地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

首相だったのは、わずか65日だった

 日本の歴代首相を在任期間だけで並べれば、石橋湛山は決して大きな場所を占める人物ではない。第55代内閣総理大臣に就任したのは1956年12月23日、退任は1957年2月25日で、在職日数はわずか65日にすぎず、長期政権を築いたわけでも、首相として巨大な制度改革を完成させたわけでもないため、数字だけを見れば、日本政治史の中を一瞬で通り過ぎた首相のようにも見える。

 ところが、石橋湛山という名前は、その65日とともに消えなかった。死後には全集が刊行され、その名を冠した賞が創設され、現在も専門の研究学会で思想や経済論、外交論が研究され続けており、長く政権を担当した首相でさえ時代が過ぎれば専門家以外には語られなくなることがあるなかで、なぜ65日しか首相でなかった人物が半世紀以上たっても読み直され続けるのかという疑問が残る。

 その理由を探ろうとするなら、65日間の首相時代だけを見ていては足りない。石橋湛山の場合、首相になってから思想が生まれたのではなく、首相になるはるか以前から数十年にわたって考え、書き、社会に問い続けてきたものがあり、65日間の政権はその長い思想人生の途中に置かれた、ごく短い一章だったからである。

政治家になる前に、すでに長い「言論人の人生」があった

 石橋湛山は1884年に生まれ、1907年に早稲田大学文学部哲学科を卒業し、1911年に東洋経済新報社へ入って記者から主幹、さらに社長へと進んでいった。つまり、私たちが後世から見ると「元首相の石橋湛山」だが、本人の人生の順序から見れば、まず長い時間を言論人、経済ジャーナリストとして生き、その後に政治家になった人物なのである。

 この順序は重要である。多くの政治家の場合、その思想を知ろうとすれば国会答弁や政策、演説を調べることになるが、石橋にはそれより前の時代から膨大な文章が残されており、政治家として権力を持つ前に何を考えていたのかが読めるだけでなく、その考えが後になって政治家となったときにどう変化し、あるいは変化しなかったのかまで追うことができるため、それが石橋という人物を単なる「歴代首相の1人」ではなく、思想の歴史から読み返すことのできる存在にしている。

日本が大きくなろうとしていた時代に、「大きくならなくてよい」と考えた

 石橋湛山を語るとき、最も頻繁に登場する言葉が「小日本主義」である。ただ、この名前だけを聞けば、日本は国力を抑えて小さく生きるべきだという消極的な思想のようにも聞こえるが、実際の発想はもっと大胆であり、日本が領土や権益を拡大して国力を示そうとしていた時代に、領土を持つことそのものが国民を豊かにするのかと問い直し、軍事的膨張よりも貿易や経済交流によって繁栄する道を考えたのである。

 1921年、石橋は「一切を捨つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」といった論説を発表し、満州、山東、朝鮮、台湾などをめぐる日本の植民地政策を批判した。当時の日本社会では、海外に領土や権益を広げることが国力の増大と結び付けて考えられる傾向が強かっただけに、石橋の議論は時代の主流とは異なる方向を向いており、当時としては極めて急進的な植民地放棄論だったと評価されている。

 しかも興味深いのは、石橋が単に「戦争はいけない」「植民地を持つべきではない」と道徳的に訴えていただけではなく、経済的な利益と負担、貿易、外交、安全保障を結び付けながら、領土を所有することが本当に日本の利益になるのかを検討しようとしていたことであり、後世の研究でも、小日本主義は石橋の国際認識を考える中心的なテーマとして扱われてきた。

 もっとも、ここで石橋を「未来を予言した人物」にしてしまうのは慎重でなければならない。私たちは日本がその後、中国大陸で戦争を拡大し、1945年に敗戦し、海外領土を失った結末を知っているが、1921年の石橋は未来を見通していたわけではなく、その時点で得られる情報をもとに、「領土を増やせば本当に国民は豊かになるのか」「そのために払う軍事的、財政的、外交的な費用は見合うのか」と問いを立てていたのであり、後世から見て印象的なのは、答えを予言したこと以上に、多くの人が当然だと思っていた前提そのものを疑ったことなのである。

戦争が終わると、言論人は政治家になった

 敗戦後、石橋は本格的に政治の世界へ入り、第1次吉田茂内閣では大蔵大臣を務めたが、1947年に公職追放を受けて政界を離れ、1951年に追放が解除されると復帰した。その後、第1次から第3次までの鳩山一郎内閣で通商産業大臣を務め、言論の外側から政治を論じていた人物が、今度は自ら政策を決める側に回っていった。

 そして1956年12月、鳩山一郎の後継を選ぶ自由民主党総裁選挙で石橋は岸信介と争い、決選投票では石橋258票、岸251票となって、わずか7票差で勝利した。72歳になっていた石橋は、こうして自由民主党総裁となり、12月23日、第55代内閣総理大臣に就任したのである。

 長く言論の世界で国家の進路を論じ、一度は公職追放によって政治の舞台から離れた人物が、ついに自ら国家運営の責任を負うところまで来たのだから、普通の政治家の物語であれば、ここから石橋政権が何を実現したのかという話が始まるはずだったが、彼にはそのための時間がほとんど与えられなかった。

ようやく首相になったとき、残された時間はほとんどなかった

 石橋は1957年1月、政権の基本姿勢として「五つの誓い」を掲げ、福祉国家の建設や世界平和の確立などを訴えた。全国遊説のために準備した原稿には、自主独立の平和外交、国民生活の安定と向上、民主主義における個性の尊重などが記されており、そこからは、戦前から言論人として考えてきた問題意識と、首相として実行しようとした政治との間に一定のつながりを見ることができる。

 しかし首相就任からおよそ1か月後、石橋は病に倒れ、長期の療養が必要な状態となったため、2月22日に退陣の意思を示し、翌23日に石橋内閣は総辞職した。岸信介内閣が成立したのは2月25日であり、首相官邸の公式記録では、石橋の首相在任期間は1956年12月23日から1957年2月25日までの65日となっている。

 ここで1つ、首相と自民党総裁の在任期間を分けて考える必要がある。石橋内閣は2月23日に総辞職し、首相としての在職記録は2月25日までだが、自民党の公式記録では石橋の総裁在任期間は1957年3月21日までとなっているため、「2月に首相を辞めると同時に自民党総裁職も正式に終わった」と理解するのは正確ではなく、政治史では肩書がいつ始まり、いつ終わったのかという小さな違いが、人物像を必要以上に単純化しないためにも重要になる。

