地域政経

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筑紫哲也はなぜ沖縄を見続けたのか

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「本土の無関心」を問い続けたジャーナリストから、2026年の日本が学ぶこと

筑紫哲也というジャーナリストを考えるとき、沖縄を切り離すことは難しい。

『筑紫哲也NEWS23』のキャスターとして政治、外交、戦争、社会問題を論じた人物として記憶されているが、その報道姿勢の原点の一つには、米国統治下にあった沖縄での記者経験があった。

筑紫は1959年に朝日新聞社へ入社し、1968年から1970年まで、まだ日本復帰前だった沖縄で特派員を務めた。その後ワシントン特派員、『朝日ジャーナル』編集長などを経て、1989年から『筑紫哲也NEWS23』のキャスターを務めた。大学などに残る公式な経歴資料でも、沖縄特派員時代は彼の主要な経歴として記録されている。

重要なのは、「筑紫哲也は沖縄が好きだった」という人物論ではない。

むしろ問うべきなのは、

なぜ一人のジャーナリストが、生涯にわたって沖縄を日本社会の重要問題として取り上げ続けたのか

ということである。

そこを考えていくと、筑紫が見ていたのは単なる「沖縄問題」ではなかったことが分かる。

彼が問うていたのは、

民主主義とは何か。 多数派は少数地域にどこまで負担を押し付けてよいのか。 安全保障の利益と負担を誰が引き受けるのか。 そして、本土に暮らす私たちは、沖縄についてどこまで「知らないままでいること」を許されるのか。

という、日本社会そのものの問題だったと考えるべきである。

筑紫哲也にとって沖縄は「地方取材」ではなかった

筑紫が沖縄特派員だった1968年から1970年は、沖縄がまだ米国の施政権下にあった時代である。

沖縄が日本へ復帰したのは1972年5月15日である。

つまり筑紫は、「日本の一県」としての沖縄を取材し始めたのではない。

米国統治下で、日本本土とは異なる政治制度、基地負担、社会環境の中に置かれていた沖縄を現場から経験したのである。

この経験は、その後の筑紫の視点に大きな意味を持ったと考えられる。

実際、筑紫は1990年代以降も沖縄について継続的に執筆している。

沖縄タイムス社からは1995年以降、『筑紫哲也の「世・世・世」――おきなわ版「多事争論」』が刊行され、その後もシリーズが続いた。1999年から2003年の連載をまとめた『おきなわ:世の間で』まで出版されている。

これは一時的な関心とは考えにくい。

基地問題だけでなく、沖縄の文化、社会、政治、歴史、多数派と少数派の関係まで幅広く論じていたことが、書誌資料からも確認できる。

したがって、筑紫にとって沖縄とは、

「基地問題が起きたときだけ取材する場所」

ではなかった。

日本社会を見るための一つの座標軸だったのである。

「沖縄問題」という言葉そのものに潜む問題

私たちは日常的に「沖縄問題」という言葉を使う。

しかし、この言葉には少し注意が必要である。

沖縄に米軍基地が集中している問題を、

「沖縄という地域が抱えている問題」

と理解してしまうからである。

しかし、安全保障政策を決定しているのは日本政府であり、日米安全保障体制による便益を受けているのは沖縄県民だけではない。

日本全体である。

そう考えるなら、

「沖縄の基地問題」

というより、

「日本の安全保障政策による負担が沖縄に集中している問題」

と表現した方が、問題の構造を正確に表している。

2025年1月1日時点の防衛省資料によれば、日本国内の在日米軍施設・区域のうち、米軍専用施設の面積は全国で約2億6262万平方メートルで、そのうち沖縄県には約1億8454万平方メートルが存在する。

