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政治家論

政治家論

政治家の経歴を一本の線として眺めたとき、小池百合子ほど、その線が何度も違う方向へ曲がりながら途切れなかった人物は珍しい。

日本新党から国政へ入り、新進党、自由党、保守党を経て自由民主党へ移った。その自由民主党では環境大臣、防衛大臣、党総務会長まで務めながら、2016年には党東京都連の推薦を受けずに東京都知事選挙へ立候補する。翌年には自民党を離れ、地域政党「都民ファーストの会」の代表となり、さらに国政政党「希望の党」を立ち上げた。しかし、その国政進出が期待したほどの成果を上げられなくなると、再び東京都政を自らの政治活動の中心に据えた。

それだけを追えば、「政党を渡り歩いてきた政治家」という評価が生まれるのも理解できる。

けれども、この三十数年を単なる変節の歴史として読んでしまうと、一つの重要な事実を見落とす。

所属する場所は何度も変わったのに、小池百合子という政治家そのものは、政治的な存在感をほとんど失わなかったのである。

2026年現在、小池は東京都知事3期目にある。1992年に参議院議員として初当選してから、国政と東京都政を合わせて三十年以上、政治の第一線に立ち続けてきた。東京都の公式略歴を見ても、1992年の参議院初当選、1993年の衆議院転出、環境大臣、防衛大臣、自民党総務会長を経て、2016年、2020年、2024年と三度東京都知事に当選している。

なぜこれほど長く残ることができたのか。

その理由を考えていくと、「所属政党を変える能力」よりも、もっと重要なものが見えてくる。

小池百合子が繰り返してきたのは、単なる移籍ではない。政治環境が変わるたびに、自分の知名度、発信力、組織との距離、そして選挙制度の特徴を組み合わせ直し、自らが政治的に有効でいられる場所をつくり直すことだった。

「政界渡り鳥」という言葉では、1990年代を説明できない

小池が政治家になったのは1992年である。細川護熙が率いる日本新党から参議院選挙に立候補して初当選し、翌1993年には衆議院へ転じた。

その後の所属は、日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と変わっていく。確かに党名だけを並べれば多い。

しかし、ここで時計を現在から巻き戻しておかなければならない。

1990年代の日本政治は、現在のように主要政党の枠組みが比較的安定していた時代ではなかった。小池が最初に所属した日本新党は1994年に解党し、その流れから参加した新進党も1997年末に解党した。その後に加わった自由党も、2000年には連立政権への対応をめぐって分裂する。小池はその後、保守党を経て2002年に自由民主党へ入った。

つまり、小池の党籍変更をすべて同じ種類の行動として数えてしまうこと自体が危うい。

「自分の意思で安定した政党を離れた場合」と、「所属政党そのものが消滅した場合」と、「政党が分裂して所属先を選ばなければならなくなった場合」は、政治的な意味がまったく違うからである。

所属政党の数を数えて、その数が多いから理念が弱いと結論することはできない。党籍変更という観測された結果には、本人の選択だけではなく、1990年代の政界再編という外部環境が含まれている。

むしろ、この時代に政治家としての最初の十年を送ったことは、小池の後の政治行動を理解するうえで重要なのかもしれない。

日本新党も新進党も消えた。

昨日まで同じ党だった政治家が別々の党へ分かれ、昨日まで別々だった政治家が同じ党へ集まる。そんな政治を間近で経験すれば、政党という組織を永久不変の帰属先として見る感覚は生まれにくい。

これは小池本人がそう考えていたと証明できる話ではない。

ただ、少なくとも彼女の政治家としての出発点が、「党に入ればその党で政治人生を終える」という時代ではなかったことは確かである。

変わったのは思想より、政治活動の足場だった

もう一つ注意したいのは、小池が所属政党を変えるたびに、政策的立場まで正反対へ移動してきたわけではないという点である。

日本新党から新進党、自由党、保守党、自由民主党という大きな流れを見れば、政治改革や行政改革、市場を重視する政策、安全保障への積極姿勢などを持つ非社会党系の改革勢力から、次第に保守政治の中へ位置を定めていったと見る方が自然である。

もちろん、三十年以上の政治人生の中で政策上の変化がなかったという意味ではない。

政治家は社会状況によって政策判断を変えるし、政党間で政策そのものも変化する。

それでも、「所属政党が変わった」という事実と「基本的な政治的位置が毎回反転した」という評価は同じではない。

ここに小池政治の特徴が一つ見えてくる。

変化してきたのは、何を主張するかだけではなく、どこから主張するかだったのである。

テレビの経験が与えた「伝える政治」という武器

小池百合子を他の政治家と分ける特徴として、政界入りする以前からテレビの世界で広く知られていたことがある。

キャスターとして政治や経済を伝えてきた経験は、政策を作る能力とは別の能力を小池にもたらした。

複雑な問題を、短い言葉や映像で理解できる形に変換する能力である。

2003年に環境大臣となった小池は、地球温暖化対策の一環としてクールビズの推進役となった。

温室効果ガス、冷房温度、企業活動、エネルギー消費という話だけなら、多くの人にとって政策は遠い。しかし「夏の仕事ではネクタイを外して軽装する」と置き換えれば、政策が日常生活の行動になる。

政治課題そのものを単純化することと、政治課題を理解可能な形へ翻訳することは同じではない。

小池の強みは、後者にあった。

それがより鮮明に表れたのが、2005年の郵政選挙だった。

小泉純一郎首相は郵政民営化に反対した自民党議員を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。小池も兵庫から東京10区へ選挙区を移し、いわゆる「刺客候補」の一人として当選した。

この選挙では、郵政制度という本来複雑な政策が、「改革を進める側」と「改革に抵抗する側」という極めて分かりやすい対立構図へ変換された。

小池がそこから何を学んだのかを外部から断定することはできない。

しかし、その後の政治活動を見ると、政治課題を有権者が理解できる構図へ変える能力が、繰り返し重要な役割を果たしたことは確認できる。

自民党の中で見えた、知名度だけでは越えられない壁

自由民主党に入った後、小池は環境大臣、防衛大臣などを歴任し、党内でも地位を上げていった。

そして2008年、自民党総裁選挙へ立候補する。

結果は麻生太郎351票、与謝野馨66票、小池百合子46票、石原伸晃37票、石破茂25票だった。小池は5人中3位で、得票は全体のおよそ9%にとどまった。

この結果から、「なぜ46票しか取れなかったのか」という原因を一つに決めることはできない。

派閥、人間関係、当時の政局、候補者それぞれの党内基盤など、総裁選挙の結果には多くの要因が作用するからである。

しかし、少なくとも一つだけ確実に言えることがある。

全国的な知名度を持ち、閣僚経験があっても、それだけでは自民党総裁に選ばれるだけの党内支持を形成できなかったということである。

一般有権者からの知名度と、巨大政党の内部で頂点へ上がる力は同じではない。

テレビに強いことも、全国で顔を知られていることも、自民党国会議員や地方組織から多数の支持を集めることを自動的には意味しない。

小池の政治的な強みと、自民党総裁選挙という制度との間には、少なくとも2008年の段階では距離があった。

その後も小池は国政から退出したわけではない。衆議院議員として当選を続けた。

しかし2016年、その政治活動の舞台を大きく変える選択をする。

永田町とは異なる「中心」~東京都知事という選択

2016年の東京都知事選挙で、小池は自民党東京都連から推薦を受けないまま立候補した。

ここには正確な区別が必要である。

この時点で小池は自民党を正式に離党していたわけではない。離党届を提出したのは翌2017年6月1日で、小池自身が東京都の記者会見でその経緯を説明している。

したがって2016年の行動は、「自民党を辞めて自民党と戦った」というより、自民党籍を残したまま党東京都連の推薦を得ず、自民党側が支援する候補と争ったと表現する方が正確である。

政治的にはきわめて危険な選択だった。

大政党の正式な組織支援を受けられないことは、通常なら選挙で不利になる。

しかし小池は、その不利を別の意味へ読み替えることに成功した。

党組織に支援されていない候補ではなく、既存の都政や党組織に挑む候補として自らを位置づけたのである。

結果は鮮明だった。

小池は291万2628票を獲得し、自民党などが支援した増田寛也の179万3453票を大きく上回って初当選した。

ここで起きたことは、小池百合子という政治家を考えるうえで重要である。

政治では、客観的な条件そのものと同じくらい、その条件が有権者から何を意味するものとして受け取られるかが重要になる。

大政党の推薦を得られないことが「孤立」と解釈されれば弱点になる。

しかし「既存勢力から独立している」と解釈されれば、改革を期待する有権者には強みに変わる。

2016年の小池は、その意味の転換に成功した。

2017年、個人の人気が政党を動かし、そして限界も見せた

知事就任後、小池の政治的勢いは東京都議会へ広がった。

2017年東京都議会議員選挙では、小池が率いた都民ファーストの会が49議席を獲得して第1党となり、自民党は選挙前の57議席から23議席へ激減した。

これは興味深い現象だった。

2016年には一人の候補者に集まった支持が、翌年には複数の候補者を当選させる力へ転換されたからである。

個人ブランドが、短期間ではあっても政治組織のブランドへ拡張された。

そして小池は、さらに国政へ踏み出す。

2017年9月、希望の党を立ち上げた。

しかし、ここでは東京都知事選挙や都議会選挙と同じ展開にはならなかった。

民進党との合流をめぐる過程で、小池が候補者について「排除します」と発言したことは大きく報道され、それまで改革者として機能していた強い言葉が、今度は別の印象を与える結果となった。

ただし、希望の党の失速をこの一言だけで説明するのは適切ではない。

候補者調整、民進党との合流過程、政策上の違い、立憲民主党の急速な結成、小池自身が衆議院選挙に立候補しなかったことなど、複数の要因が同時に存在していたからである。

最終的に2017年衆議院選挙で希望の党は50議席を獲得したが、立憲民主党の54議席を下回り、野党第一党にはならなかった。

50議席は小政党として見れば決して小さな数字ではない。

しかし、選挙前に生まれていた「小池旋風が国政まで変えるのではないか」という期待との比較では、成功とは評価されなかった。

ここで小池政治の重要な限界が見えた。

東京都知事選挙では、一人の候補者の知名度、発信力、行政実績が大きな力になる。

しかし全国の多数の選挙区で候補者を擁立する国政政党には、地方組織、候補者育成、政策調整、党内統治、資金、継続的な人材供給が必要になる。

一人の政治家のブランドが極めて強くても、それだけで全国政党を短期間に完成させることは難しい。

希望の党の経験は、小池百合子の強さだけではなく、その強さが最も機能する政治空間の範囲まで示したのである。

勝ち続けたのではない。失敗した場所に居続けなかった

小池の長期的な政治生命を考えるとき、ここから先がむしろ興味深い。

政治家の能力というと、人は勝つ力を考える。

しかし三十年という時間で見れば、負けない政治家などほとんどいない。

重要になるのは、失敗した後に何をするかである。

希望の党の国政進出が失速した後、小池は国政で主導権を取り返そうとして政治資源を投入し続ける道を選ばなかった。

東京都知事としての活動へ軸足を戻した。

結果として、2020年東京都知事選挙では366万1371票を獲得して再選した。2016年より約75万票多い。

そして2024年には3選を目指した。

ここでは2016年とは政治的な景色が大きく変わっていた。

2016年には自民党東京都連と対立することが、小池の選挙戦の重要な構図だった。

ところが2024年には、小池は無所属で立候補しながら、自民党、公明党、都民ファーストの会などから支援を受けた。公明党は党として「自主的に支援する」と明確に表明している。

つまり、かつて対立することで政治的な力を生み出した組織と、後には協力関係を形成したのである。

これを「一貫性がない」と見ることもできる。

しかし選挙戦略という観点から見ると、別の構造が見えてくる。

小池は、一つの政党との永続的な対立を自らの政治的アイデンティティーにはしなかった。

必要なときには距離を取り、別の局面では協力する。

固定された敵と味方を持つというより、その選挙、その政策、その時点の政治状況によって支援連合を再構築する。

その柔軟性が、小池の政治生命を長くしている可能性は高い。

三つの都知事選挙の数字が示すもの

ここで感覚的な評価から少し離れ、実際の票数を見てみると興味深い。

小池の東京都知事選挙での得票は、2016年が291万2628票、2020年が366万1371票、2024年が291万8015票である。

2016年から2024年まで8年が経過している。

対立候補も違う。政治情勢も違う。投票に参加した有権者も同じではない。

それにもかかわらず、2016年と2024年の小池の得票差はわずか5387票だった。

2016年の得票を基準にすれば、差は約0.18%にすぎない。

もちろん、この数字から「小池には290万人の固定支持者がいる」と結論することはできない。

2016年に小池へ投票した人と2024年に投票した人が同じであることを示すデータは存在しないからである。

むしろ注目すべきなのは、異なる政治状況の下でも、最終的に約290万票規模の支持を二度形成できたという事実である。

さらに2020年には、その水準を約75万票上回る366万票を獲得した。

この推移は、小池支持を一つの固定集団だけで説明するより、一定の支持基盤に、その時々の選挙環境によって異なる層が加わったり離れたりすると考えた方が自然である。

2024年の共同通信の出口調査でも、自民党支持層の66%が小池へ投票した一方、無党派層でも30%が小池を選んでいる。

つまり小池の強みは、一種類の支持者だけを固めることよりも、性質の異なる支持層を同じ選挙で重ね合わせられるところにある。

無所属なのに孤立しないという政治的位置

一般的な政治家は、所属政党から多くの政治資源を受け取る。

政党名による信用、地方組織、選挙運動、政策スタッフ、資金、支持団体である。

その代わり、政治家自身も党の政策、人事、内部秩序に拘束される。

小池の場合、この関係が少し異なっている。

2024年東京都知事選挙での党派は「無所属」だった。東京都選挙管理委員会の公式結果にもそのように記録されている。

しかし、無所属だから政治組織と無関係だったわけではない。

自民党や公明党、都民ファーストの会などから組織的な支援を受けている。

ここで重要なのは、「無所属」と「無組織」が同義ではないことである。

小池は政党に完全に包摂される位置から離れながら、政党組織の支援を排除しているわけでもない。

この中間的な位置は、政治家にとって強い。

党の不人気がそのまま本人の評価になる危険を一定程度避けながら、必要な選挙協力は得ることができるからである。

もちろん誰でも同じことができるわけではない。

政党側から見て支援する価値があるだけの知名度や当選可能性を持つ政治家だから成立する関係でもある。

小池百合子の政治的自立とは、組織を必要としないことではない。

一つの組織だけに政治生命を預けなくても、複数の組織と関係を結べることなのである。

政治的生存を一つの能力で説明しない

三十年以上にわたって政治の第一線に残る現象を、「メディア戦略がうまいから」「選挙に強いから」「政党を渡り歩いたから」と、一つの理由だけで説明するのは無理がある。

長期的な政治的生存には、いくつもの条件が必要になる。

全国的な知名度があっても、選挙に勝てなければ議席は得られない。

選挙に強くても、行政能力への評価を失えば現職として再選を重ねることは難しい。

政策を持っていても、それを有権者へ伝える能力がなければ支持につながりにくい。

個人人気が高くても、必要な場面で政党や議会と協力できなければ行政運営は行き詰まる。

逆に巨大な政党組織だけに依存していれば、その党内で地位を失った瞬間に政治生命そのものが弱くなる。

小池はこれらの要素を、すべて最高水準で持っていると断定する必要はない。

重要なのは、一つが突出しているのではなく、知名度、発信力、選挙適応力、行政経験、組織との接続力が同時に一定水準を超えていることである。

政治家の長期生存は、足し算というより掛け算に近い。

どれか一つが極端に弱ければ、ほかの能力だけでは補えない。

小池百合子という政治家の珍しさは、その組み合わせを三十年以上維持し、政治環境に応じて比重を変えてきたところにある。

ただし、「生き残る能力」と「政治的成果」は同じではない

ここまで小池の政治的生存力を見てくると、一つ注意しなければならないことがある。

政治家として長く残ること自体が、政治家として高く評価されることを意味するわけではない。

選挙に勝つ能力と、良い政策を実現する能力は異なる。

政党間の距離を柔軟に調整する能力と、理念的一貫性も同じではない。

さらに個人のブランドによって作られた政治勢力には、その本人がいなくなった後も制度や組織を残せるのかという問題がある。

2017年の希望の党が短期間で求心力を失った経験は、この弱点を示している。

強い個人を中心に形成された政治勢力は、選挙では急速に拡大できる。

しかし、その個人の人気を党組織、政策体系、次世代の政治家へ転換できなければ、継続的な政治勢力にはなりにくい。

この点で、小池百合子自身の政治的成功と、小池が作った政治組織の持続性は別に評価する必要がある。

もう一つは、政治的な居場所を柔軟に変える姿勢が、「理念より勝てる場所を優先しているのではないか」という批判につながりやすいことである。

この評価についても、外部から本人の動機を断定することはできない。

実際に確認できるのは、小池が複数の政党を経験し、自民党内部で総裁選に挑戦し、東京都知事へ転じ、地域政党と国政政党を設立し、国政進出の失速後には東京都政を再び中心に据えたという行動の軌跡である。

