自分に不利な記事を書き、国会でも問題となるきっかけを作った新聞記者が目の前に現れたとき、政治家はその男をどう扱うだろうか。怒鳴りつけるかもしれないし、出入りを禁じるかもしれない。少なくとも、自分の側近に迎えようとは普通は考えにくい。ところが田中角栄は、そうした記者を排除せず、やがて自らの秘書として迎え入れたのである。
その記者の名は早坂茂三。のちに約二十三年間にわたって田中の側近を務め、田中政治の内側を後世に伝える証言者となる人物である。二人の関係が興味深いのは、早坂が最初から田中に忠実な部下だったわけではないところにある。むしろ逆で、早坂は新聞記者として田中の政治的に敏感な発言を報じ、その結果、田中は国会でも説明を求められる立場に置かれた。ところが、その年の暮れには、早坂自身が田中の秘書に転じることになった。
この出来事は、しばしば田中角栄の人材を見抜く力を象徴する逸話として語られる。しかし、歴史上の出来事と、その出来事を引き起こした人物の心理は、同じように証明できるものではない。早坂が報道したこと、田中が後に早坂を登用したことは確認できるが、田中が何を決定的な理由として採用を決めたのかについては、早坂本人の回想を手がかりに考えるほかない部分が残る。
それでも、当時の外交記録や国会審議、早坂が残した証言を重ねていくと、単なる美談では説明しきれない二人の関係が見えてくる。そこには、政治家が報道とどう向き合うか、異なる経歴の人物をどこまで信頼できるか、そして権力を目指す人間がどのような能力を必要とするかという、現在にも通じる問題が含まれている。
すべての発端となった一九六二年のスクープ
一九三〇年に北海道函館市で生まれた早坂茂三は、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京タイムズに入社し、政治部記者として永田町を取材していた。田中角栄との関係が大きく動くのは、一九六二年二月のことである。
この年二月、アメリカのロバート・ケネディ司法長官が来日した。ケネディは当時のジョン・ケネディ大統領の実弟であり、アメリカ政府の有力者だった。二月六日には日本の政治家や経済関係者との非公式な懇談が行われ、当時、自民党政務調査会長だった田中角栄も出席した。この席で田中は、沖縄返還と日本の憲法改正、再軍備などを関連づける踏み込んだ発言をしたのである。
当時の沖縄はアメリカの施政権下に置かれており、返還問題は日本外交の重要課題だった。日本国内では返還要求が高まり、同年二月一日には琉球政府立法院が施政権返還を求める決議を採択している。沖縄住民にとって返還は切実な問題であり、その実現を日本の再軍備や憲法改正と結びつける発言は、外交上も国内政治上も重大な意味を持ち得た。
田中の発言は、後年の角栄伝説だけに登場する話ではない。アメリカ側が作成した同年二月六日の会談記録を用いた外交史研究でも、田中が沖縄返還と憲法、軍備に関する問題について積極的に発言していたことが確認されている。つまり、この懇談で田中が政治的に敏感な問題に踏み込んだという出来事には、早坂本人の回想とは独立した史料的な裏付けがある。
その発言を記事にしたのが、東京タイムズの早坂だった。非公式な場での発言が報道されたことで問題は表面化し、国会でも取り上げられることになった。田中の側から見れば、自らの発言が政治問題へ発展したことは、決して歓迎できる事態ではなかっただろう。
池田首相の国会答弁が示すスクープの重大性
この問題の重要性を考えるうえで見逃せないのが、一九六二年二月七日の衆議院予算委員会である。当時の池田勇人首相は、沖縄の施政権返還について、憲法改正や再軍備を返還条件とする考えを否定した。これは田中が懇談の場で示した見解と、政府としての立場が必ずしも一致していなかったことを意味する。
ここで区別しておきたいのは、田中が沖縄返還と憲法改正を関連づけて論じたことと、日本国憲法の改正が返還の法的な必要条件だったことは、まったく別だという点である。実際、沖縄は日本国憲法の改正を経ることなく、一九七一年六月十七日に署名された日米間の沖縄返還協定に基づき、一九七二年五月十五日に本土復帰を果たしている。
