地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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野中広務という政治家を振り返るとき、奇妙な事実に気づく。総理大臣にはならなかった。自民党総裁にもならなかった。国会議員になったのは1983年、すでに57歳になってからである。若くして国政へ入り、当選回数を重ね、派閥の階段を上りながら首相を目指すという、戦後自民党政治の典型的な出世コースから見れば、むしろ遅すぎる出発だった。

それにもかかわらず、1990年代後半から2000年代初めの永田町では、野中の名前を抜きに重要な政局を語ることが難しい時期があった。小渕恵三政権では内閣官房長官として連立政権形成に深くかかわり、その後は自民党幹事長として党内を動かした。「影の総理」とまで呼ばれたことがあるのも、後世につくられた誇張だけではない。野中自身の回顧録も、そのように呼ばれた政治家の記録として紹介されている。

では、総理でも総裁でもなかった男が、なぜそこまで大きな力を持つことができたのだろうか。

答えを「裏工作が巧みだったから」の一言で片づけることは簡単である。しかし、それでは野中広務という政治家の本質を取り逃がす。彼の強さは、権力の頂点に立つことよりも、権力が実際に動く場所を知っていたことにあった。そして、その感覚を身につけたのは東京の永田町ではない。京都の地方政治だった。

永田町とは遠いところから始まった政治家

野中は1925年、京都府船井郡園部町、現在の南丹市園部地域に生まれた。旧制京都府立園部中学校を卒業すると鉄道省大阪鉄道局に入り、戦争末期には召集を経験した。戦後に職場へ戻ったのち、1951年に園部町議会議員となり、1958年には園部町長に就任する。その後も京都府議会議員、京都府副知事を務め、1983年に衆議院議員へ転じるまで、30年以上を地方政治と地方行政の中で過ごした。同志社大学に残る略年譜でも、この長い地方政治歴を確認できる。

この経歴は、単なる履歴書の前半ではない。後の野中政治を形づくる訓練期間そのものだったと考えた方がよい。

町長の仕事には、華やかな演説より先に、道路があり、学校があり、福祉があり、災害がある。限られた予算をどこへ配分するのかを決めれば、必ず得をする地域と後回しになる地域が生まれる。住民の要望を聞くだけでは行政は動かず、議会をまとめ、役所を動かし、京都府や国との関係をつくらなければならない。

そこで求められるのは、理想を語る能力だけではない。相手が何を望み、どこまでなら譲り、何だけは譲らないのかを読む能力である。

野中が後に永田町で発揮した「調整力」を、地方政治経験だけで説明することはできない。しかし、地方行政の現場で長く利害の衝突を処理してきた経験が、その政治技術の重要な基盤になったと考えることには十分な合理性がある。

ただし、野中が地方から持ってきたものは、単なる調整術だけではなかった。

京都では長く蜷川虎三知事による革新府政が続き、自民党が中央政府では与党でありながら、京都では思うように主導権を握れない時代が続いた。つまり野中は、自分たちが常に多数派である政治だけを経験してきた人物ではない。相手側にも権力があり、自分たちだけでは何も決められない政治を知っていた。

この経験が後年、意外な意味を持つことになる。

57歳の新人議員は、本当の意味では新人ではなかった

1983年、旧京都2区で前尾繁三郎と谷垣専一の死去に伴う衆議院補欠選挙が行われ、野中は谷垣禎一とともに初当選した。谷垣自身も後年、国会でこの補欠選挙について証言している。

57歳の初当選は、自民党政治家として考えれば遅い。しかし、ここには数字の錯覚がある。

国会議員としては一年生でも、政治家としてはすでに30年以上の経験があった。町議として選挙を知り、町長として行政を知り、府議として議会を知り、副知事として巨大な行政組織の内部を知っている。若い国会議員が永田町で一から学ぶべき事柄のかなりの部分を、野中は別の場所ですでに経験していた。

そのため野中の国政入りは、57歳から政治家人生を始めたというより、地方で身につけた政治技術を国という一段大きな舞台へ移した出来事だったと見る方が実像に近い。

しかし、それだけなら地方行政に詳しいベテラン政治家で終わっていたかもしれない。野中を中央政界の実力者へ押し上げたもう一つの条件は、本人の経歴ではなく、日本政治そのものの変化だった。

1989年から、日本政治のルールが少しずつ変わった

戦後自民党政治を語るとき、1993年の政権交代は大きな断層として記憶されている。細川護熙を首相とする非自民政権が成立し、自民党が1955年以来初めて本格的に野党へ転落したからである。

しかし、変化はその4年前から始まっていた。

1989年の参議院選挙で自民党は大敗し、参議院の単独過半数を失った。これによって、衆議院で多数を持つだけでは法律を安定して成立させにくい状況が生まれ、与野党間の協議や修正交渉の重要性が増していった。政治学的に見れば、1993年に突然連立政治の時代が始まったのではなく、1989年から従来の自民党単独支配の仕組みが徐々に変質していたのである。

これは野中にとって重要な環境変化だった。

自民党が衆参両院で安定多数を持つなら、最も重要なのは党内の派閥や政策部門をまとめる能力である。しかし自民党だけでは決められなくなると、必要な技術が変わる。党内だけではなく、昨日まで敵だった野党の事情まで理解し、その相手と合意をつくらなければ政権を動かせなくなるからである。

野中が地方政治で経験してきたのは、まさにそうした世界だった。

ここで重要なのは、「地方政治を経験したから野中は成功した」と単純な原因と結果で結ばないことである。地方政治家出身者の全員が中央政界の実力者になったわけではない。野中自身の人間関係、旧田中派から竹下派へ続く党内基盤、国会対策での経験、選挙制度改革、政界再編、そして本人特有の記憶力や交渉力など、複数の条件が重なっている。

それでも、地方で培った調整型の政治技術と、1990年代に訪れた「一党だけでは決められない政治」が非常によく適合したという見方は、野中の急速な台頭を説明する有力な仮説になる。

自民党が野党になったとき、野中の経験が生きた

1993年、自民党は下野した。細川政権、続いて羽田孜政権が成立し、長く政権担当を当然の前提としてきた自民党は、突然野党になった。

その翌年、政治史に残る組み合わせが誕生する。

自民党、日本社会党、新党さきがけによる自社さ連立である。

社会党は長年、自民党最大の対抗勢力だった。その社会党の村山富市委員長を首相に担ぎ、自民党が政権へ復帰するという構図は、それまでの左右対立だけで政治を見ていた人々には理解しにくいものだった。

しかし、連立政治とは本来そういうものである。

政策が完全に一致する相手としか協力できないなら、連立そのものが成立しない。どこを譲り、何を共有し、どこを棚上げするかという取引の積み重ねによって、初めて政権は形になる。

野中は、この自社さ連立の形成過程で重要な役割を担い、村山内閣では自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。ただし、村山政権は野中一人がつくった政権ではない。河野洋平、森喜朗、亀井静香、村山富市、武村正義ら多くの政治家が動いた結果であり、野中はその一角を占めた重要な調整者だったと見るのが適切だろう。

野中の価値が高まったのは、まさにこの「誰も一人では決められない政治」が常態化していったからだった。

小渕政権で「影の実力者」は完成した

野中広務の政治力が最も鮮明に表れたのは、小渕恵三政権である。

1998年の参議院選挙で自民党は敗北し、再び参議院で厳しい少数状態に置かれた。そこで小渕が官房長官に起用したのが野中だった。自民党の公式党史も、野中について「野党との交渉に辣腕が期待された」と記している。

ここで野中は単なる政府の報道官ではなくなる。

小渕政権を安定させるには、自民党だけでは足りない。そこで政権は小沢一郎率いる自由党との連立へ向かい、1999年1月に自自連立政権が成立する。同年10月には公明党も加わり、自自公連立へ発展した。自民党史でも、小渕首相、野中官房長官、自民党執行部が参議院での過半数割れを克服するため政権基盤の強化を模索した経緯が記されている。

興味深いのは、野中にとって小沢一郎が決して気心の知れた仲間ではなかったことである。

政治的対立があっても、必要であれば交渉する。昨日まで敵だった相手でも、今日の国会を動かすために必要なら同じ席につく。

そこには、理念がないのではない。

むしろ「政治は結果を出さなければ存在しない」という、地方行政出身者らしい現実感覚があったように見える。

この政治を節操のない権力維持と見ることもできるし、議会制民主主義に不可欠な妥協の技術と見ることもできる。おそらく野中政治の評価が現在まで割れるのは、この二つを簡単に分離できないからだろう。

それでも一つだけ確かなことがある。

首相が小渕恵三であっても、その政権を成立させる議席を誰がどう集め、どの党との間に橋を架けるかという作業を担う人物の影響力は極めて大きい。正式な地位以上に、表から見えにくい調整過程で巨大な影響力を持ったことが、「影の実力者」「影の総理」という野中の人物像につながったと考えることができる。

野中の権力は「人間を一人で見ない」ことから生まれた

野中の強さを、単純な人脈の広さだけで説明するのも十分ではない。

彼が見ていたのは、一人の国会議員だけではなかった。その議員の後ろにある選挙区、後援会、地方議員、支援団体、派閥、そして次の選挙まで含めて、一つの政治的なネットワークとして見ていた。

この特徴が最も劇的に表れたのが、2000年の「加藤の乱」だった。

森喜朗内閣に批判的だった加藤紘一と山崎拓が、野党提出の内閣不信任決議案への対応をめぐって倒閣を図った。表面だけを見れば、自民党内部の派閥抗争である。しかし実際の攻防は、国会議員本人だけに対する説得では終わらなかった。党執行部は公認権や次の選挙を背景に造反予定者への切り崩しを進め、野中もその中心人物の一人として動いた。

ここでも、「野中が一人で加藤の乱を潰した」と考えるのは正確ではない。加藤派内部の温度差、選挙への不安、党公認を失う危険、森派や党執行部全体の動きなど、複数の要因が重なったからこそ倒閣運動は崩れた。

しかし、その複雑な構造を利用して一人ずつ切り離していく政治技術こそ、野中が最も得意としたものだった。

議員に直接「反対するな」と命じるだけではない。その人間が何によって政治家として存在しているのかを調べ、そこへ働きかける。

園部町から永田町まで半世紀近く政治を続けてきた男が最後に身につけていたのは、政治家を見る技術というより、政治家を取り囲む関係を見る技術だったのである。

「影」という言葉には、称賛だけではなく不気味さもある

もっとも、「影の実力者」という表現を格好のよい称号として扱うだけでは、野中政治の半分を見失う。

影で政治を動かすとは、別の言い方をすれば、有権者から見えない場所で重大な決定が行われることでもある。

誰と誰が会い、どのような条件が示され、どこまで譲歩し、その代わりに何を得たのか。派閥、後援会、地方組織、官僚組織、業界団体が複雑につながる政治では、結果は見えても、その過程が国民から十分には見えないことがある。

野中は相手の事情を理解する調整型政治家であると同時に、必要と考えれば党組織と権力を強く使う政治家でもあった。

つまり包容と圧力は、互いに矛盾する性質ではない。

相手が何を恐れているかを理解できるからこそ、説得もできるし、圧力もかけられる。相手の弱点を知らなければ妥協点もつくれないが、その弱点を知れば政治的な武器にもなる。

野中政治の魅力と怖さは、実は同じ場所から生まれている。

だから「実力者」という言葉だけでは足りなかったのだろう。「影」という言葉は、正式な肩書以上の影響力だけではなく、その権力が見えにくいところから働いていたことまで含んでいる。

権力を使いながら、権力を警戒した政治家

ここで野中広務という人物をさらに複雑にするのが、彼が単純な権力至上主義者ではなかったことである。

戦争体験を持ち、地方政治では福祉行政にも深く関わり、国政では沖縄問題や差別の問題について繰り返し発言した。権力を行使する側に立ちながら、国家権力が弱い立場の人間に何をするかという問題に敏感だった人物として評価されることも多い。

しかし、だからといって平和主義者、弱者の味方という言葉だけで整理してしまえば、逆方向の美化になる。

野中は政権担当者であり、国家公安委員会委員長にも官房長官にもなった。沖縄では米軍基地問題を抱える政府側の政治家として現実の政策決定に関与している。理想だけを語り、その結果について責任を負わない立場ではなかった。

そこに野中という政治家の独特な矛盾がある。

権力の危険を知っている。しかし、政治を動かすためにはその権力を使う。

弱者への視線を持つ。しかし政権を守るためなら、反対する政治家へ強い圧力をかける。

敵の事情を理解する。しかし必要なら、その事情を利用して相手を切り崩す。

この矛盾を偽善と呼ぶこともできる。しかし政治とは本来、理念だけでなく結果への責任を引き受ける仕事だと考えるなら、そこに野中政治の現実主義を見ることもできる。

小泉純一郎の登場で、政治の「見せ方」が変わった

2001年、小泉純一郎が自民党総裁となり首相に就任すると、永田町の空気は大きく変わった。

もちろん、野中時代には調整しかなく、小泉時代には対決しかなかったというほど政治は単純ではない。小泉も党内調整を行っていたし、野中も世論を無視していたわけではない。

