなら、同じ麻生氏について帽子をかぶった写真とかぶっていない写真を用意し、参加者を無作為に分けて見せ、「有能さ」「強さ」「親しみやすさ」「信頼感」「庶民性」「権威」などを評価してもらう必要がある。さらに、その人がどの政党を支持しているのか、もともと麻生氏を好きなのか嫌いなのか、年齢や政治関心がどの程度なのかといった要因も考慮しなければならない。

 そこまで調べて初めて、「帽子そのものが麻生氏の政治的評価を変えた」と因果関係を論じることができる。

 したがって、この記事で言えるのはそこまでではない。より慎重に言えば、麻生氏の特徴的な服装や表情が長年にわたってメディア上で反復され、その結果として、麻生太郎という政治家を識別する視覚的なブランドの一部になっていると考えることができる、という程度である。

 しかし、科学的な断定ができないからといって、この現象に意味がないわけではない。むしろ、その微妙な境界にこそ政治を見る面白さがある。政治家の側が意図したかどうかとは別に、有権者の側ではすでに意味が作られてしまうことがあるからである。

ブランドが強いことと、政治家として優れていることは別である

 ここまで読むと、政治では外見が重要なのだから、政治家は服装や表情を工夫すればよいという話に見えるかもしれない。しかし、むしろ結論は逆である。

 外見が政治家の印象に影響する可能性があるからこそ、私たちはそれを政治能力そのものと混同してはいけない。

 仕立てのよいスーツを着ていることと、複雑な財政政策を正確に設計できることとの間に必然的な関係はない。厳しく見える表情をしていることと、危機管理能力が高いことも別問題であり、親しみやすい笑顔を見せる政治家だから住民の意見をよく聞くとも限らない。

 ところが人間は、政治家を完全に無色透明な目で見ることができない。最初に「豪胆な人物」というイメージを持っている人が強い発言を聞けば、その発言を豪胆さの証拠として受け取りやすくなるかもしれないし、最初から「尊大な人物」という印象を持っている人なら、同じ発言を尊大さの証拠として読むかもしれない。

 ここには少し怖い循環がある。

 外見から人物像を作り、その人物像を使って発言を解釈し、その解釈によって最初の人物像をさらに強くする。そうなれば、政治家のブランドは本人だけによって作られているのではなく、新聞、テレビ、インターネット、そしてそれを見る私たち自身によって共同で作られていることになる。

麻生太郎を見ているつもりで、私たちは自分自身を見ている

 結局、麻生太郎氏の帽子が政治的ブランドのように見える理由を、帽子の値段やメーカーだけから説明することはできない。

 同じ帽子を買っても麻生太郎にはならないし、同じ仕立てのスーツを着ても同じ存在感が生まれるわけではない。長い政治経歴、首相や閣僚としての経験、党内での立場、話し方、表情、身体の動かし方、そして何十年にもわたって報道されてきた姿が重なった結果として、見る側の中に「麻生太郎らしさ」が形成されてきたと考える方が自然である。

 そして、おそらく本当に考えるべきなのは麻生氏の服装ではない。

 私たちは政治家を見るとき、いったい何を見ているのか、という問題である。

 帽子を格好いいと感じることは自由であり、その表情を頼もしいと思うことも、逆に威圧的だと感じることも自由である。しかし、その感覚と政策評価との境界線は、自分で思っているほど明瞭ではないかもしれない。

 政治家は言葉によって政治をする。しかし、有権者がその言葉を理解するより先に、政治家の姿はすでに目に入っている。

 麻生太郎氏の帽子について考えていると、最後にはそこへ戻ってくる。帽子やスーツそのものが政治になったのではない。それを見た私たちが、そこから人物像を作り、権力や能力や親しみやすさについて意味を読み始めたのである。

 そして麻生氏の姿を見て「いかにも麻生太郎らしい」と感じた瞬間、その写真に映っているのは麻生太郎氏だけではない。

 政治家とはこういう人物であってほしい、権力を持つ人物とはこんな姿をしているものだ、強い政治家とはこう見えるものだという、私たち自身の頭の中にある政治家像もまた、その帽子の向こう側に映っているのである。

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 政治家にとって、口は災いの元である。選挙中なら一言で票が逃げ、大臣になれば記者会見の一節が翌朝の見出しになり、本人が三十分かけて丁寧に説明したつもりでも、その中から十数秒だけ切り取られた映像が独り歩きすることがある。政治家の側から見れば、現代ほど「余計なことを言わない」という能力に高い価値がつく時代はないのかもしれない。

 だから私たちは、失言の少ない政治家を見ると、つい「しっかりしている」と感じる。質問を受けても慌てず、不必要な断言を避け、言葉を選び、記者から何度尋ねられても不用意なことを言わない政治家は、確かに安定して見えるし、大きな組織を率いる人間に言葉の管理能力が必要なのも間違いない。けれども、ここで少し意地の悪い問いを置いてみると、政治家を見る景色は急に違ってくる。

 失言しない政治家とは、本当に優れた政治家なのだろうか。

 もちろん、これは「失言する政治家の方が優れている」という話ではない。他人を傷つける発言、差別的な発言、事実に反する発言、職務への無理解をさらけ出す発言まで、「率直な人だから」で済ませてしまえば、政治家の言葉に責任を求めること自体ができなくなる。問題はそこではなく、失言をしないことと、政治家として優れていることは本来別の尺度であるのに、私たちがいつの間にか両者をかなり近いものとして扱ってはいないか、という点にある。

なぜ十秒の失言が三十分の説明より残るのか

 政治家の発言には奇妙な性質がある。一時間の会見をほとんど問題なく終えても、最後の一言が不用意なら、その言葉だけが翌日のニュースになることがある。「一時間より十秒の方が重要になる」というのはもちろん厳密な統計ではなく比喩だが、人間が好ましい情報より好ましくない情報に強く反応しやすいことは心理学でも知られており、政治ニュースについても否定的な内容に注意が向きやすい傾向が研究されてきた。

 ここで重要なのは、私たちが政治家の発言を均等に記憶しているわけではないということだ。十回きちんと説明したことより、一度の奇妙な言葉の方が人物像を形づくる場合があり、それは必ずしも有権者が愚かだからではなく、人間の認知そのものが珍しい出来事や危険を示す情報に敏感だからでもある。

 政治家自身もそれを知っているので、言葉に保険を掛けるようになる。「現時点では」「さまざまな意見を踏まえ」「総合的に判断し」「適切に対応する」。政治に関心がある人なら何度も聞いたことのある表現だろうし、これらの言葉そのものが悪いわけではない。政策には不確実性があり、一人の政治家だけで決められない問題も多いため、責任ある立場なら軽々しく断言できない場面は当然存在する。

 しかし、安全な言葉ばかりを積み重ねていくと、不思議な現象が起きる。間違ったことは言っていないのに、その政治家が何を考えているのかも分からなくなるのである。

 言葉の安全性を高めるほど本人の考えが見えにくくなり、極端に言えば、「何も間違ったことを言わない政治家」を突き詰めていくと、「何を言っているのか分からない政治家」に近づいてしまう。ここに、失言をめぐる最初の逆説がある。

曖昧に話す政治家は、本当に逃げているのか

 政治家が曖昧な話し方をするのは、単なる性格の弱さとは限らない。政治学では古くから、候補者が自分の立場をあえて明確にしすぎない「戦略的曖昧性」が研究されてきた。

 選挙を考えてみれば、その理由は分かりやすい。ある政策について明確に賛成すれば、反対する有権者を失う可能性があるし、反対を明言すれば賛成派を失うかもしれない。それなら「状況を見ながら判断する」と言っておけば、異なる立場の有権者がそれぞれ自分に都合よく解釈してくれる余地が残る。実際、候補者の政策姿勢が曖昧でも有権者が必ずしもその候補者を嫌うわけではなく、支持政党などの情報を手掛かりに、自分に近い立場だろうと補って理解することがある。