その軌跡を「変節」と評価するか、「適応」と評価するかは、政治を見る立場によって変わる。

だからこそ人物評ではなく、構造を見る必要がある。

所属する場所を変えたのではなく、「政治の中心」の定義を変えた

小池百合子はなぜ、所属する場所を変えながら政治の中心に残り続けることができたのか。

一つの答えだけでは足りない。

1990年代の激しい政党再編の中で政治家として出発したこと。

テレビキャスターの経験から、複雑な政治を有権者が理解できる言葉へ変換する力を持っていたこと。

自由民主党という巨大組織の資源を利用しながらも、政治生命そのものを党内地位だけに依存しなかったこと。

自分の強みが生きにくい政治空間に固執せず、東京都知事という別の巨大な政治空間へ移ったこと。

そして失敗した局面があっても、その失敗した場所で消耗し続けず、自分が再び多数を形成できる場所へ政治活動の重心を戻したこと。

これらが重なっている。

ここまで考えると、小池百合子を単に「所属政党を変えてきた政治家」と呼ぶことが、急に狭い見方に思えてくる。

国会議員から東京都知事へ移ることを、国政の中央から地方政治へ降りたと考えることもできる。

しかし東京都は人口1400万人規模を抱え、日本最大の自治体予算を動かし、その知事の政策や発言は全国ニュースになる。

東京都知事になることは、必ずしも政治の周辺へ移ることではない。

むしろ小池にとっては、自民党内部で多数の国会議員から支持を集めなければ頂点へ行けない世界から、東京都民が直接一人の知事を選ぶ世界へ舞台を変えることだった。

2008年の自民党総裁選挙では46票だった政治家が、8年後の東京都知事選挙では291万票を得た。

もちろん二つの選挙は制度も有権者も違うから、数字そのものを単純比較することはできない。

しかし、この違いこそ重要なのである。

政治家の力は、本人だけで決まるのではない。

その能力と、その能力が使われる制度との組み合わせによって決まる。

小池百合子は、どの制度の中でも最強だった政治家ではない。

2008年の自民党総裁選挙と2017年の希望の党は、そのことを示している。

しかし、自分の強みが生きる制度を見つけ、その場所で政治的な支持を再構築する能力については、戦後日本の政治家の中でも際立っている。

政治の中心とは、永田町の一か所に固定されているわけではない。

人々の関心が集まり、大きな予算と行政権限を持ち、政党の選挙戦略にまで影響を及ぼす場所もまた、政治の中心になり得る。

小池百合子は、中心から外れそうになるたびに同じ場所へ戻ってきた政治家ではない。

三十年以上の軌跡を見るかぎり、むしろこう表現した方が近いだろう。

所属する場所が変わっても、自分が政治的に意味を持てる場所を探し、その場所を新しい「中心」に変えてきた政治家なのである。

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田中真紀子はなぜあれほど人気を集め、そして急速に政治の中心から離れたのか

2001年の日本政治を振り返ると、首相になったわけでもない一人の政治家が、政権そのものの印象を左右していたことに気づく。

田中真紀子である。

正確には田中眞紀子。田中角栄元首相の長女として政界入りした彼女は、政治家としての経歴だけを見れば、長期間にわたり政権を支配したわけでも、自らの名前を冠した巨大な制度改革を残したわけでもない。それにもかかわらず、2001年前後の田中の存在感は、一人の閣僚という範囲を明らかに超えていた。

テレビに映ればニュースになり、街頭に立てば人が集まり、彼女が誰かを評すれば、その言葉が翌日の新聞見出しになった。政治に詳しくない人までが田中の話を聞き、彼女が既成政治を批判すると、「よく言ってくれた」と感じる人がいた。

ところが、その絶頂は長く続かなかった。

2001年4月に日本初の女性外務大臣として小泉純一郎内閣に入閣した田中は、翌2002年1月には更迭される。同年には衆議院議員を辞職し、わずか一年ほど前まで政権の象徴の一人だった政治家が、急速に永田町の中心から外れていった。

もっとも、ここで誤解してはいけない。

田中真紀子は2002年を境に政治から消えたわけではない。2003年には無所属で衆議院議員に返り咲き、その後も国政に残った。2009年には民主党に入り、2012年には野田佳彦内閣で文部科学大臣として再入閣している。

したがって、本稿でいう「政治の中心から離れた」とは、国会議員でなくなったという意味ではない。

2001年当時のように、田中の発言や去就そのものが政権の支持や政治日程に影響するほどの、全国政治の中心的存在ではなくなったという意味である。

では、なぜ田中真紀子はあれほどの人気を集め、その人気を長期的な政治権力へ変えることができなかったのだろうか。

そこには本人の個性だけでは説明できない、1990年代から2000年代初頭という時代そのものが横たわっている。

「田中角栄の娘」だけでは、あの人気は説明できない

田中真紀子を語るとき、父・田中角栄を避けて通ることはできない。

田中角栄は、戦後日本政治の中でも特異な巨大政治家だった。道路を造り、新幹線を引き、地方へ公共事業を導き、「日本列島改造論」を掲げたその政治は、高度経済成長期の日本が抱いていた上昇への欲望と重なっていた。

その娘が1993年の衆議院選挙で初当選したのだから、政治的知名度という点で田中真紀子が最初から圧倒的に有利だったことは否定できない。

だが、父の名前だけで2001年前後の熱狂まで説明することは難しい。

むしろ興味深いのは、父と娘がまったく異なる方法で大衆と結びついたことである。

田中角栄の政治は、道路、鉄道、予算、公共事業という目に見える利益を地方へ配分することによって支持を形成した。それに対して田中真紀子が有権者に与えたものは、道路でも補助金でもなかった。

彼女が提供したものは、「政治に対して自分たちが感じている不満を、代わりに言葉にしてくれる」という感覚だった。

1998年の自由民主党総裁選で、小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評した有名な言葉は、その特徴をよく表している。

この三語には政策論がほとんどない。

しかし政治家の人物像は、一瞬で伝わる。

複雑な派閥力学や政策思想を知らなくても、「凡人・軍人・変人」なら誰にでも分かる。田中は永田町の複雑な出来事を、普通の人が理解できる人物劇へ変換する能力を持っていた。

政治を「翻訳する政治家」だったのである。

田中真紀子を必要とした1990年代

しかし、優れた話術を持つ政治家なら、それ以前にもそれ以後にもいた。

田中人気を理解するには、彼女の能力だけではなく、彼女を必要とした時代を見る必要がある。

1990年代の日本は、政治に対する信頼が大きく揺らいだ時代だった。

バブル経済が崩壊し、長い経済停滞が始まった。1993年には自民党が一時政権を失い、その後も新党の結成と解散、政党の合流と分裂が繰り返された。官僚不祥事も続き、それまで日本を支えてきたはずの政治家、官僚、金融機関、大企業への信頼が少しずつ崩れていった。

それでも永田町では、派閥、人事、政局という一般国民には理解しにくい論理が動いているように見えた。

そこに田中真紀子が現れた。

彼女は「政治とは複雑なものだから仕方がない」とは言わなかった。

むしろ、その複雑さ自体を笑った。

政治家をあだ名のような言葉で評し、官僚の論理を茶化し、自民党内部にいながら自民党の古さを批判する。

その姿は、政治家というより、ときに永田町へ送り込まれた国民代表の評論家のように映った。

この時代背景を考えれば、田中人気は本人の話術だけによって生まれたものではない。

「既成政治を信用できない」という社会側の需要と、「既成政治を分かりやすく批判できる」という田中の能力が一致した結果だったと考える方が合理的である。

人気を一つの原因だけで説明するのではなく、田中角栄という政治的資産、本人の言語能力、テレビという媒体、政治不信の拡大、自民党への閉塞感が重なった結果として考えるべきだろう。

テレビ政治と田中真紀子

さらに、田中真紀子の政治家としての性格は、テレビという媒体と非常に相性がよかった。

テレビは長い政策説明より、一瞬で意味が伝わる言葉を好む。

財政政策について十分間説明する政治家より、「この人は凡人です」と一言で言う政治家の方が映像として強い。

田中には表情があり、声に抑揚があり、言葉に毒があった。

だから発言の一部を切り取ってもニュースになる。

これは政策能力とは別の能力である。

政治家の人気を考える場合、本来なら「政策形成能力」「組織管理能力」「選挙能力」「説明能力」「メディア適応能力」といった複数の能力を分けて考えなければならない。

田中が突出していたのは、その中でも説明能力とメディア適応能力だった。

ところが視聴者から見ると、その区別は見えにくい。

分かりやすく話す政治家は、政治そのものにも強そうに見える。

ここに、後に田中政治が直面する問題の萌芽があった。

人気は政治家を権力の入口まで運ぶ。

しかし、人気と統治能力は同じものではない。

小泉純一郎と田中真紀子という「最強の組み合わせ」

2001年、この田中人気を最大限に利用した政治家が小泉純一郎だった。

森喜朗政権末期、自民党に対する閉塞感は極めて強かった。そこへ小泉は、「自民党を変える」「自民党をぶっ壊す」という、従来の自民党総裁候補とは異なる姿勢で登場した。

田中は小泉支持に回った。

ここで二人の政治スタイルが奇妙なほど一致する。

小泉は政治を「改革する側」と「抵抗する側」という物語に変えた。

田中もまた、「普通の国民」と「古い永田町」という構図で政治を語ってきた。

政策の内容まで同じだったわけではない。

しかし政治を複雑な利害調整ではなく、分かりやすい対立として示すという方法では非常によく似ていた。

田中の人気が小泉総裁選勝利のどれほどを説明するのかを数量的に分離することはできない。総裁選の結果には地方票、小泉自身の人気、森政権への反発、党内事情など多くの要因が存在するからである。

それでも、田中が小泉陣営に「古い自民党と闘う」という象徴性を加えたことは否定しにくい。

そして2001年4月、小泉が首相になると、田中真紀子は外務大臣に就任した。

政治を批判する人から、政治を実際に動かす人へ。

ここで、田中真紀子の政治人生は大きく変わった。

外から批判する政治と、中から動かす政治

外務省は当時、決して平穏な組織ではなかった。

機密費をめぐる不祥事などによって国民の信頼を失い、組織改革を迫られていた。田中が「外務省改革」を掲げたこと自体には、十分な社会的背景があった。

さらに、その後の外務省自身の調査でも、鈴木宗男衆議院議員と外務省との関係について、行政の公平性や透明性への疑念を招く問題が存在していたことが認められている。

外務省はその関係を、「社会通念に照らしてあってはならない異常な状態」とまで総括した。

したがって、田中が外務省と政治家との関係に問題意識を持ったこと自体を、単なる思い込みや感情的反発として処理するのは公平ではない。

実際に改革すべき問題は存在していたのである。

しかし、ここからが難しい。

問題を発見する能力と、問題を解決する能力は同じではない。

政治家が役所の外から官僚を批判するなら、「ここがおかしい」と指摘するだけでも政治的意味がある。しかし大臣になれば、その役所は翌朝から自分が動かさなければならない組織になる。

昨日批判した官僚とも会議をしなければならない。

外交日程を組み、人事を決め、外国政府と交渉し、国会へ答弁し、首相官邸とも調整する。

外務省という巨大組織を改革するには、問題を暴くだけでは足りない。

組織内部に協力者をつくり、制度を変更し、その制度を継続して動かす必要がある。

田中の政治手法は、対立点を鮮明にする局面では非常に強かった。

一方で、対立した相手を含む組織を内部から動かさなければならない局面では、大きな摩擦を生じさせた。

これは田中個人の人格を断定する話ではない。

政治手法と役職との適合性の問題である。

「既成組織を批判する政治家」として効果的だった方法が、「既成組織を使って政策を実行する大臣」になったときには、必ずしも同じ成果を生まなかったのである。

NGO問題では、何が確定しているのか

その矛盾が最も大きく表面化したのが、2002年1月のアフガニスタン復興支援国際会議をめぐる問題だった。

NGO(Non-Governmental Organization・非政府組織)の会議参加をめぐり、田中外相と外務省事務方との説明が食い違った。

田中側は鈴木宗男議員の関与を問題視した一方、外務省側とは事実認識に相違が生じ、国会審議まで混乱することになる。

ここは、後から振り返るほど慎重に区別しなければならないところである。

鈴木宗男氏と外務省との関係に問題が存在していたこと自体は、その後の外務省調査によって確認されている。

しかし、それによって、このNGO参加問題について田中の認識がすべて正しかったと証明されたわけではない。

「外務省と政治家との間に不適切な関係が存在した」という事実と、「この個別案件がその政治的圧力によって決定された」という事実は同じではない。

後者については当事者の説明に食い違いが残った。

田中真紀子の外相時代を公平に評価するなら、「彼女の問題意識には根拠があった」ということと、「個々の判断や行政運営が適切だったか」ということを分けて考えなければならない。

