地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1993年8月、日本の政治には、それまで当然と思われていた風景が突然崩れるような出来事が起きた。内閣総理大臣になったのは自由民主党総裁ではなく、日本新党代表の細川護熙だった。1955年の自民党結成以来、38年間ほぼ途切れることなく続いてきた自民党政権が終わり、日本にも「政権は交代する」という現実が姿を現したのである。

 ところが、その細川が首相であった期間はわずか263日だった。1993年8月9日に発足した細川内閣は、翌1994年4月28日に総辞職している。政権交代の象徴として華々しく登場した人物が、一年にも満たないうちに首相官邸を去ったことだけを見れば、細川政権は一瞬の政治的熱狂に終わったようにも見える。しかし、その短さを東京佐川急便からの一億円借入問題だけで説明してしまうと、この政権がなぜ生まれ、なぜ急速に力を失ったのかという本当の構造が見えなくなる。

 細川政権の短命さを理解するには、まず1993年の「政権交代」がどのような政権交代だったのかを見なければならない。それは、一つの野党が選挙で圧勝し、自民党を打ち破った政権交代ではなかった。

自民党は敗れたのではなく、過半数を失った

 1993年7月の衆議院議員総選挙で、自民党は223議席を獲得していた。依然として国会第一党である。これに対して日本社会党は70議席、新生党55議席、公明党51議席、日本新党35議席、新党さきがけ13議席などに分かれており、自民党に代わる巨大政党が出現したわけではなかった。

 それでも自民党は政権を失った。自民党自身の分裂によって新生党や新党さきがけが生まれ、そこへ日本社会党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合などが加わったことで、自民党を上回る国会多数派が形成されたからである。正確には、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の7党と、民主改革連合という1会派が連立に参加した。一般には「8党派連立」と呼ばれる政権である。

 ここで興味深いのは、その中で35議席しか持たない日本新党の細川護熙が首相になったことである。議席数だけを考えれば、細川は連立政権の最大勢力の代表ではない。それでも彼が選ばれたのは、むしろ最大勢力ではなかったからだった。

 旧来の自民党政治から一定の距離を置き、熊本県知事を経験し、新党を立ち上げた細川には、「古い政治を終わらせる新しい顔」という象徴性があった。社会党の代表を首相にすれば保守系の新党がまとまりにくく、新生党の中心人物を前面に出せば自民党分裂の延長に見えてしまう。その間に立つ細川は、異質な勢力を一つにまとめるための政治的な接着剤として適した人物だったのである。

 しかし、この構造には最初から矛盾が含まれていた。細川は国民的には政権の顔であっても、自らの党が35議席しかない以上、国会の多数を自分の判断だけで動かす力を持っていなかった。細川政権は「強い首相が率いる多数党政権」ではなく、「異なる政党が細川という象徴の下で一時的に結びついた連立政権」だったのである。

八党派を結びつけた政治改革

 その異質な勢力を結びつける最大の共通課題が政治改革だった。当時の日本政治では、リクルート事件や東京佐川急便事件などを通じて政治と金への不信が高まり、中選挙区制の下で同じ自民党候補同士が競争し、多額の政治資金を必要とする仕組みそのものが問題視されていた。

 細川政権は、選挙制度と政治資金制度を変えることを最優先課題に据えた。しかし、ここで注意しなければならないのは、八党派が政治改革について完全に同じ考えだったわけではないことである。とりわけ社会党内部には小選挙区制への警戒があり、新生党の小沢一郎と新党さきがけの武村正義との間にも、選挙制度だけでなく、その先の政界再編をどう描くかという点で違いがあった。

 つまり、政治改革によって連立内部の対立が消えていたのではない。対立は初めから存在していたが、「まず自民党長期政権の下で実現できなかった政治改革を成し遂げる」という大きな目標が、その亀裂を覆っていたのである。

 政治改革関連法案の成立過程も平坦ではなかった。1994年1月21日、法案はいったん参議院で否決される。それでも細川首相と自民党の河野洋平総裁が協議し、制度内容を調整したうえで、1月29日に政治改革四法が成立した。さらに、その細川~河野合意を具体化するための改正法が3月に成立し、現在につながる衆議院の小選挙区比例代表並立制や政党助成制度など、新しい政治制度の基本的な枠組みが固まっていった。

