地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

55年体制の時代に定着した地方政治の組織や慣行は、現在も残っているのか

- Posted in 政治 by

55年体制は、永田町だけにあった政治体制ではない

 1955年10月に左右の日本社会党が再統一し、同年11月には日本民主党と自由党の保守合同によって自由民主党が結成された。ここから、自民党が長く政権を担い、日本社会党が最大野党として対峙する、いわゆる55年体制が形成された。しかし、この時代を国会の議席数や自民党と社会党の対立だけで眺めていると、戦後政治を動かしていたもう1つの世界を見落としてしまう。55年体制は東京の国会議事堂の中だけに存在したのではなく、県庁、市役所、町村役場、地方議会、農村、商店街、企業、労働組合、そして政治家の後援会を結ぶ網の目のような関係を通じ、地方社会の隅々にまで伸びていたからである。

 ただし、ここで注意したいのは、後援会をはじめとする個人政治家中心の組織が1955年になって突然生まれたわけではないという点である。1927年の内務省資料を用いた研究では、すでに戦前の全選挙区の約4割に個人後援会が存在していたことが確認されており、後援会には明確な戦前からの系譜がある。55年体制が生み出したのは完全に新しい政治文化というより、それ以前から存在していた地縁、人脈、個人後援、職業団体などを、長期政権、選挙制度、高度経済成長期の利益配分と結び付け、地方政治の中に安定した仕組みとして定着させた構造だったと見るほうが正確である。

政党名よりも「誰の票か」が重要だった時代

 55年体制期の自民党政治を特徴づけたものの1つが、候補者個人を支える後援会である。当時の衆議院では中選挙区制が採用され、1つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党が強い地域では同じ自民党の候補者同士が競争することも珍しくなかった。その場合、「自民党を支持する」というだけでは候補者を選び分ける理由にならず、「この地域はこちらの先生」「この業界はこちらの先生」という個人的な支持基盤を築く必要が生じる。こうして政治家は地域の支持者を組織し、地方議員や有力者、各種団体との関係を積み重ねながら、自分自身の票を確保する政治を発達させていった。

 もっとも、中選挙区制だけを後援会発達の原因と考えるのは単純すぎる。近年の研究では、日本の厳格な選挙運動規制や1954年の公職選挙法改正も重要な役割を果たしたとされており、1952年の総選挙では個人票を獲得する手法の1つにすぎなかった後援会活動が、1958年頃には事前の政治活動を担う主要な仕組みへと広がっていったことが指摘されている。つまり後援会は、中選挙区制による党内競争、選挙運動規制、既存の地縁や人間関係といった複数の条件が重なることで発達したのであり、1つの制度だけから生まれたものではなかった。

政治家は東京と地方を往復する「回路」になった

 こうして形成された後援会は、選挙の直前だけ開く臨時の応援組織ではなかった。政治家と地域住民の間には日常的な関係が作られ、地方議員、地域団体、企業、農業関係者、商工業者などがその間を結んだ。国会議員にとって地元とは、数年に1度票をもらいに帰る場所ではなく、自らの政治的基盤そのものであり、地域側から見れば国会議員は東京の中央政府へ要望を届けるための窓口でもあった。

 道路、河川、港湾、農業基盤、学校、公共施設などが急速に整備されていた高度経済成長期には、この関係はとりわけ大きな意味を持った。自治体や地域団体が国の予算や事業を求め、国会議員が中央省庁や与党との間をつなぎ、地元ではその働きが政治家の実績として評価されるという循環が成立しやすかった。ただし、すべての公共事業を選挙目的の利益誘導とみなすのも適切ではなく、実際にはインフラ整備そのものに強い社会的必要性があった。重要なのは、政策上必要な公共投資の配分過程と、政治家の人的ネットワークが重なる場面が多かったことであり、その重なりが「中央とのパイプを持つ政治家」という評価を生んだことである。

組織政治は自民党だけのものではなかった

 55年体制を地方から眺めると、自民党の後援会だけが地域を支配していたわけではないことも見えてくる。日本社会党には労働組合を中心とする組織的な支持基盤があり、公明党や日本共産党などにも、それぞれ異なる形の支持組織があった。会社員、労働者、農家、商店主など、人々が所属している職場や地域団体と政治との距離が現在より近い社会では、個人の政治参加も所属組織を経由しやすかった。