批判対象に問題があったからといって、批判する側のすべての判断が正しくなるわけではない。

逆に、行政運営に混乱を生じさせたからといって、指摘していた問題まで存在しなかったことになるわけでもない。

田中真紀子をめぐる評価が今も分かれる理由の一つは、この二つがしばしば混同されるからだろう。

2002年1月29日、更迭

国会の混乱が続く中、小泉首相は2002年1月29日、田中外相を更迭した。

政府は後の国会答弁で、特定の一発言への処分というより、NGO問題をめぐって国会審議が混乱した状況を収拾し、審議を正常化するための判断だったと説明している。

それでも国民の側から見れば、別の物語が成立した。

古い自民党や官僚組織と闘っているように見えた田中が、その政治の内部から排除された。

小泉も結局、既存組織に妥協したのではないか。

その印象が政権に大きな打撃を与えた可能性は高い。

実際、時事通信の世論調査では、小泉内閣の支持率は2002年1月の67.8%から、2月には46.5%へ低下した。

下落幅は21.3ポイントに達する。

相対的に見れば、直前の支持率水準の約31%に相当する極めて大きな落ち込みだった。

ただし、この数字を扱う場合には注意が必要である。

時間的には、田中更迭と支持率急落がほぼ同時に起きている。

しかし、「更迭後に支持率が21.3ポイント下がった」という観測事実と、「田中を更迭したため21.3ポイント下がった」という因果関係は同じではない。

当時の政治状況には、外務省問題そのものへの不信や経済状況、政権運営への評価など複数の変数が存在した。

田中を更迭しなかった場合の小泉内閣支持率を観測することはできない以上、21.3ポイントのすべてを田中更迭の効果とみなすことはできない。

それでも、下落の時期と大きさを考えれば、更迭が小泉政権にとって重要な政治的転機の一つだったと評価することには十分な合理性がある。

つまり、田中真紀子は一閣僚だったにもかかわらず、その去就が政権全体の「改革イメージ」と結びつくほど大きな存在になっていたのである。

それでも「改革者の悲劇」だけでは終わらなかった

もし田中が外相を更迭されただけなら、その後も「官僚機構に抵抗して排除された改革者」という物語によって、人気を維持した可能性はあった。

しかし、その年、政治状況はさらに変わる。

公設秘書給与をめぐる疑惑が浮上し、自民党は田中に2年間の党員資格停止処分を決めた。田中は不正を否定したが、2002年8月には衆議院議員を辞職する。

重要なのは、その後の司法判断である。

東京地方検察庁は最終的に田中を起訴せず、2003年には不起訴となった。

したがって、この問題を「田中真紀子が秘書給与を不正に取得した事件」と断定するのは適切ではない。

疑惑が政治問題化したことと、犯罪が立証されたことは別である。

しかし、政治の時間は司法判断より速く進む。

外相を更迭された政治家が、その数カ月後には党から処分され、さらに国会議員を辞職した。

2001年春から見れば、わずか一年余りである。

この速度が、「田中真紀子は突然消えた」という後世の印象をつくった。

ただし実際には、ここで政治生命が終わったわけではなかった。

田中真紀子は、一度消えてから戻ってきた

2003年の衆議院選挙で、田中は無所属として新潟5区から出馬し、当選する。

これは重要な事実である。

もし2001年の田中人気がテレビだけによってつくられた一時的な現象だったなら、一度議員を辞めた後に選挙で国政へ戻ることは容易ではない。

少なくとも地元には、なお相当な政治基盤が残っていた。

そこには田中角栄以来の後援基盤、田中本人への支持、外相更迭への同情など、複数の要因が作用していたと考えるべきだろう。

その後、田中は2009年に民主党へ入党する。

田中角栄の娘が、自民党から政権を奪おうとしていた民主党に加わったという出来事には、日本政治の30年間を凝縮したような皮肉があった。

そして民主党政権下の2012年10月、野田佳彦第3次改造内閣で文部科学大臣となる。

外相更迭から約10年。

田中真紀子は再び大臣として中央政治へ戻ったのである。

だから、田中真紀子の政治人生を「2002年に失脚して終わった」と書くのは正確ではない。

本当に問うべきなのは、なぜ復活したにもかかわらず、2001年当時のような圧倒的な政治的存在感を取り戻すことができなかったのか、ということである。

文部科学大臣でも繰り返された「問題提起と実施」の距離

2012年、田中文部科学大臣は再び大きな論争を起こした。

大学設置・学校法人審議会が設置を認める答申を出していた三大学について、田中は当初、認可しない方針を表明した。

背景には、少子化にもかかわらず大学数が増えてきたことや、大学設置行政そのものを見直す必要があるという問題意識があった。

この問いそのものは、その後の日本社会を考えても無意味ではない。

人口が減り、18歳人口も減少する中で、大学の数と教育の質をどう考えるのかは現在まで続く政策課題だからである。

しかし、制度全体を改革すべきだという問題意識と、現行制度に従って長期間準備を進め、審議会の答申まで得た個別大学を認可しないことは別問題だった。

学生募集を予定していた大学や受験生に混乱が広がり、国会でも大きな問題となる。

最終的に田中は方針を変更し、三大学は認可された。

ここには、外相時代とある程度共通する構造を見ることができる。

既存制度に対する問題点を発見し、それを強い言葉で提示するところでは田中の政治は大きな注目を集める。

しかし、その問題を現行制度の中でどう処理し、どの順序で制度改革へつなげるかという段階になると、大きな摩擦が起きる。

一度だけなら偶然かもしれない。

しかし外務大臣時代と文部科学大臣時代という、約10年離れた二つの局面で似た現象が見られたことを考えれば、「田中の政治手法には、問題提起の強さに比べて制度的実装の段階で摩擦が大きくなりやすい傾向があった」という仮説には一定の説明力がある。

ただし、それは田中という人物の性格を心理的に断定することとは違う。

政治家として観察された行動パターンについての評価である。

2012年の落選だけを、田中人気の消滅とは読めない

2012年12月の衆議院選挙で、田中は新潟5区から民主党候補として出馬した。

得票は5万1503票。

自民党の長島忠美は8万0488票を獲得し、田中は敗れた。

票差は2万8985票であり、決して僅差ではなかった。

この選挙を境に、田中は国会議席を失い、その後、再び国政の中心へ戻ることはなかった。

しかし、ここでも原因を単純化すると歴史を読み違える。

2012年の衆議院選挙は、民主党政権全体が猛烈な逆風を受けた選挙だった。

2009年の政権交代で308議席を得た民主党は、この選挙で大幅に議席を失う。

したがって田中の落選を、田中個人への評価だけで説明することはできない。

個人人気の低下、民主党政権への失望、自民党への政権回帰、選挙区事情などが同時に作用した結果と考える方が妥当である。

田中真紀子の政治人生は、いつも一つの原因で説明することが難しい。

人気が出たときもそうだった。

人気を失ったときもそうだった。

なぜ人気を「権力」に変えられなかったのか

ここまでを振り返ると、田中真紀子という政治家の特徴が少し違って見えてくる。

「毒舌だから人気が出て、毒舌だから失敗した」という説明では不十分である。

田中人気を形成した要因は少なくとも複数存在していた。

父・田中角栄から受け継いだ圧倒的な知名度と選挙基盤があり、1990年代の政治不信があり、テレビ政治の発達があり、自民党政治への閉塞感があり、そこへ田中自身の卓越した言語表現能力が重なった。

さらに2001年には、小泉純一郎というもう一人の強力なメディア型政治家との組み合わせが生まれた。

これらが同時に作用したため、田中人気は爆発的なものになった。

一方、政治の中心から遠ざかった理由も一つではない。

外務省との対立だけではなく、行政組織を率いることの難しさ、NGO問題による国会混乱、秘書給与問題による政治的打撃、自民党との関係悪化、その後の政党移動、民主党政権への逆風、2012年の大学認可問題などが時間をかけて重なった。

つまり田中真紀子を理解するには、一つの原因から一つの結果が生まれたと考えるより、複数の要因が相互作用した多変量的な政治現象として見る方がよい。

そして、その中でも特に重要なのが「人気」と「統治」の違いではないだろうか。

人気政治家には、人々の感情を言葉に変える能力が必要である。

しかし政権中枢に長く残る政治家には、それとは別の能力も必要になる。

役所を動かし、党内をまとめ、対立する相手とも交渉し、制度へ落とし込み、法律や予算として残す能力である。

田中真紀子は、前者では平成政治を代表するほど強かった。

後者については、少なくとも外務大臣時代と文部科学大臣時代を見る限り、その強さを同じ程度には示すことができなかった。

ここに、彼女の人気と権力との間に生まれた距離がある。

小泉純一郎との違いは、どこにあったのか

この点で、小泉純一郎との比較は興味深い。

二人とも既成政治を批判し、分かりやすい言葉を使い、テレビと相性がよかった。

しかし小泉は、郵政民営化という具体的な政策目標へ政治エネルギーを集中させた。

党内で反対されると衆議院を解散し、反対派を公認せず、選挙で多数を取り、最後には法案を成立させる。

その政策自体をどう評価するかは別問題である。

重要なのは、小泉が自分の政治的メッセージを、党の公認、選挙、議席数、国会採決、法律という制度へ変換したことである。

田中の政治は、それとは違った。

彼女の最大の武器は、「誰も口にしない違和感を、一言で言葉にする」ことだった。

それによって世論を動かすことはできた。

しかし、その違和感を法律や制度へ変えるところまで政治を継続することは、はるかに難しかった。

ここに二人の決定的な違いがある。

小泉は分かりやすさを権力へ変換した。

田中は分かりやすさそのものが政治的魅力だった。

それでも、田中真紀子が記憶から消えない理由

では、田中真紀子は失敗した政治家だったのだろうか。

そう結論づけると、やはり何か重要なものを落としてしまう。

首相にはならなかった。

外相在任は短かった。

文部科学大臣としても長期政権を担ったわけではない。

田中の名前を冠した巨大な制度改革が残ったわけでもない。

それでも、2001年前後の日本政治を語るとき、田中真紀子を抜きにその時代の空気を説明することは難しい。

なぜなら田中が表現していたものは、田中自身だけの感情ではなかったからである。

「政治家はなぜこんなに分かりにくいことを話すのか」

「官僚は本当に国民のために動いているのか」

「派閥の都合で政治が決まっているのではないか」

「もっと普通の言葉で説明できないのか」

1990年代から2000年代初頭の日本社会に蓄積していたそうした疑問を、田中はテレビの前で言葉にした。

だから、人々は彼女に自分たちの不満を重ねることができた。

そこに田中人気の本質があった。

そして、そこに田中政治の限界もあった。

政治を外から見る人間にとって、「おかしいものを、おかしいと言う」ことは政治参加になる。

しかし政治の中心に入った人間には、その次の仕事がある。

おかしい制度をどう変えるのか。

誰を説得するのか。

どの法律を変えるのか。

予算はいくら必要なのか。

反対する人間とはどこまで妥協するのか。

そこから先の政治は、テレビではあまり面白くない。

会議があり、根回しがあり、文書があり、修正協議があり、採決がある。

だが、国家を実際に動かしているのは、その退屈な部分でもある。

田中真紀子は、その退屈さに苛立つ国民の感情を、驚くほど鮮明に表現した政治家だった。

だからこそ、人々は彼女を支持した。

一方で、政治の中心に長く残るためには、その退屈な政治そのものを引き受けなければならない。

そこに田中真紀子という政治家の最大の逆説があったのではないだろうか。

人気が政治家を権力の入口まで運ぶことはある。

一人の閣僚の更迭が、政権支持率を大きく揺らすことさえある。

しかし人気は、官僚組織を自動的に動かしてくれるわけではない。

法律を成立させてもくれない。

対立する政治家との合意をつくってもくれない。

田中真紀子の政治人生が示したのは、人気と政治的実行力が同じものではないという、民主政治にとって単純だが厄介な事実だった。

彼女は政治の中心に長くいたから記憶されているのではない。

政治の外から永田町を切り、その言葉によって一気に中心へ入り込み、中心に入ったことで自らの政治手法の限界にも直面し、それでも一度は戻り、最後には再び中心から離れていった。

その軌跡そのものが、平成という時代の政治を映している。

田中真紀子はなぜ、あれほど人気を集めたのか。

国民が言いたかったことを、国民より先に言ったからである。

では、なぜその人気を長期的な権力へ変えられなかったのか。

政治には、言うこととは別に、動かすことが必要だったからである。

田中真紀子という政治家を振り返ったとき最後に残るのは、おそらくこの二つの事実の間に横たわる距離なのである。

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石原慎太郎という人物を振り返るとき、最初に注意しなければならないことがある。彼は、作家をやめて政治家になった人ではない。

一橋大学在学中の1955年、『太陽の季節』で文学界新人賞を受賞し、翌1956年には同作で芥川賞を受けた。作品が描いた戦後の若者像は大きな論争を呼び、「太陽族」という言葉まで生み出した。それから12年後の1968年、石原は参議院議員選挙に立候補して政治の世界へ入るが、その後も小説を書くことをやめなかった。国会議員になった後の1970年には長編『化石の森』を刊行し、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞している。1988年には「生還」で平林たい子文学賞を受け、1995年に衆議院議員を辞職した後には弟・石原裕次郎との関係を描いた『弟』を発表した。さらに東京都知事になってからも、小説や随筆を発表し続けている。

したがって、石原慎太郎の人生を「文学から政治への転身」とだけ捉えると、重要な部分を見失う。

彼は作家であることをやめて政治家になったのではなく、作家として言葉によって社会に働きかけながら、政治という別の方法でも社会へ働きかけるようになった。文学と政治は交代したのではなく、長い期間にわたって並行していたのである。

そう考えると、石原慎太郎という人物を理解するための問いも少し変わってくる。

なぜ作家が政治家になったのか、だけではない。

なぜ文章によって十分な名声を得ていた人物が、なお現実の政治権力を必要としたのか。そして長い国政経験の末に、なぜ東京都という都市を自らの政治の中心舞台に選んだのか。

その二つを追っていくと、作家・石原慎太郎と政治家・石原慎太郎は、意外なほど近いところでつながっている。

『太陽の季節』の青年と、後年の政治家は同じではない

晩年の石原慎太郎を知る人にとって、彼には強硬な保守政治家という印象が残っているかもしれない。国家、安全保障、憲法、中国、米国との関係について強い言葉で発言し、時には激しい批判を受けた人物でもある。

しかし、若いころから同じ政治思想を一直線に持っていたわけではない。

1950年代末には、警察官職務執行法改正に反対した文化人グループ「若い日本の会」に参加している。そこには開高健、大江健三郎、江藤淳ら当時の若い知識人が集まっていた。後年の石原の政治姿勢だけから振り返れば、多少意外に見える経歴である。

もっとも、人間の政治思想が数十年間まったく変化しない方が珍しい。若い時代の立場と後年の立場が違うこと自体を、ただ「変節」と呼んでも石原慎太郎という人物は理解できない。

むしろ、思想の内容が変わっても残り続けたものを見る必要がある。

その一つが、傍観者であることに対する強い違和感だったのではないだろうか。

『太陽の季節』に描かれた若者たちは、慎重に社会を観察し、その中で穏やかに折り合いをつけて生きる人物ではない。既成の道徳や秩序から距離を取り、自ら行動し、その結果として他者を傷つけ、自分自身も傷ついていく。

もちろん、小説の登場人物を作者本人と同一視することはできないし、小説から政治思想を直接導き出すべきでもない。それでも石原の作品世界に、行為、肉体、競争、海、冒険、危険といった主題が繰り返し現れることは確かである。

世界について考えるだけではなく、その世界の中へ自分から踏み込んでいく。

後年の政治家・石原慎太郎にも、この性質はかなり色濃く残っていた。

政治家になろうと決めたベトナムでの経験

石原自身は、なぜ政治家になったのかについて後年かなり具体的に語っている。

1960年代、石原はベトナム戦争を現地で経験した。2011年の東京都知事記者会見で当時を振り返った石原は、サイゴンの知識人たちと話しているうちに、戦争という深刻な問題が身近で進行しているにもかかわらず、知識人ほどそこから距離を置こうとしているように感じたと説明している。

そして、その姿が当時の日本の知識人にも似ていると考え、「この国は危なくなるのではないか」と心配し、政治家になろうと決心したという。

これは重要な証言だが、扱いには少し注意が必要である。

2011年になって本人が40年以上前を振り返った回想であり、ベトナム戦争だけが政界入りの唯一の原因だったと断定することまではできない。当時の石原はすでに著名作家であり、社会評論や文化活動にも関わっていた。本人の思想的関心だけでなく、高い知名度を政治的資源へ転換できる環境も整っていた。

それでも、本人が政界入りの契機としてベトナム体験を語っていることには意味がある。

そこに表れているのは、「知識人が論評しているだけでは現実は変わらない」という感覚だからである。

作家は社会について書くことができる。しかし、法律をつくることも予算を執行することもできない。

言葉によって社会を描くことと、政治権力によって社会の仕組みそのものを変えること。その二つの間にある距離を、石原は強く意識するようになったのかもしれない。

1968年、石原は参議院議員選挙の全国区に出馬し、300万票を超える最高得票で当選した。

この結果には当然、作家としての知名度が作用している。

つまり政治家・石原慎太郎の出発点には、すでに作家・石原慎太郎がいたのである。

文学と政治はここで切断されたのではない。文学によって築いた社会的知名度と言葉の力が、選挙によって政治的な力へ変換されたと考える方が実態に近い。

国政の中枢には近づいたが、その頂点には届かなかった

石原の国政経歴は決して短くない。

1972年には参議院から衆議院へ移り、その後連続8回当選した。環境庁長官、運輸大臣を務め、1989年には自由民主党総裁選挙にも立候補している。単なる「作家出身のタレント議員」として政治生活を終えた人物ではない。

