国会議員の発言を見ていると、中立的・中道的な立場から離れ、リベラル、左派、保守、右派の色彩を強めるほど、表現が激しくなり、相手を非難する言葉が増え、時には社会通念から外れた発言をするように見えることがある。
右派の政治家が、外国人、少数者、報道機関、野党などを強い言葉で攻撃する場合がある。一方、左派の政治家にも、保守層、企業、防衛政策の支持者、伝統的価値観を持つ人々を一括して非難するような言説が見られる。
しかし、この現象を単純に、
「右派は危険である」
「左派は非常識である」
「中道だけが良識的である」
と説明することはできない。
政治思想が右か左かということと、その政治家が乱暴な言葉を使うかどうかは、本来、別の問題である。穏健な保守政治家もいれば、穏健な社会民主主義者もいる。反対に、左右のどちらにも、敵対心をあおり、事実関係を単純化し、支持者の感情に訴える政治家が存在する。
したがって、分析すべきなのは、思想の内容そのものではない。
なぜ政治的立場を先鋭化させた政治家ほど、過激な言葉を使う利益が大きくなり、穏健な言葉を使う利益が小さくなるのかという、政治を取り巻く構造である。
最初に確認すべきこと~「端にいる政治家ほど過激」という印象は必ずしも事実ではない
この問題を考える際には、最初から重要な注意点がある。
私たちが目にする政治家の発言は、政治家全体の発言を均等に抽出したものではない。
テレビ、新聞、インターネットニュース、動画配信、交流サイトでは、目立つ発言ほど取り上げられやすい。政策の細部を説明する10分間の発言よりも、相手を強い言葉で批判した10秒間の映像の方が、多く拡散される。
その結果、次のような選択の偏りが生じる。
穏健な政治家の発言は、ニュースになりにくい。
過激な政治家の発言は、ニュースになりやすい。
さらに、同じ政治家であっても、日常的な政策説明より、失言や攻撃的な発言だけが記憶されやすい。
したがって、「中道から離れた政治家ほど必ず言葉が汚い」とまでは断定できない。
より正確には、
「思想的に先鋭化した政治家のうち、強い言葉を使う人が可視化されやすい」
「政治的対立が強い環境では、左右を問わず攻撃的な政治家が注目を集めやすい」
と考えるべきである。
ここを区別しなければ、観察された印象と、実際の政治家全体の傾向を混同してしまう。
政治的分極化には二つの種類がある
政治学では、政治的な対立を考える際に、少なくとも二つの分極化を区別する必要がある。
一つは、政策や思想の違いが大きくなる「政策的分極化」である。
例えば、税率を高くして社会保障を拡充するのか、税負担を抑えて民間の選択を重視するのか。防衛力を強化するのか、外交や軍縮を優先するのか。こうした政策上の距離が広がることである。
もう一つは、「感情的分極化」である。
感情的分極化とは、自分と異なる政党や政治集団を、単に政策の違う相手としてではなく、嫌悪すべき相手、信用できない人々、社会にとって危険な存在として見る傾向を指す。
近年の比較研究でも、政党間や政治指導者間の感情的な対立は、複数の民主主義国で確認されている。ただし、その程度や現れ方は国によって異なる。感情的分極化が強まると、反対派への差別や排除を容認しやすくなる可能性も指摘されている。
政策的分極化それ自体は、必ずしも悪いものではない。
政党間の違いが明確でなければ、有権者は何を基準に投票すればよいか分からない。すべての政党が似た政策を掲げる政治も、民主主義にとって健全とは限らない。
問題は、政策の対立が人物や集団への敵意に変わることである。
「この政策は誤っている」
という主張が、
「この政策を支持する人間は無知である」
「この政党を支持する人間は国民ではない」
「反対派は社会から排除すべきである」
という言葉に変わったとき、政策論争は感情的な敵対関係へ移行する。
政治家の言葉が汚くなる背景には、思想上の距離そのものより、この感情的分極化の方が強く関係している可能性がある。
数理的に見ると、過激な発言には利益がある
政治家の行動を道徳心だけで説明すると、構造が見えにくくなる。
政治家も、限られた時間、資金、人員、知名度の中で、自分にとって有利な行動を選択する主体である。
単純化すると、政治家がある発言を行う際の期待利益は、次のように整理できる。
発言の期待利益 = 支持者の増加 + 注目度の上昇 + 資金や協力者の増加 + 党内での影響力上昇 - 失言による批判 - 無党派層の離反 - 政党や議会からの処分 - 社会的信用の低下
穏健な政治環境では、過激な発言による損失が大きい。
