地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

政治

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 選挙の日が来たのに、選挙がない。候補者のポスターが町を埋めることも、選挙カーの声が朝の静けさを破ることもなく、それでも告示の日が過ぎれば議員や首長が決まっている。無投票当選とは、候補者数が定数を超えなかったため投票を行わずに当選者が決まる制度上まったく合法的な仕組みであり、それ自体を直ちに民主主義の異常と呼ぶことはできない。しかし、その静けさが一度だけではなく、各地で繰り返されるようになったとき、その背後には人口減少時代の地方自治が抱える構造的な変化が見えてくる。

 本稿では、首長選挙や都道府県議会議員選挙でも発生する無投票のすべてを一括して論じるのではなく、なり手不足の問題がとりわけ鮮明に表れている町村議会議員選挙を中心に考えていく。選挙の種類が違えば無投票になる理由も完全には同じではなく、たとえば首長選挙では現職の強さや政党・地域勢力の関係などが大きく作用するため、「地方選挙の無投票には一つの原因がある」と考えること自体が適切ではないからである。

町村議会では、無投票はすでに珍しい出来事ではない

 全国町村議会議長会の集計を見ると、町村議会議員の一般選挙で無投票となった町村の割合は、2011年5月から2015年4月までの20.4%から、2015年5月から2019年4月には21.9%、2019年5月から2023年4月には27.4%へと上昇している。さらに2023年の統一地方選挙だけを見ると、町村議会議員選挙が行われた373町村のうち123町村、33.0%が無投票となった。

 さらに重要なのは、実際に無投票となった自治体だけを見ても候補者不足の全体像は分からないことである。2019年5月から2023年4月までの町村議会議員選挙では、無投票となった町村に、候補者数が定数をわずか1人だけ上回った町村まで加えると全体の59.7%に達しており、これは町村議会の約6割が「候補者があと一人少なければ無投票」という境界付近にあったことを意味する。無投票選挙は、もはやごく一部の山間部や離島だけで起きる例外的な現象ではなく、地方議会の候補者供給そのものが細くなっていることを示す現象として考える必要がある。

人口が少ない自治体ほど無投票になりやすいのは確かである

 最初に思い浮かぶ原因は人口減少だろう。住民が少なくなれば議員になろうとする人の母数も小さくなるため、小規模自治体ほど無投票になりやすいという説明には直感的な説得力があり、実際の統計もその傾向をかなり明瞭に示している。

 2017年5月から2021年4月までの市町村議会議員選挙を分析した研究では、無投票となった252選挙のうち241選挙、95.6%が「選挙人5万人以下、当選者20人以下」という比較的小規模な範囲に入っていた。また、無投票自治体の選挙人平均は約1万2900人だったのに対し、投票が行われた自治体では約5万4200人となっており、自治体規模と無投票との間には明瞭な関連が確認できる。

 ただし、ここで「人口が少なければ無投票になる」と単純化してしまうと、現象のかなり重要な部分を見落としてしまう。同じ研究では自治体の面積そのものには極端な差がみられなかった一方、1平方キロメートル当たりの選挙人数は、無投票自治体で約69人、投票が行われた自治体では約253人と大きく異なっていた。つまり、人口の総数だけでなく、人がどの程度まとまって暮らしているかという人口密度も無投票と関連しているのである。

 もっとも、この数字から「人口密度が低いことが無投票を引き起こす」と因果関係まで断定することはできない。人口密度の高い自治体では企業や商店、学校、地域組織、政党活動、職業構成なども同時に異なるため、人口密度だけの効果を切り離すことは難しいからである。統計が確実に示しているのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が多いという相関であって、その背後にどのような社会構造が介在しているかは、さらに考える必要がある。

同じ5000人の町でも、候補者を生み出す力は同じではない

 人口5000人の町を二つ想像してみよう。一方には駅があり、その周囲に住宅、商店、学校、診療所、事業所が集まり、多様な職業や世代の住民が日常的に交わっている。もう一方では広い山間部に小さな集落が点在し、若い世代の多くが町外へ通勤し、地域組織の担い手も高齢化している。同じ人口5000人であっても、この二つの町から新しい議員候補が生まれる可能性まで同じだと考える理由はない。

 選挙とは、住民の頭数から一定割合で候補者が発生する仕組みではなく、政治に関心を持つ人が存在し、その人が立候補を現実的な選択肢だと考え、仕事や家族生活との調整ができ、周囲から一定の支援を受け、選挙に必要な時間と費用を負担できて初めて候補者が一人誕生する制度である。この過程のどこか一つでも大きな障壁が生じれば、人口が存在していても候補者は出てこない。

減っているのは「議員になれる年齢の人」だけではない

 町村議会の変化を見るうえでは、人口減少とともに年齢構成にも注意する必要がある。全国町村議会議長会の調査では、町村議会議員の平均年齢は2015年の62.7歳から2019年には63.9歳、2023年には64.4歳へ上昇している。また、在職20年以上の議員割合も12.3%から15.3%、16.2%へ増加している。

 一方、在職4年未満の議員割合は2015年の26.3%から2019年には24.9%へ低下し、2023年には25.9%までやや回復したものの、2015年をなお下回っている。このため「新人議員が一貫して減り続けている」と表現するのは正確ではないが、長期在職者の比率が高まり、議会構成の高齢化が進んでいることは確かであり、新しい世代への交代が十分に進んでいるとは言いにくい。

 問題は単なる年齢ではなく、現役世代が地方議員という仕事を選択できる生活条件を持っているかどうかである。若い人が町に残っていても、住宅ローンを抱え、子どもを育て、会社員としてフルタイムで勤務しているなら、地方議員への立候補は容易ではない。したがって候補者不足を考えるとき、本当に見るべきなのは「25歳以上の住民が何人いるか」ではなく、「現実に立候補できる生活条件を持つ人が何人いるか」なのである。

月額約22万円の議員報酬をどう見るか

 町村議会議員の報酬の低さも、なり手不足を考えるうえで無視できない。全国町村議会議長会の2025年調査では、町村議会議員の平均月額報酬は約22万3000円であり、人口5000人未満の町村では平均約19万2000円にとどまっている。

 もちろん、議員報酬が低いという事実だけで無投票が発生するわけではなく、報酬を上げれば候補者不足が自動的に解消するとも限らない。しかし、地方議員の仕事には本会議への出席だけでなく、委員会、行政資料の調査、住民相談、地域行事、政策研究などが伴うため、十分な生活収入を得られる専業職とは言いにくい一方、副業として簡単にこなせるほど軽い仕事でもないという矛盾が生じる。

 この条件は、とりわけ会社員に重くのしかかる。勤務先に兼業制度や休職制度がなければ立候補を機に退職せざるを得ない場合があり、しかも選挙に当選する保証はなく、当選しても4年後に再選できる保証はない。そのため、40代や50代の会社員が「地域のために働いてみたい」と考えても、その意欲だけでは越えられない経済的な壁が存在する。

 地方議会のなり手不足とは、政治に関心のある人がいない問題というより、政治に関心があっても職業生活を維持したまま参加することが難しい問題として捉えた方が実態に近い。

小さな町ほど、立候補は本人だけの問題ではなくなる

 小規模地域では住民同士の関係が密接であり、それは災害時の助け合いや高齢者の見守りでは大きな長所となるが、選挙では必ずしも政治参加を促進する方向だけに作用するとは限らない。

 全国町村議会議長会が行った現地調査では、小規模な町村では候補者本人だけでなく家族や親族まで地域から注目されるため、家族の反対によって立候補を断念した事例や、地域の推薦を受けていない移住者が立候補を考えた際に周囲から難色を示された事例などが報告されている。また、一部地域には、自ら立候補することを「出過ぎた行為」と捉える文化的な感覚が残っているとの指摘もある。

 ただし、これらは全国すべての小規模自治体に共通することを統計的に証明した結果ではなく、現地調査や聞き取りから得られた事例であることには注意が必要である。それでも、立候補が匿名性の高い都市部とは違って本人の政治的決断だけでは完結せず、家族や地域の人間関係を巻き込む場合があるという指摘は、候補者不足を人口統計だけでは説明できない理由の一つになる。

 ここには地方政治の難しい逆説がある。地域とのつながりが強い人ほど議員に向いているように見える一方、その人ほど立候補によって失う可能性のある人間関係も多い。商売をしていれば顧客との関係を考え、会社員なら勤務先を考え、家族は近所付き合いを考えるため、政治参加によって生じる社会的な費用が大きくなれば、「そこまでして議員にならなくてもよい」と判断することも個人にとっては合理的なのである。

候補者だけでなく、候補者を「担ぐ人」も減っている

 地方選挙では、候補者本人がある日突然政治家を志し、すべてを一人で準備して立候補するとは限らない。かつては自治会、商工団体、農業関係者、地域の世話役などが候補者を探し、「次はあの人に出てもらおう」と本人を説得し、選挙運動を支えることも珍しくなかった。候補者の背後には、候補者を発見し、支援し、政治へ送り込む地域社会の仕組みが存在していたのである。

 ところが人口減少と高齢化は、候補者になる世代だけでなく、その「担ぎ手」となってきた地域組織の側にも及んでいる。全国町村議会議長会の調査でも、従来の選挙を支えた組織や担ぎ手が弱まり、初めて立候補する人が選挙手続きや人員確保、資金準備などを自ら行わなければならない状況が指摘されている。

 もっとも、自治会や商工会などの縮小が候補者数をどの程度減らすのかを全国的な統計から数量的に示した研究は十分ではないため、「地域組織が弱くなったから無投票が増えた」と直接的な因果関係を断定することはできない。それでも、政治参加には候補者本人だけでなく候補者を発掘し支援する社会的な基盤が必要だという考え方には十分な合理性がある。

 人口減少から無投票へ至る経路は、「人口が1割減れば候補者も1割減る」という単純なものではないのかもしれない。人口が減ることで若年層が減り、事業所や商店が減り、地域組織が弱まり、候補者を探す人も支援する人も少なくなり、その長い連鎖の最後に候補者不足が数字となって表れると考える方が、地方社会の実態には近い。

定数を減らせば解決するという単純な話でもない

 候補者が少ないのであれば議員定数を減らせばよいという考え方も、一見すると合理的である。定数12人に候補者が12人しかいないため無投票になるのであれば、定数を10人に減らせば候補者12人で選挙が成立するからである。

 しかし、定数削減には別の作用もある。議席が少なくなれば一人の候補者が当選するために必要な支持は相対的に大きくなり、既存の支持基盤を持たない新人にとって参入障壁が高くなる可能性がある。町村議会を対象とした研究でも、低い議員報酬だけでなく少ない議員定数と無投票との関連が指摘されている。

 もちろん、定数を減らせば必ず候補者がさらに減るという意味ではなく、短期的には候補者数と定数との差が広がり、無投票を回避できる自治体もあるだろう。しかし、無投票を解消することだけを目的として定数を減らし続ければ、形式上は選挙が成立していても、新しい人が政治へ参入するための入口まで狭くしてしまう可能性がある。

無投票になりやすい自治体にあるのは、一つの原因ではなく「条件の重なり」ではないか

 ここまでを整理すると、無投票選挙が増える自治体の特徴を一つの数字だけで説明することは難しいことが分かる。統計的にかなり確実なのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が発生しやすいということであり、その背景には高齢化、議員報酬の低さ、会社員が立候補する際の職業上のリスク、地域組織の担い手不足、新人が参入する際の障壁など、複数の条件が重なっている可能性がある。

 したがって、「人口5000人以下なら無投票になる」といった明確な境界線を設定することはできない。同じ5000人の町でも人口密度、産業構造、通勤形態、議員報酬、議員定数、地域組織、移住者の割合、地域社会の開放性などが違えば候補者供給の条件も異なるからである。

 科学的に重要なのは、ここで相関と因果を混同しないことである。小規模自治体ほど無投票になりやすいことはかなり強いデータで確認できるが、「人口が少ないから無投票になる」という単独の因果関係が証明されているわけではない。むしろ自治体が小規模になるにつれて、候補者を生み出す社会的・経済的条件が複数同時に厳しくなると考える方が、現在確認できる研究には整合的である。

本当に問題なのは「選べない状態」が続くことである

 無投票選挙については、選挙費用がかからず、地域内で候補者への合意が形成されているのであれば合理的ではないかという考え方もできる。実際、一度無投票になったという事実だけから、その自治体の民主主義が機能していないと断定することはできない。

 しかし、無投票が何度も繰り返される場合には別の問題が生じる。選挙がなければ候補者同士の政策比較は行われず、住民は複数の選択肢から地域の将来像を選ぶ機会を持たない。選挙期間中に本来行われるはずだった政策論争そのものが発生しないため、誰が当選するかという結果だけでなく、地域社会が政治を考える過程そのものが失われることになる。

 競争性の低い選挙と投票率との関連を示す研究は存在するものの、「無投票が続くことで住民の主権者意識が低下し、その結果としてさらに候補者が減る」という因果の連鎖までが全国的なデータによって十分に証明されているわけではない。逆に、もともと政治参加の低い地域だからこそ無投票が起こりやすいという逆方向の因果も考えられる。

 したがって、無投票が住民の政治意識を必ず低下させると断定するよりも、無投票が繰り返されれば、住民が候補者を比較し、政策を選択し、地域の将来について議論する機会が継続的に失われるという事実そのものを問題として捉える方が適切である。

無投票率は「地域の更新能力」を映す指標になり得るか

 ここから先は、現在の研究によって確立された結論ではなく、一つの仮説として考えてみたい。無投票率は、その地域社会が新しい担い手をどれだけ生み出せるかという「地域の更新能力」を見る補助的な指標として使えるのではないだろうか。

