地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、小泉が訴えた基本的な論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものであり、自民党という政党そのものを消滅させるという意味ではなかった。長く続いてきた自民党政治の仕組みを改革し、それを妨げる勢力があるならば、党内の既存秩序を壊してでも変えるという主張だったのである。

 2001年4月、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年9月、郵政解散によって行われた衆議院総選挙では、自民党が296議席を獲得し、公明党と合わせた与党は327議席に達した。2003年の総選挙で自民党が獲得した237議席と比較すると59議席の増加であり、自民党の改革を掲げて登場した政治家が、結果として自民党に歴史的な大勝をもたらしたことになる。

 しかし、この結果だけで小泉を「自民党を強くした総理」と評価してよいのだろうか。小泉退任から3年後の2009年には、自民党は119議席まで減少して民主党に政権を明け渡しており、2005年の圧勝が長期的な組織力の強化を意味していたのかについては、別の検証が必要になる。そもそも、小泉が変えようとした自民党の仕組みと、小泉時代に強まった自民党の選挙上の能力は、必ずしも同じものではなかった。

 この問題を考えるには、単に小泉の人気や選挙の勝敗を見るのではなく、自民党の組織構造、1990年代からの政治制度改革、2005年の得票率と議席数の関係、さらに小泉退任後の政治的変化を合わせて検討する必要がある。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単一の思想や政策方針によって統一された政党というよりも、異なる政治的立場や利害を党内に抱え込むことで政権を維持してきた政党だった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体など、さまざまな利益集団が結びついていた。政治家は地域の要望を国政へ持ち込み、支持団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員の選挙や政治活動を支援しながら、総裁、大臣、党役員などのポストを競っていた。

 こうした政治には、政策決定に時間がかかり、既存の制度から利益を得ている人々への配慮によって改革が難しくなるという問題があった。公共事業や補助金などの政策資源が選挙上の支持と結びつけば、政策の必要性や費用対効果よりも、既存の支持関係を維持することが優先される危険もある。しかし、その一方で、自民党内部に多様な意見を抱え込み、対立する利害を調整するという機能も存在していた。財政支出の拡大を求める政治家と財政規律を重視する政治家、都市部の経済政策を重視する政治家と農村の利益を代表する政治家が、同じ政党に所属しながら政策を調整できたのである。

 このような仕組みは、政治学的には利益集約や党内調整の機能として理解できる。多様な利益を一つの政党の内部で調整できれば、社会の対立がそのまま政党間の対立へ発展することを抑えられる反面、調整に必要な時間や妥協によって政策の一貫性が損なわれる場合もある。つまり、従来型の自民党政治は単に古く非効率だったのではなく、長期政権を可能にする安定性と、改革を難しくする硬直性を同時に持っていたのである。

 小泉が批判したのは、こうした仕組みのうち、既存の利益関係や党内の力学によって政策変更が妨げられる部分だった。特に郵政民営化をめぐっては、郵政事業と関係の深い政治家や支持組織の影響力を問題視し、党内の合意形成を優先して改革が進まない政治を変えようとした。ただし、小泉が従来の支持団体や地方組織をすべて否定したわけではなく、自民党の組織基盤を全面的に解体したわけでもない。この点を区別しなければ、「自民党をぶっ壊す」という言葉の意味を実際以上に大きく解釈することになる。

自民党の変化は小泉以前から始まっていた

 小泉政治を理解するうえで重要なのは、自民党の権力構造の変化を小泉一人の功績や責任として扱わないことである。日本政治では1990年代から制度改革が進んでおり、小泉が首相になる以前に、党内の権力関係や政策決定の仕組みはすでに変化し始めていた。

 特に大きな転換点となったのが、1994年の政治改革によって導入され、1996年の総選挙から実施された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。その結果、候補者は自民党という政党の支持だけでなく、派閥、後援会、業界団体などを通じて自分自身の支持基盤を形成する必要があり、派閥が選挙資金や政治活動を支えることには大きな意味があった。

 これに対して小選挙区制では、基本的に一つの選挙区で一人の議員しか当選できないため、党がどの候補者を公認するかという判断の重要性が高くなる。候補者個人の支持組織が不要になるわけではないが、政党本部や党執行部の公認権が以前より強い政治的意味を持つようになり、政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、政党本部の役割を拡大する方向に作用した。

 さらに、1990年代から進められた行政改革によって、首相官邸を中心とした政策調整の仕組みも変化した。2001年1月の中央省庁再編では内閣府が設置され、経済財政諮問会議などを通じて、首相が経済財政政策の基本方針に関与する制度的な基盤が整備された。これらは小泉政権が発足する前に準備された改革であり、小泉は既存の制度を積極的に活用して、首相主導の政策運営を目に見える形にしたのである。

 したがって、自民党における派閥の影響力低下や党執行部の権限拡大は、小泉政権だけによって生じた現象ではない。小泉の特徴は、すでに進行していた制度的な変化を政治的な指導力と結びつけ、党内の反対勢力との対立を通じて、その効果を強く表面化させたことにあった。

2001年総裁選で現れた新しい権力の作り方

 小泉の政治手法は、2001年の自民党総裁選ですでに現れていた。当時の自民党では派閥による国会議員票の取りまとめが総裁選を左右してきたが、小泉は地方の党員から強い支持を獲得し、その結果が国会議員の投票行動にも影響を与えた。総裁選の結果、小泉は地方票と国会議員票を合わせて298票を獲得し、橋本龍太郎らを破って総裁に選出された。

 この選挙で特徴的だったのは、小泉が党内の派閥だけでなく、自民党員や一般の有権者にまで改革を訴え、その支持を党内政治へ持ち込んだことである。もちろん、制度上は国民が自民党総裁や内閣総理大臣を直接選ぶわけではない。しかし、世論調査や報道によって小泉への支持が広く可視化されれば、党内の政治家にとっても、その支持を無視することが難しくなる。

 従来型の自民党政治では、総理大臣であっても派閥の有力者や党内の調整機関との関係を重視しなければならなかったが、小泉は国民の支持を政治的な資源として利用し、党内の力関係を変えようとした。この方法は、世論が政策決定を後押しする可能性を広げる一方で、党首の人気が低下すれば指導力も弱くなるという特徴を持っている。小泉時代に強まった党首中心の政治には、発足当初からそのような強さと不安定さが同居していたのである。

郵政民営化を政策対立から政治的対立へ変えた

 2005年、小泉政権最大の政治的争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業は郵便、郵便貯金、簡易生命保険という異なる性格の事業を含み、全国に広がる郵便局網を維持しながら、金融事業や郵便事業の経営形態をどのように変更するかという複雑な問題を抱えていた。民営化によって経営の効率性や競争条件を改善できるという主張がある一方で、採算性の低い地域におけるサービス維持や金融機能への影響を懸念する意見もあり、政策上の賛否を単純な改革派と反改革派に分けることはできなかった。

 しかし、小泉は郵政民営化を一つの政策課題として扱うだけでなく、自民党政治そのものを変える象徴的な争点として位置づけた。郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、その対立を党内の政策調整だけで解決しようとはせず、改革を進める勢力と改革に抵抗する勢力の対立として国民へ訴えたのである。

 2005年8月8日、郵政民営化関連法案は参議院本会議で賛成108票、反対125票によって否決された。同日、小泉内閣は衆議院を解散したが、参議院で法案が否決されたからといって、制度上、自動的に衆議院が解散されるわけではない。衆議院の解散は内閣の助言と承認によって行われるものであり、小泉は参議院での否決を受けて、衆議院総選挙で郵政民営化に対する政治的な支持を問うという判断をしたのである。その解散のあり方については、当時から政治的にも憲法解釈上も議論があった。

 小泉は郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区に別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれるようになった候補者たちである。これによって2005年の総選挙では、通常の与党と野党の対立に加えて、自民党総裁である小泉と自民党出身の反対派が競争するという特徴的な構図が形成された。

 この構図が持っていた重要な意味は、長期政権に対する不満の一部を、政権与党自身が取り込める可能性を作り出したことである。自民党の政治を変えたいと考える有権者が、必ずしも野党に投票する必要はなく、小泉を支持することによって自民党内部の改革を後押しできると受け止める余地が生まれた。政権を担当する自民党が、同時に既存政治と戦う改革勢力として振る舞うことができた点に、2005年の選挙の大きな特徴があった。

「小泉劇場」は選挙結果をどこまで左右したのか

 2005年の総選挙は「劇場型政治」と呼ばれ、テレビを中心とした報道でも大きく取り上げられた。郵政民営化という複雑な政策問題は、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい対立として伝えられ、反対派の選挙区に新しい候補者が登場する展開は、ニュースとしても扱いやすかった。小泉自身も長い制度説明より短く印象に残る言葉を用いることに長けており、政治的な対立を有権者が理解しやすい形へ置き換える能力を持っていた。

 ただし、テレビ報道が小泉を勝たせたと断定することには慎重であるべきだ。メディアを通じて小泉に接する機会が多かった人ほど小泉を支持していたとしても、その人たちが報道によって支持するようになったのか、もともと小泉を支持していたために関連番組を積極的に視聴したのかは、単純な調査だけでは区別できない。これは統計学でいう因果関係と相関関係の問題であり、報道への接触と投票行動の間に関連性が確認されても、報道そのものが票を増やしたことの直接的な証明にはならない。

 また、刺客候補の擁立についても、その政治的な象徴性と実際の得票効果は分けて考える必要がある。個々の候補者がどれほど票を増やしたのかについては、対立候補の顔ぶれ、地域の支持組織、選挙区の事情などを考慮しなければならず、刺客候補を擁立したから全国的な大勝が生まれたと単純化することはできない。

 それでも、2005年の選挙で小泉が全国共通の争点を形成し、党首の人気と選挙戦略を結びつけることに成功したという評価には、十分な合理性がある。重要なのは、テレビ報道、候補者擁立、郵政民営化への賛否、小泉個人への評価などが同時に作用していたと考えることであり、単一の要因だけで選挙結果を説明しないことである。

296議席という大勝を数字から検証する

 2005年の自民党の獲得議席は296議席で、2003年総選挙の237議席から59議席増加した。ただし、2005年の解散直前には離党などによって自民党所属議員が212人となっていたため、解散直前との比較では84議席の増加となる。2003年の選挙結果と比較するのか、2005年の解散時点と比較するのかによって増加数は異なり、二つの数字を混同してはいけない。

 議席数以上に重要なのは、実際の得票率である。2003年総選挙における自民党の小選挙区得票率は43.85%、比例代表得票率は34.96%だったが、2005年にはそれぞれ47.77%、38.18%へ上昇した。小選挙区では3.92ポイント、比例代表では3.22ポイントの上昇であり、自民党に投票した有権者の割合が実際に増えたことは確認できる。

 比例代表の得票数も、2003年の約2066万票から2005年には約2589万票へ増加した。増加率は約25%に達するため、2005年の大勝を単に選挙制度だけの結果とみなすことはできない。ただし、この期間には小選挙区の投票率も約59.9%から約67.5%へ上昇しており、自民党の得票増には、それまで投票しなかった有権者の参加、他党支持者の投票先変更、支持層の投票行動の変化など、複数の要因が関係していた可能性がある。

 その一方で、2005年の自民党は小選挙区で47.77%の得票率だったにもかかわらず、300議席中219議席を獲得している。小選挙区全体の73%に当たり、得票率と議席占有率の間には25ポイント以上の差が生じていた。これは、小選挙区制では各選挙区で最多得票を獲得した候補者が当選するため、全国得票率が過半数に達しなくても、選挙区ごとの競争状況によって多数の議席を獲得できることを示している。

 ただし、この差をすべて選挙制度の効果として独立に計算できるわけではない。どの政党がどの選挙区に候補者を立てたのか、他党の票がどの程度分散したのか、公明党との選挙協力がどのように機能したのかといった条件によって、得票率と議席数の関係は変わる。小泉の政治的な訴求力と、選挙制度が持つ議席増幅の仕組みを区別しながら、その両方が2005年の大勝に関係したと評価するのが妥当だろう。

圧勝によって強まった党内統率力と政策決定力

 2005年の総選挙は、自民党に大量の議席をもたらしただけでなく、小泉の党内での政治的な立場を強める結果にもなった。郵政民営化をめぐる党内対立を選挙の争点とし、その選挙で大勝したことで、小泉は改革を進めることへの強い政治的な正統性を得たのである。郵政民営化に反対していた議員の一部は党を離れ、選挙で落選した議員もおり、従来の党内勢力の関係も変化した。

 また、2005年の総選挙では自民党と公明党の合計議席が327となり、衆議院定数480の3分の2に当たる320議席を上回った。日本国憲法第59条では、参議院が否決した法律案について、衆議院が出席議員の3分の2以上の多数で再可決すれば法律となる仕組みが定められているため、与党が衆議院でこの議席規模を確保したことには、二院制の下で政策を進めるうえでも重要な意味があった。

 実際には、郵政民営化関連法案は総選挙後に改めて国会へ提出され、2005年10月14日には参議院でも賛成134票、反対100票によって可決、成立した。衆議院の再可決によって成立したわけではないが、選挙の圧勝によって政治的な力関係が変化し、以前には成立しなかった法案が成立したという事実は、小泉が選挙結果を政策決定力へ転換したことを示している。

 ただし、ここでも政治的な指導力の強化と政策の質を同一視すべきではない。首相が党内の反対を押し切って政策を進められることは、意思決定の迅速化や政策の一貫性につながる可能性がある一方、異なる意見を十分に検討しないまま決定する危険も生む。郵政民営化が長期的にどの程度の経済的利益をもたらしたかという政策評価と、小泉がそれを実現する政治的能力を持っていたかという政治過程の評価は、分けて考える必要があるのである。

小泉は自民党の何を強くしたのか

 ここまでの経過から、小泉時代に強まった自民党の能力を整理することができる。第一に、総裁が全国共通の争点を設定して有権者へ訴える能力であり、第二に、党の公認権を利用して候補者や議員を統率する能力、第三に、選挙で得た支持を政策決定の政治的な力へ転換する能力である。さらに、党首の人気によって無党派層を含む幅広い有権者へ訴え、従来の支持基盤だけでは得られなかった票を獲得する可能性も示した。

 それまでの自民党が、地域の後援会、業界団体、派閥、地方議員などの支持を積み重ねることによって全国的な選挙力を形成していたとすれば、小泉時代には、その上に総裁を中心とした全国的な選挙戦略が強く加わったと考えられる。自民党が地域ごとに支持を積み上げる政党であると同時に、党首の人気や全国的な争点によって有権者を動かす政党としての性格を強めたのである。

 しかし、この変化によって地方組織や業界団体の影響力が全面的に失われたと判断することはできない。実際、選挙区における候補者個人の後援会や地方議員との関係は、その後も重要な役割を果たしており、全国的な党首人気だけで各地域の選挙活動が成立するわけではなかった。公明党との選挙協力も、小選挙区での議席獲得を支える重要な条件であり、小泉時代の自民党の強さを党首個人の人気だけで説明することには限界がある。

 また、派閥の影響力が弱まったことと、政党内部の意見調整能力が低下したことも、同じ現象ではない。派閥が担ってきた人事や資金配分の役割が変化しても、党の政策部会、国会議員間の調整、地方組織との協議など、別の経路で意見調整が行われる可能性がある。小泉が従来の党内秩序に大きな影響を与えたことは確かだが、それが自民党全体の調整能力をどの程度、どれほど長期間にわたって弱めたのかについては、個別の政策決定過程や組織活動を検証しなければ結論を出せない。

 つまり、小泉は自民党の選挙上の能力と総裁の統率力を強めた一方、従来型の支持組織や党内調整の仕組みをすべて解体したわけではない。ここで生じたのは、古い組織力が完全に新しい組織力へ置き換わったという単純な変化ではなく、既存の支持基盤の上に党首中心の政治手法が強く重なったという変化だったと考える方が実態に近い。

「抵抗勢力」を排除する政治が抱えていた問題

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な政策対立を「改革する側」と「改革に抵抗する側」という分かりやすい構図に整理したことだった。この方法は、政策の争点を明確にして有権者の関心を集め、従来の党内調整では進みにくかった改革を実現するうえで有効に働く場合がある。しかし、現実の政策には、単純な賛成と反対の二つだけでは整理できない問題が多く、改革の目的には賛成でも制度設計や実施方法には反対するという立場も当然あり得る。

 例えば郵政民営化についても、経営の効率化には賛成しながら、地方の郵便局網や金融サービスへの影響を懸念する立場が考えられる。そのような政策上の異論まで改革への抵抗として扱えば、政治的な対立は明確になる反面、制度の問題点を修正するための議論が難しくなる可能性がある。

 企業経営に置き換えれば、意思決定に時間がかかる組織に強力な経営者が現れ、既存の調整手続きを短縮することによって改革を進める状況に近い。決定速度が上がり、短期的な業績が改善したとしても、その経営者が去った後に同じ成果を維持できるかどうかは別問題であり、組織内部で情報を集約し、異なる立場を調整しながら意思決定する能力が失われていれば、長期的な安定性が低下する可能性もある。

 もっとも、ここから小泉政治が自民党の調整能力を実際に低下させたと断定することも適切ではない。確認できるのは、小泉が郵政民営化をめぐって従来の党内調整よりも選挙による政治的決着を優先したことと、その方法によって大きな政治的成果を得たことである。こうした手法が政党の内部制度にどの程度定着したかという問題は、小泉退任後の経過まで含めて判断しなければならない。

2006年の郵政造反組復党は何を意味したのか

 小泉が2006年9月に首相を退任すると、自民党内部では早くも郵政民営化をめぐる党内対立の処理が問題となった。同年12月4日、安倍晋三政権下の自民党は、郵政民営化に反対して離党した無所属衆議院議員11人の復党を正式に認めた。2005年の選挙では改革への抵抗勢力として扱われた政治家たちが、その翌年には再び自民党へ戻ることになったのである。

 この出来事は、小泉の改革によって旧来の自民党政治が完全に解体されたわけではなかったことを示している。小泉は郵政民営化への賛否を党内の重要な対立軸とし、反対派を公認しないという強い手法によって党内の力関係を変えたが、その判断が後継政権にも恒久的に維持されたわけではなかった。小泉の政治手法によって一時的に弱まった勢力の一部が、その後に再び党内へ組み込まれたという事実は、組織改革の持続性を考えるうえで重要である。

 ただし、この復党を単純に改革の失敗と評価することもできない。政党には選挙で勝つだけでなく、多様な政治家や支持者を内部に取り込むことで勢力を維持する機能もあるため、復党は失われた党内の統合機能を回復しようとする判断だったとも解釈できる。その一方で、前年の選挙で郵政民営化への賛否を明確に問うたこととの整合性が問題になり、党の方針や政治家の行動に対する有権者の信頼を損なう危険もあった。

 したがって、小泉によって生じた変化は、すべてが不可逆的なものだったわけではない。首相の指導力によって既存秩序を変えることと、その変化を政党の制度として定着させることは別であり、2006年の復党問題は、その違いを具体的に示す出来事だったのである。

2007年参議院選挙で見え始めた自民党の弱さ

 小泉退任後の自民党を考えるうえでは、2009年の衆議院選挙だけでなく、その2年前に行われた2007年の参議院選挙も重要である。2007年7月の参議院選挙では、自民党が改選37議席にとどまり、民主党が参議院の第一党となった。衆議院と参議院で多数派の構成が異なる、いわゆる「ねじれ国会」が生じたことで、政府・与党の政策運営は難しくなった。

 この選挙では、消えた年金記録問題、閣僚の政治資金問題、政府への不信などが大きな争点となり、郵政造反組の復党をめぐる批判も自民党の政治姿勢に対する評価へ影響したと考えられる。2005年には小泉自身が改革の象徴となることで政権与党への批判をかわしていたが、後継政権では同じ構図を再現することが難しくなり、政権に対する不満が直接与党への批判として表れやすくなった。

 ただし、ここでも2007年の敗北を小泉退任の結果だけで説明することはできない。年金記録問題や閣僚の不祥事、個別政策への評価など、それぞれ独立した政治的要因が存在していたからである。小泉のような人気の高い指導者がいなくなったことが政権にとって不利に働いた可能性はあるが、それをどの程度の得票減少につなげて評価できるかについては、慎重な検証が必要となる。

2009年の敗北は小泉改革の失敗だったのか

 2009年8月の衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党が308議席を獲得して政権交代が実現した。2005年には296議席を獲得した自民党が、わずか4年後には177議席を失ったことになるため、小泉時代に形成された選挙上の強さが長期的な安定につながらなかったことは明らかである。

 しかし、この敗北を小泉改革の直接的な結果と考えるのは適切ではない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で首相が交代し、2007年の参議院選挙敗北による政治運営の困難に加えて、2008年の世界金融危機による経済環境の悪化も重なった。民主党に対して政権交代を期待する有権者が増えたことも重要であり、2009年の選挙は自民党の支持低下だけでなく、野党側の支持拡大によっても説明されなければならない。

 実際の得票率を見ると、2005年に47.77%だった自民党の小選挙区得票率は、2009年には38.68%へ低下しており、その差は9.09ポイントに達している。比例代表得票率も38.18%から26.73%へ11.45ポイント低下しているため、議席の激減が選挙制度による増幅効果だけで生じたわけではなく、自民党に対する実際の支持が相当程度失われていたことも確認できる。

 それでも、得票率の低下と議席数の減少が同じ割合になるわけではない。小選挙区制では多くの選挙区で僅差の勝敗が逆転すると、全国得票率の変化を上回る議席変動が生じることがあり、2005年に自民党へ有利に働いた制度的な特徴が、2009年には民主党に有利に働いたのである。