 ただし、曖昧に話せば必ず得をするわけでもない。所属政党や過去の発言から立場を推測されることもあり、場合によっては曖昧に語るより、その問題について何も言わない方が政治的には安全なことさえある。政治家にとって、明確に話すこと、曖昧に話すこと、沈黙することには、それぞれ違った危険があるのである。

 この関係を少し数理的に考えると、なぜ政治家の言葉が無難になっていくのかが見えやすい。政治家にとって明確な発言には、政策を理解してもらえる利益がある一方、反発や失言によって受ける損失もある。その期待損失は、簡単に考えれば「問題が起きる確率」と「問題が起きたときの損失」を掛け合わせたものになる。

 たとえば、はっきり語れば政策を理解してもらう利益が大きい一方、炎上する可能性も高くなるとする。反対に、抽象的に語れば説明としての価値は小さくなるが、炎上する可能性も低くなる。このとき社会にとっては明確な説明の方が有益でも、政治家個人にとっては曖昧に話す方が合理的になる場合がある。

 つまり、政治家が曖昧だからといって、その政治家だけを責めれば済む問題ではない。「何を言ったか」より「何か間違ったことを言わなかったか」に注目が集まる社会では、政治家にとって安全な言葉を選ぶこと自体が合理的な戦略になってしまう。

失言した瞬間、本性が見えたと思いたくなる

 それなら、思ったことをそのまま言う政治家の方が信用できるのだろうか。この問題もそれほど単純ではない。

 慎重な言葉ばかり聞かされていると、遠慮なく物を言う政治家は魅力的に見える。「この人は本音で話している」と感じられるからだ。しかし、十分に考えた末に不人気なことを言う政治家と、深く考えずに刺激的なことを言う政治家は、外から見ると意外によく似ている。

 逆方向の間違いもある。政治家が失言すると、私たちは「つい本音が出たのだ」と考えたくなる。しかし、すべての言い間違いが深層心理の告白であるはずもない。

 統計的に考えるなら、一度の発言は一回の観測値にすぎない。ある政治家の考え方や知識を知りたいとしても、その発言には本人の考えだけでなく、質問の聞き違い、即興で答えたことによる言葉選びの失敗、疲労、その場の文脈などが混ざっている。

 一度だけ起きた奇妙な発言なら偶然の誤差かもしれないが、似た種類の発言が何度も繰り返されれば、偶然だけでは説明しにくくなる。科学的に見るなら、「失言したか、しなかったか」という二択より、その失言がどの程度その人物についての情報を含んでいるのかを見る方が重要なのである。

 たとえば、十分な知識を持つ人でもしばしば犯す言い間違いなら、その一回から政治家の能力を大きく下げて評価するのは合理的ではない。しかし、その分野を理解している人ならほとんどしないような重大な誤りを何度も繰り返すなら、それは政治家の知識や判断力についてかなり強い情報になる。

 言い換えれば、一言は証拠ではある。ただし、一言だけで人物全体を確定できるほど強い証拠とは限らない。

日本の政治家は、失言すると本当に終わるのか

 この問題について、日本政治を対象にした興味深い研究がある。2026年に公表された研究では、1960年から2024年までの日本の首相や閣僚について新聞報道を調べ、単なる言い間違いや小さな事実誤認を除いたうえで、344件の政治的失言を分析している。

 結果を見ると、「政治家は一度失言すれば政治生命が終わる」というイメージとは少し違った風景が見えてくる。失言の約四分の一は報道が一日で終わり、約七割は一週間以内に大きな報道が収まっていた。つまり、失言の大半が長期間続く政治的事件になったわけではないのである。

 さらに興味深いのは、失言そのものより、その発言に対して誰が批判したかとの関係だった。主要な政治・社会的主体から批判されなかった失言では辞任に結びついた例がなかった一方、批判する主体が一種類の場合には約5.7%、二種類になると約16.7%、三種類になると約42.9%が辞任に関連していた。

 もちろん、この数字から「批判する人が増えたから大臣が辞めた」と単純に因果関係を決めることはできない。そもそも深刻な発言だからこそ多方面から批判された可能性もある。それでも、失言の政治的破壊力は、発言内容だけで自動的に決まるわけではないことを示す材料にはなる。

 不用意な一言があり、報道され、野党が批判し、与党内部でも問題視され、社会団体などが反応することで、単なる失言が政治的なスキャンダルへ成長していく。失言とは、口から出た瞬間に完成する事件ではなく、その後に社会との相互作用の中で大きさが決まっていく現象でもある。

 そう考えると、政治家の失言を一つの言葉だけで評価することが、いかに危ういかが分かる。

「失言しない政治家」を求めると何が起きるのか

 ここから先は、慎重に考えなければならない。

 失言を強く恐れる政治家ほど曖昧な表現を選びやすくなるという理屈にはかなり説得力がある。しかし、それだけで「失言を恐れる政治家は政策判断までしなくなる」と断定することはできない。発言を慎重にすることと政策判断を避けることは別の行動であり、その二つが必ず連動するという強い実証的証拠があるわけではないからだ。

 それでも、政治家が政治的損失を最小化しようとすれば、批判を招きやすい行動そのものを避ける誘因が生まれる可能性はある。

 政治という仕事には、正解のない決断が多い。医療にどこまで予算を振り向けるのか、高齢化した地域の公共交通をどこまで維持するのか、税負担を誰にどれだけ求めるのか、人口が減る自治体で学校や公共施設をどう再編するのか。誰も損をせず、誰からも反対されない政策など、ほとんど存在しない。

 ここで政治家が「何かを変えて失敗する損失」と「何も変えず問題が続く損失」を比べることになる。前者はその政治家本人の責任として見えやすいが、後者は社会全体にゆっくり広がるため、誰の責任なのか分かりにくい。

 道路を造って失敗すれば「無駄な公共事業」と批判されるが、何も造らず十年間交通が不便なままでも、その損失が一人の政治家の名前と結びつくとは限らない。改革を実行して問題が起きれば責任者が見えるのに、改革をしなかったことで失われた機会は見えにくいのである。

 だから失点回避を重視する政治文化では、何かを実行するより現状を維持する方が、政治家個人にとって安全になる可能性がある。ただしこれは「失言する政治家の方が改革者である」という意味ではないし、「失言を許せば政治が良くなる」という話でもない。むしろ、政治家を評価するときに、失点の少なさと成果の大きさを同じものとして扱わない方がよい、という話である。

政治家は試験を受けているのか

 学校の試験なら、間違えないほど点数が高くなる。しかし政治は試験ではない。

 ところが、政治家の評価には試験と似た減点方式が入り込みやすい。一度の失言、一度の答弁ミス、一度の数字の言い間違いが大きく報道される一方、政策によって回避できた問題や、十年後に現れる利益は点数にしにくい。

 すると「大きな成果を出したが失言もした政治家」と「大きな成果はないが問題発言もしなかった政治家」を、どう比べればよいのかという難しい問題が出てくる。

 政治家の能力を一つの数字で表せると仮定しても、その中身は失言の少なさだけではないはずだ。政策知識、判断力、実行力、倫理性、説明能力、危機管理能力、反対意見を聞く能力、間違えたときに修正する能力など、いくつもの要素が重なって初めて政治家としての能力になる。

