地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

1989年7月23日の夜、日本の政治で、それまで動かないと思われていたものが大きく揺れた。

第15回参議院議員通常選挙で、日本社会党は46議席を獲得し、自由民主党の36議席を上回った。社会党は改選第一党となり、自民党は参議院で単独過半数を失った。1955年の結党以来、多少の浮き沈みを経験しながらも日本政治の中心にあり続けてきた自民党優位の政治構造に、明らかな亀裂が走った選挙だった。

その中心にいたのが、日本社会党委員長の土井たか子である。

選挙後の土井を象徴する言葉は、やがて一つの短い表現に凝縮されて人々の記憶に残った。

「山が動いた」。

政治家の言葉の多くは、その選挙が終われば消えていく。ところが、この言葉だけは1989年という時代を説明する言葉として生き残った。

なぜだったのだろう。

そこには、社会党が一度の選挙に勝ったというだけでは説明できないものがある。昭和が終わり、平成が始まったばかりの日本で、それまで政治の中心に見えにくかった人々が、自分たちにも政治を動かせるのではないかと感じた瞬間があった。そして土井たか子という政治家は、その期待を不思議なほど鮮明に背負う人物になったのである。

政治家になる予定ではなかった憲法学者

土井たか子は、最初から職業政治家として人生を設計した人物ではなかった。

1928年に神戸で生まれ、同志社大学で法律を学び、大学院を経て大学で憲法を教えた。1969年の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補して初当選するまで、彼女の立っていた場所は永田町ではなく、憲法を研究し、学生に教える教室だった。

その出発点は、その後の政治家としての土井を理解するときに重要である。

護憲を中心に据え、安全保障や原子力政策などでも明確な立場を取り続けた土井の政治思想には当然、賛否がある。しかし彼女は、時代の風向きに合わせて器用に立ち位置を移す政治家ではなかった。一度、自分にとって原則だと考えたものを簡単には手放さない。その頑固さが支持者には信頼として映り、反対する人には硬直性として映った。

後から振り返れば、それは土井たか子という政治家の強さであると同時に、限界にもなっていく。

ところが、そんな憲法学者出身の政治家が、やがて日本政治でも屈指の「言葉を持つ政治家」になる。

「やるっきゃない」。

「ダメなものはダメ」。

いずれも政策論として精密な言葉ではない。むしろ精密さの反対側にある。

それでも強かった。

政府や政党が長い説明を重ねるより、「この人は何に怒っているのか」「何には譲らないのか」が一瞬で伝わったからである。本人自身は、こうしたキャッチフレーズが独り歩きすることを必ずしも好んでいなかったと、後に土井を取材した記者は記している。

考えてみれば不思議な人生である。

憲法を教えていた大学講師が、難しい法律用語ではなく、誰にでも覚えられる短い日本語によって国民的人気を得たのである。

敗北した社会党が選んだ女性党首

1986年、土井は日本社会党の委員長に就任する。

この人事は、勢いに乗る政党が新しい時代を先取りして女性を党首に据えた、という華やかな話ではなかった。

むしろ逆だった。

社会党は同年の衆参同日選挙で大敗し、戦後長く自民党と対峙してきた最大野党としての存在感を失いつつあった。労働組合を中心とした強固な支持基盤を持ってはいたものの、高度経済成長によって生活が変わり、会社員が増え、都市化が進んだ日本社会に対して、従来の社会党の言葉が届きにくくなっていた。

その危機のなかで、土井は委員長になった。

国会に議席を持つ政党のトップに女性が就いたのは、憲政史上初とされる。後に女性初の衆議院議長にもなる土井だが、最初の「女性初」は、政党が追い詰められた場所から始まっていた。

そこには少し皮肉な構図も見える。

組織が安定している間は従来の男性中心の秩序が維持され、行き詰まったときになって初めて、それまでとは違う人物が前面に出てくる。

しかし、社会党が単に「女性だから目新しい」と考えて土井を利用しただけなら、その後に起きた現象までは説明できない。

委員長になった土井は、党の看板を変えただけではなかった。

それまで政治の中心的な議題として語られにくかった生活の問題を、国会の言葉に変え始めたのである。

委員長就任後の代表質問で、土井は「女は三つの老後を生きなければなりません」と語った。親の老後を支え、夫の老後を支え、その後に自分自身の老後が来る。まだ介護保険制度も存在しなかった時代、家庭の中で女性が当然のように背負っていた介護負担を、個人的な家庭事情ではなく政治の問題として国会に持ち込んだ。

これは土井人気を考えるうえで小さくない。

女性だから女性の問題を扱った、というだけではない。

それまで「家の中のこと」として政治から切り離されていたものを、政治の側へ引きずり出したのである。

1989年、政治への不満が行き場を失っていた

もちろん、土井たか子一人に選挙を動かす魔法があったわけではない。

1989年の自民党政権には、いくつもの逆風が重なっていた。

前年から続いたリクルート事件によって政界と企業の癒着が問題となり、竹下登首相は退陣した。1989年4月には3%の消費税が導入され、家計への新たな負担に対する反発が広がっていた。その後を継いだ宇野宗佑首相にも女性問題が報じられ、政権は発足した時点から強い逆風のなかに置かれた。