それでも、政治の見せ方には明らかな違いがあった。

野中型の政治では、対立する相手と水面下で交渉し、最終的に一致点をつくることに価値があった。それに対して小泉は、対立を国民の前に見える形で示し、「改革に賛成するのか、反対するのか」と世論へ直接問いかける政治を得意とした。

調整の過程を見せないことが政治力だった時代から、対立そのものを見せることが政治力になる時代へ。

少なくとも政治コミュニケーションという点では、そんな変化が起きていた。

政治学的にも、小泉政権は1990年代の制度改革を背景として首相権力を強く行使した政権として分析されている。ただし、その小泉政権でさえ、参議院では青木幹雄ら党幹部との調整を必要としていた。したがって野中型政治が完全に消滅したのではなく、表舞台に立つ政治家と裏側で調整する政治家との力関係が変わったと見る方が正確である。

野中は2003年に国会議員を引退した。1951年の園部町議初当選から数えれば、半世紀を超える政治生活だった。

なぜ野中広務は「影の実力者」になれたのか

野中広務が「影の実力者」となった理由を一つに絞ることはできない。

地方政治で培った行政実務と利害調整の経験があり、旧来の自民党組織の人脈があり、政界再編の荒波を読む能力があり、そして1989年以降、日本政治そのものが一党だけでは決めにくい構造へ変化していった。

それらが重なったところに、野中という政治家の最盛期があった。

もし自民党が衆参両院で安定多数を持ち続けていたなら、野中ほどの調整型政治家があれほど大きな力を持ったかどうかは分からない。逆に、連立政権が必要になったとしても、誰もが野中のように異なる勢力をつなぐことができたわけでもない。

つまり野中の力は、個人の能力だけでも、時代だけでも説明できない。

野中広務という政治家の能力と、1990年代という政治環境が出会った結果だった。

多数を持つ者が強い政治では、調整役は目立たない。しかし誰も単独では決められない政治になると、最後の数票を集める者、昨日までの敵を同じテーブルへ連れてくる者、相手が何を恐れ、何を求めているかを知る者が、時として総理大臣以上の存在感を持つ。

野中は首相の椅子に座ったことはない。

けれども政治というものを、首相の椅子だけから眺めれば、その本当の構造は見えてこない。

演壇で政策を語る人間の背後には、議席を数える人間がいる。敵対する政党との間を歩く人間がいる。地方の事情を中央へ運ぶ人間がいる。誰も譲らない夜に、一人ずつ電話をかけ、どこまでなら折り合えるのかを探る人間がいる。

野中広務は、その仕事を知り尽くしていた。

京都の地方政治家として始まった男が、半世紀をかけてたどり着いたのは、総理大臣という権力の頂点ではなかった。

その頂点を支え、ときに揺らし、ときには誰をそこへ座らせるのかさえ左右する、表からは見えにくい政治の中枢だったのである。

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政治家の経歴を一本の線として眺めたとき、小池百合子ほど、その線が何度も違う方向へ曲がりながら途切れなかった人物は珍しい。

日本新党から国政へ入り、新進党、自由党、保守党を経て自由民主党へ移った。その自由民主党では環境大臣、防衛大臣、党総務会長まで務めながら、2016年には党東京都連の推薦を受けずに東京都知事選挙へ立候補する。翌年には自民党を離れ、地域政党「都民ファーストの会」の代表となり、さらに国政政党「希望の党」を立ち上げた。しかし、その国政進出が期待したほどの成果を上げられなくなると、再び東京都政を自らの政治活動の中心に据えた。

それだけを追えば、「政党を渡り歩いてきた政治家」という評価が生まれるのも理解できる。

けれども、この三十数年を単なる変節の歴史として読んでしまうと、一つの重要な事実を見落とす。

所属する場所は何度も変わったのに、小池百合子という政治家そのものは、政治的な存在感をほとんど失わなかったのである。

2026年現在、小池は東京都知事3期目にある。1992年に参議院議員として初当選してから、国政と東京都政を合わせて三十年以上、政治の第一線に立ち続けてきた。東京都の公式略歴を見ても、1992年の参議院初当選、1993年の衆議院転出、環境大臣、防衛大臣、自民党総務会長を経て、2016年、2020年、2024年と三度東京都知事に当選している。

なぜこれほど長く残ることができたのか。

その理由を考えていくと、「所属政党を変える能力」よりも、もっと重要なものが見えてくる。

小池百合子が繰り返してきたのは、単なる移籍ではない。政治環境が変わるたびに、自分の知名度、発信力、組織との距離、そして選挙制度の特徴を組み合わせ直し、自らが政治的に有効でいられる場所をつくり直すことだった。

「政界渡り鳥」という言葉では、1990年代を説明できない

小池が政治家になったのは1992年である。細川護熙が率いる日本新党から参議院選挙に立候補して初当選し、翌1993年には衆議院へ転じた。

その後の所属は、日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と変わっていく。確かに党名だけを並べれば多い。

しかし、ここで時計を現在から巻き戻しておかなければならない。

1990年代の日本政治は、現在のように主要政党の枠組みが比較的安定していた時代ではなかった。小池が最初に所属した日本新党は1994年に解党し、その流れから参加した新進党も1997年末に解党した。その後に加わった自由党も、2000年には連立政権への対応をめぐって分裂する。小池はその後、保守党を経て2002年に自由民主党へ入った。

つまり、小池の党籍変更をすべて同じ種類の行動として数えてしまうこと自体が危うい。

「自分の意思で安定した政党を離れた場合」と、「所属政党そのものが消滅した場合」と、「政党が分裂して所属先を選ばなければならなくなった場合」は、政治的な意味がまったく違うからである。

所属政党の数を数えて、その数が多いから理念が弱いと結論することはできない。党籍変更という観測された結果には、本人の選択だけではなく、1990年代の政界再編という外部環境が含まれている。

むしろ、この時代に政治家としての最初の十年を送ったことは、小池の後の政治行動を理解するうえで重要なのかもしれない。

日本新党も新進党も消えた。

昨日まで同じ党だった政治家が別々の党へ分かれ、昨日まで別々だった政治家が同じ党へ集まる。そんな政治を間近で経験すれば、政党という組織を永久不変の帰属先として見る感覚は生まれにくい。

これは小池本人がそう考えていたと証明できる話ではない。

ただ、少なくとも彼女の政治家としての出発点が、「党に入ればその党で政治人生を終える」という時代ではなかったことは確かである。

変わったのは思想より、政治活動の足場だった

もう一つ注意したいのは、小池が所属政党を変えるたびに、政策的立場まで正反対へ移動してきたわけではないという点である。

日本新党から新進党、自由党、保守党、自由民主党という大きな流れを見れば、政治改革や行政改革、市場を重視する政策、安全保障への積極姿勢などを持つ非社会党系の改革勢力から、次第に保守政治の中へ位置を定めていったと見る方が自然である。

もちろん、三十年以上の政治人生の中で政策上の変化がなかったという意味ではない。

政治家は社会状況によって政策判断を変えるし、政党間で政策そのものも変化する。

それでも、「所属政党が変わった」という事実と「基本的な政治的位置が毎回反転した」という評価は同じではない。

ここに小池政治の特徴が一つ見えてくる。

変化してきたのは、何を主張するかだけではなく、どこから主張するかだったのである。

テレビの経験が与えた「伝える政治」という武器

小池百合子を他の政治家と分ける特徴として、政界入りする以前からテレビの世界で広く知られていたことがある。

キャスターとして政治や経済を伝えてきた経験は、政策を作る能力とは別の能力を小池にもたらした。

複雑な問題を、短い言葉や映像で理解できる形に変換する能力である。

2003年に環境大臣となった小池は、地球温暖化対策の一環としてクールビズの推進役となった。

温室効果ガス、冷房温度、企業活動、エネルギー消費という話だけなら、多くの人にとって政策は遠い。しかし「夏の仕事ではネクタイを外して軽装する」と置き換えれば、政策が日常生活の行動になる。

政治課題そのものを単純化することと、政治課題を理解可能な形へ翻訳することは同じではない。

小池の強みは、後者にあった。

それがより鮮明に表れたのが、2005年の郵政選挙だった。

小泉純一郎首相は郵政民営化に反対した自民党議員を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。小池も兵庫から東京10区へ選挙区を移し、いわゆる「刺客候補」の一人として当選した。

この選挙では、郵政制度という本来複雑な政策が、「改革を進める側」と「改革に抵抗する側」という極めて分かりやすい対立構図へ変換された。

小池がそこから何を学んだのかを外部から断定することはできない。

しかし、その後の政治活動を見ると、政治課題を有権者が理解できる構図へ変える能力が、繰り返し重要な役割を果たしたことは確認できる。

自民党の中で見えた、知名度だけでは越えられない壁

自由民主党に入った後、小池は環境大臣、防衛大臣などを歴任し、党内でも地位を上げていった。

そして2008年、自民党総裁選挙へ立候補する。

結果は麻生太郎351票、与謝野馨66票、小池百合子46票、石原伸晃37票、石破茂25票だった。小池は5人中3位で、得票は全体のおよそ9%にとどまった。

この結果から、「なぜ46票しか取れなかったのか」という原因を一つに決めることはできない。

派閥、人間関係、当時の政局、候補者それぞれの党内基盤など、総裁選挙の結果には多くの要因が作用するからである。

しかし、少なくとも一つだけ確実に言えることがある。

全国的な知名度を持ち、閣僚経験があっても、それだけでは自民党総裁に選ばれるだけの党内支持を形成できなかったということである。

一般有権者からの知名度と、巨大政党の内部で頂点へ上がる力は同じではない。

テレビに強いことも、全国で顔を知られていることも、自民党国会議員や地方組織から多数の支持を集めることを自動的には意味しない。

小池の政治的な強みと、自民党総裁選挙という制度との間には、少なくとも2008年の段階では距離があった。

その後も小池は国政から退出したわけではない。衆議院議員として当選を続けた。

しかし2016年、その政治活動の舞台を大きく変える選択をする。

永田町とは異なる「中心」~東京都知事という選択

2016年の東京都知事選挙で、小池は自民党東京都連から推薦を受けないまま立候補した。

ここには正確な区別が必要である。

この時点で小池は自民党を正式に離党していたわけではない。離党届を提出したのは翌2017年6月1日で、小池自身が東京都の記者会見でその経緯を説明している。

したがって2016年の行動は、「自民党を辞めて自民党と戦った」というより、自民党籍を残したまま党東京都連の推薦を得ず、自民党側が支援する候補と争ったと表現する方が正確である。

政治的にはきわめて危険な選択だった。

大政党の正式な組織支援を受けられないことは、通常なら選挙で不利になる。

しかし小池は、その不利を別の意味へ読み替えることに成功した。

党組織に支援されていない候補ではなく、既存の都政や党組織に挑む候補として自らを位置づけたのである。

結果は鮮明だった。

小池は291万2628票を獲得し、自民党などが支援した増田寛也の179万3453票を大きく上回って初当選した。

ここで起きたことは、小池百合子という政治家を考えるうえで重要である。

政治では、客観的な条件そのものと同じくらい、その条件が有権者から何を意味するものとして受け取られるかが重要になる。

大政党の推薦を得られないことが「孤立」と解釈されれば弱点になる。

しかし「既存勢力から独立している」と解釈されれば、改革を期待する有権者には強みに変わる。

2016年の小池は、その意味の転換に成功した。

2017年、個人の人気が政党を動かし、そして限界も見せた

知事就任後、小池の政治的勢いは東京都議会へ広がった。

2017年東京都議会議員選挙では、小池が率いた都民ファーストの会が49議席を獲得して第1党となり、自民党は選挙前の57議席から23議席へ激減した。

これは興味深い現象だった。

2016年には一人の候補者に集まった支持が、翌年には複数の候補者を当選させる力へ転換されたからである。

個人ブランドが、短期間ではあっても政治組織のブランドへ拡張された。

そして小池は、さらに国政へ踏み出す。

2017年9月、希望の党を立ち上げた。

しかし、ここでは東京都知事選挙や都議会選挙と同じ展開にはならなかった。

民進党との合流をめぐる過程で、小池が候補者について「排除します」と発言したことは大きく報道され、それまで改革者として機能していた強い言葉が、今度は別の印象を与える結果となった。

