地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

知名度は民主政治の「能力」なのか、それとも「資源」なのか

 選挙になると、ほとんど条件反射のように聞こえてくる言葉がある。「またタレント候補か」「有名人を出せば票が取れると思っている」「政治を人気投票にするな」。俳優、スポーツ選手、アナウンサー、文化人など、すでに広く知られた人物が立候補すると、その人の政策や準備状況を検討する前から、「人気だけ」という判決が下されることさえある。しかし、この批判には一つ厄介な問題がある。私たちは「人気で政治家が選ばれること」を嫌いながら、民主政治そのものが、人々に知られ、支持され、一票を託されなければ成立しない制度であることを、ときどき忘れてしまうのである。

 もちろん、有名であることと政治家として有能であることは同じではない。俳優として成功したから国家予算を読めるわけではなく、オリンピックでメダルを取ったから社会保障制度を設計できるわけでもなく、テレビ番組で気の利いた発言ができることと、法律の条文を読み込み、行政組織を動かし、複雑な利害を調整することの間には明らかな距離がある。したがって、「有名だから政治家に向いている」という推論は、論理的にも科学的にも成立しない。

 しかし、ここで話を終えてしまうと、反対方向にも同じ間違いを犯すことになる。「有名だから政治家として能力が低い」という推論もまた、根拠がないからである。タレント経験のある候補者集団が、それ以外の候補者集団より平均的に政治能力が低いという事実が確認されていない以上、「タレント候補だから中身がない」と最初から決めつけることは、候補者の能力を評価したことにはならない。それは職歴から能力を推定しているにすぎず、実のところ「芸能人だから駄目」という判断も、「元官僚だから優秀」「弁護士だから法律に強い」「経営者だから経済に強い」といった肩書による評価と、構造的にはそれほど違わない。

 ここで問題になるのが、政治家をどのような能力によって評価するのかという、もう少し深い問いである。政策知識だろうか、学歴だろうか、行政経験だろうか、それとも法律や経済への理解度だろうか。確かに、こうした能力はいずれも重要である。しかし、それだけが政治家の能力だと考えるなら、選挙という仕組みはずいぶん奇妙な制度になる。政治家として必要な知識を試験で測り、得点の高い順に議席を与えた方が効率的だからである。それでも私たちがその制度を採用しないのは、政治家が単なる専門家ではなく、市民から権力を預かる代表者だからである。

 民主政治の厄介さは、政治家が専門能力と代表能力の両方を求められるところにある。政策に詳しいだけでは足りず、その政策を人々に説明し、異なる意見を持つ人々の声を聞き、ときには妥協し、最終的な判断について責任を負わなければならない。どれほど優れた制度を考えても、それを社会に伝えられず、理解も支持も得られないのであれば、民主政治の中で実行することは難しい。政治とは、知識の競争であると同時に、信頼を形成し、人々との関係をつくる仕事でもある。

 だからといって、知名度そのものを「政治能力」と呼ぶのは正確ではない。ここは明確に区別した方がよい。知名度は政治能力そのものではなく、選挙において非常に強い「政治資源」である。候補者の名前を知っている、有権者が顔を認識できる、過去にどのような人物だったかについて何らかの印象を持っているという状態は、その候補者が自分の政策を届ける入口をすでに持っていることを意味する。

 無名の候補者は、まず自分が存在することを知ってもらわなければならない。ポスターを貼り、駅前に立ち、街宣車で名前を繰り返し、地域を回りながら、ようやく「この名前を聞いたことがある」という段階にたどり着く。一方、著名人はその最初の壁をすでに越えている。選挙という競争だけを見れば、この差は小さくない。

 政治学や行動科学では、有権者がすべての候補者について完全な情報を集めることは現実的ではないと考えられている。仕事があり、家事があり、子育てや介護があり、日々の生活がある中で、立候補者全員の政策集を読み、過去の発言を確認し、財政政策や外交政策を比較し、さらにその実現可能性まで検証することを全有権者に求めるのは無理がある。情報を調べるためには時間も労力も必要であり、その費用に比べて、自分一人の一票が選挙結果を変える可能性は極めて小さいため、有権者が政治情報の収集に無限の時間を使わないことには、それなりの合理性がある。

