地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

朝の新聞を読んでいるのは、私たちだけなのか

 新聞の社説を読んでいると、ときどき奇妙な感覚に襲われることがある。「政府は説明を尽くすべきだ」「国会は議論を深めなければならない」「制度の見直しを急ぐ必要がある」といった文章は、新聞を開いた一般読者の目の前に置かれているにもかかわらず、その言葉の矛先は必ずしも私たちだけに向けられているわけではなく、むしろ新聞という公開の舞台を借りて、その先にいる首相や閣僚、国会議員、さらに行政を担う官僚たちに向かって語りかけているようにも見える。

 では、社説はいったい誰に向けて書かれているのだろうか。新聞を購読する一般読者なのか、政策を決める政治家なのか、それとも法令や予算、制度運用の実務を担う官僚なのかという問いに対して、誰か1人だけを選んで答えることは難しい。社説という文章は、一般読者に読ませながら政治家にも働きかけ、政策や行政運営を扱う場面では官僚にも読まれうるという、複数の相手を同時に想定した独特の文章だからである。

まず、直接の読者は一般読者である

 新聞が市民に向けて発行される媒体である以上、社説の直接の読者が一般の人々であることに変わりはないが、社説は通常のニュース記事とは役割が異なり、「何が起きたのか」を伝えるだけではなく、その出来事が社会にとって何を意味し、どのような問題を含み、今後どのように考えるべきなのかという見方を提示するところに特徴がある。

 ニュース記事が事実の輪郭を示すものだとすれば、社説はその事実を社会の中に置き直し、読者に考えるための枠組みを差し出す文章であり、その意味では単純な情報伝達よりも一歩踏み込んでいる。ただし、新聞社が読者に対して「このように考えなければならない」と命令することはできず、読者は社説に賛成しても反対してもよいため、社説の機能は意見を一方向に変えることよりも、社会の中に論点を置き、それについて考えるきっかけをつくることにあると考える方が実態に近い。

 政治コミュニケーションの研究でも、新聞やテレビなどの報道機関は、人々に「何を考えるべきか」を直接決めさせるというよりも、「何について考えるべきか」を意識させるAgenda Setting(アジェンダ・セッティング・社会的な議題の重要性を認識させる働き)を持つと考えられてきた。したがって、社説の力を考える際にも、読者の意見を一度に変える力として捉えるより、ある問題を公共の議論の場に押し出す力として見る方が慎重である。

主語を追っていくと、政治家の姿が浮かんでくる

 ところが実際の社説を読んでいくと、「政府は」「首相は」「与党は」「野党は」「国会は」といった主語が繰り返し登場することに気づく。外交、安全保障、税制、社会保障、教育、災害対策、地方行政など、社説が扱う主要な問題の多くは最終的に政治的な意思決定を必要とするため、論旨を突き詰めていけば自然に「政府はどうすべきか」「国会は何を議論すべきか」という形へ向かっていく。

 このとき社説は、一般読者向けの文章であると同時に、政治家に対する公開の呼びかけという性格を持つようになる。たとえば「政府は十分な説明を行うべきだ」と書かれていた場合、その文章は形式上は新聞読者に読まれるものだが、実際の要求先は政府であり、しかもその要求は首相官邸への私信として送られるのではなく、一般読者が見ている公開空間に置かれる。

 ここに社説の特徴がある。新聞社は政治家に直接命令する権限を持たないが、「この問題を社会は見ています」という形で政治家に問いを投げかけることはできるため、社説は政治家と国民の間に置かれた公開の文章として機能する。

それでも、1本の社説だけで政治が動くわけではない

 ただし、新聞社の社説が政治家に向けて書かれる場合があるからといって、その影響力を過大評価することはできない。現実の政治は、選挙、政党内の力関係、世論調査、予算、業界団体、外交関係、行政組織、支持基盤など多くの要因によって動いており、政治家が社説を読んだ翌日に政策を変更するような単純な因果関係があるわけではない。

 実際、政治とメディアの関係を調べた研究では、新聞が政治家を一方的に動かすだけではなく、政治家の発言や政策変更を新聞側が受けて論調を変える場合もあり、両者の関係は相互作用として理解する必要があるとされている。したがって、社説を「政治を動かす命令書」と考えるのではなく、政治家、報道機関、世論が互いに影響を与え合う過程の一部として見る方が妥当である。

 政治家にとって重要なのは、社説の文章そのものだけではなく、その主張が社会の中でどの程度共有される可能性があるのかという点であり、ある問題が新聞社説、テレビ報道、国会審議、世論調査、選挙の争点へと連鎖していけば、それは単なる新聞社の主張ではなく、社会全体の政治的課題として無視しにくいものになっていく。

 その意味では、政治家が社説を読むとき、紙面に書かれた数千字だけでなく、その背後にいる見えない読者たちの存在まで同時に意識していると考える方が自然である。

こんな記事もあります。SNS時代に新聞は何のためにあるのか?