 長年議論されながら実現できなかった政治改革を実際に成立させたことは、細川政権の歴史的成果として軽視できない。しかし皮肉なことに、その成功によって、それまで連立政権を一つに束ねていた最大の目標が一段落することになった。

 政治改革が成立したから連立内部の対立が突然生まれたのではない。もともと存在していた考え方の違いや権力関係の緊張を、政治改革という共通目標が覆い隠しにくくなったのである。

小沢一郎と武村正義の間にあった二つの政治構想

 細川政権内部の複雑さを理解するうえで見落とせないのが、新生党の小沢一郎と、新党さきがけ代表で官房長官を務めた武村正義との関係である。

 両者の対立を単なる個人的な確執として見るだけでは十分ではない。そこには、日本の政党政治を今後どの方向へ組み替えていくのかという構想の違いがあった。小沢は政治改革を通じて政党再編を進め、より明確な二大政治勢力の競争へ日本政治を変えていくことを志向していた。一方、武村はそのような急速な政界再編や権力集中に警戒を示していた。

 しかも武村は官房長官であり、首相を日常的に支える政権中枢の人物だった。その武村と、連立与党の強力な実力者である小沢との間に政治的緊張が存在する以上、細川は両者の間で政権を運営しなければならない。細川政権の不安定さは、単純に「政党が八つあったから」という数の問題ではなく、連立内部に将来の政治そのものについて異なる設計図が存在していたことから生まれていた。

 政権交代を実現するまでは、「自民党政権を終わらせる」という目標がそれらの違いを超えることができた。しかし政権を取った後には、増税をするのか、社会保障をどう設計するのか、経済政策をどこへ向けるのか、そして政界をどのように再編するのかという問題に一つずつ答えなければならない。政権を倒すための連合と、国家を運営するための連合は、似ているようでまったく別のものだった。

国民福祉税という「34時間」が露出させたもの

 その違いを国民の前に最も鮮明に示したのが、1994年2月の国民福祉税構想だった。

 細川は2月3日未明、消費税を廃止し、将来的に税率7%の「国民福祉税」を導入する構想を記者会見で発表した。ところが、この政策について連立与党内部では十分な合意が形成されておらず、とりわけ社会党などから強い反発が起こった結果、構想は約34時間後に白紙撤回される。

 問題は、7%という税率が高かったか低かったかということだけではなかった。国民生活に直接かかわる重要な税制改革が突然発表され、その直後に同じ与党内部の反対で撤回されたことにより、「この政権では誰が政策を決めているのか」という疑問が一気に表面化したのである。

 ただし、これを単純に「細川首相が決めた政策を連立与党が潰した」と理解するのも正確ではない。国民福祉税構想には、小沢一郎をはじめ政権中枢の一部が深く関与していた一方、社会党や武村官房長官を含め、連立全体の意思決定機構には十分に共有されていなかった。

 つまり露呈したのは、首相が弱かったという一言では片づけられない問題だった。政権中枢の一部で形成された政策を、複数の政党からなる連立与党全体の合意へどのようにつなげるのかという仕組みそのものが未成熟だったのである。

 政治改革までは「制度を変える」という目標でまとまることができた。しかし、税制のように誰かの負担を増やさなければならない政策になると、各党はそれぞれの支持者や理念を背負って判断する。そこで必要になるのは新鮮なイメージではなく、地道で複雑な利害調整だった。国民福祉税の34時間は、細川政権が「新しい政治」を象徴する力には優れていても、「新しい政治を運営する仕組み」を十分につくれていなかったことを映し出した。

政治と金を変える政権に返ってきた一億円問題

 そうした政権内部の緊張が続く中で、細川自身にも政治資金をめぐる問題が重くのしかかることになる。東京佐川急便からの一億円借入問題である。

 細川は、1982年に東京佐川急便から一億円を借りたこと自体は認め、それについては完済したと説明した。しかし国会では、借入目的、返済の経過、関連資料などについて追及が続いた。

 この問題を扱う際には慎重さが必要である。一億円を借りた事実があるからといって、それだけで違法な金銭授受だったと断定することはできない。政治的な疑惑と、法的に確認された違法行為とは区別しなければならないからである。

