地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

石橋湛山は、短い首相在任期間なのになぜ長く語り継がれているのか

- Posted in 政治家論 by

首相だったのは、わずか65日だった

 日本の歴代首相を在任期間だけで並べれば、石橋湛山は決して大きな場所を占める人物ではない。第55代内閣総理大臣に就任したのは1956年12月23日、退任は1957年2月25日で、在職日数はわずか65日にすぎず、長期政権を築いたわけでも、首相として巨大な制度改革を完成させたわけでもないため、数字だけを見れば、日本政治史の中を一瞬で通り過ぎた首相のようにも見える。

 ところが、石橋湛山という名前は、その65日とともに消えなかった。死後には全集が刊行され、その名を冠した賞が創設され、現在も専門の研究学会で思想や経済論、外交論が研究され続けており、長く政権を担当した首相でさえ時代が過ぎれば専門家以外には語られなくなることがあるなかで、なぜ65日しか首相でなかった人物が半世紀以上たっても読み直され続けるのかという疑問が残る。

 その理由を探ろうとするなら、65日間の首相時代だけを見ていては足りない。石橋湛山の場合、首相になってから思想が生まれたのではなく、首相になるはるか以前から数十年にわたって考え、書き、社会に問い続けてきたものがあり、65日間の政権はその長い思想人生の途中に置かれた、ごく短い一章だったからである。

政治家になる前に、すでに長い「言論人の人生」があった

 石橋湛山は1884年に生まれ、1907年に早稲田大学文学部哲学科を卒業し、1911年に東洋経済新報社へ入って記者から主幹、さらに社長へと進んでいった。つまり、私たちが後世から見ると「元首相の石橋湛山」だが、本人の人生の順序から見れば、まず長い時間を言論人、経済ジャーナリストとして生き、その後に政治家になった人物なのである。

 この順序は重要である。多くの政治家の場合、その思想を知ろうとすれば国会答弁や政策、演説を調べることになるが、石橋にはそれより前の時代から膨大な文章が残されており、政治家として権力を持つ前に何を考えていたのかが読めるだけでなく、その考えが後になって政治家となったときにどう変化し、あるいは変化しなかったのかまで追うことができるため、それが石橋という人物を単なる「歴代首相の1人」ではなく、思想の歴史から読み返すことのできる存在にしている。

日本が大きくなろうとしていた時代に、「大きくならなくてよい」と考えた

 石橋湛山を語るとき、最も頻繁に登場する言葉が「小日本主義」である。ただ、この名前だけを聞けば、日本は国力を抑えて小さく生きるべきだという消極的な思想のようにも聞こえるが、実際の発想はもっと大胆であり、日本が領土や権益を拡大して国力を示そうとしていた時代に、領土を持つことそのものが国民を豊かにするのかと問い直し、軍事的膨張よりも貿易や経済交流によって繁栄する道を考えたのである。

 1921年、石橋は「一切を捨つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」といった論説を発表し、満州、山東、朝鮮、台湾などをめぐる日本の植民地政策を批判した。当時の日本社会では、海外に領土や権益を広げることが国力の増大と結び付けて考えられる傾向が強かっただけに、石橋の議論は時代の主流とは異なる方向を向いており、当時としては極めて急進的な植民地放棄論だったと評価されている。

 しかも興味深いのは、石橋が単に「戦争はいけない」「植民地を持つべきではない」と道徳的に訴えていただけではなく、経済的な利益と負担、貿易、外交、安全保障を結び付けながら、領土を所有することが本当に日本の利益になるのかを検討しようとしていたことであり、後世の研究でも、小日本主義は石橋の国際認識を考える中心的なテーマとして扱われてきた。

 もっとも、ここで石橋を「未来を予言した人物」にしてしまうのは慎重でなければならない。私たちは日本がその後、中国大陸で戦争を拡大し、1945年に敗戦し、海外領土を失った結末を知っているが、1921年の石橋は未来を見通していたわけではなく、その時点で得られる情報をもとに、「領土を増やせば本当に国民は豊かになるのか」「そのために払う軍事的、財政的、外交的な費用は見合うのか」と問いを立てていたのであり、後世から見て印象的なのは、答えを予言したこと以上に、多くの人が当然だと思っていた前提そのものを疑ったことなのである。