官僚は「事実上の読者」になりうる

 政治家ほど表には出ないものの、政策や行政運営を扱う社説では、官僚もまた事実上の読者になりうる。政治家が政策の大きな方向を決める立場にあるとすれば、官僚はその決定を法律、政令、省令、予算、補助金、行政手続き、運用基準などの具体的な制度へ落とし込む役割を担っており、政策が現実に動くためには行政実務の存在を無視できないからである。

 社説の中には、一般読者向けとしてはやや細かく感じられる制度設計、行政手続き、情報公開、審議会の構成、予算措置などに踏み込むものがあるが、そうした論点について実際の制度変更を行うのは多くの場合、行政機構である。このため、新聞社が最初から官僚だけを主な読者として社説を書いているとまでは言えないものの、行政実務を扱う社説が官僚組織にも読まれ、その反応対象になる可能性は十分にある。

 しかも、新聞と官僚の関係は一方向ではなく、記者は役所や政府関係者を取材し、そこで得た情報を記事として報じ、その情報をもとに社説や解説記事が書かれ、それを再び行政側が読むという循環が存在する。記者が官庁の扉をたたき、そこで得られた情報が新聞紙面に掲載され、その新聞が翌朝には再び官庁の机に置かれていると考えると、新聞と行政の関係は単純な「発信者」と「受信者」ではなく、情報と言葉が社会の中を循環する関係にあることが分かる。

社説が硬く感じられるのは、複数の読者構造も理由の1つかもしれない

 社説を読んで、「文章が硬い」「誰に話しかけているのか分かりにくい」と感じる人がいるのは、こうした複雑な読者構造とも無関係ではないと考えられる。一般読者だけを対象にするなら、もっと身近な具体例を使って柔らかな文章にすることができ、政治家だけを対象にするなら、政策提言書のように具体的な要求を端的に示すこともできるし、官僚だけを相手にするなら、法令や制度設計の細部にまで踏み込んだ専門的な文章を書くこともできる。

 ところが社説は、政治に詳しくない読者にも意味が通じる一方で、政治家や行政関係者が読んでもあまりに単純すぎる文章にはできないという難しさを抱えている。政府を批判する場合でも感情的な非難だけでは新聞社としての説得力を失い、逆に制度論や専門用語ばかりを並べれば一般読者から離れてしまうため、その中間を歩こうとすれば、表現はどうしても慎重になり、抽象度もある程度高くなる。

 ただし、社説の文章が硬くなる原因を、この複数の読者構造だけで説明することはできない。新聞社ごとの文体や編集方針、扱うテーマの専門性、新聞という媒体が持つ伝統的な文章形式なども影響していると考えられるため、「複数の相手を同時に意識することも、社説の慎重で硬い文体を生む理由の1つになっている可能性がある」と考える程度が妥当である。

社説には、やがて未来の読者も現れる

 一般読者、政治家、官僚という3者を考えれば、社説の現在の読者像はかなり見えてくるが、新聞にはもう1つ、執筆時には必ずしも想定されていない読者が後から現れる。

 それが未来の読者である。

 今日の社説は明日になれば古い新聞になるが、10年、30年、50年と時間が経過すると、その文章は当時の社会を知るための歴史資料へと姿を変える。ある政策が決められたとき、新聞がそれをどのように評価し、何を問題として取り上げ、どのような言葉で政府を批判したのかをたどれば、その時代の社会が何を恐れ、何を期待し、何を当然だと考えていたのかを知る手がかりになる。

 ただし、新聞社が未来の研究者や歴史家を主な読者として社説を書いているわけではないため、「未来の読者」は現在の一般読者や政治家と同じ意味での意図された読者ではない。それでも、発行された文章は後世に残り、新聞社自身が意図しなかった読まれ方をするようになるため、社説はその日の議論に参加する文章であると同時に、結果として「その時代の新聞社は何を考えていたのか」を記録する資料にもなる。

本当の宛先を1人に決めることはできない

 それでは最初の問いに戻ると、新聞の社説は一般読者、政治家、官僚の誰に向けて書かれているのかという問題は、誰か1人だけを選んだ瞬間に、社説の実態から少し離れてしまう。

 直接の読者としては一般市民が最も重要であり、政策についての呼びかけ先としては政治家が大きな位置を占め、制度や行政運営を扱う場合には官僚もまた事実上の読者になりうる。しかも新聞社の主張は、読者の反応、政治家の発言、政府の対応、官僚組織の制度変更などを通じて再び新聞に戻ってくるため、そこには発信者と受信者が固定された単純な通信ではなく、言葉が社会の中を循環する仕組みが存在する。