つまり、山が突然、自分の意思で歩き出したわけではない。

その下ではすでに地殻変動が始まっていたのである。

政治と金への不信、消費税への反発、長期政権への倦怠感。性質の異なる不満が同時に噴き出したとき、それを受け止める顔として土井たか子がいた。

社会党は1989年参院選で46議席を獲得した。さらに、この選挙では女性候補の躍進が大きな話題となり、後に「マドンナ旋風」と呼ばれることになる。

この選挙で女性当選者は22人。改選された126議席の17.46%を女性が占めた。前回1986年の女性当選者10人から倍以上に増え、日本の国政選挙としては画期的な変化だった。

ただし、「マドンナ旋風」という言葉そのものにも、今から振り返れば当時の社会が映り込んでいる。

女性政治家が多数当選したことを歓迎する一方で、政策や思想を持った一人の政治家としてではなく、「女性候補」という特別な集団として眺める視線があったからこそ成立した呼び名でもある。

女性が政治家であること自体がニュースになった時代だった。

土井たか子は、女性政治家の進出を象徴した人物であると同時に、女性政治家がまだ珍しい存在として見られていた日本の姿を映す人物でもあった。

なぜ土井たか子は国民的スターになれたのか

それでも、土井人気を「女性だったから」で説明するのは無理がある。

彼女が登場した1980年代後半は、テレビが国民共通の巨大な窓だった。

インターネットはない。政治家が自分の動画を毎日発信することもない。新聞とテレビが政治家の姿を全国へ届け、夜のニュースで映された数十秒の表情や言葉が、翌日の職場や家庭の話題になる。

そこで強かったのは、一瞬で人物像が伝わる政治家だった。

土井には、それがあった。

よく通る声があり、言葉に歯切れがあり、男性ばかりが並んでいた政治の画面のなかで、遠くからでも分かる存在感があった。「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」といった一般のテレビ番組にも出演し、政治ニュースを熱心に見ない人々にも顔を知られていった。

だが、それだけなら人気タレント型の政治家で終わっただろう。

土井にはもう一つ、奇妙な強みがあった。

彼女は政治家なのに、「政治の外から来た人」に見えたのである。

1989年の時点で初当選からすでに20年近くが経過している。政治経験の浅い新人ではない。それなのに、永田町の専門家としてではなく、永田町へ普通の人々の感覚を持ち込む人物として受け取られた。

政治経験があるのに、政治屋には見えない。

制度を知っているのに、専門用語ばかりで話さない。

国会の内部にいるのに、国会の外側にいる人々の不満を代弁しているように見える。

この距離感こそ、土井たか子という政治家の最大の資産だったのではないだろうか。

人々は彼女を「おたかさん」と呼んだ。

最大野党の党首であり、首相候補にもなり得る政治家なのに、呼び名だけを聞けば近所のよく知っている人のようだった。

権力の中心へ近づくほど、普通の人から遠ざかって見える政治家は多い。

土井は、逆だった。

政治の中心へ近づくほど、「自分たちの側から政治を見ている人」に見えたのである。

「山の動く日」は女性たちの目覚めを歌った言葉だった

そして、あの「山」に戻る。

土井が若いころから愛唱していたとされるのが、与謝野晶子が1911年の『青鞜』創刊号に寄せた『そぞろごと』である。

その冒頭は「山の動く日来る」で始まる。

現在、この冒頭部分だけを取り出して「山の動く日」と呼ばれることも多いが、厳密には『青鞜』創刊号に掲載された作品の総題が『そぞろごと』で、その冒頭の詩が後世、広く知られるようになったものである。そこでは、長い間眠っていた女性たちが目覚め、動き始める姿が「山」に重ねられている。

土井が社会党委員長だったころ、東京・三宅坂の社会党本部にあった委員長室には、「山の動く日」と書かれた額が掲げられていたという。

だから本来、土井にとって「山」は自民党そのものではなかったのだろう。

長い間、政治の中心に十分な場所を持てなかった女性たちであり、政治を自分とは遠いものだと考えていた市民であり、「どうせ政治は変わらない」と諦めていた有権者でもあった。

ところが1989年の大勝によって、この言葉には別の意味が重なっていく。

眠っていた女性が動くという与謝野晶子の山と、動かないように見えた戦後政治の山が、一つの映像になった。

言葉が政治家本人の手を離れ、時代の言葉になった瞬間だった。

女性が首相として指名された日

参議院選挙からわずか半月ほど後、その勢いを象徴する出来事が起きる。

1989年8月9日の内閣総理大臣指名選挙で、参議院は土井たか子を内閣総理大臣に指名した。

一方、衆議院は自民党の海部俊樹を指名した。両院協議会でも一致しなかったため、日本国憲法第67条第2項による衆議院の優越によって、最終的には海部の指名が国会の議決となった。