 人口減少率や高齢化率は地域の人口構造をよく表すが、それだけでは新しい住民が地域活動へ参加できるのか、若い世代が意思決定に入れるのか、既存組織の外から新しい人が出てこられるのかまでは分からない。もし人口規模や高齢化率がほぼ同じ二つの自治体で、一方では毎回複数の新人候補が現れ、もう一方では何期も無投票が続いているとすれば、その違いには人口統計だけでは捉えられない社会的な条件が存在する可能性がある。

 この仮説を検証するには、自治体ごとの無投票回数と人口減少率、高齢化率、人口密度、議員報酬、定数、産業構造、新人候補割合、移住者割合、地域組織への参加状況などを長期間にわたって比較する必要がある。その研究が十分に行われているわけではない以上、「無投票率が地域衰退を示す」と断定することはできないが、地域社会の政治的な新陳代謝を見る材料として注目する価値はある。

選挙がなくなる前に、何が地域から失われているのか

 無投票選挙の増加を人口減少だけの問題として処理すると、「人口が少ない地域では仕方がない」という結論になりやすい。しかし、実際には同じ規模の自治体であっても選挙になるところと無投票になるところが存在している以上、人口だけでは説明できない何かがある。

 そこには議員という仕事の経済条件、会社員が政治参加するための制度、候補者を支える地域組織、外部から来た住民や若い世代を受け入れる地域社会の開放性、そして議会そのものが住民から魅力ある政治参加の場として見えているかどうかまで、多くの要素が絡んでいる可能性がある。

 選挙とは、誰を選ぶかを決める制度である。しかし、その前にはもっと根本的な条件が存在する。選ばれようとする人が複数いなければ、住民が「選ぶ」という行為そのものが成立しないからである。

 地方自治にとって本当に注意すべき変化は、投票率が50%を切ることだけではないのかもしれない。そのさらに手前で、投票率を計算する選挙そのものが行われなくなっていくことにも目を向ける必要がある。

 人口が静かに減る町では、最初に学校が統合され、商店が閉じ、路線バスが消えるとは限らない。それらの変化と並行して、「次の選挙に出る人がいない」という政治の担い手不足が先に姿を現すこともある。ポスターのない選挙期間は静かであり、住民の日常生活が直ちに変わるわけでもない。しかし、その静けさが4年ごとに繰り返されるようになったとき、私たちは「選挙がなくて困らない」と考えるだけでなく、なぜこの地域から選ばれようとする人が生まれにくくなったのかを問い直す必要がある。

 無投票選挙が発しているのは、「人口が減った」という単純な警報ではない。それは、地域社会が新しい担い手を生み出し、世代を交代させ、異なる意見を政治へ送り込む力が今も残っているのかを問いかける、人口減少時代の地方自治から届く静かな警告なのかもしれない。

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「決められない政治」を終わらせたあと、日本は何を手に入れ、何を失ったのか

 日本政治を長く見ていると、その時代を象徴する言葉がある。「官僚主導」「政治主導」、そして「官邸主導」もその一つだろう。しかも、これらの言葉には、いつの間にか善悪の色まで塗られていた。官僚主導は古い政治であり、政治主導は民主的であり、官邸主導は決断のできる強い政治であるという物語が、1990年代から2000年代にかけて広く共有されるようになった。

 もちろん、この物語には理由があった。かつての日本政治では、農業には農林水産省、産業には通商産業省、社会保障には厚生省、財政には大蔵省というように、それぞれの省庁が大きな専門領域を抱え、その周囲には与党の政策部会、業界団体、審議会、いわゆる族議員などが存在していた。一つの政策について見れば、専門知識と利害調整を積み上げていく精巧な仕組みだったともいえるが、国全体を一つの方向へ動かそうとすると、途端に政治は重くなった。それぞれの組織が、それぞれの合理性を持っていたからである。

 この仕組みは慎重だったが、遅かった。そして国民から見ると、誰が政策を決めているのかも分かりにくかった。選挙で政権を選んでも、その後の政策形成が霞が関や与党内部の複雑な調整に入れば、最初に掲げられた政治的意思が薄められてしまうこともある。そのため1990年代になると、「選挙で選ばれた政治家がもっと行政を動かすべきではないか」という考え方が勢いを増していった。

 そこで始まったのが、首相と内閣の機能を強める一連の改革である。橋本龍太郎政権による行政改革を経て、2001年には中央省庁再編が実施され、内閣官房の企画・調整機能が強化されるとともに、内閣府も設置された。改革の目的そのものに「内閣機能の強化」と、それを通じた「政治主導の強化」が掲げられていた以上、後に生まれた官邸主導は、偶然強い首相が登場した結果ではない。日本政治は制度そのものを組み替えることによって、意識的に首相が政策を動かしやすい仕組みを作ったのである。

 その変化をさらに後押ししたのが選挙制度改革だった。衆議院で小選挙区を中心とした制度が導入されると、候補者の公認や選挙戦略を握る政党執行部の力が相対的に強くなる。以前の自民党では派閥や個々の議員がかなりの自律性を持っていたが、選挙制度の変化と内閣機能の強化が重なったことによって、首相と党執行部が政策を動かす条件が整っていった。官邸主導とは首相個人の性格ではなく、政治制度の変化によって生まれた構造なのである。

小泉純一郎は「強くなった官邸」の使い方を示した

 制度が変わっても、それを使う政治家がいなければ政治は変わらない。その意味で象徴的だったのが小泉純一郎政権である。経済財政諮問会議を利用して、従来なら各省庁や自民党内部で長い時間をかけて調整されていた政策を首相周辺から動かし、郵政民営化をめぐって党内から強い抵抗を受ければ、衆議院を解散してその争点そのものを国民に問うた。

 2005年の総選挙で自民党が大勝した後、小泉首相の党内での影響力はさらに強まり、それまで与党や省庁との調整で停滞していた政策についても首相が主導的に方向を示す場面が増えたことは、政治学の研究でも確認されている。ただし、この研究から読み取るべきなのは、「首相主導なら政策が必ず成功する」ということではない。首相が政策を動かせるようになったことと、その政策が正しかったことは別の問題だからである。

 それでも当時の政治が多くの国民に新鮮に映った理由は理解できる。郵政民営化に賛成なのか反対なのか、改革を進めるのか止めるのかという争点を首相が提示し、その是非を選挙で問い、勝った政権が政策を実行する。この流れは、それ以前の複雑な政策決定過程と比べれば圧倒的に分かりやすかった。「選挙で選ばれた政治家が行政を動かす」という議院内閣制の原則が、ようやく現実の政策形成に近づいてきたようにも見えたのである。

 だからこそ、官邸主導を単純に「権力集中」と呼んで否定してしまうと、この改革が何を解決しようとしたのかが見えなくなる。かつての日本政治には、確かに「決められない」という問題が存在していた。

安倍政権で官邸主導は人事の領域へ広がった

 官邸主導を考えるうえでもう一つ重要なのが、第2次安倍晋三政権である。2014年には内閣人事局が設置され、各府省の幹部職員について政府中枢が横断的に人事を管理する仕組みが本格的に導入された。これによって官邸が持つ制度的な力は、政策の調整だけでなく、政策を実施する行政組織の幹部人事にまで広がった。

 ここには明確な合理性がある。もし各省庁が自分たちの幹部を事実上自分たちだけで選び、その人事に政治がほとんど関与できないとすれば、選挙で選ばれていない官僚組織が政府の方向性を左右する可能性が生まれる。選挙で選ばれた政権が自らの政策を実行できるよう、人事を含めて行政組織を統制することには民主主義的な根拠がある。

 しかし、この改革をめぐっては別の懸念も現れた。官邸が人事に強い影響力を持てば、官僚が政権の意向に反する意見を述べにくくなるのではないか、という問題である。参議院事務局の調査論文にも、内閣人事局について「官僚の萎縮を招き、意見を言いにくくする」との批判が存在することが紹介されている。ただし、ここは慎重に読む必要がある。それは官僚の萎縮が統計的、因果的に証明されたことを意味するものではなく、制度改革をめぐってそのような批判や懸念が提起されてきたということである。

 さらに近年の研究を加えると、状況はもっと複雑に見えてくる。2019年と2023年の主要省庁の官僚を対象とした意識調査を分析した2025年の研究では、首相官邸、内閣官房、内閣府が制度上強化されている一方、官僚から見た日常的な政策形成では、それらが常に圧倒的な存在として認識されているわけではないことが示されている。安倍政権期についても、官邸があらゆる政策分野で官僚を一方的に統制していたと単純化することは難しい。

 ここには官邸主導を理解するうえで重要な区別がある。「官邸が強い制度を持っていること」と、「すべての政策について官邸が実際に支配していること」は同じではないのである。

「決められる政治」と「良い政治」は同じなのか

 官邸主導を評価するとき、最も注意しなければならないのは、政策を決定できることと政治が良くなることを無意識に同じものとして扱わないことである。意思決定の速さは政治の能力の一つではあるが、それだけで政策の質を測ることはできない。

 会社を例にすれば分かりやすい。社長がほとんどすべての案件を即断できる会社は意思決定が速い。しかし、その社長が正しい判断をしているとは限らない。判断が正しければ会社は素早く前進するが、判断が誤っていれば同じ速度で間違った方向へ走ることもできる。

 政治も同じである。官邸主導によって直接強くなるのは、「正しい政策を選ぶ能力」というより、「政府として一つの方針を決定し、それを行政組織に実行させる能力」である。この違いを曖昧にすると、官邸主導の評価そのものを間違える。

 従来の省庁中心型政治には確かに欠点があった。各省庁が自らの所管や既存制度を守ろうとすれば、省庁間調整には時間がかかり、改革案が弱められることもある。しかし、その煩雑さの中には、別の機能も埋め込まれていた。財政を担当する官僚が「その財源はどうするのか」と問い、法制度を担当する官僚が「現行法との整合性はどうなるのか」と問い、政策を実施する現場の官僚が「自治体や事業者が本当に実行できるのか」と問い返す。政治家にとっては面倒な反論であっても、政策にとっては一種の品質検査なのである。

官僚が反対できる政府は弱いのか

 ここで問題になるのが、政治主導と官僚の専門性をどのように両立させるかという古くて新しい問題である。官僚が政治家の方針を無視して独自に政策を進めれば、民主主義的統制が失われる。しかし政治家の方針に対して官僚が何も反論できなくなれば、今度は政策判断に必要な専門的なチェック機能が弱まる可能性がある。

 政治と行政の理想的な関係は、政治家が目的と方向を決め、官僚が専門知識に基づいて実現可能性や副作用を検討し、それでも意見が分かれる場合には、最終的に選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する形に近いだろう。英国の政官関係を扱った研究でも、政治主導は大臣が官僚に一方的に命令することではなく、大臣が方針を示し、官僚が必要な質問や問題点を提示し、その対話を経て政治家が最終判断する関係として捉える必要があると論じられている。

 つまり、「政治家が決めること」と「官僚が黙ること」は同じではない。

 官邸主導によって官僚が実際にどの程度萎縮したのかについては、今なお研究上の議論が残る。それでも制度設計として考えれば、政権が官僚を統制する力と、官僚が専門家として異論を提出できる環境の双方を確保する必要があるという問題は消えない。政治主導と専門性は本来、どちらかを選ぶものではなく、互いを利用して政策の質を高めるべき関係だからである。

縦割りを壊すための官邸が、巨大組織になっていく

 官邸主導が求められた大きな理由の一つは、省庁の縦割り行政だった。人口減少、感染症、エネルギー、安全保障、少子化、デジタル化のような問題は、一つの省庁だけでは解決できない。そうであれば、各省を越えて調整する政府全体の司令塔が必要になるという発想には十分な合理性がある。

 ところが、ここには中央集権的な組織が持つ一つの逆説が潜んでいる。新しい政策課題が生まれるたびに「官邸で調整しよう」と考えれば、本部、会議、事務局、担当室が次々と政府中枢に設けられる。実際、内閣官房や内閣府には多数の政策課題別組織が設けられ、その業務量の膨張や役割の重複は以前から指摘されてきた。

 もちろん、これだけで「官邸と各省の新しい縦割りが生まれた」と断定することはできない。しかし、各省庁の縦割りを克服するために設けた調整組織が巨大化すれば、今度は官邸と各省庁との間に新しい調整コストが発生する可能性がある。中央に権限を集めれば、それだけで組織全体が単純になるわけではないのである。

 交通事故が起こるたびに運転席だけを大きくしても、自動車が安全になるとは限らない。必要なのは運転席だけではなく、計器、ブレーキ、ミラー、整備、道路標識まで含めた仕組みであり、政治についても同じことがいえる。

「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治

 官邸主導には民主主義にとって明確な利点がある。それは責任の所在を分かりやすくできることである。省庁、審議会、与党部会、業界団体の調整を積み重ねた末に政策が決まる仕組みでは、失敗したときにも「役所が決めた」「党で調整した」「関係者の合意だった」と責任が分散しやすい。それに対して首相が政策を掲げ、政府として実行するのであれば、その結果を選挙で評価しやすくなる。

 ただし、ここにも別の問題がある。意思決定が政府中枢に集まれば、「誰が決めたか」は分かりやすくなる一方、少人数での調整が増えた場合には「なぜその判断になったのか」が外部から見えにくくなる危険がある。

 もっとも、官邸主導そのものが不透明さを生むわけではない。小泉政権期の経済財政諮問会議では議事要旨や議事録が公開され、むしろ従来の政策形成より透明性が高かったと評価されることもある。重要なのは、誰が政策を決めたかではなく、その判断に使われた資料や異論、選択肢、議論の経過がどこまで記録され、後から検証できるかなのである。

