地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家は、世論に従うべきなのだろうか。それとも、ときには世論が追いつく前に進むべきなのだろうか。民主主義では、政治家は選挙によって国民から権力を預けられる以上、世論を無視することはできない。しかし外交や安全保障のように、国際情勢が短期間で大きく動く分野では、国民の意見が十分に固まるまで待っている間に、国家として選択できる道そのものが狭くなることもある。1972年、田中角栄内閣が実現した日中国交正常化は、この難問を考えるうえで、半世紀以上を経た現在でも極めて興味深い事例である。

 もっとも、この出来事を「田中角栄という強力な政治家が、国民や官僚がためらうなかで一人だけ未来を見抜き、中国との国交正常化を実現した」と描いてしまえば、物語としては分かりやすいものの、歴史の実像からは離れてしまう。1972年9月29日、日本政府と中華人民共和国政府が北京で共同声明に調印し、両国の外交関係が樹立されたことは疑いない。しかし、その道筋は田中一人によって突然生み出されたものではなく、それ以前から政治家、経済界、民間団体などによる交流が長く積み重ねられ、日本国内でも中国との関係を改める必要性が徐々に意識されるようになっていた。

 さらに、日本だけを見ていては、この出来事の意味を十分に理解できない。1971年には、中華人民共和国が国際連合における中国の代表権を得て、国際社会における中国の位置づけそのものが大きく変わった。翌1972年2月には、それまで中国と厳しく対立してきた米国のリチャード・ニクソン大統領が北京を訪れ、毛沢東主席や周恩来首相との会談を行っている。米国と中国の正式な国交正常化は1979年まで待たなければならないが、1972年の時点で東アジアの外交構造が動き始めていたことは明らかであり、日本が従来の中国政策を維持し続けることにも、次第に大きな政治的コストが生じるようになっていた。

 ところが、外交政策は国際環境が変化したからといって、自動的に同じ速度で変わるわけではない。昨日まで正当とされていた政策には、それを支えてきた外交関係、政党内の勢力、官僚組織の判断、経済的利害、さらには過去の説明との整合性が結びついているため、進路を変えるには相応の抵抗が生じる。政治の世界では、社会の現実が先に動き、制度や政策が少し遅れてそれを追いかけることが珍しくない。田中角栄の特徴は、日中国交正常化という考えを誰よりも早く発見したことではなく、すでに生じていた国際環境と国内政治の変化を短期間で外交上の決定へ変えたところにあったと考える方が実態に近い。

 田中は1972年7月に自由民主党総裁となり、その直後に首相へ就任すると、日中国交正常化に積極的な姿勢を明確にした。その時点から、わずか二か月余り後の9月25日には北京を訪れている。そして周恩来首相らとの交渉を経て、9月29日に日中共同声明が調印された。この速度は、日本外交の歴史を考えても極めて速い。しかも、ここで決めなければならなかったのは、単に新しい国との外交関係を一つ増やすという話ではなかった。日本政府は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し、その結果として、それまで外交関係を維持してきた台湾の中華民国政府との正式な外交関係を終了させることになった。

 そのため、田中の決断を「世論の支持を受けて進めた政策」とだけ評価することも正確ではない。1972年夏、田中内閣の発足直後に行われた世論調査では、新内閣にまず取り組んでもらいたい外交課題として「日中国交回復」を挙げた人が36%に達し、次に多かった米国との経済関係調整の14%を大きく上回っていた。この数字は、日中国交正常化が当時の国民にとって非常に重要な外交課題となっていたことを示している。

 ただし、この36%という数字を「国民の36%が国交正常化に賛成していた」と読み替えてはいけない。質問は、日中国交正常化の賛否そのものを聞いたものではなく、新内閣が優先して取り組むべき外交課題を尋ねたものであり、統計的には両者は異なる。ここを混同すると、世論を実際以上に単純化してしまう。正確に言えば、1972年夏の日本社会では、数ある外交課題の中で日中国交正常化を優先すべきだと考える人が相対的に多く、その問題への関心が極めて高まっていたのである。

 しかも、もう一つ重要な数字がある。国交正常化直前に行われた世論調査では、「中国との国交回復のためには台湾との関係が切れてもやむを得ない」と考えた人は11%程度にとどまっていたとされる。つまり、多くの国民は中国との関係改善を望む一方で、そのために台湾との正式な外交関係を断つことについては、必ずしも十分に納得していなかった可能性が高い。ここに、1972年の世論を理解するうえで極めて重要な二重性がある。

 国民は、中国との関係を正常化したいと考えていた。しかし、台湾との関係まで失いたいとは考えていなかった。ところが現実の外交では、この二つを完全に両立させることは困難だった。中国側が自国を中国唯一の合法政府とする立場を譲らない以上、日本政府はどこかで選択を迫られる。その意味では、田中角栄は世論に逆らって国交正常化を行ったわけではないが、世論が完全に受け入れていた政策をそのまま実行しただけでもない。

 ここに、田中政治のもっとも興味深い部分がある。国交正常化そのものについては社会全体の重心がすでに動いていた一方で、その実現に伴う代償まで国民が十分に受け入れていたわけではなかった。田中内閣は、その矛盾を抱えたまま決断したのである。言い換えれば、田中は世論から百歩先を走った政治家ではなかったが、国民が望んでいる方向を読みながら、その実現に必要な最後の一歩については政治家自身の判断で踏み出したと考えることができる。