したがって、土井たか子内閣が成立したわけではない。

しかし、この出来事を「結局首相にはなれなかった」で終わらせると、その歴史的意味を取り逃がす。

1989年の日本で、国会を構成する二つの議院の一方が、一人の女性を内閣総理大臣として正式に指名したのである。

女性首相がまだ遠い未来の話に思われていた時代に、参議院だけを見れば、土井たか子はすでに首相に選ばれていた。

その瞬間、彼女が「日本で最も首相に近づいた女性」だったと表現しても、大きな誇張ではない。

社会党が数年前まで低迷していたことを考えれば、なおさら異例の光景だった。

それでも山は動き続けなかった

だが、政治には残酷な性質がある。

熱狂を得票に変える力と、その得票を持続的な政権基盤へ変える力は同じではない。

社会党は1990年の衆議院議員総選挙でも大幅に議席を増やした。それでも自民党政権を倒すところまでは届かず、翌1991年の統一地方選挙で社会党が敗北すると、土井は委員長を辞任する。

ほんの数年前には衰退政党と思われていた社会党を復活させ、首相指名にまで到達した人物が、驚くほど短い時間で党首の座を去ることになった。

ここに「土井ブーム」の本質と限界が見える。

1989年に社会党へ向かった票は、一枚岩の社会党支持ではなかった。

政治腐敗への怒りがあり、消費税への反発があり、自民党長期政権への倦怠感があり、女性政治家への期待があり、土井本人への好感があった。

異なる場所から流れてきた水が、一時的に同じ低地へ集まったのである。

洪水のような票だった。

しかし洪水は、必ずしも一本の川にはならない。

社会党が本当に政権を担うためには、「自民党に反対する人々」の受け皿であるだけでは足りなかった。安全保障をどうするのか、経済をどう運営するのか、現実の国際関係のなかでどこまで従来の政策を維持するのかという問いに、一つの政権構想として答える必要があった。

しかも、そのころ世界の方が先に変わり始めていた。

1989年にはベルリンの壁が崩れ、東欧の社会主義体制が相次いで崩壊し、米ソ冷戦も終結へ向かう。

戦後日本政治を支えてきた「保守対革新」という対立軸そのものが揺らぎ始めたのである。

土井人気によって一時的に覆い隠されていた社会党の古い問題が、時代の変化とともに再び姿を現した。

土井たか子の長所は、そのまま弱点でもあった

土井は、権力政治の職人というタイプではなかった。

むしろ、そう見えなかったことが彼女の人気を支えた。

原則を語り、生活者の言葉で政治を批判し、曖昧な表現で逃げない。その姿は、派閥、密室協議、根回しによって物事が決まる印象の強かった当時の政治とは鮮明な対照をなしていた。

しかし政権を取る側に回れば、政治に求められるものは変わる。

異なる考えを持つ人々と合意し、政策に優先順位をつけ、財源を割り振り、ときには支持者が望まない妥協もしなければならない。

「ダメなものはダメ」という言葉は、野党政治家としては強い。

だが政府を運営する側は、その次に「では何をするのか」を示さなければならない。

何を認め、何を捨て、誰と組み、どこまで譲るのか。

土井たか子という政治家の魅力と、社会党が本格的な政権政党になり切れなかった問題は、この地点で微妙に重なっていた。

もっとも、その責任を土井一人に帰すのは公平ではない。

安全保障政策、党内の路線対立、労働組合との関係、変わりゆく社会と支持基盤のずれ。社会党が抱えていた問題の多くは、土井が委員長になるはるか以前から存在していた。

むしろ一人の人物の人気によって、衰退過程にあった政党が数年間とはいえ政権をうかがう位置まで戻ったこと自体が異例だった、と見る方が歴史には近いのではないか。

土井たか子は、社会党を救えなかった政治家だったというより、社会党がまだ救えるかもしれないと国民に思わせた最後の政治家だった。

女性初の衆議院議長へ

そして土井の政治人生は、「山が動いた」で終わらない。

1993年の衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を失い、細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立した。