一方で、首相になることも、自由民主党総裁になることもなかった。

ここを「国会では主人公になれなかった」と評してしまうと、石原の長い国政経歴を過小評価することになる。それよりも重要なのは、国会議員と東京都知事では政治家として持つ権限の性質が大きく異なるという点だろう。

一人の国会議員には、自分だけの判断で行政組織を動かす権限はない。与党政治家であっても、党内調整、国会審議、官僚組織、予算、他党との関係などを通じて政策を実現していかなければならない。

これは政治家の自由を妨げるだけの仕組みではない。異なる意見を調整し、権力を一人に集中させないための民主政治の制度でもある。

これに対して都道府県知事は、住民による直接選挙で選ばれ、地方公共団体の執行機関の長として行政組織を率いる。もちろん議会の議決や法律による制約を受けるため、知事が何でも自由に決められるわけではない。それでも、一議員と比較すれば政策課題を設定し、予算案や条例案を提出し、行政組織を通じて政策を実施していく能力ははるかに大きい。

この制度上の違いは、後の石原都政を理解するうえで重要である。

1975年、石原は一度東京に敗れている

石原と東京都知事という職の関係は、1999年に突然始まったものではない。

1975年、石原は東京都知事選挙に出馬している。

当時の現職は美濃部亮吉だった。社会党や共産党などの支援を受けた美濃部に対して、石原は世代交代を訴えて戦ったが敗れた。

その後、石原は国政へ戻り、二十年間にわたって衆議院議員を続ける。

1995年には突然、衆議院議員を辞職した。

その後は作家活動に比重を戻し、弟・裕次郎との関係を描いた『弟』などを発表する。一度は政治生活を終えたかに見えた。

ところが四年後の1999年、石原は再び東京都知事選挙に立候補する。

このとき石原は66歳だった。

東京都知事として政治の世界へ戻った石原は、その後2012年まで約13年半にわたって都政を率いることになる。

なぜ、再び東京だったのか。

ここに石原慎太郎という政治家の特徴を読み解く鍵がある。

「東京から日本を変える」という発想

石原は後年、1999年の都知事選に出馬した理由について、東京を「文明工学的に、社会工学的に大事な意味合い」を持つ都市だと考えていたと説明している。

そして掲げたのが、「東京から日本を変える」という考えだった。

この言葉は、単なる選挙用の標語として片づけない方がよい。

石原都政を通して見ると、この発想がその後も繰り返し現れるからである。

東京は日本の47都道府県の一つである。しかしその人口、企業集積、税収、大学、情報機関、金融機関、文化産業、官公庁の集中度を考えれば、他の自治体とは異なる影響力を持っている。

東京都が新しい政策を実施すれば、その影響は都内だけにとどまらない。

事業者が東京市場に対応するため全国の商品やサービスを変更することもある。周辺県が同様の制度を採用することもある。東京都の政策が国の制度変更を促す場合もある。

石原は、この東京の特殊性を政治的な力として利用しようとした。

国会の中から国を変えるのではなく、東京という巨大都市を動かすことによって国を動かす。

それが「東京から日本を変える」という言葉の実質だった。

そしてこの方法は、作家時代から一貫していた石原の発信力と非常に相性がよかった。

黒い煤を見せるという政治

石原都政を象徴する政策の一つが、ディーゼル車の排出ガス規制である。

当時、東京では自動車から排出される粒子状物質などによる大気汚染が大きな問題となっていた。東京都は1999年に「ディーゼル車NO作戦」を開始し、条例による規制へ進む。2003年10月からは東京都を含む一都三県で、一定の粒子状物質排出基準を満たさないディーゼルトラックやバスなどの走行が規制された。

この政策で記憶されているのが、石原がペットボトルに入れた黒い煤を示した場面である。

大気汚染は目に見えにくい。

「粒子状物質の排出量」と説明しても、多くの人にとって実感しにくい。

しかし透明な容器の中に黒い煤を入れて見せれば、問題は一瞬で視覚化される。

ここには作家としての石原慎太郎と政治家としての石原慎太郎が重なって見える。

複雑な問題から象徴的な場面を一つ取り出し、人々が理解できる物語に変えて提示するのである。

ただし、政治における分かりやすさには危険もある。

ディーゼル車問題は、「ディーゼルエンジンは悪い」という単純な問題ではない。規制対象となる車種や排出基準、粒子状物質低減装置、低硫黄軽油への転換、事業者が負担する車両更新費用など、多くの要素から成り立っていた。東京都の規制でも乗用車は対象外で、一定の基準を満たした車両は走行可能だった。

政治家には複雑な問題を国民に理解できる形で説明する能力が必要である。

しかし分かりやすくすることと、単純化することの間には細い境界がある。

石原慎太郎の政治は、その境界の上を歩くことが多かった。

成功した「突破」と失敗した「突破」

東京から日本を変えるという政治手法が一定の成果につながった政策がある一方、同じような決断型の政治が問題を生んだ例もある。

その代表が新銀行東京である。

石原都政は、既存の金融機関から十分な融資を受けにくい中小企業への資金供給などを目的として、新しい銀行の設立を進めた。

政策の目的それ自体には理解できる部分があった。

中小企業が資金調達に困っているのであれば、東京という巨大な自治体が新しい金融の仕組みをつくる。これもまた、「国や既存制度ができないなら東京がやる」という石原都政らしい発想だった。

しかし、銀行経営は政治的意思だけで成立するものではない。

融資には信用リスクがあり、預金を集め、審査を行い、適切な金利を設定し、不良債権を抑えながら収益を確保しなければならない。

新銀行東京は経営難に陥り、東京都は設立時の1000億円に加えて、2008年に400億円を追加出資することになった。都議会では、事業計画そのものに無理があったのではないかという批判や、東京都および石原知事の政治的責任を問う議論が続いた。

一方で、石原の説明も書いておく必要がある。

石原自身は新銀行東京を発案したのは自分だと認めながら、経営危機の直接的な責任については、実際の経営を担った旧経営陣にまずあるとの立場を取っていた。そのうえで取締役会や株主である東京都にもそれぞれの責任があるという整理を示している。

この問題を「石原が1400億円を失敗した」とだけ書けば正確ではないし、反対に「経営陣だけの責任だった」としても問題の全体像は見えない。

重要なのは、政策の発案責任と企業の日常的な経営責任を区別しながら、公的資金を用いて自治体が銀行を設立するという政策判断そのものが妥当だったのかを検証することである。

そして、ここには石原政治の一つの限界が表れている。

政治家が強い意志を持って制度を突破することと、事業が経済的に持続可能であることは同じではない。

ディーゼル規制では「東京が先に動く」ことが制度革新につながった。

新銀行東京では、同じ「東京が自分でやる」という発想が大きな財政リスクを生んだ。

成功と失敗は別々の人物から生まれたのではない。

同じ政治手法の表と裏だったのである。

石原慎太郎は、言葉によって政治をした

石原慎太郎ほど、言葉そのものが政治的評価に直結した東京都知事も珍しい。

支持者から見れば、既成の政治家が避ける問題をはっきり語る人物だった。

しかしその言葉は、しばしば社会的な批判も引き起こした。

2000年には、自衛隊の式典で「三国人」という言葉を用いた発言が問題となった。東京都議会には撤回や謝罪を求める請願や陳情が出され、当時の河野洋平外務大臣も、公職者がそうした言葉を不用意に使用すれば、傷ついたり名誉を損なわれたと感じたりする人がいる可能性があるとして慎重な使用を求める趣旨の発言をしている。

石原側は、自分の発言の意図について説明し、差別を目的としたものではないという立場を取った。

しかし政治家の言葉を評価するとき、本人の意図だけで十分とはいえない。

東京都知事は、政治的意見や国籍、民族的背景、年齢、職業、生活環境の異なる多くの人々を代表する公職である。その立場から発せられる言葉には、私人や作家とは異なる重みがある。

ここに作家と政治家の決定的な違いが現れる。

作家には、読者を不快にさせる表現を書く自由もある。挑発や極端な人物造形によって人間や社会の矛盾を描くことも文学の方法になり得る。

しかし行政の長は、挑発するだけでは済まない。

言葉によって社会に問題を投げかけることと、異なる立場の住民を統治することは別の仕事だからである。

石原は政治家になった後も、作家時代から持っていた強い言葉を手放さなかった。

それが政治的魅力になった場面もあれば、公職者としての慎重さを欠くと批判された場面もあった。

評価が大きく分かれる原因は、実は同じところにあったのである。

東京はついに外交の領域まで踏み込んだ

石原が東京都を単なる地方自治体として考えていなかったことを最も象徴する出来事が、2012年の尖閣諸島購入構想だった。

石原は東京都による尖閣諸島の購入方針を打ち出し、東京都は寄付を募集した。

本来、外交や領土、安全保障は中央政府が担う分野である。

それでも石原は、国の対応が十分ではないと考え、東京都という自治体を使って問題を動かそうとした。

政府はその後、魚釣島、北小島、南小島の三島を購入して国有化した。外務省の説明資料でも、その背景として2012年4月以降に東京都による購入の動きがあったことが示されている。

したがって、石原の構想が中央政府の判断に影響したこと自体は否定しにくい。

しかし、その後の日中関係の緊張をすべて石原一人の責任とするのも適切ではない。

尖閣諸島をめぐっては、それ以前から日本と中国の間に認識の対立があり、中国公船の活動、日本国内の世論、中央政府の判断など複数の要因が重なっていた。

石原の行動は、その複雑な過程を大きく動かした一つの要因として位置づけるのが妥当だろう。

それでも、この出来事は石原の政治観を鮮明に示している。

国が動かないと考えれば東京が動く。

東京が動けば国が動かざるを得なくなる。

1999年に掲げた「東京から日本を変える」という政治思想は、13年後には地方自治の範囲を越えて、外交問題にまで及んだのである。

なぜ東京は石原慎太郎に適していたのか

ここまで振り返ると、なぜ石原が東京を自分の政治的舞台にしたのかが見えてくる。

国政には巨大な権力がある。

しかし一人の国会議員がそれを自由に使えるわけではない。

反対に、小規模な自治体の首長なら行政に直接関与する力は強くなるが、その政策が日本全体を動かすほどの影響力を持つとは限らない。

東京はその二つの中間に位置していた。

地方自治体であるため、知事は直接選挙による独自の政治的正統性を持ち、巨大な東京都庁の執行機関を率いる。

同時に、日本最大の都市として、そこで行われる政策は全国的なニュースとなり、周辺自治体、企業、中央政府、場合によっては外国にまで影響を与える。

石原自身も、東京にはさまざまな「集中、集積」があり、日本を動かす原動力になり得るという認識を示している。

この都市の性格と、石原慎太郎の政治手法はよくかみ合っていた。

自ら問題を発見する。

それを強い言葉で社会に提示する。

行政組織を動かす。

そして、その行動自体を全国へ発信する。

こうして政策と政治的演出が一つの流れになる。

石原にとって東京都知事になることは、国政から地方政治へ格下げされることではなかったのだろう。

別の経路から国政へ影響する方法を手に入れることだったのである。

作家として培ったものは、政治の中にも残った

石原慎太郎の政治について考えるとき、「政治も彼にとって作品だった」とまで断定するのは慎重であるべきだろう。

政治と文学は同じものではないからである。

それでも、両者に共通する方法を見ることはできる。

作家は複雑な現実の中から一つの問題を取り出し、人物や事件を配置し、読者に理解できる形へ変える。

政治家・石原慎太郎も、複雑な政策問題を象徴的な場面に変えることに長けていた。

黒い煤が入ったペットボトルは、その典型だった。

「東京から日本を変える」という言葉もそうである。

多くの制度論を説明する代わりに、一つの短い言葉によって自分の政治を物語にしてしまう。

この能力は政治家として強力だった。

一方で、現実社会には小説のような作者はいない。

東京都という都市には、石原慎太郎に賛成する人だけが暮らしているわけではない。思想も利益も生活環境も異なる一千万人を超える人々が同じ都市を共有している。

政策には予想外の副作用が生じ、経済事業は失敗することもある。強い言葉を好む人がいる一方、その言葉によって排除されたと感じる人もいる。

だから民主政治には、強いリーダーだけでなく、議会、行政手続き、専門家による検証、情報公開、反対意見、司法といった複数の仕組みが必要になる。

石原慎太郎の東京都政は、「決められる政治」の魅力を示したと同時に、決断する人物を過度に中心に置く政治が抱える危うさも示した。

作家と政治家を往復したのではなく、二つを同時に生きた

石原慎太郎の人生を振り返ると、文学から政治へ、政治から文学へという単純な往復では説明しにくい。

1950年代には若い作家として時代の価値観を揺さぶった。

1968年には政治へ入りながら、その後も小説を書き続けた。

1995年に国会を去れば作家活動に比重を戻し、1999年には再び政治へ戻った。それでも執筆活動は続いた。

つまり石原慎太郎の中では、文学と政治は完全には分離していなかった。

文学では、自分が世界をどう見るかを書いた。

政治では、自分が考える世界へ現実を近づけようとした。

前者には作者の自由があり、後者には公権力と責任が伴う。その違いは決定的である。それでも、「自分の言葉によって現状を動かそうとする」という点では共通するものがあった。

だから石原慎太郎は、政治家になったことで作家でなくなったのではない。

むしろ作家として身につけた発信の方法を持ったまま、政治という別の領域へ入っていった。

そして長い国政経験の末に、その方法を最も大きく使える場所として見つけたのが東京だったのではないだろうか。

東京という巨大な舞台

石原慎太郎を称賛するだけなら、ディーゼル車規制のような実績を並べればよい。

批判するだけなら、新銀行東京や問題発言を並べればよい。

しかし、そのどちらかだけでは、なぜ石原慎太郎という政治家が長期間にわたって東京都民から選ばれ続けたのかも、なぜ同時にこれほど強い批判を受け続けたのかも説明できない。

政策を前へ動かす決断力と、独断的になり得る危うさ。

複雑な問題を理解しやすくする発信力と、現実を単純化してしまう危険。

既存制度に挑戦する姿勢と、制度的な慎重さを軽視する可能性。

石原政治では、こうした長所と短所が別々に存在していたのではなく、しばしば同じ性質の裏表として現れた。

だから評価が割れる。

そして、その評価の割れ方そのものが、石原慎太郎という人物の特徴だったともいえる。

23歳で『太陽の季節』によって世間を騒がせた若い作家は、その後も長いあいだ文章を書き続けた。

同時に政治家になり、国会へ入り、閣僚を務め、総裁選にも挑み、一度は政治の世界を去った。

そして66歳で再び東京という場所に立った。

そこには日本最大の人口と企業集積があり、巨大な行政組織があり、テレビカメラがあり、国政へ届く影響力があった。

「東京から日本を変える」という言葉ほど、石原慎太郎がなぜ東京都知事という職を選んだのかを簡潔に表したものはない。

東京は地方自治体でありながら、日本そのものに向かって語ることのできる場所だった。

言葉によって社会を刺激してきた作家にとって、これほど大きな舞台はなかったのだろう。

石原慎太郎にとって東京とは、最後に見つけた巨大な原稿用紙だった、と表現することもできる。

ただし、小説と違って、その原稿用紙の上には一千万人を超える人々が実際に生活していた。

石原慎太郎の政治を評価するとき、最後まで忘れてはならないのは、おそらくその違いなのである。

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2026年2月8日の夜、岩手3区の選挙結果は、一人の政治家の敗北というだけでは片づけにくい光景をつくった。

1969年、27歳で初当選して以来、半世紀を超えて国会に議席を持ち続け、2024年には19回目の当選を果たした小沢一郎が、自民党の藤原崇に敗れた。2021年にも小選挙区では初めて藤原に敗れたが、そのときは比例代表で議席をつないだ。2024年には再び岩手3区を奪い返したものの、20回目の当選を目指して中道改革連合から立候補した2026年の総選挙では、小選挙区で敗れ、比例代表でも議席を得られなかった。83歳だった。