 公文書が重要なのも、そのためだ。民主主義では、決定した政策だけではなく、なぜ別の政策を選ばなかったのかまで後世の国民が検証できなければならない。「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治は、似ているようで別のものである。

官邸主導によって政策の質は落ちたのか

 ここについては、簡単な答えを出すべきではない。

 官邸主導が強まることで政策論争が政府内部に閉じられ、異論が表面化しにくくなれば、政策の質が低下する可能性があるという指摘は政治学や行政学に存在する。しかし、日本政府全体について「官邸主導になったから政策の質が落ちた」という因果関係が統計的に確立しているわけではない。

 そもそも政策の質というものを一つの数字で測ること自体が難しい。外交政策と社会保障政策では成功の尺度が違い、感染症対策と経済政策でも評価基準は異なる。政策を早く決めることが重要な場面もあれば、時間をかけて異論を検討することが重要な場面もある。したがって、官邸主導について科学的にいえるのは、「政策の質を必ず低下させる」ということではなく、権力が集中するほど異論や代替案を検討する仕組みを意識的に設ける必要が高まる、という程度までである。

 逆に、「官邸主導なら必ず良い政策になる」ともいえない。官邸主導が比較的強く実証されているのは、首相の政策主導力や政府中枢の調整能力が以前より高まったという点であって、それが経済成長、行政効率、政策の公平性、透明性、民主的正統性のすべてを同時に高めたことが証明されているわけではない。

では「日本政治が良くなった」とは何を意味するのか

 ここまで考えると、実はこの記事の題名に含まれる「良くした」という言葉そのものが問題であることが分かる。

 政治が良くなったかどうかを、政策決定の速さで測るのか、選挙公約の実現率で測るのか、経済成長で測るのか、行政コストで測るのか、透明性で測るのか、少数意見が尊重されたかどうかで測るのかによって、官邸主導への評価は変わる。

 もし政治の目的を「政府が意思決定できること」に置くのであれば、官邸主導改革はかなり成功したと評価できるだろう。首相が政策課題を設定し、省庁を越えて政府全体を動かす制度的能力は、1990年代以前より明らかに強くなったと考えられる。

 しかし政治の目的を「できるだけ正しい政策を選び、間違えた場合には修正できること」に置くなら、評価はもっと複雑になる。決断能力だけでなく、情報収集、異論、専門性、記録、議会による監視、政策評価まで含めて制度を見なければならないからである。

強い指導者より、間違いを直せる制度の方が強い

 官邸主導について考えるとき、最も重要なのは首相を強くするべきか弱くするべきかという二択から離れることだろう。人口減少、安全保障、エネルギー、感染症、人工知能のように複数の省庁にまたがる問題が増える現代社会で、再び各省庁が個別に政策を積み上げ、最後に首相が承認するだけの政治へ完全に戻ることは現実的ではない。

 必要なのは弱い官邸ではなく、強い官邸の周囲に強い検証装置を置くことである。

 官僚が昇進だけを気にせず専門的な異論を提示でき、それが記録として残され、有識者会議では政府に近い意見だけでなく反対意見も検討され、最終的には選挙で選ばれた政治家が責任を持って決断する。そして国会と国民が、数年後に「なぜこの政策を選んだのか」「予想した効果は得られたのか」を資料に基づいて検証できる。その仕組みがあるなら、政治主導と官僚の専門性は対立するものではなく、むしろ互いを補完する。

 強い政治とは、指導者が何でも決められる政治ではない。間違ったときに、それを発見して修正できる政治である。

官邸主導が日本政治に残した本当の宿題

 「官邸主導は日本政治を良くしたのか」という問いに、単純な答えはない。しかし、かなり確かなことはある。日本政治はこの三十年ほどの改革によって、「誰も決められない政治」から「誰が決めるのかが比較的分かる政治」へと大きく変わった。

 それは小さな変化ではない。

 一方で、政治の目的は決めることそのものではない。よりよい選択肢を見つけ、間違った場合には修正し、その理由を国民に説明できることである。官邸主導によって日本政治は確かに強力なアクセルを手に入れたが、アクセルが強くなればなるほど、ブレーキ、計器、ミラーまで同じ性能にしておかなければならない。

 かつて日本政治が抱えていた問いは、「なぜ誰も決められないのか」だった。官邸主導の時代になって現れた問いは、それとは少し違っている。

 首相が政策を決める。それ自体は民主主義に反することではなく、むしろ議院内閣制では当然のことでもある。しかし、その決定に対して専門家が「この前提は間違っています」と言えるのか、官僚が「この政策にはこうした危険があります」と書けるのか、国会が「なぜそう決めたのか」と資料をたどれるのか、そして数年後の国民がその政策の成否を検証できるのかという問題は、首相が強くなっただけでは解決しない。

 日本政治は官邸主導という改革によって、「誰が決めるのか」という問いにはかなり明確な答えを与えた。

 しかし、その先にある問いには、まだ十分な答えを出していない。

 「決めた人が間違えたとき、それをどう発見し、誰が止め、どう直すのか」。

 おそらく官邸主導の成否を本当に判断できるのは、この問いに日本政治が答えられるようになったときなのだろう。

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「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴という政治家を振り返るとき、しばしば「権力に慎重だった保守政治家」という言葉が使われる。しかし、その説明だけでは、彼の本質には届かない。後藤田は権力から遠い場所にいて、それを理念的に批判した人ではなかった。旧内務省に入り、戦後は警察行政の中枢を歩み、警察庁長官となり、さらに内閣官房副長官、自治大臣、国家公安委員長、内閣官房長官、副総理、法務大臣まで務めた。国家が情報を集め、人を動かし、命令を下し、ときには強制力を行使する、その仕組みの中心を長く歩いてきた人物である。

 だからこそ、彼が晩年になるほど権力の扱いに慎重になったことには重みがある。権力を知らなかったから恐れたのではない。権力が実際にはどのように動き、どのように人を変え、どのように組織を自己正当化させるのかを知ったからこそ、その危険を警戒するようになったのではないか。後藤田正晴という人物のおもしろさは、まさにその逆説の中にある。

権力は「正しさ」の中から膨張する

 国家権力は、悪意だけによって暴走するわけではない。むしろ現実には、「正しいことをしよう」という意志の中から膨張していく場合の方が多い。治安を守るため、国民を守るため、国家の安全を確保するため、災害に迅速に対応するため、行政を効率化するため。どれも必要な目的であり、それ自体を否定することはできない。国家が何もできなければ社会は成り立たないし、警察も防衛も外交も危機管理も必要である。後藤田は、その必要性を誰よりも現場に近い場所で知っていた。

 それでも彼は、国家が強くなればなるほど、その力をどう制御するかを考え続けた。彼が求めたのは、弱い国家ではなかった。必要なときには動ける国家でありながら、その強さが自分自身を正当化し、際限なく広がっていかない国家だった。民主主義の難しさはここにある。権力を弱めることだけなら、それほど難しくない。しかし、国民を守るために十分な権限を持たせながら、その権限を法と手続きと政治的責任の中に閉じ込めることは、はるかに難しい。

戦争が教えた「国家も間違える」という現実

 その感覚を考えるうえで、後藤田の戦争体験は外せない。1914年に徳島県で生まれ、東京帝国大学を卒業して1939年に内務省へ入った後藤田は、翌年には徴兵され、台湾歩兵第二連隊に入営した。その後、陸軍経理学校を経て台湾軍司令部に勤務し、終戦を迎えている。官僚として国家を支えるはずだった青年は、国家そのものが戦争へ総動員されていく過程を、自分の人生として経験した。

 戦争中の日本は、自らを破滅させようとしていたわけではない。むしろ、多くの政策は「国を守るため」「国益を守るため」という名のもとに進められた。一つ一つの判断には、その時点なりの理由があり、合理性があり、責任感があった。それでも、その判断が積み重なった先に破局があった。ここに、権力を考えるうえで見落としてはならない現実がある。国家は悪意がなくても間違える。使命感でも間違えるし、愛国心でも間違える。そして、自分たちは正しいという確信を強く持つほど、途中で軌道修正することが難しくなる。

 後藤田の戦後の言動を戦争体験だけで説明することはできない。しかし、彼が軍事に対する政治統制を繰り返し重視し、軍事組織の論理が政治判断を越えてはならないと考えていた背景には、この経験が一つの重要な土台として存在していたと見るのが自然である。

軍事を統制するのは政治である

 後藤田が重視したシビリアン・コントロール(Civilian Control・軍事を文民による政治的統制の下に置く原則)も、その文脈で見ると理解しやすい。これは単に背広を着た官僚が制服組より偉い、という意味ではない。彼が繰り返し強調したのは、軍事は政治に従属しなければならないという原則だった。つまり、軍事組織が自らの論理だけで国家の進路を決めることを許してはならないということである。

 ここで重要なのは、後藤田が軍人を特別に危険視していたわけではないという点だろう。彼が警戒したのは、組織というものが、自分に与えられた使命を中心に世界を見るようになることだった。警察は社会問題を治安問題として見る。軍事組織は外交問題を安全保障の問題として見る。財政当局は政策を財源の問題として見る。どの見方も必要であり、どの見方も一定の正しさを持つ。しかし、その一つだけが国家全体の判断になったとき、政治は危うくなる。政治の役割とは、それぞれの専門的な正しさを比較し、全体の中で統合し、どれか一つの論理が国家そのものを乗っ取らないようにすることにある。

「悪い本当の事実を報告せよ」という権力論

 その意味で、後藤田の有名な「五訓」は、単なる役人の心得ではなく、一つの権力論として読むことができる。なかでも「悪い本当の事実を報告せよ」という言葉は象徴的である。

 組織の上に行けば行くほど、権限は大きくなる。だが同時に、現場の事実からは遠ざかっていく。課長より部長、部長より局長、大臣、そして総理大臣へと権限が集中していく一方で、トップ自身が直接見られる現実はむしろ少なくなっていく。だから、権力者は情報を部下から受け取るしかない。

 そこで、権力特有の歪みが生まれる。部下は上司の表情を読み、上司が何を望んでいるのかを察する。政策がうまくいっているなら、それを補強する資料が集められ、失敗が起きれば、その失敗をどう説明するかが考えられる。最初から誰かが嘘をつこうとしているわけではない。数字の悪い部分より良い部分を先に説明し、危険な兆候には慎重な表現を添え、政策に不都合な事実には別の解釈を与える。その小さな加工が積み重なるうちに、権力者だけが現実から遠ざかっていく。

 だから後藤田は、単に「本当の事実を報告せよ」とは言わなかった。「悪い本当の事実を報告せよ」と言ったのである。権力者が最も必要としている情報とは、自分を安心させる情報ではない。自分の政策が間違っているかもしれないと教えてくれる情報だからである。

 「勇気を以て意見具申せよ」という言葉も、同じ思想につながる。日本の組織では、ときに上司に逆らわないことが忠誠とみなされる。しかし、後藤田の考え方は逆だった。決定されるまでは意見を言い、決定された後は組織として実行する。強い組織とは、反対意見が存在しない組織ではない。反対意見を言っても排除されず、そのうえで最終的な決定には従える組織である。

 逆に、指導者の意向を察する能力ばかりが評価される組織は、一見するとよく統率されているように見えるが、実際には脆い。指導者が正しい間は強いが、指導者が間違った瞬間に、全員で同じ方向へ間違ってしまうからである。後藤田が警戒していたものを一つの言葉で表すなら、権力者の周囲から異論が消えていくことだった、と読むこともできる。

反権力ではなく、権力を統制する思想

 もっとも、後藤田を「反権力の人」として美化するのは正しくない。彼は警察庁長官として、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、成田空港をめぐる激しい対立など、国家が実力行使を迫られる局面を経験している。警察力そのものを否定していたわけではないし、自衛隊の存在を否定していたわけでもなく、日米安全保障体制そのものを拒絶していたわけでもない。

 だからこそ、彼の権力への警戒は重い。権力が必要であることを知ったうえで、その権力をどう縛るかを考えたからである。後藤田の思想を「反権力」と呼ぶより、「権力統制の思想」と呼んだ方が近いのだろう。

中曽根政権を支えながら、中曽根を止める

 その姿勢がもっとも鮮明に表れたのが、中曽根康弘政権である。中曽根は「戦後政治の総決算」を掲げ、日本の国家としての輪郭をより明確にしようとした政治家だった。構想を描き、決断し、前へ進もうとする政治家であり、政治的にはアクセルを踏むタイプだった。

 その中曽根の官房長官を長く務めた後藤田は、単なる抵抗勢力ではなかった。政権を支え、官邸機能を強化し、危機管理体制を整えながら、それでも越えてはならないと考えた線では止めた。象徴的なのが、1987年のペルシャ湾への海上自衛隊掃海艇派遣構想である。

 掃海という行為だけを見れば、防御的で人道的な作業にも見える。しかし、交戦海域に自衛隊の艦艇を送れば、日本側がどう説明しようとも、相手国からは戦争への参加と見なされる可能性がある。国家が何を意図したかだけでなく、相手からどう見えるかまで考えなければならない。後藤田はそこに強い懸念を示し、結果として派遣は実現しなかった。

 この出来事は、政治における「側近」の意味を考えさせる。総理大臣に何でも賛成する人間が有能な側近なのではない。総理が越えてはならない線に近づいたとき、「そこから先は危険です」と言える人間こそ、最も価値のある側近なのかもしれない。政権を倒すために反対するのではなく、政権を間違わせないために反対する。その役割を後藤田は担っていた。