無党派層が離れ、党執行部から注意され、報道機関から批判され、選挙で不利になるからである。
ところが、政治的分極化が進むと、この計算が変わる。
強い言葉を使うことで、熱心な支持者から評価される。
交流サイトで拡散される。
動画の再生回数が増える。
政治資金を集めやすくなる。
党内の特定の支持層に対する影響力が高まる。
一方で、反対陣営からの批判は、もともと自分に投票しない人からの批判であるため、政治的損失が小さい。
この状態では、過激な発言の期待利益が穏健な発言を上回る可能性がある。
つまり、政治家の人間性が突然悪化したのではなく、政治環境の変化によって、乱暴な言葉を使うことが合理的な選択になってしまうのである。
中道から離れるほど支持者の構成が変わる
一般に、中道的な政党や政治家は、幅広い有権者から支持を得る必要がある。
会社員、自営業者、高齢者、若者、都市部、地方、保守層、リベラル層、無党派層など、異なる利害を持つ人々を取り込まなければならない。
そのため、極端な発言には大きな費用が伴う。
一つの集団を強く喜ばせても、別の集団を失う可能性があるからである。
これに対し、左右の端に近い政治家は、支持者の範囲を広く取るより、狭くても熱心な支持者を固める戦略を選びやすい。
支持者の人数を「広さ」、支持の強さを「深さ」と考えると、中道政治家は広く浅い支持を必要とする。一方、先鋭的な政治家は、狭くても深い支持によって政治活動を維持できる場合がある。
例えば、支持者が100万人いても、その多くが関心の薄い支持者であれば、選挙運動、寄付、交流サイトでの拡散にはつながりにくい。
反対に、支持者が10万人でも、全員が熱心に活動し、寄付を行い、周囲に働きかけるなら、政治的影響力は大きくなる。
そのため、先鋭的な政治家にとっては、支持者の数を最大化することより、支持者の感情的な熱量を最大化することが合理的になる場合がある。
このとき有効なのが、敵の設定である。
「私たちの生活が悪化したのは、あの集団の責任だ」
「既存の政治家はすべて腐敗している」
「専門家や報道機関は真実を隠している」
「自分だけが国民の声を代弁している」
という物語を提示すれば、支持者の帰属意識を強めることができる。
政治家と支持者の関係は、政策への賛成から、集団としての一体感へ変化する。
ポピュリズムとは、単なる人気取りではない
ポピュリズムは、日本語ではしばしば「大衆迎合」と説明される。
しかし、政治学上のポピュリズムは、単に人気のある政策を掲げることだけを意味しない。
一般的には、社会を「善良で純粋な国民」と「腐敗した既成勢力」に分け、政治は国民の単一の意思をそのまま実現すべきだと主張する政治的な考え方や言説を指す。
この構造では、社会内部の多様な利害や価値観が見えにくくなる。
実際の国民には、会社員、自営業者、農業者、高齢者、子育て世帯、障害のある人、外国にルーツを持つ人など、異なる立場がある。国民全体が一つの意思を持っているわけではない。
ところが、ポピュリズム的な政治家は、
「普通の国民は皆そう思っている」
「反対する者は既得権益側である」
「自分に反対する政治家は国民の敵である」
と主張しやすい。
こうした政治は、左派にも右派にも存在する。
右派型のポピュリズムでは、移民、外国、国際機関、都市部の知識人、報道機関などが敵として設定されやすい。
左派型のポピュリズムでは、大企業、富裕層、金融機関、官僚、既成政党などが敵として設定されやすい。
敵として挙げる対象は異なるが、「善良な国民対腐敗した支配層」という構図は共通している。
国際民主化選挙支援機構の分析でも、ポピュリズム政権の影響は、左右の政策内容だけでなく、議会、司法、報道、制度的な抑制との関係から評価する必要があるとされている。
ポピュリズムに迎合する政治と、理念を訴える政治は違う
政治家が有権者の意見を聞くことは重要である。
民主主義において、政治家が国民の声を無視してよいはずはない。
しかし、有権者の声を聞くことと、その時々の感情に迎合することは異なる。
迎合型の政治家は、世論調査や交流サイトの反応を見ながら、最も支持を得られそうな言葉を選ぶ。
その政策が長期的に正しいかどうかより、今日の反応を優先する。
社会保障を増やすと言いながら、財源には触れない。
税金を下げると言いながら、どの支出を減らすのか説明しない。
治安対策を強化すると言いながら、人権侵害の危険を検討しない。
外国人を批判しながら、労働力不足や産業構造には触れない。
防衛費削減を主張しながら、安全保障上の代替策を示さない。
このような政治は、支持者が聞きたい言葉を返しているだけであり、政治的指導とはいえない。