 したがって、社説の宛先をあえて1つの言葉で表すなら、「社会そのもの」と表現することはできるが、これは科学的な分類というより、複数の読者と政策過程をまとめて捉えるための比喩である。

 新聞社が1本の社説を書くという行為は、巨大な広場の中央に1つの問いを置くことに似ている。広場には会社員も学生も年金生活者もいて、その少し向こうでは国会議員がその声を聞き、さらに行政を担う人々も同じ文章を読むかもしれないが、誰がどの程度影響を受けるのかは最初から決まっていない。

 それでも社説が提示した問題について、ある人は賛成し、ある人は反対し、政治家が答え、政府が説明し、別の新聞が異なる意見を示すことで議論は広がっていくため、社説の重要な役割は、人々を一方向に動かすことではなく、社会の中に「これは考えるべき問題ではないか」という問いを置くことにある。

 そう考えると、社説は一般読者だけに向けられた文章でも、政治家への要求書でも、官僚への政策提言書でもない。複数の立場の人間が同じ文章を読み、それぞれ異なる意味を受け取り、その反応が再び社会へ戻っていくという、新聞ならではの公開された対話の一部なのである。

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~「オールドメディア」批判を超えて考える新聞の社会的役割

 スマートフォンを開けば、世界中で起きている出来事がほとんど瞬時に流れてくる。X(旧Twitter)やFacebook(フェイスブック)、Instagram(インスタグラム)、YouTube(ユーチューブ)などのSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)では、事件や災害の発生直後から現場の映像や当事者の証言が投稿され、新聞社やテレビ局が報じるより早く情報が広がることもある。専門家が自らの研究成果を直接説明し、行政機関が公式資料を公開し、市民が地域の問題を発信できる現在、新聞社だけが社会にニュースを届ける時代ではなくなった。

 こうした変化の中で、「新聞はもう必要ないのではないか」という疑問が生まれるのは自然なことである。新聞やテレビを「オールドメディア」と呼び、報道内容の偏り、情報の選別、誤報への対応、政治や行政との距離の近さを批判する意見も少なくない。実際、新聞社の報道が常に正確で公正であるとは限らず、取材対象の説明を十分に検証しないまま報じたり、重要な事実を見落としたりする可能性は存在する。

 しかし、新聞社に問題があることと、社会に新聞が担ってきた機能が不要になることは同じではない。情報を発信する手段が増えたとしても、その情報が正確なのか、何が社会的に重要なのか、行政や企業の説明が事実と一致しているのかを調べる仕事まで自動的に増えるわけではないからである。

 現代社会にとって重要なのは、紙の新聞という媒体を守ることではなく、専門的な取材、情報の検証、権力の監視、社会的な記録といった機能を維持することである。新聞社は長年その中心的な担い手となってきたが、今後も同じ組織形態だけが必要というわけではない。新聞の存在理由を考えることは、情報があふれる時代に、社会が信頼できる事実をどのように確保するのかを考えることでもある。

「オールドメディア」批判は何を問題にしているのか

 新聞やテレビが情報流通の中心を占めていた時代、市民が不特定多数に情報を届けるためには、大規模な設備や組織を必要とした。新聞に掲載されず、テレビでも取り上げられなかった問題は、社会全体に広がりにくかった。その意味で、既存の報道機関には、どの情報を社会に届けるかを選択する「門番」としての役割があった。

 インターネットとSNSの普及は、この構造を大きく変えた。市民が現場の映像を公開し、専門家が記者を介さずに見解を説明し、政治家が自らの発言を直接発信できるようになったことで、新聞社や放送局が情報流通の入口を独占する状況は弱まった。既存メディアが取り上げなかった問題がSNSで注目され、その後に新聞報道へ発展する事例もあり、情報発信の主体が多様化したことには大きな社会的意義がある。

 一方で、新聞社の側にも、従来の報道姿勢を検証する必要がある。どの問題をニュースとして選ぶのか、なぜ特定の人物を取材対象とするのか、異なる見解を十分に紹介しているのか、誤報が判明したときに読者へ適切な訂正を届けているのかという問題は、単なる新聞嫌いとして片づけることはできない。新聞社が自らの判断過程について十分な説明を行わなければ、読者が報道の妥当性を評価することも難しくなる。

 したがって、「オールドメディア」という批判を、古いものを否定する感情的な言葉としてのみ理解するのは適切ではない。批判の中には、既存報道機関が持つ組織的な権力や、情報を選別する立場への不信が含まれている。ただし、その批判によって証明されるのは、既存メディアの改革が必要であるということであって、取材や検証という社会的機能そのものが不要になったということではない。