安全保障の論理が国家すべてを覆うとき

 彼の慎重さは軍事行動に限らなかった。「国家安全保障会議」という名称についても、後藤田はかつて慎重な姿勢を示していた。国の安全という問題が、軍事や外交だけに狭く理解されることを警戒していたからである。国家の安全とは、軍事力だけで決まるものではない。経済が崩れ、災害への備えがなく、政治そのものへの信頼が失われれば、どれほど防衛力を持っていても国家は安定しない。

 安全保障が必要であることと、「安全保障」という言葉がすべての政策を正当化することは別の問題である。政治には、国家安全保障を考える能力と同時に、その言葉の強さに飲み込まれない慎重さも必要になる。

憲法とは政治家の善意を信じないためにある

 晩年の後藤田は憲法改正にも慎重な発言をしているが、彼を単純な護憲論者として理解するのも正確ではない。日本国憲法を一字一句変えてはならないと考えていたわけではなく、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義といった基本原理を重視しながら、もし現行憲法と整合しない政策を本当に行う必要があるなら、政治の都合で解釈を広げ続けるのではなく、国民に説明し、正式な改正手続きを踏むべきだという立場に近かった。

 ここにも、後藤田の権力観が現れている。憲法とは、善良な政治家を前提にする制度ではない。将来、どのような政治家が権力を握るか分からないからこそ存在する。現在の政権が「自分たちは正しく使う」と言って権限を拡大すれば、その権限は次の政権にも残る。制度は、その時々の政治家の善意ではなく、未来の政治家の危険性まで想定して作らなければならない。

権力は人を変えるより、世界の見え方を変える

 権力について語るとき、「権力を持つと人は悪くなる」という言い方がある。しかし現実は、それほど単純ではない。権力者が悪人になる必要はない。権力は、世界の見え方を変えるだけで十分に危険なのである。

 人が自分の話をよく聞くようになる。会議で反論されなくなる。自分の判断で予算が動き、人事が動き、行政が動く。その状態が続けば、自分の判断が正しいから人が従っているのか、権力を持っているから従っているのか、その区別は次第につきにくくなる。

 だから民主主義に必要なのは、立派な政治家を探すことだけではない。立派でない政治家が権力を握っても、国家が壊れない仕組みを作ることである。

問うべきは「強い首相か」ではなく「誰が止められるか」

 現在の政治でも、私たちはしばしば「強いリーダー」を求める。決断が早く、反対を押し切り、官僚を動かし、党内をまとめる政治家は、確かに強く見える。しかし、強いリーダーと、権力が集中したリーダーは同じではない。反対意見を排除すれば意思決定は速くなり、官邸に権限を集中すれば行政は動かしやすくなる。しかし政治の目的は、速く決めることではなく、できる限り正しい判断に到達することである。

 そして人間は間違える。

 ここを忘れた瞬間、「強い政治」は「訂正できない政治」に変わる。

 後藤田の思想から現在への問いを一つだけ引き出すなら、「この首相は強いか」ではなく、「この首相が間違ったとき、誰が止められるのか」と問うべきなのだろう。

 権力を外から見ると、どうしても美しく見える。総理大臣が決断すれば国が動き、大臣が指示すれば役所が動く。だから、もっと強い政治家がいれば改革が進むのではないかと考えたくなる。しかし実際に権力を使う側に立てば、一つの命令がどれほど多くの人を動かし、一つの判断がどれほど多くの人生に影響するかが見えてくる。

 治安政策なら人を拘束することがある。外交政策なら国家間の関係を変える。安全保障政策なら人命にかかわる。だから民主主義における権力は、政治家が所有するものではない。国民から一時的に預けられているものにすぎない。

 この感覚を失ったとき、政治家は代表者から支配者へ近づいていく。

正しい政治家より、間違いを止められる政治を

 私たちは政治に失望すると、「もっと正しい政治家はいないのか」と考える。しかし、正しい政治家だけを探しても政治は良くならない。必要なのは、間違った政治家が現れても、間違いが国家全体を支配しない制度である。

 権力者に不都合な数字が消えないこと。官僚が政治家に耳の痛い事実を言えること。専門家が政権に反対しても排除されないこと。報道機関が権力を批判できること。野党が政府を問いただせること。司法が政治から独立していること。そして選挙によって権力を入れ替えることができること。

 これらは政治を邪魔する仕組みではない。

 政治を間違わせないための仕組みである。

 民主主義とは、政府を全面的に信頼する制度ではない。人間は間違えるという前提に立ちながら、それでも政府に必要な権力を預ける制度である。その慎重さこそが、民主主義の強さなのだろう。

「カミソリ後藤田」と権力を納める鞘

 後藤田正晴は「カミソリ後藤田」と呼ばれた。頭の回転が速く、行政実務に通じ、危機管理にも強かった。しかし、この「カミソリ」という呼び名は、彼の権力観そのものにも重ねることができる。

 切れない刃物は役に立たない。しかし、よく切れる刃物ほど危険である。だから鞘が必要になる。

 国家権力も同じである。弱すぎれば国民を守れない。しかし、強ければ強いほど、それを納める鞘が必要になる。警察、自衛隊、情報機関、行政権、そして政治権力。後藤田は、それらを鈍らせようとしたのではない。必要なときには切れるようにしながら、それでも勝手に振り回されない仕組みを求めた。

 その鞘が、法であり、制度であり、政治統制であり、異論であり、「悪い本当の事実」を報告できる組織文化だったのではないか。

「正しい政治」ができる日本を夢見て

 後藤田正晴の人生から見えてくるのは、少し寂しく、それでも希望のある政治観である。

 政治家は間違える。

 官僚も間違える。

 専門家も間違える。

 そして国民も間違える。

 だから民主主義は面倒である。議論し、反対し、説明し、国会で問いただし、選挙を行い、報道が批判し、司法が判断する。その過程は遅く、騒がしく、効率が悪いように見える。

 しかし、その面倒さこそが、国家を取り返しのつかない間違いから救う最後の余地なのだろう。

 正しい政治とは、決して間違えない政治ではない。

 間違ったときに事実を隠さず、批判する者を敵とみなさず、自分たちの誤りを認め、政策を修正できる政治である。

 もし後藤田正晴が現在の日本政治を見たなら、特定の政党を支持せよとも、特定の思想に従えとも言わないかもしれない。

 むしろ、もっと地味で厳しい問いを投げかけるのではないか。

 総理大臣のもとに、悪い本当の事実は届いているのか。大臣に反対意見を言える官僚は残っているのか。専門家は、政治家が聞きたい答えではなく、自分が正しいと思う答えを言えているのか。選挙で勝った多数派は、自分たちが多数派だから正しいのだと思い込んでいないか。そして、権力を持つ者自身が、その権力の大きさを少しでも怖いと思っているか。

 後藤田が権力を知るほど権力を警戒した理由を、歴史資料だけから完全に証明することはできない。人間の内面を断定することはできないからである。それでも、戦争を経験し、警察を率い、官邸を動かし、総理大臣の傍らで国家意思の形成を見続けた人物が、最後まで権力の抑制を語り続けたという事実には意味がある。

 権力を知った者が、権力を礼賛しなかった。

 国家は必要である。強い政府も、ときには必要である。しかし、必要であることと、無条件に信じてよいことは同じではない。むしろ社会にとって重要な権力ほど、注意深く監視されなければならない。

 国を愛することと、政府を無条件に信じることも同じではない。政府を批判することと、国を否定することも同じではない。正しい政治を願うからこそ、政治家に事実を求める。国家を大切に思うからこそ、国家権力に限界を設ける。民主主義を信じるからこそ、異論を認める。

 いつか日本が、誰か一人の「強い政治家」に期待しなくても政治が機能する国になればよい。

 政治家が間違いを認めても弱いと笑われず、反対意見を聞いても優柔不断と呼ばれず、官僚が大臣に耳の痛い報告をしても不利益を受けず、選挙で勝った側も自らの権力には期限があることを忘れない。

 そんな政治は、派手ではない。

 英雄も生まれにくい。

 けれど、それこそが成熟した国家なのかもしれない。

 後藤田正晴という政治家を振り返る意味は、過去の「名政治家」を懐かしむことではない。権力とは何かを、私たち自身がもう一度考えることにある。

 権力を持つ者が、自分の強さよりも、その強さの危険を知っている政治。異論を排除するのではなく、異論によって自分を修正できる政治。都合のよい説明ではなく、「悪い本当の事実」から判断を始める政治。

 そのような政治が当たり前にできる日本を、まだ夢見ることはできる。

 おそらく民主主義とは、その夢を諦めないために存在しているのである。

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~社会心理学と人口構造から考える

地方の政治を見ていると、国政とは少し違った形の対立が現れることがある。

町長選挙や市長選挙をきっかけに、地域が二つに割れる。公共施設の建設、学校統廃合、病院の再編、風力発電や太陽光発電、観光開発、ごみ処理施設など、一つの政策をめぐる意見の違いが、いつの間にか「誰が賛成したのか」「あの人はどちら側なのか」という人間関係の問題へ変わっていく。

選挙が終わっても対立が消えないこともある。

都市では、政治的に異なる候補へ投票した人同士が、その後ほとんど接触しないまま生活することもできる。しかし人口の少ない地域では、選挙で対立した相手と、翌日に同じスーパーで会い、自治会で顔を合わせ、同じ病院へ行き、子どもや孫が同じ学校へ通うことがある。

地方で起きる政治的分断には、この「政治と生活の距離の近さ」が関係している。

ただし、最初に一つ重要な点を確認しておかなければならない。

地方に住んでいるから政治的に分断しやすい、と単純に結論づけられる科学的根拠はない。

日本について、人口の少ない自治体ほど政治的分極化が必ず強いという一般法則が確立されているわけではない。むしろ地方には、住民同士の協力、相互扶助、自治活動が強く機能する地域も数多く存在する。

したがって問うべきなのは、「地方は分断するのか」ではない。

人口減少、高齢化、若年層の流出、狭い人間関係、限られた地域資源といった条件が重なったとき、なぜ政治的対立が人間関係の分断へ発展することがあるのか。

この問いなら、人口統計と社会心理学の研究を組み合わせて考えることができる。

人口が減るだけでは、地域は分断しない

日本全体の人口減少はすでに長期的な現象となっている。

総務省統計局によれば、日本の総人口は2008年の約1億2808万人をピークとして減少局面に入り、2026年7月1日の概算では約1億2293万人となっている。2026年2月1日の確定値では、65歳以上人口が約3619万8千人である一方、15歳未満人口は約1335万人となっている。

地域差はさらに大きい。

国立社会保障・人口問題研究所は2023年に公表した地域別将来人口推計で、2020年の国勢調査を基礎として、全国の市区町村について2050年までの人口と年齢構成を推計している。多くの地域で人口減少と高齢化が今後も進行することが想定されている。

しかし、人口減少そのものが政治的分断を直接発生させるわけではない。

問題になるのは、人口減少によって地域社会の「選択肢」が減っていくことである。

人口が十分に多い地域なら、学校が複数あり、病院が複数あり、商店も複数ある。どの施設を利用するかについて住民が異なる選択をしても、必ずしも誰かの選択を否定する必要はない。

ところが人口減少が進み、一つの学校、一つの病院、一つのスーパー、一つの公共交通機関を維持することさえ難しくなると、政策決定の性質が変わる。

「AもBも残す」という選択ができなくなり、

「Aを残すか、Bを残すか」

という判断が増える。

政治学や経済学でいう資源配分の問題が、地域では極めて具体的な生活問題になる。

学校を統合するか。

診療所を維持するか。

公共交通へ財政支援を行うか。

古い公共施設を建て替えるか。

観光へ投資するか。

子育て支援を優先するか。

高齢者福祉を優先するか。

人口が減るほど、自治体が利用できる人材や財源にも制約が生じやすくなるため、政策は「何をするか」だけではなく、「何をやめるか」という選択を含むようになる。

この状態では、政治的意思決定によって利益を受ける人と、不利益を受ける人が見えやすくなる。

ここから対立が生まれる可能性が高くなる。

若い人が出ていくことは、単なる人口減少とは意味が違う

地方の人口構造を考えるとき、人口の総数だけを見ていては十分ではない。

誰が移動しているのかが重要である。

総務省の人口移動統計では、東京都への移動は若年層に集中する傾向が確認されている。例えば年齢別の都道府県間移動を分析した統計では、東京都への転入は20歳代が多く、22歳の転入超過が特に大きかった。

また、2024年の住民基本台帳人口移動報告では、日本人について東京圏が11万9337人の転入超過となり、29年連続の転入超過だった。

ここで地域政治にとって重要なのは、人口流出が均等に起きるわけではないことである。

進学や就職を契機として若い世代が地域外へ移動すると、その地域の政治的意思決定に参加する年齢構成も変化する。

地域に残る人々が高齢化すれば、医療、介護、公共交通、年金、生活インフラなどの重要度は当然高くなる。

一方、子育て、教育、新規産業、若者向け住宅、起業支援などへの投資を重視する人もいる。

ここで重要なのは、高齢者と若者のどちらが正しいという問題ではない。

人口構造が変われば、合理的に重視する政策も変わる。

政治的対立の一部は、価値観の違いではなく、それぞれが置かれた生活条件の違いから生じるのである。

「限られたものを誰に配るか」が政治になる

地方政治で感情的な対立が発生しやすい理由の一つは、政策の結果が具体的に見えることである。

国の予算が数兆円変化しても、一人の国民がその違いを直接感じることは難しい。

しかし人口数千人の町で、

「この学校を閉校する」

「この診療所を維持するため年間数千万円を支出する」

「この地区の道路を整備する」

という決定が行われれば、その影響を受ける人物を住民が知っている可能性がある。

すると政策を、

「地域全体にとって合理的か」

という抽象的問題だけでは考えにくくなる。

「あの地区だけ得をしている」

「こちらの地区ばかり負担している」

「あの人と町長が親しいからではないか」

という認識が入り込む。

実際、地方政治の研究では、自治体の資源配分や中央政府との関係が選挙政治に影響してきたことが分析されている。首長候補が「中央とのパイプ」を強調することや、複数政党が自治体への資源獲得を期待して同じ候補を支援する「相乗り」も、日本の地方政治では研究対象となってきた。