その新しい国会で、土井たか子は第68代衆議院議長に選ばれる。

女性として初めての衆議院議長だった。在任期間は1993年8月6日から1996年9月27日までである。

社会党委員長として自民党と激しく対決した人物が、今度は国会全体を代表し、与党と野党双方を公平に扱わなければならない席に座った。

議長時代には、議員を呼ぶ際の慣例だった「君」ではなく「さん」を用いたことでも知られる。

小さな変更に見える。

だが、いかにも土井らしい。

制度そのものを大声で否定するのではなく、その制度のなかに残っている「なぜ昔からこうなのか分からない慣習」を一つ問い直す。

女性だから特別扱いしてほしい、という話ではない。

そもそも男性ばかりだった時代につくられた慣習を、なぜそのまま続けなければならないのか。

土井たか子の政治には、そうした問い方が一貫していた。

女性政治家が「珍しかった時代」のスターだったのか

土井たか子を振り返るとき、「女性だったから人気が出た」という説明は半分しか当たっていない。

確かに、女性党首という新鮮さは大きかった。

テレビ画面に男性政治家がずらりと並ぶなか、土井はそれだけで目立った。

しかし、珍しいというだけで何年も国民的人気は続かない。

土井が強かったのは、彼女が登場することによって、周囲の政治の古さが逆に見えてしまったからではないだろうか。

男性ばかりの国会。

派閥を中心に動く自民党。

組織中心の社会党。

家庭内で女性が担っていた介護や家事を、政治問題として十分に扱ってこなかった社会。

政治家は政治家の言葉を話し、普通の人々はそれを遠くから眺めている。

その風景の中へ土井が入る。

すると、土井自身が特別に新しいという以上に、その周囲に残っていた「昔からこういうものだ」という政治の姿が古く見えた。

政治家がスターになるとき、その人物一人の能力だけで現象が起きるとは限らない。

社会の方がすでに変わり始めているのに、制度や政治文化だけが取り残されているとき、そのずれを一人で可視化してしまう人物が現れることがある。

1989年の土井たか子は、その位置にいた。

「山が動いた」から36年後、日本に女性首相が誕生した

1989年から36年後の2025年10月21日、高市早苗が衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で指名され、第104代内閣総理大臣に就任した。

日本で初めての女性首相だった。

もちろん、土井たか子と高市早苗の政治思想は大きく異なる。

だから、女性という一点だけで二人の政治を直線的につなぐべきではないだろう。

それでも歴史として眺めれば、不思議な連続性がある。

1989年、参議院は土井たか子を首相として指名した。

しかし衆議院では届かなかった。

それから36年を経て、初めて女性が実際に内閣総理大臣となった。

その翌年である2026年は、日本の女性が国政選挙で初めて選挙権と被選挙権を実際に行使してから80年に当たる。

ここは年月を正確に分けて考える必要がある。

女性の国政参政権は、1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によって制度上認められた。そして翌1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、女性は初めて投票し、立候補した。この選挙では39人の女性衆議院議員が誕生している。したがって、参政権獲得から数えれば2025年が80年、実際の国政選挙での行使から数えれば2026年が80年となる。

80年という時間を置いて眺めると、土井たか子の位置が少し違って見えてくる。

彼女は女性首相になった政治家ではない。

女性政治家が当たり前になった時代の政治家でもない。

女性が大政党の党首になること自体が歴史的事件であり、女性候補が多数当選すれば「旋風」と呼ばれた時代に、その珍しさを弱点ではなく政治的な力へ変えた人物だった。

しかも彼女は、最後まで「女性問題だけを語る女性政治家」にはならなかった。

憲法を語り、外交を語り、税制を語り、介護を語った。

社会党を率い、参議院で自民党を過半数割れに追い込み、参議院から首相に指名され、最後には衆議院議長になった。

その意味では、土井たか子を単に「女性政治家の先駆者」と呼ぶだけでは、少し小さすぎるのかもしれない。

山とは何だったのか

結局、1989年に動いた「山」とは何だったのだろう。

社会党だったのか。

自民党だったのか。

女性だったのか。

おそらく、そのどれか一つではない。

長い間、「政治とはこういうものだ」と考えられてきた常識そのものが山だったのではないか。

政治家は男性である。

政権は自民党が握る。

家庭の問題は家庭で解決する。

普通の市民が政治を動かすことなどない。

その一つ一つは法律に書かれていたわけではない。

それでも社会の中には、岩盤のように存在していた。

だから一つの選挙で社会党が勝っただけなのに、人々はそこに何か巨大なものが動く感覚を見た。

もちろん、山は完全には崩れなかった。

社会党はその後衰退し、土井ブームも終わった。1989年に集まった熱狂が、そのまま新しい政治体制をつくったわけでもない。

それでも、動かなかったことにはならない。

山は、動いた後に元の場所へ戻ることもある。

少しだけ形を変え、その変化が次の時代からは当たり前に見えることもある。

女性が政党の党首になること。

女性が衆議院議長になること。

女性が首相候補として扱われること。

そして、実際に女性が首相になること。

1989年には、そのどれもが現在ほど当たり前には見えなかった。

土井たか子という政治家を今振り返る意味は、彼女の政策に賛成することでも、かつての社会党を美化することでもない。

政治の景色が変わるときには、その変化が起きる少し前に、「こんなことは起きない」と多くの人が思っている。

その固定観念が崩れる瞬間を、一人の政治家が象徴することがある。

1989年の夏、その場所に立っていたのが土井たか子だった。

そして彼女が見た山は、社会党の山でも、自民党の山でもなかったのだろう。

長い間眠っていた人々が、自分たちも政治を動かす側に立てるかもしれないと感じた、その巨大な塊こそが山だった。

「山が動いた」という言葉が今も残っているのは、だからなのかもしれない。

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昭和の政治家には、平成以降の政治家とはどこか異なる空気がある。それは政策の違いだけではなく、政治家自身が国家の歴史を背負っているかのように振る舞い、ときには自分の人生と日本という国の歩みを重ね合わせながら政治を語ったことに由来するのかもしれない。その意味で、中曽根康弘ほど「昭和の政治家」という言葉が似合う人物は少ない。大正に生まれ、戦争を経験し、敗戦直後に国政へ入り、高度経済成長と冷戦の時代を駆け抜け、昭和の終わりが近づいた1980年代に総理大臣として政権の頂点に立った彼の人生をたどると、そこには一人の政治家の成功物語というより、日本の戦後そのものが映っている。