なぜ自ら身を引いたことまで記憶されたのか

 石橋の退陣は、その後しばしば政治家の「出処進退」を語る際の材料となった。長い政治生活の末にようやく首相となりながら、十分に職務を果たせない状態で地位だけを維持するのではなく政権を手放したという事実が、その人物像と結び付いて記憶されたからである。

 ただし、ここにも後世からの美化には注意が必要であり、病気になって辞任したという事実だけで、その政治家の人格全体を証明することはできず、石橋のすべての政策や判断が正しかったことになるわけでもない。それでも、最高権力を得た直後にそれを手放したという出来事が、戦前から権力や国家のあり方について文章を書き続けてきた彼の経歴と重なるため、単なる病気退陣以上の意味を持って語られてきたことは理解できる。

65日で終わったから、「その先」が永遠に残った

 短い政権には、長期政権とは違う歴史的な特徴がある。長く政権を担当すれば、政策は実行され、その結果によって評価されることになり、成功した政策もあれば失敗した政策もあるため、時間がたつにつれて「実際に何をした政権だったのか」が具体的に見えるようになる。

 ところが石橋政権は、構想を示したところで時間がほぼ尽きてしまったため、後世には「もし健康を害さず政権を続けていたら、日本政治はどうなっていただろう」という問いが残った。ただし、これは歴史上確認できる事実ではなく、あくまで反実仮想であり、石橋が長く首相を務めていれば、戦前の小日本主義がそのまま外交政策になったとも、中国との国交正常化が早まったとも断定できない。冷戦下の日米関係、党内政治、財政、国会情勢など、多くの制約が存在していたからである。

 それでも、政策が十分に実行されなかったからこそ、後世の評価が政策結果だけで固定されず、「石橋は何をしようとしていたのか」という思想の側へ向かいやすくなった可能性はあり、65日という短さそのものが石橋を有名にしたと統計的に証明することはできないとしても、政策実績より思想や言論活動が評価の中心となった一因として、短命政権だったことを考えるのは不自然ではない。

首相を辞めても、彼の政治は終わらなかった

 もし石橋湛山の人生が1957年の退陣で終わっていたなら、「短命に終わった惜しい首相」として記憶されるだけだったかもしれないが、健康を回復した石橋は、首相でなくなった後も外交に関わり続けた。

 1959年9月には中国を訪問し、周恩来首相らと会談した。9月20日に発表された共同声明では、領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存といった原則のもとで、日中関係を改善していく必要が確認されており、日本と中華人民共和国との国交正常化が実現したのは1972年9月29日であるため、石橋の訪中はそれより13年前の出来事だった。

 もちろん、1959年の訪中から1972年の国交正常化までを一直線の因果関係として描くことはできない。その間には国際政治も日本国内の政治も大きく動いており、正常化は多くの政治家、外交関係者、民間交流の積み重ねによって実現したからであるが、それでも、国交のなかった時代に元首相が北京へ赴き、関係改善の必要を公然と語った事実は、石橋の戦後外交観を考えるうえで重要な出来事である。

死後も消えなかった「問い」

 石橋湛山が本当に長く語り継がれているのかという点も、単なる印象だけで判断する必要はない。1970年には東洋経済新報社から『石橋湛山全集』の刊行が始まり、1980年には「石橋湛山賞」が創設され、さらに現在も石橋湛山研究学会が活動しており、政治思想、経済思想、外交、教育など、さまざまな角度から研究が続いている。

 これは、石橋という人物が単に昔の首相として記念されているだけではないことを示している。研究対象になるということは、その人物についてまだ論じるべき問題が残っているということでもあり、小日本主義は現実的な外交思想だったのか、経済合理性をどこまで備えていたのか、戦前と戦後でその思想はどのように変化したのかといった問いが現在まで残っていること自体が、石橋に対する評価が1つの結論に固定されていないことを物語っている。

石橋湛山は「正しかった人」だから残ったのではない

 石橋湛山が後世に語り継がれている理由を、「彼の主張がすべて正しかったから」と説明してしまえば話は簡単になるが、それでは歴史としては面白くないし、正確でもない。石橋の考え方にも時代的制約があり、小日本主義についても、その現実性や限界を問う研究が存在するうえ、政治家として実行できなかった政策も多く、首相としての成果を長期政権の首相と同じ尺度で比較することも難しい。

 むしろ石橋の特徴は、正しい答えをすべて持っていたことより、他の人が当然だと考えている前提を問い直したところにあったのではないか。領土が広ければ国は豊かになるのか、軍事力を拡大すれば安全になるのか、大国に依存するだけで自主外交といえるのか、政治は国家のためにあるのか、それとも国民生活のためにあるのか。石橋が残した文章を読んでいくと、政策の答え以上に、こうした問いが繰り返し現れてくる。

65日の首相ではなく、半世紀考え続けた人

 石橋湛山について調べ始めると、不思議なことが起きる。最初は「わずか65日の首相」について知ろうとしていたはずなのに、やがて1921年の植民地論へ戻り、戦後の大蔵大臣時代を通り、1956年の総裁選を経て、1959年の北京へたどり着くことになり、首相として過ごした時間は短いのに、その人物を理解しようとすると、日本の近現代史を数十年にわたって歩かなければならなくなるのである。

 もちろん、石橋湛山が現在まで研究されている理由を、1つの原因だけで科学的に証明することはできず、小日本主義という独自性の高い思想、長い言論活動、首相としての短い在任期間、病気による退陣、その後の日中・日ソ交流、そして全集や研究活動による思想の継承が重なり合った結果として考える方が現実に近いだろう。

 政治家の名前は、普通なら「何年政権を続けたか」「どれだけ多くの法律を成立させたか」「どれほど大きな権力を持ったか」といった結果によって歴史に刻まれるが、石橋湛山はその尺度では測りにくい場所にいる。首相として残された時間は65日しかなかったが、彼が国家の進路について考え、書き続けた時間は、それとは比較にならないほど長かった。