情報が多い社会と、正確な情報が多い社会は同じではない

 現代では、個人でも世界へ情報を発信できる。災害現場の住民が被害状況を伝え、行政の説明に疑問を持った市民が資料を公開し、研究者が専門的な知識を一般向けに解説することは、情報社会における重要な進歩である。発信の自由が広がったことで、従来は社会に届きにくかった声が可視化され、新聞社の報道内容を市民が検証する機会も増えた。

 しかし、情報の発信量が増えることと、社会が正確な情報を得られることは同義ではない。人間は、意外性のある情報、自分の考えと一致する情報、怒りや驚きを誘う情報に反応しやすく、SNSではそうした心理的な性質と情報拡散の仕組みが結びつく場合がある。慎重な調査結果よりも断定的な投稿が注目されることがあり、情報の拡散規模が必ずしも正確性や社会的重要性を反映しているわけではない。

 この点については実証研究も存在する。2018年、ヴォソウギ、ロイ、アラルらが学術誌『Science』に発表した研究では、2006年から2017年までのTwitter上における約12万6千件の情報の拡散を分析した。その結果、虚偽と判定された情報は、真実と判定された情報よりも広く、速く、深く拡散する傾向が確認され、特に政治に関する情報ではその違いが顕著だった。

 ただし、この結果を「SNS上の情報は新聞より信頼できない」という単純な結論に置き換えることはできない。研究対象は当時のTwitterであり、事実確認機関が評価した情報を分析したもので、すべての投稿や現在のすべてのSNSを無作為に調査したものではない。また、情報が拡散されることと、それを受け取った人が内容を信じることも別の現象である。研究が示しているのは、情報が正確であることと、情報が拡散されやすいことは必ずしも一致しないという問題である。

 情報を大量に流通させる技術が発達しても、その情報の真偽を確認するための時間、専門知識、調査費用まで不要になるわけではない。むしろ、発信される情報が増えるほど、どの情報を確認すべきかを判断し、事実と推測を区別し、誤りを訂正する仕組みの重要性は高まると考えられる。

新聞は情報発信装置であると同時に、情報検証を担う組織である

 新聞社の特徴の一つは、取材、編集、掲載判断、訂正という作業を、継続的な組織活動として行えることである。一般的な新聞社には記者や編集責任者が存在し、取材で得た証言や資料を確認したうえで記事を公表する仕組みがある。重大な事実関係について複数の関係者へ確認したり、公開資料と証言を照合したりすることも、報道の信頼性を確保するための基本的な手続きとなっている。

 もっとも、こうした体制が存在するからといって、新聞記事の正確性が自動的に保証されるわけではない。確認作業が不十分な場合もあれば、情報源の説明を過度に信用したり、編集部全体が同じ思い込みを共有したりする可能性もある。新聞記者も編集者も人間であり、組織的な検証体制と実際に得られる情報の品質は、区別して評価しなければならない。

 日本新聞協会は2000年に制定した新聞倫理綱領において、報道の正確性と公正性、新聞の独立性、誤報の訂正などを求めている。しかし、これは報道機関による自主的な倫理規範であって、個々の新聞記事について正確性を公的に認証する制度ではない。法的責任についても、名誉毀損やプライバシー侵害などが問題となる場合はあるが、すべての記事について掲載前の第三者確認を義務づける一般的な法律が存在するわけではない。

 一方、SNSの個人投稿についても、責任が存在しないわけではない。投稿内容によっては民事上や刑事上の責任が生じることがあり、専門家や独立記者が高度な検証を行って発信する場合もある。したがって、新聞とSNSの違いを、責任の有無や正確性の優劣だけで説明することは適切ではない。

 重要なのは、情報を公開する前後にどのような確認が行われ、誰が判断し、誤りが判明した場合にどのような訂正を実施できるかということである。新聞社の公共的な価値は、組織であるという事実だけではなく、実際に検証機能を発揮し、その過程について読者に説明できるかによって評価されるべきである。

新聞の重要な役割は、まだ表面化していない問題を発見することにある

 SNSは、既に発生した出来事や、誰かが把握している情報を迅速に広めることに適している。火災や地震の発生、政治家の発言、企業の発表などは、現場にいる人や当事者が直接発信することで、短時間のうちに広範囲へ伝わる可能性がある。もちろん、最初の発信だけでは事実関係が確定しないことも多いが、問題の存在を社会に知らせるという意味では大きな役割を果たしている。