 それでも、この問題が細川に与えた政治的打撃は大きかった。なぜなら細川政権そのものが、政治と金をめぐる旧来の政治への不信を背景に誕生した政権だったからである。古い政治を変えると登場した首相自身が巨額の資金問題について国会で説明を求められることになれば、たとえ法的な問題とは別であっても、「新しい政治」という政権の物語そのものが傷つく。

 政治家にとって、疑惑の重さは金額や法律論だけでは決まらない。その政治家が何を掲げて登場した人物なのかによっても意味が変わる。政治倫理を掲げる政権にとって、自らの資金問題は通常以上に大きな政治的負担にならざるを得なかった。

細川は一億円問題だけで辞めたわけではない

 1994年4月8日、細川は辞意を表明する。ここを「佐川急便から一億円を借りたことが発覚し、責任を取って辞めた」とだけ説明すると、実際の辞任理由を単純化しすぎる。

 細川自身の辞意表明では、一億円借入問題などをめぐって国会審議が停滞し、自らの問題が予算審議の妨げになっていることへの政治的責任が語られている。さらに、過去に自分の資金を知人に運用させていた問題について、新たに法的な問題がある可能性が明らかになったとして、政治の最高責任者として道義的責任を負う必要があるとも説明した。

 したがって、辞任は一つの疑惑だけによって突然引き起こされた出来事ではない。政治改革という最大の共通目標が一段落し、もともと存在した連立内部の対立が見えやすくなり、国民福祉税問題によって意思決定の弱さが露呈し、その上に細川自身の資金問題と国会審議の停滞が重なった結果だったと見る方が実態に近い。

 政治学的にいえば、細川政権の崩壊は単一の原因によるものではない。いくつもの条件が時間をかけて重なり、その最後に首相自身の資金問題が加わった「累積的な政権崩壊」だったのである。

263日しか続かなかった政権は失敗だったのか

 では、263日で終わった細川政権は失敗だったのだろうか。

 政権の安定性だけを基準にすれば、成功した政権とは言いにくい。国民福祉税構想は短時間で撤回され、連立内部の意思決定は安定せず、最終的には首相自身の問題によって国会審議まで停滞した。長期的な政策体系を構築し、それを継続的に実行するところまでは到達できなかった。

 しかし、日本政治に与えた影響まで含めると評価は変わってくる。細川政権は、自民党が国会第一党であっても、過半数を確保できず、他党が多数派を形成すれば政権を失うという議院内閣制の原理を現実の政治として示した。それまで制度上は可能であっても、実際にはほとんど想像されていなかった政権交代を経験したことで、「自民党政権は永続するものではない」という感覚が社会に広がった。

 さらに、長年議論されながら実現できなかった政治改革を成立させたことも残った。後にその制度がどのような結果をもたらしたかについては別の評価が必要だが、日本の選挙制度と政党政治の枠組みを大きく変えたこと自体は否定できない。

 細川政権は、長く統治した政権ではなかったが、日本政治が別の形へ移るための橋のような政権だったともいえる。橋は人が住み続ける場所ではない。それでも、向こう岸へ移るには必要になる。

政権交代の扉を開けることと、その先を統治すること

 細川護熙という政治家の歴史的な意味は、長期政権を築いたことにはない。それまでほとんど開かないと思われていた政権交代という扉を、実際に開いてみせたことにある。

 しかし、扉を開けることと、その向こう側で国家を運営することは別の仕事だった。自民党政権を終わらせるためなら、社会党から保守系新党まで異なる勢力が同じ方向を向くことができる。しかし政権を取った翌日からは、税金を誰が負担するのか、社会保障をどう支えるのか、外交や安全保障をどう考えるのか、将来どのような政党政治をつくるのかという問いに答えなければならない。

 その段階になると、「何に反対するか」ではなく「何を選ぶか」が問われる。しかも一つの政策を選べば、別の選択肢を捨てなければならない。政権交代には異なる勢力を集める力が必要だが、政権運営にはその異なる勢力の間で優先順位を決め、時には不人気な決断まで引き受ける力が必要になる。

 細川政権は、その二つが同じ能力ではないことを日本政治に示した最初の大きな事例だった。

 だから細川護熙は、政権交代の象徴になったにもかかわらず短期間で辞めた、というよりも、政権交代の象徴として成立した政権だったからこそ短命になりやすい条件を抱えていた、と考えた方がよい。細川という人物の新鮮さは異質な八党派を結びつける力になったが、その象徴性を支える巨大な政党組織はなく、連立の内部には政治改革の先にある日本政治について異なる設計図が存在していた。そして政治改革という共通目標が一段落した後、それまで覆われていた亀裂が次第に見えるようになったところへ、国民福祉税問題と細川自身の資金問題が重なった。