望ましい政治家とは、有権者の感情をそのまま増幅する人物ではない。
自らの理念、政策、価値判断を明らかにしたうえで、それがなぜ必要なのかを説明し、有権者を説得する人物である。
政治家は、国民の意見を受け取るだけの受信機ではない。
情報を整理し、利害を調整し、将来の危険を説明し、時には人気のない決定についても責任を負う存在である。
したがって、政治家に求められるのは「扇動」ではなく「説得」である。
扇動とは、恐怖、怒り、憎悪を利用して、人々を特定の方向へ動かすことである。
説得とは、事実、論理、価値判断、費用、利益を示し、相手が自分で判断できるようにすることである。
両者は、似ているようで正反対である。
交流サイトは強い感情を増幅しやすい
SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治家が有権者と直接つながる手段を拡大した。
従来、政治家の発言は、記者会見、新聞、テレビ、議会中継などを通じて伝えられていた。現在では、政治家自身が短い文章や動画を直接発信できる。
これは政治参加の面では大きな利点がある。
小規模政党や新人候補でも情報発信ができ、報道機関が扱わない論点を提示できる。市民も政治家に意見を伝えやすくなった。
一方、交流サイトには、強い感情を伴う情報が拡散されやすいという問題がある。
怒り、恐怖、侮辱、驚きなどを含む投稿は、反応を集めやすい。穏健で条件の多い政策説明は、短い投稿や動画に向きにくい。
デジタルメディアと政治に関する研究では、インターネットや交流サイトが政治参加や情報アクセスを広げる一方、誤情報、分極化、政治的動員との関係について、国や制度によって異なる結果が確認されている。交流サイトが必ず分極化を生むと単純化することはできないが、政治的対立を増幅する条件になり得ることは無視できない。
また、自分と反対の意見を見せれば、必ず穏健になるとも限らない。
反対意見への接触によって、かえって自分の立場を強める場合があることも研究で示されている。
人は、自分と異なる情報を見たとき、常に冷静に再検討するわけではない。
相手から攻撃されたと感じれば、自分の所属集団を守ろうとする。
結果として、
反対派の強い発言を見る ↓ 自分の立場を守ろうとする ↓ さらに強い政治家を支持する ↓ 政治家がさらに強い言葉を使う ↓ 反対派も対抗して強い言葉を使う
という循環が生まれる。
過激化は左右対称に起きるとは限らない
中立的に分析することは、左右に必ず同じ量の問題があると結論づけることではない。
ある時期、ある国、ある争点では、右派側の過激化が強い場合がある。別の時期や争点では、左派側の排他的な言説が強くなる場合もある。
重要なのは、形式的に左右を同数ずつ批判することではない。
同じ評価基準を適用することである。
例えば、次の基準で比較する必要がある。
事実と異なる情報を意図的に使っていないか。
反対派を国民として認めない表現をしていないか。
暴力や威圧を容認していないか。
司法、議会、報道機関などの独立性を弱めようとしていないか。
少数者の権利を、多数者の感情だけで制限しようとしていないか。
政策の費用や副作用を隠していないか。
自分の支持者による問題行動だけを正当化していないか。
この基準を適用した結果、一方の陣営により多くの問題が確認されることはあり得る。
それを無理に均等化する必要はない。
公正中立とは、結論を中央に置くことではなく、評価方法を共通にすることである。
党内競争が政治家を先鋭化させる
政治家は、他党との選挙だけを戦っているのではない。
政党内でも、候補者選定、役職、発言力、資金、人事を巡る競争がある。
中道的な有権者を対象とする本選挙よりも、党員、活動家、熱心な支持者の影響が強い候補者選定では、より明確な思想を示す候補が有利になる場合がある。
党内の熱心な支持者は、一般有権者より政治への関心が高い。そのため、政策的にも感情的にも明確な立場を持つ傾向がある。
政治家が党内で存在感を示すためには、
「私は他の議員よりも本物の保守である」
「私は他の議員よりも一貫したリベラルである」
と示す必要が生じる。
この競争では、穏健な妥協は裏切りと見なされやすい。
相手政党と協議すれば、弱腰と批判される。
法案を修正すれば、信念を曲げたと批判される。
発言を訂正すれば、圧力に屈したと批判される。
その結果、政治家は自らの立場を修正しにくくなる。
政治家の思想が先鋭化するというより、先鋭化した態度を示さなければ、党内で生き残りにくくなるのである。