ただし、希望の党の失速をこの一言だけで説明するのは適切ではない。

候補者調整、民進党との合流過程、政策上の違い、立憲民主党の急速な結成、小池自身が衆議院選挙に立候補しなかったことなど、複数の要因が同時に存在していたからである。

最終的に2017年衆議院選挙で希望の党は50議席を獲得したが、立憲民主党の54議席を下回り、野党第一党にはならなかった。

50議席は小政党として見れば決して小さな数字ではない。

しかし、選挙前に生まれていた「小池旋風が国政まで変えるのではないか」という期待との比較では、成功とは評価されなかった。

ここで小池政治の重要な限界が見えた。

東京都知事選挙では、一人の候補者の知名度、発信力、行政実績が大きな力になる。

しかし全国の多数の選挙区で候補者を擁立する国政政党には、地方組織、候補者育成、政策調整、党内統治、資金、継続的な人材供給が必要になる。

一人の政治家のブランドが極めて強くても、それだけで全国政党を短期間に完成させることは難しい。

希望の党の経験は、小池百合子の強さだけではなく、その強さが最も機能する政治空間の範囲まで示したのである。

勝ち続けたのではない。失敗した場所に居続けなかった

小池の長期的な政治生命を考えるとき、ここから先がむしろ興味深い。

政治家の能力というと、人は勝つ力を考える。

しかし三十年という時間で見れば、負けない政治家などほとんどいない。

重要になるのは、失敗した後に何をするかである。

希望の党の国政進出が失速した後、小池は国政で主導権を取り返そうとして政治資源を投入し続ける道を選ばなかった。

東京都知事としての活動へ軸足を戻した。

結果として、2020年東京都知事選挙では366万1371票を獲得して再選した。2016年より約75万票多い。

そして2024年には3選を目指した。

ここでは2016年とは政治的な景色が大きく変わっていた。

2016年には自民党東京都連と対立することが、小池の選挙戦の重要な構図だった。

ところが2024年には、小池は無所属で立候補しながら、自民党、公明党、都民ファーストの会などから支援を受けた。公明党は党として「自主的に支援する」と明確に表明している。

つまり、かつて対立することで政治的な力を生み出した組織と、後には協力関係を形成したのである。

これを「一貫性がない」と見ることもできる。

しかし選挙戦略という観点から見ると、別の構造が見えてくる。

小池は、一つの政党との永続的な対立を自らの政治的アイデンティティーにはしなかった。

必要なときには距離を取り、別の局面では協力する。

固定された敵と味方を持つというより、その選挙、その政策、その時点の政治状況によって支援連合を再構築する。

その柔軟性が、小池の政治生命を長くしている可能性は高い。

三つの都知事選挙の数字が示すもの

ここで感覚的な評価から少し離れ、実際の票数を見てみると興味深い。

小池の東京都知事選挙での得票は、2016年が291万2628票、2020年が366万1371票、2024年が291万8015票である。

2016年から2024年まで8年が経過している。

対立候補も違う。政治情勢も違う。投票に参加した有権者も同じではない。

それにもかかわらず、2016年と2024年の小池の得票差はわずか5387票だった。

2016年の得票を基準にすれば、差は約0.18%にすぎない。

もちろん、この数字から「小池には290万人の固定支持者がいる」と結論することはできない。

2016年に小池へ投票した人と2024年に投票した人が同じであることを示すデータは存在しないからである。

むしろ注目すべきなのは、異なる政治状況の下でも、最終的に約290万票規模の支持を二度形成できたという事実である。

さらに2020年には、その水準を約75万票上回る366万票を獲得した。

この推移は、小池支持を一つの固定集団だけで説明するより、一定の支持基盤に、その時々の選挙環境によって異なる層が加わったり離れたりすると考えた方が自然である。

2024年の共同通信の出口調査でも、自民党支持層の66%が小池へ投票した一方、無党派層でも30%が小池を選んでいる。

つまり小池の強みは、一種類の支持者だけを固めることよりも、性質の異なる支持層を同じ選挙で重ね合わせられるところにある。

無所属なのに孤立しないという政治的位置

一般的な政治家は、所属政党から多くの政治資源を受け取る。

政党名による信用、地方組織、選挙運動、政策スタッフ、資金、支持団体である。

その代わり、政治家自身も党の政策、人事、内部秩序に拘束される。

小池の場合、この関係が少し異なっている。

2024年東京都知事選挙での党派は「無所属」だった。東京都選挙管理委員会の公式結果にもそのように記録されている。

しかし、無所属だから政治組織と無関係だったわけではない。

自民党や公明党、都民ファーストの会などから組織的な支援を受けている。

ここで重要なのは、「無所属」と「無組織」が同義ではないことである。

小池は政党に完全に包摂される位置から離れながら、政党組織の支援を排除しているわけでもない。

この中間的な位置は、政治家にとって強い。

党の不人気がそのまま本人の評価になる危険を一定程度避けながら、必要な選挙協力は得ることができるからである。

もちろん誰でも同じことができるわけではない。

政党側から見て支援する価値があるだけの知名度や当選可能性を持つ政治家だから成立する関係でもある。

小池百合子の政治的自立とは、組織を必要としないことではない。

一つの組織だけに政治生命を預けなくても、複数の組織と関係を結べることなのである。

政治的生存を一つの能力で説明しない

三十年以上にわたって政治の第一線に残る現象を、「メディア戦略がうまいから」「選挙に強いから」「政党を渡り歩いたから」と、一つの理由だけで説明するのは無理がある。

長期的な政治的生存には、いくつもの条件が必要になる。

全国的な知名度があっても、選挙に勝てなければ議席は得られない。

選挙に強くても、行政能力への評価を失えば現職として再選を重ねることは難しい。

政策を持っていても、それを有権者へ伝える能力がなければ支持につながりにくい。

個人人気が高くても、必要な場面で政党や議会と協力できなければ行政運営は行き詰まる。

逆に巨大な政党組織だけに依存していれば、その党内で地位を失った瞬間に政治生命そのものが弱くなる。

小池はこれらの要素を、すべて最高水準で持っていると断定する必要はない。

重要なのは、一つが突出しているのではなく、知名度、発信力、選挙適応力、行政経験、組織との接続力が同時に一定水準を超えていることである。

政治家の長期生存は、足し算というより掛け算に近い。

どれか一つが極端に弱ければ、ほかの能力だけでは補えない。

小池百合子という政治家の珍しさは、その組み合わせを三十年以上維持し、政治環境に応じて比重を変えてきたところにある。

ただし、「生き残る能力」と「政治的成果」は同じではない

ここまで小池の政治的生存力を見てくると、一つ注意しなければならないことがある。

政治家として長く残ること自体が、政治家として高く評価されることを意味するわけではない。

選挙に勝つ能力と、良い政策を実現する能力は異なる。

政党間の距離を柔軟に調整する能力と、理念的一貫性も同じではない。

さらに個人のブランドによって作られた政治勢力には、その本人がいなくなった後も制度や組織を残せるのかという問題がある。

2017年の希望の党が短期間で求心力を失った経験は、この弱点を示している。

強い個人を中心に形成された政治勢力は、選挙では急速に拡大できる。

しかし、その個人の人気を党組織、政策体系、次世代の政治家へ転換できなければ、継続的な政治勢力にはなりにくい。

この点で、小池百合子自身の政治的成功と、小池が作った政治組織の持続性は別に評価する必要がある。

もう一つは、政治的な居場所を柔軟に変える姿勢が、「理念より勝てる場所を優先しているのではないか」という批判につながりやすいことである。

この評価についても、外部から本人の動機を断定することはできない。

実際に確認できるのは、小池が複数の政党を経験し、自民党内部で総裁選に挑戦し、東京都知事へ転じ、地域政党と国政政党を設立し、国政進出の失速後には東京都政を再び中心に据えたという行動の軌跡である。

その軌跡を「変節」と評価するか、「適応」と評価するかは、政治を見る立場によって変わる。

だからこそ人物評ではなく、構造を見る必要がある。

所属する場所を変えたのではなく、「政治の中心」の定義を変えた

小池百合子はなぜ、所属する場所を変えながら政治の中心に残り続けることができたのか。

一つの答えだけでは足りない。

1990年代の激しい政党再編の中で政治家として出発したこと。

テレビキャスターの経験から、複雑な政治を有権者が理解できる言葉へ変換する力を持っていたこと。

自由民主党という巨大組織の資源を利用しながらも、政治生命そのものを党内地位だけに依存しなかったこと。

自分の強みが生きにくい政治空間に固執せず、東京都知事という別の巨大な政治空間へ移ったこと。

そして失敗した局面があっても、その失敗した場所で消耗し続けず、自分が再び多数を形成できる場所へ政治活動の重心を戻したこと。

これらが重なっている。

ここまで考えると、小池百合子を単に「所属政党を変えてきた政治家」と呼ぶことが、急に狭い見方に思えてくる。

国会議員から東京都知事へ移ることを、国政の中央から地方政治へ降りたと考えることもできる。

しかし東京都は人口1400万人規模を抱え、日本最大の自治体予算を動かし、その知事の政策や発言は全国ニュースになる。

東京都知事になることは、必ずしも政治の周辺へ移ることではない。

むしろ小池にとっては、自民党内部で多数の国会議員から支持を集めなければ頂点へ行けない世界から、東京都民が直接一人の知事を選ぶ世界へ舞台を変えることだった。

2008年の自民党総裁選挙では46票だった政治家が、8年後の東京都知事選挙では291万票を得た。

もちろん二つの選挙は制度も有権者も違うから、数字そのものを単純比較することはできない。

しかし、この違いこそ重要なのである。

政治家の力は、本人だけで決まるのではない。

その能力と、その能力が使われる制度との組み合わせによって決まる。

小池百合子は、どの制度の中でも最強だった政治家ではない。

2008年の自民党総裁選挙と2017年の希望の党は、そのことを示している。

しかし、自分の強みが生きる制度を見つけ、その場所で政治的な支持を再構築する能力については、戦後日本の政治家の中でも際立っている。

政治の中心とは、永田町の一か所に固定されているわけではない。

人々の関心が集まり、大きな予算と行政権限を持ち、政党の選挙戦略にまで影響を及ぼす場所もまた、政治の中心になり得る。

小池百合子は、中心から外れそうになるたびに同じ場所へ戻ってきた政治家ではない。

三十年以上の軌跡を見るかぎり、むしろこう表現した方が近いだろう。

所属する場所が変わっても、自分が政治的に意味を持てる場所を探し、その場所を新しい「中心」に変えてきた政治家なのである。

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田中真紀子はなぜあれほど人気を集め、そして急速に政治の中心から離れたのか

2001年の日本政治を振り返ると、首相になったわけでもない一人の政治家が、政権そのものの印象を左右していたことに気づく。

田中真紀子である。

正確には田中眞紀子。田中角栄元首相の長女として政界入りした彼女は、政治家としての経歴だけを見れば、長期間にわたり政権を支配したわけでも、自らの名前を冠した巨大な制度改革を残したわけでもない。それにもかかわらず、2001年前後の田中の存在感は、一人の閣僚という範囲を明らかに超えていた。

テレビに映ればニュースになり、街頭に立てば人が集まり、彼女が誰かを評すれば、その言葉が翌日の新聞見出しになった。政治に詳しくない人までが田中の話を聞き、彼女が既成政治を批判すると、「よく言ってくれた」と感じる人がいた。

ところが、その絶頂は長く続かなかった。

2001年4月に日本初の女性外務大臣として小泉純一郎内閣に入閣した田中は、翌2002年1月には更迭される。同年には衆議院議員を辞職し、わずか一年ほど前まで政権の象徴の一人だった政治家が、急速に永田町の中心から外れていった。

もっとも、ここで誤解してはいけない。

田中真紀子は2002年を境に政治から消えたわけではない。2003年には無所属で衆議院議員に返り咲き、その後も国政に残った。2009年には民主党に入り、2012年には野田佳彦内閣で文部科学大臣として再入閣している。

したがって、本稿でいう「政治の中心から離れた」とは、国会議員でなくなったという意味ではない。

2001年当時のように、田中の発言や去就そのものが政権の支持や政治日程に影響するほどの、全国政治の中心的存在ではなくなったという意味である。

では、なぜ田中真紀子はあれほどの人気を集め、その人気を長期的な政治権力へ変えることができなかったのだろうか。

そこには本人の個性だけでは説明できない、1990年代から2000年代初頭という時代そのものが横たわっている。

「田中角栄の娘」だけでは、あの人気は説明できない

田中真紀子を語るとき、父・田中角栄を避けて通ることはできない。

田中角栄は、戦後日本政治の中でも特異な巨大政治家だった。道路を造り、新幹線を引き、地方へ公共事業を導き、「日本列島改造論」を掲げたその政治は、高度経済成長期の日本が抱いていた上昇への欲望と重なっていた。

その娘が1993年の衆議院選挙で初当選したのだから、政治的知名度という点で田中真紀子が最初から圧倒的に有利だったことは否定できない。

だが、父の名前だけで2001年前後の熱狂まで説明することは難しい。

むしろ興味深いのは、父と娘がまったく異なる方法で大衆と結びついたことである。

田中角栄の政治は、道路、鉄道、予算、公共事業という目に見える利益を地方へ配分することによって支持を形成した。それに対して田中真紀子が有権者に与えたものは、道路でも補助金でもなかった。

彼女が提供したものは、「政治に対して自分たちが感じている不満を、代わりに言葉にしてくれる」という感覚だった。

1998年の自由民主党総裁選で、小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評した有名な言葉は、その特徴をよく表している。