中曽根はしばしば「大統領型首相」、より正確には「大統領的首相」と評される。もちろん、日本は大統領制ではなく議院内閣制であり、中曽根が総理大臣になったことで制度そのものが変わったわけではない。彼が変えようとしたのは制度の名称ではなく、総理大臣という職の使い方だった。それまでの自民党政治では、総理とは派閥や党内有力者、官僚組織、業界団体などの利害を調整し、その均衡の上に立つ存在であることが多かったのに対し、中曽根は総理自身が国家の進む方向を示し、国民に直接語りかけ、世論を味方につけながら党と官僚を動かしていく政治を求めたのである。後年の研究でも、その政治手法は「大統領的首相」と位置づけられている。

しかし、その発想は1982年に総理大臣になって突然生まれたものではなかった。むしろ中曽根の政治人生を振り返ると、若いころから一貫して抱いていた問題意識が、長い時間をかけて総理在任中に形になったものだと考えた方が分かりやすい。

敗戦を知る青年が、戦後政治の中へ入っていった

中曽根康弘は1918年、群馬県に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業した後、官僚の道に入ったが、ほどなく海軍に入り、戦争を経験した。終戦時には海軍主計少佐となり、敗戦後は内務省系の官僚として勤務した後、1947年、新憲法下で行われた衆議院議員総選挙で初当選する。まだ28歳であり、その後2003年まで衆議院議員を務めることになるのだから、国会議員としての経歴だけで半世紀をはるかに超えることになる。

ここには、中曽根という政治家を理解するうえで重要な原点がある。彼は戦後に政治家になった人物ではあるが、精神形成そのものは戦前の日本で行われ、しかも国家の敗北を軍人として経験した世代だった。戦争に敗れ、それまで絶対的なものに見えていた国家の制度が一夜にして崩れ、占領政策の下で新しい憲法と新しい政治制度がつくられていく光景を、彼は青年期に目撃している。だから中曽根にとって「国家とは何か」「日本は誰が統治するのか」という問いは、政治学の教科書に書かれた抽象的な問題ではなく、自分の青春そのものに刻み込まれた問題だったのである。

戦後の中曽根が自主憲法制定や自主防衛を強く唱えたのも、この経験と切り離して考えることは難しい。ただし、彼を単純な戦前回帰の政治家として理解すると、その後の政治人生を読み誤る。中曽根は後に「戦後政治の総決算」を掲げることになるが、それは戦後40年間そのものを否定するという意味ではなく、本人も国会で、戦後日本が平和、民主主義、平等、経済的繁栄において大きな成果を上げてきたことを明確に認めている。そのうえで、40年という時間の中で制度に生じたひずみを修正し、日本が次の時代に進むための政治を行うというのが、彼のいう「総決算」だった。

若き中曽根が考えた「首相を国民が選ぶ政治」

中曽根の「大統領型首相」という発想の源流を探ると、1960年代初めまでさかのぼることができる。1962年に刊行された『首相公選論~その主張と批判』には、中曽根自身による「首相公選論の提唱」が収録されており、彼がかなり早い段階から、総理大臣と国民との関係そのものを変えようとしていたことが分かる。

なぜ国会議員でありながら、国会が選ぶ総理ではなく、国民から直接政治的正統性を得る総理を考えたのか。その背景には、中曽根が戦後の議院内閣制の運用に感じていた不満があった。研究では、中曽根の首相公選論には、派閥政治、政権の不安定、激しい政争によって政治責任の所在が曖昧になることへの問題意識があり、民意をより直接的に政治の中心へ取り戻そうという考えがあったと整理されている。

戦後自民党政治では、総理大臣になるために国民から直接選ばれる必要はなかった。それよりも重要なのは、自民党総裁選挙で派閥の支持を集めることであり、そのためには政策だけでなく、誰と組み、誰と妥協し、誰の支持を受けるかが決定的な意味を持った。中曽根が嫌ったのは、まさにこの構造が政治の最終的な責任者を曖昧にすることだったのだろう。総理が国民に向かって国家の方向を示すのではなく、党内の実力者たちの合意をまとめる議長のような存在になってしまえば、政治は誰の意思によって動いているのか分からなくなる。中曽根が求めたのは、国民から政治的な力を得た指導者が、自分の責任で決断する政治だった。

もっとも、ここに中曽根という政治家の面白さがある。理念としては強い指導者を求めながら、自分自身が総理になるまでの道のりでは、誰よりも自民党派閥政治の海を巧みに泳いだからである。

「風見鶏」と呼ばれた男は、本当に信念がなかったのか

中曽根には長い間、「風見鶏」というあまりありがたくない呼び名がついて回った。政治状況によって立場を変え、時の権力者と巧みに関係を築く姿が、風向きによって向きを変える風見鶏のように見えたからである。岸信介、佐藤栄作、田中角栄ら自民党の実力者が次々と主役を演じる時代、中曽根は政界の中心から完全に外れることなく、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任しながら、総理の椅子に近づいていった。