 この考え方は、政治学では「合理的無知」と呼ばれてきた。有権者が愚かだから政治について知らないのではなく、限られた時間や労力を仕事、家庭、趣味、健康などにも配分しなければならない以上、政治情報への投資を一定のところで止めることには合理性があるという考え方である。民主政治は、全有権者が政治学者になることを前提として設計されているわけではない。

 そこで人間は、複雑な判断を簡略化するための手掛かりを使う。所属政党、現職か新人か、職歴、過去の実績、推薦団体、話し方、人物像、そして知名度などである。こうした判断方法をヒューリスティクス(heuristics・複雑な判断を簡略化する認知上の手掛かり)という。ヒューリスティクスを使った判断がいつも正しいわけではないが、情報が限られた環境で人間が意思決定する以上、完全に排除することも難しい。

 その中で、「名前を知っている」ということも一つの手掛かりになる。日本の選挙を利用した研究でも、候補者名が認識されやすい条件が得票に影響し得ることが示されているほか、海外の実験研究でも候補者名の認知が支持に影響する場合が確認されてきた。一方で、近年の追試では、単に名前を繰り返し見せれば支持が上昇するという単純な効果は十分に再現されていない。つまり、現在の研究から言えるのは「知名度は条件によって投票に影響し得る」というところまでであり、「有名になれば自動的に票が増える」とまで単純化することはできない。

 ここは、タレント候補を論じるうえで非常に重要である。知名度は選挙において有利に働く可能性が高いが、それだけで当選が決まるわけではない。所属政党、候補者本人の評価、政策、選挙区の事情、現職効果、資金、組織力、報道量など、さまざまな要因が同時に作用する。したがって、タレント候補が当選したからといって、「知名度だけで当選した」と断定することも、科学的には慎重であるべきだ。

 統計学の言葉を借りれば、ここには「交絡」の問題がある。著名人は、単に名前が知られているだけではなく、人前で話す経験が豊富かもしれないし、メディアの扱い方に慣れているかもしれないし、政党から有力候補として手厚い支援を受けているかもしれない。反対に、著名人だからこそ過去の言動を厳しく調べられ、失言やスキャンダルが広く報道されることもある。したがって、「知名度」と「得票」の関係だけを見ても、その背後に何が働いているのかは簡単には分からない。

 同じことは政治能力についても言える。知名度が高い人物ほど政治能力が高いという関係は証明されておらず、逆に知名度が高い人物ほど政治能力が低いという関係も証明されていない。知名度は能力そのものではなく、候補者について何らかの情報を与える可能性のあるシグナルにすぎないのである。そして、そのシグナルがどれほど有用なのかは、知名度が何によって形成されたかによって大きく変わる。

 例えば、十年以上にわたって社会活動を続け、その中で多くの人に知られるようになった人物の知名度と、一時的にテレビ番組に大量出演したことで生まれた知名度は、同じ数字で表されるとしても意味は違う。スポーツ選手として長期間チームをまとめてきた人物なら、組織管理やプレッシャー下での意思決定について経験を持っているかもしれない。しかし、それが財政政策や外交政策への理解を保証するわけではない。重要なのは「有名である」という結果だけを見るのではなく、その知名度がどのような経験から生まれ、政治家として何に転換できるのかを見ることである。

 これは情報の問題として考えると、さらに分かりやすい。私たちが本当に知りたいのは候補者の政治能力だが、その能力を投票前に完全に観察することはできない。そのため、経歴や実績、所属政党、発言、知名度といった観察可能な情報から、見えない能力を推測することになる。もし知名度が政治能力について何らかの情報を含んでいるのであれば判断材料にはなるが、知名度と政治能力がまったく関係していないのであれば、名前を知っているという事実だけから能力を推測することはできない。

 つまり、「有名だから優秀」という判断も、「有名だから中身がない」という判断も、統計的には同じ誤りを犯す可能性がある。私たちが知らなければならないのは知名度の大きさではなく、その知名度の背後にある情報なのである。

 ここまで考えると、タレント候補への批判の仕方にも修正が必要になる。問題なのは、芸能人やスポーツ選手が政治に入ってくることではない。問題なのは、政党がその人物の政治的準備や適性を十分に検証せず、「この人なら名前だけで票が取れる」と考えて候補者にする場合である。