したがって、田中の発言は、当時の安全保障政策や沖縄返還をめぐる政治的主張として理解する必要がある。田中がそう考えたこと自体は歴史的事実として検討できても、その主張が法制度上の必然性を持っていたわけではない。
早坂のスクープが重要だったのは、単に有力政治家の発言を外部へ伝えたからではない。自民党の政策を取りまとめる立場にあった田中の見解と、池田内閣の政府方針との違いを、国民の目に見える形で明らかにする契機となったからである。新聞記者としての早坂は、政治的影響の大きい発言をニュースとして取り上げ、その報道は国会での議論とも結びついた。
この経緯を考えると、早坂が単に大物政治家を困らせるためだけに記事を書いたと理解するのは適切ではない。少なくとも、政府の政策に関わる重要な発言を公にするという報道上の意義があった。田中にとって不都合であったことと、記事に報道価値があったことは、両立するのである。
自分が書いたと名乗り出た新聞記者
早坂は後年、自分が問題の記事を書いたことを田中本人に名乗り出たと回想している。通常であれば、政治家との関係悪化を避けようと考えても不思議ではない場面だが、早坂は自分から田中のところへ出向き、記事を書いたのは自分だと伝えたという。
そこで田中は、早坂を激しく責めるのではなく、新聞記者としての仕事を認め、自分が記者でも書いただろうという趣旨の反応を示したとされる。田中が早坂の能力を認める言葉をかけたという逸話は、後年の書籍だけでなく、一九七一年九月号の『文藝春秋』にさかのぼる形でも紹介されている。
この時期は重要である。一九七一年は田中が総理大臣に就任する前であり、少なくとも早坂が田中の総理就任やその後の角栄人気を知ったうえで、初めて作り上げた話だと単純に片づけることはできない。ただし、早い時期の証言であることは、その内容がすべて正確であることを意味しない。会話の細かな表現や田中の心理まで、第三者の独立した証言によって確認できるわけではないからである。
それでも、この逸話とその後の秘書登用には、考える価値のあるつながりがある。早坂は自らの報道について本人に説明する姿勢を見せ、田中は少なくともその一件を理由に早坂を遠ざけ続けることはなかった。記事の内容をめぐる対立が、個人としての評価や信頼関係の形成を完全に妨げたわけではなかったのである。
もっとも、この一場面だけで、田中が早坂の勇気や誠実さに感動して採用を決めたと断定することはできない。政治家と記者の関係は、一度の会話ですべてが決まるほど単純なものではない。取材を通じて積み重なった評価や、それぞれの立場から見た相手の能力も、関係の変化に影響した可能性がある。
「俺は十年後、天下を取る」
一九六二年七月十八日、田中角栄は池田勇人内閣の大蔵大臣に就任した。四十四歳だった。自民党内で有力な政治家になりつつあったとはいえ、当時の田中はまだ総理大臣ではなく、十年後に自分が政権の頂点に立つことが約束されていたわけでもない。
早坂の回想によれば、その年の十二月二日、田中は早坂を大蔵大臣室に呼び、「俺は十年後、天下を取る」と語ったという。さらに、天下取りの片棒を担ぐよう誘ったとされる。田中角栄の強烈な自信と政治的野心を伝える有名な言葉であり、早坂はその後、十二月十日に大蔵大臣秘書官事務取扱の辞令を受けたと記している。
そして実際に、田中角栄は一九七二年七月七日、自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。早坂が誘われたと語る一九六二年十二月二日から数えると、九年七か月五日後に当たる。「十年後」という言葉と現実の就任時期がかなり近いことは、確かに印象的である。