 一方、社会にとって重要な問題のすべてが、最初から分かりやすい事件として表面化するわけではない。自治体の予算に不自然な支出がある、公共事業の契約が特定の事業者へ偏っている、医療機関で同種の事故が繰り返されている、行政の説明と実際の統計に食い違いがあるといった問題は、継続的に資料を調査しなければ発見できない場合がある。

 例えば、自治体が公表した決算書の数字だけを見ても、その支出が適切であったかは分からない。過去の決算、当初予算、契約内容、事業実績、他自治体との比較などを確認し、必要に応じて担当者や関係者へ取材することで、初めて問題の存在が明らかになる場合がある。特定の事業に支出が集中していても、それが合理的な政策判断の結果なのか、不適切な契約の結果なのかは、数字だけでは判断できない。

 こうした調査報道には、取材能力だけでなく、時間と費用が必要になる。何週間も資料を調べた結果、違法行為や不正が存在しないと判明することもあり、その場合でも調査に要した費用が回収できるとは限らない。しかし、不正が発見されなかったという結果にも、疑惑を整理し、根拠のない批判を抑えるという社会的な意味がある。

 このような継続的な調査を、個人が無償で長期間担うことには限界がある。新聞社のような組織は、記者を雇用し、専門的な知識を蓄積し、調査に必要な費用を負担することで、個人だけでは実施しにくい報道を可能にしてきた。ただし、その役割を担えるのは新聞社だけではなく、通信社、放送局、独立系の報道機関、非営利の調査報道組織なども同様の機能を提供し得る。

 したがって、必要なのは新聞社という名称や組織形態そのものではなく、まだ社会に知られていない重要な事実を発見するための専門的な調査能力である。

「新聞は後追いばかり」という批判をどう考えるか

 既存メディアへの批判では、SNSで既に知られている情報を新聞が遅れて報じることが問題にされる。確かに、紙の新聞には発行周期という制約があり、現場の目撃者が直接発信する情報と比べれば、速報性の面で不利になる場合がある。しかし、新聞社の電子媒体や独自取材による速報まで含めれば、新聞社が常にSNSより遅いとは限らない。

 大規模な事故が起きた直後には、SNS上に死傷者数、事故原因、関係者の氏名、現場の映像などが流れることがある。しかし、その中には事実と推測が混在している可能性があり、映像が本当に当該事故のものなのか、情報の発信者が現場にいたのか、発表された数字の根拠は何かといった確認が必要になる。

 報道機関がこうした確認に時間をかければ、最初の投稿より遅くなる場合がある。その時間差は、必ずしも報道能力の不足を意味しない。確認に必要な時間は、誤った情報を広める危険を抑えるための費用とも考えられる。ただし、単に対応が遅れただけの場合もあり、報道が遅かったという事実だけから、慎重だったとも無能だったとも判断できない。

 速報性を評価する場合には、最初の情報が出るまでの時間だけでなく、その時点でどの程度の事実が確認されていたのか、後からどれほど訂正されたのか、重要な情報がどの程度欠落していたのかを併せて見る必要がある。速い報道にも、正確な報道にも社会的価値があり、両者の優劣は具体的な状況によって異なる。

新聞の権力監視には、実際に経済的価値がある可能性がある

 新聞の重要な社会的機能の一つに、政治、行政、企業などを継続的に監視する役割がある。ジャーナリズムでは、これをウォッチドッグ(Watchdog・権力監視)機能と呼ぶ。民主主義では選挙によって政治家を選ぶことができるが、選挙だけで行政の日々の意思決定や公金の使途を十分に把握することは難しい。

 自治体では、予算の執行、公共事業の契約、条例の制定、各種許認可、補助金の交付など、多くの行政行為が日常的に行われている。これらのすべてを住民が個別に確認することは現実的ではなく、専門的な知識を持つ記者が継続的に資料を調査し、行政へ質問することには一定の社会的意義がある。

 この役割は、理念だけでなく、実証研究によっても検討されている。2020年、ガオ、リー、マーフィーらが経済学の学術誌『Journal of Financial Economics』に発表した研究では、米国の地方新聞の廃刊と自治体の資金調達費用との関係を分析した。その結果、地方新聞が廃刊した地域では、一定期間の経過後、地方債の借入利回りが約5~11ベーシスポイント上昇する傾向が確認された。これは金利に換算すると約0.05~0.11パーセントポイントに相当する。

 研究では、単に新聞が廃刊した地域とそうでない地域を比較するだけでなく、地域経済の悪化などが結果に影響している可能性についても検討している。新聞の廃刊と自治体財政の悪化が同じ経済的要因から生じているだけではないかという問題に対処し、新聞廃刊による監視機能の低下が資金調達費用へ影響するという因果関係を推定した点に、研究上の重要性がある。