比率にすると70.27%である。

沖縄県の県土に占める米軍専用施設の割合は8.09%に達する。

防衛省自身も、2025年版防衛白書で、在日米軍専用施設面積の約70%が沖縄に集中していることを認めている。

同時に防衛省は、沖縄が朝鮮半島、台湾海峡、海上交通路に近いという地理的特性を持つことから、安全保障上重要な位置にあり、在沖米軍が抑止力に寄与しているという立場を示している。

ここは公平に見なければならない。

「沖縄に基地があるのは何の理由もない」

という主張も正確ではない。

安全保障上の合理性を日本政府は提示している。

しかし、安全保障上の合理性が存在することと、

特定地域に約70%の米軍専用施設を集中させ続けることが社会的・政治的に妥当であること

は同じではない。

この二つを分けて考える必要がある。

筑紫哲也の重要性は「沖縄側に立った」ことだけではない

筑紫を評価すると、

「左派だったから沖縄の基地問題を批判した」

と単純化されることがある。

しかし、この理解では筑紫のジャーナリズムの核心を十分説明できない。

より重要なのは、

中央から見れば周辺に見える場所へ出向き、そこから中央を見直した

という姿勢である。

これはジャーナリズムの非常に基本的な機能である。

国会、官邸、霞が関、防衛省、米国政府から安全保障を見るだけなら、

基地は安全保障政策を実施するための「施設」である。

しかし宜野湾市や名護市から見れば、

基地は住宅地の隣に存在する。

航空機が飛ぶ。

騒音が発生する。

事故への不安が存在する。

土地利用にも影響する。

政策を見る位置によって、同じ基地でも意味が変わる。

優れた報道とは、その両方を見ることである。

筑紫の沖縄報道が持った価値の一つは、まさにそこにあった。

1995年の米兵少女暴行事件と筑紫の怒り

筑紫哲也の沖縄に対する姿勢を象徴する出来事の一つが、1995年に起きた米兵による少女暴行事件である。

この事件をめぐる当時の『NEWS23』内部について、番組編集長を務めた金平茂紀が詳しく証言している。

2026年6月に朝日文庫版として刊行された『筑紫哲也「NEWS23」とその時代』でも、この事件は重要な場面として扱われている。国立国会図書館の書誌情報でも、同書は筑紫の番組がオウム真理教事件、阪神・淡路大震災、米国同時多発テロなどと向き合った時代を記録するものとして位置付けられている。

金平によれば、事件発生後、他局が全国ニュースとして大きく取り上げているにもかかわらず、自分たちの番組で十分扱えていなかったことを知った筑紫は強い怒りを示したという。

ここには重要な意味がある。

筑紫は単に米軍に怒ったのではない。

自分たち報道機関が沖縄で起きた重大事件を十分認識できていなかったことにも怒っていた

のである。

これはジャーナリストとして非常に重要な態度だと思う。

他人だけを批判するのは容易である。

政府を批判する。

米軍を批判する。

政治家を批判する。

しかし、本当に必要なのは、

「自分たち報道機関は十分に機能しているのか」

という自己検証である。

筑紫の強みは、そこにあったのではないか。

「無知・無関心・無感動」という批判

筑紫の沖縄論を象徴する言葉として、特に重要なのが、

「無知」「無関心」「無感動」

という三つの「無」である。

TBS(東京放送)の後年の報道によれば、1998年3月の『筑紫哲也NEWS23』の「多事争論」で筑紫は、本土の人々の沖縄に対する「無知」「無関心」「無感動」が、沖縄の状況を変わらないものにしているという趣旨を述べている。