ただし、ここにも史料を読むうえで注意すべき点がある。この発言を伝える中心的な証言者は早坂自身であり、一九六二年十二月に田中がその文言を一字一句そのまま口にしたことまで、独立した同時代史料で確定しているわけではない。また、約十年後に総理大臣になったという結果だけから、当時の田中が十年先の政局を正確に予測していたと判断することもできない。
政治家の将来は、選挙結果、派閥間の勢力関係、経済情勢、外交問題、他の指導者の動向など、多数の不確定要素に左右される。後に成功したことを知ってから過去の発言を読み直すと、最初から成功が決まっていたように感じられる。しかし、それは結果を知った後に過去の判断を合理化してしまう、後知恵による解釈の危険性を伴う。
それでも、田中が大蔵大臣就任を政治的到達点とせず、さらに大きな権力を目指す志向を持っていたという理解は、後の政治行動とも整合する。早坂の回想が伝えるのは、十年後を的中させた予言というより、将来の政治的上昇を強く意識していた田中の姿だと読む方が慎重である。
なぜ新聞記者だったのか
田中が早坂を登用した理由を考えるとき、重要なのは、早坂が政治部の新聞記者だったことである。政治家と記者は同じ永田町を歩きながら、必ずしも同じ方向から政治を見ているわけではない。政治家は政策の実現や支持基盤の拡大、政党内での権力形成を考える。一方、記者は、その言動が社会にどのような影響を与え、何が公に伝えられるべき問題なのかを見極めようとする。
政治家が政策の意義を説明しているとき、記者はその発言の中に矛盾や政治的な危険性がないかを探す。政治家が重要ではないと判断した一言でも、外部から見れば重大な問題になる場合がある。一九六二年のスクープは、田中にとって、そのような報道の力を直接経験する出来事だったと考えられる。
早坂が持っていた能力は、単に記事を書く技術だけではなかっただろう。政治家の発言がどのように受け取られるかを考える感覚、永田町における情報の流れを把握する力、複雑な政治問題の中から重要な争点を見つける判断力、そして取材対象となる政治家と直接向き合う経験である。そうした能力は、政治家の側近としても活用できる可能性がある。
しかも一九六二年当時の政治情報は、現在のように政治家自身がインターネットを通じて直接発信できる環境とは大きく異なっていた。新聞や放送が政治的な情報伝達で重要な役割を担っており、政治記者は報道機関の関心、政界の人間関係、政策論争の流れを日常的に観察していた。政治権力の拡大を目指す田中にとって、こうした世界を熟知する人材には実務上の価値があったと考えることができる。
ただし、田中が早坂を求めた理由を、記者としての胆力や判断力だけに限定する必要はない。新聞社で培った情報網、政治知識、文章力、人間関係を調整する能力なども、採用を判断する際の要素になり得る。また、早坂という有能な記者を自分の側に迎えることが、田中自身にとって政治的に有利になるという計算が存在した可能性も排除できない。
ここで大切なのは、これらの理由が互いに矛盾するわけではないということである。田中が早坂の能力を高く評価したとしても、同時に情報収集や対外的な発信に役立つ人材として期待した可能性は十分にある。政治家の人事には、人物への好意、信頼、能力評価、組織上の必要性が複合的に作用する。早坂の一本釣りも、そのような現実的な人材登用として考えた方が、単なる美談より説明力が高い。
左翼運動を経験した男を自民党政治家が採る
早坂の経歴でもう一つ興味深いのは、学生時代の政治活動である。早坂は早稲田大学時代に左翼学生運動に関わり、日本共産党への入党経験もあったと自らの著述で述べている。保守政党の有力政治家である田中角栄の秘書となったことを考えれば、政治的な経歴としては一見すると異質である。
早坂は後年、田中がその過去を承知しており、公安調査庁にある早坂の記録まで読んだという趣旨のことを告げられたと回想している。この話は、田中が相手の思想的経歴よりも現在の能力を重視したことを示す逸話として紹介されることが多い。