 これはかなり重要な違いである。前者を批判すれば、政治の世界に入れる職業を事実上制限することになるが、後者を批判するのであれば、候補者選定の質を問うことになる。民主政治にとって必要なのは、政治家一家、官僚、政党職員など限られた経路だけから候補者を供給することではなく、社会のさまざまな分野から政治に参加する人が現れ、そのうえで同じ基準によって能力を評価されることである。

 むしろ不思議なのは、タレント候補の知名度には厳しい視線が向けられる一方、既存政治家の知名度については同じほど疑問が向けられないことである。何期も当選した現職議員は、当然ながら名前も顔も知られている。世襲候補なら、本人が政治活動を始める以前から名字そのものが地域の政治ブランドになっていることさえある。それにもかかわらず、芸能人が持ち込む知名度だけを「不純な人気」と呼ぶのであれば、評価基準には一定の偏りがある。

 ただし、ここでも単純な同一視は避けなければならない。現職議員の知名度には、過去に選挙で選ばれたこと、議員として活動したこと、政治的判断の実績が存在することなどの情報が含まれている。一方、芸能活動によって形成された知名度は、必ずしも政治的実績について何も教えてくれない。どちらも「知っている名前」ではあるが、有権者に伝えている情報の中身は同じではないのである。

 したがって、「タレントも現職も有名なのだから同じだ」と言ってしまうのも正確ではない。より妥当なのは、どの候補者にも「既知であることによる優位」は存在し得るが、その知名度が政治家としての能力についてどの程度の情報を含むのかは、それぞれ異なると考えることだろう。

 ここで、もう一つ見落としてはいけない問題がある。私たちはタレント候補に対して「人気だけで選ぶな」と言うが、そもそも政策だけで候補者を選ぶことも、それほど簡単ではない。選挙公約には魅力的な言葉が並び、財源の説明が十分でない政策もあれば、前提条件を変えれば結果が大きく変わる試算もある。政策集を詳しく読んだからといって、その実現可能性まで正しく評価できるとは限らない。

 さらに、候補者本人が政策集のすべてを書いているわけでもない。政党スタッフ、秘書、専門家などが政策形成に関与することは珍しくなく、文章が精緻だから本人の政治能力が高いと単純に判断することもできない。結局、有権者は政策だけでなく、「この政策を語っている人物は信頼できるのか」「分からないことを学ぶ姿勢があるのか」「専門家の話を聞けるのか」「失敗したときに説明責任を果たすのか」という人物評価まで含めて判断するしかない。

 この意味で、人々に伝える能力は確かに政治家として重要である。ただし、ここにも一つ注意が必要である。知名度とコミュニケーション能力を同じものとして扱ってはいけない。非常に有名でありながら説明能力の低い人物もいれば、ほとんど知られていなくても複雑な政策を分かりやすく説明できる人物もいる。

 因果関係として考えるなら、コミュニケーション能力が高いために多くの人に知られるようになることはあり得るが、有名だからコミュニケーション能力が高いとは限らない。この向きの違いは大切である。テレビへの露出量、所属事務所、出演作品の成功、競技成績、時代的な流行など、本人の説明能力とは別の理由で知名度が形成されることはいくらでもある。

 だからこそ、有権者が見るべきなのは「人気があるかないか」という単純な二分法ではなく、その人物が何によって支持され、どのような能力を持ち、何を学び、分からない問題にどう向き合うのかという複数の情報である。政治家に必要なのは、すべてを自分一人で知っていることではない。現代国家の政策領域はあまりに広く、税制、医療、外交、安全保障、教育、エネルギー、科学技術、社会保障のすべてに一人で精通することなど不可能だからである。

 むしろ重要なのは、自分が知らないことを認識し、専門家の意見を聞き、異なる立場の説明を比較し、そのうえで政治的責任を引き受けて判断する能力だろう。そこには知識だけでなく、学習能力、判断力、説明力、倫理性、交渉能力などが関わってくる。政治能力とは、本来一つの数字では測れない多次元的な能力なのである。

 そう考えると、「タレント候補」という言葉そのものが、かなり粗い分類であることが分かる。数十年間社会問題に関わってきた著名人もいれば、選挙直前まで政治にほとんど関心を示してこなかった著名人もいる。同じ「元タレント」というラベルで、この二人を同じように評価することに意味はない。