これは、現在でも非常に重い問いである。

沖縄県民が基地問題についてどう考えているか。

なぜ辺野古移設への反対が続いているのか。

普天間飛行場がなぜ危険とされてきたのか。

日米地位協定とは何なのか。

沖縄戦から米国統治、本土復帰まで何が起きたのか。

こうしたことを、本土に暮らす私たちはどの程度知っているだろうか。

もちろん、すべての国民が沖縄基地問題の専門家になる必要はない。

しかし安全保障の利益を全国民が享受しているのであれば、その負担がどこに置かれているかについて最低限知ることは、民主主義社会の市民として不合理な要求ではない。

2026年になっても終わっていない普天間問題

筑紫が亡くなったのは2008年11月7日である。

それから約18年が経過した2026年現在でも、沖縄基地問題は終わっていない。

象徴的なのが普天間飛行場移設問題である。

普天間飛行場の全面返還が日米両政府によって発表されたのは1996年である。

2026年4月12日で、そこから30年となった。

沖縄県も2026年4月、この節目について知事コメントを発表している。

一方、日本政府は名護市辺野古への移設を進めている。

2026年6月17日には大浦湾側の新たな区域で埋め立て工事に着手し、防衛省は普天間飛行場の早期全面返還のため、辺野古移設工事を進める立場を改めて示した。

さらに2026年7月16日の日米合同委員会では、大浦湾側の埋立てや地盤改良工事について新たな合意が行われ、防衛省によれば、これによって事業に必要な埋立て・地盤改良工事について日米間の合意が全て整ったとしている。