しかし、ここでも確認できることと確認できないことを分ける必要がある。早坂自身が共産党への入党経験を語っていることと、田中から公安調査庁の資料について聞かされたと回想していることは、別の事実である。さらに、田中が実際に同庁の資料を取り寄せて閲覧したかどうかについては、独立した公的記録による裏付けが確認されていない。
当時の大蔵大臣という地位にあったからといって、他の行政機関が保有する個人に関する調査資料を自由に閲覧できる法的権限が当然に認められていたわけではない。したがって、この逸話を行政機関による情報提供が実際に行われたことの証拠として扱うのは適切ではない。
一方、早坂に左翼運動の経験があったにもかかわらず、田中の秘書となり、長期にわたって側近として活動したことは重要である。少なくとも早坂の場合、学生時代の政治的経歴が、田中のもとで働くことを妨げる決定的な障害にはならなかった。
思想や経歴が異なる人物を組織に迎えることには、利点もあれば難しさもある。異なる経験を持つ人材が加われば、既存の組織では見落としていた問題を指摘できる可能性がある。一方で、意見の対立や価値観の違いによって、組織内の調整が難しくなる場合もある。異質な人材を採用すれば必ず組織が強くなるわけではなく、その能力を生かす役割分担や信頼関係が必要になる。
田中が早坂の思想的経歴をどの程度重視したか、あるいは意識的に異なる政治的視点を求めたかは分からない。しかし結果として、田中は自分とは異なる経歴を持つ人物を側近に置き、その関係を長期間維持した。その事実からは、少なくとも早坂に対して、経歴上の違いだけで人物を排除しなかった田中の姿勢を読み取ることができる。
田中角栄自身も典型的なエリートではなかった
田中自身の経歴も、早坂の登用を考えるうえで参考になる。田中は新潟県の二田尋常高等小学校を卒業した後、働きながら中央工学校で土木を学び、建築関係の仕事を経て事業家となった。旧帝国大学や有名大学を卒業し、高級官僚として経験を積んでから政界へ入るという、当時の有力政治家に見られた経歴とは異なっていた。
田中の政治家としての歩みは、学歴や官僚としての地位によるものではなく、事業経験、選挙活動、地域の支持基盤、党内での人間関係の構築などによって支えられていた。政界における影響力を拡大するには、政策に通じた人材だけでなく、情報を集め、人を動かし、利害を調整できる人材も必要だった。
もっとも、田中が典型的な高学歴の政治家ではなかったことから、直ちに異質な人材を積極的に採用する人物だったと結論づけることはできない。学歴と人材登用方針の間に一般的な因果関係があると示すには、田中が採用した他の側近や、同時代の政治家との比較が必要になる。早坂一人の登用事例だけで、田中の人物評価能力全体を証明することはできないのである。
それでも、自ら事業と政治の世界で経験を積み上げてきた田中が、早坂についても出身校や思想的な経歴だけではなく、実際の仕事ぶりを評価したという解釈には一定の説得力がある。特に、一九六二年のスクープは、早坂が政治的な争点を見つけ、記事として社会に提示する能力を田中の目の前で示した出来事でもあった。
その意味で、早坂の一本釣りは、田中の経歴と矛盾しない人材登用だったと考えられる。ただし、経歴が似ているから判断基準も同じだったとするのではなく、実際の登用とその後の関係から慎重に人物像を読み取る必要がある。
早坂は田中の「もう一つの目」になったのか
早坂はその後、約二十三年間にわたり田中角栄の側近として活動した。田中が総理大臣になるまでの時期も、政権を担当した時期も、一九七四年の金脈問題によって退陣した後も、さらに一九七六年に表面化したロッキード事件をめぐって政治的に厳しい立場に置かれた時期も、早坂は田中の近くにいた。そして一九八五年、田中が病に倒れるまで、その関係は続いた。
この長期にわたる関係は、採用後に田中と早坂の間で一定の信頼と協働関係が成立していたことを示している。ただし、二十三年間という結果から、一九六二年の田中が最初から長期的な側近としての成功を正確に予測していたと考えることはできない。採用した時点の判断と、採用後の経験によって形成された信頼関係は、区別して考える必要がある。
