生まれる前の罪を、現在の人間が背負う必要はないのか
人は、自分が生まれる前に起きた出来事について、個人的な罪を負うことはできない。戦争を始めたのが祖父母や曽祖父母の世代であったとしても、その行為について、生まれてさえいなかった孫や曾孫を加害者として扱うことはできないし、まして「同じ国の人間なのだから、あなたも罪を負わなければならない」と考えるのであれば、それは歴史認識の問題を越えて、血統による連帯責任に近づいてしまう。近代社会が守ってきた重要な原則の一つは、罪や法的責任は、原則として実際に行為をした個人や組織に帰属するという考え方であり、生まれた国や民族によって人間の道徳的価値まで決めることではない。
しかし、ここで話を終えてしまうと、政治というものの性質を見誤ることになる。なぜなら国会議員、とりわけ政府や国家を代表する立場にある政治家は、私人として歴史を見るだけの存在ではなく、現在の国家制度を運営する公人でもあるからである。政治家自身が過去の戦争を始めたわけでも、植民地政策を決定したわけでも、過去の国家権力による人権侵害に直接手を貸したわけでもないとしても、その人物が今日運営している国家は、昨日突然生まれたものではない。
国家は、政治家よりも長く生き続ける
国家には時間的な連続性がある。政治家が交代しても、政権が交代しても、選挙が終わっても、国家そのものが毎回ゼロから作り直されるわけではなく、法律、行政組織、外交関係、領土、公共財産、条約、債務、社会制度、そして国際的信用は、多くの場合、以前の国家活動から引き継がれていく。その意味で政治家は、自分が作ったものだけを管理しているのではなく、自分が生まれるより前から続いてきた巨大な制度の一時的な管理者でもある。
ここで重要なのは、「国家の歴史を引き継ぐ」ということと、「過去の人間の罪を現在の個人が相続する」ということを混同しないことである。両者はまったく同じではない。現在を生きる国民が、過去の加害者と同じ罪を負う必要はない一方で、国家の制度や外交関係や過去の政策から現在まで続いている問題については、現在の政府や政治家が対応を求められることがある。引き継がれるのは罪そのものではなく、過去から残された制度的、外交的、社会的な課題なのである。
歴史の「成果」だけを選んで継承することはできるのか
これは、過去の国家の歴史をどのように扱うかという問題にもつながる。私たちは、過去の優れた文化、経済発展、科学技術、制度改革については、現在の国家の歴史として自然に語っている。明治以降の近代化を語り、戦後の経済成長を語り、文化や技術や社会制度の蓄積を国家の歴史として評価するのであれば、その同じ歴史の中に存在した政策の失敗、戦争、差別、抑圧、重大な判断の誤りについても、少なくとも検討の対象から除外することはできない。
ただし、ここから「過去の成果を受け継ぐ以上、過去の罪も現在の国民が負わなければならない」という結論を導くことはできない。そのような議論は論理的に飛躍している。正確には、国家という長期的な制度を維持する以上、過去の成果だけでなく、現在まで残っている未解決の問題についても現在の政治が向き合わなければならないことがある、ということである。
「歴史に向き合う」とは、謝り続けることではない
歴史に向き合うという言葉も、しばしば誤解される。過去について永久に謝罪を続けること、自国を否定すること、あるいは現在の国民に罪悪感を持たせることが、歴史に向き合うことなのではない。本来求められるのは、何が起きたのかを証拠に基づいて検討し、その出来事がなぜ起き、どのような結果を生み、現在の政治制度や外交関係とどのようにつながっているのかを考えることである。
したがって、歴史認識で重要なのは、謝罪という言葉を使ったかどうかだけではない。より重要なのは、自分の政治的立場にとって不都合な資料や証拠が現れたとき、それを無視せず検討できるかどうかである。自国に不都合な資料だから信用しない、あるいは逆に、自国を批判する内容だから無条件に信用するという態度は、いずれも歴史を理解する姿勢とは言いにくい。