だが、「風見鶏だったから信念がなかった」と結論づけると、中曽根の半分しか見たことにならない。むしろ彼には、自分が実現したい国家像を持ちながら、それを実現するためにはまず権力を握らなければならないという、極めて現実主義的な政治観があったように見える。政治家は思想家ではない以上、正しいことを語っているだけでは国家を動かせない。昨日の敵とも必要なら手を結び、党内で少数派なら多数派の力を借り、機会が来るまで待つというその姿勢は、美しくはないかもしれないが、権力というものの性質を熟知した政治家の姿でもあった。

そして皮肉なことに、その中曽根が1982年11月に総理大臣になったとき、彼を首相の座へ押し上げる大きな力となったのが田中角栄だった。当時の田中はロッキード事件の刑事被告人でありながら自民党最大級の勢力を保持しており、その支援を受けて成立した中曽根政権は「田中曽根内閣」「角影内閣」とまで揶揄された。長年、国家の指導者として強い首相を構想してきた中曽根が、いざ首相になってみると、背後には巨大な田中派の影が見えるという、何とも皮肉な出発だったのである。

だからこそ、中曽根にとって「大統領型首相」という政治手法は、単なる好み以上の意味を持ったのではないか。党内の後ろ盾によって総理になった人物が、その後ろ盾から自立するためには、別の政治的な力が必要になる。その力を中曽根は、官邸と政策、そして何より国民世論の中に求めたのである。

派閥の上に立つには、国民に直接語らなければならなかった

中曽根政権の特徴の一つは、首相自身が政治の物語をつくったことである。政策を各省庁に任せ、出来上がったものを総理が説明するのではなく、まず総理が「何を変えるのか」という大きなテーマを国民に提示し、そのテーマを中心に政治を動かしていく。テレビというメディアが政治に大きな影響を持ち始めていた時代、中曽根はその性質をよく理解していた。

1985年の国会で中曽根は、自らの政治手法について、政権発足以来「国民にわかりやすい政治」「国民に語りかける政治」を目指してきたと説明している。審議会や私的諮問機関に専門家や民間人を登用し、そこで議論を起こし、その問題を社会全体の議論にしていくという方法も多用した。これは党内や官僚組織の調整だけで政策を決める従来型の政治とは違い、先に世論を動かし、その世論を背景に既得権益を動かしていく手法だった。

ここに「大統領的」と呼ばれる理由がある。中曽根は議会を無視したわけではないし、実際には自民党内の派閥調整も続けていた。しかし政治の表舞台では、総理自身が国民に語り、国家の方向を示し、政策に自分の名前を刻もうとした。総理大臣を巨大な調整機構の最終承認者から、政治の中心的な演者へ変えようとしたのである。

後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権で「官邸主導」という言葉が頻繁に使われるようになるが、その遠い原型を中曽根政治に見ることは十分可能だろう。ただし、中曽根の時代には現在ほど首相官邸の制度的権限が強化されていたわけではない。だから彼は制度の力ではなく、政治技術と世論と個人的な力量によって、総理の力を大きく見せなければならなかったのである。

行政改革こそ「大統領型首相」を必要とした

中曽根政治を象徴する最大の内政課題が行政改革だった。もっとも、行政改革そのものを中曽根一人が始めたわけではなく、第二次臨時行政調査会は鈴木善幸内閣時代の1981年に設置され、中曽根自身も行政管理庁長官として改革に関わっていた。彼は当時から、戦後の日本が欧米への追いつきをほぼ実現した以上、明治以来続いてきた中央集権的で規制中心の行政から、民間の創意や活力を生かす行政へ変える必要があると国会で論じていた。

しかし行政改革とは、誰もが賛成できる抽象的な言葉ほど簡単なものではない。実際に改革を始めれば、省庁の権限、国会議員の利害、業界団体、労働組合、地域経済など、既存の制度によって利益を得ているさまざまな勢力と衝突する。つまり行政改革を実現するためには、関係者全員の合意を待つ調整型政治では動かない場面が必ず出てくる。そこで必要になるのが、「国家全体の利益」という大きな物語を掲げ、個別の利害を乗り越えようとする強い首相だった。

中曽根政権下では、日本電信電話公社と日本専売公社の民営化が1985年に実現し、さらに最大の難題であった日本国有鉄道の分割・民営化も進められ、1987年4月に新しい鉄道会社へ移行した。日本国有鉄道は巨額の累積赤字と長期債務を抱えており、改革は以前から国家的課題となっていたが、巨大組織を実際に解体し、新しい経営形態へ移す作業には極めて大きな政治的エネルギーが必要だった。

行政改革は、中曽根がなぜ強い首相を求めたのかを最もよく説明している。大統領型首相とは、威張る総理のことではない。中曽根にとってそれは、巨大な制度を変更するとき、誰が最終的な政治責任を引き受けるのかという問題だったのである。

「ロン・ヤス」が映し出した、日本という国の変化

中曽根の大統領的な政治手法が最も映像的に表れたのは、国内政治より外交だったかもしれない。アメリカのロナルド・レーガン大統領との親密な関係は「ロン・ヤス」と呼ばれ、二人の個人的な信頼関係そのものが日米関係の象徴として報じられた。

