選挙でトップが代わっても、役所の風景はほとんど変わらない
市長選挙や町長選挙で長く続いた現職が敗れ、新しい首長が誕生すると、住民の側には「これで役所も大きく変わるのではないか」という期待が生まれやすい。選挙戦では行政改革や組織改革、しがらみのない人事といった言葉が語られることもあり、しかも市長や町長は行政組織の最高責任者なのだから、選挙結果によって役所の内部まで一気に変わるように感じられても不思議ではない。
ところが選挙が終わり、新しい市長や町長が初登庁しても、庁舎の中の風景は驚くほど変わらないことが多い。昨日まで税務を担当していた職員は今日も税務の仕事を続け、福祉を担当していた職員は同じ住民から相談を受け、道路、水道、防災、戸籍などを担当する職員も、それまで蓄積してきた知識を使って日常業務を続けているため、部長や課長の一部に異動があったとしても、選挙結果を境に役所の職員が一斉に入れ替わるわけではない。
だからといって、「役所が選挙結果に抵抗している」と直ちに考えるのは早い。日本の地方自治制度では、選挙によって交代する市長や町長に強い行政権限を持たせる一方、一般職員については能力に基づく任用や一定の身分保障を設け、さらに議会や行政委員会を組み合わせることによって、住民が選挙で示した政治的意思を行政へ反映させながら、税務や福祉、防災のような日常行政まで選挙のたびに不安定にならないような構造が作られている。
市長や町長の人事権はかなり強い
まず確認しておかなければならないのは、「首長が代わっても職員が残るのだから、市長や町長にはそれほど人事権がない」という理解は正しくないということである。地方自治法では、普通地方公共団体の長が自治体を統轄し、その事務を管理、執行することが定められており、一般行政部門の職員についても長が任免することが基本となっているため、市長や町長は自治体行政の方向を決めるだけでなく、その方向を実行する組織の人事についても強い権限を持っている。
したがって、新しく就任した首長が政策の重点に合わせて幹部人事を見直したり、重要な部署に経験のある職員を配置したりすることは十分に可能であり、例えば子育て政策を重視するなら福祉や子育て部門に経験者を配置し、財政再建を重視するなら財政や企画部門の体制を強化するというように、人事と政策を結び付けて行政を動かす余地は大きい。
ただし、ここでいう「強い人事権」は、「首長が好き嫌いだけで職員を自由に昇進、降格、解雇できる」という意味ではない。地方公務員法では職員の任用を受験成績、人事評価その他の能力の実証に基づいて行うことが求められており、人事評価も任用、給与、分限その他の人事管理の基礎として利用される仕組みになっているため、首長に最終的な権限があることと、その権限を恣意的に使えることは別の問題なのである。
「任命権者であること」と「全部の人事を首長本人が決めること」は違う
もう1つ重要なのは、市長や町長が法律上の任命権者であるからといって、数百人、あるいは大規模自治体なら数千人の職員について、誰をどの係に置くのかまで首長本人が1人で決めているわけではないということである。地方公務員法では、任命権者が人事に関する権限の一部を上級の地方公務員へ委任できる仕組みも設けられており、実際の自治体では人事担当部門や幹部職員が、職員の経歴、在職年数、過去の異動、能力、資格、人事評価、各部署の人員構成などを踏まえて人事案を組み立て、そのうえで重要な人事について首長が判断するという形が一般的に考えられる。
この違いは、自治体人事を理解するうえでかなり重要である。法律上は市長が任命権者であっても、実際の人事形成には副市長、人事担当部門、各部局の幹部など複数の主体が関わることがあり、過去に大阪府内5市の市役所職員を対象として行われた実証研究でも、職員が人事への影響力を認識する相手は市長だけではなく、担当部局の職員などにも分散しており、その度合いは自治体によって異なっていた。