その長い政治生活を振り返ると、一人の政治家の履歴というより、日本の政党政治そのものが何度も形を変えてきた時代の地層を眺めているように感じられる。

小沢は政権をつくった。大きな政党もつくった。自民党を下野させ、野党をまとめ、自民党と連立を組み、その自民党を再び政権から引きずり下ろす流れにも中心人物として関わった。それなのに、小沢が力を注いでつくった政治的な器の多くは、やがて分裂するか、消えていった。

そのため、小沢一郎には「剛腕」と並んで「壊し屋」という言葉が付きまとってきた。

しかし、40年近い政界再編を一続きの歴史として眺めると、単に人間関係を壊し続けた政治家という説明では足りない。

むしろ、小沢は政党を壊すことそのものを目的にしていたのではなく、自分が正しいと考える政治の仕組みを実現するためなら、政党という器を取り替えることをためらわなかった政治家だった、と考えた方が理解しやすい。

そして、その考え方こそが、彼を何度も政権の設計者にし、同時に「壊し屋」と呼ばれる原因にもなった。

「剛腕」は自民党を壊すために生まれたのではない

小沢一郎という名前が全国的な権力政治と結びついて語られるようになったのは、1980年代の自民党である。

この時代の小沢は、後年のような反自民の政治家ではなかった。むしろ自民党の中枢にいた。

田中角栄のもとで政治を学び、竹下登、金丸信らと行動し、1985年には田中派内部から生まれた創政会の形成に関わった。その流れは1987年の竹下派・経世会へとつながっていく。田中派という巨大な組織の内部で新しい多数派をつくり、権力の重心そのものを動かしていった経験は、後年の小沢政治を考えるうえで重要である。

1989年8月、小沢は自民党幹事長に就任した。47歳だった。その後も1991年4月まで三期にわたって幹事長を務めている。自民党幹事長は、単なる党務の責任者ではない。候補者の擁立、選挙区の調整、党の資金、国会対策、派閥間の調整など、政党という巨大組織を実際に動かす仕事が集中する役職である。

ここで小沢が身につけたのは、演説によって人々を熱狂させる政治とは少し違った。

政治理念を実現するには議席が必要であり、議席を得るには候補者を立てなければならず、候補者を当選させるには組織と資金と選挙戦術が要る。そして最後には、国会の中で過半数をつくらなければ政策を実現できない。

政治とは理念であると同時に、数でもある。

田中角栄の政治を間近に見ながら、小沢はその現実を徹底して学んだ。

皮肉なのは、自民党という巨大な政党の中で覚えたその技術を、数年後には自民党そのものを政権から降ろすために使うことになる点である。

小沢が壊そうとしたのは、自民党より「政権交代のない政治」だった

1990年代初頭、日本政治を取り巻く風景は大きく変わっていた。

冷戦が終わり、湾岸戦争では巨額の資金を拠出しながら、日本の国際的な役割をどう考えるべきかという問題が残った。一方、国内ではリクルート事件や東京佐川急便事件などによって政治不信が高まり、自民党内部でも最大派閥だった経世会が分裂していく。

1992年には、小沢と羽田孜らが経世会を離れて独自のグループを形成した。

このころ、小沢が考えていたのは単なる派閥争いだけではなかった。

1993年に出版した『日本改造計画』に象徴されるように、彼は政治家が政策決定の責任を負い、有権者が選挙によって政権を選択し、失敗すれば別の勢力に政権を渡す仕組みを重視していた。小選挙区を軸とする選挙制度と、政権を競い合える二つの大きな政治勢力をつくるという構想は、その後も小沢自身が繰り返し語っている。

この発想に立つと、政党の意味も変わる。

政党は一生所属し続ける家ではない。

政治を実現するための器である。

器が目的を果たせないのであれば、作り替えればよい。

後に小沢が何度も政党を離れ、新党をつくり、さらに別の党へ合流していく背景には、この考え方がある。

もちろん、そこには本人の権力闘争や党内対立もあった。小沢の行動をすべて高尚な制度改革だけで説明するのも現実的ではない。

それでも、自民党という組織を守ることと、政権交代可能な政治をつくることが両立しなくなったとき、小沢が前者より後者を選んだことは、その後の行動を見る限り一貫している。

1993年、小沢は初めて自民党を政権から降ろした

1993年、宮沢喜一内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されると、小沢や羽田らは自民党を離れ、新生党を結成した。

総選挙後、自民党は単独過半数を失う。そこで小沢らが動き、日本新党の細川護熙を首相候補として、社会党、公明党、新生党など八党・会派による非自民連立政権を成立させた。

1955年以来、ほぼ一貫して政権の中心にいた自民党が下野した。

戦後日本政治の大きな転換点だった。

小沢自身は首相にならなかった。

その代わりに、首相をつくった。

この構図は、その後の小沢政治を考えるうえで象徴的である。

自分が表舞台の頂点に立つより、候補者を立て、勢力を組み合わせ、過半数をつくり、政権そのものを設計するところに異常なまでの力を発揮した。

ところが、政権を成立させることと、成立した政権を維持することは、同じ仕事ではなかった。

ここから「剛腕」と「壊し屋」が少しずつ同じ輪郭を持ち始める。

政権をつくる力は、時として政権を不安定にする力にもなった

細川政権を成立させた連立勢力は、「自民党政権を終わらせる」「政治改革を進める」という点では協力できた。

しかし外交、安全保障、税制、社会政策、さらには政権運営そのものについてまで同じ考えを持っていたわけではない。

自民党に代わる政権を一度つくるための合意と、一つの政権として何年も統治するための合意は、似ているようで違う。

小沢は前者を組み立てることには極めて強かった。

だが政治には、その後がある。

予算をつくり、政策の細部を詰め、連立各党の主張を聞き、昨日反対した相手とも翌日には妥協しなければならない。改革の速度を落とさなければ組織がついてこないこともある。

そこで必要になるのは「決める力」だけではない。

時には待ち、譲り、不満を抱えた仲間を同じ船に乗せ続ける力も必要になる。

細川政権は1994年4月に退陣したが、その直接的な背景には政治資金問題などもあり、政権崩壊を小沢一人の責任に帰すことはできない。

続く羽田孜政権についても事情は単純ではない。羽田政権発足直前に新生党などが統一会派「改新」を結成したことに社会党が反発して連立を離れ、羽田内閣は発足時から少数与党になった。約2か月後には退陣に追い込まれるが、ここにも社会党との対立、連立各党の利害、国会の議席構成など複数の要因が絡んでいる。

したがって、「小沢が細川政権や羽田政権を壊した」と単純に言うことは正確ではない。

それでも興味深いのは、こうした政権再編のほとんどの転換点に小沢がいたことである。

政権を誕生させる局面にもいた。

連立の組み替えにもいた。

崩れた後に次の政党をつくる場面にもいた。

小沢自身がすべてを壊したわけではない。しかし、政治が大きく動く場所に小沢が繰り返し現れたことが、「壊し屋」という印象を強くしたのである。

新進党という巨大な実験

非自民連立政権が崩れた後、小沢は諦めなかった。

むしろ、一度の連立では足りないと考えたように見える。

自民党に対抗できる本格的な大政党をつくらなければ、安定した政権交代は実現しない。

その考えの延長線上に、1994年12月の新進党結成があった。

新生党、公明系勢力、旧民社党系などが集まり、衆参両院に多数の国会議員を抱える巨大野党が誕生した。小選挙区を中心とする新しい選挙制度のもとで、自民党と真正面から政権を争うための器をつくろうとしたのである。

理念だけを見れば、小沢が1990年代初めから追っていた構想とよくつながっている。

ところが、大きな党をつくることはできても、その党に一つの政治文化を与えることは容易ではなかった。

旧自民党系、公明系、旧民社党系など、異なる歴史を持つ政治家たちが同居していた。自民党に対抗することでは一致していても、政策や組織運営についてすべてが一致するわけではない。

小沢の強力な指導力は、選挙を戦う場面では武器になったが、同時に「独断的だ」という反発を生む原因にもなった。

1996年の衆議院選挙で新進党は自民党から政権を奪えず、内部対立は深まっていく。

そして1997年12月、小沢党首のもとで新進党は解党へ向かった。

巨大な野党をつくった本人が、その巨大政党を解体する。

「壊し屋」という言葉が、小沢という政治家の代名詞になっていった大きな理由がここにある。

ただ、小沢の側から見れば違う論理もあったのだろう。

政権交代を実現するためにつくった器が、その役割を果たせなくなったのであれば、器そのものを残す理由はない。

問題は、その判断が他の政治家よりはるかに速かったことだった。

自民党を倒した男が、自民党と組んだ

1998年、小沢は自由党を結成した。

そして翌1999年、小渕恵三政権の自民党と連立を組む。

1993年に自民党を飛び出し、その自民党を政権から降ろす中心人物となった男が、わずか6年後には自民党政権に参加した。

この動きを「反自民の政治家」としてだけ見ると、理解しにくい。

しかし、「日本の政治システムを自分の考える方向へ組み替えたい政治家」として見ると、別の景色が見える。

小沢にとって、自民党を倒すこと自体が最終目的ではなかった。

必要なら自民党とも組む。

政策や制度を動かせるのであれば、その組み合わせを選ぶ。

実際、自民・自由両党の連立では、議員定数削減や副大臣・政務官制度、政府委員制度の廃止など国会・政治制度改革が議論された。後に公明党も加わり、自民・自由・公明の三党連立となる。

しかし、その連立も長くは続かなかった。

2000年4月、自民、公明、自由の党首会談で今後の政権運営について合意できず、自由党の連立離脱が決定的になる。一方、連立に残ることを望んだ自由党議員は保守党を結成し、自由党は分裂した。衆議院の公式記録にも、この経過が明確に残されている。

また一つ、小沢が率いた党が割れた。

だが、小沢はそこで政界の中心から消えなかった。

次に目を向けたのは、民主党だった。

自由党を消してでも、より大きな野党をつくる

2003年、小沢の自由党は民主党と合併した。

ここは、小沢政治を語るときに注意が必要なところである。

民主党を小沢がつくったわけではない。

民主党は自由党との合併以前から存在していた。

2003年9月24日、民主党代表の菅直人と自由党党首の小沢一郎が合併協議書に調印し、民主党を存続政党、自由党を解散政党として合併することが正式に決まった。国会の公式資料にも、その形が明記されている。

つまり小沢は、ここでも自分の政党を残すことにはこだわらなかった。

自由党という名前を守るより、自民党と政権を争える大きな野党をつくる方を優先した。

新生党をつくり、新進党をつくり、それを解体し、自由党をつくり、その自由党も民主党へ溶かしていく。

この動きを節操のなさと見ることもできる。

だが別の角度から見れば、政党を政治家の「家」と考えず、政権交代を可能にするための「器」と考えていた一貫性も見えてくる。

そして、この合併から6年後、小沢が長く追い続けた風景が現実になる。

首相にならない男が、二度「首相」に指名された

2006年、小沢は民主党代表に就任した。

翌2007年の参議院選挙では民主党が躍進し、参議院で第一党となる。

ここから、小沢の政治人生には少し奇妙な場面が生まれる。

2007年9月、安倍晋三首相の退陣を受けて後継首相を指名した際、衆議院は福田康夫を指名したが、参議院は小沢一郎を指名した。両院の指名が一致せず、両院協議会でも合意できなかったため、憲法の規定によって衆議院の議決が国会の議決となり、福田が首相になった。

翌2008年9月にも同じことが起きる。

福田内閣の総辞職を受けた首相指名で、参議院では最初の投票で過半数を得た候補がいなかったため、小沢一郎と麻生太郎による決選投票になった。その結果、小沢125票、麻生108票、白票7票となり、参議院は再び小沢を内閣総理大臣に指名した。

しかし衆議院では麻生が指名され、両院協議会でも一致しなかったため、最終的には衆議院の議決が優先され、麻生が首相となった。

小沢一郎は結局、一度も内閣総理大臣には就任しなかった。

それでも、日本の国会の一院からは二度にわたり首相に指名されている。

何人もの首相の誕生や退陣に関わり、自分自身は首相官邸に入らなかった小沢一郎という政治家を象徴する、不思議な史実である。

2009年、小沢が追い続けた政権交代が実現する

小沢が民主党代表として力を入れたのは、再び選挙だった。

地方を回り、候補者を擁立し、自民党の強い農村部にも候補者を立て、選挙区ごとの勝敗を積み上げていった。

かつて自民党幹事長として身につけた選挙の技術が、今度は自民党政権を終わらせるために使われた。

ただし、2009年の政権交代直前に、小沢は民主党代表を退くことになる。

この部分では、二つの政治資金事件を分けて考える必要がある。

2009年3月、西松建設からの政治献金をめぐる事件で、小沢の資金管理団体の会計責任者だった公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、後に起訴された。この問題をめぐる批判が続く中、同年5月、小沢は民主党代表を辞任した。

一方、その後、小沢本人が強制起訴された陸山会事件は、土地購入をめぐる政治資金収支報告書の記載をめぐる別の事件である。

小沢は一審で無罪となり、2012年11月には東京高裁も無罪判決を維持した。検察官役の指定弁護士が上告を断念したことで、小沢本人の無罪が確定した。

したがって、「2009年の秘書逮捕」と「小沢自身が強制起訴された陸山会事件」を一つの事件として扱うのは正確ではない。

それでも、小沢が代表を辞任した後も、民主党の選挙戦における影響力は残った。

2009年8月30日の衆議院選挙で、民主党は308議席を獲得した。選挙前の115議席から193議席を増やす圧勝だった。自民党は119議席にまで減少し、鳩山由紀夫政権が成立した。

1993年の細川政権は、多数の政党が集まった非自民連立だった。

2009年は違った。

民主党という一つの大政党が総選挙で自民党を上回り、選挙によって政権を交代させた。

小沢が1990年代から訴えてきた「政権交代可能な政治」に、最も近い形が実現した瞬間だった。

ところが、その完成したはずの器から、小沢は数年後に自ら出ていくことになる。

なぜ、ようやくつくった民主党まで離れたのか

2009年の民主党政権が小沢政治の一つの到達点だったのなら、その民主党を守り抜く道もあったはずである。

しかし、鳩山由紀夫政権から菅直人政権、野田佳彦政権へと移るにつれて、小沢と党執行部との距離は広がっていった。

決定的な対立となったのが、消費税増税だった。

2012年6月、社会保障と税の一体改革に伴う消費税増税法案の衆議院採決で、小沢らは党の方針に反して反対票を投じた。その後、小沢らは民主党を離れ、7月11日に新党「国民の生活が第一」を結成する。