 だから、石橋湛山を記憶に残したものは、65日間の権力そのものではなかったのかもしれない。権力を持つはるか前から問い続け、権力を失った後にも問い続け、その問いが死後もなお研究されているという事実を考えれば、首相としての時間は短くても、思想には任期がないということこそが、石橋湛山という人物が今なお歴史の中から繰り返し呼び戻される、最も大きな理由なのである。

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 政治家は、世論に従うべきなのだろうか。それとも、ときには世論が追いつく前に進むべきなのだろうか。民主主義では、政治家は選挙によって国民から権力を預けられる以上、世論を無視することはできない。しかし外交や安全保障のように、国際情勢が短期間で大きく動く分野では、国民の意見が十分に固まるまで待っている間に、国家として選択できる道そのものが狭くなることもある。1972年、田中角栄内閣が実現した日中国交正常化は、この難問を考えるうえで、半世紀以上を経た現在でも極めて興味深い事例である。

 もっとも、この出来事を「田中角栄という強力な政治家が、国民や官僚がためらうなかで一人だけ未来を見抜き、中国との国交正常化を実現した」と描いてしまえば、物語としては分かりやすいものの、歴史の実像からは離れてしまう。1972年9月29日、日本政府と中華人民共和国政府が北京で共同声明に調印し、両国の外交関係が樹立されたことは疑いない。しかし、その道筋は田中一人によって突然生み出されたものではなく、それ以前から政治家、経済界、民間団体などによる交流が長く積み重ねられ、日本国内でも中国との関係を改める必要性が徐々に意識されるようになっていた。

 さらに、日本だけを見ていては、この出来事の意味を十分に理解できない。1971年には、中華人民共和国が国際連合における中国の代表権を得て、国際社会における中国の位置づけそのものが大きく変わった。翌1972年2月には、それまで中国と厳しく対立してきた米国のリチャード・ニクソン大統領が北京を訪れ、毛沢東主席や周恩来首相との会談を行っている。米国と中国の正式な国交正常化は1979年まで待たなければならないが、1972年の時点で東アジアの外交構造が動き始めていたことは明らかであり、日本が従来の中国政策を維持し続けることにも、次第に大きな政治的コストが生じるようになっていた。

 ところが、外交政策は国際環境が変化したからといって、自動的に同じ速度で変わるわけではない。昨日まで正当とされていた政策には、それを支えてきた外交関係、政党内の勢力、官僚組織の判断、経済的利害、さらには過去の説明との整合性が結びついているため、進路を変えるには相応の抵抗が生じる。政治の世界では、社会の現実が先に動き、制度や政策が少し遅れてそれを追いかけることが珍しくない。田中角栄の特徴は、日中国交正常化という考えを誰よりも早く発見したことではなく、すでに生じていた国際環境と国内政治の変化を短期間で外交上の決定へ変えたところにあったと考える方が実態に近い。

 田中は1972年7月に自由民主党総裁となり、その直後に首相へ就任すると、日中国交正常化に積極的な姿勢を明確にした。その時点から、わずか二か月余り後の9月25日には北京を訪れている。そして周恩来首相らとの交渉を経て、9月29日に日中共同声明が調印された。この速度は、日本外交の歴史を考えても極めて速い。しかも、ここで決めなければならなかったのは、単に新しい国との外交関係を一つ増やすという話ではなかった。日本政府は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し、その結果として、それまで外交関係を維持してきた台湾の中華民国政府との正式な外交関係を終了させることになった。

 そのため、田中の決断を「世論の支持を受けて進めた政策」とだけ評価することも正確ではない。1972年夏、田中内閣の発足直後に行われた世論調査では、新内閣にまず取り組んでもらいたい外交課題として「日中国交回復」を挙げた人が36%に達し、次に多かった米国との経済関係調整の14%を大きく上回っていた。この数字は、日中国交正常化が当時の国民にとって非常に重要な外交課題となっていたことを示している。

 ただし、この36%という数字を「国民の36%が国交正常化に賛成していた」と読み替えてはいけない。質問は、日中国交正常化の賛否そのものを聞いたものではなく、新内閣が優先して取り組むべき外交課題を尋ねたものであり、統計的には両者は異なる。ここを混同すると、世論を実際以上に単純化してしまう。正確に言えば、1972年夏の日本社会では、数ある外交課題の中で日中国交正常化を優先すべきだと考える人が相対的に多く、その問題への関心が極めて高まっていたのである。

 しかも、もう一つ重要な数字がある。国交正常化直前に行われた世論調査では、「中国との国交回復のためには台湾との関係が切れてもやむを得ない」と考えた人は11%程度にとどまっていたとされる。つまり、多くの国民は中国との関係改善を望む一方で、そのために台湾との正式な外交関係を断つことについては、必ずしも十分に納得していなかった可能性が高い。ここに、1972年の世論を理解するうえで極めて重要な二重性がある。

 国民は、中国との関係を正常化したいと考えていた。しかし、台湾との関係まで失いたいとは考えていなかった。ところが現実の外交では、この二つを完全に両立させることは困難だった。中国側が自国を中国唯一の合法政府とする立場を譲らない以上、日本政府はどこかで選択を迫られる。その意味では、田中角栄は世論に逆らって国交正常化を行ったわけではないが、世論が完全に受け入れていた政策をそのまま実行しただけでもない。

 ここに、田中政治のもっとも興味深い部分がある。国交正常化そのものについては社会全体の重心がすでに動いていた一方で、その実現に伴う代償まで国民が十分に受け入れていたわけではなかった。田中内閣は、その矛盾を抱えたまま決断したのである。言い換えれば、田中は世論から百歩先を走った政治家ではなかったが、国民が望んでいる方向を読みながら、その実現に必要な最後の一歩については政治家自身の判断で踏み出したと考えることができる。

 この違いは小さくない。政治家が世論の向かう方向を読むことと、国民が望んでいない方向へ独断で進むことは同じではないからである。世論とは、いつも一つの結論に整然とまとまっているものではない。「中国との関係は改善したい。しかし台湾との関係も維持したい」「米国との同盟は重視したい。しかし米国自身が中国へ接近している」というように、現実の国民意識には複数の希望が同時に存在し、ときには互いに矛盾する。政治家が向き合うのは、その矛盾をすべて満足させる政策ではなく、どの利益を優先し、どの損失を受け入れるかという選択である。