 失言の少なさは、そのうち言葉を管理する能力を推測する一つの材料にはなる。しかし、「失言ゼロだから優秀」と判断するのは、多数の変数で決まる問題を一つの変数だけで説明しようとするのに近い。

 逆に、一回失言しただけで「無能」と判断するのも同じ種類の単純化である。

謝る政治家は優れた政治家なのか

 失言の後に「謝罪したかどうか」を重視する人もいるが、これも単純ではない。

 政治家の謝罪についての研究では、謝れば必ず評価が上がるという結果は出ていない。問題の種類によっては、謝罪した政治家の方が不利になる場合さえあり、反対に歴史的・外交的問題では、謝罪が相手側の評価を改善することもある。

 つまり、「謝れば許される」という万能な法則は存在しない。

 それでも、失言の後を見る意味がないわけではない。むしろ重要なのは、謝罪という儀式そのものより、その人物が何を問題と理解しているかである。

 「誤解を招いたことは遺憾だ」とだけ言い続けるのか、それとも自分の発言のどこが不適切だったのかを理解し、必要なら認識を修正するのか。同じ失言でも、この違いから得られる情報はかなり大きい。

 人間が一度も間違えないことを前提にするより、間違いを認識し、修正できるかを見る方が現実的だという考え方は、科学的事実というより民主政治についての価値判断に属する。それでも、現実の政治家が人間である以上、「一度も間違えない政治家」という理想より、「間違えたときにどう行動する政治家か」を見る方が、少なくとも人物を多面的に判断する材料にはなるだろう。

私たちは政治家の「中身」を見ているのか

 失言探しが政治の中心になると、奇妙なことが起こる。

 質問する側は不用意な一言を引き出そうとし、答える側はそれを避けようとするようになり、記者会見や国会答弁が、政策を理解する場所というより「言葉の事故が起きるかどうかを見る場所」に近づいてしまう。

 政治家が公式の場所で安全な言葉しか使わなくなると、今度は有権者が別の場所に「本当の政治家」を探し始める。街頭演説、雑談、過去の動画、短く切り取られた映像、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)での投稿などから、「こちらが本音なのではないか」と考える。

 しかし、人間には公式の顔もあれば私的な顔もあり、どちらか一方だけが偽物というわけではない。政治家についても、一つの発言だけを「本性」と決めつけるより、異なる場面でどんな判断を繰り返しているかを見る方が、その人物を知るには適している。

 ここまで考えると、失言の問題は政治家だけの問題ではなくなってくる。

 私たち有権者が何に反応し、報道機関が何を大きく扱い、政党が何を攻撃材料にし、その結果として政治家がどんな言葉を選ぶようになるかという、一つの循環が存在するからである。

 政治家の言葉は有権者に影響するが、有権者の評価方法もまた政治家の言葉を変えている。

「言葉の無事故運転」だけでは政治はできない

 失言しない政治家には確かに能力がある。言葉を管理し、状況を読み、不必要な摩擦を避ける能力であり、それは政治にとって決して小さなものではない。

 しかし政治家には、不人気でも必要なことを説明する力、複雑な問題を自分の言葉で語る力、反対されても判断を示す力、そして自分が間違えたときに認識を修正する力も求められる。

 車にたとえるなら、事故を起こさない運転手は確かに優秀である。しかし政治家の場合、ただ安全に走ればよいわけではなく、どこへ向かうのかも決めなければならない。道路が傷んでいれば補修するのか迂回するのかを選び、乗客が違う方向へ行きたがれば説明し、必要なら反対されても進路を決めることになる。

 駐車場から一度も出なければ、交通事故を起こす可能性は限りなく低い。

 けれども、それを優れた運転と呼ぶ人はいないだろう。

 政治家を見るときにも、同じ問いを置いてみると面白い。その人物は言葉を間違えないのか、それとも間違える危険を避けるために重要なことを語っていないのか。慎重なのか、それとも責任の生じる判断を避けているのか。そして反対に、失言した政治家についても、その一言が本当に知識不足や価値観を示す強い証拠なのか、それとも一度の言葉選びの失敗なのかを見分ける必要がある。

 政治家を選ぶのは有権者だが、その前に政治家たちは、有権者が持っている「良い政治家とはこういう人物だ」という物差しによって選別されている。

 だから、「失言しない政治家は本当に優れた政治家なのか」という問いは、政治家についての問いだけではない。

 私たちは政策を判断する政治家を求めているのか、それとも決して私たちを不快にさせず、決して言葉を間違えず、決して炎上しない人物を求めているのか。

 もし後者であるなら、政治家たちは私たちの期待に適応して、ますます安全な言葉を選ぶようになるだろう。けれども、安全な言葉が増えることと、良い政治が増えることは、必ずしも同じではない。

 そして、何も間違えないための最も確実な方法は、昔から変わらない。

 何も言わないことである。

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 政治家には専門知識が必要だ、と言われることがある。経済政策を論じるなら経済学を理解している方がよく、医療制度を改革するなら医療や社会保障制度に詳しい方がよい。財政、外交、安全保障、教育、エネルギー、科学技術と、現代国家が扱う問題が複雑になるほど、十分な知識を持たない政治家に重大な判断を委ねてよいのかという疑問が生じるのは自然である。

 しかし、ここから「それなら専門家を政治家にすればよい」と考えると、政治という仕事の少し不思議な性質が見えてくる。医療政策について最も詳しいのは医療の専門家であり、財政について最も詳しいのは財政学や経済学の専門家であり、エネルギー政策について最も詳しいのは工学やエネルギー政策の専門家だろう。それぞれの問題について最も知識のある人物に決定を任せればよいのなら、そもそも選挙によって政治家を選ぶ必要はなく、専門家委員会によって国家を運営した方が合理的だということになりかねない。

 それでも民主政治が専門家による統治そのものにはならないのは、政治が単に「正しい知識を見つける仕事」ではないからである。現実の政策には、知識だけでは決められない価値の衝突が必ず入り込む。

一つの問題の中に、いくつもの「正しさ」が存在する

 人口の少ない地域にある病院を残すべきかどうかを考えてみよう。医療の立場から見れば、住民が必要な医療へ到達できる環境を維持することには大きな意味がある。一方、財政の立場から見れば、利用者の少ない病院を巨額の公費によって維持し続けることには限界があり、交通政策の立場から考えれば、病院そのものを残す代わりに救急搬送や通院交通を充実させるという選択肢も生まれる。さらに地域政策まで視野を広げれば、病院の撤退によって高齢者や子育て世帯の転出が進み、人口減少がさらに加速する可能性まで考えなければならない。

 ここで重要なのは、どの専門家も必ずしも間違っているわけではないことである。それぞれが自分の専門領域について合理的に考えているにもかかわらず、導かれる政策判断は一致しないことがある。政治家が扱うのは、間違った意見と正しい意見を見分ける問題だけではなく、異なる種類の「正しさ」が衝突する問題なのである。

 財政を健全化することも重要であり、医療へのアクセスを保障することも重要である。環境負荷を小さくすることにも価値があるが、産業活動や生活の利便性を維持することにも価値がある。社会保障を充実させれば安心は増える一方、その費用を誰かが負担しなければならず、税負担を軽くすれば家計の自由になるお金は増えるものの、その分だけ公共サービスに使える財源は小さくなるかもしれない。

 科学や専門知識は、それぞれの政策を採用した場合に何が起こりそうなのかを分析することはできる。しかし、「その結果のうち何を最も重く評価するべきか」という最後の判断まで科学だけで決めることはできない。この境界に政治が存在している。