つまり、法律上の権限配置だけを見て「市長がすべて決めている」と考えるのも、反対に人事担当部署が案を作っているから「市長には人事権がない」と考えるのも適切ではなく、制度上の最終的な権限と、実務上の人事形成過程を分けて考える必要がある。
新しい首長が就任しても、役所を白紙から組み直すことはできない
自治体の人事は、毎回ゼロから組み立てられているわけではなく、何年、何十年という時間の中で積み上げられてきた職員の経験と専門性の上に成り立っている。税務には税務の知識があり、福祉には福祉の経験が必要であり、土木、建築、水道、情報システムなどには技術的な知識や資格が必要になる場合もあるため、選挙結果だけを理由として職員を大規模に配置転換すれば、かえって行政サービスの質を落とす可能性がある。
さらに、自治体には書類だけでは表現しきれない「組織の記憶」がある。どの地域で過去に道路問題が起きたのか、ある公共施設を建設した際にどのような住民との調整が行われたのか、生活困窮者支援で地域のどの機関と連携してきたのか、災害時にどの道路が使えなくなるのかといった知識は、文書や情報システムにも残される一方、その一部は職員の経験として蓄積されている。
そのため新しい首長が大きな改革を進めようとすればするほど、皮肉なことに、従来から役所で働いてきた職員の知識を必要とする場面も増えてくる。政治的なトップが代わったからといって行政組織の記憶まで同時に入れ替えることはできず、むしろ新しい政策と既存組織の知識をどう結び付けるかが、首長の行政運営能力を左右することになる。
「気に入らないから辞めてもらう」は原則としてできない
首長の人事権について最も誤解されやすいのが免職であり、「市長が任命した職員なのだから、市長の考えに合わなければ辞めさせることもできるのではないか」と考えられることがあるが、一般職の地方公務員については、そのような制度にはなっていない。
地方公務員法では、職員の分限や懲戒は公正でなければならず、本人の意思に反する降任や免職についても法律上の要件が設けられている。勤務実績が良くない場合、心身の故障によって職務遂行に支障がある場合、その職に必要な適格性を欠く場合、職制や定数の改廃などによって廃職や過員が生じた場合には、いわゆる分限処分として降任や免職が行われる可能性があるが、単に「前の市長の時代に重用されていた」「新しい市長と考え方が合わない」といった事情だけで一般職員を自由に免職できる仕組みではない。
もっとも、地方公務員を免職できるのがこうした分限の場合だけというわけでもなく、法令違反、職務上の義務違反、職務懈怠、全体の奉仕者としてふさわしくない非行などがあれば、地方公務員法に基づく懲戒処分として免職される場合もある。このため正確には、職員には一定の身分保障がある一方、それはどのような行為をしても職が保障されるという意味ではなく、分限処分にも懲戒処分にも、それぞれ法律上の根拠と手続が必要だと理解するのが適切である。
身分保障は職員のためだけではなく、住民のためでもある
地方公務員に一定の身分保障が設けられていることを、「役所の職員だけが守られている制度」と考えると、その半分しか見えていない。もし市長選挙や町長選挙のたびに、新しい首長が自分と考え方の合わない一般職員を自由に退職させ、自分に近い人物へ入れ替えられる制度であれば、政治的な変化は行政へ強く反映される一方、選挙のたびに税務、福祉、戸籍、防災、土木などの専門知識まで失われる危険が生じる。
また、一般職員が自分の雇用を維持するために現職首長へ政治的に忠誠を示さなければならないような制度になれば、公務員が住民全体ではなく、その時点の政治権力者に奉仕する組織へ傾く危険もある。地方公務員法が能力実証による任用や分限、懲戒の基準を定めているのは、職員個人の生活を保護する側面だけではなく、行政組織そのものを一定程度政治的な恣意性から切り離し、住民に対する行政サービスを継続させるという意味も持っている。
選挙によって政治的意思を変えられることと、選挙のたびに行政機構全体を入れ替えないことは矛盾しているように見えるが、実際にはこの2つを同時に成立させることによって、民主的な変化と行政の安定を両立させようとしているのである。