 したがって、2005年と2009年の大きな落差から読み取れるのは、小泉の改革によって自民党が弱体化したという単純な結論ではなく、小選挙区制の下では党首や政党への評価、相手政党の状況、選挙協力などによって議席数が大きく変動するということである。小泉はその制度の下で自民党を大勝させることに成功したが、その成功が後継政権の勝利まで保証するものではなかった。

2012年の議席回復が示す、もう一つの現実

 小泉時代の自民党の強さを長期的に考えるなら、2009年の敗北で分析を終えるべきではない。民主党政権下で行われた2012年12月の衆議院総選挙では、自民党が294議席を獲得して政権に復帰したが、このときの得票率を見ると、議席数から受ける印象とは異なる実態が浮かび上がる。

 2012年の自民党の小選挙区得票率は43.01%、比例代表得票率は27.62%だった。2009年の比例代表得票率26.73%と比較すると上昇幅はわずか0.89ポイントであり、比例代表の得票数に至っては約1881万票から約1662万票へ減少している。それにもかかわらず、自民党は2009年の119議席から2012年には294議席へと大幅に議席を増やしたのである。

 この結果は、選挙で大量の議席を獲得することと、有権者からの支持を同じ程度に拡大することが必ずしも一致しないことを示している。2012年には民主党への支持が大きく低下し、民主党以外の政党も複数に分かれて候補者を擁立したため、選挙区ごとの票の分布が自民党に有利に働いた。公明党との選挙協力も含めて考えれば、自民党の議席数は自民党自身の得票率だけで決まるわけではなく、野党の競争状況や候補者配置によっても大きく左右されることが分かる。

 2005年の296議席と2012年の294議席は、議席数だけを見ればほぼ同じ規模の勝利だったが、比例代表得票率は2005年の38.18%に対して2012年には27.62%であり、10ポイント以上の差が存在していた。この事実を踏まえると、2005年の大勝を小泉の個人的な人気だけに帰することも、2012年の大勝を小泉が作った新しい自民党の選挙手法が定着した証拠とみなすこともできない。

 むしろ、1990年代以降の選挙制度の下では、有権者の支持の分布と野党の競争状況が議席数に強く反映されるようになり、政党が大勝と大敗を繰り返す可能性が高まったと考えるべきだろう。ただし、それがかつての中選挙区制と比べてどの程度大きな変動なのかについては、選挙区構成や政党数などの違いを調整した比較分析が必要であり、議席数の推移だけで制度の影響を完全に証明できるわけではない。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えたのか

 ここまで検討すると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。小泉が目に見える成果を残したのは、1990年代から整備されてきた政治制度を利用して、党首の指導力を全国的な選挙戦略へ転換する方法を示したことだった。

 従来の自民党は、地域の後援会、業界団体、地方議員、派閥などを通じて支持を積み重ね、その総和によって全国選挙を戦ってきた。小泉時代には、こうした支持基盤が消えたわけではないが、それに加えて総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を利用して候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ訴えかける政治の重要性が高まった。政党として長い時間をかけて形成した地域組織の力と、党首個人の人気や全国的な政治課題によって支持を集める力が、選挙において組み合わされるようになったのである。

 もっとも、この手法を小泉が一人で発明したと考えることはできない。選挙制度改革、政治資金制度改革、中央省庁再編、報道環境の変化など、小泉以前から存在していた条件が重要な役割を果たしていたためである。小泉の政治的な特徴は、それらの制度的条件を効果的に利用し、特に2005年の郵政解散において、自民党内部の対立を全国的な選挙の争点へ転換したところにあった。

 この方法には強さと弱さが同居している。党首が高い支持を集め、全国的な争点設定に成功すれば、従来の支持組織を超えて多数の票を獲得できる可能性があるが、党首の評価が低下した場合や野党側が有利な争点を形成した場合には、同じ制度の下で大きく議席を失う危険もある。特定の政治家の人気や指導力を利用して選挙に勝つことと、その政治家が退いた後も政党として安定した支持を維持することは、必ずしも一致しないのである。

政党の強さは議席数だけでは測れない

 そもそも、政党の強さとは何を意味するのだろうか。選挙で多数の議席を獲得する能力、全国に安定した支持組織を維持する能力、優れた候補者を継続的に育成する能力、異なる意見を調整する能力、政策を立案して実行する能力など、複数の側面が存在している。

 これらは必ずしも同じ方向に変化するわけではない。党首の権限が強まれば意思決定を迅速化できる可能性がある一方で、党内の異論が反映されにくくなる場合もある。地方組織や支持団体との関係を重視すれば安定した選挙基盤を維持しやすくなる反面、既存の利益関係に配慮することで政策変更が難しくなる場合もある。全国的な人気によって無党派層を獲得することは短期的な大勝につながり得るが、その支持が長期間維持されるとは限らない。

 したがって、小泉政治の評価には、何を政党の強さと考えるかという基準が欠かせない。2005年の選挙で小泉が自民党の議席獲得力と総裁の統率力を大きく高めたことには明確な根拠があるが、地方組織の継続性、党内の政策調整機能、後継指導者の育成能力まで同時に改善されたと確認できるわけではない。

 また、小泉によって自民党の従来型の政治構造がどの程度変化したのかについても、短期的な政治的成果と長期的な組織変化を区別する必要がある。2006年の郵政造反組復党は、2005年の選挙で形成された党内秩序が一部修正されたことを示しており、2009年の敗北と2012年の議席回復は、選挙制度や対立政党の状況が議席数に大きく作用することを示している。これらの出来事を合わせて考えると、小泉の残した変化は、自民党の従来型組織を全面的に解体したものではなく、既存の政治構造の上に党首中心の選挙と政策運営を強く押し出したものだったと理解できる。

「自民党をぶっ壊す」という言葉は実現したのか

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。小泉は自民党を離れて別の政党を作るのではなく、自民党の中に残り、自民党総裁として党内の既存秩序を攻撃し、その対立を通じて自民党への支持を集めた。長期政権への不満が野党の支持拡大につながるとは限らず、政権与党自身が改革を掲げることで、政治を変えたいと考える有権者の支持を取り込めることを示したのである。

 しかし、小泉が従来の自民党政治を完全に壊したと考えるのは、歴史的事実を単純化しすぎている。派閥や後援会、業界団体、地方議員のネットワークはその後も存在し、郵政民営化をめぐる党内対立の一部も後継政権によって修正された。自民党が長く維持してきた利益調整型の政治は、小泉時代に強い圧力を受けたものの、その機能が全面的に失われたわけではなかった。

 一方で、小泉が何も変えなかったという評価も成り立たない。全国的な世論を背景に党内の反対勢力を抑え、党の公認権を利用して候補者を統制し、総選挙での勝利を政策実現の政治的な力へ転換したことは、従来型の自民党政治とは異なる指導力を示していた。2005年の選挙は、小泉個人の人気や政治手法に加え、それ以前から進んでいた制度改革が一体となって大きな政治的成果を生んだ事例だったといえる。

 結局、小泉が自民党を強くしたのか、それとも弱くしたのかという問いには、一つの答えだけを与えることは難しい。選挙で議席を獲得する能力や総裁の指導力という基準では、小泉が自民党を強くしたという評価には根拠がある。しかし、従来型の党内調整機能や地方の支持基盤がどの程度変化し、その変化が長期的な政党運営にどのような影響を与えたのかについては、2005年の選挙結果だけから判断することはできない。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が、1990年代から進行していた政治制度改革を背景に、自民党の選挙戦略と党内の権力関係を大きく変化させた総理だったと考えることである。従来の派閥や利益団体を中心とする政治を批判しながら、党首の人気、全国共通の争点、党の公認権を組み合わせることによって、自民党に新しい選挙上の強さをもたらした。ただし、それは従来の組織力を完全に置き換えたものではなく、後継政権でも同じ効果が維持されることを保証するものでもなかった。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉を、自民党という政党の消滅や従来の政治構造の全面的な解体と理解するなら、小泉の宣言がそのまま実現したとはいえない。しかし、自民党総裁が党内の反対勢力と対決し、全国的な世論を利用して党の力関係を変えるという政治手法に注目するなら、小泉が自民党政治の一部を大きく変えたことも否定できない。

 小泉純一郎は、自民党を壊して弱くした総理でも、従来の自民党を守って強くした総理でもなかった。既存の政治制度と組織基盤を利用しながら、その内部に新しい権力の集中と選挙での勝ち方を持ち込んだ総理だったのである。

 そして、その政治手法がもたらした最大の教訓は、強い指導者の下で選挙に圧勝することと、政党が長期的に強くなることは同じではないという点にある。小泉が示した新しい勝ち方は、自民党に大きな成功をもたらしたが、その成功を政党の持続的な強さへ転換するには、党首の人気だけではなく、地域の支持基盤、党内の意見調整、政策実行能力、後継指導者の育成など、別の条件が必要だった。

 小泉政治の歴史的な意味は、自民党を強くしたか弱くしたかという単純な結論よりも、政党が持つ複数の強さを際立たせ、それらが必ずしも両立しないことを明らかにした点にあったと考えられる。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 1998年7月24日、自民党総裁選挙の結果が出た。小渕恵三225票、梶山静六102票、小泉純一郎84票。投票総数411票のうち小渕が54.7%を獲得し、他の二人を引き離して第18代自民党総裁に選ばれた。三人のなかで最も強烈な印象を与える人物が勝ったわけではなかった。この総裁選をめぐって、田中眞紀子は三人を「凡人・軍人・変人」と評した。軍人は旧陸軍航空士官学校出身で政策への強いこだわりを持つ梶山、変人は党内の慣例にとらわれず持論を唱える小泉、そして凡人が小渕だった。

 この言葉はあまりに分かりやすかったため、三人の政策や党内での立場以上に後世へ残った。しかし、考えてみれば「凡人」という呼び名には奇妙なところがある。本当に平凡なだけの政治家が、日本最大の政党の総裁となり、内閣総理大臣にまで到達できるものだろうか。しかも小渕が勝利したのは、単なる人気投票ではなく、長い歴史を持つ自民党の権力構造のなかで行われた選挙だった。

 小渕は総裁選に突然現れた無名の政治家ではない。1963年に26歳で衆議院議員に初当選して以来、35年間にわたって国会に議席を持ち続け、竹下内閣では官房長官として新元号「平成」を発表した。その後も自民党幹事長、党副総裁、有力派閥の会長、橋本内閣の外務大臣などを経験していた。国民から見れば柔和な「平成おじさん」であっても、永田町の内部から見れば、自民党政治の中心部を長く歩いてきた人物だったのである。

 だから小渕を理解するには、「凡人なのに総理になった」という物語から離れた方がよい。むしろ興味深いのは、これほど長く権力の中心にいた政治家が、なぜ最後まで「凡人」に見え続けたのかということである。その問いを考えるには、個人の性格だけでなく、選挙制度、世襲地盤、派閥の力関係、党内での人間関係、そして1998年という時代の条件を重ね合わせる必要がある。

巨人二人のいる選挙区から始まった

 小渕恵三の政治家人生には、最初から有利な条件があった。父の小渕光平は衆議院議員であり、その政治地盤を引き継ぐ形で1963年の衆議院議員総選挙に出馬したからである。したがって、小渕は明らかな世襲政治家であり、「何も持たない普通の青年が努力だけで総理へ上り詰めた」という成功物語にしてしまうのは正確ではない。

 しかし、受け継いだ地盤がそのまま安泰を意味したわけでもなかった。小渕が初当選した旧群馬3区には、すでに福田赳夫と中曽根康弘がいた。後に二人とも総理大臣となる政治家である。1963年の選挙で福田は9万5378票、中曽根は8万4504票を獲得したのに対し、新人の小渕は4万7350票だった。それでも小渕は定数4の選挙区で3位に入り、26歳で初当選を果たしている。

 ここで重要なのは、当時の選挙制度である。旧群馬3区は、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区だった。現在の衆議院小選挙区のように、福田、中曽根、小渕のうち一人だけが当選する仕組みではない。同じ自民党の候補者同士が競争しながら、それぞれ異なる後援会や支持組織によって議席を確保することが可能だった。小渕の初当選は、福田や中曽根を打ち負かしたことを意味するものではなく、有力な先輩議員が存在する選挙区のなかで、自分の当選に必要な支持基盤を維持できたことを示している。

 これは、その後の小渕の政治人生を考えるうえで示唆的である。自分より目立つ人物が周囲にいても、必ずしもその人物を倒す必要はない。自分の支持者を確保し、選挙区で議席を守り、党内での立場を少しずつ高めていく方法もある。ただし、1963年の当選という事実だけから、当時の小渕がすでに優れた調整能力を持っていたと断定することはできない。父から継承した後援会や地域の政治的関係も、当選を支えた重要な条件だったと考えるべきだろう。

 政治では、目立つことと生き残ることは同じではない。演説がうまい政治家が必ず選挙に強いわけではなく、政策に詳しい政治家が必ず党内で多数派を形成できるわけでもない。とりわけ当時の自民党では、選挙区で支持を積み、派閥のなかで信用を得て、他派閥との関係を維持し、人事や選挙をめぐる長い交渉のなかで自らの位置を高めていくことが、権力への重要な経路だった。小渕が政治人生を通じて蓄積したものは、まさにそうしたテレビには映りにくい政治的な資源だった。

小渕は「突然出世した」のではない

 小渕の経歴を時系列で眺めると、総理就任までの道筋が長い時間をかけて形成されていたことが分かる。若くして一気に党内中枢へ駆け上がった小沢一郎とも違い、後に世論の支持を背景に党内秩序を揺さぶった小泉純一郎とも違う。小渕の政治人生には、選挙で当選回数を重ね、党内の役職を経験し、その時間そのものを政治的な資産へ変えていく過程があった。

 田中角栄の流れをくむ派閥で経験を積み、1979年には第2次大平内閣で総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣した。1987年には竹下派の結成に参加して事務総長となり、同年11月の竹下内閣発足に伴って官房長官に就任する。国民にとって最も鮮烈だったのは、1989年1月7日に「平成」と書かれた額を掲げた場面だったが、それは小渕にとって政治人生の頂点ではなく、すでに党内中枢に入っていたことを示す一つの出来事だった。

 その後も1991年に自民党幹事長、1994年に党副総裁、1997年には橋本内閣の外務大臣となった。党の選挙や組織運営に関わる幹事長、党内の重鎮として位置づけられる副総裁、政府の外交政策を担当する外務大臣では、それぞれ求められる役割が異なる。小渕はそうした役職を経験することによって、単に当選回数の多いベテラン議員というだけではない立場を築いていた。

 そして1992年、小渕の政治人生を大きく変える出来事が起きる。巨大な竹下派では、金丸信の失脚後、派閥の主導権をめぐって激しい対立が生じていた。小沢一郎らは羽田孜を推し、それに対抗する勢力は小渕を推した。この後継争いの背景には、竹下登を中心とする勢力、参議院側を含む派閥内の力関係、小沢の政治手法への警戒など、複数の要因があった。

 ここで重要なのは、小渕が派閥会長になったことを「温厚な人柄が評価されたから」とだけ説明しないことである。小渕自身の信用や交渉能力が意味を持ったとしても、その地位は派閥内の組織的な支持と権力関係のなかで形成された。派閥の指導者は、人柄がよいという理由だけで選ばれるものではない。誰を会長にすれば組織を維持できるか、どの政治勢力が主導権を握るかという判断が、そこには存在していた。

 結果として竹下派は分裂し、羽田・小沢系の議員たちは別の政治集団を形成した。一方、小渕は竹下派の主要部分を引き継ぎ、自民党内の有力派閥を率いる政治家となった。これは小渕にとって大きな政治的資産となったが、同時に「敵をつくらない政治家」という評価を考え直す材料でもある。小渕は対立のない世界で出世したのではなく、激しい権力闘争の当事者として、組織の分裂と再編を経験していたのである。

「凡人」の背後には巨大派閥があった

 小渕が1998年の総裁選で勝利した理由を考えるとき、最も重要な条件の一つが派閥の組織力である。当時の小渕派は90人前後の国会議員を抱える自民党最大級の派閥であり、小渕はその会長だった。この事実を抜きにして「人柄がよかったから225票を取った」と説明すれば、小渕政治の核心を見誤ることになる。

 自民党総裁選挙は国民による直接選挙ではない。しかも1998年の選挙は、現在の党員参加型の総裁選挙とも仕組みが異なり、党大会に代わる両院議員総会で実施された。投票したのは自民党所属の衆参両院議員と都道府県代表であり、国会議員票が圧倒的な比重を持っていた。そのため、国民的な知名度やテレビでの人気よりも、党内でどれだけの支持を組織できるかが選挙結果に強く影響する制度だった。

 実際の得票数を計算すると、小渕は411票中225票で54.7%、梶山は102票で24.8%、小泉は84票で20.4%だった。小渕は過半数を確保して明確に勝利したものの、残る二人の合計も186票に達していた。つまり、党内の支持が小渕に圧倒的に集中していたわけではなく、かなりの議員が別の候補者を支持していたことになる。

 また、小渕派が大きかったからといって、その所属議員全員が小渕に投票したと考えることもできない。対立候補の梶山静六自身が小渕派に属していた有力政治家であり、総裁選への出馬に際して派閥を離れていたからである。そこには政策判断や党内での立場をめぐる対立があり、派閥が一枚岩だったわけではない。派閥の所属人数と、実際に候補者が獲得できる票数は区別して考えなければならない。

 仮に小渕派の勢力を94人と置き、全員が小渕に投票したと想定しても、225票を獲得するには派閥外から少なくとも131票が必要になる。これは実際の投票内訳を示す数字ではなく、派閥の規模から考えた単純な計算にすぎない。それでも、小渕の勝利が自派閥の人数だけでは説明できず、宮澤派など他の政治勢力からも支持を獲得する必要があったことは理解できる。

 したがって、小渕の勝利を説明するには二つの条件を区別する必要がある。一つは、長い政治生活の末に自民党最大級の派閥を率いる位置まで到達したという組織的な条件である。もう一つは、その基盤の上で他派閥の支持を取り込み、総裁選の過半数を形成したという党内政治の条件だった。大派閥を持つことは有利だが、それだけで総裁選に勝てるわけではない。小渕は自らの組織基盤を持ちながら、党内の支持を過半数へ広げる位置にいたのである。

「敵をつくらない」は弱さだったのか

 強い政治家という言葉を聞くと、私たちはしばしば決断力のある人物を想像する。反対を押し切り、大胆な改革を打ち出し、敵と味方を鮮明にし、自らの理念に政治を引き寄せていくタイプである。しかし、その強さには代償もある。熱烈な支持者をつくる政治家は、同時に強い反対者を生みやすいからである。

 小渕は一般に、こうした対決型の政治家とは異なる人物として評価されてきた。相手を論破して自分を大きく見せるよりも、話を聞き、電話をかけ、関係を切らない。総理になった後には、本人がさまざまな人へ直接電話することから「ブッチホン」という言葉まで生まれた。これは庶民派の印象を与える政治的な演出でもあったが、小渕が対話や人間関係を重視する政治家として知られていたことも表していた。

 中曽根康弘が小渕を「真空総理」と評したことも、こうした人物像と関係している。この表現には、何を目指す政治家なのか輪郭が見えにくいという批判的な意味がある一方、真空であるからこそ多くのものを吸収できるという肯定的な意味も含まれていた。政治において自己主張の輪郭が薄いことは、常に弱点とは限らない。異なる立場の政治家が近づく余地を残し、自分が排除されるのではないかという警戒心を相手に抱かせにくくする場合があるからである。

 ただし、ここで「小渕は敵をつくらなかったから総理になれた」と断定することはできない。1992年の竹下派分裂は深刻な権力闘争だったし、1998年の総裁選でも梶山との対立が表面化している。小渕の政治人生が対立と無縁だったわけではない。より正確には、対立を経験しながらも、他の勢力との交渉や協力の可能性を維持しようとする政治手法を重視した人物と捉えるべきだろう。

 そして、因果関係を逆転させないことも重要である。小渕はもともと凡人だったから調整型になったのではなく、自民党という巨大な組織のなかで何十年も生き残る過程で、相手を不用意に刺激せず、対立を必要以上に広げず、関係をつなぎ続ける政治手法を発達させた可能性がある。その結果として、外からは「凡人」に見える政治家になったのかもしれない。

 もちろん、これは小渕の行動や経歴から考えられる解釈であって、性格が形成された過程を直接証明するものではない。しかし、政治家の能力を演説の巧みさや政策の独創性だけで測ることができないという点では、重要な見方を示している。大きな組織では、他人を従わせる力だけでなく、立場の違う人間を同じ方向へ動かす力も政治的な能力となるからである。

1998年という時代が小渕を押し上げた

 1998年、小渕に総理への機会が訪れた背景には、日本政治そのものの危機があった。日本経済はバブル崩壊後の長い停滞から抜け出せず、1997年には北海道拓殖銀行が経営破綻し、山一證券が自主廃業するなど、金融システムへの不安が深刻化していた。景気後退によって企業活動や雇用環境にも厳しさが増し、橋本龍太郎政権の経済運営への批判が高まっていた。

 1998年7月12日の参議院議員通常選挙で、自民党は改選議席を大きく減らして敗北した。橋本はその責任を取って退陣を表明し、後継総裁を決める選挙が行われることになった。そこで立候補したのが小渕、梶山、小泉の三人である。小渕の総裁選勝利は、本人の長い政治経験だけでなく、橋本退陣によって総裁の地位が空いたという政治的な機会があって初めて実現した。