専門家の政治家には、はっきりした強みがある

 だからといって、専門知識は政治家にとってそれほど重要ではない、と考えるのも正しくない。むしろ現代政治では、高度な専門性を持った政治家が持つ利点について実証的な研究が存在する。

 議員が過去の職業経験などを通じて特定分野の専門知識を持っている場合、その分野に関する政策形成や立法活動で有利になることを示した研究がある。専門知識があれば、官僚や業界団体から提出された数字や制度説明を理解しやすく、前提の妥当性を問い直すこともできる。単に「専門家がそう言っているから」という理由だけで説明を受け入れるのではなく、どの条件なら政策が機能し、どの条件では機能しないのかを議論できる点は、政治家として明らかな強みになる。

 さらに、関連する職業経験を持つ政治家は、その政策領域について周囲から知識がある人物と評価されやすく、政策への支持や他の議員との協力を得やすくなることを示す研究もある。したがって専門性は、単なる肩書ではなく、政策形成能力や政治的信頼を支える資源になり得る。

 この意味では、「専門家は視野が狭いから政治家に向かない」と単純化するのは適切ではない。専門知識のない政治家が、専門家や官僚の説明を理解できないまま最終判断だけを下す状況もまた、民主政治にとって好ましいとは言えないからである。

それでも専門性には、別の危険が潜んでいる

 ところが専門性には、能力を高める作用と同時に、それとは反対方向の作用が生まれる可能性もある。政策分野について詳しい政治家ほど自分の判断に強い確信を持ち、その結果として、自分とは異なる意見を持つ有権者への応答性が低下する可能性を示した政治学研究がある。専門知識そのものが悪いのではなく、専門知識によって生まれた自信が強すぎる場合に、「自分はこの問題を理解しているのだから、詳しくない人々の意見を重く見る必要はない」という方向へ傾く危険があるのである。

 これは政治にとって重要な問題である。専門家が専門領域の内部で最適解を追求することと、政治家が社会全体としてどの選択を採るかを決めることは同じではない。医療として望ましい政策が財政としても望ましいとは限らず、経済合理性の高い政策が地域共同体にとって最善とも限らない。一つの専門領域における合理性が、そのまま社会全体の合理性になるわけではないからである。

 専門性が高いほど必ず視野が狭くなるという証拠があるわけではない。しかし、人は自分がよく知っている枠組みによって問題を理解しやすくなる以上、自らの専門知識が世界を見る唯一の窓になっていないかを点検する態度は必要になる。

では、幅広い教養を持つ人物なら安心なのか

 ここで、歴史、哲学、文学、科学、経済、法律などを広く学んだ、いわゆるリベラルアーツ的な教養を持つ人物の方が政治家に適しているのではないか、という考えが出てくる。

 この考えには一定の合理性がある。政治では一つの政策だけを見るのではなく、その政策が社会の別の場所にどのような影響を与えるのかを考えなければならない。経済効率が改善しても公平性が大きく損なわれる場合があり、安全性を最大限に高めれば個人の自由が狭くなる場合もある。そのような価値の衝突を考えるためには、単一の専門理論だけではなく、歴史的な経験や法制度、人間の行動、倫理、文化について複数の視点を持つことが役に立つ。

 歴史を知ることは、現在の制度がどのような失敗や試行錯誤を経て成立したのかを考える材料になり、哲学は自由、公平、責任、正義といった価値が互いに衝突したとき、それらを単純な善悪に還元しないための知的資源になり得る。文学についても、読むだけで優れた政治判断ができるようになると科学的に断言することはできないものの、統計の中では一人の数字としてしか現れない人間にもそれぞれ異なる生活や事情があることを想像する契機にはなり得る。

 しかし、ここでも注意が必要である。幅広い教養を持つ人物の方が、専門家より政治家として優秀であることを一般的に証明した研究が存在するわけではない。広く知っていることと正確に理解していることは同じではなく、医療、金融、原子力、情報通信などの高度な専門領域では、一般教養だけで専門家の議論の妥当性を判断することは難しい。

 専門家型には「一つの視点を強く信じすぎる危険」がある一方、教養人型には「広く知っていることで理解したつもりになる危険」があるのである。

「キツネ型」の知性が示唆するもの

 政治的判断について考える際、心理学者・政治学者のフィリップ・テトロックが行った長期的な予測研究は興味深い示唆を与えている。テトロックは専門家による政治や国際情勢の予測を調べる中で、一つの大きな理論によって多くの出来事を説明しようとする「ハリネズミ型」と、複数の説明を組み合わせ、新しい情報によって自分の見方を修正する「キツネ型」という思考様式を比較した。

 その結果、複雑な政治的予測では、複数の視点を組み合わせるキツネ型の方が良い成績を示す傾向が見られた。この研究から直ちに「リベラルアーツを学んだ人の方が政治家に向いている」と結論づけることはできない。テトロックが調べたのは主として思考方法と予測能力であって、専門家と教養人を直接比較したわけではないからである。

 それでも、この研究には政治家の知性を考えるうえで重要な含意がある。一つの理論や専門領域だけに依存するのではなく、複数の説明を比較し、自分の判断が間違っている可能性を残し、新しい情報によって考えを変更できる人物の方が、複雑で不確実な問題を扱う仕事には適している可能性があるということである。

「知らないことを知っている」という能力

 ここまで考えると、政治家の能力を単純な知識量で測ること自体が間違っているのかもしれない。

 一人の政治家が財政、医療、外交、安全保障、教育、農業、エネルギー、情報通信、社会保障、地方行政のすべてについて第一級の専門家になることは現実的ではない。それにもかかわらず、政治家にはそれらすべてについて判断を下す場面が訪れる。

 この矛盾を埋めるために必要なのは、すべてを知っていることではなく、自分が何を知り、何を知らないのかを認識する能力である。このような態度は「知的謙虚さ」と呼ばれることがあり、自分の判断や知識には限界があり、誤っている可能性もあると認める姿勢を意味する。近年の研究では、こうした知的謙虚さを示す政治家が、有権者から能力や好感度を高く評価される可能性も報告されている。

 ただし、知的謙虚な政治家ほど実際に優れた政策成果を残すことまで証明されているわけではない。それでも政治の構造を考えれば、自分の知識の限界を認識できることには実務上の意味がある。自分では判断できない問題だと分かれば適切な専門家を探すことができ、異なる意見を持つ専門家を比較することもできるからである。

 重要なのは専門家に従うことではなく、なぜ専門家同士の意見が異なるのかを理解することである。どこまでが比較的確かな事実で、どこから先が将来予測なのか、さらにどの部分から価値判断が入り込んでいるのかを区別できれば、政治家は専門知識を利用しながら、それに支配されることを避けられる。

政治には最後まで「選択」が残る

 科学技術が進歩し、膨大なデータを利用できるようになっても、政治から選択そのものが消えることはないだろう。政策の結果を以前より高い精度で予測できるようになったとしても、その結果のうち何を優先するべきかという問題は残る。

 税負担を軽くするのか公共サービスを維持するのか、過疎地の公共施設を残すのか集約するのか、経済成長を重視するのか環境負荷の削減を優先するのかという問題には、それぞれ利点と犠牲がある。専門家は選択によって生じる結果を分析できても、「どの犠牲なら社会として受け入れるべきか」を科学的事実だけによって決めることはできない。

 民主政治において政治家が選挙で選ばれる意味の一つは、まさにここにある。政治家は社会で最も賢い人物だから権限を与えられるのではなく、価値の衝突を伴う判断を誰に委ねるかについて、有権者が選択する仕組みの中で権限を与えられている。