 その意味で、田中角栄の日中国交正常化を「決断力」という一言だけで説明するのも十分ではない。大胆な行動なら誰にでもできるが、政治に求められる決断は、単なる勇気とは違う。国際情勢、国内世論、与党内の力学、野党の動向、官僚組織の判断、中国側の交渉姿勢、米国との関係という複数の条件を読み、どの時点ならば政策変更が可能になるのかを判断しなければならない。1972年には、これらの条件の多くが同時に動いていた。

 実際、中国側も田中内閣成立後の日本政府の姿勢を歓迎し、早い段階から国交正常化への意欲を示していた。日本国内でも、社会党、公明党、民社党を含む野党側に正常化を求める動きがあり、経済界や民間交流の蓄積も存在していた。一方では、政府や自由民主党内部に台湾との関係維持を重視する勢力も存在しており、日本の政治が一枚岩だったわけではない。こうして見ると、田中角栄を日中国交正常化の唯一の「原因」と考えるよりも、長期的に蓄積していた変化を短期間で現実の外交政策へ転換した強力な加速要因と考える方が、因果関係としても妥当である。

 科学的な因果推論の考え方を歴史に当てはめるなら、「田中内閣が成立した後に国交正常化が実現した」という時間的順序だけから、「田中角栄がすべてを実現した」と結論づけることはできない。そこには国際連合における中国の位置づけの変化、米中接近、中国政府の外交姿勢、日本国内の世論変化、与野党の動向、経済界や民間交流といった複数の要因が存在している。むしろ、これらの構造的条件が長期間にわたって正常化の可能性を高め、その最後の段階で田中内閣の政治判断が実現時期を大幅に早めたと考える方が自然だろう。

 だからこそ、「政治家は世論より先に動くべきなのか」という問いには、単純な肯定も否定もできない。世論を無視し、自分だけが未来を理解していると政治家が考え始めれば、それは指導力ではなく独善へ転じる危険がある。しかし反対に、世論調査で十分な多数が形成されるまであらゆる判断を先送りするならば、外交のように機会を逃せば条件そのものが変わってしまう分野では、国家として最適な選択ができなくなる可能性もある。

 世論調査は、社会の現在位置を測るには有効である。しかし政治が決めなければならないのは、現在位置だけではない。政策には将来の結果が伴い、とりわけ外交政策では数年後、場合によっては数十年後まで影響が続く。その意味では、政治家に必要なのは単なる世論への追随ではなく、国民の意識がどちらへ動いているのか、その方向と速度を読むことである。

 1972年の田中角栄を見ると、この「方向」と「速度」という考え方がよく分かる。日中国交正常化を望む流れはすでに存在していた。しかし、正常化に伴う台湾との断交という現実までは、国民の多くが十分に受け入れていなかった。田中は世論から完全に独立して動いたのではなく、世論が作り出した大きな方向性の中で、まだ決着していなかった選択を政治判断として引き受けたのである。

 もちろん、1972年の国交正常化によって、その後の日中関係が安定したわけではない。歴史認識、領土、安全保障、台湾問題など、両国関係を揺さぶる問題はその後も繰り返し現れている。しかし、後に問題が発生したという理由だけで、1972年の外交判断そのものを失敗だったと結論づけることもできない。外交関係とは、問題を消滅させるためだけに存在するものではなく、問題が存在するときに交渉できる制度的な回路を作ることにも意味があるからである。

 田中角栄の日中国交正常化を振り返ると、政治家が世論より先に進むという表現そのものを、少し修正する必要があるのかもしれない。優れた政治家とは、国民の百メートル前を独りで走っていく人物ではない。国民と同じ社会に立ち、その不安や期待を共有しながら、社会全体がどちらへ動きつつあるのかを読み、すべての希望を同時には実現できない分岐点に立ったとき、その選択の意味を説明し、自ら決断を引き受ける人物なのである。

 1972年の田中角栄は、誰にも見えていない道を一人で発見したわけではなかった。多くの国民が中国との関係を改める必要性を感じ、国際社会もすでに動き始めていた。その流れの中で田中が行ったことは、「いつか変えなければならない」と考えられていた外交方針を、「いま変える」という具体的な政治判断へ変換することだった。

 そこにこそ、日中国交正常化から半世紀以上を経ても考える価値が残っている。政治家は世論より先に動くべきなのかという問いに対する答えは、おそらく「常に先に動くべきだ」でも「常に世論に従うべきだ」でもない。世論の方向を見極めながら、国民がまだ十分には受け入れていない現実についても、その必要性を説明し、判断の結果に責任を負う覚悟があるときに限って、政治家は最後の一歩を先に踏み出すことが許される。

 政治家に必要なのは、世論を追い越す速さではない。社会がどちらへ進もうとしているのかを見抜き、その先にある選択肢と代償を国民に示す能力である。1972年の日中国交正常化は、その難しさを今なお鮮やかに映し出している。

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 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民にとって唐突なものに映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と指摘された福田は、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたと違うんです」と応じた。この発言は、その後「あなたとは違うんです」という形でも広く知られ、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、説明しきれないことが残る。総理大臣としては政局を突破できず、短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは異なる立場から、対話の経路を維持する役割を長く果たしてきたからである。政治の最高責任者として決定権を持っていた時期には行き詰まり、その地位を離れた後には別の形で存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

 もっとも、短命政権だったことと、退任後に外交活動を続けたことを、最初から一つの政治哲学によって結びつけるのは慎重でなければならない。政治家の行動には本人の思想や資質だけでなく、議会制度、政党間の力関係、国際情勢、相手国の事情などが複雑に作用する。福田の政治人生を理解するには、本人の姿勢と、その姿勢が置かれた環境の双方を見る必要がある。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣に就任したのは2007年9月26日だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。福田は、前任の安倍晋三から、この難しい議会構成をそのまま引き継いだのである。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律を成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。これは日本国憲法第59条第2項に定められた仕組みであり、実際にガソリン税の暫定税率をめぐる法律などで使われている。しかし、法律を成立させられることと、安定した政治運営ができることは同じではない。参議院で審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すような国会運営が続けば、時間もかかり、与野党の対立も深まり、政治への不信が強まる可能性があった。