地方政治では、理念だけでなく「地域へ何を持ってこられるか」が政治的評価になることがある。

だからこそ、政策論争が人間関係や地域間競争と結びつきやすい。

社会心理学から見ると「私たち」と「あの人たち」が作られる

ここから社会心理学の問題になる。

人間には、自分が所属する集団と、それ以外の集団を区別する傾向がある。

社会心理学ではこれを内集団と外集団という考え方で研究してきた。

自分と同じ集団に属する人を好意的に評価しやすい「内集団ひいき」や、自分と似た考えを持つ人の意見を実際以上に一般的だと認識する現象などが実験研究で確認されている。

政治でも同じことが起こり得る。

最初は、

「新しい公共施設を建設すべきか」

という政策論争だったものが、

「建設賛成派」

「建設反対派」

という集団へ変化する。

さらに時間がたつと、

「こちら側」

「あちら側」

という社会的カテゴリーになる。

この変化が重要である。

政策への賛否だけなら、条件が変われば意見を変更できる。

しかし自分の所属集団そのものと結びつくと、意見を変更することが心理的に難しくなる。

意見を変えることが、

「判断を修正した」

ではなく、

「仲間を裏切った」

と感じられる可能性が出てくるからである。

集団間紛争に関する社会心理学研究では、内集団への同一視、外集団の否定的認識、そして両集団の相互作用が、対立を激化させる過程として整理されている。

地方政治で問題なのは、この心理作用が日常生活の人間関係と重なりやすいことである。

小さな地域では政治的対立から逃げにくい

人口の多い都市には、良くも悪くも匿名性がある。

隣に住んでいる人が誰に投票したのか知らない。

職場の人が市長選で誰を支持したか知らない。

自分と政治的意見の異なる人と関係を切っても、別の人間関係を作ることが比較的容易である。

しかし人口の少ない地域では、一人の人間が複数の社会的役割を持つ。

自治会の役員であり、消防団員であり、商店の経営者であり、同級生の親であり、親戚でもある。

この関係の重なりには大きな利点がある。

災害時の助け合い、高齢者の見守り、地域行事、共同作業など、地方の生活を維持する重要な社会資本になる。

実際、地域の信頼、規範、人間関係などを「社会関係資本」として捉える研究では、住民間の信頼や社会参加が地域社会の重要な資源になると考えられている。地方都市を対象とした調査でも、近隣や知人との結びつきが強く現れる一方、地域外の人に対して慎重になる傾向が示された例がある。

つまり、地域の結びつきの強さには二つの側面がある。

平常時には協力を生む。

しかし政治的対立が起きたときには、その対立が複数の人間関係へ同時に広がる可能性がある。

選挙での対立が、自治会、商売、学校、地域活動へ波及してしまうのである。

「地域のため」という言葉ほど対立することがある

地方政治では、双方が「地域を良くしたい」と考えているにもかかわらず対立することが珍しくない。

これは矛盾ではない。

同じ目的でも、地域の将来像が違うからである。

例えば人口減少地域に大型観光施設を誘致する政策を考える。

賛成する住民は、

「雇用を増やさなければ地域そのものが衰退する」

と考えるかもしれない。

反対する住民は、

「自然環境や静かな生活環境こそ地域の資産であり、それを失えば地域の価値がなくなる」

と考えるかもしれない。

どちらも「地域を守る」という目的を持っている。

違うのは、「何を守ることが地域を守ることなのか」という定義である。

社会心理学では、政治的分極化が単純な政策上の違いだけではなく、道徳的価値観や集団帰属と結びつくことで強くなることが研究されている。近年の日本の研究でも、政治的立場が自己や他者の道徳的評価と結びつくことで、感情的分極化につながり得ることが論じられている。

この段階になると、

「その政策は間違っている」

が、

「あの人たちは地域のことを考えていない」

へ変わる。

さらに、

「あの人たちは信用できない」

になる。

ここで政策論争は感情的分断になる。

移住者と昔からの住民の対立も、単純な文化の違いではない

人口減少地域では、移住者の受け入れが政策課題になることが多い。

そこではしばしば「昔から住んでいる人」と「新しく来た人」という区別が生じる。

この対立を「田舎の人は閉鎖的だから」と説明するのは適切ではない。

移住者側にも、地域の歴史や意思決定の過程を知らずに、都市での価値観を当然のものとして持ち込んでしまう場合がある。

一方、既存住民側には、長期間維持してきた地域のルールや負担の仕組みがある。

例えば祭り、草刈り、道路清掃、防災活動などは、行政サービスだけではなく住民の共同作業によって維持されている地域もある。

新しい住民から見れば「古い慣習」に見えるものが、既存住民にとっては地域社会を維持する制度である場合がある。

逆に既存住民が当然だと考える仕組みが、人口減少や高齢化によってすでに持続不可能になっている場合もある。

農山村研究では、地域社会を維持するために信頼関係や共同作業が重要である一方、人口減少によってその維持自体が大きな負担になることも指摘されている。

したがって、新旧住民の対立は価値観だけの問題ではない。

誰が地域を維持する負担を負い、誰が意思決定に参加できるのかという制度上の問題でもある。

SNSは地方の対立を作るのか

もう一つ無視できないのがSNS(Social Networking Service・交流サイト)である。

地方自治体の選挙や政策問題でも、X、Facebook、YouTubeなどを使った情報発信が一般的になった。

SNSが政治的分極化を必ず引き起こすと断定することはできない。

研究結果はそれほど単純ではない。

一方で、自分と似た意見を持つ人同士がつながる同質的ネットワークや、似た情報が繰り返し共有されるエコーチェンバーが、政治的態度を強化する可能性は社会科学で繰り返し研究されている。日本の研究でも、SNS上の情報ネットワークと意見の分極化との関係が検討されている。

人口数千人の自治体では、ここに独特の問題が加わる。

SNS上の相手が匿名の「誰か」ではない。

投稿者が同じ地域の住民であることがある。

オンライン上の対立が、そのまま現実社会へ戻ってくる。

SNSで強い言葉を使った翌日に、スーパーや自治会で顔を合わせる。

そのため地方におけるSNSの政治問題は、

オンラインの分極化と現実の人間関係が接続している

という点で注意が必要になる。

本当に危険なのは「意見が違うこと」ではない

政治的分断という言葉を使うと、意見が違うこと自体が問題のように見える。

しかし民主主義では意見が異なることは正常である。

学校を残したい人と統合したい人がいる。

公共事業を進めたい人と慎重に考えたい人がいる。

観光開発を望む人と生活環境を優先する人がいる。

これは分断ではない。

近年の社会意識研究でも、「分断」という言葉は学術的に明確な一つの状態を指す言葉ではなく、単なる意見の違いと区別する必要があることが指摘されている。研究では、集団間の境界が明確になり、構成員が固定化され、交流が断たれ、互いに反目するような状態などが分断を捉える重要な要素として論じられている。

つまり危険なのは、

「私はこの政策に反対する」

という状態ではない。

「あの政策を支持する人とは話をしない」

という状態である。

さらに危険なのは、

「あの人たちは地域からいなくなればいい」

という状態である。

政策上の対立が、相手の存在そのものを否定する段階へ進んだとき、民主的な意思決定は難しくなる。

人口が少ない地域ほど必要なのは「全員一致」ではない

地方では「地域が一つにまとまること」が良いことだと考えられやすい。

確かに災害対応や地域活動では協力が不可欠である。

しかし政治についてまで全員が同じ意見になる必要はない。

むしろ健全な地域社会には、

意見が違っても一緒に暮らせる仕組み

が必要である。

選挙で敗れた側にも発言できる場所がある。

政策決定の資料が公開される。

議会で反対意見が記録される。

行政が結論だけでなく判断理由を説明する。

住民説明会で賛成派だけでなく反対派からも意見を聞く。

一度決めた政策でも、条件が変われば検証し直す。

こうした制度があれば、政策で負けても地域社会から排除されたとは感じにくい。

逆に意思決定の過程が不透明なら、実際に不正がなくても、

「最初から決まっていた」

「あの人たちだけで決めた」

という疑念が生まれる。

政治的分断を抑えるために必要なのは、全員を同じ意見にすることではない。

負けた側も、その決定がどのような資料と手続きによって行われたのか理解できる状態を作ることである。

「橋渡し型」の人間関係が地域を強くする

地域のつながりは強ければ強いほどよいわけでもない。

社会関係資本の研究では、似た人同士の結束だけでなく、異なる集団をつなぐ「橋渡し型」の関係が重要だと考えられている。

同じ地区、同じ年代、同じ政治的立場だけで固まれば、内部の協力は強くなる。

しかし別の集団との接点がなくなる。

地域研究でも、地域内の強い結びつきだけではなく、異なる人や組織を横断して結ぶネットワークが地域活動に重要であることが論じられている。

例えば高齢者と子育て世代。

昔からの住民と移住者。

商業者と農業者。

観光事業者と生活環境を重視する住民。

行政と住民。

これらをつなぐ人物や組織が存在すれば、一つの問題について対立しても、別の場面では協力できる。

この「別の関係」が残っていることが重要である。

人間関係が政治的一本線だけになってしまうと、

賛成派か反対派か、

町長派か反町長派か、

という分類が地域のすべてを支配する。

橋渡し型の関係があれば、

「あの人とは政策について意見は違うが、防災活動では一緒に働く」

という関係が成立する。

こうした関係は、政治的対立を消さなくても、社会的分断への発展を抑える可能性がある。

地方で政治的分断が目立つのは、地域社会が弱いからとは限らない

ここまで見てくると、少し逆説的な結論が見えてくる。

地方で政治的対立が深刻になる場合があるのは、地域社会の人間関係が弱いからだけではない。

人間関係が強いからこそ、政治的対立が生活の別の領域まで伝わることがある。

地域社会には助け合いがある。

顔の見える関係がある。

長期間共有してきた歴史がある。

だからこそ、一度関係が壊れたときの影響も大きい。

人口減少や高齢化は、この問題をさらに難しくする。

内閣府も、人口減少が進む地方では地域での触れ合いや助け合いの機会そのものが減少し、高齢化によって地域コミュニティの維持が難しくなる可能性を指摘している。

つまり地方社会では、

「人間関係が濃すぎる問題」

「人間関係そのものが失われていく問題」

が同時に存在する場合がある。

これが人口減少時代の地方政治を複雑にしている。

地方の政治的分断を防ぐには

分断を完全になくすことは、おそらくできない。

そもそも異なる利益を持つ人々が暮らしている以上、政治的対立は発生する。

重要なのは対立をなくすことではなく、

対立が人間そのものへの敵意へ変わらない仕組みを作ること

である。

そのためには、政治的意思決定をできるだけ検証可能にする必要がある。

公共施設を建設するなら、費用、利用者予測、維持費、代替案を示す。

学校を統合するなら、児童生徒数の将来推計、通学時間、教育条件、財政負担を示す。

病院を再編するなら、医師数、患者数、救急搬送時間、医療圏全体のデータを示す。

賛成派にも反対派にも同じ資料を渡す。

すると議論は少なくとも、

「誰を信用するか」

から、

「どの数字をどう評価するか」

へ移りやすくなる。

もちろん、データだけで政治問題が解決するわけではない。

同じ数字を見ても価値判断は異なる。

しかし、共通の事実を共有できれば、対立の範囲を狭めることはできる。

地方政治で守るべきものは「仲の良さ」ではない

人口減少時代の地方では、住民全員が仲良くすることを目標にするのは現実的ではない。

意見は違う。

世代も違う。

仕事も違う。

地域に住んできた期間も違う。

政治的立場も違う。

必要なのは、それらの違いを消すことではない。

違うままでも同じ地域に暮らし続けられる制度と文化を作ることである。

民主主義とは、全員が同じ結論になる仕組みではない。

意見が一致しない社会で、それでも意思決定を行い、その後も同じ社会の構成員として暮らしていくための仕組みである。

人口が減れば、一人ひとりの存在は地域にとってむしろ重要になる。

若者も、高齢者も、移住者も、昔からの住民も、事業者も、行政職員も、政治的に意見の違う人も、簡単には代わりがいない。

人口減少地域ほど、本来は「反対側の人」を失う余裕がないのである。

結論~地方の分断は人口ではなく「関係の構造」から生まれる

なぜ地方では政治的分断が起きるのか。

人口が少ないから、と答えるだけでは不十分である。

人口減少によって地域資源が限られる。

若年層の移動によって年齢構成が変化する。

政策決定の利益と負担が具体的に見える。

住民同士の複数の人間関係が重なっている。

政治的立場が「私たち」と「あの人たち」という集団認識へ変化する。

SNSによって同じ意見を持つ人同士が結びつく。

こうした条件が重なったとき、政策上の対立が社会的な分断へ発展する可能性が生まれる。

しかし、これは避けられない運命ではない。

地方には逆の力もある。

顔の見える関係。

地域への愛着。

共同作業。

災害時の助け合い。

世代を越えた人間関係。

これらは分断を強めることもあれば、対立を乗り越える力にもなる。

重要なのは、地域の結束を、

「同じ意見になること」

と考えないことである。

地域社会に必要なのは、

政治的に違う意見を持つ人とも、翌日から同じ町で普通に暮らせること

である。

人口減少が進む地方で本当に守るべきなのは、全員一致ではない。

反対意見を持つ人まで含めて地域社会を維持できることなのである。

それができる地域ほど、人口が減っても政治的には強い。

そして、おそらくそれこそが、これからの地方自治に必要な「地域のまとまり」の意味なのである。

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戦後81年~「戦後100年」「戦後120年」

~平和を願うだけでも、軍事力だけでもない。戦争を遠ざける条件を現実から考える

2026年8月15日、日本は1945年の終戦から81年を迎えた。

「戦後81年」という言葉には、少し不思議な響きがある。

戦争が終わってから81年間が経過したという意味である一方、「戦後」という言葉を使い続けている限り、日本はまだ1945年から続く時間の中にいることになる。

しかし、それは必ずしも否定的な意味ではない。

戦後100年となる2045年にも「戦後」と呼び、戦後120年となる2065年にも「戦後」と呼ぶことができるなら、それは少なくとも、その間に日本が新しい戦争によって時代を区切られなかったことを意味する。