歴史は、右からも左からも政治利用される
歴史は、現在の政治闘争の道具にもなりやすい。過去の国家の加害行為を批判する側だけが歴史を政治利用するわけではなく、それを否定したり過度に小さく扱ったりする側もまた、自分の望む国家像を守るために歴史を利用する可能性がある。その逆に、自国の過去を批判すること自体が政治的目的となり、事実以上に単純化された物語が作られる可能性もある。だからこそ必要なのは、右か左か、保守かリベラルかという分類より先に、資料と主張を分け、確認できる事実と解釈を区別する姿勢なのである。
人間は、自分に都合のよい情報を信じやすい
人間の認識は、完全に中立ではない。心理学では、自分がすでに信じている考えに合う情報を受け入れやすく、反対する情報については厳しく評価しやすい傾向が知られている。政治の世界では、この傾向に集団への帰属意識や選挙上の利害、支持者からの期待まで加わるため、歴史を冷静に評価することは決して容易ではない。
だからといって、「過去の歴史を認めない政治家は、現在の政策の失敗も認めない」とまで断定することはできない。歴史認識と政策判断能力の間に、単純な一対一の因果関係が証明されているわけではないからである。しかし、自分の信念と衝突する証拠をどのように扱う人物なのかを見ることは、その政治家の判断姿勢を知る一つの材料にはなる。
問われるのは、「反証」を受け入れられる政治家かどうか
ある政治家が、自分にとって都合のよい資料だけを引用し、反対する資料を検討しようとしないのであれば、それは歴史問題に限らず、「この人物は反証をどのように扱うのか」という問題として見ることができる。一方、新しい資料が現れたとき、自分の以前の発言を修正できる政治家であれば、その姿勢は少なくとも、証拠に応じて考えを変える能力を持っていることを示す一つの材料になる。
政治家に必要なのは、絶対に間違えない能力ではない。そもそも人間も政府も、間違いを完全に避けることはできない。重要なのは、誤りが判明したときに修正できることである。民主主義という制度そのものも、この人間観の上に成り立っている。選挙、議会、司法、報道、行政監視といった仕組みが存在するのは、誰か一人の政治家が常に正しいと考えているからではなく、誰でも誤る可能性があるという前提があるからである。
「国家は間違えない」という考えは、民主主義と相性がよいのか
この意味で、自国の歴史について「国家は誤ったことがない」という態度を取ることは、単なる愛国心とは異なる。国家もまた人間によって運営される制度である以上、成功することもあれば、判断を誤ることもある。その可能性を認めることは国家を否定することではなく、国家を人間が作った制度として現実的に理解することである。
もちろん、その反対にも危険はある。過去の国家の行為を現在の国民一人一人の人格評価に結びつけ、何世代後の人間にまで道徳的な負債を負わせ続ける考え方も健全ではない。国家が過去の行為を検証することと、現在を生きる個人が先祖の罪を背負うことは別問題であり、この区別を失えば、歴史教育は理解のための営みではなく、人々を善と悪に分類するための儀式に変わってしまう。
自国を愛することと、自国の過ちを認めることは両立する
自国を肯定することと、自国の誤りを認めることも、本来は矛盾しない。成熟した国家とは、自国の歴史を無条件に美化する国家でも、自国を際限なく断罪する国家でもなく、成功と失敗を同じ歴史の中で語ることのできる国家ではないだろうか。優れた文化や制度を評価しながら、誤った政策や加害についても事実として検討することは、自己否定ではない。
一人の人間の人生について考えてみれば分かりやすい。自分の成功だけを語り、失敗について一切認めようとしない人間よりも、成功した経験と失敗した経験の両方を理解し、その失敗から何を学んだのかを説明できる人間のほうが、自分自身を現実的に理解していると考えることができる。国家についても、少なくとも同じような成熟のあり方を考えることは可能である。