 後の歴史を知る私たちから見ると、小泉純一郎の方がはるかに強い政治的な個性を持つ人物に見えるかもしれない。実際、わずか3年後の2001年、小泉は国民的な人気と地方からの支持を背景に総理大臣となる。しかし、1998年と2001年では総裁選の制度や党内の政治状況が異なっていた。2001年には都道府県連の票の比重が拡大され、地方の支持を集めることの意味が大きくなっていたのに対し、1998年には国会議員を中心とする党内支持の形成が、より直接的に勝敗を左右する仕組みだった。

 この制度のなかで見ると、小渕の35年間は単なる長い経歴ではなくなる。選挙を繰り返して議席を守り、派閥内で地位を高め、官房長官、幹事長、副総裁、外務大臣を経験し、巨大派閥の会長となり、他派閥との関係も築いてきた。それらの経験や組織的な立場が、総裁選で支持を集めるための政治的資産となったのである。

 ただし、ここでも結果から原因を単純に決めつけることはできない。小渕が最も優れた政策を掲げていたから勝ったと証明することも、調整型の性格だけで勝ったと証明することもできない。確認できるのは、小渕が大きな派閥基盤を持ち、他派閥の支持も獲得し、当時の選挙制度の下で過半数の票を集めたという事実である。その事実と、人物の性格や能力についての解釈は区別する必要がある。

自民党総裁になっても、参議院は小渕を選ばなかった

 小渕の首相就任を考えるうえで、もう一つ見落としてはならないのが日本の憲法制度である。日本の総理大臣は、国民が直接選ぶ大統領とは異なり、国会の議決によって指名される。自民党総裁になれば自動的に総理大臣になるわけではない。

 1998年7月30日の首相指名選挙では、この制度の特徴が明瞭に表れた。衆議院では小渕が497票中268票を獲得し、首相に指名された。しかし、参議院では最初の投票で過半数を得た候補者がなく、小渕と民主党の菅直人による決選投票となった。その結果、菅が142票、小渕が103票となり、参議院は菅を首相に指名したのである。

 衆議院は小渕、参議院は菅という異なる人物を指名したため、両院協議会が開かれたが、意見は一致しなかった。最終的には、日本国憲法第67条第2項に定められた衆議院の優越によって、衆議院が指名した小渕が第84代内閣総理大臣となった。

 この事実は、小渕の首相就任を個人の人柄や党内の支持関係だけで説明できないことを示している。小渕が自民党総裁選に勝ったことは首相就任の重要な条件だったが、最終的に首相となることを可能にしたのは、衆議院の議席構成と憲法上の制度でもあった。政治家の権力は個人の能力だけによって生まれるものではなく、所属する政党、議会の多数派、憲法や選挙制度といった条件によって形づくられるのである。

 また、参議院が小渕とは別の人物を首相に指名したという事実は、政権発足後の困難を予告していた。小渕は総理の座を手に入れたものの、国会の両院を自民党単独で安定的に支配していたわけではなかった。総理就任後には、総裁選で勝つための党内政治とは異なる、国会全体で合意を形成する能力が問われることになった。

「凡人」の政治は総理になってから試された

 総理大臣になれば、派閥の力だけで政治を動かせるわけではない。むしろ小渕にとって本当の試験はそこから始まった。自民党は参議院で単独過半数を持っていなかったため、政府提出法案を成立させるには、野党の協力や連立による議席の確保が必要だった。

 とりわけ金融危機への対応では、与野党の激しい対立が続いた。金融機関の破綻処理や不良債権問題への対応を急がなければならなかった一方、政府・与党の当初案だけでは国会で十分な支持を得られなかった。1998年の金融再生法をめぐる協議では、政府・与党側が民主党など野党側の案を大幅に受け入れる形で合意が形成された。

 これは、危機対応のために政治的な妥協が必要だったことを示す出来事である。ただし、その合意をすべて小渕個人の調整能力による成果とみなすことはできない。野中広務官房長官をはじめ、与野党の交渉担当者や金融政策に関わる議員たちが重要な役割を果たしていた。政治的な成果は総理個人の意思だけで生み出されるのではなく、政党組織や政府内部の交渉によって形成される場合も多い。

 その後、小渕政権は政権基盤を安定させるため、連立へ向かっていく。1999年1月には小沢一郎率いる自由党との連立を成立させ、同年10月には公明党を加えた自民党・自由党・公明党の三党連立政権を発足させた。これは単に小渕の人柄が評価されたから実現したものではなく、参議院の議席構成、政策上の妥協、各党の政治的な利益が重なった結果だった。

 興味深いのは、1992年の竹下派分裂で小渕と対立する側にいた小沢一郎が、後に小渕政権の連立相手となったことである。政治の世界では、一度対立した相手と将来も協力できないとは限らない。異なる時期に異なる政策課題や議席上の条件が生じれば、かつての対立相手との協力にも合理性が生まれる。小渕の政治を考える際には、こうした関係の変化を理解する必要がある。

 もっとも、「1998年には小渕のような政治家でなければならなかった」とまで言うことはできない。仮に梶山や小泉が総理となっていた場合、どのような政策や連立が実現したかを確定することは不可能である。歴史上の出来事は、比較政治史や反実仮想によって別の可能性を分析することはできても、同じ条件で再実験することはできない。ただ、参議院で単独過半数を持たず、金融危機への対応を迫られていた当時の状況は、小渕が長年培ってきたとされる調整型の政治手法が機能しやすい条件を備えていたと考えることはできるだろう。

調整型政治には、当然ながら代償もある

 ここまで書くと、小渕が実は優れた名宰相だったという話に聞こえるかもしれない。しかし、それもまた単純化である。政権を獲得する能力、与野党の合意を形成する能力、そして国民生活にとって望ましい政策成果を実現する能力は、同じものではないからである。

 小渕政権は景気悪化と金融危機に対応するため、大規模な公共事業や減税を含む積極的な財政政策を進めた。金融システムの安定化と景気の下支えが重要な課題だったことは確かだが、財政支出の拡大と減税には国債発行の増加という負担も伴った。国の一般会計における公債発行額は、1997年度の約18.5兆円から1998年度には約34.0兆円、1999年度には約37.5兆円に増加している。1997年度と1999年度を比較すると約2倍の水準であり、公債残高も同じ期間に約258兆円から約332兆円へ増えた。

 ただし、こうした財政悪化のすべてを小渕政権固有の政策判断に帰属させることは正確ではない。1998年度の途中までは橋本政権であり、景気後退による税収減少や、それ以前から継続していた財政政策も影響している。また、国債発行額が増加したという事実だけで、当時の財政出動が不必要だったと結論することもできない。深刻な不況のなかで政府支出を増やすことには、経済活動の急激な落ち込みを抑えるという目的があったからである。

 実際、1998年度に大きく落ち込んだ日本経済は、その後、緩やかな回復局面へ移っていった。もっとも、その変化には財政政策だけでなく、金融危機への対応、海外経済の回復に伴う輸出の増加、民間企業の活動など、複数の要因が関係していた。景気が回復したという事実だけから、小渕政権の財政政策の効果を単独で測定することはできない。さらに、経済成長率の改善が直ちに雇用情勢の改善につながったわけでもなく、1998年の完全失業率4.1%は1999年には4.7%へ上昇していた。

 したがって、小渕政権の経済政策は、金融危機への対応、景気の下支え、雇用への影響、財政負担という複数の観点から評価する必要がある。財政赤字が増えたから失敗だったという評価も、景気が持ち直したから成功だったという評価も、それだけでは十分ではない。政策がなかった場合と比較してどの程度の効果があったのか、短期的な経済安定と長期的な財政負担をどう評価するのかという問題が残るからである。

 調整型政治には、経済政策とは別の弱点もある。多くの勢力との妥協を重ねれば政策の輪郭は薄くなり、何を実現する政権なのかが分かりにくくなる場合がある。対立を避ける政治は合意を生みやすい一方、問題の根本的な解決を先送りする危険もある。特に、利害関係の強い集団が多数存在する場合には、それらの要求を調整すること自体が政策の目的になり、本来必要な制度改革が遅れる可能性も否定できない。

 だから小渕政治を評価するときには、「強い指導力が見えにくかった」という批判も、「合意形成に適した政治家だった」という評価も、どちらか一方だけを採用する必要はない。両方が同時に成り立つ可能性がある。ただし、そのどちらが実際にどの程度の政策成果につながったかを判断するには、具体的な政策ごとの検証が必要となる。

「凡人」と呼ばれた政治家の能力は何だったのか

 小渕恵三の政治人生を振り返ると、私たちが一般に思い浮かべる政治家の能力と、実際に組織のなかで権力を形成する能力との違いが見えてくる。

 私たちは政治家を評価するとき、演説の鋭さ、政策の大胆さ、知名度、カリスマ性、討論の強さといった目につきやすい能力に注目する。しかし、大きな政党の内部では、それだけで指導者が決まるわけではない。選挙区で議席を守れるか、党内で信頼を得られるか、他派閥との交渉ができるか、対立する集団の間で妥協点を見つけられるか、長い時間をかけて自分を支える組織を形成できるかという能力も、政治的な地位を左右する。

 小渕が持っていた重要な資産は、長年の選挙経験、党内要職の経験、派閥の組織基盤、他の政治家との関係、交渉の経験などが重なったものだったと考えられる。これらは一つの数字で測定できるものではないが、総裁選の得票や党内での地位という形で、その一部が観察できる。小渕の政治人生で蓄積されたものを一言で表すなら、「見えない政治資本」と呼ぶことができるだろう。

 ただし、この政治資本を小渕個人の能力だけで説明することも適切ではない。父から受け継いだ選挙地盤があり、田中角栄や竹下登の流れをくむ派閥の組織があり、党内実力者の支持もあった。小渕自身の努力や政治手法が意味を持ったとしても、それらが機能したのは、当時の自民党が持っていた組織構造や制度のなかだった。小渕の成功は、個人の能力と、本人が利用できた政治的資源との相互作用によって生まれたものと考える方が合理的である。

 ここでも注意すべきなのは、首相になったという結果から、逆向きに能力を証明してしまうことである。総理大臣になった人物だから優れていたと考えるのも、総理大臣になれなかった人物だから能力が劣っていたと考えるのも、論理としては成り立たない。政治家の出世には本人の能力だけでなく、選挙制度、政党内の競争、経済情勢、政治的な機会、偶然の出来事などが影響する。小渕が225票を獲得したという事実は確認できても、そのうち何票が本人の人柄や調整能力によるものだったのかを正確に算出することはできない。

 したがって、「凡人に見えたことが最大の政治的武器だった」という見方は、興味深い解釈ではあっても、直接証明された事実ではない。それでも、小渕の経歴と1998年の総裁選の構造を見れば、派手な政治的個性を持たないことが、必ずしも権力形成に不利とは限らないことは理解できる。政治組織のなかでは、他人より目立つ能力と、他人から支持を得る能力が必ずしも一致しないからである。

総理になった理由は「凡人だったから」ではない

 では、小渕恵三はなぜ総理大臣まで上り詰めたのか。その答えを一つの性格に求めることはできない。父から受け継いだ選挙地盤があり、26歳という若さで国会へ入り、35年間にわたって議席を守り続け、田中・竹下系の巨大派閥のなかで地位を高め、竹下登ら党内実力者の支持を背景に派閥会長となり、最終的には自民党最大級の派閥を率いた。その組織力を基盤に他派閥からも支持を集め、そこへ人間関係を重視する調整型の政治手法が重なり、さらに橋本退陣という政治的機会が訪れた。

 そして、1998年の自民党総裁選が国会議員を中心とした選挙制度で行われたことも、小渕の持つ組織的資源を生かす条件となった。小渕は411票中225票を獲得して自民党総裁となり、衆議院の多数派による首相指名と憲法上の制度を通じて、内閣総理大臣に就任したのである。そこには個人の政治的能力だけでなく、選挙制度、政党組織、議会の議席構成という制度的な条件も関係していた。

 世襲、選挙、派閥、組織、人脈、経験、性格、制度、そして時代。小渕恵三を総理にしたのは、そのどれか一つではなく、それらが長い時間をかけて重なった結果だった。

 だから小渕の人生を、「普通の人でも努力すれば総理になれる」という美談として読むのは適切ではない。むしろこの人物が示しているのは、政治における能力という言葉の意味が、私たちがテレビ越しに見る能力とはかなり違うということである。

 梶山には「軍人」という輪郭があり、小泉には「変人」という輪郭があった。それに比べて小渕には、一言で説明できるほど鮮烈な政治的個性が見えにくかった。だから「凡人」と呼ばれた。しかし、巨大な組織のなかでは、輪郭が鋭くないことが、かえって異なる立場の人々を自分の周囲に残す条件となる場合もある。自分の主張を強く打ち出す能力と、多くの人間の協力を引き出す能力は、必ずしも同じではない。

 そして、もう一つ考えておくべきことがある。小渕は凡人だったから調整型政治家になったのではなく、何十年にもわたって組織のなかで経験を積み、調整型の政治手法を身につけた結果、凡人に見えるようになったのではないかということである。もしそうなら、「凡人」という評価は小渕恵三という政治家の弱点を言い当てた言葉であると同時に、彼が長年培ってきた政治的な技術を見落とした言葉でもあったことになる。

 1998年、自民党が総裁に選んだのは、最も強烈な政治的個性を持つ人物ではなかった。しかし、目立たなかった人物が偶然最後に残ったわけでもない。長い歳月をかけて巨大な組織の中心へ近づき、選挙地盤と派閥の支持基盤を維持し、他の政治勢力との関係を築き、その時が来たときには党内の過半数を形成できる位置にいた人物が、最後に225票を集めたのである。

 「凡人が総理になった」という言葉だけでは、この歴史の本質を十分に説明できない。

 小渕恵三は、首相になるための政治的資源を長年にわたって蓄積し、組織と制度の条件が重なったとき、その資源を権力へ結びつけることができた政治家だった。

 そして、その複雑な政治過程を歩んできた人物が、最後まで「凡人」に見えていたのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 「派閥政治をなくせば、日本の政治はもっと良くなる」。そう言われると、ほとんど反論の余地がないようにも聞こえる。派閥という言葉には、政策を競い合う議員集団というより、料亭での密談、総裁選の票読み、派閥順送りの人事、そして政治資金をめぐる不透明な関係といった、いささか古びた永田町の風景が重なっているからだ。自由民主党の派閥による政治資金収支報告書の不記載問題が大きく表面化した後では、なおさら「派閥をなくす」という言葉そのものが政治改革を意味するようになった。

 実際、自由民主党(以下、自民党)は2024年以降、従来型の派閥から資金と人事の機能を切り離す改革を進めてきた。政治資金制度についても、政党などが議員個人に資金を渡し、その後の実際の使途を十分に把握・開示しない従来型の政策活動費を廃止するため、渡切りの方法による経費支出を禁止する改正政治資金規正法が2026年1月1日に施行された。ただし、政治活動に伴う資金の支出が一律に禁止されたわけではなく、資金の追跡可能性に関する課題がすべて解消したわけでもない。制度上は、長く続いた「派閥ありき」の政治から離れるための改革が進められているといえる。

 ところが、政治というものは看板を外しただけでは終わらない。2026年に入ると、解散した旧派閥の議員たちが再び会合を重ねる動きが目立つようになった。旧二階派の議員を中心に新たな政策研究会が発足し、旧派閥を通じた人脈の再結集が見られる一方、解散しなかった麻生派は同年2月の衆議院選挙後に新人らを加え、当時の所属議員数が60人に達した。さらに9月には、新たな政策研究会が所属議員の希望する役職を聞き取り、首相への推薦を検討していると報じられた。これらの動きだけで旧来の派閥政治が全面的に復活したと断定することはできないが、派閥から切り離したはずの機能が別の形で現れる可能性を考えさせる出来事である。

 そもそも派閥とは、誰かが意図的に発明した日本政治の悪習だったのだろうか。それとも、日本の選挙制度や政党組織、人事制度が長い時間をかけて生み出した一つの合理的な帰結だったのだろうか。この違いを考えないまま派閥の善悪だけを論じても、派閥が消えた後に何が現れるのかまでは見えてこない。

派閥を育てたのは「同じ党の候補との競争」だった

 自民党の派閥を理解するには、1994年の政治改革以前まで時計を戻す必要がある。当時の衆議院選挙では中選挙区制が採用され、一つの選挙区から複数の議員が選ばれていたため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立てることが珍しくなかった。その結果、自民党候補にとって最も手ごわい競争相手が野党候補ではなく、同じ自民党の別の候補になるという、現在から見ると不思議な政治状況が生まれていた。

 同じ党なのだから、政党名も大まかな政策も共通している。それでも有権者には自分の名前を書いてもらわなければならない。そこで候補者は個人後援会をつくり、地域との結びつきを強め、自ら選挙資金を集めると同時に、中央政界では選挙や資金、人事で支えてくれる有力政治家を必要とした。こうした環境の中で派閥は強くなり、領袖は所属議員を支え、所属議員は総裁選などで領袖を支えるという交換関係が発達していった。派閥は単なる親睦団体ではなく、議員の政治活動を支える組織としての機能を持つようになったのである。

 もっとも、派閥そのものを中選挙区制が一から生み出したと考えるのは正確ではない。自民党は1955年、自由党と日本民主党が合同して誕生した政党であり、結党以前から政治家同士の人脈や系列は存在していた。ただ、中選挙区制が党内競争を強め、それらの人脈を資金・選挙・人事を伴う強固な組織へ発達させる重要な条件になったと考えるのが、より実態に近い。

 その構造を大きく変えたのが1994年の選挙制度改革だった。小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年には新制度による最初の衆議院選挙が実施された。一つの小選挙区から一人しか当選しない仕組みが中心になれば、同じ政党から複数候補が競争する場面は大幅に減る。政治学の研究でも、制度改革後には派閥が候補者公認に及ぼす影響力が弱まり、党執行部の公認権が相対的に重要になったことが指摘されている。一方、派閥による党内役職の配分や人事調整の機能は短期間で消滅したわけではなく、派閥は役割を変えながら残った。つまり派閥は、選挙制度が一つ変われば消えてしまうほど単純な組織ではなかったのである。

派閥をなくすことと、派閥の仕事をなくすことは違う

 会社から営業部という名称を消しても、商品を売る仕事までなくなるわけではない。誰かが営業をしなければ会社が回らないように、政治組織でも名称をなくしただけでは消えない機能がある。数百人の国会議員を抱える巨大政党で、すべての議員が党首と直接相談し、すべての政策について全員で同時に議論することなど現実にはできないため、情報を集める人、意見をまとめる人、新人を育てる人、政策分野ごとの専門家を結びつける人が必要になる。

 興味深いことに、この問題を認識しているのは派閥の機能を研究する政治学者だけではない。自民党が2026年5月に公表した「ガバナンス体制に関する報告書」でも、従来の派閥が情報共有、人材育成、意見集約、意思疎通の一部を担ってきたことを認め、その機能を党組織としてどのように代替するかを課題として挙げている。さらに同報告書は、権限を単純に中央へ集めることが改革ではなく、「集権」と「分権」の均衡が必要だとしている。これは、自民党自身が「派閥を消した後にも組織として残る問題」があることを認めているに等しい。

 ただし、派閥の代替制度がまったく用意されていないわけではない。自民党では候補者の公募、人材データベース、女性議員の育成制度、経験豊富な議員などが助言するメンター制度、人事に関するオンライン希望調査などが進められている。同報告書も、こうした取り組みに一定の進展を認める一方、制度としての定着や実効性にはなお課題があるとしている。したがって、問うべきなのは代替制度の有無だけではなく、それらが旧派閥の担っていた機能をどの程度、公平で透明な形で引き継いでいるかである。

 派閥改革の本当の問題は、派閥という部屋を閉鎖することではなく、その部屋で行われていた仕事をこれから誰が引き受けるのかという点にある。人材育成を党本部が担うのか、政策研究会が担うのか、地方組織が担うのかによって、同じ「派閥廃止」でも出来上がる政党の姿は違ってくる。

政治資金をめぐる法律と、党内ルールは別のもの

 派閥改革を考えるうえでは、国の法律による規制と、政党が自ら定める内部規範を区別する必要がある。2026年1月1日に施行された政治資金規正法の改正は、政治団体の役職員や構成員に対し、使途を精算しないまま資金を渡す従来型の支出方法を禁止するものである。政治資金の収支を実態に即して記載することも求められているが、これによって政治資金の不透明性がすべてなくなったと考えるのは早い。

 一方、自民党が2024年以降に進めた派閥改革は、政策集団が資金集めや人事への組織的な働きかけを行わないようにする党内改革である。自民党のガバナンスコードは政党内部の行動規範であり、政治家同士が政策研究会をつくることそのものを、国の法律によって一律に禁止するものではない。政治団体としての届出が必要かどうかも、集団の名称だけで決まるのではなく、実際の活動目的や内容などによって判断される。

 この違いを無視すると、「派閥をなくすと言ったのに議員が再び集まっているから違法だ」という誤解も、「政治団体として届け出ていないから法律や制度とは無関係だ」という誤解も生まれる。問題は、集団が存在しているかどうかだけではなく、その集団が実際にどのような活動を行い、政治資金や人事、候補者公認などにどう関与しているかという点にある。

2026年の再結集は、何を意味しているのか

 2026年に入ってからの自民党内の動きは、派閥の解散と政治家同士の連携の消滅が同じではないことを示している。2月19日には、解散せずに存続していた麻生派が衆議院選挙後の例会を開き、新人ら18人の加入によって所属議員が60人になったと報じられた。これは同日時点の人数であり、その後も変わらないことを意味するわけではないが、旧来型の派閥組織が完全に姿を消したわけではないことを示す具体例である。