 さらに、衆議院の再可決制度は、すべての政治案件に適用できるわけではない。例えば日本銀行総裁などの国会同意人事では、衆参両院の同意が必要になる。2008年には日本銀行総裁人事が難航し、政府が提示した候補者への参議院の不同意などを経て、4月9日に白川方明が総裁に任命された。これは、衆議院で大きな多数を持つ政権であっても、参議院の同意が必要な案件では与野党間の調整を避けられないことを示した出来事だった。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。2008年4月に始まった後期高齢者医療制度への批判も強まり、同年6月11日には参議院で福田首相に対する問責決議が可決される。問責決議には、衆議院の内閣不信任決議と異なり、内閣総辞職や衆議院解散を直接義務づける憲法上の効果はない。それでも、参議院が首相の政治責任を正式に問うたという意味では、政権の求心力に影響する出来事だった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かったのか

 福田康夫は、強い言葉で大衆を熱狂させ、反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。もっとも、こうした評価は本人の行動や政治家としての経歴から読み取られる傾向であり、性格そのものが客観的に測定された結果ではない。

 その政治姿勢を考えるうえで重要なのが、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想である。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとした。構想は民主党内の反発などによって実現しなかったが、政権交代を争う相手との協力まで模索した点に、福田の調整型政治の一面を見ることができる。

 ただし、大連立構想を福田の対話志向だけで説明することもできない。与党にとっては参議院での審議を円滑にし、政権の安定を確保する利益があり、小沢側にも政策実現や政局運営に関する独自の判断があった。民主党内で構想が受け入れられなかったことも、単なる感情的反発ではなく、政権交代を目指す野党が与党と連立することの政治的な矛盾や、有権者に対する説明責任の問題を含んでいた。

 当時の民主党にとって、次の衆議院選挙で政権交代を実現することは現実的な政治目標になっていた。福田政権に協力して政策実績を積ませることは、野党としての選挙戦略と必ずしも一致しない。一方、後期高齢者医療制度、年金、ガソリン税などをめぐる対立には、実質的な政策上の相違も存在した。したがって、民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明するのも、福田の調整努力だけが正しかったと評価するのも適切ではない。

 ここには、調整型の政治家にとって難しい構造があった。互いに譲歩することで得られる利益があっても、相手に譲歩したことが選挙上の不利益になると判断されれば、合意は成立しにくい。政治学でいう戦略的な相互依存の問題であり、個人の交渉能力だけでは解決できない。福田の政治がねじれ国会と相性が悪かったというより、合意を形成する利益と対立を続ける利益が衝突する状況に置かれていたのである。

福田政権は、本当に何もしなかったのか

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い政権として扱われがちである。しかし、実際の政策を確認すると、何もしなかった政権という評価は成り立たない。道路特定財源の一般財源化、消費者行政の一元化、社会保障制度の見直し、地球温暖化対策など、後の政策や制度につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを政権が進めてきた課題として挙げていた。

 特に注目すべきなのが、消費者庁の創設に向けた取り組みである。それまでの日本の行政は、産業ごとの所管官庁を中心に制度が組み立てられており、消費者保護に関する問題も複数の省庁に分かれていた。事故や被害が発生しても、どの省庁が責任を持つのか明確でない問題が生じることがあり、消費者の立場から行政全体を見直す必要が指摘されていた。

 福田は2008年、この消費者行政を一元化する新組織の創設を重要政策に据えた。官邸に設けた検討会議にも自ら出席し、意見が分かれる論点について方針を示していたことが、後に消費者庁の設立関係者によって説明されている。したがって、消費者庁構想を単に前政権から引き継いだ事務的な仕事とみなすことはできない。福田自身が政策の方向づけに相当程度関与したと評価する根拠がある。

 もっとも、消費者庁が実際に発足したのは福田退任後の2009年9月1日であり、関連法の成立も麻生太郎内閣の時期だった。福田政権が政策の基本方向を示し、次の政権が法制度を完成させたという経緯を踏まえる必要がある。政治的実績を評価する場合、構想の提示、政府方針の決定、法律の成立、制度の運用開始を分けなければ、どの政権が何を実現したのかが不明確になる。

 道路特定財源の一般財源化についても同様である。2008年5月に福田内閣で基本方針が閣議決定され、2009年度から一般財源化が実施された。この政策には、それ以前から積み重ねられた議論があり、福田だけの独創ではなかったが、政府として制度改革の方向を決定したことには意味がある。

 さらに、2008年6月9日には、地球温暖化対策として「福田ビジョン」を発表した。これは低炭素社会への転換を目指し、2050年までに日本の温室効果ガス排出量を当時の水準から60~80%削減する長期目標などを掲げた構想だった。同年7月には北海道洞爺湖サミットの議長を務め、地球温暖化対策を国際的な議論の重要課題として取り上げている。これらは福田政権が独自の政策構想を持っていたことを示しているが、当時の目標設定と、その後の削減実績や政策効果を同一視することはできない。

政策はあったが、国民の記憶に残る物語にはなりにくかった

 小泉純一郎には「郵政民営化」という分かりやすい政治的な象徴があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」と呼ばれる経済政策が生まれた。一方、福田にも「福田ビジョン」という名称を持つ政策構想が存在したものの、それが政権全体を象徴する物語として国民の間に長く定着したとは言いにくい。

 その理由を、福田個人の発信力だけに求めることはできない。小泉政権と福田政権では在任期間も議会構成も異なり、政策を訴えるために利用できる政治的条件にも差があった。小泉政権は郵政民営化を争点に衆議院を解散し、選挙で大きな勝利を得たが、福田は就任時から参議院で野党が多数を占める状況にあり、前政権から引き継いだ問題への対応にも追われていた。

 それでも、福田政権には政策の意義を国民に十分伝えられなかった面があったと考えられる。消費者庁の創設や道路特定財源の一般財源化は、行政制度の仕組みを変える重要な政策である。しかし、制度改革の効果が生活のなかで実感されるまでには時間がかかる。首相の名前と結びついた明快な政治目標が求められる状況では、制度の基礎を整える仕事が、必ずしも支持率や政権の求心力につながるとは限らない。

 福田が成果を自分の名前と結びつける政治的演出に積極的ではなかったように見えるのも事実だろう。ただし、それが意図的な政治哲学だったのか、発信の方法が十分でなかったのか、あるいは置かれた政治状況によってそうならざるを得なかったのかは、簡単には区別できない。政治的な物語を作らなかったことと、作れなかったことは、同じではないのである。