 したがって政治家には、専門家から知識を集める能力だけではなく、その知識だけでは決められない問題について決断し、その結果について政治的責任を負う役割が残る。

結局、専門家と教養人のどちらが政治家に向いているのか

 最初の問いに戻ると、科学的には「専門家型より教養人型の方が一般的に政治家に向いている」とまでは言えない。逆に、専門知識を持つ人物の方が政治家として優れているとも一般化できない。政治家の専門性が政策形成に役立つことを示す研究がある一方、専門性から生じる強い確信が他者の意見への応答性を低下させる可能性を示す研究もあり、幅広い視点を持つことの価値を示唆する研究は存在するものの、それがリベラルアーツ教育そのものの優位を証明しているわけではない。

 ここから導けるのは、専門家か教養人かという二者択一よりも、政治家という職業には専門家とは異なる種類の知性が必要だということである。

 理想的なのは、少なくともいくつかの領域について十分な知識を持ちながら、自分の専門だけで社会全体を説明しようとせず、異なる専門家の議論を理解し、それぞれの前提と限界を比較できる人物だろう。さらに新しい証拠によって自分の考えを変更でき、自分では答えられない問題について「分からない」と認め、そのうえで必要な知識を持つ人間を探せることが重要になる。

 政治家に必要なのは、専門家ではないことではない。むしろ専門知を理解できるだけの知性を持ちながら、専門知を絶対視しないことである。

 政治家を選ぶとき、私たちはしばしば「この人は何に詳しいのか」と考える。しかし、それだけでは十分ではない。その人物は、自分とは異なる専門家の意見を聞けるのか、自分の考えに反する証拠が出たとき判断を変更できるのか、自分の知らないことを認識できるのかという問いも、同じくらい重要になる。

 人工知能が膨大な資料を読み、政策の効果まで予測する時代になれば、知識を大量に記憶していることだけでは政治家の優位性にならなくなるかもしれない。むしろ異なる専門知識を結びつけ、数字には完全には表れない価値の衝突を理解し、最後には社会としてどの道を選ぶのかを決断する能力の方が重要になるだろう。

 そう考えるなら、未来の政治家に必要なのは「専門家か、教養人か」という単純な答えではない。

 専門家と議論できるだけの深さを持ち、専門領域の境界を越えられるだけの広さを持ち、それでも自分の知識には限界があると理解している人。その三つを同時に備えた人物こそ、複雑な社会の政治を担ううえで最も望ましい政治家像に近いのではないだろうか。

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 自分を窮地に追い込んだ新聞記者が目の前に現れたとき、政治家はその男をどう扱うだろうか。怒鳴りつけるかもしれないし、出入りを禁じるかもしれない。少なくとも、自分の側近にしようとは普通は考えないだろう。ところが田中角栄は、そうしなかった。その記者を、やがて自分の秘書にしたのである。

 男の名は早坂茂三。のちに二十三年間にわたって田中の側近を務め、田中政治の内側を後世に伝える証言者となる人物である。二人の関係が興味深いのは、最初から田中に忠実だった人物が取り立てられたわけではないところにある。むしろ逆で、早坂は新聞記者として田中に不利な記事を書き、それによって田中を政治的に困らせた。その能力を見た田中が、やがてその男を自分の懐へ引き入れたのである。

 もちろん、私たちは田中の心の中を見ることはできない。「自分を攻撃する人間だからこそ欲しかった」と田中自身が体系的な人材論を残したわけでもない。それでも、確認できる出来事を丁寧につなぐと、田中が早坂のどこを評価したのかはかなり見えてくる。そこにあったのは、単なる好き嫌いを越えて、人間の「使える力」を見抜こうとする田中角栄独特の人材感覚だったのではないか。

すべては一つのスクープから始まった

 一九三〇年に北海道函館で生まれた早坂茂三は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京タイムズに入り、政治部記者として永田町を取材していた。田中角栄との関係が大きく動くのは一九六二年である。

 この年二月、アメリカのロバート・F・ケネディ司法長官が来日した。ケネディは大統領ジョン・F・ケネディの実弟であり、当時のアメリカ政治を象徴する人物の一人だった。その来日に際して日本の政治家との非公式な懇談が行われ、その席に当時自民党政務調査会長だった田中角栄も出席している。そこで田中が沖縄返還や安全保障、憲法などに関してかなり踏み込んだ発言をしたことは、後世に作られた角栄伝説だけではない。アメリカ側の外交記録などからも、この懇談で田中が敏感な政治問題について積極的に発言していたことが確認されている。

 問題は、その内容が外へ出たことである。早坂は、その発言を記事にした。記事は政治問題へ発展し、国会審議にも影響を及ぼしたとされるから、政治家の側から見れば極めて迷惑な記者だったはずである。ところが、ここから話がおもしろくなる。

 早坂は後年、自分が記事を書いたことを田中本人に名乗り出たと回想している。そして田中は早坂を激しく責めるどころか、記者としての仕事を認め、自分が記者でも書いただろうという趣旨の反応をしたという。

 この場面については注意が必要である。私たちが確認できるのは、「早坂が後年、そのように回想している」ということであって、その場に録音機が置かれていたわけではない。会話の一字一句まで客観的に確定しているわけではないのである。それでも、早坂がかなり早い時期から同様の経緯を語っていたこと、その後実際に田中の秘書へ転じたことを考えれば、少なくとも「スクープをきっかけとして田中が早坂を強く意識するようになった」という大筋は不自然ではない。

 政治家と記者の間に最初に生まれたものは友情ではなかった。むしろ、互いに相手の力量を知る機会だったと考えた方がよい。早坂は田中の発言の政治的な危険性を嗅ぎ取り、記事にする判断をした。一方の田中は、その記事によって自分が傷つけられたと同時に、早坂という記者がどの程度の男なのかを知った。敵味方という分類より先に、能力が見えたのである。

田中が見たのは「従順さ」ではなかった

 組織が人を選ぶとき、最も簡単なのは自分に逆らわない人物を選ぶことである。上司の意向を理解し、余計な摩擦を起こさず、忠実に動く人物は扱いやすい。政治家の秘書なら、なおさらそう考えたくなる。しかし、早坂はその条件からかなり遠い人物だった。

 田中に不利な記事を書き、問題になれば本人のところへ出ていく。しかも学生時代には、自民党政治家の秘書としては一見すると異質に見える左翼運動の経験まで持っていた。早坂自身の自伝によれば、早稲田大学時代には左翼学生運動に関わり、共産党に入党した経験もあった。

 にもかかわらず、田中は早坂を自分の側へ引き入れる。ここから推測できるのは、田中の人物評価では、少なくとも経歴上の「無難さ」だけが最優先ではなかったということである。

 田中自身も、当時の政界の典型的なエリートコースからは外れた人物だった。新潟県の二田尋常高等小学校を卒業したのち上京し、働きながら中央工学校で土木を学んでいる。旧帝国大学や有名大学を経て官僚となり、そこから政界へ転じるという経歴ではなかった。

 田中には、出身校や学閥によって自然に形成される強固な人的ネットワークが最初から用意されていたわけではない。だからこそ、自分で人間を探し、自分で値踏みし、自分で人間関係をつくる必要があったとも考えられる。早坂の登用は、その田中らしさをよく示している。過去にどこへ所属していたかではなく、目の前で何ができるかを見る。少なくとも早坂のケースでは、田中はそういう人間の見方をしたように見える。