理想を言えば、戦後150年、200年と、「戦後」が終わらない社会であってよい。

もちろん、未来に戦争が起きないことを保証する方法は存在しない。

国家間の戦争は、一国民の善意だけで決まるものではない。国際政治、軍事力、領土問題、資源、経済、安全保障上の認識、国内政治、同盟関係、偶発的衝突、指導者の意思決定など、多数の要因が絡み合って発生する。

したがって、「平和を願えば戦争は起こらない」という説明は現実的ではない。

反対に、「十分な軍事力さえ持てば戦争は起こらない」と断定することもできない。

令和の日本人にできることを考えるなら、この二つの単純化から離れる必要がある。

必要なのは、戦争が起きる確率をゼロだと考えることではなく、

戦争へ進む条件を一つずつ減らし、平和が継続する条件を一つずつ増やしていくことである。

それは派手な行動ではない。

民主主義、外交、防衛、教育、歴史認識、情報、経済、国際協力という社会の仕組みを、毎日の政治と生活の中で正常に機能させ続けることである。

81年間の平和を「自然に続いた時間」と考えない

1945年から2026年まで、日本が再び大規模な戦争の当事国にならずに81年間を積み重ねてきたことには、一つだけの原因があるわけではない。

日本国憲法第9条は、日本国民が国際平和を希求し、国際紛争を解決する手段として戦争と武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄すると定めている。これは現在も日本の憲法上の基本原則である。

しかし、日本の戦後の安全が憲法だけによって成立してきたと証明することもできない。

日本には自衛隊が存在し、日米安全保障体制があり、日本政府は防衛力と同盟による抑止を安全保障政策の重要な構成要素としてきた。さらに外交、国際連合、経済関係、国際協力、東アジアにおける力関係など、複数の条件が同時に作用してきた。外務省も現在の安全保障政策を、日米同盟だけでなく、多層的な安全保障協力や平和で安定した国際社会への取組を含む構造として位置付けている。

つまり、戦後81年を、

「憲法があったから平和だった」

とも、

「軍事力があったから平和だった」

とも、一つの要因だけで説明することは科学的ではない。

現実に近いのは、

法制度、民主主義、外交、防衛、同盟、経済、国際秩序、そして戦争を避けようとする社会的規範が複合して現在までの状態を形成してきた

と考えることである。

だからこそ、そのどれか一つだけを守れば戦後100年が保証されるわけでもない。

2026年の世界は、平和が自動的に続く環境ではない

戦後81年を迎える日本から世界を見ると、平和を楽観できる状況ではない。

SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute・ストックホルム国際平和研究所)は2026年版年鑑で、国家が核兵器を国力の手段として重視する傾向が強まり、誤算やエスカレーションの危険も高まっていると指摘している。

世界の軍事支出も増えている。SIPRIの集計では2025年の世界の軍事支出は実質2.9%増の2兆8,870億ドルとなり、11年連続で増加した。2016年から2025年までの10年間では41%増えている。

日本政府も、日本周辺の安全保障環境について厳しい認識を示し、防衛力の強化を進めている。

この状況を前にして、「日本だけが平和を願えば大丈夫だ」と考えることはできない。

しかし同時に、世界が危険だから軍事力を際限なく増やせば安全になるとも限らない。

防衛力には、攻撃を思いとどまらせる抑止という考え方がある。

一方で、相手国がその軍備増強を脅威と受け取り、自らも軍備を増やせば、安全保障上の競争が強まる可能性がある。核兵器をめぐってSIPRIが指摘しているのも、まさに抑止とエスカレーションの両方を考えなければならない現在の難しさである。

平和政策に必要なのは、

「防衛か平和か」

という二者択一ではない。

防衛が必要な部分では必要性と規模を検証しながら備え、同時に、その防衛力を実際に使用しなくて済む外交環境を作ること

である。

戦争を防ぐことが目的なら、軍事力を使用して勝つ能力だけでなく、そもそも使用する状況を作らない能力も同じように重要になる。

外交は「仲の良い国と付き合うこと」だけではない

平和を維持するための外交というと、友好国との関係を深めることが想像されやすい。

もちろんそれも重要である。

しかし、本当に戦争を防ぐために重要なのは、意見の合わない国、利害の対立する国、場合によっては安全保障上の脅威と認識している国とも意思疎通の経路を失わないことである。

国際連合憲章は加盟国に国際紛争を平和的手段によって解決することを求め、第33条では交渉、仲介、調停、司法的解決など複数の方法を示している。

外交は、相手を好きになることではない。

相手国の政策を支持することでもない。

対立が存在するとき、それを戦争以外の方法で処理する技術である。

戦後100年を迎えるためには、日本社会が「対話すること」と「譲歩すること」を混同しないことも重要だろう。

外交交渉を行うことは、相手国の主張を認めることではない。

むしろ対立しているからこそ交渉する。

電話がつながること、外交官が会えること、首脳同士が話せること、軍同士が偶発的な衝突を避ける連絡手段を持つこと。

こうした地味な仕組みが、重大な誤解を戦争へ発展させないための安全装置になる。

戦争を防ぐには「相手を理解すること」と「相手を信じること」を分ける

平和について考えると、ときに「相互理解」が強調される。

ただし、安全保障では相手を理解することと、相手を信頼することは同じではない。

相手国の歴史、政策決定の仕組み、安全保障上の不安、国内世論、軍事ドクトリンなどを知ることは、相手の政策に賛成することではない。

むしろ正確に理解しなければ、相手の行動を誤読する。

国家間の危機では、

「相手もこちらと同じように考えるはずだ」

という思い込みが危険になる。

令和の日本人に必要な国際理解とは、外国に好意を持つことだけではなく、

自分たちとは異なる歴史、利益、恐怖、合理性を持つ主体として他国を見る能力

である。

敵対国について学ぶことほど、安全保障では重要な場合がある。

戦争の記憶を残す意味は「罪を永久に背負わせること」ではない

戦後81年になると、戦争を直接経験した世代は急速に少なくなる。

ここで歴史教育について難しい問題が生じる。

戦争の歴史を伝えることは、現在の日本人に過去の日本人と同じ責任を負わせることではない。

2026年に生きる子どもが、1940年代の国家政策に責任を負うことはできない。

しかし、

過去の政策がどのような意思決定の積み重ねで戦争へ進み、何が人々に起きたのかを知ること

には、現在的意味がある。

歴史を学ぶ目的を「誰を悪者にするか」に置くと、世代が変わるほど反発が起こりやすい。

重要なのは、

なぜ外交が失敗したのか。

なぜ軍事行動が拡大したのか。

なぜ反対意見が政策を止められなかったのか。

情報はどのように国民へ伝えられたのか。

政治指導者はどのような判断をしたのか。

戦場だけでなく、民間人に何が起きたのか。

そこから意思決定の仕組みを学ぶことである。

歴史を記憶する目的は、過去を永遠に裁き続けることではなく、

未来の判断材料を失わないこと

にある。

広島市が現在も毎年8月6日に平和記念式典を行い、原爆死没者を追悼するとともに核兵器廃絶と恒久平和を訴えていることも、記憶を現在の問題につなぐ一つの社会的仕組みである。2026年にも式典と平和宣言が行われた。

民主主義を正常に動かすことも平和政策である

戦争というと外交官や自衛隊の仕事に見える。

しかし、国家として軍事力をどのように保有し、どのような条件で使用し、どの国と協力し、どの程度の予算を投入するかは政治によって決められる。

つまり安全保障政策の最終的な統制には民主主義が関係する。

ここで令和の日本人にできる最も現実的な行動の一つが、政治を政策として見ることである。

安全保障政策について、

「平和を訴えているから正しい」

とも、

「防衛力を強化しているから現実的だ」

とも即断しない。

どのような脅威を想定しているのか。

その可能性はどの程度なのか。

提案する政策によって本当にその危険が減るのか。

費用はいくらかかるのか。

別の政策は存在しないのか。

外交への影響はどうか。

緊張を下げる効果と上げる効果のどちらが大きいのか。

失敗した場合の出口はあるのか。

こうした問いを与党にも野党にも同じように向けることが必要である。

平和主義とは、何も考えずに「戦争反対」と言い続けることではない。

安全保障政策を考えることもまた、直ちに軍事主義を意味しない。

戦争を回避するという共通目的に対して、どの手段がより効果的で、副作用が少ないかを検証すること

が民主社会の仕事である。

SNS時代には「戦争の前の情報」を扱う能力が重要になる

令和には、昭和とは異なる問題がある。

SNS(Social Networking Service・交流サイト)によって、政府、政治家、軍事組織、報道機関、専門家、一般市民、外国政府までが同じ情報空間で発信するようになった。

これは、市民が一次情報へ近づけるという大きな利点を持つ。

同時に、誤情報、切り抜き、古い映像、偽画像、感情的な投稿も高速で拡散できる。

国際的な緊張が高まったとき、

「○○国が攻撃を開始した」

「政府が隠している」

「この映像が証拠だ」

という情報が流れても、それだけで事実とは限らない。

令和の市民にできる平和への貢献の一つは、意外なほど小さい。

確認できない情報を、確認できないまま拡散しないことである。

投稿者は誰なのか。

映像はいつ撮影されたのか。

政府や公的機関の発表と一致するか。

複数の独立した報道機関が確認しているか。

元資料は存在するか。

戦争や危機の際には、情報そのものが政策判断や世論に影響する。

情報を慎重に扱うことは、単なるインターネット上のマナーではない。

民主主義社会の危機管理の一部である。

平和とは「何もしない状態」ではない

「平和」という言葉には、静かな印象がある。

しかし、国家レベルの平和は必ずしも静的な状態ではない。

外交交渉が行われる。

自衛隊が訓練する。

海上保安機関が警戒する。

国際会議が開催される。

経済制裁が議論される。

条約が交渉される。

選挙が行われる。

国会で予算が審議される。

研究者が安全保障政策を分析する。

報道機関が政府の説明を検証する。

学校や博物館が歴史を伝える。

こうした活動が続いた結果として、戦争を回避できる可能性が高まる。

日本は国際平和協力の制度も持ち、国際連合平和維持活動、人道的救援、国際的な選挙監視などへ参加できる仕組みを整えてきた。

平和は「何もしなかった結果」ではなく、

多数の制度と人間が毎日動き続けた結果として維持される状態

と考えた方が現実に近い。

戦後100年を迎える2045年

2045年。

戦後100年である。

その年に現在61歳の人は80歳前後になり、2026年に生まれた子どもは19歳になる。

その世代にとって、1945年は100年前の歴史になる。

第一次世界大戦が現在の私たちにとって遠い歴史になっているように、太平洋戦争も次第に「直接知る人がいない歴史」へ移っていく。

そのとき重要になるのは、記憶の量ではなく質である。

「戦争は悲惨だった」という言葉だけでは、世代を越えて十分な知識を伝えることは難しい。

なぜ戦争が始まったのか。

なぜ途中で止められなかったのか。

外交、軍事、政治、経済、報道、世論がどのように関係していたのか。

日本だけでなく、アジア、米国、欧州では何が起きていたのか。

そこまで理解できて初めて、歴史は現在の政策判断へ接続する。

戦争体験者がいなくなった社会では、

記憶を証言から制度へ移すこと

が必要になる。

公文書、映像、証言録、博物館、研究、教育がその役割を担う。

そして戦後120年、2065年へ

2065年、日本が戦後120年を迎えたとする。

そのとき、「戦後」という表現に違和感を持つ人もいるだろう。

120年前の出来事をいつまで引きずるのか、と考える人もいるかもしれない。

しかし、「戦後」を続けるという言葉を別の意味で考えることもできる。

過去に縛られ続けるという意味ではなく、

新しい戦争によって歴史を区切らない

という意味である。

戦後120年まで続いたなら、その120年間に日本の政治思想も、安全保障制度も、国際環境も大きく変わっているだろう。

憲法の姿が現在と同じかどうかさえ分からない。

しかし一つだけ共有できる目標がある。

政策や制度が変わったとしても、

日本社会の目的が「次の戦争に勝つこと」ではなく、「次の戦争を可能な限り起こさないこと」であり続けること

である。

もちろん、他国から武力攻撃を受ける可能性まで日本だけで消すことはできない。

だから防衛という問題から逃れることもできない。

同時に、軍事力によってすべての安全を購入することもできない。

戦後100年、120年を目指す政策は、この現実の間に存在する。

令和の日本人にできること

結局、一人の日本人が世界の戦争を止めることはできない。

首相でも、日本一国だけでも、世界から戦争をなくすことはできない。

だからといって個人に何もできないわけではない。

政策を感情ではなく事実で判断する。

選挙で安全保障政策も確認する。

異なる立場の意見を読む。

戦争の歴史を敵味方だけで整理しない。

確認できない情報を拡散しない。

外国を国家全体、民族全体として敵視しない。

同時に安全保障上の現実的なリスクからも目をそらさない。

政治家が軍事力を強化すると言えば理由と費用を問い、削減すると言えばその安全保障上の根拠を問う。

外交を行えば何を守り何を譲ったのかを確認し、対立すれば対話の経路が残されているかを見る。

こうした市民社会は、戦争を絶対に防ぐ保証にはならない。

しかし、

戦争へ向かう誤った意思決定を発見し、修正できる可能性を高める。

ここに民主主義の大きな意味がある。

終戦の日を「過去を見る日」だけにしない

8月15日は、戦争で亡くなった人々を追悼する日である。

政府も1982年の閣議決定に基づいて8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、2026年にも政府主催の全国戦没者追悼式を開催する。