内閣支持率は、どこまで低下していたのか

 福田政権の行き詰まりを考えるうえでは、実際の世論調査の推移も確認する必要がある。時事通信が実施し、中央調査社が公表した訪問面接方式の世論調査によると、2007年10月の福田内閣支持率は44.1%だったが、2008年3月には30.9%、5月には19.9%、6月には19.1%まで低下していた。就任直後の2007年10月から2008年6月までの下落幅は25.0ポイントに達しており、政権の支持基盤が短期間で大きく弱まったことが分かる。

 ただし、支持率が一直線に下がり続けたわけではない。2008年7月には21.1%、8月には23.6%となり、低い水準ながらも若干の回復が見られた。8月1日の内閣改造後に行われた調査で支持率が上昇したことから、改造にまったく効果がなかったと断定することはできない。しかし、同じ8月の調査では不支持率が54.6%に達しており、政権への否定的評価が支持を大幅に上回る状態は続いていた。

 もっとも、これらの数値は標本調査による推定値であり、調査には標本誤差や回答者の偏りなどが伴う。数ポイント程度の変化をそのまま内閣改造の効果と断定することはできず、支持率の低下が辞任の直接的な原因だったことまで、数値だけから証明することもできない。それでも、発足時に比べて政権への支持が大幅に縮小し、その後の回復も限定的だったという大きな傾向は明確である。

 重要なのは、この支持率の低迷が福田個人への評価だけで生まれたとは限らないことである。年金記録問題や後期高齢者医療制度への不満、生活必需品の価格上昇、与野党対立への批判などが重なり、政権全体への評価に影響したと考えられる。首相への支持率は政治的な結果を示す指標ではあるが、個々の政策がどの程度支持率を動かしたのかを明らかにするには、より詳細な調査と分析が必要になる。

では、なぜ福田は辞めたのか

 2008年9月の辞任を、一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会による立法過程の停滞、内閣支持率の低迷、参議院での問責決議、民主党との対立、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情などが、複雑に重なっていた。8月には内閣改造を行い、景気対策を進めるための体制を整えたものの、政権運営の基本的な困難が解消されたわけではなかった。

 そのなかで、福田自身が辞任会見で示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者庁設置に向けた法案など、重要案件が控えていた。自分がそのまま首相を続けて与野党対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相の下で政権の体制を立て直した方が、政策を進めやすいと考えたのである。本人は、国会の実質審議が始まる前に交代することで、政治的な空白の影響も抑えられると説明していた。

 ここで注目すべきなのは、福田が自らの内閣支持率も政権運営を困難にする要因になり得ると認めていたことである。つまり、首相自身が政策を実現するための中心的な存在である一方、その首相への支持が弱まれば、首相自身が政策実現を難しくする要因にもなり得ると考えていたことになる。政策を進める主体を交代させることによって、政治の停滞を緩和しようとした判断だったと解釈できる。

 しかし、この説明を辞任の真相そのものとみなすことはできない。辞任会見は本人の認識を知るための重要な資料である一方、政治家が自らの判断を国民に説明する場でもある。党内の支持状況や選挙への懸念、後継体制に対する見通しなど、会見で十分語られなかった要因が存在した可能性も考慮しなければならない。

 また、福田が辞任せずに政権を続けた場合、実際に国会運営がさらに悪化したのかどうかは分からない。反対に、新しい首相に交代すれば必ず政策が進むという保証もなかった。これは歴史上の反実仮想であり、実際には観測できなかった選択肢の結果を直接比較することはできない。辞任という判断が、その時点の福田にとって合理的に見えたことと、客観的に最善の選択だったことは区別する必要がある。

 そして、「あなたと違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の意味を持つ。記者に対する応答としては感情的であり、首相の発言として適切だったかどうかには議論の余地がある。しかし、その発言の中心には、自分自身を政治状況の外側から眺め、政権運営を左右する一つの要因として捉えようとする姿勢があったとも読める。権力の中心にいる人物が、自らの存在を政策実現の手段として相対化しようとしたことは、少なくとも注目に値する。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所へ向かった

 福田は首相を退任した後も衆議院議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、公的な役職を離れたことは、政治的・国際的な活動をすべて終えることを意味しなかった。むしろ、元首相としての立場を利用し、アジア諸国との対話や交流に関わり続けることになる。

 その代表的な活動が、ボアオ・アジア・フォーラムである。中国の海南省を主な開催地とするこの国際会議には、各国の政治指導者、経済人、研究者などが参加し、アジアの経済発展や地域協力について議論を行ってきた。福田は2010年から2018年まで理事長を務め、その後も関係者との交流を続けた。この立場は、中国だけでなくアジア各国の政治・経済関係者と継続的に接する機会を福田にもたらした。

 また、福田は日本インドネシア協会の会長として、東南アジアとの交流にも関わってきた。日本とインドネシアの関係は、政府間の外交だけでなく、企業活動、研究、教育、人材交流など多くの領域によって支えられている。こうした団体の活動は、政府間交渉とは異なる形で人的関係を維持し、両国社会の相互理解を促す役割を持っている。

 ここで重要なのは、退任後の福田が外交活動を続けられた理由を、本人の性格だけに求めないことである。対話を重視する姿勢がこうした活動に適していた可能性はある。しかし、それ以上に「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきた人的関係、国際会議での役職、そして現職の政府首脳ではないという立場が、大きな意味を持っていた。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会う場合、その発言には日本政府の外交方針との整合性や公的な説明責任が求められる。一方、元首相は政府を代表する正式な交渉権限を持たないため、国家として何かを約束したり、条約や合意を締結したりする立場にはない。その代わり、政府の公式交渉とは異なる形式で意見を交換し、互いの考えを探り、関係が悪化した時でも接触の機会を残せる場合がある。

 もっとも、元首相の外交が現職政府と完全に独立しているとは限らない。政府側の意向を把握したうえで相手と会うこともあれば、元首相の接触を通じて得られた情報が政府間の協議に役立つこともある。正式な決定権限を持たないことと、政府外交に影響を与えないことは同じではないのである。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた非公式の通路