結党時には衆議院議員37人、参議院議員12人の計49人が参加した。

支持する側から見れば、2009年総選挙で掲げた政策や「国民の生活が第一」という政治理念を守ろうとした行動になる。

一方、批判する側から見れば、ようやく実現した政権交代可能な大政党を再び分裂させた行動になる。

ここでも、小沢に対する二つの評価が同時に成立する。

信念を持っていたから党を出たと見ることもできる。

組織内で妥協できなかったから党を割ったと見ることもできる。

この二つは、必ずしも矛盾しない。

自分が正しいと考える政治構想を政党より上位に置くのであれば、その構想を守る行動は本人にとって一貫していても、組織の側から見れば破壊的になるからである。

小沢は本当に政権を「壊した」のか

ここまで小沢の政治人生を追ってくると、「政権をつくっては壊した」という言葉には強い説得力があるように見える。

しかし、事実関係を公平に見るためには、一度この印象から距離を置く必要がある。

細川政権の退陣を小沢一人の責任にはできない。

羽田政権の崩壊にも、社会党の連立離脱や少数与党という事情があった。

新進党解党には、小沢の党運営への反発だけでなく、異質な政治勢力を一党にまとめたこと自体の難しさがあった。

民主党政権の失敗についても、鳩山政権の基地問題、菅政権期の東日本大震災と原発事故への対応、野田政権下の政策対立など、複数の問題が重なっていた。

それをすべて小沢一郎という一人の政治家に還元することは、政治史として正確ではない。

では、なぜ「壊し屋」という呼び名がこれほど定着したのか。

それは小沢自身がすべてを破壊したからではなく、政治の秩序が壊れ、新しい秩序が生まれる場所に、あまりにも頻繁に小沢がいたからではないだろうか。

自民党が割れたときにもいた。

非自民政権ができたときにもいた。

新進党ができたときにも、その党がなくなるときにもいた。

自由党と自民党が組むときにも、自由党が連立から離れるときにもいた。

民主党が政権を取る過程にも、その民主党が割れる場面にもいた。

これほど何度も政界再編の中心に現れた政治家は珍しい。

その存在そのものが、政治の変化と結びついて記憶されるようになったのである。

なぜ「つくる」ことには強く、「維持する」ことには苦しんだのか

小沢政治を40年という長い時間で見ると、ある特徴が浮かび上がる。

政治が行き詰まった瞬間に、極めて強い。

既存の均衡を壊し、敵と味方を組み替え、候補者を集め、議席を計算し、新しい多数派をつくる。

1993年の細川政権もそうだった。

1994年の新進党もそうだった。

2003年の民由合併もそうだった。

そして2009年の政権交代も、その長い流れの先にある。

ところが、一度新しい秩序ができると、政治に必要な能力は少し変わる。

大きな改革より、毎日の小さな妥協が重要になる。

敵を倒すことより、味方を逃がさないことが重要になる。

100点の政策を実現するより、60点や70点でも同じ組織に人々を残しながら前へ進めることが求められる。

小沢が繰り返し苦しんだのは、この局面だったのではないか。

新しい家を建てる建築家と、完成した家を何十年も修繕しながら維持する管理人には、違う才能が必要である。

小沢一郎は、日本政治でも屈指の政治的建築家だった。

問題を見つければ、壁を動かし、間取りを変え、場合によっては家そのものを建て替えようとした。

だから政治が停滞しているときには、大きな変化を起こすことができた。

しかし一緒に暮らしている人々からすれば、ようやく落ち着いたと思ったところで、また壁を壊されることにもなる。

「剛腕」と「壊し屋」は、別々の性格ではなかったのかもしれない。

同じ能力を、政治を動かした側から見れば剛腕と呼び、動かされた側から見れば壊し屋と呼んだのである。

小沢がつくった政党は消えても、問いは残った

小沢がつくり、あるいは大規模な再編に関わった政党の多くは、現在では存在しない。

新生党は新進党へ合流し、新進党は解党した。自由党は民主党との合併で解散し、「国民の生活が第一」も短期間で別の政党再編へ向かった。

民主党については事情が異なる。小沢がつくった政党ではないが、自由党を率いて合流し、その後、政権交代の器として巨大化していった政治勢力である。その民主党も2012年に政権を失い、その後の分裂と再編を経て、2009年当時の形では存在していない。

政党名だけを追えば、小沢政治は失敗の連続にも見える。

しかし制度の側を見ると、もう少し複雑である。

1990年代の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、政党同士が総選挙で政権を争う仕組みは、それ以前より明確になった。2009年には実際に総選挙による本格的な政権交代が起きた。

小沢自身も後年、1993年と2009年の二度の政権交代を、自らが長年求めた政権交代可能な議会制民主主義の文脈で語っている。

ただし、現在の日本政治に見られる「官邸主導」までを、小沢一郎の改革の成果だと考えるのは行き過ぎである。

首相官邸機能の強化には、橋本龍太郎政権以降の中央省庁再編や内閣機能強化など、別の制度改革も大きく関わっている。

小沢が強く主張してきた政治主導、政権交代、国会改革という問題意識の一部がその後の政治に残った、と考える程度が妥当だろう。

そして何より、小沢が思い描いた安定的な二大政党政治が完成したとは言い難い。

選挙制度は変わった。

2009年には政権も交代した。

それでも野党はその後、分裂と再編を繰り返している。

ここに小沢政治の大きな限界があったのかもしれない。

制度を変えることはできる。

選挙制度を変えれば、政治家の行動もある程度変わる。

しかし、政治家同士の信頼や政党文化までは、法律だけではつくれない。

同じ党に長くとどまり、意見の違う相手と妥協し続ける習慣もまた、政治制度とは別の時間をかけて形成される。

政治を制度設計の問題として考え続けた小沢が、最後まで完全には解けなかった問題がそこにあったのではないだろうか。

2026年、小沢一郎の敗北が映したもの

2026年2月8日の総選挙で、小沢一郎は岩手3区の議席を失った。

岩手県選挙管理委員会の記録にも、この日に第51回衆議院議員総選挙が行われたことが残っている。岩手県議会でも、その後、岩手3区で藤原崇が小沢を破った結果が取り上げられた。

1969年に始まった小沢の国会議員生活は、19回の当選を重ねたところで、少なくとも一度途切れることになった。

だが、小沢一郎という政治家を当選回数だけで評価するのは難しい。

彼が若手議員だったころ、日本政治には自民党が政権を担い続けることを前提とした空気があった。

その自民党を割った。

非自民政権をつくった。

それが崩れれば、今度は自民党に対抗する巨大政党をつくった。

うまくいかなければ解体し、また別の党をつくった。

自民党とも組んだ。

再び離れた。

最後には自由党そのものを解散させ、民主党へ入り、2009年の政権交代へつながる大きな流れをつくった。

この歩みを、すべて改革の信念だったと美化する必要はない。

強引な党運営への反発もあった。

権力闘争もあった。

小沢の判断によって亀裂が深まった政治局面もあった。

同時に、すべてを「壊し屋の身勝手」で説明するのも、40年の政治史を単純化しすぎる。

小沢一郎にとって、政党は守ること自体が目的となる故郷ではなかった。

政治を変えるための乗り物だった。

だから、その乗り物が目的地へ向かわないと判断すると、別の乗り物へ移った。

必要なら新しいものをつくり、場合によっては自分がつくったものさえ壊した。

普通の政治家は、自分が所属する党の中で権力の頂点を目指す。

小沢は少し違った。

自分が首相にならなくても、首相を生み出す政治状況をつくった。

実際には一度も首相官邸の主にならなかったにもかかわらず、参議院からは二度、内閣総理大臣に指名された。

政権を取ることだけが目的なら、もっと早く自ら首相を目指したはずだ。

一つの党で出世することだけが目的なら、自民党から出なかった方が合理的だったかもしれない。

自分の名前を残す政党を政治的遺産にしたいのであれば、新進党や自由党をもっと長く維持する道もあっただろう。

それでも小沢は、何度も器を替えた。

その結果として、日本政治には多くの瓦礫も残った。

同時に、政権交代という、それ以前には現実感の薄かった風景も一度は現実のものとなった。

だから、小沢一郎の40年を最後に問い直すとき、「なぜこれほど政党を壊したのか」という問いだけでは足りない。

むしろ問うべきなのは、別のことなのだろう。

小沢一郎は、何を完成させようとしていたのか。

自民党を倒すことだったのか。

二大政党政治をつくることだったのか。

政治家が官僚機構を主導する政治だったのか。

あるいは、有権者が選挙によって政権そのものを選び、失敗すれば取り替える政治だったのか。

その答えは一つではない。

ただ、その問いをたどっていくと、「剛腕」「壊し屋」と呼ばれた一人の政治家の向こう側に、政権交代を可能にしながら、それを安定した政治文化として定着させることには成功しなかった、日本政治そのものの40年が見えてくる。

おそらく小沢一郎という政治家の最も大きな意味は、そこにある。

彼が壊したものだけを見るのでもなく、彼がつくったものだけを見るのでもない。

つくろうとした政治と、実際に残った政治との距離を眺めること。

その距離の中にこそ、「剛腕」の40年を読む本当の面白さがあるのである。

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総理にならなかった最高実力者・金丸信はなぜ日本政治を動かせたのか

日本政治において、最も力を持つ人物は誰か。

そう問われれば、普通は内閣総理大臣と答えるだろう。閣僚を任命し、政府を代表して外交を行い、衆議院の解散を決定する政治過程でも中心的な位置を占める。その権限だけを見れば、総理大臣こそ政治権力の頂点にいる。

ところが、昭和の終わりから平成の初めにかけて、この常識だけでは説明しきれない政治家がいた。

金丸信である。

建設大臣、防衛庁長官、自民党幹事長、副総理、自民党副総裁まで上りつめながら、彼はついに総理大臣にはならなかった。それでも一時期の日本政治では、「次の総理を誰にするのか」という、本来なら総理大臣を目指す政治家たちが争うはずの問題について、金丸の判断が決定的な意味を持った。

不思議なのは、金丸が総理になれなかったことではない。

むしろ考えるべきなのは、なぜ総理にならなくても、日本政治の最高実力者と呼ばれるほどの力を持てたのかということである。

その答えをたどっていくと、金丸信という一人の政治家の人物像を越えて、いまではかなり姿を変えてしまった「昭和型自民党政治」の構造そのものが見えてくる。

総理候補が「お願い」に行った時代

金丸信の権力が最もわかりやすい形で現れたのは、1991年の自民党総裁選だった。

海部俊樹首相の退陣が決まり、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博らが後継総裁を争った。このとき自民党最大派閥だった竹下派、正式名称を経世会という巨大集団が誰を支持するかによって、勝敗は大きく左右される状況になっていた。

そこで起きたのが、後に「小沢面談」と呼ばれる場面である。

宮沢、渡辺、三塚という総裁候補たちが、竹下派会長代行だった小沢一郎と個別に面談した。総理を目指す政治家が、自分より若い一派閥の幹部を訪ね、政権構想を説明する。その光景そのものが、当時の自民党において最大派閥がどれほど大きな力を持っていたかを物語っていた。

そして、この話にはさらに興味深い続きがある。

小沢一郎が後年語ったところによれば、三人との面談が終わった後、小沢は金丸信、竹下登とともに誰を支持するかを話し合った。そこで三人はいったん、宮沢ではなく渡辺美智雄を支持することで一致したという。金丸自身も「それではミッチーにするか」と同意し、その日の結論は渡辺支持だったと小沢は回想している。

ところが翌朝、金丸は竹下と小沢を再び呼び出した。

そして前日の結論を覆し、「宮沢にしてくれ」と頼んだという。

なぜ金丸が一夜にして判断を変えたのか。その理由について小沢自身も真相は分からないと語っているため、そこから先を史実として断定することはできない。しかし重要なのは、理由ではない。

竹下派が誰を支持するのかという最終局面で、金丸の判断がそれほど大きな意味を持っていたという事実である。

竹下と小沢を含む派閥中枢がいったん渡辺支持で一致しても、翌朝に金丸が宮沢支持を求めれば、結論そのものが動いた。そして竹下派は宮沢支持へと進み、宮沢は総裁選に勝利して首相となった。

ここには、現在の政治感覚では少し理解しにくい光景がある。

総理になりたい人物が、総理経験者の許可を求めていたのではない。総理経験のない金丸信が率いる巨大派閥の判断が、誰が総理になるのかを左右していたのである。

つまり金丸の力は、憲法にも法律にも書かれていなかった。

それでも現実の政治を動かした。

なぜなら当時の自民党では、政治権力のかなりの部分が首相官邸だけではなく、「党」と「派閥」の中にも存在していたからである。

金丸を強くしたのは、金丸だけではなかった

金丸信は1958年の衆議院議員総選挙で初当選し、その後、建設大臣、国土庁長官、防衛庁長官などを歴任した。1984年には自民党幹事長となり、1986年の第3次中曽根内閣では、内閣法第9条に基づいて首相に事故があった場合などに職務を代行する国務大臣、いわゆる副総理に指定された。

だが、こうした肩書だけを追っても、金丸の本当の力は見えてこない。

重要なのは、彼が政治家として成長した時代の選挙制度である。

当時の衆議院選挙では、一つの選挙区から複数の議員を選ぶ中選挙区制が採用されていた。自民党が一つの選挙区で複数議席を獲得しようとすれば、同じ選挙区に自民党候補を複数立てることになる。すると奇妙な競争が起きる。同じ自民党でありながら、候補者同士が票を奪い合わなければならないのである。

政党も大きな政策の方向も同じなら、候補者は別の違いを有権者に示さなければならない。そこで重要になったのが、個人後援会であり、地元との結びつきであり、政治資金であり、そして派閥だった。

派閥は単なる政治家同士の親睦団体ではなかった。選挙で候補者を支援し、政治資金を集め、党内人事や閣僚人事をめぐって所属議員を後押しし、総裁選になるとまとまった票を提供する。

議員にとって派閥は、自分の政治生命を支えてくれる組織だった。

そして派閥領袖にとって所属議員は、自分の政治力を数字として示す存在だった。

つまり、金丸が強かったから派閥が強くなっただけではない。

派閥が力を持ちやすい政治制度が存在し、その制度の中で人と金と人事を動かす方法を金丸が誰より深く理解していたから、金丸は強くなったのである。

ここを見落とすと、金丸信は「裏で政治家を操った怪物」という人物伝で終わってしまう。

しかし実際には、金丸は当時の政治制度が生み出した権力の流れを、驚くほど正確に読んでいた政治家だったと考えた方が理解しやすい。

田中角栄から受け継いだ「数」の政治

その政治を金丸に教えた巨大な存在が、田中角栄だった。

田中派は1970年代から1980年代前半にかけて自民党最大級の派閥となり、田中本人が首相を退いた後も大きな影響力を保ち続けた。

田中政治の核心にあったものは、華麗な演説や抽象的な理念だけではない。

政治では、最後には数が必要になる。

総裁選で何票あるのか。国会で法案を成立させるために何人を動かせるのか。大臣や党幹部を何人送り込めるのか。そして選挙になったとき、仲間を何人当選させられるのか。

数を持っている者は、他の派閥と交渉できる。数を持たない者は、どれほど立派な政策を語っても、最後には誰かの協力を求めなければならない。

金丸は、その単純で冷徹な原理を知っていた。

しかし1980年代半ばになると、田中派内部にも世代交代を求める動きが強くなる。竹下登を中心としたグループは1985年に創政会を結成し、その後、田中派は大きく揺れる。そして1987年、竹下登を中心に経世会、いわゆる竹下派が発足した。

竹下が首相になると、金丸は経世会会長となる。

ここで金丸は、田中角栄とは少し違う位置に立った。

田中角栄は自ら総理大臣になり、その後も巨大派閥を背景に政界へ強い影響を及ぼした。

ところが金丸は、総理大臣にならないままキングメーカーになったのである。

この違いは小さいようでいて、実は大きい。

総理になれば、自分自身が政権の責任者になる。経済が悪くなれば批判され、選挙に負ければ退陣を迫られ、政策判断をするたびに支持する者と反対する者が生まれる。

一方、キングメーカーは自ら政権の看板にならずに、政権形成へ大きく関与することができる。

もっとも、ここから「金丸は総理になるより裏から動かす方が得だと計算していた」とまで断定することはできない。

ただ、金丸が結果として手にしたのは、総理大臣とは異なる種類の権力だった。

自分が総理になるのではなく、誰を総理にするのか。

金丸の政治人生が最終的に到達した場所は、そこだった。

「自分がなる」より「誰をならせるか」

もちろん、「金丸が望めば簡単に総理になれた」と考えるのも行き過ぎだろう。

自民党総裁になるには他派閥との関係、年齢、世論、政治的なタイミングなど多くの条件があり、最大派閥の実力者だから自動的に総理になれるわけではない。

しかし小沢一郎は後年、金丸について興味深い証言を残している。

小沢の回想では、金丸は自分自身がトップに立つことを強く望む人物ではなく、若い議員であっても意見を聞き、納得すれば受け入れる人物だったという。

これは小沢という金丸に近かった政治家から見た人物像であって、それ自体を客観的事実として一般化することはできない。しかし、金丸の政治行動を理解する手掛かりにはなる。