 この意味で55年体制とは、単に自民党と社会党が国会で対立した制度ではなく、社会の中に存在するさまざまな集団が、それぞれ異なる形で政治と接続されていた時代でもあった。ただ、その社会的基盤は現在まで同じ強さで残っているわけではない。例えば労働組合の推定組織率は1955年には35.6%だったのに対し、2024年には16.1%まで低下している。労働組合だけをもって地域政治全体の組織力を測ることはできないが、55年体制期を支えた代表的な中間組織の1つが長期的に縮小してきたことは、数字からも確認できる。

1993年に体制が崩れても、人間関係まで消えたわけではない

 1993年の衆議院総選挙後、自民党は結党以来続けてきた政権の座を離れ、一般に55年体制の終焉を象徴する政権交代が起きた。さらに1994年の政治改革によって衆議院には小選挙区比例代表並立制が導入され、同じ選挙区で自民党候補同士が競争することを前提としていた中選挙区時代の政治環境は大きく変わった。制度だけを見れば、政治家が独自の個人後援会を抱えて党内候補と争う必要性は以前より小さくなった。

 しかし、法律には施行日があっても、人間関係には施行日がない。長崎県を対象とした研究では、新しい選挙制度が導入された後も、多くの国会議員が中選挙区時代の後援会組織を基本的に維持し、新しい選挙区から外れた地域でも政治活動を続けていたことが確認されている。ただし、これは長崎県を対象とした2000年代初頭までの事例研究であるため、そのまま2026年の全国すべての地域へ一般化することはできない。それでも、選挙制度が変更されても、それ以前に形成された政治組織や支持者との関係が直ちに消滅するわけではないことを示す重要な実証例である。

現在の地方政治にも「個人」が強く残っている

 それでは現在の地方政治を見るとどうだろうか。総務省が2024年12月31日時点で在職していた地方政治家について、立候補届出時の所属党派を調べた統計では、都道府県知事47人のうち45人、95.7%が無所属であり、市区町村長では1,740人のうち1,719人、98.8%が無所属だった。また、市区町村議会議員28,941人のうち19,885人、68.7%が無所属である。一方で都道府県議会議員では無所属は2,614人中551人、21.1%にとどまっており、地方政治をひとまとめにして「無所属中心」と表現するのも正確ではない。自治体の段階や選挙の種類によって、政党の存在感には大きな差がある。

 さらに、この統計には重要な注意点がある。ここでいう所属党派とは2024年12月31日時点の政治的な立場ではなく、各政治家が立候補を届け出た時点の所属党派である。また、無所属の候補者であっても政党から推薦や支援を受けることはあり、「無所属であること」と「政党と関係がないこと」は同じではない。したがって、この数字は55年体制の組織が現在まで残っていることを直接証明するものではなく、現在の基礎自治体政治では国政ほど政党名だけで候補者を分類できないことを示す数字として読むべきである。

無所属の多さを、55年体制の名残だけで説明してはいけない

 ここで、55年体制との連続性を考える際に重要な区別が生まれる。現在の地方政治で候補者個人の名前や地域での活動が重要なのは、昔の後援会文化が残っているからだけではない。地方議会や首長の選挙制度そのものが、国政とは異なる条件を持っているからである。市町村議会では自治体全体を選挙区として複数の議員を選ぶ場合も多く、有権者は政党ではなく候補者個人に投票するため、同じ政党の候補同士で票を競う状況も生じる。首長選挙では自治体全体から1人を選ぶため、政党公認ではなく無所属として立候補し、複数の政党や団体から支援を受ける形も成立しやすい。

 つまり現在の地方政治に個人中心の性格が残っている理由を因果関係として考えるなら、「55年体制の組織が残ったから現在も個人政治が強い」という1本の線では足りない。過去から受け継がれた後援会や人的ネットワークという歴史的要因と、現在の地方選挙制度が候補者個人を前面に出しやすいという制度的要因が同時に作用していると考えるほうが妥当である。ここを区別しなければ、現在観察される無所属の多さという結果から、その原因まで55年体制に求めることになり、相関関係と因果関係を混同してしまう。

古い組織は弱くなったが、政治から「人間関係」が消えたわけではない

 それでも、55年体制期の地方政治と現在の地方政治がまったく別世界になったわけでもない。政治家の後援会、地域団体との関係、国会議員と地方議員の協力、自治体から国への要望活動などは現在も存在している。一方で、人口移動、高齢化、過疎化、都市化、職業構造の変化、地域団体や労働組合の組織率低下などによって、それらを支える社会の側は大きく変化した。かつて同じ町内、職場、農村、商店街の人間関係を通じて政治的支持が伝わった地域でも、転入者が増え、勤務先と居住地が離れ、インターネットやソーシャルメディアから直接政治情報を得る人が増えれば、従来型組織だけで有権者をまとめることは難しくなる。