 もっとも、観察データを使った因果推定には限界があり、すべての交絡要因を完全に取り除けるとは限らない。また、この研究は米国の地方債市場を対象としており、日本の自治体に同じ金利上昇が生じると証明したものではない。日本では地方債の資金調達制度や公的資金の役割が米国と異なるため、研究結果をそのまま日本の市町村へ適用することはできない。

 それでも、この研究は重要な示唆を与えている。新聞記者による行政監視が弱まることで、自治体の運営状況に関する外部の情報が減り、投資家などが認識する不確実性が高まる可能性があるからである。情報の非対称性、すなわち行政内部と外部の人々との間に存在する情報格差を縮小することが、報道機関の経済的な価値につながるという考え方である。

 仮に10億円の借入について金利が0.05~0.11パーセントポイント上昇すれば、元本が一定であるという単純化した条件の下では、年間約50万~110万円の追加利息に相当する。ただし、これは研究結果の規模を理解するための仮定上の計算であり、日本の自治体で実際に同額の負担が増えるという予測ではない。

 重要なのは、新聞の社会的価値が購読料や広告収入だけでは測れない可能性があるということである。行政の透明性が高まり、不適切な支出が防止され、政策判断のための情報が増えれば、新聞を購読していない住民も利益を受ける可能性がある。

地方社会では、継続的な取材機能の価値が高まる

 新聞の公共的な役割を考えるうえで、地方社会は特に重要である。国会や中央省庁、大企業については複数の報道機関が日常的に取材を行う一方、人口数万人規模の自治体では、議会や行政の動きを継続して取材する報道主体が限られている場合がある。

 住民にとって重要なのは、全国的な政治問題だけではない。学校の統廃合、地域病院の診療体制、上下水道料金、公共交通、介護サービス、道路整備、公共施設の維持管理、観光事業への公費投入などは、地域の生活条件や自治体財政に直接影響する。全国的には注目されにくい問題でも、その地域に暮らす人々にとっては極めて重要な政策判断となる。

 例えば、人口減少が続く自治体で学校を統廃合する場合、児童生徒数の推移、施設の維持費、通学時間、教育環境、将来の人口見通しなどを総合的に検討する必要がある。行政が提示した資料をそのまま紹介するだけでなく、推計の前提条件、他自治体との比較、保護者や住民の意見、代替案の費用まで検証することによって、政策の妥当性を社会的に議論する材料が得られる。

 地方紙や地域報道機関がこうした問題を継続的に取材することには、行政の説明責任を高める効果が期待できる。ただし、「地方ほど新聞が必要である」という主張を無条件に一般化することはできない。地域によって新聞社の取材体制、地方議会の情報公開状況、市民団体の活動、地域独立メディアの有無などが異なるため、どのような報道機能が不足しているかは個別に検証する必要がある。

 地方新聞が廃刊したとしても、他の報道機関や独立記者が継続的な取材を引き継ぐのであれば、監視機能が必ず失われるとは限らない。一方、廃刊によって取材人員が減少し、他の主体による補完が行われなければ、行政の意思決定を継続して確認する能力が低下する可能性がある。

 特に人口減少地域では、報道を支える購読者や広告主も減少しやすい。社会的に重要な情報ほど、十分な取材費用を確保しにくくなるという問題が生じる可能性があるため、地方報道の維持は、単なる新聞社の経営問題ではなく、地域社会が情報を確保するための制度的な課題として考える必要がある。

行政広報と報道は、同じ役割を担っているわけではない

 近年、多くの自治体が公式ウェブサイトやSNSを通じて、議会資料、予算、決算、政策方針、災害情報などを公開している。行政が直接情報を発信できることは、住民の情報取得を容易にし、情報公開の効率を高めるという意味で望ましい変化である。報道機関を介さなければ行政情報を知ることができない社会へ戻る必要はない。

 しかし、行政広報と独立した報道には、本質的な違いがある。行政は政策を立案し、実施し、その結果について説明する当事者である。一方、独立した報道機関は、その説明が事実に基づいているのか、提示されていない問題が存在しないか、政策の効果が当初の想定と一致しているかを外部から検証する役割を担う。

 もちろん、行政が公表する情報をすべて疑うべきだということではない。公的統計や決算書、議事録などは重要な一次資料であり、検証の出発点となる。ただし、行政が選択して公表した指標だけでは政策の全体像を把握できない場合があり、資料の範囲、集計方法、比較対象、政策目標との関係まで確認する必要がある。

 また、日本では新聞記者だけが行政を監視できるわけではない。国の行政機関については行政機関情報公開法に基づく文書開示請求が可能であり、地方自治体にも情報公開条例が設けられている。地方自治法第242条には住民監査請求の制度があり、地方議会、監査委員、住民、研究者、市民団体なども行政監視を担っている。