メディア環境は中間的な説明を不利にする
政治問題の多くは、本来、単純な二択ではない。
原子力発電を増やすか減らすかという問題には、電力価格、二酸化炭素排出量、廃棄物、事故リスク、立地地域の経済、再生可能エネルギー、送電網などが関係する。
外国人労働者を受け入れるかという問題にも、人手不足、賃金、社会保障、教育、地域統合、企業責任などが関係する。
ところが、報道や交流サイトでは、
賛成か反対か。
味方か敵か。
愛国か反国か。
改革派か抵抗勢力か。
という単純な対立に置き換えられやすい。
複雑な説明を行う政治家は、分かりにくいと評価される。
条件付きの賛成や部分的な反対は、態度が曖昧だと見なされる。
一方、単純で強い主張は、理解しやすく、映像や見出しにしやすい。
その結果、政治家は、政策の正確さより、情報としての分かりやすさを優先するようになる。
しかし、分かりやすいことと、正しいことは同じではない。
政策を単純化しすぎれば、費用、例外、副作用、実施上の困難が見えなくなる。
政治への不信が、強い言葉を求めさせる
政治家の過激化は、政治家側だけの問題ではない。
有権者が既存の政治や行政に強い不信を持っているとき、穏健な説明は「ごまかし」と受け取られやすい。
「慎重に検討する」
「関係者と調整する」
「段階的に実施する」
という言葉が、何もしない政治の象徴に見えるからである。
その反動として、
「すぐに廃止する」
「全員追放する」
「既得権益を壊す」
「一気に変える」
という政治家が支持を得る。
経済停滞、格差、地域間格差、公共サービスへの不満、行政への不信などは、ポピュリズムを支持する背景になり得る。緊縮政策や経済的不安とポピュリズムの関係についても、比較政治学で研究が蓄積されている。
経済協力開発機構の調査でも、政府への信頼が低い人の割合は高く、政治的な発言力を持てないという感覚や、政府が公平に行動していないという認識が、信頼の低下と関係している。
したがって、過激な政治家だけを批判しても、問題は解決しない。
なぜ有権者が強い言葉を必要としているのか。
既存政党がどの不満に答えられていないのか。
政策決定が特定の利益集団に偏っていないか。
行政が十分な説明をしているか。
地域や世代による不利益が放置されていないか。
こうした背景を検証する必要がある。
過激な言葉は、政治家の能力不足を隠すことがある
強い言葉を使う政治家が、強い政策能力を持っているとは限らない。
政策を実行するには、法律、予算、行政組織、人員、地方自治体、民間企業、国際関係などを調整しなければならない。
ところが、制度設計の能力が弱い政治家ほど、抽象的な敵を攻撃することで、自らの能力不足を隠せる場合がある。
政策が実現しなければ、
野党が邪魔をした。
官僚が抵抗した。
報道機関が偏っている。
外国勢力が妨害した。
国民の理解が不足している。
と説明できる。
この構造では、失敗の責任が常に外部へ移される。
政治家の支持者も、政策の成果ではなく、敵と戦っている姿勢を評価するようになる。
その結果、政治家は問題を解決するより、問題を解決できない理由となる敵を維持する方が得になる。
これは、政治の目的が政策成果から集団対立へ変わった状態である。
中道が常に正しいわけではない
ここで誤解してはならないのは、中道であること自体が正しさを保証するわけではないということである。
歴史上、当時は過激とされた主張が、後に社会の標準になった例は多い。
普通選挙、女性参政権、労働者の権利、人種差別撤廃、障害者の権利などは、既存秩序に対する強い異議申し立てから始まった。
逆に、中道を名乗る政治家が、必要な改革を先送りし、問題を放置する場合もある。
重要なのは、政治的位置が中央にあるかどうかではない。
主張に根拠があるか。
人権を侵害しないか。
政策として実行可能か。
費用と負担を説明しているか。
反対意見を排除せず、検討しているか。
誤りが判明した場合に修正できるか。
この基準で評価すべきである。
先鋭的な政策であっても、十分な根拠があり、少数者の権利を守り、実施可能性が高いなら、検討に値する。
中道的な政策であっても、問題を先送りするだけなら、評価できない。
望ましい政治家は「鏡」ではなく「案内役」である
有権者の感情をそのまま映すだけの政治家は、国民の代表ではあっても、政治的指導者とはいえない。
政治家は、国民がすでに考えていることを繰り返すだけではなく、知られていない事実を示し、複雑な利害を説明し、長期的な選択肢を提示する必要がある。
例えば、有権者が減税を望んでいるなら、
どの税を減らすのか。