 1993年の政権交代が残した最大の教訓は、おそらく「政権を取ること」と「政権を運営すること」はまったく別だということだろう。長く続いた政権を終わらせるとき、人々は一つの旗の下に集まりやすい。しかし、その旗を降ろした後に必要なのは、誰が何を負担し、どの政策を諦め、どの未来を選ぶのかを決めることである。

 細川護熙の263日間は短かった。しかし、その短さの中には、その後の日本政治が何度も直面することになる問題がすでに凝縮されていた。政権交代を可能にすることと、政権交代を安定した統治へ変えることとの間には大きな距離がある。細川政権は、その距離を日本政治が初めて実際に歩き、そして途中で立ち止まった政権だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

野中広務という政治家を振り返るとき、奇妙な事実に気づく。総理大臣にはならなかった。自民党総裁にもならなかった。国会議員になったのは1983年、すでに57歳になってからである。若くして国政へ入り、当選回数を重ね、派閥の階段を上りながら首相を目指すという、戦後自民党政治の典型的な出世コースから見れば、むしろ遅すぎる出発だった。

それにもかかわらず、1990年代後半から2000年代初めの永田町では、野中の名前を抜きに重要な政局を語ることが難しい時期があった。小渕恵三政権では内閣官房長官として連立政権形成に深くかかわり、その後は自民党幹事長として党内を動かした。「影の総理」とまで呼ばれたことがあるのも、後世につくられた誇張だけではない。野中自身の回顧録も、そのように呼ばれた政治家の記録として紹介されている。

では、総理でも総裁でもなかった男が、なぜそこまで大きな力を持つことができたのだろうか。

答えを「裏工作が巧みだったから」の一言で片づけることは簡単である。しかし、それでは野中広務という政治家の本質を取り逃がす。彼の強さは、権力の頂点に立つことよりも、権力が実際に動く場所を知っていたことにあった。そして、その感覚を身につけたのは東京の永田町ではない。京都の地方政治だった。

永田町とは遠いところから始まった政治家

野中は1925年、京都府船井郡園部町、現在の南丹市園部地域に生まれた。旧制京都府立園部中学校を卒業すると鉄道省大阪鉄道局に入り、戦争末期には召集を経験した。戦後に職場へ戻ったのち、1951年に園部町議会議員となり、1958年には園部町長に就任する。その後も京都府議会議員、京都府副知事を務め、1983年に衆議院議員へ転じるまで、30年以上を地方政治と地方行政の中で過ごした。同志社大学に残る略年譜でも、この長い地方政治歴を確認できる。

この経歴は、単なる履歴書の前半ではない。後の野中政治を形づくる訓練期間そのものだったと考えた方がよい。

町長の仕事には、華やかな演説より先に、道路があり、学校があり、福祉があり、災害がある。限られた予算をどこへ配分するのかを決めれば、必ず得をする地域と後回しになる地域が生まれる。住民の要望を聞くだけでは行政は動かず、議会をまとめ、役所を動かし、京都府や国との関係をつくらなければならない。

そこで求められるのは、理想を語る能力だけではない。相手が何を望み、どこまでなら譲り、何だけは譲らないのかを読む能力である。

野中が後に永田町で発揮した「調整力」を、地方政治経験だけで説明することはできない。しかし、地方行政の現場で長く利害の衝突を処理してきた経験が、その政治技術の重要な基盤になったと考えることには十分な合理性がある。

ただし、野中が地方から持ってきたものは、単なる調整術だけではなかった。

京都では長く蜷川虎三知事による革新府政が続き、自民党が中央政府では与党でありながら、京都では思うように主導権を握れない時代が続いた。つまり野中は、自分たちが常に多数派である政治だけを経験してきた人物ではない。相手側にも権力があり、自分たちだけでは何も決められない政治を知っていた。

この経験が後年、意外な意味を持つことになる。

57歳の新人議員は、本当の意味では新人ではなかった

1983年、旧京都2区で前尾繁三郎と谷垣専一の死去に伴う衆議院補欠選挙が行われ、野中は谷垣禎一とともに初当選した。谷垣自身も後年、国会でこの補欠選挙について証言している。