しかし、これは単なる仲良し外交ではなかった。1980年代、日本はすでに世界有数の経済大国となりながら、安全保障ではアメリカへの依存が大きく、国際政治における発言力と経済力との間にはなお距離があった。中曽根は、その日本を単なる経済大国から国際政治の主体へ押し上げようと考え、日米同盟を外交の基軸として明確に位置づける一方、中国や韓国との関係構築にも力を入れた。外務省の当時の記録でも、中曽根はレーガンとの首脳外交を通じ日米の相互信頼を強化すると同時に、中国の指導者とも関係を深めている。

首脳外交という舞台は、中曽根の政治観と非常に相性がよかった。国と国との関係を官僚同士の交渉だけで処理するのではなく、国家の指導者同士が信頼関係をつくり、その姿を世界と国民に見せる。そこでは総理は国内の派閥代表ではなく、「日本」という国家そのものを演じる人物になる。中曽根が求めていた大統領的首相像は、サミットという舞台に立ったとき最も完成された姿を見せたともいえる。

「戦後政治の総決算」という危うい言葉

中曽根政治を語るとき避けて通れないのが、「戦後政治の総決算」という言葉である。この表現には、行政改革だけでなく、教育、憲法、安全保障、国家意識など、戦後日本が築いてきた制度全体を一度検証し直そうとする意志が込められていた。

防衛政策でも、中曽根政権は従来より積極的な姿勢を取った。1976年の三木内閣以来、防衛関係費について国民総生産の1%を上限の目安とする方針が続いていたが、中曽根政権末期の1987年度予算ではこの枠を適用しないことが決まり、結果として1%を超えることになった。ただし中曽根自身は、防衛費を無制限に増やす考えではなく、専守防衛や非核三原則などを維持しながら防衛力を整備するという説明をしていた。

このあたりが、中曽根という政治家を単純な「保守強硬派」という一語で説明できないところでもある。国家意識や自主防衛を強調する一方で、現実の外交ではアメリカとの同盟を重視し、中国や韓国との関係にも気を配る。理念だけを見れば一直線に進みそうに見えるが、現実政治では何度も速度を落とし、ときには方向を修正する。その姿を「風見鶏」と見るか、「現実主義者」と見るかによって、中曽根への評価は大きく変わる。

靖国参拝が示した「強い首相」の限界

その矛盾が最も鮮明に現れた出来事の一つが靖国神社参拝だった。戦後40年にあたる1985年8月15日、中曽根は首相として靖国神社を公式参拝した。政府は戦没者を追悼し、平和への決意を新たにすることが目的だと説明したが、中国から強い批判が寄せられ、外交問題となった。

興味深いのは、その後である。中国側からの反発を受け、1986年と1987年には中曽根首相の靖国参拝は行われなかった。外務省の後年公開資料にも、1985年の公式参拝を契機に中国側から強い批判があり、その後の首相参拝が見送られた経緯が記録されている。

ここには「大統領型首相」の限界と、中曽根の現実主義が同時に表れている。強い指導者だからといって、自分の信念だけで国家を動かせるわけではない。国内で支持される象徴的行動が外交では重大な摩擦を生むこともあり、そのとき政治家は理念と国益の間で判断しなければならない。中曽根は踏み込み、反発を受け、そして引いた。その姿は一見すると一貫性を欠いているようでありながら、政治とは自分の意思を貫くだけの仕事ではないことを誰より理解していたとも読めるのである。

1986年、「大統領型首相」は頂点に立った

1986年の衆参同日選挙で、自民党は衆議院304議席を獲得する大勝を収めた。 田中角栄の力を借りて総理になり、「田中曽根」と揶揄された男は、4年後には自分自身の人気と政権実績を背景に自民党を歴史的勝利へ導く首相となっていたのである。

ここで中曽根の「大統領型首相」は一つの完成を見る。党内派閥の合意によって選ばれた総理が、国民に直接語り、選挙で大勝し、その結果によって党内に対する自らの権威を強める。制度として首相公選を実現することはできなかったが、政治的には国民の支持を自らの権力基盤とする総理像をかなりの程度まで実現したともいえる。

中曽根内閣の通算在職日数は1,806日に達した。戦後の総理大臣としては異例の長期政権であり、短命内閣が珍しくなかった昭和の自民党政治の中では、それ自体が中曽根政治の力を示している。

だが、政治の絶頂は永遠には続かない。1987年に導入を目指した売上税は激しい反発を受けて挫折し、中曽根自身も後に、国民への説明時間や手続きが十分ではなく、理解を得られなかったことを認めている。 それは皮肉にも、「国民に語りかける政治」を掲げて成功してきた中曽根が、最後に国民への説明不足によって大型改革につまずいた出来事だった。

強い首相でも、世論を越えて政治を行うことはできない。むしろ中曽根政治の成功と失敗は、大統領的リーダーシップとは世論を無視する政治ではなく、世論との関係を絶えずつくり続けなければ成立しない政治であることを示している。

