地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 地方議会を傍聴すると、議員が演壇に立ち、地域交通、高齢者福祉、学校教育、観光、防災、道路整備と、行政が抱えるさまざまな問題について首長や担当部長に問いを投げかけていく。議員が質問し、行政側が答弁し、必要なら再質問が行われ、持ち時間が終われば次の議員へ移るという光景は、地方政治の中でも住民にとって最も「議員が仕事をしている」と感じやすい場面だろう。しかし、議場のマイクが消えたあとに一つだけ問いを残してみると、一般質問という制度の別の姿が見えてくる。その質問によって、町は実際に何か変わったのだろうか。

 もちろん、一般質問そのものに意味がないわけではない。むしろ地方議会にとって、行政がこれまで十分に説明してこなかった問題を公の場所へ引き出し、首長や幹部職員に公式な見解を示させる機能は重要である。一般質問は地方自治法に独立した一つの制度として細部まで規定されているというより、地方議会の運営の中で定着してきた仕組みだが、行政監視や政策提案、住民への情報公開という役割を担ってきた。一人の住民が感じていた不便や疑問が議員を経由して議場に持ち込まれ、それまで行政内部だけで扱われていた問題が町全体の課題として共有されることもある。

 その意味で一般質問は、政策をその場で決定する装置というより、行政が無視できない問いを公開の場所に置く装置と考えた方が実態に近い。首長が「現在は実施する予定がない」と答えれば、それも一つの政策判断として記録に残り、「必要性は認識している」「今後研究する」と答えれば、その認識もまた公式な答弁として残る。議事録に刻まれた言葉には、行政内部の会議では得られない公開性があるため、一般質問にはそれだけでも一定の価値がある。

 しかし、ここで問題になるのが、問いを投げたこと自体が議員活動の成果として自己完結してしまう場合である。「今回も一般質問を行いました」「三つの問題について質問しました」「町長に改善を求めました」といった活動報告は珍しくないが、質問したという事実と政策が変わったという事実の間には、かなり大きな距離がある。一般質問に立った回数や発言の多さが活動量を示す材料として扱われる例は確かにあるものの、それが全国すべての地方議会に共通する評価方法だとまで断定することはできない。それでも、質問という行為が写真にも動画にも文章にもなりやすく、有権者に伝えやすい政治活動であることは間違いない。

 その一方で、予算書を読み込み、決算資料を何年分も比較し、担当課から資料を取り寄せ、制度の問題点を調査し、他の議員と意見を調整する仕事は、外からほとんど見えない。実際にはそうした地味な作業の方が政策形成に重要な場合があるにもかかわらず、本会議で首長と向かい合う姿の方が政治活動としてはるかに分かりやすいため、政策の成果より政治の光景の方が評価されやすくなる危険が生まれる。

 たとえば、高齢者の買い物支援について議員が一般質問し、「高齢化が進むなか、買い物に困る住民への支援を考える必要があるのではないか」と行政へ尋ねたとする。行政が「重要な課題と認識しており、今後研究していく」と答えれば、その日の議会だけを見れば一定の成果があったようにも見える。しかし、その後一年たっても調査が行われず、二年たっても予算に現れず、三年後に再び同じ質問が繰り返されているならば、最初の質問が政策形成のどこまで進んだのかを改めて考える必要がある。

 ここで注意しなければならないのは、一般質問の後に政策が変わったからといって、直ちに「一般質問によって政策が変わった」とは言えないことである。これは政治を科学的に見るうえで非常に重要な問題であり、時間的に前後して起きた二つの出来事と、その一方がもう一方を引き起こしたという因果関係とは区別しなければならない。

 ある議員が買い物支援を質問した半年後に移動販売への補助制度が始まったとしても、行政内部では質問以前から制度設計が進んでいた可能性がある。国や都道府県が新たな補助制度を始めたのかもしれず、住民団体から以前から要望が出ていた可能性もあれば、首長の政策判断や担当職員の提案が主要な原因だった可能性もある。したがって、「質問の後に政策が実施された」という時間的な関係だけでは、質問そのものの効果を証明したことにはならない。

 これは一般質問の効果を測ることの難しさでもある。政策は、一人の議員の発言だけで生まれることは少なく、住民の需要、行政内部の検討、国や都道府県の制度、財政状況、首長の判断、他の議員の働きかけ、社会環境の変化などが重なって形成される。そのため「一般質問は政策を変えているのか」という問いに対して、全国の地方議会について単純な割合を示し、「何%の質問が政策を変えた」と答えられるほど十分な統計が整っているわけではない。