 4月2日には、旧二階派の議員を中心に、武田良太元総務大臣を会長とする「総合安全保障研究会」が発足し、初会合には国会議員22人が出席した。研究会は外交や防衛に限らず、食料、エネルギー、国土の強靱化などを対象として政策研究を進め、議員立法につなげることを目指すと説明している。また、武田氏は従来の派閥とは異なる運営を目指し、政治資金規正法上の政治団体として届け出る考えはないと表明した。こうした政策研究そのものは、議員が共同して立法活動を行うための自然な取り組みと評価することもできる。

 しかし、同年9月には、この研究会が所属議員の希望する役職を聞き取り、武田氏が首相へ直接推薦する考えであると報じられた。自民党が5月のガバナンス報告書で、政策集団からの組織的な人事要望を引き続き受け付けない方針を明示していたことを考えれば、これは見過ごせない動きである。もっとも、人事への関与を検討したこと、実際に組織的な推薦を行ったこと、その推薦が人事決定に影響したことは、それぞれ異なる。報道された事実だけを根拠に、旧来の派閥人事が復活したと断定することはできない。

 重要なのは、政策研究会という新しい形をとりながらも、人事や政治的影響力をめぐる機能が再び集団に結びつく可能性が具体的に表れたという点である。かつての派閥と同じ機能を持つのか、それとも政策活動を中心とした緩やかな議員集団として定着するのかは、名称や設立時の説明だけで判断することはできない。実際の活動、資金の流れ、人事への働きかけ、総裁選での行動などを継続して確認する必要がある。

派閥が弱くなると、党執行部は相対的に強くなりやすい

 派閥政治には明らかな弊害があった。能力や専門性より派閥の順番が優先される人事、総裁選をめぐる数合わせ、資金を通じた上下関係が政治への不信を招いてきたことは否定しにくい。それなら派閥が弱くなれば、政治家は派閥領袖の束縛から解放され、能力だけで評価されるようになるのではないかと考えたくなる。

 ところが、政治的な権限は、ある組織が弱くなったからといって自動的に消滅するわけではない。小選挙区では主要政党から原則として一人の候補者が公認されるため、現職議員にとって党の公認を得られるかどうかは政治生命に直結する。候補者公認、選挙支援、党内ポスト、人事といった政治的資源に党執行部が強い影響力を持ち、その一方で派閥の力が弱まれば、議員一人一人が自由になるとは限らず、むしろ党執行部への依存が高まる可能性がある。

 政治学の研究でも、1994年の選挙制度改革後には、派閥が候補者公認に及ぼす影響力が低下する一方、党指導部の公認決定への影響が相対的に強まったことが指摘されている。ただし、この変化を小選挙区制だけで説明することはできない。政党交付金の導入、政治資金制度の変化、候補者選定の仕組み、政党組織の運営方法など、複数の要因が重なっている。また、党総裁と党執行部は完全に同じ存在ではなく、執行部を構成する政治家自身が旧派閥の人脈や支持基盤を持っている場合もある。

 そのため、派閥改革の結果を「派閥から総裁への権力移動」とだけ説明するのも単純すぎる。派閥が弱体化しても、それまで派閥が担ってきた公認、人事、選挙支援などの機能まで消滅するとは限らない。党執行部に集約されるものもあれば、地方組織や新たな議員グループに移るものもあり、党全体の制度として再構築されるものもあるだろう。改革の効果を考えるときには、単に派閥の影響力が低下したかどうかではなく、政治的資源の配分と意思決定の仕組みがどのように変わったのかを検証する必要がある。

 ただし、党執行部の権限が強まることが、必ず政治の質の低下につながるわけでもない。責任を負う主体が明確になり、選挙で示した政策を実行しやすくなれば、有権者が政権の成果を評価しやすくなる面もある。問題は権限の集中そのものではなく、集中した権限に対して説明責任があり、異論や監視が適切に働き、誤った意思決定を修正できるかどうかである。

派閥は権力の源泉であると同時に、権力を割る装置でもあった

 派閥を考えるうえで難しいのは、派閥が一方では権力を生み出しながら、別の面では権力の集中を抑えていたことである。複数の派閥が競争する自民党では、総裁や首相であっても党内のすべてを自由に決められるわけではなく、他派閥との調整を必要とした。これは政策決定を遅らせ、人事を複雑にする原因になった一方で、党執行部への権力集中を抑える内部的な牽制として作用する場面もあった。

 もちろん、これをそのまま「派閥は民主主義を守っていた」と美化することはできない。有権者から見えないところで少数の派閥幹部が大臣ポストや党役職を調整するのであれば、それは透明な民主的統制とは別のものである。また、複数の派閥が存在していても、それぞれが競争するとは限らず、互いに利益を交換しながら既存の権力構造を維持することもあり得る。派閥の存在だけで権力分散や民主的な監視が保証されるわけではない。

 それでも、「派閥を弱めること」と「権力を分散させること」が同じではないという点は重要である。派閥を解体した結果、一か所に権限が集中するのであれば、政治の透明性や意思決定の質が自動的に向上するわけではない。一方、党本部が明確な基準に基づいて人事や公認を決定し、地方組織や所属議員の意見を反映させる制度が整えば、従来の派閥政治より公正な運営に近づく可能性もある。

 政治に必要なのは速度だけでも、権力を分散させることだけでもない。強い執行部は政策決定を速め、選挙で掲げた政策を実行しやすくする一方、内部から異論が出にくくなれば、間違った政策へ進んだときにブレーキを踏む仕組みまで弱くなる可能性がある。政治制度を考えるときには、「誰が決めるか」と同時に「誰が止められるか」、そして「その判断について誰が責任を負うか」を見なければならないのである。

本当に注意すべきなのは、表札のない政治集団かもしれない

 さらに厄介なのは、人間関係には解散届がないことである。何十年も同じ派閥に所属してきた政治家同士には、先輩と後輩、師弟、同期、選挙支援、政策分野などを通じた関係が残っているため、「今日で派閥を解散します」と宣言した翌日から互いが無関係な政治家になるわけではない。

 2026年に旧派閥を基盤とした政策研究会や会合が再び目立つようになっていることは、その意味で興味深い。現在のところ、それらがすべて旧来の派閥と同じように政治資金を集め、人事を要求し、総裁選の票を一括して動かす組織になっていると証明されたわけではない。しかし、人間関係に基づく政治集団そのものが、派閥解散によって消滅したわけでもないことは見えてきている。

 ここには別の問題もある。以前の派閥政治では、「この議員は何派に所属し、領袖は誰で、所属議員は何人なのか」という粗いながらも権力地図を見ることができた。ところが政治団体としての派閥が消え、実際の政治的連携が食事会、勉強会、政策研究会、同期会などの緩やかな人間関係へ移れば、誰と誰が継続的に協力し、誰が人事や政策に影響を及ぼしているのかを外部から把握しにくくなる可能性がある。

 もっとも、公式な派閥であれば透明で、非公式な議員グループであれば不透明だという単純な話でもない。正式な政治団体として届出を行っていても、内部の意思決定や政治的な取引が十分に公開されるとは限らない。反対に、政策研究を中心とし、資金や人事への不透明な関与を持たない議員グループであれば、旧来の派閥より問題が少なくなる可能性もある。

 したがって、非公式な政治集団の方が旧派閥より危険だと現時点で断定することはできない。その判断には、構成員の関係、資金の授受、人事への働きかけ、政策決定における影響力などの実証データが必要である。ただし、「組織をなくせば透明になる」とも限らないという仮説は、今後の自民党政治を見るうえで重要である。表札を外したことで建物まで消えたと思っていたら、実際には入口だけが分かりにくくなっていたということも、政治の世界では起こり得るからだ。

なぜ政治家は、再び集団をつくろうとするのか

 そもそも、政治家が集団を形成する理由は、政治学だけでなく、経済学やゲーム理論からも説明できる。政治家がある集団に参加する場合、情報共有、政策立案、選挙協力、人脈形成、人事上の機会などの利益が得られる可能性がある。一方で、活動に必要な時間や費用、集団の方針に従うことによる自由の制約、評判上のリスクなどの負担も生じる。政治家が参加による利益を負担より大きいと判断すれば、集団に所属する誘因が生まれる。

 派閥から資金や人事の機能を切り離す改革は、こうした利益の一部を減らす効果を持つと考えられる。しかし、政策実現のために仲間を集める必要性や、議員同士が情報を交換する利益まで消えるわけではない。仮に資金や人事への関与が厳格に禁止されたとしても、共同で政策を提案する利益が十分に大きければ、政治家は新たな集団を形成する可能性がある。

 ただし、これは派閥が必ず復活するという意味ではない。集団に所属する利益が小さくなり、特定の有力者に従属する負担が大きくなれば、組織的な結びつきが弱まることもある。また、党本部や地方組織が情報共有、人材育成、政策形成を十分に担うようになれば、派閥的な集団を必要とする理由そのものが減る可能性もある。政治家が集団をつくる誘因が残ることと、旧来の派閥政治がそのまま復活することは、区別して考える必要がある。

 それでも、数百人の議員が限られた役職や政治的影響力を競い、同時に政策実現のために協力するという基本的な環境が続くかぎり、何らかの政治的集団が形成されることは不自然ではない。三人が情報交換を始め、五人で定期的に会い、十人で特定の政策を共同提案するようになれば、そこにはすでに政治的なネットワークがある。その集団が健全な政策研究組織になるのか、不透明な資金や人事を扱う集団になるのかは、形成された後の活動と、それを規律する制度によって変わってくる。

派閥改革の効果は、数字で確かめられるのか

 派閥改革の評価で難しいのは、「派閥がなくなった」という事実は比較的確認しやすくても、「政治が良くなった」という結果を客観的に測定することは容易ではないという点である。政治の質には、資金の透明性、人事の公平性、政策形成能力、意思決定の速さ、党内で異論を認める程度、有権者への説明責任など、異なる側面が含まれている。一つの指標が改善しても、別の指標が悪化する可能性がある。

 例えば、派閥が弱くなった結果として権力が集中したかどうかを調べる場合、経済学で市場集中度の測定に用いられるハーフィンダール・ハーシュマン指数の考え方を参考にできる。この指数は、各主体が占める割合をそれぞれ二乗して合計するもので、特定の主体への集中が強まるほど数値が大きくなる。仮に四つの集団が権限を25%ずつ持つとすれば指数は0.25であるのに対し、一つの集団が55%、残り三つが15%ずつを持つとすれば0.37となる。この例では後者の方が権限の集中度は高い。ただし、これは考え方を示すための仮定であり、実際の自民党の権力集中度を計算したものではない。

 現実の政治では、公認、人事、資金配分、政策形成などの権限が同じ政治家や集団に集中しているとは限らないため、一つの数字で測定すること自体に限界がある。それでも、党内役職の配分、旧派閥出身者の登用率、総裁選での投票傾向、政治資金の流れ、候補者公認における党本部と地方組織の関与などを継続して調べれば、改革前後の変化を一定程度把握することは可能だろう。

 さらに重要なのは、改革前後の変化が確認されたとしても、そのすべてを派閥改革の成果や弊害とみなすことはできないという点である。選挙によって新人議員が増えれば人事構成は変わり、首相の政治的影響力や党内の勢力関係が変われば、役職配分や政策決定も変化する。政治資金の流れも、法律改正、監督体制、報告制度、政治家自身の行動変化など複数の要因によって左右される。派閥改革そのものの効果を検証するには、これらの要因を可能な範囲で区別しなければならない。

 現在確認できるのは、制度改革が行われ、旧派閥の再結集や新たな人事関与の動きが報じられているという事実である。それだけで政治が以前より清潔になったとも、反対に不透明になったとも結論づけることはできない。改革の成否を判断するには、継続的な統計分析と、個々の意思決定過程を確認する実証的な調査が必要なのである。

悪かったのは「集まること」なのか、それとも集団に与えられた権力なのか

 ここまで考えると、改革の対象そのものが少し違って見えてくる。政治家が集まること自体を問題にする必要はない。同じ政策に関心を持つ議員が研究会をつくり、新人議員が経験者から国会運営を学び、ある総裁候補を支持する政治家同士が連携することは、議会政治ではむしろ自然な行為である。議員が互いに協力し、意見を交換することまで抑制すれば、政策形成に必要な情報や経験の共有が難しくなる可能性もある。

 問うべきなのは、その集団が何を握っているのかである。政治資金を不透明に動かせるのか、人数を背景に大臣や党役職を要求できるのか、候補者公認に影響を与えられるのか、若手議員の昇進や選挙支援を事実上左右できるのか、そして誰がどの意思決定にどのように関与したのかを外部から確認できるのかという問題こそが重要になる。

 こう考えれば、派閥改革の核心は「政治家を集団から解放すること」ではなく、「集団形成そのものと、資金・人事・公認という権力資源を切り分けること」にある。政策を研究する集団は存在してもよいが、その集団への所属が大臣就任や党内昇進の事実上の交換条件になってはならない。若手を育成する仕組みも、特定の有力者への忠誠ではなく、党全体の制度として公正に利用できる方が望ましい。資金についても、誰から入り、何に使われたのかを追跡できる仕組みを強くする方が、政治家同士が集まる行為そのものを問題視するより制度として筋が通っている。

 もっとも、集団が人事や公認への影響力をまったく持たない状態を実現することも容易ではない。政策に詳しい議員が専門性のある人物を役職に推薦したり、複数の議員が特定の候補者を支持したりすることまで否定すれば、通常の政治的な意思表明との区別が難しくなるからだ。重要なのは、専門性に基づく推薦や公開された政治的支持と、集団への所属や忠誠を対価とする不透明な人事取引を区別することである。

派閥は日本政治の原因であると同時に、制度の結果でもあった

 政治改革では、目に見えるものを原因だと思い込みやすい。政治とカネの問題が起これば派閥をなくそうと考え、世襲議員が多ければ世襲そのものを禁止したくなり、政治家が長く在職すれば多選を制限すればよいと思ってしまう。しかし制度を変えるときには、その現象を生み出している一段奥の構造まで見なければ、形を変えた同じ問題が再び現れる。

 政治家には選挙があり、公認があり、政治資金が必要で、党内人事があり、大臣や委員長への昇進があり、総裁選もある。しかも数百人の議員が一つの政党に所属しながら、限られた役職と政治的影響力を競っている。この条件が続くかぎり、政治家には他の政治家と連携し、ある程度まとまった集団をつくる誘因が残る。派閥はこうした環境の中で形成され、選挙制度や政党組織の変化に合わせて役割を変えてきた。

 だからといって、派閥が自然に形成されたから容認すべきだという結論にはならない。制度によって生まれた組織であっても、不透明な資金管理や不公正な人事を行えば、その行為は厳しく問われなければならない。一方で、組織を解散させるだけで同じ問題が再発しないと考えるのも合理的ではない。改革の対象は目に見える集団だけではなく、その集団に不透明な権限や利益が集中する仕組みである。

 その意味で、派閥改革を自民党内部だけの特殊な問題として考える必要もない。どの政党でも、一定以上の規模になれば議員間の情報共有、人材育成、政策調整、候補者選定、役職配分が必要になる。集団形成の誘因は政党の思想や立場だけで決まるものではなく、議員数、選挙制度、組織構造、政治的資源の配分によって左右される。自民党の派閥改革を検証することは、日本の政党組織全体のあり方を考えることにもつながる。

派閥のない政治が、きれいな政治とは限らない

 派閥を弱めることで改善できる問題は確かにある。派閥単位での不透明な資金集めを防ぎ、所属派閥の順番だけで大臣や党役職が回ってくる慣行を弱められれば、政治家の専門性や能力を重視する余地は広がる。候補者公募や人材育成の制度が適切に運用されれば、従来の人脈に依存しない新しい政治家が登場する機会も増える可能性がある。それだけでも改革には意味がある。

 しかし、派閥がなくなった空間を党執行部だけが埋めれば権力が中央へ集中する可能性があり、旧派閥の人脈が非公式な集団として残れば権力関係がかえって見えにくくなる可能性もある。さらに、人材育成や意見集約まで一緒に失われれば、巨大政党を動かす組織能力そのものが落ちるかもしれない。反対に、党全体の共通制度や地方組織の役割が強まれば、従来より公平で効率的な政党運営に近づく可能性もある。派閥をなくしたという一つの事実だけから、政治が良くなったか悪くなったかを判断することはできないのである。

 それなら、派閥改革の成否を何で測ればよいのだろう。見るべきなのは派閥の数ではなく、政治資金を以前より追跡できるようになったのか、人事の理由を以前より説明できるようになったのか、若手議員が特定の有力者に従属しなくても育つ仕組みが機能しているのか、党内で異論を唱えた議員が不合理な不利益を受けない仕組みがあるのか、そして誰がどのような過程で政策や人事の意思決定に関与したのかを有権者が以前より理解できるようになったのか、という変化である。

 こうした指標を継続して確認することができれば、派閥改革の効果は政治家の説明や報道の印象だけに頼らず、一定の客観性をもって評価できるようになる。ただし、そのためには公表される政治資金の情報や人事の選定基準が十分でなければならず、制度を整えることと、制度が実際に機能することを区別する必要がある。

 派閥という名前を永田町から消すことはできるかもしれない。しかし、政治家から人間関係を消すことはできない。人が集まれば関係が生まれ、関係が続けば集団が生まれ、集団が形成されればそこには何らかの政治的影響力が生まれる。その力そのものを消そうとするより、どこに力があり、誰が使い、誰が利益を得て、間違ったときに誰が責任を負うのかを見えるようにする方が、民主政治の制度設計としては現実的である。

 そう考えると、「派閥をなくせば日本政治は良くなるのか」という問いへの答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。派閥をなくすことで改善する問題はあるが、改革の本当の成否は、その後に資金、人事、公認、情報、人材育成という政治的資源がどこへ移り、それを誰が監視できるようになるかによって決まる。

 古い派閥の看板が永田町から消えたところで、政治改革は完成しない。むしろ重要なのはその後であり、空席になったはずの椅子に誰が座るのか、あるいは椅子そのものが別の部屋へ移されるのかを見なければならない。派閥政治の終わりを論じるなら、派閥が消えた瞬間ではなく、その後にどのような権力地図が描かれ、政治資金の透明性や人事の公平性、政策形成の質が実際にどう変化したのかを検証すべきなのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 政治の権力者という言葉から、多くの人が思い浮かべるのは首相か、自民党幹事長だろう。衆議院で当選を重ね、派閥や総裁選挙を通じて党内での地位を高め、政策を掲げて国民の支持を集め、最後には首相官邸へ入る。それが日本政治における「大物政治家」の分かりやすい姿である。しかし、実際の政治を動かす力が、常にこうした表舞台の役職に集中しているとは限らない。

 青木幹雄は、その典型から大きく外れた政治家だった。国政では一貫して参議院議員であり、首相になったことも自民党総裁になったこともない。全国的な人気を背景に政治を動かした人物でも、強烈な演説によって世論を引き付ける政治家でもなかった。それにもかかわらず、1990年代末から2000年代の自民党政治を振り返ると、首相交代、党内人事、総裁選挙、国会運営といった重要な局面の数多くに青木の名前が現れる。やがて彼は「参院のドン」と呼ばれ、首相や党幹部でさえ無視できない実力者として知られるようになった。

 ただし、この呼び名から青木を参議院全体の支配者だったと理解するのは正確ではない。彼の政治力は、参議院議員を命令だけで動かせたことにあるのではなく、参議院の制度的権限、自民党参議院組織の独自性、竹下派以来の人的関係、選挙と人事に関する情報、そして首相官邸と党内の異なる勢力を結び付ける調整能力が、一人の政治家のところに重なったことから生まれていた。青木の権力を理解するには、政治家個人の力量だけでなく、その人物がどのような組織の中で、誰と誰を結び付ける位置にいたのかを考える必要がある。

 青木幹雄の政治を振り返ることは、首相や党総裁だけが政治を動かしているわけではないという、日本政治のもう一つの構造を知ることでもある。そして2026年、衆議院で巨大な多数を持ちながら参議院では過半数を確保できていない高市早苗政権を考えるうえでも、その歴史には検討すべき問題が残されている。

竹下登のそばで学んだ調整型政治

 青木幹雄は1934年6月8日、島根県に生まれた。早稲田大学を中退した後、竹下登の秘書を務め、1967年から島根県議会議員として5期19年にわたり地方政治に携わった。1986年の参議院議員通常選挙で島根県選挙区から初当選し、その後4期24年間にわたって参議院議員を務めた。青木の政治人生を理解するうえで、地元島根の政治的基盤とともに欠かせないのが、後に首相となる竹下登との関係である。

 竹下の政治手法は、強烈な理念によって党内を二分するというより、相手の事情を読み、対立する政治家の間に入って妥協点を探し、人間関係や組織内の力学まで含めて自民党を動かしていくものだった。政策の内容だけでなく、誰が誰を信用しているのか、どの派閥がどの役職を求めているのか、地方組織や業界団体が何を重視しているのかを理解することが、当時の自民党政治における重要な政治技術だったのである。

 青木は、その政治が実際に動く現場の近くにいた。もちろん、竹下の秘書だったという事実だけで、青木が後に発揮した調整能力の原因を証明できるわけではない。しかし、青木がその後、政策理念を前面に掲げる政治家というより、組織内の利害を調整し、異なる政治勢力をつなぐ人物として頭角を現したことを考えれば、竹下の政治環境が彼の活動方法に影響を与えたと考えることには一定の合理性がある。

 組織の権力は、公式の役職表だけで決まるものではない。人事の事情を知り、誰と誰の関係が悪化しているのかを理解し、どこに話を通せば意思決定が進むのかを把握している人物には、形式的な権限とは別の影響力が生まれる。さらに、多くの人がその人物を通じて情報を得たり、対立を解決したりするようになれば、本人が最高責任者でなくても、組織の意思決定に大きく関与できる。