戦争が終わると、言論人は政治家になった

 敗戦後、石橋は本格的に政治の世界へ入り、第1次吉田茂内閣では大蔵大臣を務めたが、1947年に公職追放を受けて政界を離れ、1951年に追放が解除されると復帰した。その後、第1次から第3次までの鳩山一郎内閣で通商産業大臣を務め、言論の外側から政治を論じていた人物が、今度は自ら政策を決める側に回っていった。

 そして1956年12月、鳩山一郎の後継を選ぶ自由民主党総裁選挙で石橋は岸信介と争い、決選投票では石橋258票、岸251票となって、わずか7票差で勝利した。72歳になっていた石橋は、こうして自由民主党総裁となり、12月23日、第55代内閣総理大臣に就任したのである。

 長く言論の世界で国家の進路を論じ、一度は公職追放によって政治の舞台から離れた人物が、ついに自ら国家運営の責任を負うところまで来たのだから、普通の政治家の物語であれば、ここから石橋政権が何を実現したのかという話が始まるはずだったが、彼にはそのための時間がほとんど与えられなかった。

ようやく首相になったとき、残された時間はほとんどなかった

 石橋は1957年1月、政権の基本姿勢として「五つの誓い」を掲げ、福祉国家の建設や世界平和の確立などを訴えた。全国遊説のために準備した原稿には、自主独立の平和外交、国民生活の安定と向上、民主主義における個性の尊重などが記されており、そこからは、戦前から言論人として考えてきた問題意識と、首相として実行しようとした政治との間に一定のつながりを見ることができる。

 しかし首相就任からおよそ1か月後、石橋は病に倒れ、長期の療養が必要な状態となったため、2月22日に退陣の意思を示し、翌23日に石橋内閣は総辞職した。岸信介内閣が成立したのは2月25日であり、首相官邸の公式記録では、石橋の首相在任期間は1956年12月23日から1957年2月25日までの65日となっている。

 ここで1つ、首相と自民党総裁の在任期間を分けて考える必要がある。石橋内閣は2月23日に総辞職し、首相としての在職記録は2月25日までだが、自民党の公式記録では石橋の総裁在任期間は1957年3月21日までとなっているため、「2月に首相を辞めると同時に自民党総裁職も正式に終わった」と理解するのは正確ではなく、政治史では肩書がいつ始まり、いつ終わったのかという小さな違いが、人物像を必要以上に単純化しないためにも重要になる。

なぜ自ら身を引いたことまで記憶されたのか

 石橋の退陣は、その後しばしば政治家の「出処進退」を語る際の材料となった。長い政治生活の末にようやく首相となりながら、十分に職務を果たせない状態で地位だけを維持するのではなく政権を手放したという事実が、その人物像と結び付いて記憶されたからである。

 ただし、ここにも後世からの美化には注意が必要であり、病気になって辞任したという事実だけで、その政治家の人格全体を証明することはできず、石橋のすべての政策や判断が正しかったことになるわけでもない。それでも、最高権力を得た直後にそれを手放したという出来事が、戦前から権力や国家のあり方について文章を書き続けてきた彼の経歴と重なるため、単なる病気退陣以上の意味を持って語られてきたことは理解できる。

65日で終わったから、「その先」が永遠に残った

 短い政権には、長期政権とは違う歴史的な特徴がある。長く政権を担当すれば、政策は実行され、その結果によって評価されることになり、成功した政策もあれば失敗した政策もあるため、時間がたつにつれて「実際に何をした政権だったのか」が具体的に見えるようになる。

 ところが石橋政権は、構想を示したところで時間がほぼ尽きてしまったため、後世には「もし健康を害さず政権を続けていたら、日本政治はどうなっていただろう」という問いが残った。ただし、これは歴史上確認できる事実ではなく、あくまで反実仮想であり、石橋が長く首相を務めていれば、戦前の小日本主義がそのまま外交政策になったとも、中国との国交正常化が早まったとも断定できない。冷戦下の日米関係、党内政治、財政、国会情勢など、多くの制約が存在していたからである。

 それでも、政策が十分に実行されなかったからこそ、後世の評価が政策結果だけで固定されず、「石橋は何をしようとしていたのか」という思想の側へ向かいやすくなった可能性はあり、65日という短さそのものが石橋を有名にしたと統計的に証明することはできないとしても、政策実績より思想や言論活動が評価の中心となった一因として、短命政権だったことを考えるのは不自然ではない。