57歳の初当選は、自民党政治家として考えれば遅い。しかし、ここには数字の錯覚がある。

国会議員としては一年生でも、政治家としてはすでに30年以上の経験があった。町議として選挙を知り、町長として行政を知り、府議として議会を知り、副知事として巨大な行政組織の内部を知っている。若い国会議員が永田町で一から学ぶべき事柄のかなりの部分を、野中は別の場所ですでに経験していた。

そのため野中の国政入りは、57歳から政治家人生を始めたというより、地方で身につけた政治技術を国という一段大きな舞台へ移した出来事だったと見る方が実像に近い。

しかし、それだけなら地方行政に詳しいベテラン政治家で終わっていたかもしれない。野中を中央政界の実力者へ押し上げたもう一つの条件は、本人の経歴ではなく、日本政治そのものの変化だった。

1989年から、日本政治のルールが少しずつ変わった

戦後自民党政治を語るとき、1993年の政権交代は大きな断層として記憶されている。細川護熙を首相とする非自民政権が成立し、自民党が1955年以来初めて本格的に野党へ転落したからである。

しかし、変化はその4年前から始まっていた。

1989年の参議院選挙で自民党は大敗し、参議院の単独過半数を失った。これによって、衆議院で多数を持つだけでは法律を安定して成立させにくい状況が生まれ、与野党間の協議や修正交渉の重要性が増していった。政治学的に見れば、1993年に突然連立政治の時代が始まったのではなく、1989年から従来の自民党単独支配の仕組みが徐々に変質していたのである。

これは野中にとって重要な環境変化だった。

自民党が衆参両院で安定多数を持つなら、最も重要なのは党内の派閥や政策部門をまとめる能力である。しかし自民党だけでは決められなくなると、必要な技術が変わる。党内だけではなく、昨日まで敵だった野党の事情まで理解し、その相手と合意をつくらなければ政権を動かせなくなるからである。

野中が地方政治で経験してきたのは、まさにそうした世界だった。

ここで重要なのは、「地方政治を経験したから野中は成功した」と単純な原因と結果で結ばないことである。地方政治家出身者の全員が中央政界の実力者になったわけではない。野中自身の人間関係、旧田中派から竹下派へ続く党内基盤、国会対策での経験、選挙制度改革、政界再編、そして本人特有の記憶力や交渉力など、複数の条件が重なっている。

それでも、地方で培った調整型の政治技術と、1990年代に訪れた「一党だけでは決められない政治」が非常によく適合したという見方は、野中の急速な台頭を説明する有力な仮説になる。

自民党が野党になったとき、野中の経験が生きた

1993年、自民党は下野した。細川政権、続いて羽田孜政権が成立し、長く政権担当を当然の前提としてきた自民党は、突然野党になった。

その翌年、政治史に残る組み合わせが誕生する。

自民党、日本社会党、新党さきがけによる自社さ連立である。

社会党は長年、自民党最大の対抗勢力だった。その社会党の村山富市委員長を首相に担ぎ、自民党が政権へ復帰するという構図は、それまでの左右対立だけで政治を見ていた人々には理解しにくいものだった。

しかし、連立政治とは本来そういうものである。

政策が完全に一致する相手としか協力できないなら、連立そのものが成立しない。どこを譲り、何を共有し、どこを棚上げするかという取引の積み重ねによって、初めて政権は形になる。

野中は、この自社さ連立の形成過程で重要な役割を担い、村山内閣では自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。ただし、村山政権は野中一人がつくった政権ではない。河野洋平、森喜朗、亀井静香、村山富市、武村正義ら多くの政治家が動いた結果であり、野中はその一角を占めた重要な調整者だったと見るのが適切だろう。

野中の価値が高まったのは、まさにこの「誰も一人では決められない政治」が常態化していったからだった。

小渕政権で「影の実力者」は完成した

野中広務の政治力が最も鮮明に表れたのは、小渕恵三政権である。

1998年の参議院選挙で自民党は敗北し、再び参議院で厳しい少数状態に置かれた。そこで小渕が官房長官に起用したのが野中だった。自民党の公式党史も、野中について「野党との交渉に辣腕が期待された」と記している。