この三語には政策論がほとんどない。

しかし政治家の人物像は、一瞬で伝わる。

複雑な派閥力学や政策思想を知らなくても、「凡人・軍人・変人」なら誰にでも分かる。田中は永田町の複雑な出来事を、普通の人が理解できる人物劇へ変換する能力を持っていた。

政治を「翻訳する政治家」だったのである。

田中真紀子を必要とした1990年代

しかし、優れた話術を持つ政治家なら、それ以前にもそれ以後にもいた。

田中人気を理解するには、彼女の能力だけではなく、彼女を必要とした時代を見る必要がある。

1990年代の日本は、政治に対する信頼が大きく揺らいだ時代だった。

バブル経済が崩壊し、長い経済停滞が始まった。1993年には自民党が一時政権を失い、その後も新党の結成と解散、政党の合流と分裂が繰り返された。官僚不祥事も続き、それまで日本を支えてきたはずの政治家、官僚、金融機関、大企業への信頼が少しずつ崩れていった。

それでも永田町では、派閥、人事、政局という一般国民には理解しにくい論理が動いているように見えた。

そこに田中真紀子が現れた。

彼女は「政治とは複雑なものだから仕方がない」とは言わなかった。

むしろ、その複雑さ自体を笑った。

政治家をあだ名のような言葉で評し、官僚の論理を茶化し、自民党内部にいながら自民党の古さを批判する。

その姿は、政治家というより、ときに永田町へ送り込まれた国民代表の評論家のように映った。

この時代背景を考えれば、田中人気は本人の話術だけによって生まれたものではない。

「既成政治を信用できない」という社会側の需要と、「既成政治を分かりやすく批判できる」という田中の能力が一致した結果だったと考える方が合理的である。

人気を一つの原因だけで説明するのではなく、田中角栄という政治的資産、本人の言語能力、テレビという媒体、政治不信の拡大、自民党への閉塞感が重なった結果として考えるべきだろう。

テレビ政治と田中真紀子

さらに、田中真紀子の政治家としての性格は、テレビという媒体と非常に相性がよかった。

テレビは長い政策説明より、一瞬で意味が伝わる言葉を好む。

財政政策について十分間説明する政治家より、「この人は凡人です」と一言で言う政治家の方が映像として強い。

田中には表情があり、声に抑揚があり、言葉に毒があった。

だから発言の一部を切り取ってもニュースになる。

これは政策能力とは別の能力である。

政治家の人気を考える場合、本来なら「政策形成能力」「組織管理能力」「選挙能力」「説明能力」「メディア適応能力」といった複数の能力を分けて考えなければならない。

田中が突出していたのは、その中でも説明能力とメディア適応能力だった。

ところが視聴者から見ると、その区別は見えにくい。

分かりやすく話す政治家は、政治そのものにも強そうに見える。

ここに、後に田中政治が直面する問題の萌芽があった。

人気は政治家を権力の入口まで運ぶ。

しかし、人気と統治能力は同じものではない。

小泉純一郎と田中真紀子という「最強の組み合わせ」

2001年、この田中人気を最大限に利用した政治家が小泉純一郎だった。

森喜朗政権末期、自民党に対する閉塞感は極めて強かった。そこへ小泉は、「自民党を変える」「自民党をぶっ壊す」という、従来の自民党総裁候補とは異なる姿勢で登場した。

田中は小泉支持に回った。

ここで二人の政治スタイルが奇妙なほど一致する。

小泉は政治を「改革する側」と「抵抗する側」という物語に変えた。

田中もまた、「普通の国民」と「古い永田町」という構図で政治を語ってきた。

政策の内容まで同じだったわけではない。

しかし政治を複雑な利害調整ではなく、分かりやすい対立として示すという方法では非常によく似ていた。

田中の人気が小泉総裁選勝利のどれほどを説明するのかを数量的に分離することはできない。総裁選の結果には地方票、小泉自身の人気、森政権への反発、党内事情など多くの要因が存在するからである。

それでも、田中が小泉陣営に「古い自民党と闘う」という象徴性を加えたことは否定しにくい。

そして2001年4月、小泉が首相になると、田中真紀子は外務大臣に就任した。

政治を批判する人から、政治を実際に動かす人へ。

ここで、田中真紀子の政治人生は大きく変わった。

外から批判する政治と、中から動かす政治

外務省は当時、決して平穏な組織ではなかった。

機密費をめぐる不祥事などによって国民の信頼を失い、組織改革を迫られていた。田中が「外務省改革」を掲げたこと自体には、十分な社会的背景があった。

さらに、その後の外務省自身の調査でも、鈴木宗男衆議院議員と外務省との関係について、行政の公平性や透明性への疑念を招く問題が存在していたことが認められている。

外務省はその関係を、「社会通念に照らしてあってはならない異常な状態」とまで総括した。

したがって、田中が外務省と政治家との関係に問題意識を持ったこと自体を、単なる思い込みや感情的反発として処理するのは公平ではない。

実際に改革すべき問題は存在していたのである。

しかし、ここからが難しい。

問題を発見する能力と、問題を解決する能力は同じではない。

政治家が役所の外から官僚を批判するなら、「ここがおかしい」と指摘するだけでも政治的意味がある。しかし大臣になれば、その役所は翌朝から自分が動かさなければならない組織になる。

昨日批判した官僚とも会議をしなければならない。

外交日程を組み、人事を決め、外国政府と交渉し、国会へ答弁し、首相官邸とも調整する。

外務省という巨大組織を改革するには、問題を暴くだけでは足りない。

組織内部に協力者をつくり、制度を変更し、その制度を継続して動かす必要がある。

田中の政治手法は、対立点を鮮明にする局面では非常に強かった。

一方で、対立した相手を含む組織を内部から動かさなければならない局面では、大きな摩擦を生じさせた。

これは田中個人の人格を断定する話ではない。

政治手法と役職との適合性の問題である。

「既成組織を批判する政治家」として効果的だった方法が、「既成組織を使って政策を実行する大臣」になったときには、必ずしも同じ成果を生まなかったのである。

NGO問題では、何が確定しているのか

その矛盾が最も大きく表面化したのが、2002年1月のアフガニスタン復興支援国際会議をめぐる問題だった。

NGO(Non-Governmental Organization・非政府組織)の会議参加をめぐり、田中外相と外務省事務方との説明が食い違った。

田中側は鈴木宗男議員の関与を問題視した一方、外務省側とは事実認識に相違が生じ、国会審議まで混乱することになる。

ここは、後から振り返るほど慎重に区別しなければならないところである。

鈴木宗男氏と外務省との関係に問題が存在していたこと自体は、その後の外務省調査によって確認されている。

しかし、それによって、このNGO参加問題について田中の認識がすべて正しかったと証明されたわけではない。

「外務省と政治家との間に不適切な関係が存在した」という事実と、「この個別案件がその政治的圧力によって決定された」という事実は同じではない。

後者については当事者の説明に食い違いが残った。

田中真紀子の外相時代を公平に評価するなら、「彼女の問題意識には根拠があった」ということと、「個々の判断や行政運営が適切だったか」ということを分けて考えなければならない。

批判対象に問題があったからといって、批判する側のすべての判断が正しくなるわけではない。

逆に、行政運営に混乱を生じさせたからといって、指摘していた問題まで存在しなかったことになるわけでもない。

田中真紀子をめぐる評価が今も分かれる理由の一つは、この二つがしばしば混同されるからだろう。

2002年1月29日、更迭

国会の混乱が続く中、小泉首相は2002年1月29日、田中外相を更迭した。

政府は後の国会答弁で、特定の一発言への処分というより、NGO問題をめぐって国会審議が混乱した状況を収拾し、審議を正常化するための判断だったと説明している。

それでも国民の側から見れば、別の物語が成立した。

古い自民党や官僚組織と闘っているように見えた田中が、その政治の内部から排除された。

小泉も結局、既存組織に妥協したのではないか。

その印象が政権に大きな打撃を与えた可能性は高い。

実際、時事通信の世論調査では、小泉内閣の支持率は2002年1月の67.8%から、2月には46.5%へ低下した。

下落幅は21.3ポイントに達する。

相対的に見れば、直前の支持率水準の約31%に相当する極めて大きな落ち込みだった。

ただし、この数字を扱う場合には注意が必要である。

時間的には、田中更迭と支持率急落がほぼ同時に起きている。

しかし、「更迭後に支持率が21.3ポイント下がった」という観測事実と、「田中を更迭したため21.3ポイント下がった」という因果関係は同じではない。

当時の政治状況には、外務省問題そのものへの不信や経済状況、政権運営への評価など複数の変数が存在した。

田中を更迭しなかった場合の小泉内閣支持率を観測することはできない以上、21.3ポイントのすべてを田中更迭の効果とみなすことはできない。

それでも、下落の時期と大きさを考えれば、更迭が小泉政権にとって重要な政治的転機の一つだったと評価することには十分な合理性がある。

つまり、田中真紀子は一閣僚だったにもかかわらず、その去就が政権全体の「改革イメージ」と結びつくほど大きな存在になっていたのである。

それでも「改革者の悲劇」だけでは終わらなかった

もし田中が外相を更迭されただけなら、その後も「官僚機構に抵抗して排除された改革者」という物語によって、人気を維持した可能性はあった。

しかし、その年、政治状況はさらに変わる。

公設秘書給与をめぐる疑惑が浮上し、自民党は田中に2年間の党員資格停止処分を決めた。田中は不正を否定したが、2002年8月には衆議院議員を辞職する。

重要なのは、その後の司法判断である。

東京地方検察庁は最終的に田中を起訴せず、2003年には不起訴となった。

したがって、この問題を「田中真紀子が秘書給与を不正に取得した事件」と断定するのは適切ではない。

疑惑が政治問題化したことと、犯罪が立証されたことは別である。

しかし、政治の時間は司法判断より速く進む。

外相を更迭された政治家が、その数カ月後には党から処分され、さらに国会議員を辞職した。

2001年春から見れば、わずか一年余りである。

この速度が、「田中真紀子は突然消えた」という後世の印象をつくった。

ただし実際には、ここで政治生命が終わったわけではなかった。

田中真紀子は、一度消えてから戻ってきた

2003年の衆議院選挙で、田中は無所属として新潟5区から出馬し、当選する。

これは重要な事実である。

もし2001年の田中人気がテレビだけによってつくられた一時的な現象だったなら、一度議員を辞めた後に選挙で国政へ戻ることは容易ではない。

少なくとも地元には、なお相当な政治基盤が残っていた。

そこには田中角栄以来の後援基盤、田中本人への支持、外相更迭への同情など、複数の要因が作用していたと考えるべきだろう。

その後、田中は2009年に民主党へ入党する。

田中角栄の娘が、自民党から政権を奪おうとしていた民主党に加わったという出来事には、日本政治の30年間を凝縮したような皮肉があった。

そして民主党政権下の2012年10月、野田佳彦第3次改造内閣で文部科学大臣となる。

外相更迭から約10年。

田中真紀子は再び大臣として中央政治へ戻ったのである。

だから、田中真紀子の政治人生を「2002年に失脚して終わった」と書くのは正確ではない。

本当に問うべきなのは、なぜ復活したにもかかわらず、2001年当時のような圧倒的な政治的存在感を取り戻すことができなかったのか、ということである。

文部科学大臣でも繰り返された「問題提起と実施」の距離

2012年、田中文部科学大臣は再び大きな論争を起こした。

大学設置・学校法人審議会が設置を認める答申を出していた三大学について、田中は当初、認可しない方針を表明した。

背景には、少子化にもかかわらず大学数が増えてきたことや、大学設置行政そのものを見直す必要があるという問題意識があった。

この問いそのものは、その後の日本社会を考えても無意味ではない。

人口が減り、18歳人口も減少する中で、大学の数と教育の質をどう考えるのかは現在まで続く政策課題だからである。

しかし、制度全体を改革すべきだという問題意識と、現行制度に従って長期間準備を進め、審議会の答申まで得た個別大学を認可しないことは別問題だった。

学生募集を予定していた大学や受験生に混乱が広がり、国会でも大きな問題となる。

最終的に田中は方針を変更し、三大学は認可された。

ここには、外相時代とある程度共通する構造を見ることができる。

既存制度に対する問題点を発見し、それを強い言葉で提示するところでは田中の政治は大きな注目を集める。

しかし、その問題を現行制度の中でどう処理し、どの順序で制度改革へつなげるかという段階になると、大きな摩擦が起きる。

一度だけなら偶然かもしれない。

しかし外務大臣時代と文部科学大臣時代という、約10年離れた二つの局面で似た現象が見られたことを考えれば、「田中の政治手法には、問題提起の強さに比べて制度的実装の段階で摩擦が大きくなりやすい傾向があった」という仮説には一定の説明力がある。