 福田の退任後外交が大きく注目されたのは、2014年の日中関係だった。2012年の日本政府による尖閣諸島の国有化以降、日中間の政治的な緊張は高まり、2013年末の安倍晋三首相による靖国神社参拝も関係悪化の要因となっていた。両国の政府間対話は難しい状況にあり、安倍首相と習近平国家主席による正式な首脳会談も実現していなかった。

 そのようななか、2014年7月下旬、福田は北京で習近平国家主席と秘密裏に会談した。元首相が中国の最高指導者と直接接触したことは、日中関係の改善を探る動きとして注目された。さらに同年10月29日には、ボアオ・アジア・フォーラム理事長として北京を訪問し、同フォーラムの理事らとともに習近平と会見している。したがって、2014年の福田と習近平の接触は、7月の非公開会談と10月の国際会議関係者としての会見を区別して理解する必要がある。

 その後、11月7日には日中両政府が、関係改善に向けた四項目について認識が一致したと発表した。そこでは、日中関係の基本文書を尊重すること、歴史問題に関わる政治的困難を克服すること、尖閣諸島など東シナ海で緊張が生じていることについて双方が異なる見解を持つと認識し、対話と危機管理を進めること、政治・外交・安全保障分野の対話を徐々に再開することなどが示された。

 そして11月10日、北京で安倍晋三首相と習近平国家主席の首脳会談が実現した。約2年半ぶりとなる日中首脳会談は、両国関係が完全に修復されたことを意味するものではなかったが、首脳間の対話を再開する重要な一歩となった。

 ただし、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめとする政府関係者、外務当局、政党関係者など複数の経路が動いており、日本と中国の双方にも関係悪化を長期化させたくないという外交的・経済的な事情があった。福田の接触は、その複数の対話経路の一つとして位置づけるべきであり、日中双方の政府間調整を代替したわけではない。

 さらに、福田と習近平が会談したこと、その後に両国首脳が会談したことという時間的な順序だけでは、福田の接触が首脳会談を実現させた決定的原因だったとは証明できない。外交上の合意は複数の関係者による交渉の結果として成立することが多く、それぞれの経路がどの程度寄与したのかを数量的に測定することは容易ではない。それでも、政府間の公式交渉が難しい時期に、元首相という立場を持つ人物が相手国の最高指導者と接触できたことには、一定の外交的意義があったと考えられる。

 ここに、退任後の政治家による外交活動の特徴がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な交渉が始まる前の意思疎通を支えることはできる。相手の考えを聞き、自国側の関心を伝え、対立が深まっている時にも対話を続けられる余地を残す。野球にたとえるなら、外へ飛んでいった球を拾い、再び試合ができる場所へ戻すような仕事ともいえるだろう。主役として決定を下すのではなく、次の対話が成立するための条件を整えるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではなかった。2007年12月28日、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語った。この言葉は、日中平和友好条約締結時の理念を踏まえ、両国関係を長期的な視点から発展させる必要性を訴えたものだった。

 翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する共同声明を発表した。そこでは、互いを協力のパートナーとして位置づけ、平和的な関係を発展させることなどが確認されている。福田の外交方針は、単に中国との友好を強調するものではなく、経済、安全保障、地域協力などを含め、両国の共通利益を拡大しようとする考え方に基づいていた。

 この姿勢には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について言及しており、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできる。

 ただし、父親がそのような外交観を持っていたからといって、息子も同じ考えをそのまま継承したと結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人の職業経験、官房長官時代の政策調整、首相としての外交経験、国際情勢の変化などによっても形づくられる。福田康夫の外交姿勢を理解するには、家族の歴史を一つの背景として捉えながら、本人自身の行動と発言によって評価する必要がある。

 また、中国との対話を重視することと、中国政府の政策を全面的に支持することも同じではない。外交では相手国との関係維持が重要である一方、領土、安全保障、経済的依存、人権などをめぐる相違をどのように扱うかも問われる。対話が続いているという事実だけで外交政策の正しさを評価することはできず、対話によってどのような利益が得られ、どのような課題が残ったのかを見る必要がある。

2020年代も続いた外交活動

 福田の退任後外交は、2014年の日中関係改善に向けた動きだけで終わったわけではない。2024年3月29日には北京で、中国の王毅外相と会談している。さらに2025年3月23日には、日本を訪問していた王毅外相と東京で再び会談した。中国外交部の公表内容によれば、こうした会談では日中関係の安定的な発展や、民間、文化、学術分野での交流などについて意見が交わされている。

 もっとも、相手国政府が発表する会談内容を、そのまま双方の認識が完全に一致した記録とみなすべきではない。外交当局による発表には、自国の政策方針や相手に伝えたい政治的なメッセージが反映される場合がある。福田が王毅と会談した事実は確認できるが、その会談が具体的にどのような政策変更や関係改善をもたらしたのかについては、別の検証が必要になる。

 一方、東南アジアとの交流についても活動は続いている。日本インドネシア協会の2026年1月号の会報には、福田康夫が会長として新年の挨拶を寄せており、首相退任から17年以上が経過した時点でも、交流団体を通じた活動を続けていることが分かる。こうした活動は日中外交ほど大きく報道される機会が多いわけではないが、民間、学術、経済などの交流を支える役割という意味では、異なる重要性を持っている。

 ただし、活動を長く続けたことと、外交上の成果が大きかったことは区別しなければならない。会談回数や役職の在任期間は活動量を示す指標にはなるが、それだけでは成果を測定できない。長老外交の実績を厳密に評価するなら、会談後に何が変わったのか、政府間対話にどのような影響があったのか、他の外交経路では実現できなかった役割があったのかを検討する必要がある。

総理時代には弱点だったものが、外交では別の価値を持ったのか

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と退任後の外交活動には、一定の連続性が見えてくる。首相時代には、合意を重視する姿勢が政局の打開に十分結びつかず、退任後には、相手との接触を維持し、対話を継続する能力が役立つ場面があったように見える。しかし、この二つを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という単純な物語にまとめるのは適切ではない。

 そもそも、総理大臣と元総理大臣では求められる役割が根本的に異なる。現職首相には、政策の優先順位を決定し、議会で多数派を形成し、行政組織を動かし、結果について国民に説明する責任がある。対話と調整は重要だが、それだけで政治的な成果が生まれるわけではない。対立が解消できなければ、時には決断し、責任を引き受けなければならない。