副市長は一般職員とは性格が違う
こうした構造を理解するうえで分かりやすいのが、副市長と一般職員の違いである。副市長は市長が議会の同意を得て選任し、市長を補佐するとともに、市長の命を受けて政策や企画を担い、職員の事務を監督する立場であるため、一般職員より首長との政策的な結び付きが強い。
そのため首長が交代すれば、副市長を含むトップ周辺の人事が変化することは十分にあり得るが、その原理がそのまま課長、係長、一般職員にまで及ぶわけではない。自治体の組織には、選挙結果を行政へ反映させるために首長との政策的な関係が強い部分と、行政の継続性を保つために政治的な交代から一定の距離を置く部分が併存しているのであり、この二重構造を理解すると、首長が代わっても役所全体が入れ替わらない理由が見えやすくなる。
市役所のすべての職員を、市長が直接任命しているわけではない
さらに、住民から見れば同じ「市役所」で働いているように見えても、すべての職員が市長や町長を任命権者としているわけではない。地方公務員法では地方公共団体の長だけでなく、議会の議長、選挙管理委員会、代表監査委員、教育委員会、人事委員会、公平委員会、市町村の消防長なども、それぞれの組織について任命権者となる仕組みが設けられている。
これは教育、選挙、監査など一定の分野について、行政権限を首長1人へ全面的に集中させないための制度でもある。そのため「市長になれば市役所内部のすべての人事を自由に決められる」という理解は正確ではなく、一般行政部門では大きな人事権を持ちながらも、自治体全体を見ると複数の任命権者が存在するという構造になっている。
建物としての市役所は1つに見えても、法律上の自治体組織は複数の権限体系を組み合わせて構成されており、この仕組みもまた、1回の首長選挙によって行政機構全体が一方向へ急激に変化することを抑える働きを持っている。
組織改革にも議会と条例が関係する
首長が職員配置だけではなく役所の組織そのものを変えようとした場合にも、すべてを首長の一存で行えるわけではない。地方自治法では長の直近下位に置かれる内部組織とその分掌事務を条例で定める仕組みがあり、職員定数についても条例で定めることとされているため、条例改正が必要となる組織改革や定数変更であれば議会の議決が必要になる。
例えば新しい市長が行政改革のために大規模な組織再編を考えたとしても、首長が新しい組織図を書くだけで翌日から完成するわけではなく、再編内容によっては条例案を作り、議会の議決を得て、その後に具体的な人員配置を進めなければならない。この点でも、民間企業の経営者が社内組織を変更する場合と自治体行政には大きな違いがあり、自治体では組織変更そのものが民主的な手続や法制度の中に組み込まれている。
では、首長が代わっても役所は変わらないのか
ここまで読むと、「それほど制約が多いのであれば、選挙で市長や町長を代えても役所はほとんど変わらないのではないか」という疑問が生じるかもしれないが、それも極端な理解である。首長には予算編成、政策形成、組織運営、人事などに大きな影響を及ぼす権限があり、その権限を毎年度積み重ねれば、行政組織の重点分野や仕事の進め方が徐々に変化していく可能性は十分にある。
例えば、ある政策分野を4年間継続して重視し、そこへ予算と人員を配置し、担当職員に経験を積ませ、管理職にもその分野を理解する人材を配置すれば、就任当初には首長個人の政策だったものが、やがて役所内部に知識や実務経験として蓄積されていく可能性がある。逆に、首長が人事への介入を抑制したり、議会との関係によって政策が十分に実現できなかったり、職員構成や財政条件によって改革が進まなかったりする場合もあるため、「長く在任すれば役所の性格は必ず変わる」とまで断定することはできない。
首長の在任期間が長くなるほど政策、人事、予算を通じて行政組織へ影響を与える機会は増えるが、実際にどの程度変化するかは首長の行政運営の方法、議会との関係、自治体の規模、財政状況、職員組織の構成などによって異なると考える方が、現実に近いだろう。