政治家を見る基準は、「謝罪したか」だけではない
政治家を見るときも、「謝罪したか」「謝罪しなかったか」という一つの言葉だけで人物を判定するのは適切ではない。見るべきなのは、資料や証拠に接したとき、自分の信念に反する情報であっても検討できるか、自国に不都合な事実と他国に不都合な事実を同じ基準で扱えるか、事実と解釈を区別できるか、そして新しい証拠が現れたときに以前の主張を修正できるかという知的態度である。
新しい社長は、前任者の問題から逃れられるのか
ここで、国家を企業に置き換えて考えると、問題の一部は理解しやすくなる。新しく就任した社長が、前任者の時代に起きた重大な問題について「私は当時社員ではなかったので知りません」と答えたとしても、その社長個人が問題を起こしたわけではないことと、会社の代表者として対応する必要がないこととは別である。会社が以前の契約や資産や信用を引き継ぐ以上、未解決の問題についても対応を求められることがある。
もちろん、国家と企業は同じではない。国家には国民、主権、外交、歴史、文化といった企業とは異なる要素があり、国家の責任を企業の債務と同じように考えることはできない。しかし、「組織には個人の寿命を越えて続く時間的連続性がある」という点については、この比喩は一つの理解の手掛かりになる。
政治家に歴史学者であることを求めているのではない
そして、国家の過去に向き合う能力を政治家に求める理由も、最終的には過去そのものだけにあるのではない。政治家は歴史学者ではないし、すべての歴史問題について専門的知識を持つことを期待するのも現実的ではない。それでも政治家には、専門家の研究や資料に耳を傾け、自分の政治的立場とは異なる証拠も検討し、必要であれば判断を修正する姿勢が求められる。
その意味で、「歴史に向き合えるか」という問いは、その政治家が善人か悪人か、人間として信用できるかどうかを判定するためのものではない。歴史認識だけから一人の人間全体の人格を判断することはできないし、そうするべきでもない。しかし、国家を運営する公人として、証拠に基づいて考え、不都合な事実からも目をそらさず、自らの判断を必要に応じて修正できる人物なのかを見る材料にはなる。
歴史を検証することも、国家への責任ではないか
自国を愛することと、自国の過去の誤りを認めることは両立できる。むしろ、自国が再び同じ失敗を繰り返さないようにすることまで含めて考えれば、過去の誤りを検証する行為そのものが、国家に対する責任の一つとも考えられる。子どもの失敗を一切認めず、何が起きても「この子は絶対に悪くない」と言い続けることだけが愛情ではないように、国家についても、無条件に正当化することだけが愛国であるとは限らない。
問うべきなのは、先祖の罪ではない
結局、私たちが政治家に問うべきなのは、「あなたは生まれる前の罪を背負うのか」という問いではない。その問いの立て方自体が間違っている。問うべきなのは、自分が直接経験していない過去であっても、証拠に基づいて理解し、自分にとって不都合な事実も検討し、その経験から現在の政治に生かすべき教訓を考えることができる人物なのか、ということである。
歴史は、未来へ進むための地図である
政治とは未来をつくる仕事だと言われる。しかし未来だけを見て政治をすることはできない。国家がどのような判断を積み重ねて現在に至ったのかを知らなければ、いま立っている場所を正確に理解することは難しく、現在地を誤認すれば、未来へ向かう方向もまた誤る可能性が高くなる。
歴史とは、現在を生きる人間に、過去の罪を背負わせるための鎖ではない。それは、国家がかつてどこで判断を誤り、どこで成功し、どの道を再び歩くべきではないのかを知るための地図である。
その地図に、自分が見たくない場所が描かれているという理由だけで目をそらす政治家に、私たちは国家の進路を任せてよいのだろうか。問われているのは、過去の人間と同じ罪を現在の政治家に負わせることではない。権力を預ける人物が、不都合な事実を含めて現実を見ることのできる人なのかどうかなのである。