ただし、それは田中という人物の性格を心理的に断定することとは違う。

政治家として観察された行動パターンについての評価である。

2012年の落選だけを、田中人気の消滅とは読めない

2012年12月の衆議院選挙で、田中は新潟5区から民主党候補として出馬した。

得票は5万1503票。

自民党の長島忠美は8万0488票を獲得し、田中は敗れた。

票差は2万8985票であり、決して僅差ではなかった。

この選挙を境に、田中は国会議席を失い、その後、再び国政の中心へ戻ることはなかった。

しかし、ここでも原因を単純化すると歴史を読み違える。

2012年の衆議院選挙は、民主党政権全体が猛烈な逆風を受けた選挙だった。

2009年の政権交代で308議席を得た民主党は、この選挙で大幅に議席を失う。

したがって田中の落選を、田中個人への評価だけで説明することはできない。

個人人気の低下、民主党政権への失望、自民党への政権回帰、選挙区事情などが同時に作用した結果と考える方が妥当である。

田中真紀子の政治人生は、いつも一つの原因で説明することが難しい。

人気が出たときもそうだった。

人気を失ったときもそうだった。

なぜ人気を「権力」に変えられなかったのか

ここまでを振り返ると、田中真紀子という政治家の特徴が少し違って見えてくる。

「毒舌だから人気が出て、毒舌だから失敗した」という説明では不十分である。

田中人気を形成した要因は少なくとも複数存在していた。

父・田中角栄から受け継いだ圧倒的な知名度と選挙基盤があり、1990年代の政治不信があり、テレビ政治の発達があり、自民党政治への閉塞感があり、そこへ田中自身の卓越した言語表現能力が重なった。

さらに2001年には、小泉純一郎というもう一人の強力なメディア型政治家との組み合わせが生まれた。

これらが同時に作用したため、田中人気は爆発的なものになった。

一方、政治の中心から遠ざかった理由も一つではない。

外務省との対立だけではなく、行政組織を率いることの難しさ、NGO問題による国会混乱、秘書給与問題による政治的打撃、自民党との関係悪化、その後の政党移動、民主党政権への逆風、2012年の大学認可問題などが時間をかけて重なった。

つまり田中真紀子を理解するには、一つの原因から一つの結果が生まれたと考えるより、複数の要因が相互作用した多変量的な政治現象として見る方がよい。

そして、その中でも特に重要なのが「人気」と「統治」の違いではないだろうか。

人気政治家には、人々の感情を言葉に変える能力が必要である。

しかし政権中枢に長く残る政治家には、それとは別の能力も必要になる。

役所を動かし、党内をまとめ、対立する相手とも交渉し、制度へ落とし込み、法律や予算として残す能力である。

田中真紀子は、前者では平成政治を代表するほど強かった。

後者については、少なくとも外務大臣時代と文部科学大臣時代を見る限り、その強さを同じ程度には示すことができなかった。

ここに、彼女の人気と権力との間に生まれた距離がある。

小泉純一郎との違いは、どこにあったのか

この点で、小泉純一郎との比較は興味深い。

二人とも既成政治を批判し、分かりやすい言葉を使い、テレビと相性がよかった。

しかし小泉は、郵政民営化という具体的な政策目標へ政治エネルギーを集中させた。

党内で反対されると衆議院を解散し、反対派を公認せず、選挙で多数を取り、最後には法案を成立させる。

その政策自体をどう評価するかは別問題である。

重要なのは、小泉が自分の政治的メッセージを、党の公認、選挙、議席数、国会採決、法律という制度へ変換したことである。

田中の政治は、それとは違った。

彼女の最大の武器は、「誰も口にしない違和感を、一言で言葉にする」ことだった。

それによって世論を動かすことはできた。

しかし、その違和感を法律や制度へ変えるところまで政治を継続することは、はるかに難しかった。

ここに二人の決定的な違いがある。

小泉は分かりやすさを権力へ変換した。

田中は分かりやすさそのものが政治的魅力だった。

それでも、田中真紀子が記憶から消えない理由

では、田中真紀子は失敗した政治家だったのだろうか。

そう結論づけると、やはり何か重要なものを落としてしまう。

首相にはならなかった。

外相在任は短かった。

文部科学大臣としても長期政権を担ったわけではない。

田中の名前を冠した巨大な制度改革が残ったわけでもない。

それでも、2001年前後の日本政治を語るとき、田中真紀子を抜きにその時代の空気を説明することは難しい。

なぜなら田中が表現していたものは、田中自身だけの感情ではなかったからである。

「政治家はなぜこんなに分かりにくいことを話すのか」

「官僚は本当に国民のために動いているのか」

「派閥の都合で政治が決まっているのではないか」

「もっと普通の言葉で説明できないのか」

1990年代から2000年代初頭の日本社会に蓄積していたそうした疑問を、田中はテレビの前で言葉にした。

だから、人々は彼女に自分たちの不満を重ねることができた。

そこに田中人気の本質があった。

そして、そこに田中政治の限界もあった。

政治を外から見る人間にとって、「おかしいものを、おかしいと言う」ことは政治参加になる。

しかし政治の中心に入った人間には、その次の仕事がある。

おかしい制度をどう変えるのか。

誰を説得するのか。

どの法律を変えるのか。

予算はいくら必要なのか。

反対する人間とはどこまで妥協するのか。

そこから先の政治は、テレビではあまり面白くない。

会議があり、根回しがあり、文書があり、修正協議があり、採決がある。

だが、国家を実際に動かしているのは、その退屈な部分でもある。

田中真紀子は、その退屈さに苛立つ国民の感情を、驚くほど鮮明に表現した政治家だった。

だからこそ、人々は彼女を支持した。

一方で、政治の中心に長く残るためには、その退屈な政治そのものを引き受けなければならない。

そこに田中真紀子という政治家の最大の逆説があったのではないだろうか。

人気が政治家を権力の入口まで運ぶことはある。

一人の閣僚の更迭が、政権支持率を大きく揺らすことさえある。

しかし人気は、官僚組織を自動的に動かしてくれるわけではない。

法律を成立させてもくれない。

対立する政治家との合意をつくってもくれない。

田中真紀子の政治人生が示したのは、人気と政治的実行力が同じものではないという、民主政治にとって単純だが厄介な事実だった。

彼女は政治の中心に長くいたから記憶されているのではない。

政治の外から永田町を切り、その言葉によって一気に中心へ入り込み、中心に入ったことで自らの政治手法の限界にも直面し、それでも一度は戻り、最後には再び中心から離れていった。

その軌跡そのものが、平成という時代の政治を映している。

田中真紀子はなぜ、あれほど人気を集めたのか。

国民が言いたかったことを、国民より先に言ったからである。

では、なぜその人気を長期的な権力へ変えられなかったのか。

政治には、言うこととは別に、動かすことが必要だったからである。

田中真紀子という政治家を振り返ったとき最後に残るのは、おそらくこの二つの事実の間に横たわる距離なのである。

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石原慎太郎という人物を振り返るとき、最初に注意しなければならないことがある。彼は、作家をやめて政治家になった人ではない。

一橋大学在学中の1955年、『太陽の季節』で文学界新人賞を受賞し、翌1956年には同作で芥川賞を受けた。作品が描いた戦後の若者像は大きな論争を呼び、「太陽族」という言葉まで生み出した。それから12年後の1968年、石原は参議院議員選挙に立候補して政治の世界へ入るが、その後も小説を書くことをやめなかった。国会議員になった後の1970年には長編『化石の森』を刊行し、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞している。1988年には「生還」で平林たい子文学賞を受け、1995年に衆議院議員を辞職した後には弟・石原裕次郎との関係を描いた『弟』を発表した。さらに東京都知事になってからも、小説や随筆を発表し続けている。

したがって、石原慎太郎の人生を「文学から政治への転身」とだけ捉えると、重要な部分を見失う。

彼は作家であることをやめて政治家になったのではなく、作家として言葉によって社会に働きかけながら、政治という別の方法でも社会へ働きかけるようになった。文学と政治は交代したのではなく、長い期間にわたって並行していたのである。

そう考えると、石原慎太郎という人物を理解するための問いも少し変わってくる。

なぜ作家が政治家になったのか、だけではない。

なぜ文章によって十分な名声を得ていた人物が、なお現実の政治権力を必要としたのか。そして長い国政経験の末に、なぜ東京都という都市を自らの政治の中心舞台に選んだのか。

その二つを追っていくと、作家・石原慎太郎と政治家・石原慎太郎は、意外なほど近いところでつながっている。

『太陽の季節』の青年と、後年の政治家は同じではない

晩年の石原慎太郎を知る人にとって、彼には強硬な保守政治家という印象が残っているかもしれない。国家、安全保障、憲法、中国、米国との関係について強い言葉で発言し、時には激しい批判を受けた人物でもある。

しかし、若いころから同じ政治思想を一直線に持っていたわけではない。

1950年代末には、警察官職務執行法改正に反対した文化人グループ「若い日本の会」に参加している。そこには開高健、大江健三郎、江藤淳ら当時の若い知識人が集まっていた。後年の石原の政治姿勢だけから振り返れば、多少意外に見える経歴である。

もっとも、人間の政治思想が数十年間まったく変化しない方が珍しい。若い時代の立場と後年の立場が違うこと自体を、ただ「変節」と呼んでも石原慎太郎という人物は理解できない。

むしろ、思想の内容が変わっても残り続けたものを見る必要がある。

その一つが、傍観者であることに対する強い違和感だったのではないだろうか。

『太陽の季節』に描かれた若者たちは、慎重に社会を観察し、その中で穏やかに折り合いをつけて生きる人物ではない。既成の道徳や秩序から距離を取り、自ら行動し、その結果として他者を傷つけ、自分自身も傷ついていく。

もちろん、小説の登場人物を作者本人と同一視することはできないし、小説から政治思想を直接導き出すべきでもない。それでも石原の作品世界に、行為、肉体、競争、海、冒険、危険といった主題が繰り返し現れることは確かである。

世界について考えるだけではなく、その世界の中へ自分から踏み込んでいく。

後年の政治家・石原慎太郎にも、この性質はかなり色濃く残っていた。

政治家になろうと決めたベトナムでの経験

石原自身は、なぜ政治家になったのかについて後年かなり具体的に語っている。

1960年代、石原はベトナム戦争を現地で経験した。2011年の東京都知事記者会見で当時を振り返った石原は、サイゴンの知識人たちと話しているうちに、戦争という深刻な問題が身近で進行しているにもかかわらず、知識人ほどそこから距離を置こうとしているように感じたと説明している。

そして、その姿が当時の日本の知識人にも似ていると考え、「この国は危なくなるのではないか」と心配し、政治家になろうと決心したという。

これは重要な証言だが、扱いには少し注意が必要である。

2011年になって本人が40年以上前を振り返った回想であり、ベトナム戦争だけが政界入りの唯一の原因だったと断定することまではできない。当時の石原はすでに著名作家であり、社会評論や文化活動にも関わっていた。本人の思想的関心だけでなく、高い知名度を政治的資源へ転換できる環境も整っていた。

それでも、本人が政界入りの契機としてベトナム体験を語っていることには意味がある。

そこに表れているのは、「知識人が論評しているだけでは現実は変わらない」という感覚だからである。

作家は社会について書くことができる。しかし、法律をつくることも予算を執行することもできない。

言葉によって社会を描くことと、政治権力によって社会の仕組みそのものを変えること。その二つの間にある距離を、石原は強く意識するようになったのかもしれない。

1968年、石原は参議院議員選挙の全国区に出馬し、300万票を超える最高得票で当選した。

この結果には当然、作家としての知名度が作用している。

つまり政治家・石原慎太郎の出発点には、すでに作家・石原慎太郎がいたのである。

文学と政治はここで切断されたのではない。文学によって築いた社会的知名度と言葉の力が、選挙によって政治的な力へ変換されたと考える方が実態に近い。

国政の中枢には近づいたが、その頂点には届かなかった

石原の国政経歴は決して短くない。

1972年には参議院から衆議院へ移り、その後連続8回当選した。環境庁長官、運輸大臣を務め、1989年には自由民主党総裁選挙にも立候補している。単なる「作家出身のタレント議員」として政治生活を終えた人物ではない。

一方で、首相になることも、自由民主党総裁になることもなかった。

ここを「国会では主人公になれなかった」と評してしまうと、石原の長い国政経歴を過小評価することになる。それよりも重要なのは、国会議員と東京都知事では政治家として持つ権限の性質が大きく異なるという点だろう。

一人の国会議員には、自分だけの判断で行政組織を動かす権限はない。与党政治家であっても、党内調整、国会審議、官僚組織、予算、他党との関係などを通じて政策を実現していかなければならない。

これは政治家の自由を妨げるだけの仕組みではない。異なる意見を調整し、権力を一人に集中させないための民主政治の制度でもある。

これに対して都道府県知事は、住民による直接選挙で選ばれ、地方公共団体の執行機関の長として行政組織を率いる。もちろん議会の議決や法律による制約を受けるため、知事が何でも自由に決められるわけではない。それでも、一議員と比較すれば政策課題を設定し、予算案や条例案を提出し、行政組織を通じて政策を実施していく能力ははるかに大きい。