 それは「元官僚」や「弁護士」でも同じである。官僚だったという経歴から行政制度への一定の知識を推測することはできるが、政治家としての調整能力や説明能力まで保証されるわけではない。弁護士であれば法律知識を期待できるが、経済政策や外交能力まで自動的に備わるわけではない。肩書は候補者について何らかの情報を与えるが、政治能力を丸ごと説明するものではない。

 ここまで来ると、「タレント候補は人気だけだ」という言葉が、かなり奇妙に見えてくる。候補者の政策、過去の活動、学習姿勢、説明能力を確認したうえで、「この人物には知名度以外に政治家として評価できるものがほとんどない」と結論づけるのであれば、それは正当な批判である。しかし、候補者が芸能人だったというだけで「人気だけ」と判断するのであれば、その批判は本人の政治能力を検証していない。

 皮肉なことに、それは「名前を知っているから投票する」という行為とよく似ている。前者は知名度を見ただけで肯定し、後者は知名度を見ただけで否定する。方向は正反対だが、どちらも候補者本人を十分に評価せず、一つの特徴だけから全体を判断しているという点では同じである。

 民主政治は、候補者の真の能力を完全に測定してから投票できる制度ではない。私たちはいつも不完全な情報の中で人を選ばなければならない。そのため、知名度、経歴、政党、政策、実績、人物像など、いくつもの情報を組み合わせながら判断するしかない。重要なのは、その中の一つだけを絶対視しないことである。

 だから、知名度は民主政治における「能力」なのかと問われれば、厳密な答えは「それ自体は能力ではない」となる。しかし、知名度は候補者が有権者に届くための重要な政治資源であり、場合によっては候補者について何らかの情報を伝えるシグナルにもなる。そのため、民主政治から完全に切り離すこともできない。

 そして、知名度という資源を持っていること自体を非難するより、その資源を何に使うのかを見る方がはるかに重要である。議席を得るためだけの広告塔として使うのか、それとも多くの人に政治を説明し、これまで政治と距離のあった人々を公共的な議論へ引き込むために使うのか。同じ知名度でも、その使われ方によって民主政治に与える意味は大きく変わる。

 政党についても同じである。著名人を候補者にすること自体を問題視するのではなく、その人物をなぜ候補者にしたのかを見るべきである。政策形成能力、社会経験、説明能力などを評価した結果なのか、それとも候補者名簿に有名な名前を載せれば票が増えるという計算だけなのか。後者であれば、批判されるべきなのはタレント本人の出自よりも、候補者を得票装置として扱う政党の選考姿勢だろう。

 民主政治は、少し不格好な制度である。最も賢い人物を試験で選ぶ制度でもなければ、最も政策知識の多い人物に自動的に権力を与える制度でもない。さまざまな経歴を持つ人間の中から、市民が「この人物に一定期間、権力を預ける」と決める仕組みである以上、政策だけでなく、信頼、説明力、人物像、実績、知名度といった人間的で曖昧な要素が入り込むことは避けられない。

 その曖昧さは民主政治の弱点でもあるが、同時に民主政治そのものでもある。もし政治能力を完全に客観評価できるのであれば、選挙など必要ない。しかし現実には、政治能力そのものを完全には観測できないからこそ、私たちは不完全な情報を持ち寄りながら代表者を選んでいる。

 だからこそ、タレント候補を「人気だけ」と笑う前に、一度問い直してみる必要がある。その人物は本当に人気しか持っていないのか。それとも私たちが、元芸能人、元スポーツ選手という肩書を見た瞬間に、その先を調べることをやめているだけなのか。

 知名度だけで候補者を選ぶ社会は危うい。しかし、知名度が高いというだけで候補者を低く評価する社会もまた、合理的とは言えない。知名度は政治能力そのものではないが、民主政治の中では無視できない政治資源であり、それが何を意味するのかは候補者ごとに検証しなければならない。

 結局、タレント候補をめぐる本当の問いは、「有名人を政治家にしてよいのか」ではない。もっと厄介で、逃げることのできない問いは、「私たちは候補者の何を見て、政治家としての能力を判断しているのか」である。

 その問いを避けたまま、「有名だから選ぶ」のであれば危うい。しかし、「有名だから駄目だ」と切り捨てるのであれば、それもまた同じくらい危うい。民主政治に必要なのは、人気を嫌うことでも、人気を信じることでもなく、その人気の背後に何があるのかを見ようとすることである。

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