ここで野中は単なる政府の報道官ではなくなる。

小渕政権を安定させるには、自民党だけでは足りない。そこで政権は小沢一郎率いる自由党との連立へ向かい、1999年1月に自自連立政権が成立する。同年10月には公明党も加わり、自自公連立へ発展した。自民党史でも、小渕首相、野中官房長官、自民党執行部が参議院での過半数割れを克服するため政権基盤の強化を模索した経緯が記されている。

興味深いのは、野中にとって小沢一郎が決して気心の知れた仲間ではなかったことである。

政治的対立があっても、必要であれば交渉する。昨日まで敵だった相手でも、今日の国会を動かすために必要なら同じ席につく。

そこには、理念がないのではない。

むしろ「政治は結果を出さなければ存在しない」という、地方行政出身者らしい現実感覚があったように見える。

この政治を節操のない権力維持と見ることもできるし、議会制民主主義に不可欠な妥協の技術と見ることもできる。おそらく野中政治の評価が現在まで割れるのは、この二つを簡単に分離できないからだろう。

それでも一つだけ確かなことがある。

首相が小渕恵三であっても、その政権を成立させる議席を誰がどう集め、どの党との間に橋を架けるかという作業を担う人物の影響力は極めて大きい。正式な地位以上に、表から見えにくい調整過程で巨大な影響力を持ったことが、「影の実力者」「影の総理」という野中の人物像につながったと考えることができる。

野中の権力は「人間を一人で見ない」ことから生まれた

野中の強さを、単純な人脈の広さだけで説明するのも十分ではない。

彼が見ていたのは、一人の国会議員だけではなかった。その議員の後ろにある選挙区、後援会、地方議員、支援団体、派閥、そして次の選挙まで含めて、一つの政治的なネットワークとして見ていた。

この特徴が最も劇的に表れたのが、2000年の「加藤の乱」だった。

森喜朗内閣に批判的だった加藤紘一と山崎拓が、野党提出の内閣不信任決議案への対応をめぐって倒閣を図った。表面だけを見れば、自民党内部の派閥抗争である。しかし実際の攻防は、国会議員本人だけに対する説得では終わらなかった。党執行部は公認権や次の選挙を背景に造反予定者への切り崩しを進め、野中もその中心人物の一人として動いた。

ここでも、「野中が一人で加藤の乱を潰した」と考えるのは正確ではない。加藤派内部の温度差、選挙への不安、党公認を失う危険、森派や党執行部全体の動きなど、複数の要因が重なったからこそ倒閣運動は崩れた。

しかし、その複雑な構造を利用して一人ずつ切り離していく政治技術こそ、野中が最も得意としたものだった。

議員に直接「反対するな」と命じるだけではない。その人間が何によって政治家として存在しているのかを調べ、そこへ働きかける。

園部町から永田町まで半世紀近く政治を続けてきた男が最後に身につけていたのは、政治家を見る技術というより、政治家を取り囲む関係を見る技術だったのである。

「影」という言葉には、称賛だけではなく不気味さもある

もっとも、「影の実力者」という表現を格好のよい称号として扱うだけでは、野中政治の半分を見失う。

影で政治を動かすとは、別の言い方をすれば、有権者から見えない場所で重大な決定が行われることでもある。

誰と誰が会い、どのような条件が示され、どこまで譲歩し、その代わりに何を得たのか。派閥、後援会、地方組織、官僚組織、業界団体が複雑につながる政治では、結果は見えても、その過程が国民から十分には見えないことがある。

野中は相手の事情を理解する調整型政治家であると同時に、必要と考えれば党組織と権力を強く使う政治家でもあった。

つまり包容と圧力は、互いに矛盾する性質ではない。

相手が何を恐れているかを理解できるからこそ、説得もできるし、圧力もかけられる。相手の弱点を知らなければ妥協点もつくれないが、その弱点を知れば政治的な武器にもなる。

野中政治の魅力と怖さは、実は同じ場所から生まれている。

だから「実力者」という言葉だけでは足りなかったのだろう。「影」という言葉は、正式な肩書以上の影響力だけではなく、その権力が見えにくいところから働いていたことまで含んでいる。