この制度上の違いは、後の石原都政を理解するうえで重要である。

1975年、石原は一度東京に敗れている

石原と東京都知事という職の関係は、1999年に突然始まったものではない。

1975年、石原は東京都知事選挙に出馬している。

当時の現職は美濃部亮吉だった。社会党や共産党などの支援を受けた美濃部に対して、石原は世代交代を訴えて戦ったが敗れた。

その後、石原は国政へ戻り、二十年間にわたって衆議院議員を続ける。

1995年には突然、衆議院議員を辞職した。

その後は作家活動に比重を戻し、弟・裕次郎との関係を描いた『弟』などを発表する。一度は政治生活を終えたかに見えた。

ところが四年後の1999年、石原は再び東京都知事選挙に立候補する。

このとき石原は66歳だった。

東京都知事として政治の世界へ戻った石原は、その後2012年まで約13年半にわたって都政を率いることになる。

なぜ、再び東京だったのか。

ここに石原慎太郎という政治家の特徴を読み解く鍵がある。

「東京から日本を変える」という発想

石原は後年、1999年の都知事選に出馬した理由について、東京を「文明工学的に、社会工学的に大事な意味合い」を持つ都市だと考えていたと説明している。

そして掲げたのが、「東京から日本を変える」という考えだった。

この言葉は、単なる選挙用の標語として片づけない方がよい。

石原都政を通して見ると、この発想がその後も繰り返し現れるからである。

東京は日本の47都道府県の一つである。しかしその人口、企業集積、税収、大学、情報機関、金融機関、文化産業、官公庁の集中度を考えれば、他の自治体とは異なる影響力を持っている。

東京都が新しい政策を実施すれば、その影響は都内だけにとどまらない。

事業者が東京市場に対応するため全国の商品やサービスを変更することもある。周辺県が同様の制度を採用することもある。東京都の政策が国の制度変更を促す場合もある。

石原は、この東京の特殊性を政治的な力として利用しようとした。

国会の中から国を変えるのではなく、東京という巨大都市を動かすことによって国を動かす。

それが「東京から日本を変える」という言葉の実質だった。

そしてこの方法は、作家時代から一貫していた石原の発信力と非常に相性がよかった。

黒い煤を見せるという政治

石原都政を象徴する政策の一つが、ディーゼル車の排出ガス規制である。

当時、東京では自動車から排出される粒子状物質などによる大気汚染が大きな問題となっていた。東京都は1999年に「ディーゼル車NO作戦」を開始し、条例による規制へ進む。2003年10月からは東京都を含む一都三県で、一定の粒子状物質排出基準を満たさないディーゼルトラックやバスなどの走行が規制された。

この政策で記憶されているのが、石原がペットボトルに入れた黒い煤を示した場面である。

大気汚染は目に見えにくい。

「粒子状物質の排出量」と説明しても、多くの人にとって実感しにくい。

しかし透明な容器の中に黒い煤を入れて見せれば、問題は一瞬で視覚化される。

ここには作家としての石原慎太郎と政治家としての石原慎太郎が重なって見える。

複雑な問題から象徴的な場面を一つ取り出し、人々が理解できる物語に変えて提示するのである。

ただし、政治における分かりやすさには危険もある。

ディーゼル車問題は、「ディーゼルエンジンは悪い」という単純な問題ではない。規制対象となる車種や排出基準、粒子状物質低減装置、低硫黄軽油への転換、事業者が負担する車両更新費用など、多くの要素から成り立っていた。東京都の規制でも乗用車は対象外で、一定の基準を満たした車両は走行可能だった。

政治家には複雑な問題を国民に理解できる形で説明する能力が必要である。

しかし分かりやすくすることと、単純化することの間には細い境界がある。

石原慎太郎の政治は、その境界の上を歩くことが多かった。

成功した「突破」と失敗した「突破」

東京から日本を変えるという政治手法が一定の成果につながった政策がある一方、同じような決断型の政治が問題を生んだ例もある。

その代表が新銀行東京である。

石原都政は、既存の金融機関から十分な融資を受けにくい中小企業への資金供給などを目的として、新しい銀行の設立を進めた。

政策の目的それ自体には理解できる部分があった。

中小企業が資金調達に困っているのであれば、東京という巨大な自治体が新しい金融の仕組みをつくる。これもまた、「国や既存制度ができないなら東京がやる」という石原都政らしい発想だった。

しかし、銀行経営は政治的意思だけで成立するものではない。

融資には信用リスクがあり、預金を集め、審査を行い、適切な金利を設定し、不良債権を抑えながら収益を確保しなければならない。

新銀行東京は経営難に陥り、東京都は設立時の1000億円に加えて、2008年に400億円を追加出資することになった。都議会では、事業計画そのものに無理があったのではないかという批判や、東京都および石原知事の政治的責任を問う議論が続いた。

一方で、石原の説明も書いておく必要がある。

石原自身は新銀行東京を発案したのは自分だと認めながら、経営危機の直接的な責任については、実際の経営を担った旧経営陣にまずあるとの立場を取っていた。そのうえで取締役会や株主である東京都にもそれぞれの責任があるという整理を示している。

この問題を「石原が1400億円を失敗した」とだけ書けば正確ではないし、反対に「経営陣だけの責任だった」としても問題の全体像は見えない。

重要なのは、政策の発案責任と企業の日常的な経営責任を区別しながら、公的資金を用いて自治体が銀行を設立するという政策判断そのものが妥当だったのかを検証することである。

そして、ここには石原政治の一つの限界が表れている。

政治家が強い意志を持って制度を突破することと、事業が経済的に持続可能であることは同じではない。

ディーゼル規制では「東京が先に動く」ことが制度革新につながった。

新銀行東京では、同じ「東京が自分でやる」という発想が大きな財政リスクを生んだ。

成功と失敗は別々の人物から生まれたのではない。

同じ政治手法の表と裏だったのである。

石原慎太郎は、言葉によって政治をした

石原慎太郎ほど、言葉そのものが政治的評価に直結した東京都知事も珍しい。

支持者から見れば、既成の政治家が避ける問題をはっきり語る人物だった。

しかしその言葉は、しばしば社会的な批判も引き起こした。

2000年には、自衛隊の式典で「三国人」という言葉を用いた発言が問題となった。東京都議会には撤回や謝罪を求める請願や陳情が出され、当時の河野洋平外務大臣も、公職者がそうした言葉を不用意に使用すれば、傷ついたり名誉を損なわれたと感じたりする人がいる可能性があるとして慎重な使用を求める趣旨の発言をしている。

石原側は、自分の発言の意図について説明し、差別を目的としたものではないという立場を取った。

しかし政治家の言葉を評価するとき、本人の意図だけで十分とはいえない。

東京都知事は、政治的意見や国籍、民族的背景、年齢、職業、生活環境の異なる多くの人々を代表する公職である。その立場から発せられる言葉には、私人や作家とは異なる重みがある。

ここに作家と政治家の決定的な違いが現れる。

作家には、読者を不快にさせる表現を書く自由もある。挑発や極端な人物造形によって人間や社会の矛盾を描くことも文学の方法になり得る。

しかし行政の長は、挑発するだけでは済まない。

言葉によって社会に問題を投げかけることと、異なる立場の住民を統治することは別の仕事だからである。

石原は政治家になった後も、作家時代から持っていた強い言葉を手放さなかった。

それが政治的魅力になった場面もあれば、公職者としての慎重さを欠くと批判された場面もあった。

評価が大きく分かれる原因は、実は同じところにあったのである。

東京はついに外交の領域まで踏み込んだ

石原が東京都を単なる地方自治体として考えていなかったことを最も象徴する出来事が、2012年の尖閣諸島購入構想だった。

石原は東京都による尖閣諸島の購入方針を打ち出し、東京都は寄付を募集した。

本来、外交や領土、安全保障は中央政府が担う分野である。

それでも石原は、国の対応が十分ではないと考え、東京都という自治体を使って問題を動かそうとした。

政府はその後、魚釣島、北小島、南小島の三島を購入して国有化した。外務省の説明資料でも、その背景として2012年4月以降に東京都による購入の動きがあったことが示されている。

したがって、石原の構想が中央政府の判断に影響したこと自体は否定しにくい。

しかし、その後の日中関係の緊張をすべて石原一人の責任とするのも適切ではない。

尖閣諸島をめぐっては、それ以前から日本と中国の間に認識の対立があり、中国公船の活動、日本国内の世論、中央政府の判断など複数の要因が重なっていた。

石原の行動は、その複雑な過程を大きく動かした一つの要因として位置づけるのが妥当だろう。

それでも、この出来事は石原の政治観を鮮明に示している。

国が動かないと考えれば東京が動く。

東京が動けば国が動かざるを得なくなる。

1999年に掲げた「東京から日本を変える」という政治思想は、13年後には地方自治の範囲を越えて、外交問題にまで及んだのである。

なぜ東京は石原慎太郎に適していたのか

ここまで振り返ると、なぜ石原が東京を自分の政治的舞台にしたのかが見えてくる。

国政には巨大な権力がある。

しかし一人の国会議員がそれを自由に使えるわけではない。

反対に、小規模な自治体の首長なら行政に直接関与する力は強くなるが、その政策が日本全体を動かすほどの影響力を持つとは限らない。

東京はその二つの中間に位置していた。

地方自治体であるため、知事は直接選挙による独自の政治的正統性を持ち、巨大な東京都庁の執行機関を率いる。

同時に、日本最大の都市として、そこで行われる政策は全国的なニュースとなり、周辺自治体、企業、中央政府、場合によっては外国にまで影響を与える。

石原自身も、東京にはさまざまな「集中、集積」があり、日本を動かす原動力になり得るという認識を示している。

この都市の性格と、石原慎太郎の政治手法はよくかみ合っていた。

自ら問題を発見する。

それを強い言葉で社会に提示する。

行政組織を動かす。

そして、その行動自体を全国へ発信する。

こうして政策と政治的演出が一つの流れになる。

石原にとって東京都知事になることは、国政から地方政治へ格下げされることではなかったのだろう。

別の経路から国政へ影響する方法を手に入れることだったのである。

作家として培ったものは、政治の中にも残った

石原慎太郎の政治について考えるとき、「政治も彼にとって作品だった」とまで断定するのは慎重であるべきだろう。

政治と文学は同じものではないからである。

それでも、両者に共通する方法を見ることはできる。

作家は複雑な現実の中から一つの問題を取り出し、人物や事件を配置し、読者に理解できる形へ変える。

政治家・石原慎太郎も、複雑な政策問題を象徴的な場面に変えることに長けていた。

黒い煤が入ったペットボトルは、その典型だった。

「東京から日本を変える」という言葉もそうである。

多くの制度論を説明する代わりに、一つの短い言葉によって自分の政治を物語にしてしまう。

この能力は政治家として強力だった。

一方で、現実社会には小説のような作者はいない。

東京都という都市には、石原慎太郎に賛成する人だけが暮らしているわけではない。思想も利益も生活環境も異なる一千万人を超える人々が同じ都市を共有している。

政策には予想外の副作用が生じ、経済事業は失敗することもある。強い言葉を好む人がいる一方、その言葉によって排除されたと感じる人もいる。

だから民主政治には、強いリーダーだけでなく、議会、行政手続き、専門家による検証、情報公開、反対意見、司法といった複数の仕組みが必要になる。

石原慎太郎の東京都政は、「決められる政治」の魅力を示したと同時に、決断する人物を過度に中心に置く政治が抱える危うさも示した。

作家と政治家を往復したのではなく、二つを同時に生きた

石原慎太郎の人生を振り返ると、文学から政治へ、政治から文学へという単純な往復では説明しにくい。

1950年代には若い作家として時代の価値観を揺さぶった。

1968年には政治へ入りながら、その後も小説を書き続けた。

1995年に国会を去れば作家活動に比重を戻し、1999年には再び政治へ戻った。それでも執筆活動は続いた。

つまり石原慎太郎の中では、文学と政治は完全には分離していなかった。

文学では、自分が世界をどう見るかを書いた。

政治では、自分が考える世界へ現実を近づけようとした。

前者には作者の自由があり、後者には公権力と責任が伴う。その違いは決定的である。それでも、「自分の言葉によって現状を動かそうとする」という点では共通するものがあった。

だから石原慎太郎は、政治家になったことで作家でなくなったのではない。

むしろ作家として身につけた発信の方法を持ったまま、政治という別の領域へ入っていった。

そして長い国政経験の末に、その方法を最も大きく使える場所として見つけたのが東京だったのではないだろうか。

東京という巨大な舞台

石原慎太郎を称賛するだけなら、ディーゼル車規制のような実績を並べればよい。

批判するだけなら、新銀行東京や問題発言を並べればよい。

しかし、そのどちらかだけでは、なぜ石原慎太郎という政治家が長期間にわたって東京都民から選ばれ続けたのかも、なぜ同時にこれほど強い批判を受け続けたのかも説明できない。