「俺は十年後、天下を取る」

 一九六二年七月、田中角栄は池田勇人内閣の大蔵大臣に就任した。四十四歳だった。その年の十二月、早坂は田中から大蔵大臣室へ呼ばれたと回想している。そして、そこで田中から「俺は十年後、天下を取る。お前は片棒を担げ」と言われたという。

 あまりにも田中角栄らしい言葉である。ただし、この有名な言葉についても、読み方には慎重さが必要だろう。この会話を伝えている中心的な証言者は早坂自身である。したがって、「一九六二年十二月、田中がこの文言を一字一句そのまま発した」と歴史学的に完全確定しているわけではない。正確に言えば、早坂は後年、「田中からそのように誘われた」と回想しているのである。

 それでも、この回想が強烈な印象を残す理由がある。田中角栄が自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任するのは一九七二年七月だった。早坂を誘った一九六二年十二月から、およそ九年七か月後である。「十年後」という言葉と、現実の総理就任時期が驚くほど接近している。

 もちろん、だからといって田中が一九六二年の段階で十年後の政局を正確に予測していたとは言えない。政治には選挙があり、派閥抗争があり、首相の交代があり、景気や外交情勢まで絡む。それでも、少なくとも田中が自分の将来を一大臣の椅子だけで終わらせるつもりではなかったことは、十分に想像できる。

 早坂によれば、十二月二日に大臣室へ呼ばれ、十二月十日には大蔵大臣秘書官事務取扱となった。ここで一つだけ、事実と推論を分けておかなければならない。田中が「十年後の天下」を意識していた可能性は高いとしても、早坂の採用そのものが十年後の総理就任を見据えた計画的人材戦略だったと証明する史料はない。

 しかし、少なくとも田中が自らの政治的将来を長い時間軸で考えており、その過程で早坂という異質な能力を持つ人物を側近に加えた、と見ることはできる。この違いは小さいようで大きい。歴史をおもしろくするために、証拠のないところまで物語を完成させてしまってはいけない。むしろ、不確かな部分を残しておく方が、田中という人物の巨大さはかえって際立つ。

なぜ新聞記者だったのか

 田中が早坂を欲しがった理由を考えるとき、彼が単に「頭のいい人間だった」からでは説明しきれない。重要なのは、早坂が新聞記者だったことである。

 政治家と新聞記者は、同じ永田町にいても物事を見る方向が違う。政治家は自分が何を実現するかを考えるが、記者はそれが外からどう見えるかを考える。政治家が政策の内容を説明しているとき、記者はその中のどの一言が翌日の見出しになるかを探している。政治家が「これは大した問題ではない」と思っているとき、記者は「ここから問題が起きる」と感じることがある。

 一九六二年のスクープは、まさにその差を田中に突きつけた出来事だった。田中自身が政治家として発言した言葉を、早坂はニュースとして見た。しかも実際に政治問題となった。田中から見れば、それは苦い経験だったに違いないが、別の角度から見れば、早坂は田中の目の前で、自分の能力をこれ以上ないほど分かりやすく実演してみせたことになる。

 どの発言が危険なのか、世間はどこに反応するのか、新聞は何を問題として切り取るのか。政治家が権力を大きくすればするほど、こうした「外から見る目」は重要になる。田中が早坂を登用した理由を一つに決めることはできないが、早坂の記者としての判断力と胆力を田中が高く評価したことは、早坂自身の証言とその後の登用という事実から見ても、かなり自然な解釈である。

左翼だった男を自民党政治家が採る

 さらに興味深いのが、早坂の政治的経歴である。早坂は学生時代、左翼運動に関わっており、後年の自伝でも共産党への入党経験まで記している。

 田中がその経歴を把握していたことについても、早坂は興味深い回想を残している。田中から、公安調査庁にある自分の資料まで読んだという趣旨のことを言われた、というのである。ただし、これも田中側の公文書によって裏付けられた話ではない。正確には、「早坂が田中からそう言われたと回想している」という証言である。

 それでも、早坂の政治的過去が秘書就任の障害にはならなかったこと自体は動かない。これは田中という政治家の人間観を考えるうえで示唆的である。思想的に自分と完全に同じ人間だけを集めれば、組織は一見まとまりやすい。しかし、その代わりに同じものしか見えない組織にもなりやすい。

 新聞社にいた人間、左翼運動を経験した人間、自分に不都合な記事を書ける人間。早坂は、田中とは違うところから政治を見ることのできる人物だった。田中がそこまで意識的に「異質な人材を集めよう」と考えていたかどうかは分からないが、結果として田中は自分とは異なる経歴と視点を持つ人物を、自分の最も近いところへ置いた。そこに、田中の人材登用の柔軟さを見ることはできるだろう。

早坂は田中の「もう一つの目」になった

 早坂茂三は、その後二十三年間にわたって田中の秘書を務める。単なる一時的な登用ではなかった。田中が権力の頂点へ駆け上がる時期も、総理大臣となった時期も、金脈問題によって退陣した後も、ロッキード事件で政治的に追い詰められていく時期も、早坂は田中の近くにいた。田中が病に倒れるまで、その関係は続いた。

 この長さそのものが、一九六二年の選択が単なる思いつきではなかったことを示している。早坂は田中政治の単なる観察者ではなく、その内部に入った人間になった。新聞記者時代には外から田中を見る人間だったが、秘書になってからは内側から田中を見る人間になった。その二つの視点を持っていたからこそ、後年の早坂は田中角栄について数多くの本を書き、政治評論家として独特の存在感を持つことになる。

 考えてみれば、不思議な関係である。田中にとって早坂は、もともと自分の言葉の危険性を外側から見抜いた男だった。その男を、今度は自分のすぐそばに置いたのである。田中が早坂にどのような役割を期待していたのか、そのすべてを史料から再現することはできないが、結果から見るならば、早坂は田中にとって、自分とは違う角度から政治を見る「もう一つの目」に近い存在になっていったように思える。

「敵を味方にした」というだけでは足りない

 田中と早坂の物語は、ともすると「自分を攻撃した記者を懐柔した」という話として語られる。しかし、それだけでは田中角栄という人物のおもしろさを取り逃がす。もし田中が単に敵を減らしたかっただけなら、記者を一人秘書にしても新聞社そのものが味方になるわけではない。

 むしろ重要なのは、早坂が自分を困らせた過程で、能力を見せてしまったことだったのではないか。田中に不都合な発言を記事にする判断力、大物政治家を相手にしても引かない胆力、自分が書いたと本人の前へ出る覚悟、そして政治の内側と外側を往復して見ることのできる記者としての感覚。田中が早坂を「優秀だ」と評価したという早坂の回想は、こうした事実とよく整合する。

 だから、この一本釣りを最も慎重に表現するなら、田中角栄は自分に従順だったから早坂茂三を選んだのではなく、早坂が記者として実際に能力を示し、その判断力と胆力を田中が高く評価したことが、登用の重要な理由だったと考えるのが自然である。そして、その能力が最も鮮烈に現れた場所が、皮肉にも田中自身を困らせたスクープだったのである。

自分を刺した銛を、自分の船へ引き上げる

 人間は、自分に利益をもたらした相手の能力を評価することはできる。難しいのは、自分に損害を与えた相手の能力を評価することである。そこには感情が入る。「あいつのせいで困った」と考える方が自然であり、「それだけの仕事ができる人間なのだ」と考えるには、かなり強い自己制御が必要になる。

 田中が実際にどこまで意識的にそのような判断をしたのかは分からない。しかし起きたことだけを見れば、田中は自分を困らせた新聞記者を排除せず、やがて自らの側近へ転じさせた。これだけでも十分に異例である。