一方、沖縄県は辺野古移設に反対する立場を維持している。

つまり2026年現在も、

政府は「普天間の危険性を除去するため辺野古移設を進める」。

沖縄県は「危険性除去は必要だが、辺野古移設には反対する」。

という対立が続いている。

筑紫が生きていた時代から、問題の基本構造は完全には解消していない。

基地負担は減ってきた――しかし、それだけでは評価できない

公平な分析のためには、基地負担軽減の進展も確認しておかなければならない。

沖縄返還以降、米軍施設の返還は実際に進んできた。

例えば2016年には北部訓練場約4000ヘクタールが返還され、沖縄本土復帰後最大規模の米軍施設返還となった。

防衛省によれば、これは当時の沖縄県内の米軍専用施設面積の約2割に相当した。

したがって、

「沖縄の基地負担について政府は何もしてこなかった」

という表現も正確ではない。

返還は進んでいる。

しかし同時に、2025年時点でも全国の米軍専用施設面積の70.27%が沖縄県に集中している。

つまり、

改善はしてきたが、集中構造そのものは現在も残っている

というのが正確な評価である。

なぜ筑紫の問いは現在でも重要なのか

筑紫哲也を現在再評価する意味は、彼の政治的主張に全面的に同意することではない。

筑紫の意見にも当然批判可能な部分はある。

ニュースキャスターが強い政治的意見を示すことについては、報道の中立性や事実報道と論評の区別という観点から議論がある。

筑紫自身の政治的立場に批判的だった視聴者も少なくなかった。

これは健全なことである。

ジャーナリストは無条件に尊敬される存在ではない。

検証される側でもある。

しかし、私はそれでも筑紫哲也の報道姿勢を高く評価すべきだと考える。

理由は彼が「正しいことを言ったから」ではない。

もっと重要なのは、

社会の多数派が見なくても困らない問題を、あえて見続けたこと

である。

報道には「多数派が関心を持たない問題」を扱う役割がある

現在のメディア環境では、

視聴率。

ページビュー。

SNS(Social Networking Service・交流サイト)の反応。

動画再生数。

クリック率。

エンゲージメント。

こうした指標が非常に大きな意味を持つ。

しかし、民主主義に必要な報道と、多数の人が見たがる情報は必ずしも一致しない。

100万人が興味を持つ芸能ニュースと、

数万人しか関心を示さない行政問題があったとしても、

公共的重要性は後者の方が高いことがある。

報道機関には、

「人々が知りたいこと」

だけではなく、

「人々が知っておくべきこと」

を伝える役割がある。

筑紫哲也の沖縄報道は、このジャーナリズムの原則を体現したものの一つだったと評価できる。

現在の『news23』にも残るもの

筑紫の名前は番組タイトルから消えたが、『news23』そのものは2026年現在も放送されている。

TBSは現在の番組について、ストレートニュースだけでなく、一つのテーマを深く扱い、多様な意見を伝える番組であると説明している。

2026年6月の番組紹介でも、「色んな人の意見、色んな声、色んな視点」を伝えるという考え方が掲げられている。

もちろん現在の番組をそのまま「筑紫哲也の思想の継承」と評価することはできない。

時代も制作体制も出演者も異なる。

しかし、

単なるニュースの羅列ではなく、

背景を説明する。

異なる意見を紹介する。

少数者の声も拾う。

政治や社会を考える材料を提示する。

というニュース番組の役割は、筑紫時代から現在まで続く一つの課題である。

筑紫哲也を神格化する必要はない

筑紫哲也を肯定的に評価するからといって、

「筑紫の意見はすべて正しかった」

とする必要はない。

むしろ、それは筑紫自身が望んだジャーナリズムとは逆ではないだろうか。

ジャーナリズムとは権威を疑う仕事である。

ならばジャーナリスト自身も疑われなければならない。

重要なのは筑紫という人物を英雄化することではない。

彼が実践した方法から何を学ぶかである。

その方法を整理すると、

現場へ行く。

中央だけから問題を見ない。

少数者の声を聞く。

権力の説明をそのまま受け取らない。

自分たちメディアも検証する。

歴史的背景を調べる。

文化を含めて地域を見る。

そして、ニュースについて自分の言葉で考える。

ということであった。

沖縄を「反基地対保守」の二択にしてはいけない

現在の沖縄報道でも注意しなければならないことがある。

基地問題を、

「反基地派」

「安全保障重視派」

という二つだけに分けないことである。

現実にはもっと複雑である。

米軍基地の存在を認めつつ負担軽減を求める人もいる。

日米同盟を支持しながら辺野古移設に反対する人もいる。

基地経済との関係を考える人もいる。

中国や台湾を含む東アジアの安全保障環境を重視する人もいる。

環境問題から辺野古に反対する人もいる。

普天間返還を最優先に考える人もいる。

民主主義は、こうした複雑な利害を調整する制度である。

「沖縄県民の総意」という一つの言葉にまとめることも、「国防だから仕方がない」と切り捨てることも、ともに現実を単純化する危険がある。

筑紫の姿勢から学ぶなら、必要なのはまず聞くことである。

「本土対沖縄」という構図の本質

沖縄問題を考えると、

「沖縄県民と日本政府の対立」

として報道されることが多い。

しかし、より本質的には、

公共政策の利益と負担を誰に配分するのか

という問題である。