政策を前へ動かす決断力と、独断的になり得る危うさ。

複雑な問題を理解しやすくする発信力と、現実を単純化してしまう危険。

既存制度に挑戦する姿勢と、制度的な慎重さを軽視する可能性。

石原政治では、こうした長所と短所が別々に存在していたのではなく、しばしば同じ性質の裏表として現れた。

だから評価が割れる。

そして、その評価の割れ方そのものが、石原慎太郎という人物の特徴だったともいえる。

23歳で『太陽の季節』によって世間を騒がせた若い作家は、その後も長いあいだ文章を書き続けた。

同時に政治家になり、国会へ入り、閣僚を務め、総裁選にも挑み、一度は政治の世界を去った。

そして66歳で再び東京という場所に立った。

そこには日本最大の人口と企業集積があり、巨大な行政組織があり、テレビカメラがあり、国政へ届く影響力があった。

「東京から日本を変える」という言葉ほど、石原慎太郎がなぜ東京都知事という職を選んだのかを簡潔に表したものはない。

東京は地方自治体でありながら、日本そのものに向かって語ることのできる場所だった。

言葉によって社会を刺激してきた作家にとって、これほど大きな舞台はなかったのだろう。

石原慎太郎にとって東京とは、最後に見つけた巨大な原稿用紙だった、と表現することもできる。

ただし、小説と違って、その原稿用紙の上には一千万人を超える人々が実際に生活していた。

石原慎太郎の政治を評価するとき、最後まで忘れてはならないのは、おそらくその違いなのである。

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2026年2月8日の夜、岩手3区の選挙結果は、一人の政治家の敗北というだけでは片づけにくい光景をつくった。

1969年、27歳で初当選して以来、半世紀を超えて国会に議席を持ち続け、2024年には19回目の当選を果たした小沢一郎が、自民党の藤原崇に敗れた。2021年にも小選挙区では初めて藤原に敗れたが、そのときは比例代表で議席をつないだ。2024年には再び岩手3区を奪い返したものの、20回目の当選を目指して中道改革連合から立候補した2026年の総選挙では、小選挙区で敗れ、比例代表でも議席を得られなかった。83歳だった。

その長い政治生活を振り返ると、一人の政治家の履歴というより、日本の政党政治そのものが何度も形を変えてきた時代の地層を眺めているように感じられる。

小沢は政権をつくった。大きな政党もつくった。自民党を下野させ、野党をまとめ、自民党と連立を組み、その自民党を再び政権から引きずり下ろす流れにも中心人物として関わった。それなのに、小沢が力を注いでつくった政治的な器の多くは、やがて分裂するか、消えていった。

そのため、小沢一郎には「剛腕」と並んで「壊し屋」という言葉が付きまとってきた。

しかし、40年近い政界再編を一続きの歴史として眺めると、単に人間関係を壊し続けた政治家という説明では足りない。

むしろ、小沢は政党を壊すことそのものを目的にしていたのではなく、自分が正しいと考える政治の仕組みを実現するためなら、政党という器を取り替えることをためらわなかった政治家だった、と考えた方が理解しやすい。

そして、その考え方こそが、彼を何度も政権の設計者にし、同時に「壊し屋」と呼ばれる原因にもなった。

「剛腕」は自民党を壊すために生まれたのではない

小沢一郎という名前が全国的な権力政治と結びついて語られるようになったのは、1980年代の自民党である。

この時代の小沢は、後年のような反自民の政治家ではなかった。むしろ自民党の中枢にいた。

田中角栄のもとで政治を学び、竹下登、金丸信らと行動し、1985年には田中派内部から生まれた創政会の形成に関わった。その流れは1987年の竹下派・経世会へとつながっていく。田中派という巨大な組織の内部で新しい多数派をつくり、権力の重心そのものを動かしていった経験は、後年の小沢政治を考えるうえで重要である。

1989年8月、小沢は自民党幹事長に就任した。47歳だった。その後も1991年4月まで三期にわたって幹事長を務めている。自民党幹事長は、単なる党務の責任者ではない。候補者の擁立、選挙区の調整、党の資金、国会対策、派閥間の調整など、政党という巨大組織を実際に動かす仕事が集中する役職である。

ここで小沢が身につけたのは、演説によって人々を熱狂させる政治とは少し違った。

政治理念を実現するには議席が必要であり、議席を得るには候補者を立てなければならず、候補者を当選させるには組織と資金と選挙戦術が要る。そして最後には、国会の中で過半数をつくらなければ政策を実現できない。

政治とは理念であると同時に、数でもある。

田中角栄の政治を間近に見ながら、小沢はその現実を徹底して学んだ。

皮肉なのは、自民党という巨大な政党の中で覚えたその技術を、数年後には自民党そのものを政権から降ろすために使うことになる点である。

小沢が壊そうとしたのは、自民党より「政権交代のない政治」だった

1990年代初頭、日本政治を取り巻く風景は大きく変わっていた。

冷戦が終わり、湾岸戦争では巨額の資金を拠出しながら、日本の国際的な役割をどう考えるべきかという問題が残った。一方、国内ではリクルート事件や東京佐川急便事件などによって政治不信が高まり、自民党内部でも最大派閥だった経世会が分裂していく。

1992年には、小沢と羽田孜らが経世会を離れて独自のグループを形成した。

このころ、小沢が考えていたのは単なる派閥争いだけではなかった。

1993年に出版した『日本改造計画』に象徴されるように、彼は政治家が政策決定の責任を負い、有権者が選挙によって政権を選択し、失敗すれば別の勢力に政権を渡す仕組みを重視していた。小選挙区を軸とする選挙制度と、政権を競い合える二つの大きな政治勢力をつくるという構想は、その後も小沢自身が繰り返し語っている。

この発想に立つと、政党の意味も変わる。

政党は一生所属し続ける家ではない。

政治を実現するための器である。

器が目的を果たせないのであれば、作り替えればよい。

後に小沢が何度も政党を離れ、新党をつくり、さらに別の党へ合流していく背景には、この考え方がある。

もちろん、そこには本人の権力闘争や党内対立もあった。小沢の行動をすべて高尚な制度改革だけで説明するのも現実的ではない。

それでも、自民党という組織を守ることと、政権交代可能な政治をつくることが両立しなくなったとき、小沢が前者より後者を選んだことは、その後の行動を見る限り一貫している。

1993年、小沢は初めて自民党を政権から降ろした

1993年、宮沢喜一内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されると、小沢や羽田らは自民党を離れ、新生党を結成した。

総選挙後、自民党は単独過半数を失う。そこで小沢らが動き、日本新党の細川護熙を首相候補として、社会党、公明党、新生党など八党・会派による非自民連立政権を成立させた。

1955年以来、ほぼ一貫して政権の中心にいた自民党が下野した。

戦後日本政治の大きな転換点だった。

小沢自身は首相にならなかった。

その代わりに、首相をつくった。

この構図は、その後の小沢政治を考えるうえで象徴的である。

自分が表舞台の頂点に立つより、候補者を立て、勢力を組み合わせ、過半数をつくり、政権そのものを設計するところに異常なまでの力を発揮した。

ところが、政権を成立させることと、成立した政権を維持することは、同じ仕事ではなかった。

ここから「剛腕」と「壊し屋」が少しずつ同じ輪郭を持ち始める。

政権をつくる力は、時として政権を不安定にする力にもなった

細川政権を成立させた連立勢力は、「自民党政権を終わらせる」「政治改革を進める」という点では協力できた。

しかし外交、安全保障、税制、社会政策、さらには政権運営そのものについてまで同じ考えを持っていたわけではない。

自民党に代わる政権を一度つくるための合意と、一つの政権として何年も統治するための合意は、似ているようで違う。

小沢は前者を組み立てることには極めて強かった。

だが政治には、その後がある。

予算をつくり、政策の細部を詰め、連立各党の主張を聞き、昨日反対した相手とも翌日には妥協しなければならない。改革の速度を落とさなければ組織がついてこないこともある。

そこで必要になるのは「決める力」だけではない。

時には待ち、譲り、不満を抱えた仲間を同じ船に乗せ続ける力も必要になる。

細川政権は1994年4月に退陣したが、その直接的な背景には政治資金問題などもあり、政権崩壊を小沢一人の責任に帰すことはできない。

続く羽田孜政権についても事情は単純ではない。羽田政権発足直前に新生党などが統一会派「改新」を結成したことに社会党が反発して連立を離れ、羽田内閣は発足時から少数与党になった。約2か月後には退陣に追い込まれるが、ここにも社会党との対立、連立各党の利害、国会の議席構成など複数の要因が絡んでいる。

したがって、「小沢が細川政権や羽田政権を壊した」と単純に言うことは正確ではない。

それでも興味深いのは、こうした政権再編のほとんどの転換点に小沢がいたことである。

政権を誕生させる局面にもいた。

連立の組み替えにもいた。

崩れた後に次の政党をつくる場面にもいた。

小沢自身がすべてを壊したわけではない。しかし、政治が大きく動く場所に小沢が繰り返し現れたことが、「壊し屋」という印象を強くしたのである。

新進党という巨大な実験

非自民連立政権が崩れた後、小沢は諦めなかった。

むしろ、一度の連立では足りないと考えたように見える。

自民党に対抗できる本格的な大政党をつくらなければ、安定した政権交代は実現しない。

その考えの延長線上に、1994年12月の新進党結成があった。

新生党、公明系勢力、旧民社党系などが集まり、衆参両院に多数の国会議員を抱える巨大野党が誕生した。小選挙区を中心とする新しい選挙制度のもとで、自民党と真正面から政権を争うための器をつくろうとしたのである。

理念だけを見れば、小沢が1990年代初めから追っていた構想とよくつながっている。

ところが、大きな党をつくることはできても、その党に一つの政治文化を与えることは容易ではなかった。

旧自民党系、公明系、旧民社党系など、異なる歴史を持つ政治家たちが同居していた。自民党に対抗することでは一致していても、政策や組織運営についてすべてが一致するわけではない。

小沢の強力な指導力は、選挙を戦う場面では武器になったが、同時に「独断的だ」という反発を生む原因にもなった。

1996年の衆議院選挙で新進党は自民党から政権を奪えず、内部対立は深まっていく。

そして1997年12月、小沢党首のもとで新進党は解党へ向かった。

巨大な野党をつくった本人が、その巨大政党を解体する。

「壊し屋」という言葉が、小沢という政治家の代名詞になっていった大きな理由がここにある。

ただ、小沢の側から見れば違う論理もあったのだろう。

政権交代を実現するためにつくった器が、その役割を果たせなくなったのであれば、器そのものを残す理由はない。

問題は、その判断が他の政治家よりはるかに速かったことだった。

自民党を倒した男が、自民党と組んだ

1998年、小沢は自由党を結成した。

そして翌1999年、小渕恵三政権の自民党と連立を組む。

1993年に自民党を飛び出し、その自民党を政権から降ろす中心人物となった男が、わずか6年後には自民党政権に参加した。

この動きを「反自民の政治家」としてだけ見ると、理解しにくい。

しかし、「日本の政治システムを自分の考える方向へ組み替えたい政治家」として見ると、別の景色が見える。

小沢にとって、自民党を倒すこと自体が最終目的ではなかった。

必要なら自民党とも組む。

政策や制度を動かせるのであれば、その組み合わせを選ぶ。

実際、自民・自由両党の連立では、議員定数削減や副大臣・政務官制度、政府委員制度の廃止など国会・政治制度改革が議論された。後に公明党も加わり、自民・自由・公明の三党連立となる。

しかし、その連立も長くは続かなかった。

2000年4月、自民、公明、自由の党首会談で今後の政権運営について合意できず、自由党の連立離脱が決定的になる。一方、連立に残ることを望んだ自由党議員は保守党を結成し、自由党は分裂した。衆議院の公式記録にも、この経過が明確に残されている。

また一つ、小沢が率いた党が割れた。

だが、小沢はそこで政界の中心から消えなかった。

次に目を向けたのは、民主党だった。

自由党を消してでも、より大きな野党をつくる

2003年、小沢の自由党は民主党と合併した。

ここは、小沢政治を語るときに注意が必要なところである。

民主党を小沢がつくったわけではない。

民主党は自由党との合併以前から存在していた。

2003年9月24日、民主党代表の菅直人と自由党党首の小沢一郎が合併協議書に調印し、民主党を存続政党、自由党を解散政党として合併することが正式に決まった。国会の公式資料にも、その形が明記されている。