 早坂は知らないうちに、田中角栄の前で自分の能力を証明していた。採用試験でもなく、履歴書でもなく、面接でもない。田中自身を政治的に困らせる一本の記事が、その男の力量を示してしまったのである。そして田中は、その能力を自分への敵意と同一視しなかった。ここに、早坂茂三一本釣りの核心があったのではないか。

 田中は「自分に都合のいい人間」を探していたというより、「使える人間」を見つけた。少なくとも、二人の間に残された事実と早坂の回想を重ねるなら、そう読むのが最も無理が少ない。

 自分を刺した銛が鋭ければ、普通なら捨てたくなる。ところが田中角栄は、その鋭さそのものに価値を見いだし、銛ごと自分の船へ引き上げたように見える。

 一九六二年十二月、早坂茂三は新聞記者から田中角栄の秘書へ転じた。そして約十年後、田中角栄は本当に総理大臣になった。そのとき、かつて田中の発言を記事にして彼を窮地に追い込んだ男は、もう記者席から田中を見てはいなかった。

 権力の頂点へ登った田中の、すぐそばにいたのである。

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 政治家を批判するとき、「裏切った」という言葉ほど強いものはない。選挙で掲げた公約を実行しなかった。昨日まで反対していた政策に賛成した。所属していた政党を離れた。長く支えてきた支持者とは違う方向へ舵を切った。こうした場面に出会うと、私たちはその政治家の一貫性を疑い、さらにその奥にある人格や信用まで疑いたくなる。

 それは決して不合理な反応ではない。民主主義において選挙が意味を持つためには、有権者が「この候補者なら、おおむねこの方向へ進むだろう」と予測できなければならないからである。選挙の翌日に公約をすべて捨てても構わないのであれば、選挙は未来の政策を選ぶ仕組みではなく、単に人物の名前を書く儀式に近づいてしまう。

 実際、政治学の研究でも、公約は私たちが想像するほど無意味ではない。複数の民主主義国を比較した研究では、政権を担った政党が相当部分の公約を実際に実現していることが確認されており、公約をより多く履行した政権ほど次の選挙で評価されやすいという研究もある。つまり、有権者が公約を気にすることにも、政治家が公約を守ろうとすることにも、民主主義の仕組みとして十分な理由がある。

 それでも政治という仕事を少し長い時間の中で眺めると、一つの厄介な問題が浮かび上がる。

 政治家は、本当に「裏切らないこと」だけを目指せばよいのだろうか。

 選挙のときには合理的だった政策が、その後の経済危機や災害、人口変化、新しいデータによって不合理になったとしても、約束した以上は実行すべきなのか。所属政党の方針が住民の利益に反すると判断しても、党を裏切らないために賛成すべきなのか。支持者の要求と社会全体の利益が衝突したとき、政治家はどちらに忠実であるべきなのだろう。

 こうして考えていくと、政治における「裏切り」は、単純な道徳問題ではなくなってくる。

政治家は誰の代理人なのか

 政治家の場合、忠誠を向ける相手が一つではない。有権者から選ばれ、政党に所属し、公約を掲げ、議会の一員となり、同時に自治体や国家全体の利益について判断する立場に置かれる。選挙区の住民、支持者、政党、議会、行政、そしてまだ投票することのできない将来世代まで含めれば、政治家が向き合う利害は最初から重なり合っている。

 しかも、それらがいつも同じ方向を向いているわけではない。

 たとえば、ある地方議員が「この学校は絶対に残す」と訴えて当選したとする。当選した時点では、地域の人口も財政も、その約束を支えられる状態だった。しかし数年後、出生数が予想以上に減り、一学年に数人しかいなくなった。教員配置や教育環境、建物の更新費用、通学時間まで調べてみると、学校を統合し、スクールバスなどの移動手段を充実させた方が子どもたちにとって望ましいという結論に近づいていく。

 ここで議員が統合に賛成すれば、選挙時の約束を裏切ったと言われるだろう。

 しかし、学校を残すという過去の言葉だけを守った結果、現在の子どもたちの教育環境が悪化したなら、その議員は別のものを裏切ったとも言える。つまり、過去の約束に忠実であるために、現在の住民の利益を犠牲にしたことになる。

 政治の難しさは、ここにある。

 何かを裏切らないという行為が、別の何かに対する裏切りになることがある。

バークが考えた「代表する」という仕事

 この問題は、現代だけのものではない。

 18世紀のイギリスの政治家・思想家エドマンド・バークは、議員を選挙区の要求をそのまま運ぶ使者とは考えなかった。議員は有権者の意見を重く受け止めなければならないが、それと同時に、自分自身の知識と判断を使って公共の利益を考える存在であるべきだ、と考えたのである。

 この発想に立てば、政治家は有権者の命令を機械的に実行する装置ではない。

 ただし、だからといって「政治家は自分の好きなように決めてよい」ということにもならない。バーク型の代表観が政治家に与えるのは自由というより、むしろ重い責任である。自分の判断で有権者の期待と異なる決定をする以上、「なぜそう判断したのか」を説明し、その判断について政治的責任を負わなければならないからだ。

 これは民主主義に存在する二つの考え方の緊張でもある。

 一方には、有権者から与えられた意思をできるだけ忠実に実行する代表者像がある。他方には、選ばれた者が情報を集め、熟慮し、場合によっては有権者の目前の要求とは違う判断をする代表者像がある。

 現実の政治は、そのどちらか一方だけでは成り立たない。

 有権者の意思を無視すれば民主主義ではなくなり、反対にその瞬間の多数意見だけを機械的に実行すれば、代表者が判断する意味がなくなってしまう。

公約は未来を知らない時点で作られる

 公約には、避けることのできない性質がある。

 それは、未来を知らない時点で作られるということである。

 選挙が行われたときには存在しなかった感染症が広がるかもしれない。景気が急激に悪化するかもしれない。税収が予想を大きく下回ることもある。巨大災害が発生すれば、財政支出の優先順位は一夜で変わる。人口予測が外れることも、新しい技術によって以前は不可能だった政策が可能になることもある。

 それでも、「公約は一度掲げた以上、何が起きても変更してはいけない」と考えるなら、政治家に期待しているのは判断ではない。選挙の時点で書かれたプログラムを、その後の現実に関係なく実行することになる。

 しかし、政治とは本来、未来が完全には分からない社会で判断を繰り返す仕事である。

 だから、政策変更そのものを直ちに裏切りと呼ぶのは少し粗い。

 問題にすべきなのは、何を変更したかだけではなく、なぜ変更したのかである。

 新しい事実が判明したから変えたのか。前提条件が崩れたから変えたのか。自分の判断が間違っていたと認めて変えたのか。それとも、権力を得た後で自分に都合のよい方向へ動いただけなのか。

 同じ「昨日と言っていることが違う」という現象でも、その中身はまったく異なる。

「不人気な決断」は、それだけでは正しくない

 ここで一つ注意しなければならない。

 政治を論じるとき、しばしば「本当に必要な改革ほど国民には嫌われる」という物語が語られる。病院を統合する。公共施設を減らす。赤字路線を廃止する。負担を増やす。こうした政策は短期的に反発を生みやすく、選挙上の不利益になる場合がある。

 しかし、不人気だから正しいわけではない。

 病院統合が合理的な場合もあれば、医療アクセスを著しく悪化させるだけの場合もある。増税が財政の持続可能性に必要な場合もあれば、単に政策設計が悪い場合もある。公共施設を減らすことが合理化になる場合もあれば、必要な生活基盤を破壊する場合もある。