早坂は田中の秘書となったことで、政治の内部から権力の動きを観察する立場に移った。新聞記者時代には、田中の発言を外側から評価し、社会へ伝える仕事をしていたが、秘書になってからは、田中の政治活動を支える側に立ったのである。外部の観察者から内部の当事者への転身は、早坂の人生だけでなく、政治を見る立場そのものを大きく変えた。
その経験は、後年の早坂の著述にも大きな影響を与えたと考えられる。早坂は田中の言動や政治的判断について数多くの証言を残し、政治評論家としても活動した。新聞記者として永田町を取材した経験と、秘書として政治権力の内部にいた経験の双方を持つことは、早坂の人物像を特徴づける重要な要素となった。
ただし、権力の内部にいた人間の証言には、外部の観察者には知り得ない情報が含まれる一方で、当事者としての立場や感情が影響する可能性もある。早坂が長年仕えた田中について語るとき、その証言には貴重な史料的価値があるが、同時に田中への評価や思い入れを含む可能性も考慮しなければならない。
この点を踏まえると、早坂を田中の「もう一つの目」と表現することには意味があるものの、それはあくまで二人の関係を理解するための比喩である。田中が最初からそのような役割を意図して採用したとまでは確認できない。それでも、外部から政治を見てきた記者が、内部で活動する側近へ転じたことは、田中の政治活動に異なる経験と視点が加わった可能性を示している。
「敵を味方にした」という説明だけでは足りない
田中と早坂の関係は、しばしば「自分を攻撃した記者を懐柔した」という説明で語られる。しかし、この表現だけでは、両者の間で何が起きたのかを十分に理解することはできない。
そもそも早坂が田中に不利な記事を書いたことは、早坂自身が田中を個人的な敵と考えていたことを意味しない。政治家の発言が報道されることと、その記者が政治家に敵意を抱いていることは別である。早坂は新聞記者として報道価値があると判断した発言を記事にし、その後、田中の秘書となったのである。
また、田中が早坂を秘書にしたからといって、東京タイムズという新聞社そのものを味方にできるわけではない。新聞社の報道方針と、一人の記者の転職は区別しなければならない。したがって、記者を一人取り込むことだけを目的にした登用だったと考えるには、十分な根拠が必要になる。
一方で、田中が早坂の情報収集能力や人脈に政治的な価値を認めた可能性は十分にある。政治家にとって、世論や報道の動向を理解し、対外的な説明を支える人材は重要である。早坂が政治部記者として経験を積んでいたことは、田中にとって実務上の魅力になり得た。
ここから考えられるのは、田中が早坂を単なる報道上の障害として見るのではなく、自分の政治活動を支える能力を持つ人物として評価した可能性である。早坂の証言にある田中の反応も、その解釈と整合する。ただし、能力への評価と政治的な利害計算のどちらがより重要だったかを、現存する証言だけで明確に順位づけることは難しい。
むしろ、この一本釣りを現実の政治として理解するなら、田中の人物評価と政治的な合理性が同時に働いたと考える余地を残しておく方がよい。能力のある人物を見つけることと、その能力を自分の政治活動に役立てようとすることは、対立する判断ではないからである。
田中角栄の人材登用から何が分かるのか
人間は、自分に利益をもたらした相手の能力を評価することは比較的容易である。しかし、自分に不利益をもたらした相手の能力については、感情的な反発が評価を妨げる場合がある。組織の人事においても、自分に従順な人物を高く評価し、異論を述べる人物を過小評価してしまう危険性は存在する。
ただし、自分に不利な行動をした人物を登用すれば、常に優れた判断になるわけではない。能力が高くても、組織の目的に適合しなかったり、信頼関係が成立しなかったりすれば、採用が成果につながらないこともある。適切な人材登用を考えるには、個人の能力だけでなく、役割、組織環境、協働関係、そして採用後の成果を総合的に評価する必要がある。