役所の変化は、一夜の交代ではなく蓄積として現れる
選挙結果は開票によって一晩で決まるため、政治の変化は非常に速く見えるが、行政組織には多数の職員が在籍し、その中に経験、専門知識、条例、予算、契約、情報システム、住民との関係などが積み上がっているため、トップが1人交代しても、それらすべてが同時に入れ替わることはない。
この違いを単純な数理モデルで考えても分かりやすい。仮に数百人の職員からなる組織で毎年一定割合の職員が退職や採用によって入れ替わるとしても、首長のように1回の選挙で100%交代するわけではなく、既存職員の相当部分は翌年度にも組織へ残り、その次の年度にもさらに多くが残るため、組織全体の変化はどうしても時間をかけたものになりやすい。
もちろん、職員数が維持されているからといって内部の人員がまったく変わっていないとは限らず、一般職員の入れ替わり、管理職人事、組織改編、政策変更などを総合的に調べなければ、首長交代によって実際に行政組織が何%変化したかを統計的に断定することはできない。それでも、選挙によって1人の首長が完全に交代する政治部門と、多数の職員が継続して勤務する行政組織とでは、変化する速度が異なるという基本構造そのものは明らかである。
「役所が抵抗している」だけでは説明できない
新しい首長が改革を掲げて当選したにもかかわらず、数か月が過ぎても住民から見える変化が少なければ、「役所の職員が抵抗しているのではないか」と感じることがあるかもしれない。実際の組織である以上、新しい政策に積極的な職員もいれば、慎重な職員も存在するため、職員の意識や組織文化が改革の速度に影響する可能性まで否定する必要はない。
しかし、役所が急激に変わらない理由を職員の姿勢だけに求めるのも適切ではない。地方公務員法による任用や身分保障、複数の任命権者、条例による組織と定数の規律、議会との関係、職員が蓄積してきた専門知識など、制度と組織の双方に行政の継続性を保つ要因が存在しているからである。
逆に言えば、行政組織が選挙の翌日から全面的に変化しないことは、必ずしも民主主義に対する抵抗を意味するものではなく、住民が政治的な方向を変える権利を持ちながら、同時に税金の徴収、住民票の発行、福祉サービス、防災、道路管理といった日常行政を止めないための仕組みでもある。
首長が変えるのは「職員の顔ぶれ」だけではなく「役所が向かう方向」である
市長や町長の人事権を一言で表現するなら、「強いが、無制限ではない」というのが最も実態に近い。一般行政部門の職員について大きな任命権を持ち、管理職人事や組織運営を通じて政策を実現することができる一方、その権限は地方公務員法による能力実証、分限や懲戒の要件、条例、議会、複数の任命権者などによって枠を設けられており、しかも実際の人事形成には役所内部の人事担当部門や幹部職員も関与している。
だからこそ、市長や町長が代わっても、翌朝から職員の顔ぶれが一変することはなく、住民からは「何も変わっていない」ように見えることがある。しかし、首長が予算の重点を変え、政策の優先順位を変え、組織を見直し、人事を積み重ねていけば、その影響が数年間のうちに行政組織へ広がっていく可能性はあり、変化は人の大量入れ替えではなく、仕事の優先順位や組織が向いている方向の変化として現れることの方が多い。
選挙によって一瞬で交代する政治と、一瞬では交代しない行政は、互いに矛盾する存在ではない。政治だけが変わって行政がまったく変わらなければ選挙の意味は弱まり、反対に選挙のたびに行政組織まで全面的に入れ替われば、行政の専門性と継続性が失われる可能性があるため、日本の地方自治制度はその中間に、首長へ強い権限を与えながらも行政組織を完全には政治化しない仕組みを置いている。
首長が代わっても役所がすぐには変わらないという現象は、単なる役所の保守性だけで説明できるものではない。それは、選挙で示された住民の意思によって行政の方向を変える力と、選挙が終わった翌朝も行政サービスを変わらず動かし続ける力を同じ自治体の中に共存させようとする、地方自治制度の特徴の1つなのである。