 一方、元首相による非公式の外交活動には、現職首相と同じ決定責任がない。正式な政策決定を行うことはできないが、結論を急がず、相手の意見を聞き、立場の違いを残したまま次の接触の機会をつくることができる。こうした役割では、強い政治的主張を前面に出す能力よりも、長期間にわたる人的信頼関係や対話の継続性が重要になる場合がある。

 ただし、福田の調整型の政治姿勢そのものが、外交上の成果を生んだとまでは断定できない。福田が中国の指導者と接触できた背景には、元首相という地位、ボアオ・アジア・フォーラムでの役職、長年にわたる交流実績、中国側が福田との接触に価値を認めていた事情などが重なっていた。仮に同じような政治姿勢を持つ人物であっても、元首相という経歴や人的関係がなければ、同様の活動ができたとは限らない。

 さらに、元首相の外交活動を評価するには、他の首相経験者との比較も必要になる。福田だけが退任後に外交活動を続けたわけではなく、首相経験者が国際会議や民間交流に関わる例はほかにも存在する。福田の活動の特徴が、会談の継続期間にあるのか、接触した相手の地位にあるのか、それとも政府間関係への実際の貢献にあるのかを明らかにしなければ、その独自性を厳密に評価することはできない。

 それでも、政治家としての評価が、その人物の資質だけでは決まらないことは重要である。同じような行動様式であっても、置かれた制度や求められる役割が変われば、その有効性は変わる。福田の場合、首相として多数派を形成し、政策を決定する立場では十分な成果に結びつかなかった政治姿勢が、決定権を持たずに対話を支える立場では、一定の意味を持った可能性がある。

長老外交を過大評価してはならない理由

 福田の外交活動には一定の意義が認められる一方、その役割を美化しすぎることにも注意が必要である。国家間の対立は、単に指導者同士が話し合えば解決するような問題ではない。領土、安全保障、歴史認識、経済的利益などには、各国の制度や国内世論、外交戦略が関わっており、個人的な信頼関係だけで克服できるものではない。

 また、長老外交には、正式な交渉権限を持たないことによる利点と限界が同時に存在する。現職政府では難しい対話を進められる場合がある一方、会談の内容や目的が十分に公開されなければ、民主的な説明責任が不明確になる可能性もある。元首相がどの程度政府の意向を伝えているのか、どこまで個人的な見解を述べているのか、その境界が外部から見えにくいこともある。

 中国側が福田との接触を重視した理由についても、複数の解釈があり得る。福田の対話姿勢への信頼があった可能性もあれば、日本政府との意思疎通を確保するために、元首相という立場を利用する外交上の利益があった可能性もある。相手国が会談に応じたことを、福田個人への評価だけで説明することはできない。

 したがって、長老外交の成果を判断する際には、会談が成立したという事実、関係改善に向けた意思疎通が行われたという評価、具体的な外交成果が実現したという評価を分ける必要がある。福田の活動は、少なくとも対話の経路を維持するうえで一定の役割を果たしたと考えられるが、それによって国家間の問題が解決されたとまでは言えない。

「あなたと違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は、2007年9月26日から2008年9月24日までの365日だった。それだけを見れば、日本政治に存在する数多くの短命政権の一つにすぎない。しかし、その後に中国や東南アジアとの交流に関わった期間は、首相在任期間をはるかに上回っている。政治家の活動を総理大臣としての在任期間だけで評価すると、その後に果たした役割を見落としてしまうことになる。

 福田の首相辞任を責任ある判断だったと評価する人もいれば、困難な政治状況に正面から向き合う責任を放棄したと考える人もいるだろう。どちらの評価にも検討すべき根拠がある。自らが政権運営の障害になっていると判断して退くことは、一つの合理的な選択になり得る。しかし、選挙によって成立した議会多数派を基盤とする政権の首相には、困難な状況でも政策実現に努力し続ける責任があり、辞任そのものが政治的不安定を生む場合もある。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして広く受け止められた。しかし、その後の外交活動まで含めて見ると、別の読み方もできる。政治家としての役割は、権力の中心にいることだけではなく、権力を離れた後にも残る可能性があるということである。

 もっとも、福田が辞任した理由と、その後に外交活動を続けた理由が、本人のなかで一つの明確な思想によってつながっていたと断定することはできない。辞任は当時の政局への対応であり、退任後の外交は、その後の国際環境や本人の経歴、人脈によって可能になった活動でもある。後から振り返ると一貫した人生の物語に見える出来事であっても、当時の本人が最初からそのような道筋を想定していたとは限らない。

 それでも、福田康夫という政治家の歩みには、政治を動かす方法が一つではないことを考えさせる部分がある。総理大臣には自ら決定し、その結果に責任を負うことが求められる。一方、正式な決定権限を持たない立場だからこそ、対話の条件を整え、相手との関係を維持し、次の交渉につなぐ役割を果たせる場合もある。政治には、決断する仕事と、決断が可能になる条件を整える仕事の双方が存在するのである。

 福田康夫は、総理大臣として強い政治的な物語を残した人物ではなかった。しかし、消費者庁構想や低炭素社会への政策転換など、後の制度につながる取り組みを進めたことも事実である。そして、退任後には長年の経験と人的関係を利用し、日中関係が難しい時期にも対話の経路を維持する活動を続けた。

 そこから読み取れるのは、首相としての評価と、政治家としての生涯の評価が必ずしも一致しないということである。福田の総理辞任を正しかったと結論づける必要はないし、長老外交を過度に称賛する必要もない。だが、政権を率いる能力と、国家間の関係を支える能力が同一ではないことを示す事例として、福田の政治人生には考察する価値がある。

 政治の歴史は、強い指導力で時代を動かした人物だけによって形づくられるわけではない。制度の基礎を整える人もいれば、対立する相手との関係を維持する人もいる。福田康夫は、総理大臣としては政治的制約を乗り越えられなかったが、退任後には異なる立場から国際的な対話に関わり続けた。その歩みが問いかけているのは、政治家の価値を、権力を保持した長さや、目に見える勝敗だけで測ることができるのかという問題である。

 総理大臣であることと、政治に役立つことは、必ずしも同じではない。福田康夫の政治人生は、その単純ではない関係を、短い首相在任期間と、その後の長い外交活動の双方を通じて示しているように見える。

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