 青木が後に築いたのは、こうした情報と調整を基盤とする政治力だった。自分自身が首相になる必要はなく、党内人事、選挙、派閥間交渉、国会運営などが交差する場所に入り、それぞれの関係を結び直す役割を果たせば、首相を目指す政治家とは異なる種類の権力を持つことができる。青木は政治の舞台の中央に立ち続ける人物というより、複数の舞台をつなぐ通路で存在感を発揮する政治家だった。

参議院は本当に衆議院より弱いのか

 ここで一つの疑問が生まれる。それほど政治力があったのであれば、青木はなぜ衆議院へ転じなかったのだろうか。日本の政治では首相の大半が衆議院議員から選ばれてきたため、政治的な出世を目指すなら衆議院議員になる方が有利だという印象がある。しかし、首相になりやすいことと、政治的な影響力を持ちやすいことは、必ずしも同じではない。

 日本国憲法では、首相の指名、予算、条約の承認などについて衆議院の優越が認められている。一方、通常の法律案については、憲法第59条により、原則として衆議院と参議院の双方による可決が必要となる。参議院が衆議院と異なる議決をした場合でも、衆議院が出席議員の3分の2以上で再可決すれば法律は成立するが、単に衆議院で過半数を持っているだけでは、この手続きを利用できるとは限らない。

 例えば、衆議院の定数が465議席で全員が出席した場合、法律案の再可決には310票以上が必要になる。233議席あれば過半数には達するが、310議席には77議席足りない。つまり、政権与党が衆議院で安定した過半数を確保していても、参議院で法案を否決されれば成立できない場合があり、その状況では参議院側との調整が政策実現の重要な条件となる。

 参議院の特徴は、法律案への議決権だけではない。参議院議員の任期は6年間で、3年ごとに半数が改選され、衆議院のような解散制度も存在しない。首相が参議院の多数派と対立したとしても、参議院全体を解散して新たな多数派をつくり直すことはできないため、衆議院とは異なる時期の選挙結果が長期間にわたって政治に影響する。参議院が衆議院の単なる下部組織ではなく、独自の選挙事情や院内秩序を持つ理由は、この制度的な違いにある。

 もっとも、参議院に制度上の権限があることと、特定の参議院議員がその権限を自由に行使できることは別である。参議院の議決は議員個々の投票によって決まり、一人の有力者が全議員の意思を代弁できるわけではない。それでも、参議院内の多数派形成や党内調整に深く関与できる人物には、制度の仕組みを背景とした大きな政治的価値が生まれる。

 青木の権力を理解するには、この制度的権力と個人的権力を区別することが重要である。参議院には政府提出法案の成立を左右する制度上の力があり、自民党参議院組織には独自の選挙や人事に関する組織的な力があった。青木は、それらを自分一人で所有していたのではなく、その組織の中で調整を担うことによって個人的な影響力を高めていったのである。

小渕政権で舞台裏から首相官邸へ

 青木が全国政治の表舞台に現れた大きな転機は、1999年10月5日の内閣官房長官就任だった。小渕恵三首相は、それまで自民党参議院幹事長などを務めていた青木を、首相官邸の中枢である官房長官に起用した。参議院議員である青木が政権運営の中心に入ったことは、彼の政治的な役割が参議院内部にとどまらなかったことを示している。

 小渕と青木を結び付けていたのは、竹下登を中心とする政治的な人間関係だった。両者は竹下派の中で長く活動し、党内の利害や人事、地方組織の事情を共有していた。官房長官への起用について、こうした人的関係がどの程度決定的だったかを厳密に測ることは難しいが、青木が官邸と党内勢力の間に立って調整できる人物として評価されていたことは、その後の政治的な役割とも整合している。

 2000年4月、小渕首相が脳梗塞で倒れると、内閣官房長官だった青木は内閣総理大臣臨時代理を務め、政権移行の対応に当たった。その後、小渕内閣は総辞職し、森喜朗が新たな首相に指名されたが、この交代の過程で大きな批判を集めたのが、後に「5人組」と呼ばれる自民党有力者による協議だった。

 協議に加わったのは、森喜朗幹事長、野中広務幹事長代理、亀井静香政務調査会長、村上正邦参議院議員会長、そして青木幹雄官房長官の5人である。当事者によって会合の目的や後継者決定の経緯に関する説明には違いがあるため、5人だけが正式な手続きを経ずに首相を決定したと断定するのは正確ではない。しかし、有力者同士による非公式の協議が森後継の流れを形成し、その透明性が厳しく批判されたことには、政治史上の重要な意味がある。

 ここで注目したいのは、2000年当時の参議院議員会長が青木ではなく村上正邦だったという事実である。青木は参議院自民党の最高幹部という肩書ではなく、官房長官として協議に参加していた。つまり、この時点ですでに青木は、参議院内部の特定の役職だけでは説明できない政治的な位置を確保していたのである。

 青木は森内閣でも官房長官に再任され、2000年7月までその職を務めた。首相交代という政治の最重要局面に関わり、新政権でも中枢に残った経歴は、彼が竹下派、参議院、衆議院側の党幹部、首相官邸という複数の政治空間を横断できる人物だったことを示している。一方、「5人組」に象徴される非公式な調整のあり方には、意思決定が国民から見えにくくなるという重大な問題があり、青木の政治力を評価することと、その手法を民主政治の理想として肯定することは区別しなければならない。

「参院のドン」は参議院を支配していたのか

 青木は官房長官退任後、参議院自民党の有力者として活動を続け、2004年から2007年まで自民党参議院議員会長を務めた。この時期、参議院を代表する実力者としての存在感は一段と大きくなり、「参院のドン」という呼び名が広く知られるようになった。

 しかし、「ドン」という言葉から、青木が参議院議員を恐怖や命令によって従わせていたと考えるのは単純化しすぎである。青木の強さは、むしろ多くの参議院議員が彼との関係を必要とする政治的な仕組みにあったと考えられる。議員にとって6年ごとの選挙は政治生命を左右する重要な機会であり、その準備には公認、党内の候補者調整、後援会、地方組織、業界団体、選挙資金など、多くの要素が関係する。

 こうした事情を詳しく知り、党本部や地方組織、官邸との間で調整できる人物は、正式な決定権をすべて持っていなくても、大きな影響力を発揮できる。青木の場合、島根県議会議員として積み重ねた地方政治の経験に加え、竹下派の人脈や官房長官としての経験があり、参議院議員の要求を衆議院側の党幹部や政府に伝える回路を持っていた。反対に、官邸や党執行部の事情を参議院側に伝え、対立を調整する役割も担うことができた。

 この構造は、社会ネットワーク分析でいう「媒介者」という概念に近い。異なる集団の間を結ぶ位置にいる人物は、情報の伝達や交渉の過程に関与しやすく、そのことが影響力の源泉になる場合がある。青木は、参議院自民党、衆議院側の派閥、首相官邸、地方組織などの間に立つことで、自分自身の政治的な価値を高めていたと解釈できる。

 ただし、この説明は当時の人的関係を網羅的に数値化した分析結果ではなく、確認できる政治的経歴や行動から導かれる説明モデルである。青木が実際にどの程度多くの交渉を仲介し、どれだけ政策決定を変化させたのかを科学的に評価するには、個々の案件について交渉経過や参加者の行動を比較する必要がある。したがって、青木を政治組織間の結節点と捉える見方には合理性があるものの、それだけで彼の影響力の大きさを定量的に証明できるわけではない。

 それでも、単に参議院を支配していた人物と考えるより、異なる政治集団をつなぐ役割を担っていた人物と考えた方が、青木の経歴や活動を一貫して説明しやすい。彼は参議院という一つの組織の頂点にいるだけではなく、その外側にある政治的な関係を利用できることによって強さを発揮していたのである。

小泉純一郎との関係が示した調整型政治の強さ

 青木の政治力を考えるうえで重要なのは、旧来の派閥政治を変えると訴えた小泉純一郎との関係である。2001年、小泉は「自民党をぶっ壊す」と掲げて総裁となり、派閥間の均衡を重視した人事慣行を見直し、首相官邸の主導力を強めていった。その政治手法は、竹下登や青木幹雄が得意とした調整型政治とは異なるものに見えた。

 しかし、小泉が強い政治的指導力を発揮したからといって、参議院自民党の独自性が消えたわけではなかった。衆議院側で派閥の意向を抑えた人事が行われても、参議院側には選挙や党内人事、議員間の関係を通じて形成された秩序があり、政府提出法案を円滑に成立させるためには一定の協力が必要だった。小泉が青木個人に従属していたという意味ではないが、首相の政治的な人気と、参議院側の多数派を安定して維持する能力とは別の問題だったのである。

 青木は小泉政権を一貫して妨害する立場を取ったわけでもなく、2003年の自民党総裁選挙では小泉の再選を支持した。ここには、単純な改革派と守旧派の対立では説明できない自民党政治の現実が表れている。首相の政治手法に違いがあっても、政権運営や選挙をめぐる利害が一致すれば協力することがあり、青木はそのような関係を組み立てる政治家だったと考えられる。

 この意味で、青木の力は小泉政権と対立できたことだけにあったのではない。首相官邸が参議院側との協力を必要とするとき、調整相手として一定の役割を果たせたことにこそ、彼の政治的価値があったのである。

2005年の郵政民営化が示した青木の力と限界

 小泉政権と参議院の関係を象徴する出来事が、2005年の郵政民営化法案をめぐる対立だった。小泉が政権の最重要政策として掲げた郵政民営化関連法案は衆議院を通過したものの、同年8月8日の参議院本会議では賛成108票、反対125票で否決された。政権与党が重要法案の成立を目指していたにもかかわらず、参議院での多数派形成に失敗したのである。

 このとき、自民党所属の参議院議員114人のうち、賛成したのは84人、反対したのは22人で、残る8人は記録上「投票なし」だった。割合にすると賛成73.7%、反対19.3%、投票なし7.0%であり、青木自身は賛成票を投じていた。投票しなかった8人について、その理由を一律に政治的な棄権と解釈することはできないが、党所属議員の相当数が賛成に加わらなかったことは明らかだった。

 この結果は、青木が参議院を完全に支配していたわけではないことを示す重要な事実である。参議院議員会長が法案を支持していても、所属議員全員を同じ方向に動かすことはできなかった。青木が大きな調整力を持っていたとしても、それは議員一人ひとりの投票行動を確実に支配できるほどの権力ではなかったのである。

 採決結果を数理的に見ると、賛成108票に対して反対125票だったため、仮に反対した9人が賛成に転じ、その他の投票行動が変わらなければ、賛成117票、反対116票となって可決される計算だった。この数字は、党内の少数の議員の判断が法案の帰趨を左右し得たことを示している。ただし、青木がその9人を追加で説得できたかどうかは別の問題であり、採決結果だけから彼の交渉能力を数量的に評価することはできない。

 一方で、この否決は参議院そのものの制度的な力を明確に示した。小泉は高い政治的支持を背景に政権運営を進めていたが、当時の衆議院では、参議院が否決した法案を安定して再可決できる3分の2以上の議席を与党が確保していなかった。そのため、参議院の否決を受けた小泉は衆議院を解散し、郵政民営化の是非を中心的な争点とする総選挙に踏み切った。小泉自身も後に国会で、このような解散は「異例中の異例」だったと認めている。

 ここで重要なのは、2005年の出来事が青木個人の強さと弱さ、さらに参議院の制度的な強さを同時に示したということである。青木は造反議員を十分に抑えられなかったが、参議院は首相の重要政策を否決することができた。制度上の権限と、それを組織的にまとめる人物の能力とは、必ずしも一致しないのである。

郵政民営化法案は、その後どうなったのか

 ただし、2005年8月の否決だけを取り上げて、参議院が最後まで郵政民営化を阻止したと考えるのは誤りである。9月11日の衆議院総選挙では自民党が296議席を獲得し、公明党の31議席を合わせた与党は327議席となった。当時の衆議院定数480議席に対して、再可決に必要な3分の2に相当する320議席を上回り、政権側は参議院が再び法案を否決しても、衆議院で成立させられる議席構成を確保した。

 その後、郵政民営化関連法案は新たな国会に提出され、10月14日の参議院本会議で賛成134票、反対100票により可決され、成立した。8月には108対125で否決された法案が、約2か月後には134対100で可決されるという大きな変化が生じたのである。しかも、同日の自民党参議院議員の投票は賛成110人、反対0人となっており、8月に存在した党内の大規模な反対は、採決結果の上では解消されていた。

 この変化を、衆議院選挙の結果だけで説明することには慎重であるべきだろう。法案の再提出、選挙によって示された政治的な支持、衆議院での再可決が可能になった議席構成、党内の説得や議員個々の判断など、複数の要因が関係していたと考えられる。少なくとも、参議院議員自身の選挙が行われなくても、衆議院側の議席構成や政治環境が大きく変化すれば、参議院の投票行動も変わり得ることが示された。

 この後日談は、青木の政治を考えるうえでも欠かせない。参議院の権限が強いことは、参議院の意思が外部の政治環境から完全に独立していることを意味しない。首相の支持基盤、衆議院の議席構成、政党内の力関係、次の選挙への見通しによって、参議院議員の判断は変わる可能性がある。青木のような調整型政治家が重要だったのは、まさにこうした変化する利害の中で、議員や党内組織の行動を調整する必要があったからだと考えられる。

首相を目指さなかったことも強さの一因だったのか

 青木には、自ら首相の座を争う政治家ではなかったという特徴もある。自民党の衆議院側では、実力者が最終的に総裁や首相という限られた地位を争うため、普段は協力している政治家同士でも、総裁選挙になれば直接の競争相手になることがある。これに対して、首相就任を目指さない有力者は、その競争から一定の距離を置きながら、複数の候補者や派閥と関係を築くことができる。

 ただし、参議院議員だから首相になれないという制度上の制約があるわけではない。憲法第67条は、内閣総理大臣を国会議員の中から指名すると定めており、参議院議員を法的に排除していない。それでも、実際の政治では衆議院議員が首相となることが慣例であり、青木自身も総裁・首相を目指す政治家として活動していたわけではなかった。

 この立場は、他の政治家にとって青木を直接の競争相手ではなく、相談や仲介を依頼する相手として位置付けやすくした可能性がある。首相候補同士では利害が衝突する場面でも、青木は参議院側の事情を踏まえた調整役になり得た。ただし、本人が首相を目指さなかったことと、その結果として影響力が高まったことの間に、どの程度の因果関係があったのかは、現存する公開資料だけで厳密に確定できるものではない。

 青木の政治力を単一の原因で説明することは難しい。参議院の制度的な権限と組織的な独自性が土台にあり、そこへ竹下派以来の人脈、地方政治の経験、官邸との関係、選挙や人事に関する知識が重なった。首相を争う競争から一定の距離にいたことも、その複合的な条件の一つだった可能性がある。

2007年の敗北と引退後も残った影響力

 2007年の参議院議員通常選挙で自民党が大敗すると、青木は参議院議員会長を辞任した。参議院選挙は自民党にとって重要な政治的基盤を形成する機会であり、その結果が悪化すれば、参議院側の指導者にも責任が問われる。青木の辞任は、彼の影響力が大きかった一方で、選挙結果という政治的な現実から自由ではなかったことを示している。

 2010年には、いったん表明していた参議院選挙への立候補を体調不良により断念し、政界を引退した。しかし、その後も青木が自民党内の政治的な議論から完全に姿を消したわけではない。長く築いてきた人脈や派閥内の関係は、議員を辞職した瞬間に失われるものではなく、引退後も党内の重要な局面で青木の意向が注目されることがあった。

 その具体例の一つが、2018年の自民党総裁選挙である。当時、竹下派では衆議院議員の多くが安倍晋三首相の続投を支持する一方、参議院側は石破茂を支持する方向にまとまった。この過程では、引退していた青木が参議院側の石破支持に影響を与えたと報じられている。青木本人がどこまで意思決定を主導したのかについては関係者の証言や報道に依存する部分があるが、引退から8年を経ても、その政治的な意向が分析の対象となっていたことは注目に値する。

 2018年の竹下派の動きは、青木型政治のもう一つの側面も示している。青木が影響力を持っていたとされる参議院側と、衆議院側の議員が同じ候補を支持したわけではなく、派閥全体の意思統一は実現しなかった。ここでも青木は、組織のあらゆる判断を一人で決められる支配者というより、特定の政治集団に長く影響を与え続けた有力者として理解する方が妥当だろう。

 青木は2023年6月11日、89歳で死去した。島根県議会議員として19年間、参議院議員として24年間活動し、その後も政治との関係を持ち続けた生涯を振り返ると、彼の政治的な資源は役職だけではなく、人と人との関係について蓄積された情報や信頼、過去の交渉の経験にあったと考えられる。ただし、そのことは彼の政治的な影響力を無制限に評価してよいことを意味せず、実際にどの案件でどのような役割を果たしたのかを個別に見極める必要がある。

2026年、高市早苗政権と参議院の関係はどう違うのか

 青木幹雄の政治を2026年の日本政治と比較する場合、まず明確にしなければならないのは、2005年の小泉政権と2026年の高市政権では、衆議院の議席構成が大きく異なるという点である。2005年8月当時の小泉政権は、参議院で否決された法案を衆議院で安定して再可決できる3分の2以上の議席を確保していなかった。これに対して、高市政権は2026年2月8日の衆議院選挙で、自民党単独でも3分の2を上回る議席を獲得している。

 2026年2月の選挙で自民党が獲得した議席は316議席だった。その後の議席変動を経て、同年9月28日現在の衆議院の公式な会派別議席数では、「自由民主党・無所属の会」が315議席、日本維新の会が36議席となっている。選挙直後の政党別議席数と、その後の国会における会派別議席数は集計の基準が異なるが、いずれにしても高市政権を支える勢力が衆議院で圧倒的な多数を持っていることに変わりはない。

 衆議院の定数465議席を基準に全員が出席すると仮定すれば、憲法第59条に基づく法律案の再可決には310票以上が必要になる。2026年9月28日現在の自民党・無所属の会の315議席は、この数字を5議席上回っている。実際には欠員や欠席者がいれば出席議員数に応じて必要票数が変わるため、成立の可否は採決時の状況によって判断する必要があるが、少なくとも衆議院側では参議院の否決を乗り越えることが制度上可能な議席構成となっている。

 一方、参議院の2026年6月30日現在の会派別議席数では、「自由民主党・無所属の会」が101議席、日本維新の会が19議席で、合計120議席だった。参議院の定数248議席に対する過半数は125議席であるため、両会派を合わせても過半数には達していなかった。衆議院では巨大な多数を確保しながら、参議院では同じような多数を持っていないという非対称性が、2026年の政権運営の特徴となっている。

 ただし、この議席構成から、参議院が高市政権の通常の法律案を最終的に阻止できると結論付けることはできない。衆議院に再可決が可能な議席がある以上、参議院の否決が法案の不成立へ直結するとは限らないからである。2005年8月の小泉政権との比較では、この制度的な違いを無視してはならない。

 それでも、衆議院で3分の2を超える議席を持つことが、参議院の存在を無意味にするわけではない。再可決には衆議院の出席議員の3分の2以上の賛成が必要であり、与党内で造反が生じたり、議員の出席状況が変わったりすれば、必要な賛成票を確保できない可能性もある。また、議席数の計算だけで法案が成立するわけではなく、政府と与党は参議院での審議や政治的な説明責任に対応しなければならない。

 参議院には、憲法第62条に基づく独自の国政調査権もある。さらに、憲法改正の発議には衆議院と参議院それぞれの総議員の3分の2以上の賛成が必要であり、通常の法律案のように衆議院だけで再可決する仕組みはない。予算や条約、首相指名については衆議院の優越が認められているが、それぞれ成立の仕組みが異なるため、参議院の権限を一律に強い、あるいは弱いと評価することは適切ではない。

 したがって、2026年の高市政権にとっての問題は、参議院が通常の法律案を最終的に阻止できるかどうかだけではない。衆議院で圧倒的多数を持つ政権が、別の選挙によって選ばれた参議院の審議をどのように位置付け、どの程度の説明と調整を行うのかという、二院制の運営そのものが問われているのである。

高市首相の国会出席問題から見えるもの

 この問題を考えるうえで、2026年の参議院における高市首相の出席をめぐる与野党間の対立は、一つの具体例となる。同年4月1日、立憲民主党の斎藤嘉隆参議院国会対策委員長は、2026年度当初予算案の審議に関して、首相出席による集中審議が行われなければ採決は難しいとの考えを与党側に伝えた。参議院側で十分な審議時間を確保することが、政権と野党との間の政治的な争点となったのである。

 一方、高市首相は3月30日の参議院予算委員会で、集中審議に応じない意向を示したとする一部報道を否定し、国会側から求められれば出席するとの説明を行っている。その後、4月6日には高市首相が出席して参議院予算委員会の集中審議が実施され、4月27日にも首相出席の集中審議が行われた。したがって、首相が参議院での審議を一切拒否したという理解は事実に反する。

 この経緯から、高市首相が意図的に参議院を軽視していたと断定することもできない。首相の出席日程をめぐる政治的な交渉と、憲法第63条に規定された、答弁や説明のために出席を求められた場合の義務とは区別する必要がある。実際の出席回数や審議時間を評価するのであれば、過去の首相との比較、委員会での質疑内容、政府側の説明、国会側の正式な要求などを総合的に検討しなければならない。