 したがって、新聞が行政監視を独占しているわけではなく、複数の制度と主体が相互に補完することが重要である。新聞社が独自に発見した問題を住民が検証し、議会が行政へ質問し、必要に応じて監査制度や司法制度が機能するという関係が形成されれば、行政の透明性を高める可能性がある。

新聞は社会に共通の議題を提示する

 新聞には、出来事を伝えるだけでなく、社会がどの問題に注意を向けるかに影響を与える機能がある。マスメディア研究では、これをアジェンダ・セッティング(Agenda Setting・議題設定)と呼び、1972年にマコームズとショーが発表した研究などによって、その考え方が発展してきた。

 議題設定とは、新聞が人々の考え方を自由に決定できるという意味ではない。社会に存在する無数の問題の中から、人口減少、医療、教育、物価、雇用、外交、災害などを継続的に取り上げることで、読者が何を重要な社会問題として認識するかに影響する可能性があるということである。

 紙の新聞には、読者が当初関心を持っていなかった情報にも触れやすいという特徴がある。経済の記事を読もうとして紙面を開いた人が、隣に掲載された地域医療や教育、国際情勢の記事にも目を通す場合がある。こうした偶発的な情報との接触は、自分が積極的に検索しない問題を知る機会につながる。

 一方、SNSでは利用者の過去の行動や関心などに基づいて情報が表示される場合があり、関心のある分野の情報を効率的に取得できる反面、それ以外の問題に触れる機会が変化する可能性がある。もっとも、新聞も編集部がニュースを選択しており、すべての情報を中立的かつ均等に掲載しているわけではない。情報の選択が行われるという点では、新聞とSNSの双方に共通する性質がある。

 また、SNSのアルゴリズムによる情報選別が、必ず政治的な分断を強めると断定することもできない。2023年に学術誌『Nature』で公表された米国のFacebook利用者に関する実験研究では、政治的に近い情報源への接触割合を平均53.7%から36.2%へ低下させる介入が行われた。しかし、調査期間中に政治的態度や分極化の指標について明確な改善効果は確認されなかった。

 この研究は、情報への接触構造を変えることと、人々の政治的な意識を変えることが同一ではないことを示している。ただし、特定の国、サービス、期間を対象とした研究であり、あらゆるSNSで分極化への影響が存在しないと結論づけるものでもない。

 したがって、新聞とSNSを比較するときには、単に編集者がいるかどうかではなく、誰がどのような基準で情報を選び、利用者がその基準をどの程度把握できるのかを検討する必要がある。新聞に求められるのは編集判断の説明可能性であり、SNSの運営企業にも、情報の推薦や表示が社会に及ぼす影響について検証可能性を高めることが求められる。

「偏向報道」という批判から新聞は逃げてはいけない

 新聞の社会的重要性を認めるのであれば、報道の偏りに関する批判も正面から検討する必要がある。新聞記事には取材と編集の過程で判断が加わるため、すべての記事を完全に価値中立にすることは難しい。どの出来事を報道するか、誰に取材するか、どの数字を見出しに使うか、異なる意見をどの程度掲載するかによって、読者が受け取る印象は変化する。

 問題は、編集上の選択が存在することそのものではない。その選択が十分な根拠に基づき、異なる見解や不利な事実を不当に排除せず、読者が検証できる形で示されているかということである。報道内容の公正性は、特定の立場の意見を機械的に同じ量だけ掲載すれば確保されるものではなく、事実関係の確かさ、根拠の強さ、論点との関連性を適切に評価することが必要になる。

 また、新聞社は公共的な役割を担う一方、多くの場合、購読料や広告収入によって事業を運営する企業でもある。広告主との関係、経営者の方針、想定する読者層、取材対象との距離などが、編集判断に影響する可能性は否定できない。新聞社が組織として存在することだけでは、政治的、経済的な利害からの独立が保証されるわけではない。

 日本の報道制度を考えるうえでは、記者クラブの存在も検討対象となる。記者クラブには行政機関などへの継続的なアクセスを確保し、情報を効率的に収集できるという利点がある。一方で、加盟資格や記者会見への参加条件、取材対象との距離、同じ発表内容を複数社が似た角度から報じる横並び報道などの問題も指摘されている。

 記者クラブを全面的に否定すれば解決するというものではないが、権力監視を担う報道機関が、取材対象から十分な独立性を保っているかは重要な評価基準である。独立記者や新規参入の報道機関による取材機会が適切に確保されているかについても、継続的な検証が必要である。