 だから、この問いへの最も慎重な答えは、「一般質問が政策変更の契機になることはあるが、一般質問だけによる効果を切り分けて測定するのは難しい」ということになる。一般質問によって行政が初めて調査を始めたことが資料から確認でき、その後予算化され、担当部署が質問を契機として制度を設計したことまで確認できれば、質問の寄与はかなり強く推定できる。しかし行政計画が質問以前から存在していたならば、一般質問は政策変更の原因というより、すでに進んでいた政策を表面化させた可能性もある。

 それでも、一般質問の価値を測る方法がまったくないわけではない。質問が行われたという入口だけを見るのではなく、その後どこまで政策が進んだのかを追跡すればよいのである。質問しただけで何も変化していない段階、行政が調査や研究を始めた段階、政策方針や答弁が変化した段階、予算や計画、条例、要綱などに反映された段階、実際の事業として実施された段階、さらに実施後の効果を検証して改善まで行われた段階というように、政策の進行を連続した過程として見ることができる。

 仮にそれを便宜的に零から五までの六段階で捉えるならば、質問しただけで変化がないものを零、行政が調査を開始したものを一、方針が変わったものを二、予算や制度に反映されたものを三、事業として実施されたものを四、実施後の効果検証や改善まで進んだものを五とすることができる。もちろん、この数字自体に絶対的な意味があるわけではないが、「何回質問したか」より「質問した問題がどこまで政策として進んだか」を見る方が、議員活動の実質を測る指標としてははるかに情報量が多い。

 さらに精密に分析するなら、その政策変更に一般質問がどの程度寄与したのかも別に評価する必要がある。行政が質問以前から検討していたのか、質問後に初めて担当部署が調査を始めたのか、予算説明や行政資料の中で質問が政策変更の契機として言及されているのかを確認すれば、単なる前後関係と因果関係をある程度区別できる。政治の世界では完全な実験を行うことは難しいが、少なくとも「質問した後に政策が変わったから、その議員が変えた」という単純な物語から距離を置くことはできる。

 この視点に立つと、「毎回一般質問をしている議員ほど優秀なのか」という問いにも別の答えが見えてくる。質問回数は活動量の一部を示すことはあっても、それだけで政策形成能力を測ることはできない。十回質問して十回とも「研究します」という答弁で終わり、その後何も追跡しなかった場合と、一つの課題について二年間調査を続け、他の議員と合意をつくり、予算や制度変更まで到達させた場合とでは、政策的な成果は同じではない。

 もっとも、ここでも議員一人だけに政策結果を背負わせるのは適切ではない。地方議会は個々の議員が活動する場所であると同時に、複数の議員が議決を行う合議制の機関でもある。一人の議員が一般質問で提案しても、他の議員が支持するとは限らず、条例や予算の変更には議会全体の判断が必要になる場合がある。行政側にも財政、人員、法令、既存事業との整合性があり、優れた提案だからといって直ちに実現できるわけではない。

 したがって、政策を変える能力とは、質問する能力だけではない。地域の問題を見つけ、その原因を調べ、数字や資料で裏付け、実現可能な政策案へ加工し、行政や他の議員と議論し、必要なら住民の理解を得ながら制度化へ進み、実施後にも結果を確認するという長い工程全体に関わる能力である。一般質問はその途中にある重要な道具ではあるが、それだけを切り取って議員活動全体と考えるならば、政策形成という長い物語から、最も目立つ一場面だけを取り出して評価していることになる。

 それでも一般質問が政治的に強い存在感を持つのは、そこに劇場性があるからだろう。議員が問い、首長が答えるという構図には対立と緊張があり、住民にとって理解しやすい。予算書の数字を比較する作業や、担当課との地道な協議よりも、議場で「町長に問う」姿の方が政治らしく見える。そのため、議員側も活動報告に一般質問を載せやすく、住民側も一般質問の回数や内容を議員評価の材料にしやすい。

 この構造そのものを悪いと決めつける必要はない。住民に議会活動を伝えるためには、分かりやすさも必要だからである。しかし、その分かりやすさが評価のすべてになった瞬間に、政治には一種の逆転が起きる。政策を変えるために質問するのではなく、活動している姿を示すために質問するという方向へ傾く可能性が生まれるからだ。