 しかし、こうした留保を置いたとしても、参議院で首相出席が争点となったこと自体には、政治制度上の意味がある。衆議院で大きな多数を持つ政権であっても、参議院側の審議要求や政治的な反発を無視して、何の問題もなく国会運営を進められるわけではない。参議院の役割は、法案に賛成するか反対するかだけではなく、政府に説明を求め、政策の問題点を検討し、その過程を国民に示すことにもある。

 ここで重要なのは、衆議院で多数を持たないから参議院と話し合うのではなく、参議院が独立した議院だからこそ、その審議を尊重する必要があるという考え方である。もっとも、審議を尊重することが、あらゆる場面で野党の要求に従うことを意味するわけでもない。議会運営には審議の充実と意思決定の効率性の両方が求められ、その均衡をどのように取るかは、与党と野党の双方が責任を持つべき問題である。

2026年の政権が青木型政治から学べること

 青木幹雄の政治から高市政権が学べることがあるとすれば、それは古い派閥政治の方法をそのまま復活させることではない。青木の時代のように、限られた有力者の非公式な協議を通じて国政の重要事項が決まる仕組みには、透明性や説明責任の面で重大な問題があった。2000年の「5人組」に対する批判は、政治の意思決定が国民から見えなくなることへの警戒として理解する必要がある。

 一方で、異なる政治集団の利害を把握し、制度上の権限を踏まえて調整する能力は、政権運営にとって現在でも重要である。衆議院に圧倒的多数があるからといって、参議院の議員が同じ選挙環境や政治的事情を共有しているわけではない。参議院議員には独自の選挙区事情、支持組織との関係、政策上の優先順位があり、それらを理解したうえで合意を形成することが、安定した国会運営につながる場合がある。

 もっとも、青木型政治がすべての時代に同じように有効であるとは限らない。政党の組織構造、派閥の影響力、選挙制度、首相官邸の権限、世論形成の仕組みが変われば、求められる調整能力も変化する。また、非公式な交渉が政策の合意形成に役立ったとしても、その過程が不透明になれば、利益誘導や政治的な不公平を生み出す危険がある。

 2026年の高市政権は、2005年8月の小泉政権よりも、通常の法律案について衆議院側の議席による制度的な選択肢を多く持っている。しかし、そのことは参議院との調整が政治的に不要になったことを意味しない。むしろ、再可決できる力があるからこそ、その力をいつ、どのような理由で行使するのかについて、政権には慎重な判断と国民への説明が求められる。

 青木の政治から引き出すべき教訓は、参議院には常に衆議院を止める力があるという単純なものではない。衆議院と参議院では制度的な権限も選挙の仕組みも異なり、その違いを理解しながら、政治的な合意を形成しなければならないということである。形式上の議席数によって法律を成立させる能力と、異なる政治的な立場を調整して安定した政権運営を実現する能力は、関連していても同一ではない。

青木が握っていたのは政治の「接続」だった

 青木幹雄の政治人生を通じて見えてくるのは、首相や党総裁という地位とは異なる場所にも政治的な権力が存在するという事実である。彼は参議院の制度的な権限を自分一人で所有していたわけでも、参議院議員全員を自由に動かせたわけでもなかった。しかし、参議院自民党の組織的な利害を把握し、衆議院側の派閥や官邸と交渉することで、他の政治家にとって必要な調整役となっていた。

 政治の意思決定では、正式に決定権を持つ人物と、決定に至る過程で影響力を持つ人物が一致するとは限らない。首相が政策を掲げ、党幹部が方針をまとめ、国会議員が採決に参加するまでには、人事、選挙、支持組織、党内の力関係など、さまざまな条件を調整する必要がある。青木は、こうした複雑な関係を理解し、それぞれの政治的な立場の間に入ることで、自分自身の存在価値を高めていた。

 ただし、青木が関わったことで、実際にどれほど多くの政策が成立し、どれほど多くの対立が解消されたのかを、公開された数値だけで正確に測定することは難しい。政治的な影響力を科学的に検証するのであれば、青木の関与があった案件となかった案件を比較し、交渉の成立率、法案への賛否、議員の行動、人事や選挙への影響などを分析する必要がある。その意味で、青木を「接続」の政治家と捉える説明は、彼の政治的な経歴と整合する有力な解釈である一方、厳密な因果関係がすべて証明された理論ではない。

 それでも、青木を単なる参議院の支配者と考えるより、複数の政治集団を結び付けることによって影響力を発揮した人物と捉える方が、その活動を理解しやすい。彼が握っていたのは、議員一人ひとりへの絶対的な命令権ではなく、政治組織の間にある情報と交渉の通路だったのである。

「参議院議員でありながら」ではなく「参議院議員だったから」

 最初の問いに戻ろう。なぜ青木幹雄は、参議院議員でありながら自民党政治を動かすことができたのだろうか。この問いには、政治の中心は衆議院にあり、参議院議員が強い影響力を持つことは例外的だという前提が含まれている。しかし、青木の場合には、その前提を逆転させて考えることができる。

 青木幹雄は、参議院議員でありながら強かったのではない。ある意味では、参議院議員だったからこそ、あのような政治的な位置を確保できたのである。首相を生み出す政治競争の中心から一定の距離を置きながら、首相が政策を実現するうえで無視できない参議院側の事情を理解し、衆議院の派閥や官邸、地方組織とも直接交渉できる立場にいたことが、彼の影響力を支えていた。

 もちろん、その政治力には明確な限界があった。2005年の郵政民営化法案では、青木自身が賛成しても党内の造反を抑えられず、参議院で法案は否決された。また、後の総選挙によって衆議院の議席構成が変わると、参議院側の投票行動も大きく変化した。こうした事実は、政治の権力が一人の人物に集中していたという説明では理解しきれないことを示している。

 それでも、青木の経歴が教えてくれることは小さくない。政治の権力は、誰が首相になるのか、どの政党が何議席を持つのかという問題だけで決まるものではない。誰が情報を持ち、誰が異なる政治集団を結び付け、誰が対立する利害を調整できるのかという点も、実際の政策決定に影響を与える。青木は、その役割を長年にわたって担っていた政治家だった。

 そして2026年、衆議院で巨大な多数を持つ高市政権にとっても、この問題は無関係ではない。ただし、現在の政権は衆議院で法律案を再可決できる議席を持っており、2005年8月の小泉政権とは制度的な条件が異なる。この違いを認めたうえでなお、参議院で十分な審議を行い、異なる選挙で選ばれた議員の意見をどう政治に反映させるのかという問題は残る。

 小泉純一郎でさえ、2005年8月には参議院で郵政民営化法案を否決された。その後、衆議院選挙による議席構成の変化を経て、10月には参議院でも法案が可決された。この一連の経過が示しているのは、参議院が常に政策を阻止する機関だということではなく、衆議院と参議院の力関係が制度と政治環境の双方によって変化するという現実である。

 青木幹雄は、その複雑な関係の中で政治活動を続けてきた。政治の中心に立つ人物ではなくても、異なる組織を結び付ける場所にいることで大きな影響力を持ち得ることを、彼の経歴は示している。一方で、その力が非公式な人間関係に依存しすぎれば、民主政治に不可欠な透明性と説明責任が損なわれる危険もある。

 「参院のドン」という呼び名が伝えているのは、一人の政治家が参議院を絶対的に支配していたという物語ではない。衆議院と参議院、政府と政党、中央政治と地方政治の間には、それぞれ異なる利害と制度的な権限が存在し、それらを結び付ける人物が政治の意思決定に深く関わることがあるという、日本政治の構造そのものなのである。

 衆議院で強い多数を持つ政権に求められるのは、その議席を背景に政策を実現する能力だけではない。参議院という独立した議院の役割を理解し、必要な審議を尽くし、国民に説明できる形で意思決定を進める能力もまた、政権運営の質を左右する。青木幹雄の時代から学ぶべきものがあるとすれば、古い派閥政治の復活ではなく、異なる権限と政治的基盤を持つ二つの議院を、一つの民主政治として機能させるための調整の重要性である。

 青木幹雄は首相官邸の主役ではなかった。しかし、政治家たちが政策の実現へ向かう過程で、彼の持つ人脈や情報、調整能力が必要とされる場面があった。その政治的な通路の重要な一つが、参議院だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 政治家の力を人気で測ろうとすると、二階俊博という政治家は、ひどく分かりにくい存在になる。テレビ映りのよさを武器にした政治家ではない。演説によって大衆を熱狂させるタイプでもなく、国民的人気を背負って総理大臣の座を目指したわけでもない。それどころか、中国との近い関係をめぐっては保守層の一部から厳しく批判され、道路整備や国土強靱化への積極的な関与からは、利益誘導型政治の象徴のように語られることもあった。新型コロナウイルス感染症の流行期には、旅行業界との長い関係にも批判的な視線が向けられた。そして晩年には政治資金をめぐる問題が直撃し、2024年3月、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明するに至った。

 ところが、その二階は2016年8月3日から2021年10月1日まで、1886日にわたって自由民主党(自民党)の幹事長を務めた。これは歴代最長の在任記録である。安倍晋三政権から菅義偉政権へと総理大臣が交代しても、二階は党の中枢に残った。1983年の初当選から2021年の衆議院選挙まで、当選回数は13回に達している。

 なぜ、これほど批判を受けながら、長期間にわたって権力の中心にいられたのだろうか。この問いを解くには、「二階はなぜ人気があったのか」と考えるだけでは足りない。そもそも全国的な批判の大きさと、地元選挙区での支持、党内での政治的影響力は、それぞれ異なるものである。全国世論調査によって二階個人の人気を長期間測定した一貫したデータがあるわけでもなく、批判的な報道の多さだけで国民全体からの評価を数値化することはできない。それでも、二階の長期的な政治的影響力を説明するうえで重要な視点がある。それは、大衆に広く好かれることと、政治組織の内部で必要とされることは、必ずしも一致しないという点である。

権力は、拍手の大きさだけでは測れない

 民主政治では、選挙に勝つことが権力への入口になる。しかし、議員になった後の力関係は、得票数や世論調査の数字だけでは決まらない。選挙区の候補者を誰にするのか。党内の対立をどう収めるのか。地方組織から上がってきた要求をどこへ運ぶのか。政権が危機に直面したとき、誰が異なる派閥の間を調整するのか。選挙で苦戦している議員を誰が支えるのか。政府と党の意思がずれたとき、誰が合意できる着地点を探すのか。こうした仕事は国会中継にはほとんど映らないが、政党を運営するうえでは重要な役割を担っている。

 政治組織は、演説する人間だけでは動かない。政策を立案する能力、選挙に勝つ能力、議会で多数派を形成する能力に加えて、異なる利害を調整し、対立する者同士の間に入り、合意形成を可能にする能力が必要になる。政治家の影響力は、こうした複数の能力がどのように組み合わされるかによって変わる。

 二階の政治経歴は、この見えにくい権力の働きを考える材料になる。1993年に自民党を離れた二階は、新生党、新進党、自由党、保守党、保守新党と、政党再編の時代を渡り歩いた。2003年には保守新党が自民党へ合流する形で、約10年ぶりに自民党へ戻った。日本の政党政治が大きく変動した時期に、複数の政治組織で活動したという経験を持っている。

 こうした政党遍歴は、必ずしも政治的な強みになるわけではない。所属政党を変えることは、有権者から政治理念の一貫性を問われる原因にもなる。しかし別の角度から見れば、異なる政治組織の意思決定や内部事情を知り、以前は対立していた政治家とも関係を持つ機会を得たとも考えられる。

 その経験から何を学んだのかは、本人の内面に属するため断定できない。ただ、後の派閥運営や政権内での行動を考えると、一度の対立によって政治的な人間関係を完全に断ち切らず、状況に応じて協力関係を形成する姿勢は、二階の政治的特徴を理解する一つの手掛かりになる。政治の世界では、今日の敵が永久に敵であるとは限らない。選挙では対立した相手が、数年後には連立相手や政策上の協力者になることもある。政党再編を経験した二階の経歴は、そうした政治の流動性を理解するうえで重要である。

二階派は、わずか3人から独力で拡大したわけではない

 二階の権力を「派閥の領袖だったから」と説明することはできる。しかし、それだけでは十分ではない。さらに、二階派の成長過程を正確に見ると、単純な派閥拡大とは異なる特徴が浮かび上がる。

 2003年に自民党へ戻った二階は、旧保守新党系の議員らを中心に「新しい波」という政治グループを形成した。しかし、その勢力は決して大きくなかった。2009年の衆議院選挙で自民党が政権を失うと、所属する衆議院議員は二階を含めて3人にまで減少した。

 ここで重要なのは、その後の経緯である。二階は、この3人の集団を独力で拡大し続けたわけではない。2009年11月、伊吹文明が率いる既存の派閥「志帥会」に合流し、会長代行に就任した。2012年12月に伊吹が衆議院議長となって派閥を離れると、二階はその指導的地位を引き継ぎ、2013年に志帥会会長となった。

 つまり、二階派の形成には、少数グループの維持、既存派閥への合流、指導権の継承、その後の勢力拡大という複数の段階があった。2020年には47人を擁し、岸田派と並ぶ自民党内第4派閥となったが、それは2009年の3人から全員を新たに集めた結果ではない。

 この違いは、二階の政治的能力を評価するうえで重要である。巨大派閥を最初から相続したわけでも、完全に独立した小集団を47人まで育てたわけでもない。少数派になったときには他の集団と結びつき、既存の政治組織の中に足場を確保し、その後に指導権を継承して勢力を拡大したのである。

 こうした経緯は、二階の政治力が単純な人数の獲得能力だけでは説明できないことを示唆している。自らの立場が弱い時期には他の組織と協力し、影響力を持てる位置を確保する。その後、党内の人間関係や政治的な機会を利用して組織を拡大するという過程は、政治的な適応能力の一例として理解できる。

 もっとも、派閥の拡大を二階個人の能力だけに帰することはできない。所属議員の判断、他派閥の状況、党内人事、選挙結果など、複数の要因が作用しているからである。それでも、政治的環境の変化に合わせて組織上の位置を変えながら影響力を維持したという事実は、二階の長期的な政治活動を特徴付けている。

二階の力は「城」よりも「交差点」に近かったのか

 社会ネットワーク研究には、ブローカー(broker・異なる個人や集団を仲介する主体)という考え方がある。ネットワークの中で影響力を持つ人物は、必ずしも最も多くの知人を持つ人物ではない。互いに直接つながっていない集団の間に位置し、情報交換や交渉の経路になる人物が、重要な役割を果たす場合がある。

 これを数学的に捉える考え方の一つが、媒介中心性(betweenness centrality・他者同士を結ぶ最短経路上に、特定の主体がどの程度位置しているかを表す指標)である。例えば、互いに直接交流していない四つの集団があり、その間の連絡が一人の仲介者を経由している場合、その人物は情報伝達や交渉において重要な位置を占める。逆に、各集団が直接連絡を取り合えるようになれば、その仲介者への依存は小さくなる可能性がある。

 この考え方を二階政治に当てはめると、その権力は巨大な城というより、複数の道路が交わる交通量の多い交差点に近かったという仮説が成り立つ。交差点そのものは目的地ではないが、別の場所へ移動するために多くの人がそこを通らなければならないのであれば、交差点には独自の価値が生まれる。

 二階も、派閥、地方組織、業界団体、政府、他の政治勢力との間に複数の接点を持っていた。こうした関係が政治的な情報や交渉の経路になっていたとすれば、単純な派閥人数以上の影響力を発揮できた可能性がある。

 ただし、ここには重要な留保が必要である。二階個人の政治的人脈を網羅したデータを用いて媒介中心性を計算したわけではなく、その数値が他の政治家より高かったと実証したものでもない。また、媒介中心性が高いことと、実際に人事や政策を決定できることは同じではない。政治権力には、制度上の権限、相手からの信頼、資金や組織への接点、交渉能力なども作用する。

 したがって、二階を「交差点」に例えるのは、権力構造を理解するための理論的な説明であり、測定によって確定した結論ではない。それでも、最大派閥の領袖ではなかった二階が長期間にわたり党内の中枢に位置した理由を考えるうえで、集団間の仲介という視点には一定の説明力がある。

幹事長という地位が、人的ネットワークの価値を高めた

 二階に大きな制度的権限を与えたのが、2016年8月の自民党幹事長就任だった。自民党の党則では、幹事長は総裁を補佐し、党務を執行すると定められている。幹事長は総裁の意向や党内の意思決定機関と無関係に、党のすべてを単独で決定できるわけではない。しかし、党務の執行責任者として、選挙、組織運営、人事、資金管理、地方組織との連絡などに関わる重要な地位である。

 この役職の特徴は、決定に関わる権限だけでなく、多くの政治情報が集まりやすいことにある。どの選挙区で候補者の調整が難航しているのか。どの地方組織が支援を求めているのか。どの議員が党執行部の方針に不満を持っているのか。複数の派閥が対立したとき、どのような条件で合意が成立し得るのか。幹事長は、こうした情報に接する機会を持ちやすい。

 政治組織における権力には、命令する力だけでなく、情報を把握し、交渉の場を設定し、意思決定に影響する力もある。相談が集まれば、党内の問題や人間関係に関する情報を得やすくなる。そこで調整を成立させれば、さらに信頼や協力関係が生まれる可能性がある。

 この点で、二階の政治力を「幹事長になったから強くなった」と一方向だけで説明するのは適切ではない。長年の政治活動によって蓄積した人脈や党内での地位が幹事長就任の背景となり、幹事長という役職がさらに情報や調整への接点を増やしたという、相互に強め合う関係が考えられる。

 もっとも、この関係には逆因果の問題がある。政治力が強いから幹事長に選ばれたのか、幹事長になったことで政治力が強まったのか、それぞれの影響を厳密に分離することは難しい。二階の就任前後の党内調整への関与や政治的影響力を数量化した比較データがなければ、役職による効果の大きさまでは確定できない。

 それでも、長年の人的関係と幹事長の制度的な地位が結びついたことは、二階が長期間にわたって党の中心に位置した理由を考えるうえで、重要な要素である。

「総理にならない実力者」という位置

 二階政治には、もう一つ特徴的な点があった。大きな政治的影響力を持ちながら、自らが自民党総裁となって総理大臣を目指す動きは、政治活動の中心にはならなかったことである。

 ここで、二階が最初から総理を目指さない戦略を意識的に選んでいたと断定することはできない。総裁を目指すための政治的条件が整っていなかった可能性もあるし、本人の政治的関心や年齢、派閥規模などが影響した可能性もある。いずれにしても、確認できない本人の意図を前提に説明することは慎重であるべきだろう。

 しかし、客観的に確認できることがある。二階は安倍晋三と総裁職を直接争う立場には立たず、安倍政権下で長期間幹事長を務めた。また、2020年に安倍が退陣した際にも、自ら総裁選挙に立候補するのではなく、菅義偉を支持する側に回った。

 政治組織では、最高指導者の座を直接争う人物と、その座を争わず組織運営や多数派形成を担う人物とでは、指導者との利害関係が異なる。有力な競争相手は将来の指導者になり得る一方、組織運営を担う実力者は、指導者にとって政権を維持するための協力者になり得る。

 二階の長期在任についても、こうした位置関係は無視できない。ただし、安倍が二階をどのように評価していたのか、なぜ長期にわたって幹事長に起用したのかを、外部から単一の理由で断定することはできない。選挙、派閥間の均衡、党内人事、政権運営上の必要性などが関係していたと考えるのが慎重である。

 重要なのは、総理大臣にならなければ政治的影響力を持てないわけではないという点である。政権の最高責任者ではなくても、党組織の運営や人事、選挙、派閥間の調整に関わることで、別の種類の権力を持つことは可能である。二階は、そのような権力のあり方を示した政治家の一人だった。

地方政治では「何を語ったか」だけでは評価されない

 全国的な政治論争から二階を見ると、古い利益誘導型政治の象徴のように映ることがある。しかし、地方の有権者が国会議員を評価する際には、全国的な政治課題だけでなく、地域の具体的な課題への対応も判断材料となる。

 二階は長年にわたり、道路、港湾、防災、観光、国土強靱化などの政策分野に関与してきた。紀伊半島の道路整備や地震防災対策をはじめ、地元の社会基盤に関係する事業を政治活動の重要な課題としてきたことは、本人の活動記録や関連する政策資料から確認できる。2013年には、防災・減災等に資する国土強靱化基本法など、複数の防災関係法案の提出にも関わっている。

 ただし、政治家本人が掲げる実績と、その政治家が実際に生み出した政策効果は区別しなければならない。道路や港湾の整備には、政府の計画、財政状況、自治体の要望、行政機関による調査、他の国会議員の活動など、多数の要因が作用する。事業が実現したという事実だけで、その成果を特定の政治家一人に帰属させることはできない。

 また、公共事業の推進そのものが不当な利益誘導を意味するわけでもない。必要な社会基盤を整備することは、国や自治体の正当な政策課題である。問題になるのは、事業の必要性、費用対効果、地域間の公平性、意思決定の透明性などが十分に検討されていたかどうかである。

 例えば、道路整備の効果を評価するのであれば、移動時間の短縮、災害時の代替経路、救急搬送の改善、地域産業への影響などを調べる必要がある。一方で、建設費や維持管理費、交通需要の見通し、人口減少に伴う将来の利用状況も考慮しなければならない。こうした政策効果の検証と、政治家が事業実現に果たした役割の検証は、本来別々に行うべきものである。

 それでも、地方の有権者にとって、中央政府や関係省庁との交渉力を持つ政治家が重要な存在になり得ることは理解できる。地域の政策課題を国政へ伝え、必要な制度や予算の実現を求めることも、国会議員に期待される役割の一つだからである。