つまり小沢は、ここでも自分の政党を残すことにはこだわらなかった。

自由党という名前を守るより、自民党と政権を争える大きな野党をつくる方を優先した。

新生党をつくり、新進党をつくり、それを解体し、自由党をつくり、その自由党も民主党へ溶かしていく。

この動きを節操のなさと見ることもできる。

だが別の角度から見れば、政党を政治家の「家」と考えず、政権交代を可能にするための「器」と考えていた一貫性も見えてくる。

そして、この合併から6年後、小沢が長く追い続けた風景が現実になる。

首相にならない男が、二度「首相」に指名された

2006年、小沢は民主党代表に就任した。

翌2007年の参議院選挙では民主党が躍進し、参議院で第一党となる。

ここから、小沢の政治人生には少し奇妙な場面が生まれる。

2007年9月、安倍晋三首相の退陣を受けて後継首相を指名した際、衆議院は福田康夫を指名したが、参議院は小沢一郎を指名した。両院の指名が一致せず、両院協議会でも合意できなかったため、憲法の規定によって衆議院の議決が国会の議決となり、福田が首相になった。

翌2008年9月にも同じことが起きる。

福田内閣の総辞職を受けた首相指名で、参議院では最初の投票で過半数を得た候補がいなかったため、小沢一郎と麻生太郎による決選投票になった。その結果、小沢125票、麻生108票、白票7票となり、参議院は再び小沢を内閣総理大臣に指名した。

しかし衆議院では麻生が指名され、両院協議会でも一致しなかったため、最終的には衆議院の議決が優先され、麻生が首相となった。

小沢一郎は結局、一度も内閣総理大臣には就任しなかった。

それでも、日本の国会の一院からは二度にわたり首相に指名されている。

何人もの首相の誕生や退陣に関わり、自分自身は首相官邸に入らなかった小沢一郎という政治家を象徴する、不思議な史実である。

2009年、小沢が追い続けた政権交代が実現する

小沢が民主党代表として力を入れたのは、再び選挙だった。

地方を回り、候補者を擁立し、自民党の強い農村部にも候補者を立て、選挙区ごとの勝敗を積み上げていった。

かつて自民党幹事長として身につけた選挙の技術が、今度は自民党政権を終わらせるために使われた。

ただし、2009年の政権交代直前に、小沢は民主党代表を退くことになる。

この部分では、二つの政治資金事件を分けて考える必要がある。

2009年3月、西松建設からの政治献金をめぐる事件で、小沢の資金管理団体の会計責任者だった公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、後に起訴された。この問題をめぐる批判が続く中、同年5月、小沢は民主党代表を辞任した。

一方、その後、小沢本人が強制起訴された陸山会事件は、土地購入をめぐる政治資金収支報告書の記載をめぐる別の事件である。

小沢は一審で無罪となり、2012年11月には東京高裁も無罪判決を維持した。検察官役の指定弁護士が上告を断念したことで、小沢本人の無罪が確定した。

したがって、「2009年の秘書逮捕」と「小沢自身が強制起訴された陸山会事件」を一つの事件として扱うのは正確ではない。

それでも、小沢が代表を辞任した後も、民主党の選挙戦における影響力は残った。

2009年8月30日の衆議院選挙で、民主党は308議席を獲得した。選挙前の115議席から193議席を増やす圧勝だった。自民党は119議席にまで減少し、鳩山由紀夫政権が成立した。

1993年の細川政権は、多数の政党が集まった非自民連立だった。

2009年は違った。

民主党という一つの大政党が総選挙で自民党を上回り、選挙によって政権を交代させた。

小沢が1990年代から訴えてきた「政権交代可能な政治」に、最も近い形が実現した瞬間だった。

ところが、その完成したはずの器から、小沢は数年後に自ら出ていくことになる。

なぜ、ようやくつくった民主党まで離れたのか

2009年の民主党政権が小沢政治の一つの到達点だったのなら、その民主党を守り抜く道もあったはずである。

しかし、鳩山由紀夫政権から菅直人政権、野田佳彦政権へと移るにつれて、小沢と党執行部との距離は広がっていった。

決定的な対立となったのが、消費税増税だった。

2012年6月、社会保障と税の一体改革に伴う消費税増税法案の衆議院採決で、小沢らは党の方針に反して反対票を投じた。その後、小沢らは民主党を離れ、7月11日に新党「国民の生活が第一」を結成する。

結党時には衆議院議員37人、参議院議員12人の計49人が参加した。

支持する側から見れば、2009年総選挙で掲げた政策や「国民の生活が第一」という政治理念を守ろうとした行動になる。

一方、批判する側から見れば、ようやく実現した政権交代可能な大政党を再び分裂させた行動になる。

ここでも、小沢に対する二つの評価が同時に成立する。

信念を持っていたから党を出たと見ることもできる。

組織内で妥協できなかったから党を割ったと見ることもできる。

この二つは、必ずしも矛盾しない。

自分が正しいと考える政治構想を政党より上位に置くのであれば、その構想を守る行動は本人にとって一貫していても、組織の側から見れば破壊的になるからである。

小沢は本当に政権を「壊した」のか

ここまで小沢の政治人生を追ってくると、「政権をつくっては壊した」という言葉には強い説得力があるように見える。

しかし、事実関係を公平に見るためには、一度この印象から距離を置く必要がある。

細川政権の退陣を小沢一人の責任にはできない。

羽田政権の崩壊にも、社会党の連立離脱や少数与党という事情があった。

新進党解党には、小沢の党運営への反発だけでなく、異質な政治勢力を一党にまとめたこと自体の難しさがあった。

民主党政権の失敗についても、鳩山政権の基地問題、菅政権期の東日本大震災と原発事故への対応、野田政権下の政策対立など、複数の問題が重なっていた。

それをすべて小沢一郎という一人の政治家に還元することは、政治史として正確ではない。

では、なぜ「壊し屋」という呼び名がこれほど定着したのか。

それは小沢自身がすべてを破壊したからではなく、政治の秩序が壊れ、新しい秩序が生まれる場所に、あまりにも頻繁に小沢がいたからではないだろうか。

自民党が割れたときにもいた。

非自民政権ができたときにもいた。

新進党ができたときにも、その党がなくなるときにもいた。

自由党と自民党が組むときにも、自由党が連立から離れるときにもいた。

民主党が政権を取る過程にも、その民主党が割れる場面にもいた。

これほど何度も政界再編の中心に現れた政治家は珍しい。

その存在そのものが、政治の変化と結びついて記憶されるようになったのである。

なぜ「つくる」ことには強く、「維持する」ことには苦しんだのか

小沢政治を40年という長い時間で見ると、ある特徴が浮かび上がる。

政治が行き詰まった瞬間に、極めて強い。

既存の均衡を壊し、敵と味方を組み替え、候補者を集め、議席を計算し、新しい多数派をつくる。

1993年の細川政権もそうだった。

1994年の新進党もそうだった。

2003年の民由合併もそうだった。

そして2009年の政権交代も、その長い流れの先にある。

ところが、一度新しい秩序ができると、政治に必要な能力は少し変わる。

大きな改革より、毎日の小さな妥協が重要になる。

敵を倒すことより、味方を逃がさないことが重要になる。

100点の政策を実現するより、60点や70点でも同じ組織に人々を残しながら前へ進めることが求められる。

小沢が繰り返し苦しんだのは、この局面だったのではないか。

新しい家を建てる建築家と、完成した家を何十年も修繕しながら維持する管理人には、違う才能が必要である。

小沢一郎は、日本政治でも屈指の政治的建築家だった。

問題を見つければ、壁を動かし、間取りを変え、場合によっては家そのものを建て替えようとした。

だから政治が停滞しているときには、大きな変化を起こすことができた。

しかし一緒に暮らしている人々からすれば、ようやく落ち着いたと思ったところで、また壁を壊されることにもなる。

「剛腕」と「壊し屋」は、別々の性格ではなかったのかもしれない。

同じ能力を、政治を動かした側から見れば剛腕と呼び、動かされた側から見れば壊し屋と呼んだのである。

小沢がつくった政党は消えても、問いは残った

小沢がつくり、あるいは大規模な再編に関わった政党の多くは、現在では存在しない。

新生党は新進党へ合流し、新進党は解党した。自由党は民主党との合併で解散し、「国民の生活が第一」も短期間で別の政党再編へ向かった。

民主党については事情が異なる。小沢がつくった政党ではないが、自由党を率いて合流し、その後、政権交代の器として巨大化していった政治勢力である。その民主党も2012年に政権を失い、その後の分裂と再編を経て、2009年当時の形では存在していない。

政党名だけを追えば、小沢政治は失敗の連続にも見える。

しかし制度の側を見ると、もう少し複雑である。

1990年代の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、政党同士が総選挙で政権を争う仕組みは、それ以前より明確になった。2009年には実際に総選挙による本格的な政権交代が起きた。

小沢自身も後年、1993年と2009年の二度の政権交代を、自らが長年求めた政権交代可能な議会制民主主義の文脈で語っている。

ただし、現在の日本政治に見られる「官邸主導」までを、小沢一郎の改革の成果だと考えるのは行き過ぎである。

首相官邸機能の強化には、橋本龍太郎政権以降の中央省庁再編や内閣機能強化など、別の制度改革も大きく関わっている。

小沢が強く主張してきた政治主導、政権交代、国会改革という問題意識の一部がその後の政治に残った、と考える程度が妥当だろう。

そして何より、小沢が思い描いた安定的な二大政党政治が完成したとは言い難い。

選挙制度は変わった。

2009年には政権も交代した。

それでも野党はその後、分裂と再編を繰り返している。

ここに小沢政治の大きな限界があったのかもしれない。

制度を変えることはできる。

選挙制度を変えれば、政治家の行動もある程度変わる。

しかし、政治家同士の信頼や政党文化までは、法律だけではつくれない。

同じ党に長くとどまり、意見の違う相手と妥協し続ける習慣もまた、政治制度とは別の時間をかけて形成される。

政治を制度設計の問題として考え続けた小沢が、最後まで完全には解けなかった問題がそこにあったのではないだろうか。

2026年、小沢一郎の敗北が映したもの

2026年2月8日の総選挙で、小沢一郎は岩手3区の議席を失った。

岩手県選挙管理委員会の記録にも、この日に第51回衆議院議員総選挙が行われたことが残っている。岩手県議会でも、その後、岩手3区で藤原崇が小沢を破った結果が取り上げられた。

1969年に始まった小沢の国会議員生活は、19回の当選を重ねたところで、少なくとも一度途切れることになった。

だが、小沢一郎という政治家を当選回数だけで評価するのは難しい。

彼が若手議員だったころ、日本政治には自民党が政権を担い続けることを前提とした空気があった。

その自民党を割った。

非自民政権をつくった。

それが崩れれば、今度は自民党に対抗する巨大政党をつくった。

うまくいかなければ解体し、また別の党をつくった。

自民党とも組んだ。

再び離れた。

最後には自由党そのものを解散させ、民主党へ入り、2009年の政権交代へつながる大きな流れをつくった。

この歩みを、すべて改革の信念だったと美化する必要はない。

強引な党運営への反発もあった。

権力闘争もあった。

小沢の判断によって亀裂が深まった政治局面もあった。

同時に、すべてを「壊し屋の身勝手」で説明するのも、40年の政治史を単純化しすぎる。

小沢一郎にとって、政党は守ること自体が目的となる故郷ではなかった。

政治を変えるための乗り物だった。

だから、その乗り物が目的地へ向かわないと判断すると、別の乗り物へ移った。

必要なら新しいものをつくり、場合によっては自分がつくったものさえ壊した。

普通の政治家は、自分が所属する党の中で権力の頂点を目指す。

小沢は少し違った。

自分が首相にならなくても、首相を生み出す政治状況をつくった。

実際には一度も首相官邸の主にならなかったにもかかわらず、参議院からは二度、内閣総理大臣に指名された。

政権を取ることだけが目的なら、もっと早く自ら首相を目指したはずだ。

一つの党で出世することだけが目的なら、自民党から出なかった方が合理的だったかもしれない。

自分の名前を残す政党を政治的遺産にしたいのであれば、新進党や自由党をもっと長く維持する道もあっただろう。

それでも小沢は、何度も器を替えた。

その結果として、日本政治には多くの瓦礫も残った。

同時に、政権交代という、それ以前には現実感の薄かった風景も一度は現実のものとなった。

だから、小沢一郎の40年を最後に問い直すとき、「なぜこれほど政党を壊したのか」という問いだけでは足りない。

むしろ問うべきなのは、別のことなのだろう。

小沢一郎は、何を完成させようとしていたのか。

自民党を倒すことだったのか。

二大政党政治をつくることだったのか。

政治家が官僚機構を主導する政治だったのか。

あるいは、有権者が選挙によって政権そのものを選び、失敗すれば取り替える政治だったのか。

その答えは一つではない。

ただ、その問いをたどっていくと、「剛腕」「壊し屋」と呼ばれた一人の政治家の向こう側に、政権交代を可能にしながら、それを安定した政治文化として定着させることには成功しなかった、日本政治そのものの40年が見えてくる。

おそらく小沢一郎という政治家の最も大きな意味は、そこにある。

彼が壊したものだけを見るのでもなく、彼がつくったものだけを見るのでもない。

つくろうとした政治と、実際に残った政治との距離を眺めること。

その距離の中にこそ、「剛腕」の40年を読む本当の面白さがあるのである。

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