彼が得意としていたのは、自分が舞台中央に立って拍手を浴びること以上に、人と人の間に立つことだった。

対立する派閥をつなぐ。若手を引き上げる。国会運営の落としどころを探す。総裁候補の力関係を読み、最後に誰へ票をまとめるかを決める。

それは政策を細部まで設計する政治家というより、政治という巨大な人間関係を動かす政治家の姿だった。

金丸が何度も自民党国会対策委員長を務め、後に幹事長まで上りつめたことも、この政治スタイルと無関係ではない。

国会対策とは、正論を述べれば仕事が終わる場所ではない。与党と野党、政府と党、派閥と派閥の間で妥協点を探し、「ここまでなら相手が受け入れる」という境界を見極める世界である。

そこで必要になるのは、法律や政策についての知識だけではない。

人間を読む力である。

誰が何を欲しがっているのか。誰と誰が対立しているのか。どこまで譲れば相手の顔が立つのか。そして今日の譲歩や恩義が、数年後の政治でどのような関係になって返ってくるのか。

金丸の政治とは、人間関係を長い時間軸で読む政治でもあった。

だからこそ彼には、肩書そのものを越えた力が生まれた。

金と人事が一つの回路につながっていた

だが、ここから金丸政治のもう一つの顔が現れる。

人を束ねるには選挙を支えなければならず、選挙を支えるには金がいる。派閥が議員の選挙や昇進を支援する制度の中では、「数」と「金」は切り離すことができない。

金丸は建設行政との関係が深い政治家でもあり、1972年には田中角栄内閣で建設大臣を務めた。その後、政界での影響力を増していくにつれて、建設会社を含む企業などから多額の政治献金が金丸周辺へ集まるようになっていったことは、後の事件や裁判を通じても明らかになっている。

ただし、ここで注意しなければならない。

建設業界との関係が深かったことと、個々の公共事業が献金の直接的な見返りとして決められたとすることは、同じ意味ではない。根拠のない因果関係まで広げれば、歴史分析ではなく推測になってしまう。

それでも、当時の自民党政治において政治資金と派閥が密接に結びついていたことは重要である。

派閥には所属議員の選挙を助け、人事を調整し、組織を維持する役割があった。そのためには莫大な政治資金が必要になる。一方、企業側にも政治との関係を維持しようとする動機があった。

企業や支援者から政治へ資金が流れ、その資金によって議員の選挙や政治活動が支えられ、議員は派閥へ所属し、その人数が総裁選や党内人事で派閥領袖の力になる。

こうして金と人と票が、一つの循環をつくる。

その循環の中央に立つ人物ほど強くなる。

金丸の権力は、その回路の中で膨張した。

だからこそ後に明らかになる政治と金の問題も、一人の政治家の蓄財問題だけでは終わらなかった。それは、戦後日本の長期政権を支えてきた政治資金と派閥の仕組みそのものへの疑問へと広がっていったのである。

外交まで「個人のパイプ」が動かした

金丸の政治手法は国内だけにとどまらなかった。

1990年9月、金丸は自民党代表団を率い、社会党の田辺誠らとともに北朝鮮を訪問して金日成主席と会談した。

この訪朝を契機として、長く抑留されていた第18富士山丸の日本人船員が帰国し、その後の日朝国交正常化交渉へつながる流れが生まれた。

ここにも金丸政治の特徴がよく表れている。

本来、外交を担うのは政府である。

ところが政府間関係が動かないとき、政党間交流や政治家同士の人的関係が別の通路をつくることがある。制度が動かないなら、人間関係から動かしてしまう。

金丸は、国内政治でも外交でも、この種の政治を得意としていた。

現代から見れば、こうした方法には危うさもある。

外交政策がどのような手続きで決まり、誰が責任を負うのかが曖昧になりやすいからである。その一方で、正式な政府間交渉だけでは解決できなかった問題に政治家同士の接触が突破口をつくることもある。

金丸政治には、この二面性が常につきまとっていた。

制度から見ると不透明である。

しかし、その不透明な人間関係だからこそ、公式の制度だけでは動かないところを動かす場合がある。

その便利さと危険さは、ほとんど同じ場所から生まれていた。

頂点からの転落は、あまりにも突然だった

その巨大な権力は、1992年に崩れ始める。

東京佐川急便から金丸側への5億円の献金問題が発覚し、金丸は自民党副総裁を辞任した。政治資金規正法違反で略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けたが、問題となった金額の大きさに比べ処分が軽すぎるという世論の強い反発が起きた。

金丸はその年の10月、衆議院議員を辞職する。

翌1993年には脱税容疑で逮捕され、巨額の所得を隠したとして所得税法違反で起訴された。裁判は続いたが、金丸は公判中の1996年に死去し、公訴は棄却された。

しかし政治史として重要なのは、一人の大物政治家が失脚したことだけではない。

金丸の退場を契機として、それまで最大派閥の内部に存在していた亀裂が急速に表面へ現れた。

ただし、ここを「金丸がいなくなったから竹下派が割れた」と単純化するのは正確ではない。

竹下派内部では、金丸の後を誰が率いるのかという後継問題に加え、政治改革をどのように進めるのか、小沢一郎らの改革志向と旧来型の党運営を重視する勢力との関係をどうするのかという路線対立が重なっていた。金丸という巨大な調整役が退場したことで、それまで一つの派閥の内部に押し込められていた複数の対立が、一気に政治問題として噴き出したと見る方が実態に近い。

小沢一郎、羽田孜らのグループは、竹下登、小渕恵三らの側と袂を分かち、新たな政策集団を形成する。

その対立はやがて派閥内部だけでは収まらなくなった。

1993年、政治改革をめぐる宮沢政権への不信任決議案に自民党の一部議員が賛成し、衆議院は解散される。総選挙後、小沢、羽田らは自民党を離れて新生党を結成し、細川護熙を首相とする非自民連立政権の成立へとつながっていった。

したがって、金丸一人が消えたことで自民党政権が崩壊したわけではない。

しかし、金丸の失脚が、それまで巨大派閥の内部で抑えられていた後継争いと路線対立を表面化させる重大な契機になったことも確かである。

その意味では、金丸の権力は彼が力を持っていたときだけでなく、彼がいなくなった後にまで、その大きさを示したと言える。

金丸事件だけが政治改革を生んだわけではない

金丸信の失脚から1994年の政治改革へと歴史を一直線につなぐと、話は分かりやすくなる。

しかし、歴史はそれほど単純ではない。

日本政治で「政治と金」が大きな問題となり、選挙制度や政治資金制度を変えるべきだという議論が本格化したのは、金丸事件から突然始まったわけではなかった。

1980年代末にはリクルート事件が政治を揺るがし、政治家と企業との関係、政治資金の透明性、派閥政治の弊害に対する国民の不信はすでに強くなっていた。その流れの中で政治改革は自民党内でも大きな課題となり、海部政権、宮沢政権へと持ち越されていた。

そこへ東京佐川急便事件と金丸問題が起きる。

巨額の政治資金をめぐる問題と、それに対する司法処分への国民の強い不満は、それ以前から存在していた政治不信をさらに深刻なものにした。

つまり、金丸事件が政治改革をゼロから生み出したのではない。

すでに燃えていた政治改革への要求に、大量の油を注いだ事件の一つだったのである。

そして1993年には政治改革をめぐって宮沢政権が行き詰まり、自民党が分裂して政権を失う。細川護熙を首相とする非自民連立政権は政治改革を最重要課題に掲げ、与野党の激しい交渉を経て、1994年に政治改革関連法が成立した。

衆議院選挙は、それまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へ移行する。

政治資金制度も改められ、政党を中心とする政治へ制度の重心が移っていった。

この変化が、その後の自民党政治の権力構造を大きく変えていくことになる。

なぜ「金丸信のような政治家」は生まれにくくなったのか

1994年の政治改革は、金丸信という一人の政治家を消すために行われたものではない。

しかし結果として、金丸のような政治家が力を持つための土壌の一部を弱めることになった。

中選挙区制では、一つの選挙区で自民党候補同士が競争する。そのため候補者は、自分を支えてくれる派閥の資金や組織を必要とした。

ところが小選挙区制では、一つの選挙区から原則として一人の自民党候補しか公認されない。

すると政治家にとって重要になるのは、派閥がどれほど支援してくれるかだけではなく、まず党から公認を得られるかどうかになる。

その結果、候補者公認を握る党執行部、そして自民党総裁の力が相対的に大きくなる。

さらにテレビ政治の発達、世論調査の影響力増大、政党助成制度の導入などが重なり、政治資金、人事、選挙のすべてを一つの派閥領袖が握ることは以前より難しくなっていった。

この変化を逆から眺めれば、金丸信がなぜあれほど強かったのかがよく分かる。

金丸が超人的だったからだけではない。

中選挙区制があり、派閥が選挙を支え、派閥領袖が人事に大きな影響を持ち、政治資金が派閥を通じて所属議員を支え、総裁選では派閥単位の票が勝敗を左右する。

そのいくつもの制度と慣行の交差点に、金丸信が立っていたのである。

彼はその交差点で、誰より巧みに交通整理をした。

だから自分自身が常に車を運転していなくても、どの車をどの方向へ走らせるのかに影響を及ぼすことができた。

金丸信とは何者だったのか

金丸信を評価するのは難しい。

「政界のドン」という言葉だけで英雄視すれば、政治と金をめぐって起きた重大な問題が消えてしまう。

逆に「金権政治家」の一言だけで片づければ、なぜその人物が三十年以上にわたって政治の中心に近づき、最後には総理大臣を選ぶほどの影響力を持ったのかを説明できない。

金丸は、昭和型自民党政治の異常な例外だったのではない。

むしろ、その仕組みが持っていた特徴を極端なほど鮮明な形で体現した政治家だったのではないだろうか。

政治を理念だけではなく、数で見る。

数を維持するために人を育てる。

人を育てるために選挙を支える。

選挙を支えるために政治資金を集める。

そして、その数を使って人事を動かし、総裁選を動かし、政権形成に影響を及ぼす。

こうした循環を動かす能力において、金丸は抜群だった。

しかし、その循環が強くなりすぎれば、やがて「誰が正式な権限を持っているのか」が見えにくくなる。

選挙によって国会議員となり、国会によって指名された首相がいる。その一方で、法律上は首相を指揮する権限など持たない派閥の実力者が、首相候補の選定や党内人事に大きな影響を及ぼす。

制度上の権力と、現実に政治を動かす権力が一致しなくなるのである。

金丸政治の強さは、そのまま金丸政治の危うさでもあった。

そして金丸が失脚すると、その人物によって調整されていた巨大派閥の内部対立が表面化し、自民党の分裂と政界再編へつながっていった。

同じ時期、リクルート事件以来積み重なっていた政治不信に佐川急便事件などが重なり、日本政治は選挙制度と政治資金制度そのものを改める大きな政治改革へ向かっていく。

そう考えると、金丸信の人生には奇妙な歴史の皮肉がある。

彼は総理大臣にはならなかった。

それでも総理大臣をつくる側に立った。

1991年には、渡辺美智雄で一度まとまったとされる最大派閥の判断を、自ら翌朝に宮沢喜一へと変えたという証言さえ残っている。

総理になった人物の名前は歴代首相一覧に残る。

しかし、誰をその一覧に載せるのかを決める政治家が、その背後にいた時代もあったのである。

金丸信が政治の頂点近くにいたころ、日本政治の権力の中心は、必ずしも首相官邸だけにあったわけではなかった。

派閥事務所にあり、議員会館にあり、料亭での会合にあり、ときには一本の電話や、政治家同士の長年の人間関係の中にあった。

法律には書かれていない権力である。

だからこそ強く、だからこそ見えにくかった。

そして一度その仕組みが崩れ始めると、その下から政治資金と派閥、人事と選挙、企業と政治を結んできた昭和型自民党政治の骨組みまでが姿を現した。

「総理にならなかった最高実力者」という金丸信の奇妙な肩書は、一人の政治家を表しているだけではない。

それは、総理大臣という肩書を持たなくても、総理大臣を選び、政権の行方に影響を与えられる政治構造が、日本に実際に存在したことを示している。

そして金丸信という政治家を理解することは、その人物の栄光と転落を眺めることではない。

総理大臣よりも目立たない場所にありながら、ときに総理大臣以上の影響力を発揮する権力とは何なのか。

昭和から平成へ移る日本政治の境目で、金丸信はその問いを、最も極端な形で残した政治家だったのである。

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1989年7月23日の夜、日本の政治で、それまで動かないと思われていたものが大きく揺れた。

第15回参議院議員通常選挙で、日本社会党は46議席を獲得し、自由民主党の36議席を上回った。社会党は改選第一党となり、自民党は参議院で単独過半数を失った。1955年の結党以来、多少の浮き沈みを経験しながらも日本政治の中心にあり続けてきた自民党優位の政治構造に、明らかな亀裂が走った選挙だった。

その中心にいたのが、日本社会党委員長の土井たか子である。

選挙後の土井を象徴する言葉は、やがて一つの短い表現に凝縮されて人々の記憶に残った。

「山が動いた」。

政治家の言葉の多くは、その選挙が終われば消えていく。ところが、この言葉だけは1989年という時代を説明する言葉として生き残った。

なぜだったのだろう。

そこには、社会党が一度の選挙に勝ったというだけでは説明できないものがある。昭和が終わり、平成が始まったばかりの日本で、それまで政治の中心に見えにくかった人々が、自分たちにも政治を動かせるのではないかと感じた瞬間があった。そして土井たか子という政治家は、その期待を不思議なほど鮮明に背負う人物になったのである。

政治家になる予定ではなかった憲法学者

土井たか子は、最初から職業政治家として人生を設計した人物ではなかった。

1928年に神戸で生まれ、同志社大学で法律を学び、大学院を経て大学で憲法を教えた。1969年の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補して初当選するまで、彼女の立っていた場所は永田町ではなく、憲法を研究し、学生に教える教室だった。

その出発点は、その後の政治家としての土井を理解するときに重要である。

護憲を中心に据え、安全保障や原子力政策などでも明確な立場を取り続けた土井の政治思想には当然、賛否がある。しかし彼女は、時代の風向きに合わせて器用に立ち位置を移す政治家ではなかった。一度、自分にとって原則だと考えたものを簡単には手放さない。その頑固さが支持者には信頼として映り、反対する人には硬直性として映った。

後から振り返れば、それは土井たか子という政治家の強さであると同時に、限界にもなっていく。

ところが、そんな憲法学者出身の政治家が、やがて日本政治でも屈指の「言葉を持つ政治家」になる。

「やるっきゃない」。

「ダメなものはダメ」。

いずれも政策論として精密な言葉ではない。むしろ精密さの反対側にある。

それでも強かった。

政府や政党が長い説明を重ねるより、「この人は何に怒っているのか」「何には譲らないのか」が一瞬で伝わったからである。本人自身は、こうしたキャッチフレーズが独り歩きすることを必ずしも好んでいなかったと、後に土井を取材した記者は記している。

考えてみれば不思議な人生である。

憲法を教えていた大学講師が、難しい法律用語ではなく、誰にでも覚えられる短い日本語によって国民的人気を得たのである。

敗北した社会党が選んだ女性党首

1986年、土井は日本社会党の委員長に就任する。

この人事は、勢いに乗る政党が新しい時代を先取りして女性を党首に据えた、という華やかな話ではなかった。

むしろ逆だった。

社会党は同年の衆参同日選挙で大敗し、戦後長く自民党と対峙してきた最大野党としての存在感を失いつつあった。労働組合を中心とした強固な支持基盤を持ってはいたものの、高度経済成長によって生活が変わり、会社員が増え、都市化が進んだ日本社会に対して、従来の社会党の言葉が届きにくくなっていた。