総理を辞めても、「国家を語る政治家」を辞めなかった

1987年11月、中曽根は竹下登を後継に選び、総理の座を退いた。だが、そこで政治家としての人生が終わったわけではなかった。1988年には世界平和研究所を設立し、安全保障や国際経済について研究・政策提言を行う拠点をつくり、政界の長老として発言を続けた。

もちろん、その晩年が完全に平穏だったわけでもない。リクルート問題をめぐって自民党を離党する時期もあり、中曽根政治の影の部分が消えたわけではなかった。それでも国会議員としての活動を続け、2003年まで衆議院議員の座にあった。

その政界最後の場面も、中曽根らしい。85歳となった2003年、小泉純一郎首相が自民党の比例代表候補に73歳定年制を厳格に適用しようとしたため、中曽根は引退を求められた。当初は強く反発したものの、最終的には立候補を断念し、1947年以来続いた56年余りの国会議員生活に幕を下ろした。

ここには奇妙な歴史の巡り合わせがある。中曽根が開拓した「総理が国民に直接訴え、党内の長老や派閥を越えて決断する政治」を、より鮮明な形で実践した政治家の一人が小泉だった。その小泉による党改革の対象となり、昭和政治を代表する中曽根自身が舞台から降ろされることになったのである。

自分がつくった新しい政治の型が、やがて自分の属していた古い政治の世界を壊していく。その場面は、中曽根康弘という政治家の終幕として、不思議なほど象徴的だった。

なぜ中曽根は「大統領型首相」を目指したのか

結局、中曽根康弘はなぜ大統領型首相を目指したのだろうか。

それは単純に権力欲が強かったからではない。もちろん、政治家として強烈な上昇志向を持った人物であったことは否定できない。しかしその奥には、戦争と敗戦を経験し、戦後日本の政治を最初から見続けてきた人物として、「誰が国家の方向を決め、その結果に責任を負うのか」という問いがあったのではないだろうか。

派閥が総理を選び、官僚が政策をつくり、業界団体が利益を守り、政治家がそれを調整する。その仕組みは高度経済成長期の日本を安定させるうえで大きな役割を果たしたが、経済大国となり、国際政治でも責任を求められるようになった1980年代には、従来の調整型政治だけでは国家の方向を決めにくくなっていた。中曽根はそこに、国民へ直接語りかける首相、政策の優先順位を自ら決める首相、外国の首脳と国家を代表して渡り合う首相を置こうとしたのである。

その試みには危うさもあった。指導者の個人的信念が強くなれば、議会や党内の慎重な議論が軽視される危険があり、世論への直接訴求が政治的演出へ傾けば、政策の複雑さが単純な物語に置き換えられる可能性もある。中曽根自身、靖国参拝や売上税をめぐって、強い政治指導と社会の合意との間にある難しさを経験した。

それでも、中曽根以前と以後で、日本の総理大臣像がまったく同じだったとは言いにくい。総理自身がテレビの前に立ち、国民へ政策を説明し、首脳外交を自ら演出し、選挙で得た支持を背景に党内を動かすという政治は、その後の日本政治で繰り返し現れるようになった。中曽根が完全な形で大統領型首相を完成させたというより、総理大臣という職にはこれほど大きな政治的可能性があることを、日本政治に見せたと考える方が適切なのかもしれない。

昭和政治最後の大物とは何だったのか

中曽根康弘は2019年11月29日、101歳で亡くなった。1918年に生まれた人物が、令和の日本まで生きたことになる。

その101年を振り返れば、戦前の日本、太平洋戦争、敗戦、占領、55年体制、高度経済成長、冷戦、バブル経済、平成の政治改革、そして21世紀の日本までが一人の人生の中に収まっている。1947年に28歳で国会へ入った青年が、1980年代にはレーガン大統領と並んで世界政治を語り、21世紀には小泉純一郎から世代交代を迫られる長老になったのである。

だから中曽根を「昭和政治最後の大物」と呼ぶとき、その「大物」とは単に権力が大きかったという意味ではないのだろう。国家とは何か、憲法とは何か、安全保障とは何か、日本は世界でどのような国になるべきなのかという巨大な問いを、政治家自身の言葉で語ることをためらわなかった最後の世代に属していた、という意味の方が近い。

その思想に賛成するか反対するかは別問題である。中曽根政治には功績もあれば、現在まで評価の分かれる政策や言動もある。しかし、半世紀を超えて政治の中心近くに居続けながら、最後まで「日本という国をどうするのか」という問いを手放さなかったことだけは確かだろう。

中曽根康弘が求めた「大統領型首相」とは、結局のところ権力の形式ではなく、政治家が国家の進路について自ら決断し、自ら国民に説明し、その結果について自ら歴史の評価を受けるという政治家像だったのではないか。

昭和という時代が遠くなった現在、中曽根の政治を振り返る意味もそこにある。強い総理がよいのか、調整する総理がよいのかという単純な二者択一ではなく、民主主義の中で政治的リーダーシップはどこまで強くあるべきなのか。そして、強い指導者を望むとき、その力を誰が監視し、誰が最後に裁くのか。

中曽根康弘という政治家の生涯は、その問いへの答えではない。

むしろ、昭和から令和へ残された、まだ終わっていない問いなのである。

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