権力を使いながら、権力を警戒した政治家

ここで野中広務という人物をさらに複雑にするのが、彼が単純な権力至上主義者ではなかったことである。

戦争体験を持ち、地方政治では福祉行政にも深く関わり、国政では沖縄問題や差別の問題について繰り返し発言した。権力を行使する側に立ちながら、国家権力が弱い立場の人間に何をするかという問題に敏感だった人物として評価されることも多い。

しかし、だからといって平和主義者、弱者の味方という言葉だけで整理してしまえば、逆方向の美化になる。

野中は政権担当者であり、国家公安委員会委員長にも官房長官にもなった。沖縄では米軍基地問題を抱える政府側の政治家として現実の政策決定に関与している。理想だけを語り、その結果について責任を負わない立場ではなかった。

そこに野中という政治家の独特な矛盾がある。

権力の危険を知っている。しかし、政治を動かすためにはその権力を使う。

弱者への視線を持つ。しかし政権を守るためなら、反対する政治家へ強い圧力をかける。

敵の事情を理解する。しかし必要なら、その事情を利用して相手を切り崩す。

この矛盾を偽善と呼ぶこともできる。しかし政治とは本来、理念だけでなく結果への責任を引き受ける仕事だと考えるなら、そこに野中政治の現実主義を見ることもできる。

小泉純一郎の登場で、政治の「見せ方」が変わった

2001年、小泉純一郎が自民党総裁となり首相に就任すると、永田町の空気は大きく変わった。

もちろん、野中時代には調整しかなく、小泉時代には対決しかなかったというほど政治は単純ではない。小泉も党内調整を行っていたし、野中も世論を無視していたわけではない。

それでも、政治の見せ方には明らかな違いがあった。

野中型の政治では、対立する相手と水面下で交渉し、最終的に一致点をつくることに価値があった。それに対して小泉は、対立を国民の前に見える形で示し、「改革に賛成するのか、反対するのか」と世論へ直接問いかける政治を得意とした。

調整の過程を見せないことが政治力だった時代から、対立そのものを見せることが政治力になる時代へ。

少なくとも政治コミュニケーションという点では、そんな変化が起きていた。

政治学的にも、小泉政権は1990年代の制度改革を背景として首相権力を強く行使した政権として分析されている。ただし、その小泉政権でさえ、参議院では青木幹雄ら党幹部との調整を必要としていた。したがって野中型政治が完全に消滅したのではなく、表舞台に立つ政治家と裏側で調整する政治家との力関係が変わったと見る方が正確である。

野中は2003年に国会議員を引退した。1951年の園部町議初当選から数えれば、半世紀を超える政治生活だった。

なぜ野中広務は「影の実力者」になれたのか

野中広務が「影の実力者」となった理由を一つに絞ることはできない。

地方政治で培った行政実務と利害調整の経験があり、旧来の自民党組織の人脈があり、政界再編の荒波を読む能力があり、そして1989年以降、日本政治そのものが一党だけでは決めにくい構造へ変化していった。

それらが重なったところに、野中という政治家の最盛期があった。

もし自民党が衆参両院で安定多数を持ち続けていたなら、野中ほどの調整型政治家があれほど大きな力を持ったかどうかは分からない。逆に、連立政権が必要になったとしても、誰もが野中のように異なる勢力をつなぐことができたわけでもない。

つまり野中の力は、個人の能力だけでも、時代だけでも説明できない。

野中広務という政治家の能力と、1990年代という政治環境が出会った結果だった。

多数を持つ者が強い政治では、調整役は目立たない。しかし誰も単独では決められない政治になると、最後の数票を集める者、昨日までの敵を同じテーブルへ連れてくる者、相手が何を恐れ、何を求めているかを知る者が、時として総理大臣以上の存在感を持つ。

野中は首相の椅子に座ったことはない。

けれども政治というものを、首相の椅子だけから眺めれば、その本当の構造は見えてこない。

演壇で政策を語る人間の背後には、議席を数える人間がいる。敵対する政党との間を歩く人間がいる。地方の事情を中央へ運ぶ人間がいる。誰も譲らない夜に、一人ずつ電話をかけ、どこまでなら折り合えるのかを探る人間がいる。

野中広務は、その仕事を知り尽くしていた。

京都の地方政治家として始まった男が、半世紀をかけてたどり着いたのは、総理大臣という権力の頂点ではなかった。

その頂点を支え、ときに揺らし、ときには誰をそこへ座らせるのかさえ左右する、表からは見えにくい政治の中枢だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る