 実際、二階が最後に立候補した2021年10月の衆議院選挙では、和歌山3区で10万2834票を獲得し、得票率69.3%で当選した。2位の日本共産党候補は2万692票、得票率14.0%であり、得票差は8万2142票、得票率の差は約55.3ポイントに達していた。

 ただし、69.3%という数字は有効投票に占める割合であって、選挙区の有権者全体に占める支持割合ではない。同選挙区の投票率は62.32%であり、二階の得票数を有権者数約25万人で割ると約41.1%になる。これは二階への積極的な支持者の割合を正確に示したものではないが、得票率だけを見て有権者の約7割が支持していたと解釈することは適切ではない。

 さらに、この選挙結果から「公共事業を持ってきたから69.3%を獲得した」と結論することもできない。長年の現職としての知名度、自民党の組織力、後援会、地域の政党支持構造、対立候補の顔ぶれなど、多数の要因が作用しているためである。

 重要なのは、全国的な報道による評価と、地元選挙区での候補者評価が異なり得るという構造である。国会議員は全国民による一つの人気投票で選ばれるわけではなく、それぞれの選挙区で有権者の判断を受ける。二階が長く議席を維持した背景には、こうした小選挙区政治の制度的特徴もあったと考えられる。

「中国に近い」という批判は、外交上の人的経路という側面も持つ

 二階を語るとき、中国との関係を避けることはできない。象徴的なのが2015年の日中観光文化交流団である。二階は総勢3162人に及ぶ訪中団の名誉団長として中国を訪れた。北京の人民大会堂では習近平国家主席が出席する交流行事が開かれ、二階自身もあいさつした。当時、二階は全国旅行業協会の会長を務めており、観光業界との関係を背景に大規模な人的交流を進めていた。

 このような長年の日中交流を背景に、二階はしばしば「親中派」と呼ばれ、その姿勢が政治的批判の対象になった。中国政府に対してどこまで厳しい態度を取るべきか、安全保障上の懸念と経済交流をどのように両立させるのかは、日本外交における現実の政策課題である。

 したがって、中国との関係を維持してきたという理由だけで二階の外交姿勢を肯定することも、交流を行ったという事実だけで不適切だったと決め付けることも適切ではない。評価には、具体的な外交案件や政策上の成果、日本の国益への影響を検討する必要がある。

 ただし、外交関係が悪化した際にも、政府間交渉以外の人的な連絡経路が意味を持つ場合はある。相手国の政治関係者と長期的な関係を維持してきた人物は、少なくとも潜在的には、対話を継続するための経路となり得る。

 二階の中国との関係も、こうした外交資源としての側面から考えることができる。ただし、人的な経路が存在することと、それによって具体的な外交成果が生まれたことは同じではない。2015年の訪中団の規模だけでは、日中関係をどの程度改善したのかを証明できない。また、中国との関係が国内政治における二階の地位をどれほど強めたのかについても、明確な因果関係を示す資料は十分ではない。

 それでも、一部の有権者から政治的な弱点とみなされる対外関係が、別の局面では外交上の連絡経路として評価され得るという構造は存在する。二階政治では、批判される理由と、政治的な資源になり得る理由が、同じ人的関係から生まれていた可能性がある。

2020年、二階の政治技術が鮮明に現れた

 二階の党内での影響力を考えるうえで、2020年の自民党総裁選挙は重要な事例である。2020年8月、安倍晋三が辞意を表明すると、後継総裁をめぐる動きが一気に始まった。当時、二階派は47人であり、自民党内の最大派閥ではなかった。しかし、8月31日に二階派が菅義偉支持を決めると、その後、最大派閥の細田派や麻生派など、有力派閥が相次いで菅支持へ動いた。

 この経過から、二階派の早期支持が総裁選挙の流れを形成する一要素になった可能性は考えられる。政治では、単純な人数だけでなく、いつ支持を表明するかも重要だからである。複数の派閥が情勢を見極めている段階では、ある派閥の支持表明が他の派閥にとって新しい情報になる。誰が有力候補なのか、どの候補を支持すれば党内で有利な立場を確保できるのかを判断する際、他の政治勢力の動向が参考にされることは十分に考えられる。

 ただし、二階派が動いたから他の派閥も動いたと、時系列だけで断定することはできない。各派閥が菅の官房長官としての実績や安倍政権との継続性、選挙での勝算などを独自に判断した可能性もある。二階の動きと他派閥の判断には共通の政治的背景が存在していたとも考えられる。

 さらに、この総裁選挙では、選出制度そのものが重要だった。2020年の総裁選挙は、通常の党員・党友による全国的な投票を含む方式ではなく、党大会に代わる両院議員総会によって実施された。投票権は党所属国会議員394人と、47都道府県連の代表各3人、合計141人に与えられ、計535票の枠組みで行われた。

 つまり、投票権の約73.6%を国会議員が占める仕組みだった。一般党員からの支持だけでなく、国会議員や派閥の動向が選挙結果に強く反映されやすい構造である。地方組織でも予備選などは行われたが、各都道府県に割り当てられた票数は3票に限られていた。

 選挙結果は、有効投票534票のうち、菅が377票、岸田文雄が89票、石破茂が68票だった。菅は有効投票の約70.6%を獲得して当選した。

 ここで、二階派47人の規模を数理的に考えてみる。47人は国会議員394人の約11.9%に相当する。仮に二階派の47人全員が菅に投票したとしても、それだけで377票を説明することはできない。実際の得票377票から47票を差し引いても330票が残り、他の派閥や国会議員、地方組織からの幅広い支持が菅の当選に寄与していたことは明らかである。

 もっとも、この計算は、他の投票行動が変化しないと仮定した単純な比較である。二階派が支持を表明しなかった場合、他の派閥の判断や得票配分まで同じだったとは限らない。したがって、この数字から二階派の早期支持に影響がなかったと結論することもできない。

 最も慎重な説明は、二階派単独で菅を当選させたわけではないが、早期の支持表明が党内の期待形成や支持勢力の調整に影響した可能性がある、というものである。菅が自民党総裁となり、総理大臣に就任すると、二階は幹事長に留任した。この結果、安倍政権から菅政権への移行を経ても、二階は党運営の中心的地位を維持した。

 この時期、二階は「キングメーカー」と呼ばれるほどの影響力を持つ政治家として扱われた。しかし、その力を他派閥に一方的に命令する能力と理解するのは適切ではない。むしろ、党内の政治情勢を読み、早い段階で支持を明確にし、複数の勢力が合意し得る方向を形成する能力に特徴があったと考えられる。

 2020年の総裁選挙は、二階の政治力を派閥の人数だけで説明することの難しさと同時に、幹事長という地位、党内ネットワーク、総裁選挙の制度が組み合わさって影響力を形成する仕組みを示す事例だった。

二階の長期在任には、本人以外の条件も作用していた

 ただし、二階の長期的な権力を本人の調整能力だけで説明すると、重要な点を見落とす。第一に、幹事長という役職は、本人の意思だけで維持できるものではない。自民党の党則では、幹事長は総務会の承認を受けて総裁が決定する。したがって、二階が長期間幹事長に在任できたことには、安倍や菅をはじめとする総裁側の判断が関わっていた。

 第二に、自民党内の派閥構造や政権運営上の利害が存在する。総裁は党内の各勢力との関係を調整する必要があり、幹事長の選任も、そのような党内政治と無関係ではない。二階が必要とされたとしても、その必要性は党内の勢力関係や政権の状況によって変化する。

 第三に、政治的な仲介能力がある人物なら誰でも長期的な権力を維持できるわけではない。同じように派閥間の調整や選挙支援を重視しながら、選挙に敗れたり、党内人事で影響力を失ったりした政治家も存在する。長く生き残った二階だけを対象に分析すると、その成功を生んだ特徴を過大評価する生存者バイアスに陥る危険がある。

 二階の特徴が本当に例外的だったのかを検証するためには、同時代の自民党有力政治家と比較し、幹事長在任期間、派閥規模、当選回数、役職歴、党内での調整への関与などを調べる必要がある。この記事が示す説明は、二階個人の能力を実証的に数量化したものではない。確認できる経歴や政治行動を基礎に、党内制度や政治学の理論から長期的な影響力の形成過程を説明する仮説として位置付けるのが適切である。

2021年、制度的な権力を失う転換点が訪れた

 二階の影響力がどのように形成されたのかを考えるなら、それがどのように弱まったのかも検討しなければならない。重要な転換点は、2024年の不出馬表明だけではない。その前の2021年に、二階は長く務めてきた自民党幹事長の地位を失っている。

 2021年9月の自民党総裁選挙では岸田文雄が当選し、10月1日に党役員人事が行われた。幹事長には甘利明が就任し、二階の1886日に及ぶ在任は終了した。これによって二階は、党務の執行責任者という制度上の地位を失った。

 岸田は総裁選挙において、党役員の任期に上限を設ける改革方針も打ち出していた。長期在任の是非が党運営上の論点となっていたことは、二階の地位を考えるうえで無視できない。ただし、幹事長交代の理由を二階への反発だけで説明するのは適切ではなく、新総裁による党運営体制の構築や人事上の判断なども考慮する必要がある。

 ここには、政治権力の性質を理解するための重要な論点がある。二階が長年蓄積した人脈は、幹事長を退任したからといって突然消滅するものではない。しかし、党務を執行する正式な権限や、選挙、人事、組織運営に関する情報が集まる制度的な地位は失われる。個人的な人脈が残っていても、役職を通じて得られる政治的資源は変化するのである。

 これは、幹事長への就任が政治的影響力を強めるという仮説の反対側に当たる。役職と人脈が相互に政治力を高めていたのであれば、役職を失うことによって、その循環の一部が弱まる可能性がある。もちろん、2021年以降の二階の影響力が実際にどの程度低下したのかを数量的に測定したわけではない。ただ、制度的な地位を失ったことは確認できる事実であり、長期的な権力の変化を考えるうえで、2021年は重要な区切りだった。

「必要とされる政治」は、同時に不信も生む

 ここまで見ると、二階政治には一定の組織的な合理性があったことが分かる。しかし、その強さを生み出した仕組みには、政治的な不信を招き得る側面も存在していた。

 人的関係を通じた調整を重視すれば、正式な会議や公開資料だけでは意思決定の過程が分かりにくくなる。地域の要望を中央政府へ届ける政治を重視すれば、政治的影響力の強い地域ほど有利になるのではないかという疑問が生まれる。業界団体との長い関係を政策形成に利用すれば、専門知識や現場の情報を得られる一方で、特定業界の利益が過度に優先されていないかという問題も生じる。

 こうした関係が存在すること自体は、直ちに不正を意味するわけではない。民主政治において政党、地方組織、業界団体、行政機関、国会議員が意見交換や調整を行うことは一般的であり、必要な場合も多い。

 しかし、政策決定の公平性や透明性を確保するためには、誰がどのような要望を出し、何を根拠に決定が行われ、どのような利益や負担が生じたのかを検証できる仕組みが必要になる。調整能力が高くても、その過程が外部から検証できなければ、政治的な不信を生む可能性がある。

 つまり、二階が持っていたと考えられる政治的な調整能力は、党内では組織運営上の価値を持ち得る一方、国民に対する説明責任や政策決定の透明性という観点からは、厳しい検証を受けるべきものでもあった。その緊張関係が強く表れたのが、自民党派閥の政治資金問題である。

政治資金問題では、刑事責任と政治的責任を分ける必要がある

 自民党派閥の政治資金事件では、二階派「志帥会」の元会計責任者が、2022年までの5年間に約2億6400万円の政治資金パーティー収入や、約1億1600万円の支出を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、政治資金規正法違反の罪に問われた。

 元会計責任者は起訴内容を認め、2024年9月10日、東京地方裁判所から禁錮2年、執行猶予5年の有罪判決を受けた。裁判所は、長年にわたる会計処理によって収支の実態が報告書に反映されず、政治資金の流れが国民から見えなくなっていたことなどを重く評価した。

 ただし、この事件における元会計責任者の刑事責任と、二階本人の刑事責任は明確に区別しなければならない。二階自身も派閥の政治資金をめぐって刑事告発されたが、東京地方検察庁特別捜査部は2024年7月、本人について嫌疑なしとして不起訴処分とした。したがって、会計責任者に有罪判決が出たことをもって、二階本人にも犯罪が成立したかのように記述することはできない。

 さらに、これとは別に、自民党和歌山県連の政治資金収支報告書の不記載をめぐる事件もあった。県連会長だった二階らに対する告発について、和歌山地方検察庁はいったん不起訴処分としたが、2025年に和歌山検察審査会が不起訴不当と議決した。

 その後、和歌山地検は再捜査を行い、2019年分と2020年分については2026年2月、2021年分と2022年分については同年10月2日に改めて不起訴処分とした。2021年分と2022年分について、二階本人は事実を認定するに足りる証拠が認められなかったとして、嫌疑なしと判断されている。

 この和歌山県連の問題は、二階派の元会計責任者が有罪判決を受けた事件とは別のものである。対象となる政治団体や告発内容、検察による判断を混同しないことが重要である。また、不起訴処分がされたことと、政治的な説明責任をどう評価するかは、別の問題である。政治資金の管理に関わる組織の責任者が、どのような監督体制を構築し、問題が明らかになった際にどのような説明を行ったのかについては、刑事司法の判断とは別に政治的な評価が成立し得る。

 二階は2024年3月、次の衆議院選挙には立候補しないことを表明し、自らの政治責任にも言及した。ただし、その判断には年齢、世代交代、党内情勢など、複数の事情が関係していた可能性があり、政治資金問題だけを唯一の理由と断定することは避けるべきである。

 それでも、長年にわたって政治的影響力を維持してきた二階が、晩年に政治資金をめぐる問題と説明責任を強く問われる立場になったことは、政治的な調整能力だけでは権力を維持できないことを示す出来事だった。

2024年の後継候補敗北が示したもの

 二階の政治的影響力の変化を考えるうえで、2024年の衆議院選挙も重要である。和歌山県では、衆議院小選挙区の区割り改定によって選挙区数が3から2に削減された。従来の和歌山3区はなくなり、選挙区の区域も大きく変更された。

 2024年10月27日の衆議院選挙では、再編された和歌山2区から、二階俊博の三男である二階伸康が自民党公認候補として立候補した。しかし、無所属で立候補した世耕弘成に敗れた。得票数は、世耕が10万1739票、二階伸康が7万1114票で、得票差は3万625票だった。得票率は世耕が44.0%、二階伸康が30.8%である。

 この結果から、二階俊博本人が持っていた選挙基盤が、後継候補に自動的に引き継がれるわけではなかったことが分かる。ただし、2021年の和歌山3区と2024年の和歌山2区では選挙区の区域が異なるうえ、対立候補の知名度や政治経歴、選挙時の党内情勢も違う。したがって、俊博本人の2021年の得票率69.3%と、伸康の2024年の30.8%を単純に比較して、二階の地盤がその差だけ衰退したと判断することはできない。

 また、二階伸康の敗北を、父親である俊博の政治力が完全に失われた証拠とみなすこともできない。選挙はあくまで個々の候補者、対立候補、選挙区の状況、政治的争点などによって結果が変わるからである。

 それでも、ここには政治学的に興味深い問題がある。長年にわたって形成された個人後援会や政治的人脈、地元組織との関係は、血縁関係によってそのまま継承されるとは限らない。政治的な信頼や支持は、候補者自身の経験、能力、評価によっても左右される。二階が築いてきた政治的資源には、組織として継続する部分と、本人の経験や人間関係に強く依存する部分があったと考えられる。後継候補の選挙結果は、そうした個人的な政治資源の継承が必ずしも容易ではないことを示唆している。

二階政治を一つの成功物語として説明してよいのか

 ここまでの事実から、二階の長期的な影響力には、強固な選挙基盤、長い議員経験、派閥の指導的地位、幹事長としての制度的権限、地方政策への関与、業界との関係、外交上の人的接点など、複数の要因が作用していたと考えられる。しかし、これらの要因がそれぞれどの程度の影響を与えたのかを、現在確認できる資料だけで正確に数値化することは難しい。

 例えば、長い議員経験が人脈を増やした可能性がある一方、政治的人脈が選挙での再選を助け、その結果として議員経験が長くなった可能性もある。幹事長就任が政治力を強めた一方、もともと政治力があったから幹事長に選ばれたとも考えられる。これらは互いに独立した要因ではなく、影響し合っている可能性が高い。

 また、二階と似た政治手法を取った他の政治家を比較せず、長く権力を維持した二階だけを詳しく分析すると、成功した人物に共通する特徴と、成功の原因となった特徴を混同する危険もある。

 本来、より厳密な実証研究を行うなら、同時代の政治家について、選挙成績、派閥規模、党内役職、組織間の人的関係、政権交代時の地位の変化などを比較する必要がある。さらに、幹事長就任前後や退任後の影響力を測定できれば、制度的な地位の効果と個人的な人脈の効果をある程度区別できる可能性がある。

 ただし、政治における人的関係の多くは非公開であり、単純に知人の数を調べれば政治権力を測定できるわけではない。誰と接点を持っているかだけでなく、その関係を通じてどのような交渉が成立し、どのような意思決定に影響したのかまで把握しなければならない。

 したがって、二階の長期的な影響力を、調整能力という一つの原因だけで説明するのは適切ではない。むしろ、選挙制度、党内組織、政治的な人間関係、幹事長の権限、政治情勢の変化が互いに作用した結果として理解する方が、歴史的事実にも政治学の理論にも整合する。

二階を長く権力の中心に残したものは何だったのか

 二階俊博という政治家を「古い政治家」の一言で片付けるのは簡単である。確かに、彼が得意としたと考えられる政治手法には、昭和以来の自民党政治を思わせる部分が多い。人に会い、対立した相手とも関係を完全には切らず、選挙で困っている政治家を支える。地方の要求を中央政府へ届け、業界団体との関係を維持し、外交関係が難しくなれば別の連絡経路を探す。派閥間の対立が起きたときには、互いに受け入れられる合意点を探る。こうした行動は、政治組織の内部では一定の実務的な価値を持ち得る。

 一方で、その政治手法は透明性や公平性、説明責任を重視する現代の政治観と緊張する場合がある。人的関係を通じて問題が解決されるとしても、その判断が公共の利益にかなっているかどうかは、別途検証されなければならない。

 二階政治の特徴は、この二つの側面が同時に存在していたことにある。党内での調整能力は、政権運営にとって有用な資源となり得る。しかし、その調整過程が外部から見えにくければ、国民の不信を招く可能性もある。地方の要望を政策に反映する力は、地域の有権者から評価され得る。しかし、地域間の公平性や公共投資の効率性については別の検証が必要になる。業界や外国の政治関係者との長い人脈は、情報や交渉の経路となり得る一方、その関係が政策判断にどのような影響を与えたのかについて説明責任が生じる。

 そして、こうした能力や人間関係があっても、政治権力を無期限に維持できるわけではない。2021年の幹事長退任によって制度上の地位は変化し、2024年には次の衆議院選挙への不出馬を表明した。同年の後継候補の選挙結果も、本人が築いた政治的基盤の継承が容易ではないことを示した。

 二階の長い政治人生から読み取れるのは、政治権力が単なる人気や派閥人数だけで決まるものではないということである。もちろん、選挙で支持されることは民主政治の基本であり、その重要性が小さくなるわけではない。しかし、選挙で議席を得た後の政治組織では、異なる勢力を調整し、情報を集め、合意を形成し、制度上の役職を通じて意思決定に関与する能力も、政治的影響力を左右する。

 二階は、最も人気のある政治家でも、常に最大派閥を率いる政治家でもなかった。それでも、党内の重要な組織や人間関係の接点に位置し、長期にわたって幹事長という制度的な地位を維持した。ただし、その状態が続いた理由を二階個人の能力だけに求めることはできない。安倍や菅による党運営上の判断、他派閥の利害、党内の選挙制度、地元での支持基盤など、本人を取り巻く政治構造も大きく関係していた。

 そう考えると、最後に残る問いは「なぜ二階だけが生き残ったのか」というものではないのかもしれない。より重要なのは、自民党内の権力調整、選挙、地方政治、業界団体、外交上の人的関係が複雑に結びつく政治構造の中で、なぜ二階のような政治家が長期にわたって必要とされる地位を維持できたのか、という問いである。

 二階俊博を理解することは、一人の老練な政治家の経歴を振り返るだけではない。選挙によって得られる民主的な正統性と、政党組織の内部で形成される政治的影響力が、どのような関係にあるのかを考えることでもある。そして、その権力が個人の能力だけではなく、役職、組織、制度、周囲の政治情勢によって支えられているのであれば、それらの条件が変化したときには、長年の実力者であっても影響力を失い得る。

 二階の政治人生が示しているのは、人気とは異なる場所で政治権力が形成される仕組みだけではない。その権力が何によって支えられ、どのような条件で維持され、そして何が変わると失われていくのかという、政党政治そのものの構造なのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば極めて異例の首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の保守と革新を代表する勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。

 しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治の構造そのものが大きく変化し、それぞれの政党が従来とは異なる生存戦略を迫られていたことが、村山政権誕生を理解する鍵になる。

自民党が政権を失った選挙で、社会党も大敗していた

 物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の政治的な混乱はありながらも、ほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが、政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。重要なのは、自民党が単独過半数を失ったのは総選挙の結果だけによるものではなく、その前の党分裂によってすでに過半数を割り込んでいたという事実である。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席を獲得したものの、単独過半数を回復することができなかった。

 ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、1990年総選挙の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。減少率を計算すると、自民党は275議席から223議席への減少で約18.9%、社会党は136議席から70議席への減少で約48.5%となる。自民党も後退したが、社会党の議席減少はそれ以上に深刻だった。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたという構図ではなく、自民党と社会党という戦後政治を長く支えてきた二つの政党が同時に大きな変化に直面していたのである。