 この違いは小さくない。政治家が世論の向かう方向を読むことと、国民が望んでいない方向へ独断で進むことは同じではないからである。世論とは、いつも一つの結論に整然とまとまっているものではない。「中国との関係は改善したい。しかし台湾との関係も維持したい」「米国との同盟は重視したい。しかし米国自身が中国へ接近している」というように、現実の国民意識には複数の希望が同時に存在し、ときには互いに矛盾する。政治家が向き合うのは、その矛盾をすべて満足させる政策ではなく、どの利益を優先し、どの損失を受け入れるかという選択である。

 その意味で、田中角栄の日中国交正常化を「決断力」という一言だけで説明するのも十分ではない。大胆な行動なら誰にでもできるが、政治に求められる決断は、単なる勇気とは違う。国際情勢、国内世論、与党内の力学、野党の動向、官僚組織の判断、中国側の交渉姿勢、米国との関係という複数の条件を読み、どの時点ならば政策変更が可能になるのかを判断しなければならない。1972年には、これらの条件の多くが同時に動いていた。

 実際、中国側も田中内閣成立後の日本政府の姿勢を歓迎し、早い段階から国交正常化への意欲を示していた。日本国内でも、社会党、公明党、民社党を含む野党側に正常化を求める動きがあり、経済界や民間交流の蓄積も存在していた。一方では、政府や自由民主党内部に台湾との関係維持を重視する勢力も存在しており、日本の政治が一枚岩だったわけではない。こうして見ると、田中角栄を日中国交正常化の唯一の「原因」と考えるよりも、長期的に蓄積していた変化を短期間で現実の外交政策へ転換した強力な加速要因と考える方が、因果関係としても妥当である。

 科学的な因果推論の考え方を歴史に当てはめるなら、「田中内閣が成立した後に国交正常化が実現した」という時間的順序だけから、「田中角栄がすべてを実現した」と結論づけることはできない。そこには国際連合における中国の位置づけの変化、米中接近、中国政府の外交姿勢、日本国内の世論変化、与野党の動向、経済界や民間交流といった複数の要因が存在している。むしろ、これらの構造的条件が長期間にわたって正常化の可能性を高め、その最後の段階で田中内閣の政治判断が実現時期を大幅に早めたと考える方が自然だろう。

 だからこそ、「政治家は世論より先に動くべきなのか」という問いには、単純な肯定も否定もできない。世論を無視し、自分だけが未来を理解していると政治家が考え始めれば、それは指導力ではなく独善へ転じる危険がある。しかし反対に、世論調査で十分な多数が形成されるまであらゆる判断を先送りするならば、外交のように機会を逃せば条件そのものが変わってしまう分野では、国家として最適な選択ができなくなる可能性もある。

 世論調査は、社会の現在位置を測るには有効である。しかし政治が決めなければならないのは、現在位置だけではない。政策には将来の結果が伴い、とりわけ外交政策では数年後、場合によっては数十年後まで影響が続く。その意味では、政治家に必要なのは単なる世論への追随ではなく、国民の意識がどちらへ動いているのか、その方向と速度を読むことである。

 1972年の田中角栄を見ると、この「方向」と「速度」という考え方がよく分かる。日中国交正常化を望む流れはすでに存在していた。しかし、正常化に伴う台湾との断交という現実までは、国民の多くが十分に受け入れていなかった。田中は世論から完全に独立して動いたのではなく、世論が作り出した大きな方向性の中で、まだ決着していなかった選択を政治判断として引き受けたのである。

 もちろん、1972年の国交正常化によって、その後の日中関係が安定したわけではない。歴史認識、領土、安全保障、台湾問題など、両国関係を揺さぶる問題はその後も繰り返し現れている。しかし、後に問題が発生したという理由だけで、1972年の外交判断そのものを失敗だったと結論づけることもできない。外交関係とは、問題を消滅させるためだけに存在するものではなく、問題が存在するときに交渉できる制度的な回路を作ることにも意味があるからである。

 田中角栄の日中国交正常化を振り返ると、政治家が世論より先に進むという表現そのものを、少し修正する必要があるのかもしれない。優れた政治家とは、国民の百メートル前を独りで走っていく人物ではない。国民と同じ社会に立ち、その不安や期待を共有しながら、社会全体がどちらへ動きつつあるのかを読み、すべての希望を同時には実現できない分岐点に立ったとき、その選択の意味を説明し、自ら決断を引き受ける人物なのである。

 1972年の田中角栄は、誰にも見えていない道を一人で発見したわけではなかった。多くの国民が中国との関係を改める必要性を感じ、国際社会もすでに動き始めていた。その流れの中で田中が行ったことは、「いつか変えなければならない」と考えられていた外交方針を、「いま変える」という具体的な政治判断へ変換することだった。

 そこにこそ、日中国交正常化から半世紀以上を経ても考える価値が残っている。政治家は世論より先に動くべきなのかという問いに対する答えは、おそらく「常に先に動くべきだ」でも「常に世論に従うべきだ」でもない。世論の方向を見極めながら、国民がまだ十分には受け入れていない現実についても、その必要性を説明し、判断の結果に責任を負う覚悟があるときに限って、政治家は最後の一歩を先に踏み出すことが許される。

 政治家に必要なのは、世論を追い越す速さではない。社会がどちらへ進もうとしているのかを見抜き、その先にある選択肢と代償を国民に示す能力である。1972年の日中国交正常化は、その難しさを今なお鮮やかに映し出している。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る