早坂の事例でも、田中が記者としての能力を評価したことが登用の重要な理由だったという説明には説得力がある。しかし、その一例だけから、田中角栄が他の政治家よりも優れた人材評価能力を持っていたと統計的に証明することはできない。同時代の政治家がどのような人物を登用し、その後どのような成果を得たのかという比較がなければ、田中の方法が一般的に優れていたかどうかは判断できないのである。
さらに、成功した事例だけを取り上げれば、優れた人材登用だったという印象は強まりやすい。反対に、期待した成果を得られなかった採用事例があったとしても、後世にはあまり語り継がれない可能性がある。歴史上の人物評価では、成功した結果から過去の判断をすべて正しかったと考えない慎重さが求められる。
それでも、早坂の登用には、具体的な出来事に基づいて考えられる重要な点がある。田中は自分に不利な報道をした記者を永久に排除することなく、その後、自らの政治活動を支える側近として迎えた。そして、その関係は約二十三年間続いた。これは単なる人物評ではなく、実際に起きた出来事として評価することができる。
政治家としての田中角栄には、政策を実現した側面だけでなく、金脈問題やロッキード事件などを通じて厳しい批判を受けることになった側面もある。早坂の登用を評価することは、田中の政治活動全体を無条件に肯定することではない。功績と問題点を分けて考えることによって、人物を過度に英雄化することなく、その行動の特徴を検討できるのである。
自分を刺した銛を、自分の船へ引き上げる
田中角栄が早坂茂三を一本釣りした理由について、最終的な答えを一つに決めることはできない。早坂の記者としての判断力や胆力を評価したのかもしれないし、永田町の情報に精通した能力や人脈を必要としたのかもしれない。あるいは、そうした複数の理由が重なり、田中自身の政治的な将来を支える人材として早坂を選んだ可能性もある。
ただし、確認できる歴史的経緯は明瞭である。一九六二年二月、早坂は田中の政治的に敏感な発言を記事にした。その発言は国会でも問題となり、当時の政府方針との違いが明らかになった。早坂は後年、記事を書いたことを田中に名乗り出た際、その仕事を認められたと回想している。そして同年十二月、早坂は実際に田中の秘書へ転じた。
田中が早坂の能力をどのように評価したかについては、早坂の証言が重要な手がかりになる。しかし、早坂が田中に不利な記事を書いたことと、その記者としての能力を田中が評価したことは、必ずしも矛盾しない。政治家にとって不都合な報道であっても、それを行った記者の判断力や行動力には、別の立場から見れば価値があると考えられるからである。
自分を傷つけた銛が鋭ければ、普通ならその銛を遠ざけたいと思うだろう。しかし、田中角栄は、その銛を投げた人物を自分の船に迎え入れた。そこに、相手の行動が自分に有利だったか不利だったかという判断と、相手がどのような能力を持っているかという評価を、切り離して考えた可能性がある。
もっとも、田中が最初からそのような人材哲学を体系的に持っていたと証明できるわけではない。早坂の登用を田中の卓越した人物鑑識眼の決定的な証拠とすることも、政治的な懐柔策にすぎなかったと断定することも、史料の裏付けを越えた解釈になってしまう。
この出来事の本当のおもしろさは、田中角栄を無条件に称賛できるところにあるのではない。自分に不利な報道をした人物との関係が、その後、長期にわたる政治的な協働関係へと変化したところにある。その変化を可能にしたものが何だったのかを考えるとき、人物評価、政治的合理性、信頼関係という複数の要素が浮かび上がるのである。
一九六二年十二月、早坂茂三は新聞記者から田中角栄の秘書へ転じた。そして約十年後の一九七二年七月、田中角栄は本当に総理大臣になった。そのとき、かつて田中の発言を記事にして国会で問題となるきっかけを作った男は、もはや記者席から田中を見ていたのではなかった。
権力の頂点へ登った田中の、すぐそばにいたのである。