安全保障によって便益を受ける範囲を全国と考え、基地負担をコストと考えるなら、

現在の構造は、

全国が利益を受け、

一地域が大きな割合の負担を担う、

という構図になっている。

もちろん軍事施設はどこにでも均等配置すればよいわけではない。

軍事的合理性、地形、港湾、空域、既存施設、部隊運用など多くの制約がある。

したがって単純な人口比例配分は現実的ではない。

それでも、

なぜ沖縄でなければならないのか

どこまで沖縄でなければならないのか

代替策は本当に存在しないのか

を政府が繰り返し説明する責任は残る。

そして報道機関には、その説明を検証する責任がある。

筑紫哲也が現在生きていたなら何を言うか

「筑紫哲也が2026年に生きていたら何と言ったか」

を断定することはできない。

亡くなった人物の思想を現在の政治問題にそのまま当てはめることは慎重であるべきだ。

しかし、彼が何を問うた可能性が高いかは、過去の報道姿勢からある程度推測できる。

政府は何を根拠に政策を進めているのか。

沖縄県は何を根拠に反対しているのか。

住民は何を考えているのか。

安全保障環境はどう変化したのか。

基地負担は実際にどの程度減ったのか。

日米地位協定にはどのような問題があるのか。

メディアは双方の主張を十分検証しているか。

そして何より、

本土の私たちは、沖縄の問題を自分たちの問題として考えているのか。

おそらく、その問い自体は大きく変わらなかったのではないかと思う。

「無関心」は中立ではない

筑紫哲也の沖縄論から、現在最も考えるべきなのはここである。

政治問題について意見を持たないことは自由である。

基地移設に賛成することも反対することも自由である。

しかし、

「知らない」

ことと、

「中立」

であることは違う。

特に、政策による負担を自分以外の誰かが担っている場合、無関心は結果として現在の制度を維持する方向に働く。

筑紫が指摘した「無知・無関心・無感動」という言葉の厳しさは、そこにある。

沖縄基地問題に関心を持たなくても、本土に暮らす人の日常生活はほとんど変わらない。

だからこそ、この問題は忘れられやすい。

しかし、負担を受けている側にとっては日常そのものである。

この非対称性を可視化することこそ、報道の役割ではないだろうか。

筑紫哲也が残した最大の問い

筑紫哲也は2008年に亡くなった。

しかし、沖縄に関して彼が問い続けた問題の多くは、2026年現在も完全には解決していない。

在日米軍専用施設面積の約70%は今も沖縄に集中している。

普天間飛行場全面返還の合意から30年を迎えても、移設問題は続いている。

政府は安全保障と普天間の危険性除去を理由に辺野古移設を進め、沖縄県は反対を続けている。

この問題に簡単な答えはない。

だからこそ筑紫哲也のようなジャーナリストが必要だったのだと思う。

答えを与えるためではない。

問題そのものを忘れさせないためである。

結論――筑紫哲也が沖縄から見ていたのは、日本の民主主義だった

筑紫哲也と沖縄の関係を、

「沖縄を愛したジャーナリスト」

という美しい物語だけで終わらせてはいけない。

彼が沖縄を見続けたことには、もっと政治的・社会的な意味がある。

沖縄には、

戦争。

米国統治。

日本復帰。

日米安全保障。

米軍基地。

地域自治。

中央政府と地方政府。

多数派と少数派。

そして報道の責任。

という、日本の戦後民主主義を考えるための多くの問題が凝縮されている。

だから筑紫は沖縄を見たのではないか。

そして沖縄を通じて、日本を見ていたのではないか。

筑紫を評価すべき最大の理由は、特定の政治的立場に立ったことではない。

多数派の側にいる人々が、見なくても生活できる現実を、見続けようとしたことである。

現在の日本では、情報そのものは筑紫の時代よりはるかに多い。

スマートフォンを開けば、世界中のニュースを見ることができる。

しかし情報量が増えることと、社会への理解が深まることは同じではない。

自分が見たい情報だけを見ることもできる。

不愉快な問題を避けることもできる。

政治的に異なる立場を最初から排除することもできる。

そういう時代だからこそ、

筑紫が沖縄について投げ掛けた「無知・無関心・無感動」という批判は、むしろ重くなっているのかもしれない。

沖縄の基地政策に賛成するか反対するか。

それ以前に必要なことがある。

まず知ることである。

異なる意見を聞くことである。

政府の説明を検証することである。

沖縄県側の主張も検証することである。

安全保障上の現実も見ることである。

そして、自分たちが享受する安全保障の費用を誰が負担しているのか考えることである。

それが民主主義である。

筑紫哲也が沖縄を通して日本社会に問い続けたものは、結局のところ、そこにあったのではないだろうか。

沖縄の問題とは、沖縄だけの問題ではない。

それは、

日本が少数者の声をどう扱う国なのか。 負担をどう分かち合う国なのか。 権力をどこまで検証できる国なのか。 そして、自分に直接困難が降りかからない問題に、どこまで想像力を持てる社会なのか。

を問う問題である。

筑紫哲也が残した価値は、その問いをテレビという巨大なメディアで繰り返し全国へ突き付けたことにある。

そして2026年の現在も、その問いに対する日本社会の答えは、まだ完成していない。

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