 その変化は、55年体制の政治組織が一斉に消滅したというより、古い組織の外側に新しい有権者が広がっていった過程と考えると分かりやすい。長く地域に住み、政治家や地方議員との接触を持つ層には従来型の人的ネットワークが残る一方、転入者や若い世代ではそれとは異なる情報経路が形成される。そのため現在の地方政治には、昔ながらの後援会政治と、政党を重視する政治と、インターネットを通じて候補者を直接評価する政治が、同じ地域の中で重なって存在している。

利益誘導政治も、同じ姿で残っているわけではない

 55年体制期の地方政治については、「地元へ道路や公共施設を持ってくる政治家」というイメージが強く残っている。しかし、現在の地方政治をそのまま同じ図式で説明することはできない。国と地方の財政関係、行政手続、公共事業の評価方法、情報公開、地方分権などが進み、政治家個人の働きかけだけで公共投資が決まると考えるのは現実的ではない。

 それでも自治体が国や都道府県に予算、制度改正、道路、鉄道、防災、医療、産業振興などを要望する必要はなくなっていない。政治家が中央省庁や政党と接点を持ち、地域の要望を政策過程へ伝える機能も残っている。昔の「利益誘導」という言葉でひとまとめにするより、現在では政策要望、予算確保、国と地方の調整という制度的な活動の中に、人的ネットワークの効果も重なっていると考えたほうが実態に近い。

では、55年体制は地方にどれほど残っているのか

 ここまでを見ると、「55年体制の地方政治は現在も残っているのか」という問いに、単純に「残っている」あるいは「消えた」と答えることが難しい理由が見えてくる。個人後援会には戦前からの歴史があり、55年体制期にそれが広く定着したが、1994年の制度改革後には国政レベルで個人後援会を必要とする条件の一部が弱まった。それでも旧来の後援会が制度改革後も残った地域は確認されており、現在も地方では候補者個人を中心とする政治が強く表れる。ただし、それをすべて55年体制の遺産とみなすことはできず、地方選挙制度そのものが個人中心の政治を生み出している部分もある。

 さらに科学的に考えるなら、1955年から2026年まで同じ後援会や系列関係がどの程度連続して残っているのかを全国規模で測定した完全な時系列データが存在するわけではない。そのため、「55年体制期の政治組織がそのまま現在まで保存されている」と断定することは難しい。一方、戦前の後援会、1950年代の後援会拡大、1994年以降も組織が維持された事例、現在の地方政治における個人中心性という複数の証拠をつなげれば、制度や社会環境が変わりながらも、人的ネットワークを重視する政治文化の一部に歴史的連続性があると考えることには十分な根拠がある。

55年体制は消えた。しかし、その時代に太くなった根は残っている

 地方政治を古い家にたとえるなら、55年体制が終わった1993年に建物そのものが取り壊されたわけではない。選挙制度という間取りが変わり、人口移動や高齢化によって住人が入れ替わり、インターネットという新しい窓が取り付けられた。それでも、昔から使われてきた柱や基礎の一部は残り、その上に新しい政治が増改築されている。

 だから現在の地方政治で、国政とは違って政党名より候補者本人の評判が重視されたり、「誰と誰がつながっているのか」が意味を持ったり、地域と中央を結ぶ人間関係が注目されたりする場面があっても、それをただ「古い政治が残っている」と切り捨てるだけでは実態を捉えられない。その一部は55年体制期から受け継がれた歴史的遺産であり、別の一部は現在の地方自治と選挙制度が新たに生み続けている政治の性質だからである。

 55年体制そのものは、すでに過去の政治体制である。しかし、その時代に発達し定着した人的ネットワークの一部と、候補者個人を重視しやすい現在の地方政治制度とが重なり合うことで、当時とよく似た政治の風景が今も現れることがある。昔の組織がそのまま生き残ったというより、古い根から新しい枝が伸び続けていると考えたほうが、現在の地方政治をより正確に理解できるだろう。

九条レオンリベラル文庫の記事をさらに読む

九条レオンの文学・文芸に関する記事をまとめています。

リベラル文庫のページを見る