 この問題は、一般質問だけの問題ではなく、政治の成果を何によって測るのかという、もっと大きな問題につながっている。測定しやすいものが、必ずしも重要なものとは限らない。質問回数、発言時間、議会報告の回数などは数字にしやすいが、政策の質、合意形成への貢献、無駄な事業を止めた効果、行政の判断を改善した影響などは簡単には数字にならない。それでも、人は測りやすい数字を評価指標に使いたくなる。

 この性質は政治に限らない。学校で試験の点数だけを重視すれば試験対策が増え、企業で営業件数だけを評価すれば件数を増やす行動が強くなる。同じように、議員活動を質問回数で評価するならば、質問は増える可能性がある。しかし、質問の数が増えることと、住民の暮らしが改善することは同じではない。評価指標が行動を変える以上、何を成果として測るのかは慎重に考えなければならない。

 だからこそ、一般質問を減らすことよりも、「一般質問のその後」を見えるようにすることの方が重要である。過去にどの議員が何を質問し、そのとき行政はどう答え、その後調査が始まったのか、予算に反映されたのか、制度が変わったのか、事業が実施されたのか、そして結果はどうだったのかを継続して確認できる仕組みがあれば、一般質問の意味は大きく変わる。

 実際、過去の一般質問がその後の町政へどう反映されたかを追跡する地方議会も存在する。こうした取組が示しているのは、一般質問を一回限りの発言として扱うのではなく、政策形成の履歴として残すことが可能だということである。質問の直後には「研究します」としか答えられなかった問題が、二年後に制度として実現することもあれば、逆に何年たっても動かないこともある。その時間の流れまで見なければ、質問の価値は十分には分からない。

 議員自身の活動報告も、「一般質問を行いました」で終わらせる必要はない。「二年前に取り上げた問題について行政の調査が始まり、翌年度に実証事業が行われ、今年度から本格実施された」と報告すれば、住民は質問から政策実施までの過程を見ることができる。反対に、「三年間提案したが実現しなかった」と説明することにも意味がある。議員の提案が常に正しいわけではなく、財政的に実施できない場合や、調査の結果として必要性が低いと判断される場合もあるからだ。

 政策が実現しなかったことをすべて失敗と考える必要もない。むしろ、調査した結果として当初の提案に問題があることが分かり、実施を見送ったのであれば、それも政治の一つの成果である。重要なのは「私が実現しました」という成功談だけを並べることではなく、課題が提起され、どのような検討が行われ、何が判断され、その結果として何が起きたのかを住民が追えることである。

 住民側の議会を見る視点も、そこから少し変わってくる。「あの議員は毎回質問している」という評価だけでなく、「去年質問していた問題はその後どうなったのだろう」と考えるようになれば、議員に求められる能力も変わる。発言の巧さだけでなく、資料を読む力、問題の原因を分析する力、実行可能な政策へ組み立てる力、他者と合意をつくる力、予算を検証する力、そして一度取り上げた問題を数年後まで追跡する力が見えるようになる。

 一般質問は地方議会に必要である。行政が答えにくい問題を公開の場所で問い、住民が感じていた小さな違和感を政治の議題へ変え、首長の判断を公式記録として残す働きには大きな意味がある。しかし、それだけで政策が変わったと考えることも、質問回数だけで議員の働きを評価することも適切ではない。

 一般質問はゴールではなく、政策形成の入口の一つである。問いを投げたあとに行政が調べ、議会が議論し、必要なら予算や制度が変わり、実施された政策が住民の生活にどのような影響を与えたのかまで確認して、初めて一つの政策過程が見えてくる。そこまで追ってみれば、華々しく見えた質問がほとんど何も生まなかったこともあれば、地味な一つの問いが数年後に大きな制度変更へつながっていたことも分かるだろう。

 議場では今日もマイクが点灯し、議員が首長へ問いを投げかけている。その光景を見たとき、私たちは「良い質問だった」「厳しく追及していた」という感想だけで終わらず、もう一つの問いを持っていた方がよい。

 この質問によって、一年後の町は何が変わっているのだろうか。

 そして一年後、その答えを確かめに行くことまで含めて議会を見るようになったとき、一般質問は単なる政治の舞台から、政策が生まれ、あるいは生まれなかった過程を検証するための記録へ変わっていくのだろう。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る