その危機のなかで、土井は委員長になった。

国会に議席を持つ政党のトップに女性が就いたのは、憲政史上初とされる。後に女性初の衆議院議長にもなる土井だが、最初の「女性初」は、政党が追い詰められた場所から始まっていた。

そこには少し皮肉な構図も見える。

組織が安定している間は従来の男性中心の秩序が維持され、行き詰まったときになって初めて、それまでとは違う人物が前面に出てくる。

しかし、社会党が単に「女性だから目新しい」と考えて土井を利用しただけなら、その後に起きた現象までは説明できない。

委員長になった土井は、党の看板を変えただけではなかった。

それまで政治の中心的な議題として語られにくかった生活の問題を、国会の言葉に変え始めたのである。

委員長就任後の代表質問で、土井は「女は三つの老後を生きなければなりません」と語った。親の老後を支え、夫の老後を支え、その後に自分自身の老後が来る。まだ介護保険制度も存在しなかった時代、家庭の中で女性が当然のように背負っていた介護負担を、個人的な家庭事情ではなく政治の問題として国会に持ち込んだ。

これは土井人気を考えるうえで小さくない。

女性だから女性の問題を扱った、というだけではない。

それまで「家の中のこと」として政治から切り離されていたものを、政治の側へ引きずり出したのである。

1989年、政治への不満が行き場を失っていた

もちろん、土井たか子一人に選挙を動かす魔法があったわけではない。

1989年の自民党政権には、いくつもの逆風が重なっていた。

前年から続いたリクルート事件によって政界と企業の癒着が問題となり、竹下登首相は退陣した。1989年4月には3%の消費税が導入され、家計への新たな負担に対する反発が広がっていた。その後を継いだ宇野宗佑首相にも女性問題が報じられ、政権は発足した時点から強い逆風のなかに置かれた。

つまり、山が突然、自分の意思で歩き出したわけではない。

その下ではすでに地殻変動が始まっていたのである。

政治と金への不信、消費税への反発、長期政権への倦怠感。性質の異なる不満が同時に噴き出したとき、それを受け止める顔として土井たか子がいた。

社会党は1989年参院選で46議席を獲得した。さらに、この選挙では女性候補の躍進が大きな話題となり、後に「マドンナ旋風」と呼ばれることになる。

この選挙で女性当選者は22人。改選された126議席の17.46%を女性が占めた。前回1986年の女性当選者10人から倍以上に増え、日本の国政選挙としては画期的な変化だった。

ただし、「マドンナ旋風」という言葉そのものにも、今から振り返れば当時の社会が映り込んでいる。

女性政治家が多数当選したことを歓迎する一方で、政策や思想を持った一人の政治家としてではなく、「女性候補」という特別な集団として眺める視線があったからこそ成立した呼び名でもある。

女性が政治家であること自体がニュースになった時代だった。

土井たか子は、女性政治家の進出を象徴した人物であると同時に、女性政治家がまだ珍しい存在として見られていた日本の姿を映す人物でもあった。

なぜ土井たか子は国民的スターになれたのか

それでも、土井人気を「女性だったから」で説明するのは無理がある。

彼女が登場した1980年代後半は、テレビが国民共通の巨大な窓だった。

インターネットはない。政治家が自分の動画を毎日発信することもない。新聞とテレビが政治家の姿を全国へ届け、夜のニュースで映された数十秒の表情や言葉が、翌日の職場や家庭の話題になる。

そこで強かったのは、一瞬で人物像が伝わる政治家だった。

土井には、それがあった。

よく通る声があり、言葉に歯切れがあり、男性ばかりが並んでいた政治の画面のなかで、遠くからでも分かる存在感があった。「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」といった一般のテレビ番組にも出演し、政治ニュースを熱心に見ない人々にも顔を知られていった。

だが、それだけなら人気タレント型の政治家で終わっただろう。

土井にはもう一つ、奇妙な強みがあった。

彼女は政治家なのに、「政治の外から来た人」に見えたのである。

1989年の時点で初当選からすでに20年近くが経過している。政治経験の浅い新人ではない。それなのに、永田町の専門家としてではなく、永田町へ普通の人々の感覚を持ち込む人物として受け取られた。

政治経験があるのに、政治屋には見えない。

制度を知っているのに、専門用語ばかりで話さない。

国会の内部にいるのに、国会の外側にいる人々の不満を代弁しているように見える。

この距離感こそ、土井たか子という政治家の最大の資産だったのではないだろうか。

人々は彼女を「おたかさん」と呼んだ。

最大野党の党首であり、首相候補にもなり得る政治家なのに、呼び名だけを聞けば近所のよく知っている人のようだった。

権力の中心へ近づくほど、普通の人から遠ざかって見える政治家は多い。

土井は、逆だった。

政治の中心へ近づくほど、「自分たちの側から政治を見ている人」に見えたのである。

「山の動く日」は女性たちの目覚めを歌った言葉だった

そして、あの「山」に戻る。

土井が若いころから愛唱していたとされるのが、与謝野晶子が1911年の『青鞜』創刊号に寄せた『そぞろごと』である。

その冒頭は「山の動く日来る」で始まる。

現在、この冒頭部分だけを取り出して「山の動く日」と呼ばれることも多いが、厳密には『青鞜』創刊号に掲載された作品の総題が『そぞろごと』で、その冒頭の詩が後世、広く知られるようになったものである。そこでは、長い間眠っていた女性たちが目覚め、動き始める姿が「山」に重ねられている。

土井が社会党委員長だったころ、東京・三宅坂の社会党本部にあった委員長室には、「山の動く日」と書かれた額が掲げられていたという。

だから本来、土井にとって「山」は自民党そのものではなかったのだろう。

長い間、政治の中心に十分な場所を持てなかった女性たちであり、政治を自分とは遠いものだと考えていた市民であり、「どうせ政治は変わらない」と諦めていた有権者でもあった。

ところが1989年の大勝によって、この言葉には別の意味が重なっていく。

眠っていた女性が動くという与謝野晶子の山と、動かないように見えた戦後政治の山が、一つの映像になった。

言葉が政治家本人の手を離れ、時代の言葉になった瞬間だった。

女性が首相として指名された日

参議院選挙からわずか半月ほど後、その勢いを象徴する出来事が起きる。

1989年8月9日の内閣総理大臣指名選挙で、参議院は土井たか子を内閣総理大臣に指名した。

一方、衆議院は自民党の海部俊樹を指名した。両院協議会でも一致しなかったため、日本国憲法第67条第2項による衆議院の優越によって、最終的には海部の指名が国会の議決となった。

したがって、土井たか子内閣が成立したわけではない。

しかし、この出来事を「結局首相にはなれなかった」で終わらせると、その歴史的意味を取り逃がす。

1989年の日本で、国会を構成する二つの議院の一方が、一人の女性を内閣総理大臣として正式に指名したのである。

女性首相がまだ遠い未来の話に思われていた時代に、参議院だけを見れば、土井たか子はすでに首相に選ばれていた。

その瞬間、彼女が「日本で最も首相に近づいた女性」だったと表現しても、大きな誇張ではない。

社会党が数年前まで低迷していたことを考えれば、なおさら異例の光景だった。

それでも山は動き続けなかった

だが、政治には残酷な性質がある。

熱狂を得票に変える力と、その得票を持続的な政権基盤へ変える力は同じではない。

社会党は1990年の衆議院議員総選挙でも大幅に議席を増やした。それでも自民党政権を倒すところまでは届かず、翌1991年の統一地方選挙で社会党が敗北すると、土井は委員長を辞任する。

ほんの数年前には衰退政党と思われていた社会党を復活させ、首相指名にまで到達した人物が、驚くほど短い時間で党首の座を去ることになった。

ここに「土井ブーム」の本質と限界が見える。

1989年に社会党へ向かった票は、一枚岩の社会党支持ではなかった。

政治腐敗への怒りがあり、消費税への反発があり、自民党長期政権への倦怠感があり、女性政治家への期待があり、土井本人への好感があった。

異なる場所から流れてきた水が、一時的に同じ低地へ集まったのである。

洪水のような票だった。

しかし洪水は、必ずしも一本の川にはならない。

社会党が本当に政権を担うためには、「自民党に反対する人々」の受け皿であるだけでは足りなかった。安全保障をどうするのか、経済をどう運営するのか、現実の国際関係のなかでどこまで従来の政策を維持するのかという問いに、一つの政権構想として答える必要があった。

しかも、そのころ世界の方が先に変わり始めていた。

1989年にはベルリンの壁が崩れ、東欧の社会主義体制が相次いで崩壊し、米ソ冷戦も終結へ向かう。

戦後日本政治を支えてきた「保守対革新」という対立軸そのものが揺らぎ始めたのである。

土井人気によって一時的に覆い隠されていた社会党の古い問題が、時代の変化とともに再び姿を現した。

土井たか子の長所は、そのまま弱点でもあった

土井は、権力政治の職人というタイプではなかった。

むしろ、そう見えなかったことが彼女の人気を支えた。

原則を語り、生活者の言葉で政治を批判し、曖昧な表現で逃げない。その姿は、派閥、密室協議、根回しによって物事が決まる印象の強かった当時の政治とは鮮明な対照をなしていた。

しかし政権を取る側に回れば、政治に求められるものは変わる。

異なる考えを持つ人々と合意し、政策に優先順位をつけ、財源を割り振り、ときには支持者が望まない妥協もしなければならない。

「ダメなものはダメ」という言葉は、野党政治家としては強い。

だが政府を運営する側は、その次に「では何をするのか」を示さなければならない。

何を認め、何を捨て、誰と組み、どこまで譲るのか。

土井たか子という政治家の魅力と、社会党が本格的な政権政党になり切れなかった問題は、この地点で微妙に重なっていた。

もっとも、その責任を土井一人に帰すのは公平ではない。

安全保障政策、党内の路線対立、労働組合との関係、変わりゆく社会と支持基盤のずれ。社会党が抱えていた問題の多くは、土井が委員長になるはるか以前から存在していた。

むしろ一人の人物の人気によって、衰退過程にあった政党が数年間とはいえ政権をうかがう位置まで戻ったこと自体が異例だった、と見る方が歴史には近いのではないか。

土井たか子は、社会党を救えなかった政治家だったというより、社会党がまだ救えるかもしれないと国民に思わせた最後の政治家だった。

女性初の衆議院議長へ

そして土井の政治人生は、「山が動いた」で終わらない。

1993年の衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を失い、細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立した。

その新しい国会で、土井たか子は第68代衆議院議長に選ばれる。

女性として初めての衆議院議長だった。在任期間は1993年8月6日から1996年9月27日までである。

社会党委員長として自民党と激しく対決した人物が、今度は国会全体を代表し、与党と野党双方を公平に扱わなければならない席に座った。

議長時代には、議員を呼ぶ際の慣例だった「君」ではなく「さん」を用いたことでも知られる。

小さな変更に見える。

だが、いかにも土井らしい。

制度そのものを大声で否定するのではなく、その制度のなかに残っている「なぜ昔からこうなのか分からない慣習」を一つ問い直す。

女性だから特別扱いしてほしい、という話ではない。

そもそも男性ばかりだった時代につくられた慣習を、なぜそのまま続けなければならないのか。

土井たか子の政治には、そうした問い方が一貫していた。

女性政治家が「珍しかった時代」のスターだったのか

土井たか子を振り返るとき、「女性だったから人気が出た」という説明は半分しか当たっていない。

確かに、女性党首という新鮮さは大きかった。

テレビ画面に男性政治家がずらりと並ぶなか、土井はそれだけで目立った。

しかし、珍しいというだけで何年も国民的人気は続かない。

土井が強かったのは、彼女が登場することによって、周囲の政治の古さが逆に見えてしまったからではないだろうか。

男性ばかりの国会。

派閥を中心に動く自民党。

組織中心の社会党。

家庭内で女性が担っていた介護や家事を、政治問題として十分に扱ってこなかった社会。

政治家は政治家の言葉を話し、普通の人々はそれを遠くから眺めている。

その風景の中へ土井が入る。

すると、土井自身が特別に新しいという以上に、その周囲に残っていた「昔からこういうものだ」という政治の姿が古く見えた。

政治家がスターになるとき、その人物一人の能力だけで現象が起きるとは限らない。

社会の方がすでに変わり始めているのに、制度や政治文化だけが取り残されているとき、そのずれを一人で可視化してしまう人物が現れることがある。

1989年の土井たか子は、その位置にいた。

「山が動いた」から36年後、日本に女性首相が誕生した

1989年から36年後の2025年10月21日、高市早苗が衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で指名され、第104代内閣総理大臣に就任した。

日本で初めての女性首相だった。

もちろん、土井たか子と高市早苗の政治思想は大きく異なる。

だから、女性という一点だけで二人の政治を直線的につなぐべきではないだろう。

それでも歴史として眺めれば、不思議な連続性がある。

1989年、参議院は土井たか子を首相として指名した。

しかし衆議院では届かなかった。

それから36年を経て、初めて女性が実際に内閣総理大臣となった。

その翌年である2026年は、日本の女性が国政選挙で初めて選挙権と被選挙権を実際に行使してから80年に当たる。

ここは年月を正確に分けて考える必要がある。

女性の国政参政権は、1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によって制度上認められた。そして翌1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、女性は初めて投票し、立候補した。この選挙では39人の女性衆議院議員が誕生している。したがって、参政権獲得から数えれば2025年が80年、実際の国政選挙での行使から数えれば2026年が80年となる。

80年という時間を置いて眺めると、土井たか子の位置が少し違って見えてくる。

彼女は女性首相になった政治家ではない。

女性政治家が当たり前になった時代の政治家でもない。

女性が大政党の党首になること自体が歴史的事件であり、女性候補が多数当選すれば「旋風」と呼ばれた時代に、その珍しさを弱点ではなく政治的な力へ変えた人物だった。

しかも彼女は、最後まで「女性問題だけを語る女性政治家」にはならなかった。

憲法を語り、外交を語り、税制を語り、介護を語った。

社会党を率い、参議院で自民党を過半数割れに追い込み、参議院から首相に指名され、最後には衆議院議長になった。

その意味では、土井たか子を単に「女性政治家の先駆者」と呼ぶだけでは、少し小さすぎるのかもしれない。

山とは何だったのか

結局、1989年に動いた「山」とは何だったのだろう。

社会党だったのか。

自民党だったのか。

女性だったのか。

おそらく、そのどれか一つではない。

長い間、「政治とはこういうものだ」と考えられてきた常識そのものが山だったのではないか。

政治家は男性である。

政権は自民党が握る。

家庭の問題は家庭で解決する。

普通の市民が政治を動かすことなどない。

その一つ一つは法律に書かれていたわけではない。

それでも社会の中には、岩盤のように存在していた。

だから一つの選挙で社会党が勝っただけなのに、人々はそこに何か巨大なものが動く感覚を見た。

もちろん、山は完全には崩れなかった。

社会党はその後衰退し、土井ブームも終わった。1989年に集まった熱狂が、そのまま新しい政治体制をつくったわけでもない。

それでも、動かなかったことにはならない。

山は、動いた後に元の場所へ戻ることもある。

少しだけ形を変え、その変化が次の時代からは当たり前に見えることもある。

女性が政党の党首になること。

女性が衆議院議長になること。

女性が首相候補として扱われること。

そして、実際に女性が首相になること。

1989年には、そのどれもが現在ほど当たり前には見えなかった。

土井たか子という政治家を今振り返る意味は、彼女の政策に賛成することでも、かつての社会党を美化することでもない。

政治の景色が変わるときには、その変化が起きる少し前に、「こんなことは起きない」と多くの人が思っている。

その固定観念が崩れる瞬間を、一人の政治家が象徴することがある。

1989年の夏、その場所に立っていたのが土井たか子だった。

そして彼女が見た山は、社会党の山でも、自民党の山でもなかったのだろう。

長い間眠っていた人々が、自分たちも政治を動かす側に立てるかもしれないと感じた、その巨大な塊こそが山だった。

「山が動いた」という言葉が今も残っているのは、だからなのかもしれない。

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