 政治家が「批判されても改革を断行する」と言ったからといって、その改革が正しいと証明されたことにはならない。

 政治学の研究から比較的確かに言えるのは、政治家の行動が選挙上の誘因から完全に自由ではないという程度である。再選の可能性や選挙制度が議員の行動に影響することは確認されているが、そこから「選挙に不利な政策ほど社会にとって正しい」という結論を導くことはできない。

 だから必要なのは、勇気の演出ではなく根拠である。

 どの政策を変えるのか。その変更によって誰が利益を得て、誰が負担するのか。別の方法はなかったのか。将来の費用まで含めると、本当にその選択が合理的なのか。

 政治家が有権者の期待を裏切ることを正当化できるとすれば、その判断を検証可能な形で説明できる場合に限られるだろう。

「党を裏切る」とは何を意味するのか

 裏切りという言葉がとりわけ強く使われるのが、政党を離れたり、党の方針に反対したりする場面である。

 しかし、ここでも事情は単純ではない。

 ある議員が政策上の重大な対立から離党する場合と、役職や選挙上の利益を得るために有利な政党へ移る場合とでは、同じ「離党」でも意味が違う。実際、海外の議会を調べた研究では、党を移ったという事実だけでなく、なぜ移ったのかによって有権者の評価が異なる可能性が示されている。

 これは直感的にも理解できる。

 「この政策だけは自分の信念と両立しない」と説明して議席や役職を失う覚悟で党と対立する政治家と、選挙に有利だから強い政党へ移る政治家を、まったく同じ裏切りとして扱うのは難しい。

 だから、政治における一貫性を測るときには、所属先だけを見るのでは足りない。

 何を守ろうとして立場を変えたのかを見る必要がある。

未来の住民は投票所に来ない

 政治には、もう一つ厄介な問題がある。

 時間である。

 現在の政策決定によって影響を受けるのは、現在の有権者だけではない。道路や上下水道、公共施設、国債、年金制度、環境政策、都市計画などは、数十年後の住民にも影響を与える。

 ところが、20年後にその地域で暮らす人々は、今日の選挙には参加できない。

 そのため民主政治には、短い選挙周期の中では将来世代の利益が現在の有権者の要求より弱くなりやすい、という問題が生じることがある。これは政治学で「政治的短期主義」として研究されてきた問題の一つである。

 もちろん、民主主義だから必ず未来が犠牲になるわけではない。現在の有権者も、自分の子どもや孫の生活を考える。財政規律や環境保護を支持する人もいるし、制度によって長期的な政策を守ることもできる。

 それでも、現在の有権者には一票があり、まだ生まれていない人には一票がないという非対称性そのものは消えない。

 この事実を考えると、「支持者を裏切らない政治」という言葉の意味も変わって見えてくる。

 すべての道路を残す。すべての公共施設を維持する。負担は増やさない。サービスも減らさない。それは現在の住民にとって魅力的であり、政治家にとっても説明しやすい。

 しかし、その費用は消えてなくならない。

 借金になり、更新費になり、人手不足になり、将来の住民が選べる政策の幅を狭めていく。

 現在の支持者を裏切らないために未来の選択肢を削っているのだとすれば、それもまた政治的な忠誠のあり方として検討されなければならない。

「状況が変わった」は便利な言葉でもある

 ここまでなら、「では政治家は状況に応じて自由に公約を変えればよい」という話に聞こえるかもしれない。

 しかし、そこには危険な落とし穴がある。

 権力を持つ側にとって、「状況が変わった」「国民のためだ」「苦渋の決断だった」という説明ほど便利な言葉はないからである。

 選挙前には反対していた政策を、権力を得た途端に支持する。既得権益を改革すると訴えていたのに、政権を取ると既存の利害関係に取り込まれる。政策上の理由ではなく役職や党内での立場を守るために態度を変える。それらまで「現実的な政治」と呼んでしまえば、公約も政治的責任も意味を失う。

 そこで、正当化可能な政策変更と、単なる政治的裏切りの境界が必要になる。

 その境界を完全な数式のように引くことはできないが、判断材料はある。

 何が変わったのかを具体的に説明できるか。変更前の判断のどこが誤っていたのかを認めているか。変更によって誰が利益を得るのかを公開できるか。自分自身や特定の支持団体だけが利益を得る構造になっていないか。以前の公約を維持する場合と変更する場合を比較した根拠が示されているか。

 そして何より、その変更について有権者の審判を受ける意思があるか。

 民主主義において正当化される方針転換とは、責任から逃れるための変節ではない。

 むしろ、「以前の自分の判断は誤っていた」「状況が変わったのでこの政策は維持できない」と説明し、その結果として支持を失う可能性まで引き受ける行為でなければならない。

一貫性とは、同じことを言い続けることなのか

 私たちは政治家に一貫性を求める。

 それ自体は正しい。昨日と今日で都合よく言うことを変える政治家ばかりになれば、選挙による選択も責任追及も成り立たなくなる。

 しかし、一貫性という言葉には二つの意味が混ざっている。

 一つは、判断基準の一貫性である。

 誰の利益を重視するのか。公平性と効率性をどう考えるのか。現在世代と将来世代をどう扱うのか。そうした価値判断の軸を保ちながら、新しい情報に応じて政策手段を変える。

 もう一つは、発言内容の一貫性である。

 状況が変わっても、「以前そう言ったから」という理由だけで同じ政策を続ける。

 政治に本当に必要なのは、後者より前者ではないだろうか。

 人口が増え続けることを前提につくられた公共施設を、人口が半分になっても維持することが信念なのか。成長期につくられた制度を、その前提条件が失われたあとも変えないことが一貫性なのか。

 それはもしかすると、現在の社会に忠実なのではなく、過去の自分に忠実なだけなのかもしれない。

「裏切り」が必要なのではない

 ここまで考えてくると、最初の問いにも少し違った答えが見えてくる。

 政治に「裏切り」が必要なのかと問われれば、厳密には少し違う。

 必要になることがあるのは、裏切りそのものではない。

 新しい事実によって以前の判断が維持できなくなったとき、過去の公約や所属政党、支持者の目前の要求と異なる方向へ進むことである。

 公約違反、政策変更、離党、党の方針への反対、支持者の要求への拒否は、日常語ではすべて「裏切り」と呼ばれることがある。しかし政治学的に見れば、それらは同じ行為ではない。動機も違えば、民主主義に与える影響も違う。

 だから評価すべきなのは、「裏切ったか、裏切らなかったか」という一語ではない。

 何を守るために、何を変更したのか。

 そこを見る必要がある。

 政治家が決して裏切ってはならないものがあるとすれば、それは過去に口にした一つ一つの言葉ではないだろう。政党そのものでも、特定の支持団体でもない。

 それは、政治によって影響を受ける人々の利益について考え続け、その判断を説明し、結果について責任を負うという、代表者としての役割ではないだろうか。

 その責任を守ろうとすれば、ときには公約を修正し、党と対立し、支持者を説得し、そして昨日までの自分自身を否定しなければならないこともある。

 だから政治に必要なのは、「絶対に裏切らない政治家」ではないのかもしれない。

 必要なのは、何を変え、なぜ変えたのかを説明できる政治家である。そして、より大きな責任を守るために過去の約束を変えたのだと言うのであれば、その判断が間違っていたと有権者から裁かれる可能性まで引き受ける政治家である。

 政治において問われるべきなのは、裏切ったという事実だけではない。

 その政治家が、最後まで何を裏切らなかったのかなのである。

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