 この変化は、両党の合計議席からも確認できる。1990年総選挙では、自民党275議席と社会党136議席を合わせて411議席となり、衆議院定数512議席の約80.3%を占めていた。ところが1993年総選挙では、自民党223議席と社会党70議席の合計は293議席となり、定数511議席に対する占有率は約57.3%まで低下した。わずか一回の総選挙を挟んで、両党の合計議席占有率は約23ポイント低下したことになる。ただし、これは議席数の比較であり、両党から他党への有権者の移動をそのまま示す数値ではない。新党の結成、現職議員の離党、候補者の所属変更なども含めて、政党の勢力構造が大きく組み替わった結果と理解する必要がある。

 新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権はいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した時点から構造的な不安定要因があった。参加していた政党の政治理念や政策はかなり異なっており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではなかった。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。

 彼らを強く結びつけていた共通項の一つは、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。しかし、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党に代わって、どのような政治を実現するのかという問いである。政治改革という共通課題は存在したものの、税制、安全保障、経済運営、政界再編の進め方まで一致していたわけではない。非自民連立政権が抱えていたのは、政権交代という目標を共有することと、政権運営の具体的な政策を共有することは同じではないという問題だった。

細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い

 細川護熙政権は、それまでの中選挙区制を改め、小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革を実現した。しかし、連立内部の意見対立は解消されず、1994年2月には国民福祉税構想の発表と撤回をめぐって混乱が生じた。さらに政治資金をめぐる問題なども重なり、細川は同年4月に退陣する。政治改革という大きな課題では一定の成果を上げたものの、その後の政権運営を安定させる共通基盤は十分に形成されていなかったのである。

 後継首相となったのが新生党党首の羽田孜だった。しかし羽田政権は、正式に発足する前から大きくつまずいた。1994年4月25日、羽田が国会で首相に指名された日に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を含まない院内会派「改新」を結成したのである。社会党は首相指名では羽田を支持していたにもかかわらず、この会派には参加しておらず、翌26日に連立政権からの離脱を決めた。また、新党さきがけも羽田政権では閣外協力の立場を取っており、羽田内閣は少数与党として政権運営を始めることになった。

 これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた政治的な衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心として、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。ただし、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、旧連立政権への復帰を模索する勢力も存在した。社会党と小沢らの対立には、政権運営の手法や政策決定の進め方に対する不満も含まれていたと考えるべきだろう。

 政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況は厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う可能性があった。この懸念が現実的なものだったことは、その年の暮れの政治情勢からも理解できる。1994年12月には、新生党、日本新党、民社党、公明党系の一部勢力などが結集し、新進党が結成されたからである。

 つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは異なる競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導し、どの政党が新しい政治秩序の中心に位置するのかという争いである。社会党はその中で、自らの政策を実現する方法を模索すると同時に、政党としての発言力を維持する必要にも迫られていた。羽田政権の少数与党化は、前年に政権を失った自民党にとって、政治的な力関係を変える機会にもなった。

自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった

 自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党にとって政権復帰は最優先の政治目標の一つだったが、単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。

 1993年総選挙の獲得議席を基準にすると、自民党223議席と社会党70議席を合わせれば293議席となり、当時の衆議院定数511議席の過半数である256議席を上回る。さらに新党さきがけの13議席を加えれば306議席となる。一方、自民党と新党さきがけだけでは236議席にとどまり、過半数には届かない。この数字から、社会党は自民党にとって政権復帰を実現するうえで、極めて重要な交渉相手だったことが分かる。ただし、これは1993年総選挙の獲得議席を単純に合算した比較であり、1994年6月時点の議員の所属や実際の首相指名投票の結果をそのまま表したものではない。

 ここで注目したいのは、議席計算だけなら自民党と社会党の二党でも過半数を確保できるという点である。したがって、新党さきがけの役割を単なる議席の上積みだけで説明することはできない。新党さきがけには、社会党との政策協議を進め、異なる政治的立場を持つ政党の間で合意を形成するという重要な役割があった。自民党と社会党だけでは、長年の対立や支持者への説明の難しさが大きかったが、政治改革を掲げる新党さきがけが参加することで、三党連立に一定の政策的な枠組みを与えることができたと考えられる。

 自民党が社会党の協力を得るには、首相を誰にするかという問題もあった。社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは、政治的に容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の対立相手として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために協力するのでは、党内や支持者に説明することが難しくなる。そこで自民党が受け入れたのが、社会党委員長の村山富市を首相候補とする構想だった。

 これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけで構成されているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、行政機構との政策調整に関与し、政権与党として政治の中心へ戻ることにも大きな意味がある。首相の座を社会党に譲る代わりに、自民党が政権に復帰するという選択には、政治的な合理性があった。

 したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることが、自民党の政権復帰を可能にする有力な選択肢だったのである。それは同時に、社会党を新しい連立の枠組みへ引き入れることで、細川政権を生んだ非自民勢力の結束を崩し、小沢一郎らを中心とする政治勢力を野党側へ押し戻す効果も持っていた。

 ただし、自民党の政治家が全員同じ目的や計算によって動いたわけではない。村山を首相とする連立構想には自民党内部にも反対があり、実際に党を離れる政治家も現れた。自民党が一枚岩となって長期的な戦略を実行したというより、党内の対立を抱えながらも、政権復帰を可能にする選択が最終的に採用されたと見る方が、当時の実態に近いだろう。

社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした

 しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。

 それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党が別の政治的課題にも直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。こうした状況では、従来の対立関係だけを基準に連立相手を選ぶことが、必ずしも党の利益に結び付くとは限らなかった。

 もっとも、社会党が自民党との連立を選んだ理由を、単に政党としての生き残りだけに求めることも適切ではない。社会党には、憲法の理念を尊重し、平和政策や社会保障政策を重視しながら、政権参加を通じて具体的な政策を実現しようとする立場もあった。社会党側が新党さきがけと政策協議を重ねていたことは、連立構想が単なる役職配分や議席計算だけで進められたわけではないことを示している。政治家や政党の行動には、権力の獲得、政策の実現、選挙上の利益など、複数の目的が同時に存在するからである。

 自民党と社会党は思想的に突然近づいたわけではなかったが、1994年という時点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保しながら政策を実現したいという事情があった。そして新党さきがけには、政党間の政策調整を進めながら、政治改革の方向性を維持したいという考えがあった。理念の異なる三党が完全に同じ方向を向いたわけではない。それぞれが異なる目的を持ちながらも、一定の政策合意の下で協力できる可能性が生まれたのである。

1994年6月29日、村山首相を誕生させた政治的合意

 羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。中心となった候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の複雑さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山を支持する一方、村山に対抗する旧連立勢力が担いだのは、自民党を離党した海部だったのである。政党の名称だけを見ていては、当時の政治勢力の対立関係を正確に理解できない状況になっていた。

 衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、いずれも必要な過半数を得られなかったため決選投票に入った。その結果、村山261票、海部214票となり、村山が内閣総理大臣に指名された。日本社会党からの首相誕生は、1947年に首相となった片山哲以来47年ぶりのことだった。翌6月30日には、自民党、日本社会党、新党さきがけの三党による村山内閣が発足した。

 ここで制度上重要なのは、日本の内閣総理大臣が国民による直接選挙で選ばれるのではなく、国会議員の中から国会の議決によって指名されるということである。日本国憲法第67条は、内閣総理大臣を国会の議決で指名することを定め、衆議院と参議院の指名が異なる場合などには、一定の条件の下で衆議院の議決を優先する仕組みを設けている。そのため、最大政党の党首が必ず首相になるわけではない。複数の政党が協力して国会内の多数を形成すれば、最大政党ではない政党の党首が首相になることも制度上可能である。村山政権は、この議院内閣制の特徴を象徴する事例でもあった。

 ただし、首相指名までに三党間でどの程度の合意が成立していたのかについては、史料を区別して読む必要がある。自民党の公式な党史では、6月28日に森喜朗幹事長が社会党の久保亘幹事長へ村山首班の連立構想を正式に提案し、同日の河野洋平総裁と村山委員長の会談で、自社さ連立について合意したと説明している。一方、村山自身は7月1日の首相就任後の記者会見で、社会党と新党さきがけが事前に政策協議を行って共同の合意案を各党へ示し、自民党からもおおむね了承する回答を得ていたものの、首班指名までにすべての協議が完全にまとまっていたわけではないという趣旨の説明をしている。

 さらに、当時の社会党機関誌に掲載された「新しい連立政権の樹立に関する合意事項」は、1994年6月29日に提示され、翌30日に合意された文書として記録されている。つまり、村山を首相に推すという政治的な合意と、三党による正式な政策合意文書の成立は、区別して考える必要がある。首相指名前から政治的な協力や政策協議が進められていたことは確認できるが、すべての政策や政権運営の詳細が完全に確定してから首相指名が行われたと考えるのも正確ではない。

 後に菅直人も、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨を国会で説明している。関係者の証言にはそれぞれの立場や認識の違いが含まれているため、一つの証言だけで当時の交渉過程を断定することはできない。より妥当なのは、村山首班を実現するための政治的協力が先行し、その前後に三党政権としての政策と具体的な枠組みが急速に整理されていったと理解することだろう。

総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった

 しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は自衛隊違憲論や非武装中立論を掲げてきた。同じ政権に入る以上、こうした根本的な政策の違いについて、政府として一定の統一した方針を示さなければならなかった。

 村山は首相就任後の1994年7月20日、国会で自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にした。これは社会党が長年掲げてきた安全保障政策との関係で、極めて大きな意味を持つ表明だった。ただし、首相個人が政府の責任者として見解を示すことと、社会党という政党が正式に政策を変更することは、制度上別の出来事である。社会党は同年9月3日の臨時全国大会において、自衛隊の合憲性を認める方向への基本政策の転換を承認した。したがって、7月の首相答弁と9月の党大会決定を区別することで、政策転換の過程をより正確に理解できる。

 この変化を「村山が首相になった途端、それまでの主張を突然捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでいた。村山自身も、社会党が果たしてきた平和政策上の役割を評価しながら、冷戦終結後の現実に対応する必要があると説明している。安全保障政策の転換は、連立政権成立だけによって一夜にして生じたものではなく、それ以前から存在した党内の議論が、政権を担うことによって具体的な結論を迫られた結果と考えられる。

 それでも、野党として政策を議論することと、政府として実際に政策を決定することの間には大きな違いがある。野党であれば、政府の安全保障政策に反対し、将来的な制度変更を主張することができる。しかし首相になれば、自衛隊の指揮監督、安全保障条約に基づく外交関係、国際情勢への対応などについて、現実の国家運営を前提とする判断が求められる。連立参加政党がそれぞれ異なる政策理念を持つこと自体は制度上可能だが、政府としての決定や行政の執行については、内閣として一体性を保たなければならない。村山政権は社会党に対して、野党時代とは異なる政治的責任を突き付けたのである。

社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった

 村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし、政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは政府を運営するための現実的な選択だったとも評価できるが、支持者から見れば別の疑問も生まれる。

 社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。これは社会党にとって深刻な問題だった。ただし、社会党の政策的な特徴が安全保障分野だけにあったわけではない。社会保障、労働政策、平和政策、社会的公正などには依然として独自の主張があり、政権参加によってそうした政策を実現する余地も存在した。自民党との連立によって社会党の独自性がすべて失われたと考えることも、また単純化し過ぎである。

 問題は、支持者が政党を評価する際に、個別の政策だけでなく、どの政党と協力し、どのような政治的立場を取るかという点も重視することである。自民党に反対することを重要な支持理由としていた有権者にとって、自民党との連立は従来の支持理由を見直す契機になり得た。一方で、社会党の現実的な政策転換を評価した有権者もいた可能性がある。どちらの反応がどの程度存在したのかを明らかにするには、当時の世論調査や政党支持率、選挙区別の得票変化などを詳しく分析する必要がある。

 したがって、「自民党との連立が社会党の支持基盤を弱めた」という説明には合理性があるものの、その影響の大きさを議席数の変化だけから正確に測定することはできない。社会党の支持基盤には、労働組合の組織力や雇用構造の変化、冷戦終結後の政治意識の変容など、連立以前から進行していた変化も影響していたからである。

社会党の衰退は村山政権だけで説明できるのか

 社会党は1996年1月に社会民主党へと党名を変更し、同年10月の衆議院総選挙では15議席となった。1990年の日本社会党136議席、1993年の70議席、1996年の社会民主党15議席という数字を並べれば、政治勢力として大幅に縮小したことは明らかである。しかし、この三つの数字を単純に比較し、その原因を村山政権への参加だけに求めるのは統計的にも歴史的にも適切ではない。

 まず、1990年から1993年への議席減少は、村山政権成立以前に起きている。社会党の勢力低下は自社さ連立によって初めて始まったものではない。さらに1994年には小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革が行われ、1996年の総選挙から新しい制度が適用された。小選挙区制では、各選挙区で最も多く得票した候補者だけが当選するため、支持が広く分散している政党は、得票率に比べて小選挙区の獲得議席が少なくなる可能性がある。一方、比例代表部分には別の議席配分の仕組みがあり、新制度の影響は単純なものではない。それでも、選挙制度の変更が政党の組織戦略や候補者調整に新しい圧力を与えたことは重要である。

 さらに1996年には民主党が結成され、旧社会党系の議員の多くが新党へ移った。これは社民党の議席減少を考えるうえで極めて重要な要因である。新党へ移った議員が別の政党から当選した場合、社民党の議席は減少しても、それがすべて従来の社会党支持者の政治的な離反を意味するわけではない。政党組織の分裂や議員の所属変更と、有権者による支持の変化は、区別して分析しなければならない。

 仮に自社さ連立がなかった場合、社会党がどの程度の議席を維持できたのかという問いについても、確実な答えを出すことはできない。歴史上、同じ社会党を同じ時期に二つ用意し、一方だけを自民党と連立させて比較することは不可能だからである。因果関係をより厳密に検証するには、連立前後の世論調査、政党支持率、労働組合の支持方針、候補者の移動、各選挙区の投票結果などを総合的に分析する必要がある。それでも、政界再編や選挙制度改革などが同時に進行していたため、連立そのものの独立した影響を完全に分離することは難しい。

 したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」という単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったと考えることには合理性がある。首相の座を得ることと、政党として長期的に強くなることは同じではなかったのである。

自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった

 一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。

 自民党が村山内閣に参加した意味は、閣僚構成にも表れている。村山内閣では、自民党の河野洋平総裁が副総理兼外務大臣に就任し、橋本龍太郎や野中広務、亀井静香らも閣僚として参加した。新党さきがけの武村正義代表は大蔵大臣となり、社会党からは五十嵐広三が内閣官房長官に就任した。首相こそ社会党の村山だったが、政権運営は三党によるものであり、特に議席数の多い自民党は、政府の政策決定に大きな影響力を持つ立場を回復していた。

 1993年8月に非自民の細川政権が成立してから、1996年1月に自民党総裁の橋本が首相となるまで、およそ2年5か月である。この間、日本政治は、自民党中心の政権から非自民連立政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相となった。この流れを見ると、自民党が村山首班を受け入れた政治的な意味が理解できる。自民党は一度、首相の座を他党に譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部での影響力を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。

 もちろん、結果論だけで「自民党は最初から橋本政権の成立まで計画していた」と考えるべきではない。当時の政治情勢は流動的であり、村山政権がどの程度続くのか、その後の首相が誰になるのかを確実に予測できたわけではない。自民党内部でも村山首班に対する意見は一致していなかった。それでも、実際の結果から評価すれば、社会党委員長を首相として受け入れるという選択は、自民党が政権へ復帰するうえで有効に機能した。

 政治では、目の前の首相の椅子を獲得することと、政権全体に影響力を持つことは必ずしも一致しない。議席数、閣僚ポスト、政策決定への参加、国会運営、将来の連立の組み合わせなど、複数の要素が政党の実質的な影響力を決定する。村山政権は、首相をどの政党が出すかという形式と、政権の中でどの政党がどれだけの力を持つかという実態を、分けて考える必要があることを示している。

なぜ「村山富市」だったのか

 では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の政治姿勢も関係していた可能性がある。村山は、大分市議、大分県議を経て国政入りし、社会党内では調整型の政治家として評価されてきた。強い個人的な指導力によって周囲を従わせるというより、異なる立場の人々の意見を聞き、合意できる部分を探る政治姿勢を持つ人物だったと考えられる。

 何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは重要な資質になり得る。連立政権では、一つの政党が自党の政策をすべて実現できるわけではない。異なる政策理念を持つ政党が、何を優先し、どこまで妥協し、どの問題を将来の協議に残すのかを調整する必要がある。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、各党が一定の信頼を置き、首相として受け入れられる人物の方が適している場合がある。

 ただし、「村山が調整型だったから自社さ政権が成立した」とまで断定することはできない。村山が社会党委員長だったという制度上の立場、社会党の議席数、三党間の政策協議、当時の政界再編など、複数の要因が重なっていたからである。仮に社会党の委員長が別の人物だった場合でも、同じような連立が成立した可能性は排除できない。村山という人物の性格だけで政権成立を説明することは、政治構造の重要性を見落とす危険がある。

 それでも、村山の調整を重視する政治姿勢が、異質な三党から首相として受け入れられるうえで有利に働いたと考えることには合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の構造変化の中で、社会党の委員長という立場と個人の政治姿勢が、三党連立の成立条件に適合した人物だったと理解する方が適切だろう。その意味で、村山富市は1994年という政治状況が生み出した首相でもあった。

55年体制の崩壊は、政治の何を変えたのか

 村山政権の成立を理解するうえで、もう一つ重要なのが選挙制度の変化である。戦後長く続いた衆議院の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が当選していた。そのため、自民党は同じ選挙区に複数の候補者を立て、党内派閥や後援会が競争する構造を形成していた。一方、社会党も一定の組織的支持基盤を持つことで、政権を獲得しなくても国会内で相応の議席を維持することができた。

 しかし、1994年の政治改革によって小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年の衆議院総選挙から実施されることになった。小選挙区では一つの選挙区から一人しか当選できないため、各政党には候補者の一本化や、より広範な有権者の支持を得る戦略が求められる。この制度変更は、政党の合併や協力関係の形成を促す一つの要因になり得る。ただし、比例代表部分も存在するため、すべての政治勢力が二大政党へ統合されるとは限らず、実際の影響は政党の支持分布や選挙協力の仕組みに左右される。

 このような制度変化を考えると、1994年の政界再編は、単にどの政党が内閣に参加するかという問題にとどまらなかったことが分かる。政治家たちは、従来の選挙制度と政党構造を前提にした政治から、新しい制度の下での政党間競争へ移行しようとしていた。新生党などによる新しい政治勢力の形成も、自民党の政権復帰戦略も、社会党の連立参加も、こうした大きな制度変化と切り離して考えることはできない。

 ただし、選挙制度改革だけが村山政権を生んだわけではない。選挙制度の変更は政党再編を促す構造的な条件であり、実際に自民党と社会党が連立するという選択には、政治家間の交渉、政策協議、党内の意思決定、当時の議席構成などが直接関係していた。制度が政治家の選択肢を変え、その選択肢の中から政治家が具体的な連立を選んだという二つの段階を区別する必要がある。

村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない

 結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に崩れたのである。1993年の選挙を前に自民党は分裂し、総選挙では単独過半数を回復できなかった。一方、社会党も大幅に議席を減らし、両党を中心とした政治構造は大きく変化した。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の政策や政治的な目標は完全には一致せず、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み、社会党には新しい政治秩序の中で自らの位置を確保するという課題が生じた。

 自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で政策実現と政治的影響力を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革を進める役割があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害や政策目標が一定の範囲で一致したのである。そして、その協力を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。

 政治学的に見れば、これは政党が理念だけで行動するわけではないことを示す事例である。政党には政策を実現したいという目的があり、政権に参加したいという目的があり、次の選挙で議席を維持・拡大したいという目的もある。これらの目的は常に一致するわけではなく、ときには政策上の妥協を受け入れることで政権参加を実現し、ときには首相の座を他党に譲ることで、より大きな政治的利益を得ることもある。ただし、合理的な戦略だったと説明できることと、当事者が実際にその計算だけで行動したことは同じではない。歴史を検証する際には、確認できる事実と、そこから導かれる政治的な解釈を区別する必要がある。

 村山政権の成立とその後の経過からは、対照的な結果も読み取れる。社会党は首相の座を得たが、長年の基本政策を転換し、その後の政界再編の中で勢力を縮小させた。一方、自民党は首相の座を一度譲りながら政権に復帰し、1996年には再び自党総裁を首相にすることができた。ただし、社会党の衰退を自社さ連立だけで説明することも、自民党の政権復帰を最初から計画された成功として描くことも適切ではない。政治の結果には、各党の戦略だけでなく、選挙制度、支持基盤、政治家の移動、その後の政界再編など、複数の要因が作用していたからである。

 だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の対立軸が従来の「自民党対社会党」という構図から、異なる政党間の競争と連立の組み合わせへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の対立相手だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を確保できない。そのような状況になれば、政治家は従来の常識とは違う選択をすることがある。

 政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政策実現の可能性があり、政党の存続があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが複雑に絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。

 村山富市が社会党委員長でありながら自民党と組んで総理大臣になったことを、単に不思議な政治的事件として見るだけでは不十分である。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が変化していたということである。村山政権は、政治の左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が描き替えられる中で、それぞれの政党が次に立つ場所を探し、異なる利害と政策目標を調整した結果として生まれた政権だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る