減収はいくらか。
どの支出を削減するのか。
国債で補うのか。
将来の金利や物価にどのような影響があるのか。
自治体財政にどう影響するのか。
まで説明しなければならない。
防衛力を増強するなら、装備品の価格、維持費、人員、外交上の効果、軍拡競争の危険を説明する。
社会保障を拡充するなら、財源、労働力、給付対象、世代間負担を説明する。
政治家の役割は、有権者の希望を無条件に肯定することではない。
選択には必ず費用があることを示し、それでもなぜ自分の政策を選ぶべきかを説得することである。
政治家に必要なのは、主義の明示と反証可能性である
政治家が自らの主義を明確に主張することは望ましい。
何を大切にするのか。
国家と個人の関係をどう考えるのか。
市場と政府の役割をどう分けるのか。
どのような社会を目指すのか。
これらを曖昧にしたまま、世論に合わせて発言を変える政治家は信頼しにくい。
ただし、主義を持つことと、主義に固執することは違う。
望ましい政治家は、自分の理念を示すと同時に、どのような事実が確認された場合に政策を修正するのかを示すべきである。
例えば、
「この政策により雇用が増える」
と主張するなら、何年後に、何人増えるのかを示す。
成果が出なければ、政策を見直す。
「犯罪が減る」
と主張するなら、どの統計で検証するのかを示す。
「地域経済が活性化する」
と主張するなら、所得、雇用、税収、人口、事業継続率など、評価指標を明確にする。
主義だけを語り、結果による検証を拒む政治は、信念ではなく教条主義になる。
政治的過激化を抑えるために必要なこと
政治家の過激な言葉を禁止するだけでは、問題は解決しない。
表現の自由への過度な制限にもつながり得る。
必要なのは、過激な発言の利益を小さくし、実質的な政策説明の利益を大きくする制度と文化である。
第一に、報道機関は、失言の一部分だけでなく、政策の内容、法案、予算、実績を継続的に報道する必要がある。
第二に、交流サイトの反応数を、世論全体と同一視しないことである。投稿を頻繁に行う人は、有権者全体を代表しているとは限らない。
第三に、政党は、攻撃的な発信だけで知名度を得た政治家を安易に優遇しないことである。政策立案、議会活動、法案修正、合意形成も評価すべきである。
第四に、有権者は、政治家が誰を攻撃しているかではなく、何を実現したかを見る必要がある。
第五に、政府や議会は、政策決定の資料、議事録、費用、効果測定を公開し、事実に基づく検証を可能にする必要がある。
第六に、異なる政党の政治家が、協力できる分野では協力することである。政治指導者同士が協力の可能性を示すことが、支持者間の感情的な敵意を弱める可能性を示した研究もある。
結論~政治家は民意に迎合するのではなく、民意に責任を負うべきである
中立や中道から離れた政治家ほど過激で、言葉が汚く、常識を逸脱しているように見える現象は、左右どちらかの思想に固有の問題ではない。
その背景には、複数の要因がある。
先鋭的な政治家ほど、広い支持より熱心な支持を必要とすること。
敵を設定することで支持者の結束を高められること。
交流サイトでは強い感情を伴う情報が拡散されやすいこと。
党内競争では、穏健な妥協より思想的純粋さが評価されやすいこと。
政治不信や経済的不安が、強い言葉への需要を生むこと。
政策能力が不足した政治家が、敵への攻撃によって責任を回避できること。
こうした条件が重なると、政治家にとって過激な発言が合理的な戦略になる。
しかし、合理的であることと、望ましいことは同じではない。
政治家は、有権者が怒っているから一緒に怒るだけの存在であってはならない。
有権者が不安を感じているなら、その原因を調べ、複数の選択肢を示し、必要な負担も説明しなければならない。
政治家は、世論を追いかけるだけではなく、自らの理念を示し、それを事実と論理によって説得する責任がある。
ただし、理念を主張することは、支持者を扇動することではない。
反対派を敵として扱い、恐怖や憎悪を利用するのは政治的指導ではない。
望ましい政治家とは、自らの主義を明確にしながら、反対意見を聞き、事実によって政策を修正し、異なる立場の国民にも説明しようとする人物である。
民主主義に必要なのは、何も主張しない中立的な政治家でも、支持者の感情を増幅する過激な政治家でもない。
明確な理念を持ち、その理念を政策に変換し、その費用と結果について責任を負い、反対する人々をも説得しようとする政治家である。
政治家は、民意に迎合するのではなく、民意を理解し、民意に説明し、民意に対して責任を負うべきなのである。