しかし、この日にはもう一つの見方ができる。

1945年から何年経過したかを数えるだけではなく、

次の1年を戦後のまま終わらせるために何が必要なのかを確認する日

とすることである。

2026年から2045年までは19年しかない。

戦後100年は、遠い未来ではない。

2065年の戦後120年も、現在生きている多くの子どもたちが普通に経験し得る時代である。

その人たちが8月15日に、

「今年で戦後120年になった」

と言える日本であるために必要なのは、壮大な理念だけではない。

外交を続けること。

必要な安全保障を冷静に考えること。

国際法を尊重すること。

民主主義を機能させること。

歴史を検証可能な形で残すこと。

異論を排除しないこと。

誤情報に流されないこと。

政治を敵と味方だけで考えないこと。

そして、戦争という極端な手段へ至る前に問題を解決できる制度を何度でも修理することである。

戦後81年という数字は、完成した平和の証明ではない。

81年間続いてきた状態を示しているにすぎない。

だからこそ価値がある。

平和とは、一度達成すれば保存されるものではない。

毎年更新される記録である。

2026年8月15日の日本に必要なのは、

「もう81年間戦争をしなかった」

と過去形で誇ることだけではない。

82年目も戦後にする。

そして83年目も戦後にする。

それを積み重ねて2045年を戦後100年にし、2065年を戦後120年にする。

さらにその先も、「戦後」という言葉を過去の戦争から数え続けられる社会であること。

戦争のない戦後を永遠に続けるという願いを現実の政策へ翻訳するなら、それはおそらく、

戦争をしないと誓うことと、戦争を避けられる制度を不断に作り続けることを、同時に行う

ということなのである。

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新聞記者出身の論客からテレビのコメンテーター、そしてSNS時代の分散型政治解説へ

かつて日本では、「政治評論家」という肩書を持つ人物がテレビや新聞で政治を解説する光景が珍しくなかった。

細川隆元、藤原弘達、竹村健一、三宅久之など、「政治評論家」という職業名そのものが社会的に認識されていた時代があった。

ところが令和の政治報道を見ると、政治について論評する人はむしろ増えているように見える一方、「政治評論家」という肩書は以前ほど前面には出てこない。

代わりに、

  • 政治ジャーナリスト
  • 新聞社・テレビ局の解説委員
  • 大学研究者
  • 弁護士
  • 元官僚
  • 元政治家
  • 経済学者
  • コメンテーター
  • YouTubeなどの動画配信者
  • SNS(Social Networking Service・交流サイト)の発信者

など、多様な人物が政治を説明するようになった。

では、「政治評論家」は衰退したのだろうか。

それとも形を変えただけなのだろうか。

この問題を感覚的な「昔の評論家は重みがあった」「今は誰でも評論家になれる」といった印象論で処理することは適切ではない。

そもそも、昭和・平成・令和について「政治評論家の人数」を継続的に調査した公的統計は確認できない。

したがって本稿では、政治評論家の増減を人数として断定するのではなく、

誰が政治を解釈したのか

どの媒体を通して国民へ伝えたのか

どのような情報源と専門性を持っていたのか

視聴者は政治解説者をどのように選択できたのか

という構造の変化から、昭和・平成・令和の政治評論の変遷を分析する。

結論を先に述べれば、日本の政治評論は、

「少数の専門的評論家が政治を解釈する構造」から、「テレビ番組の中で複数の専門家・ジャーナリストが解釈する構造」へ、さらに「専門家・報道機関・政治家・一般発信者が同時に政治を解釈する分散型構造」へ変化してきた

と整理するのが最も妥当である。

これは政治評論そのものの消滅ではない。

むしろ、

政治評論という「職業」が弱くなり、政治評論という「機能」が多くの職種と媒体へ分散した

と考えた方が、確認できる事実と整合する。


1.まず「政治評論家」とは何か

政治評論家には、公的資格制度がない。

医師や弁護士のように、特定の資格を取得しなければ名乗れない職業ではない。

したがって、

「どこから政治評論家なのか」

を厳密に線引きすることは困難である。

歴史的には、新聞記者、政治部記者、学者、元政治家などが新聞・雑誌・ラジオ・テレビで政治情勢を分析し、それを主な活動とするようになった場合に政治評論家と呼ばれることが多かった。

ここでは政治評論家を、

政治について継続的に情報を収集し、事実関係、政党間関係、政策、権力構造、政治家の行動などを解釈・評価し、それを国民へ伝える人物

という機能的な意味で捉える。

この定義ならば、肩書が「政治評論家」でなくても、政治解説委員や政治ジャーナリストの一部は同じ機能を担っている。


2.昭和の政治評論家~「政治内部を知る人物」が解説する時代

昭和、とりわけ戦後から高度経済成長期にかけての政治評論を考えるうえで重要なのは、情報環境である。

現在のように、首相官邸、各省庁、政党、国会議員がインターネット上で大量の一次資料を直接公開する環境は存在していなかった。

国民が中央政治の内部情報を得るためには、

新聞、ラジオ、テレビ、雑誌

などのマスメディアに大きく依存する必要があった。

そのため政治家と直接接触できる政治部記者や新聞社幹部の経験は、現在以上に大きな情報価値を持っていたと考えられる。

典型的なのが細川隆元である。

細川は東京朝日新聞で政治部長、編集局長などを務め、戦後には衆議院議員も経験した。その後、政治評論活動に移った。

つまり、

新聞政治部 → 政治の当事者 → 政治評論

という経歴である。

当時の政治評論家が単なる「テレビで意見を言う人」ではなかったことが分かる。


3.『時事放談』が象徴する昭和型政治評論

昭和型政治評論を象徴する番組の一つがTBS系列の『時事放談』である。

細川隆元らが出演した同番組は1957年から1987年まで約30年間続いた。

ここで重要なのは番組形式である。

現代の情報番組では、

司会者 +ニュース映像 +解説者 +複数のコメンテーター +専門家

という構成が一般的である。

それに対して昭和型の政治評論では、

政治事情をよく知る人物そのものが番組の中心になる

という構造が成立しやすかった。

評論家自身の知識、取材網、政治家との人脈、経験が情報商品だったのである。


4.昭和の政治評論家には「情報仲介者」という役割があった

この構造を情報理論的に整理すると分かりやすい。

政治に関する一次情報をP、

国民をC、

評論家をKとする。

昭和型では、

P → K → C

という情報経路の重要性が高かった。

政治家や政党から得た情報を評論家が解釈し、それを国民へ説明する。

国民がPへ直接アクセスする手段が限られていたため、Kの情報価値が高くなる。

政治評論家には、

  1. 政治情報へのアクセス
  2. 政治家との人的関係
  3. 制度についての知識
  4. 情報の選別能力
  5. 情報を一般向けに翻訳する能力

が要求された。

つまり昭和型政治評論家は、

情報を持つ人と情報を解釈する人がかなり重なっていた

のである。


5.藤原弘達は異なるタイプだった

昭和の政治評論家が全員新聞記者出身だったわけではない。

藤原弘達は政治学者として明治大学教授を務めた後、評論活動を本格化させ、テレビでも活動した人物である。

これは重要である。

細川隆元型が、

政治取材・政治実務経験を背景とした評論

であるとすれば、藤原型には、

政治学的な分析を大衆メディアへ持ち込む評論

という側面があった。

すでに昭和の段階でも、

「政治家をよく知っている人」

だけでなく、

「政治という現象を理論的に説明する人」

が政治評論の世界に存在したのである。


6.テレビの普及が政治評論家そのものを変えた

政治評論は新聞・雑誌だけの世界ではなくなった。

テレビでは文章と異なる能力が要求される。

新聞なら、数千字を使って論理を構築できる。

テレビでは数十秒から数分で結論を伝えなければならない。

したがってテレビ時代には、

政治について詳しい

だけでは足りない。

さらに、

  • 話が分かりやすい
  • 短時間で説明できる
  • 相手と議論できる
  • 強い表現を作れる
  • 視聴者の記憶に残る

という能力が重要になる。

ここで政治評論家は、

専門家

から、

専門家+メディア出演者

へ変化していく。


7.竹村健一は「テレビ評論家型」の一つの完成形だった

その代表例として竹村健一を見ることができる。

竹村は新聞記者経験を持ち、その後、政治・経済を中心に評論活動を展開し、多数のテレビ番組に出演した。

竹村の存在は、政治評論家という職業がテレビ文化と結合したことを象徴している。

ここでは評論家の商品価値が、

情報量だけではなく、

話し方、キャラクター、言語表現

にも依存する。

これは政治評論の質が低下したことを意味するわけではない。

テレビという媒体に適応した結果である。

しかし構造的な危険もある。

論証が強い意見より、

短く、分かりやすく、印象の強い意見

がテレビ番組では有利になる可能性がある。

この問題は後の情報番組にも引き継がれる。


8.昭和型政治評論家を理論的に整理すると

昭和後期までの典型的政治評論家には、次の特徴が確認できる。

情報源

政治家、官僚、政党、新聞記者などとの人的ネットワーク。

主な媒体

新聞、雑誌、ラジオ、テレビ。

専門性

政治記者経験、政治学、議員経験など。

情報流通

少数のマスメディアから多数の国民への一方向型。

評論家の価値

「一般人が直接入手しにくい情報を持っていること」。

これを、

情報希少性型政治評論

と呼ぶことができる。

これは価値判断ではなく、当時の情報流通構造を説明するモデルである。


9.平成~政治評論家が「番組の一部」へ変わる

平成になると政治評論の構造は大きく変わる。

政治評論家が消えたわけではない。

しかし、

政治評論家一人が政治を説明する番組

から、

番組の中に政治評論家や専門家が配置される形式

が強くなる。

ここに「コメンテーター」という役割が拡大する。

代表的な政治評論家の一人だった三宅久之は、毎日新聞政治部記者などを経て1976年に退社し、政治評論家となった。その後『サンデープロジェクト』『ビートたけしのTVタックル』『たかじんのそこまで言って委員会』などに出演している。

注目すべきは出演番組の種類である。

純粋なニュース番組だけではない。

政治討論、情報番組、バラエティー的要素を持つ番組へと活動範囲が広がっている。


10.「政治評論家」と「コメンテーター」の違い

この二つは同一ではない。

政治評論家は基本的には、

政治が専門分野である人物

である。

コメンテーターは、

番組内で出来事について意見・解説を述べる役割

である。

したがって、弁護士、医師、芸能人、大学教授、経営者などもコメンテーターになれる。

平成のテレビでは、

政治評論家だけが政治について語る構造から、

政治記者+学者+弁護士+文化人+タレント

などが同じ番組で政治について語る構造へ移行した。

政治評論の「専門職独占」が弱くなったのである。


11.平成のもう一つの変化~ニュースと情報番組の接近

テレビニュース研究でも、報道系番組と情報系番組を区別しながら、ニュースをめぐる「言論空間」の構造を分析する研究が行われている。

この変化は重要である。

政治ニュースを、

「何が起きたか」

だけでなく、

「どう考えるべきか」

まで番組内で扱うようになる。

その結果、ニュース番組そのものが評論機能を内包する。

昭和なら、

ニュース →政治評論家が評論

という二段階だったものが、

平成には、

ニュース+解説+評論+討論

が一つの番組に統合されていった。


12.久米宏や田原総一朗は「政治評論家」なのか

ここには重要な分類問題がある。

久米宏はニュースキャスターであり、田原総一朗はジャーナリストである。

肩書としては、伝統的な政治評論家とは異なる。

しかし両者とも政治について、

  • 質問する
  • 解釈する
  • 問題点を提示する
  • 政治家の説明を検証する

という機能を果たしてきた。

つまり平成には、

政治評論家だけが担っていた機能の一部を、キャスターやジャーナリストが担う

ようになった。

ここが昭和から平成への非常に重要な転換である。


13.政治情報の受け手に対してテレビは実際に影響していたのか

ここは印象論ではなく、研究を見る必要がある。

2009年衆議院選挙前後の全国パネル調査を分析した研究では、特定のテレビ番組への接触が政治的知識にプラスの関係を持つことなどが報告されている。

一方で、投票方向への影響は一部を除いて大きく確認されなかった。

これは重要である。

テレビに政治評論家が出演したからといって、

「評論家が有権者の投票先を決めていた」

と単純化することはできない。

研究結果からより慎重に言えるのは、

テレビ政治情報は政治についての知識や人物評価などには一定の関係を持つが、有権者の投票行動を直接支配するとまでは立証できない

ということである。


14.平成型は「番組内専門分業モデル」である

昭和型を、

P → K → C

とした。

平成になると、

政治情報Pが、

記者J キャスターA 評論家K 専門家E

へ分配され、

その内容がテレビ番組Tで編集される。

つまり、

P → J・A・K・E → T → C

となる。

このモデルでは、一人の政治評論家の情報支配力は相対的に小さくなる。

その代わり、

テレビ局という編集システムの影響力が大きくなる。

誰を出演させるか。

誰に何分話させるか。

どの映像を使うか。

どの発言をテロップ化するか。

ここに新しいゲートキーピングが発生する。


15.多人数化すれば自動的に公平になるわけではない

コメンテーターを複数配置すれば、多角的になるように見える。

しかし、

人数の多さ=意見の多様性

ではない。

全員が同じ前提を共有していれば、人数が増えても一つの見解を補強するだけになる。

現行の放送法第4条は、放送事業者に対して「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」、さらに意見が対立する問題について「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めている。