首相を辞めても、彼の政治は終わらなかった

 もし石橋湛山の人生が1957年の退陣で終わっていたなら、「短命に終わった惜しい首相」として記憶されるだけだったかもしれないが、健康を回復した石橋は、首相でなくなった後も外交に関わり続けた。

 1959年9月には中国を訪問し、周恩来首相らと会談した。9月20日に発表された共同声明では、領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存といった原則のもとで、日中関係を改善していく必要が確認されており、日本と中華人民共和国との国交正常化が実現したのは1972年9月29日であるため、石橋の訪中はそれより13年前の出来事だった。

 もちろん、1959年の訪中から1972年の国交正常化までを一直線の因果関係として描くことはできない。その間には国際政治も日本国内の政治も大きく動いており、正常化は多くの政治家、外交関係者、民間交流の積み重ねによって実現したからであるが、それでも、国交のなかった時代に元首相が北京へ赴き、関係改善の必要を公然と語った事実は、石橋の戦後外交観を考えるうえで重要な出来事である。

死後も消えなかった「問い」

 石橋湛山が本当に長く語り継がれているのかという点も、単なる印象だけで判断する必要はない。1970年には東洋経済新報社から『石橋湛山全集』の刊行が始まり、1980年には「石橋湛山賞」が創設され、さらに現在も石橋湛山研究学会が活動しており、政治思想、経済思想、外交、教育など、さまざまな角度から研究が続いている。

 これは、石橋という人物が単に昔の首相として記念されているだけではないことを示している。研究対象になるということは、その人物についてまだ論じるべき問題が残っているということでもあり、小日本主義は現実的な外交思想だったのか、経済合理性をどこまで備えていたのか、戦前と戦後でその思想はどのように変化したのかといった問いが現在まで残っていること自体が、石橋に対する評価が1つの結論に固定されていないことを物語っている。

石橋湛山は「正しかった人」だから残ったのではない

 石橋湛山が後世に語り継がれている理由を、「彼の主張がすべて正しかったから」と説明してしまえば話は簡単になるが、それでは歴史としては面白くないし、正確でもない。石橋の考え方にも時代的制約があり、小日本主義についても、その現実性や限界を問う研究が存在するうえ、政治家として実行できなかった政策も多く、首相としての成果を長期政権の首相と同じ尺度で比較することも難しい。

 むしろ石橋の特徴は、正しい答えをすべて持っていたことより、他の人が当然だと考えている前提を問い直したところにあったのではないか。領土が広ければ国は豊かになるのか、軍事力を拡大すれば安全になるのか、大国に依存するだけで自主外交といえるのか、政治は国家のためにあるのか、それとも国民生活のためにあるのか。石橋が残した文章を読んでいくと、政策の答え以上に、こうした問いが繰り返し現れてくる。

65日の首相ではなく、半世紀考え続けた人

 石橋湛山について調べ始めると、不思議なことが起きる。最初は「わずか65日の首相」について知ろうとしていたはずなのに、やがて1921年の植民地論へ戻り、戦後の大蔵大臣時代を通り、1956年の総裁選を経て、1959年の北京へたどり着くことになり、首相として過ごした時間は短いのに、その人物を理解しようとすると、日本の近現代史を数十年にわたって歩かなければならなくなるのである。

 もちろん、石橋湛山が現在まで研究されている理由を、1つの原因だけで科学的に証明することはできず、小日本主義という独自性の高い思想、長い言論活動、首相としての短い在任期間、病気による退陣、その後の日中・日ソ交流、そして全集や研究活動による思想の継承が重なり合った結果として考える方が現実に近いだろう。

 政治家の名前は、普通なら「何年政権を続けたか」「どれだけ多くの法律を成立させたか」「どれほど大きな権力を持ったか」といった結果によって歴史に刻まれるが、石橋湛山はその尺度では測りにくい場所にいる。首相として残された時間は65日しかなかったが、彼が国家の進路について考え、書き続けた時間は、それとは比較にならないほど長かった。

 だから、石橋湛山を記憶に残したものは、65日間の権力そのものではなかったのかもしれない。権力を持つはるか前から問い続け、権力を失った後にも問い続け、その問いが死後もなお研究されているという事実を考えれば、首相としての時間は短くても、思想には任期がないということこそが、石橋湛山という人物が今なお歴史の中から繰り返し呼び戻される、最も大きな理由なのである。

九条レオンリベラル文庫の記事をさらに読む

九条レオンの文学・文芸に関する記事をまとめています。

リベラル文庫のページを見る