重要なのは人数ではなく、

合理的に異なる論拠を提示できているか

である。


16.平成後期~インターネットが情報独占を崩す

平成後期になると、さらに大きな変化が起こる。

インターネットである。

政治家自身がウェブサイトを持つ。

政党が政策資料を公開する。

国会審議を見ることができる。

官公庁資料を一般市民が取得できる。

やがてSNS(Social Networking Service・交流サイト)が普及し、政治家が報道機関を経由せず発言できるようになる。

つまり、

政治家P ↓ 評論家K ↓ 国民C

という従来型だけでなく、

P → C

という直接経路が成立した。

これは政治評論家の機能を根本から変える。


17.令和~「情報を持っていること」の価値が変わった

令和の情報環境では、政治に関する一次資料の相当部分を一般市民が直接入手できる。

国会会議録、法案、予算資料、統計、記者会見、政党政策、政治家のSNS投稿などである。

したがって政治評論家の価値は、

「政治家がこう言っている」

という情報を早く持っていることから、

大量の情報から何が重要なのかを判断すること

へ移る。

昭和の政治評論家に重要だったものを、

情報アクセス力

とすれば、令和ではより重要なのは、

情報選別力と検証力

である。


18.実際にテレビよりインターネットを使う時間が長くなった

この変化には数量的裏付けがある。

総務省が継続的に実施している「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」では、インターネット利用時間の増加が続いている。

2025年度調査では全年代平均の平日利用時間が、

インターネット:約183.9分

テレビのリアルタイム視聴:約156.1分

となり、インターネット利用がテレビ視聴を上回っている。

NHK(Nippon Hoso Kyokai・日本放送協会)放送文化研究所の2020年国民生活時間調査でもテレビ視聴者率の低下、とりわけ若年層のテレビ離れが確認されている。

したがって、

政治評論の中心がテレビだけではなくなった

ことは単なる印象ではない。

メディア利用行動そのものが変化している。


19.令和では政治評論の参入障壁が劇的に低下した

昭和に全国的な政治評論家になるには、

出版社、新聞社、放送局などのメディアを通過する必要があった。

これは一種の参入障壁である。

令和では、

YouTube SNS ブログ インターネット番組 音声配信

などを利用すれば、個人でも政治解説を発信できる。

つまり発信者数をNとすれば、

昭和・平成初期よりNが大幅に拡大し得る情報構造になった。

ただし、ここで重要なのは、

Nの増加=情報の質の向上

ではないことである。


20.令和型の最大の特徴は「専門性の民主化」と「検証責任の個人化」

ネット時代には大きな利点がある。

従来のテレビ番組では15分しか扱えない政策でも、インターネットなら数時間議論できる。

大学教授や研究者が直接解説できる。

政治家本人の会見全文を見ることもできる。

少数意見も発信できる。

これは、

政治評論へのアクセスを民主化した

と評価できる。

しかし同時に問題もある。

誰でも発信できるため、

  • 取材していない
  • 統計を確認していない
  • 一次資料を読んでいない
  • 出典を示さない
  • 推測を事実として話す

人物も政治評論に参加できる。

結果として、情報を選別する責任の一部が視聴者自身へ移る。


21.SNS時代には意見の分断も起こり得る

日本の2017年衆議院選挙における政党のTwitter利用を分析した研究では、政党情報を拡散する利用者ネットワークに同質性がみられ、多様な政治的立場へ情報が広がるとは限らないことが示されている。

この点は昭和型と大きく異なる。

昭和のテレビは、

少数の発信者 → 大多数の視聴者

だった。

令和のSNSでは、

多数の発信者 → 特定の関心・思想を持つ集団

という経路が形成されることがある。

そのため評論家の権威は弱くなる一方、

特定の発信者を強く信頼する小規模集団が形成される可能性がある。


22.「評論家の権威」から「アルゴリズムの選択」へ

ここにはもう一つ重大な変化がある。

昭和の視聴者が見る政治評論家は、主として放送局や新聞社が決めていた。

令和では視聴者自身が検索する。

しかし完全に自由に選んでいるわけでもない。

SNSや動画サービスでは、推薦システムがコンテンツ選択に関与する。

したがって政治情報のゲートキーパーは、

昭和 新聞社・放送局

平成 放送局+出演者

令和 放送局+ネット媒体+発信者+プラットフォーム+利用者自身

へ拡散したと整理できる。


23.令和では「政治評論家」という肩書が必要なくなったのか

ここで最初の疑問に戻る。

政治評論家は消滅したのか。

そう断定できる証拠はない。

むしろ重要なのは、

政治評論という機能が職業名から分離した

ことである。

現在では、

政治ジャーナリストが評論する。

大学教授が評論する。

元官僚が評論する。

弁護士が評論する。

経済学者が政治政策を評価する。

YouTube配信者が政治を論評する。

ニュースキャスターがコメントする。

つまり、

政治評論家という「肩書」は相対的に弱くなっても、政治評論という行為は社会全体へ拡大している。


24.三時代を比較する

構造を整理すると次のようになる。

項目 昭和 平成 令和
代表的媒体 新聞・ラジオ・テレビ テレビ中心+ネット テレビ+ネット+SNS+動画
主な論者 政治評論家・新聞記者 評論家・記者・キャスター・専門家 専門家・記者・元官僚・元政治家・個人発信者等
情報経路 一方向 一方向+初期ネット 多方向
情報の希少性 高い 中程度 低い
情報量 少~中 中~多 非常に多い
発信参入障壁 高い 中程度 低い
評論家の役割 情報提供+解説 解説+討論 選別+分析+検証
視聴者の選択肢 少ない 増加 非常に多い
主な危険 少数者への情報集中 テレビ的単純化 誤情報・分断・情報過多

25.政治評論の質をどう測るべきか

ここで「昔の政治評論家と現在のコメンテーターのどちらが優秀か」という問いを立てても、科学的にはあまり意味がない。

比較するなら同じ尺度を使う必要がある。

例えば次の10項目で評価することができる。

  1. 一次資料を確認しているか
  2. 情報源を複数持っているか
  3. 事実と推測を区別しているか
  4. 反対仮説を検討しているか
  5. 政策の費用を説明しているか
  6. 政治家との利益相反を開示しているか
  7. 誤りを訂正するか
  8. 数値を出典付きで示すか
  9. 自分と異なる立場を公平に検討するか
  10. 視聴者が元資料を確認できるか

この基準なら、

昭和の有名評論家だから高得点、

SNS発信者だから低得点、

とはならない。

一人ずつ検証する必要がある。


26.政治家との「近さ」は長所でもあり短所でもある

昭和型政治評論家の強みの一つは政治家へのアクセスだった。

しかしこれは同時に利益相反の問題を生む。

政治家と親しいから内部情報を得られる。

しかし親しいから批判が弱くなる可能性もある。

したがって、

政治家との距離Dと情報アクセスAには、

一定範囲で、

Dが小さくなるほどAが増える

関係が考えられる。

しかし独立性Iは逆に低下する可能性がある。

つまり政治評論家には、

アクセスと独立性のトレードオフ

が存在する。

この問題は昭和だけではなく、現在の政治ジャーナリストにも存在する。


27.令和のコメンテーターにも同じ問題がある

2022年にはBPO(Broadcasting Ethics & Program Improvement Organization・放送倫理・番組向上機構)が、政治的テーマを扱った番組について、出演者の政治的影響力やスタジオトークを出演者任せにすることなどに関する問題点を指摘している。

また同年、情報番組のコメンテーターが国葬をめぐって事実と異なる発言を行い、翌日に訂正・謝罪した事例について、多くの視聴者意見が寄せられた。

これは現代型評論の重要な課題を示す。

即時コメントには、検証の時間が不足する危険がある。

政治について「何か言わなければならない」番組構造そのものが、誤りを誘発する可能性がある。


28.昭和型を美化するのも正しくない

ここで注意すべきなのは、

「昔の評論家は本物だった」

という結論である。

それを裏付ける定量的証拠はない。

昭和では情報源が少なかったため、評論家自身の発言を一般市民が検証することも現在より難しかった。

政治家との非公開の会話を根拠に、

「私が聞いたところでは」

と説明されても、視聴者は検証できない。

つまり昭和型には、

情報アクセスが強い代わりに検証可能性が低い

という問題があった。


29.令和型を単純に劣化と見るのも正しくない

一方、

「ネットで誰でも意見を言うようになったから政治評論の質が落ちた」

とも断定できない。

現在では視聴者自身が、

政府統計 国会会議録 法律 予算資料 会見全文 学術論文

へアクセスできる。

専門家がテレビ局を通さず長時間説明することもできる。

つまり令和には、

非常に質の低い政治評論と、昭和には実現困難だったほど専門的な政治解説が同時に存在する。

平均的な質よりも、

質の分散が大きくなった

と考える方が合理的である。


30.三時代の本質的変化

以上を一つのモデルに整理すると、日本の政治評論は三段階に分けられる。

昭和

情報希少性モデル

情報を持つ評論家に価値があった。

「私は政治の内部を知っている」

ことが重要だった。

平成

マスメディア編集モデル

政治評論家、記者、キャスター、専門家が番組の中で役割分担する。

「複雑な政治をテレビで分かる形にする」

ことが重要になった。

令和

情報過剰・分散モデル

情報そのものは大量に存在する。

重要になるのは、

「大量の情報から、何が事実で何が重要なのかを選別し検証する」

能力である。


31.政治評論家の価値は逆転した

この変化を端的に表現すると、

昭和は、

情報を知っている人が強かった。

令和は、

情報を検証できる人が強くあるべき時代

になった。

情報の量Qが少ない時代には、

情報アクセスAの価値が大きい。

しかしQが巨大になると、

Aだけでは価値を生みにくい。

むしろ、

検証能力V 選別能力S 専門知識E

が重要になる。

概念的には、

政治評論の価値を

R = f(A, V, S, E)

と考えることができる。

昭和はAの比重が高かった。

令和はV、S、Eの重要性が相対的に高まっている。

これは数学的に実証された公式ではなく、三時代の情報環境を説明するための概念モデルである。


32.これから必要なのは「政治評論家」ではなく「政治評論の品質基準」

政治評論家という職業名が復活するかどうかは、本質的な問題ではない。

重要なのは、

誰が政治を語るにしても、

同じ検証基準を適用すること

である。

元新聞記者だから正しいわけではない。

大学教授だから正しいわけでもない。

元官僚だから正しいわけでもない。

YouTubeで人気だから正しいわけでもない。

政府を批判しているから優秀なのでもない。

政府を支持しているから間違っているのでもない。

評価すべきなのは、

その主張を事実によって立証できるか

である。


総合評価~政治評論家は消えたのではなく、「政治を解釈する権力」が分散した

昭和、平成、令和の政治評論を比較すると、大きな歴史的変化が見えてくる。

昭和の政治評論家は、

政治の内部情報と国民を結ぶ情報仲介者

だった。

細川隆元のような新聞政治部出身者や、藤原弘達のような学者型評論家が存在し、テレビの普及とともに竹村健一のようなテレビに適応した評論家も登場した。

平成になると、三宅久之に代表される政治評論家が活躍する一方、ニュースキャスター、ジャーナリスト、解説委員、学者などが政治評論機能を分担するようになった。

そして令和では、テレビそのものの情報独占が崩れ、インターネット利用時間がテレビのリアルタイム視聴を上回る情報環境になっている。

したがって、

「政治評論家がいなくなった」

という説明は正確ではない。

より正確なのは、

政治評論家という独立した職業が担っていた機能が、ジャーナリスト、研究者、解説委員、元官僚、元政治家、コメンテーター、ネット発信者などへ分散した

という説明である。

そして、さらに重要な変化がある。

昭和では、

誰が政治を解釈するかを主として新聞社や放送局が決めていた。

令和では、

国民自身も政治解説者を選択する。

これは政治情報の民主化である。

しかし同時に、誤情報を選択する自由まで拡大した。

したがって令和の政治評論に最も必要なのは、有名な「大政治評論家」の復活ではない。

必要なのは、

一次資料に戻ること。

事実と意見を分けること。

反対説を検討すること。

間違えれば訂正すること。

視聴者自身が根拠を確認できること。

である。

昭和の政治評論が「情報を持つ者」の時代であり、

平成が「テレビで解釈する者」の時代だったとすれば、

令和の政治評論に求められるのは、

「情報を検証できる者」の時代

である。

政治評論家という肩書が残るかどうかより、この変化の方が民主主義にとってはるかに重要なのである。

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