 誤報への対応についても同様である。重大な誤りが判明した場合、単に訂正記事を掲載するだけでなく、何を誤ったのか、どのような確認が不足していたのか、その後の取材によって何が判明したのかを説明することが望ましい。新聞が信頼を得るために必要なのは、権威ある組織として扱われることではなく、自らの報道を読者が検証できる仕組みを整えることである。

新聞の発行部数減少は、社会的な役割の消滅を意味するのか

 日本では新聞の発行部数が長期的に減少している。日本新聞協会の調査によれば、2025年10月時点の加盟日刊104紙の総発行部数は2486万8122部となり、前年から174万8456部、率にして約6.6%減少した。1世帯当たりの発行部数は0.42部となっており、紙の新聞がかつてと同じ規模で家庭へ届けられる状況ではなくなっている。

 ただし、発行部数は読者人数と一致しない。1部を複数人が読む場合があるほか、電子版の利用者や、新聞社の記事を他のサービスを通じて読む人も存在する。したがって、紙の発行部数の減少を、そのまま新聞報道への接触人数の減少と見なすことはできない。それでも、紙媒体を中心としてきた新聞社の収益構造に変化が生じていることは明らかである。

 英国オックスフォード大学ロイター・ジャーナリズム研究所の2026年のデジタルニュース調査では、日本でニュース全般を信頼すると回答した割合は41%、オンラインニュースに料金を支払った割合は9%と報告されている。ただし、41%は新聞だけの信頼率ではなく、ニュース全般に対する回答者の主観的評価である。また、9%という支払い割合も、ジャーナリズムの社会的価値を直接測定したものではない。

 こうした統計から確認できるのは、新聞が社会的に必要とされることと、その機能を市場収入だけで維持できることは別の問題だということである。新聞社が公共的な役割を果たしていたとしても、読者が十分な料金を支払わなければ、取材体制を維持するための経営資源が不足する可能性がある。

 逆に、発行部数や売上高が大きい新聞社であっても、そのことだけで取材の正確性や権力監視の成果が優れていると判断できるわけではない。新聞社の経営規模、市場での人気、報道の品質、公共的な貢献は、相互に関係する場合があるものの、それぞれ区別して検証する必要がある。

新聞の社会的価値は、市場で十分に評価されているのか

 経済学の観点から見ると、調査報道には正の外部効果が生じる可能性がある。例えば、ある新聞社が自治体の不適切な支出を発見し、その後に支出が是正された場合、その利益を受けるのは購読者だけではない。自治体の財政負担が軽減されれば、新聞を読んでいない住民も利益を受ける可能性がある。

 このように、報道の成果が料金を支払った利用者以外にも及ぶ場合、社会全体が得る便益と、新聞社が事業収入として回収できる便益との間に差が生じる。調査報道は厳密な意味ですべてが公共財であるわけではないが、公共財に似た性質や正の外部効果を持つ場合があり、市場だけでは社会的に望ましい量の取材が提供されない可能性がある。

 これを単純な数理モデルで考えると、調査によって不正や不適切な支出が発見・是正される確率の増加分に、回避可能な社会的損失を掛け合わせれば、期待される損失回避額を概念的に表すことができる。その期待額が取材費用を上回るならば、社会全体で見た調査報道の期待純便益はプラスになる。

 ただし、実際の評価ではさらに慎重な検討が必要である。報道がなくても不正が発見された可能性、監査機関などによる監視との重複、誤報によって発生する損失、取材のために必要となった費用なども考慮しなければならない。単に不正が発見された件数や回収された金額だけで、その新聞社の社会的貢献を完全に測定できるわけではない。

 それでも、こうした考え方は、新聞の価値を単なる情報商品の売上高だけで判断することの限界を示している。社会にとって必要な情報が、購読料や広告収入だけでは十分に供給されない場合、どのような形で専門的な報道機能を維持するかが政策的な課題となる。

調査報道を支える費用は、誰が負担するべきなのか

 継続的な取材には、人件費、交通費、資料収集費、編集費、法的な確認に要する費用などが必要になる。記者が自治体の決算書を何年分も比較し、関係者へ取材を重ね、調査結果を公表するまでには、長い時間がかかる場合がある。社会的に重要な調査であっても、記事として公開したときに十分な閲覧数や購読収入が得られるとは限らない。

 従来の新聞社は、購読料と広告収入を組み合わせることで、個々の記事の採算性だけでは維持しにくい取材活動を支えてきた。しかし、紙の発行部数が減少し、広告市場の構造が変化すれば、同じ方法で取材体制を維持することは難しくなる可能性がある。

 今後の選択肢としては、電子版の購読料、会員制、寄付、非営利報道組織、公益的な助成、複数の報道機関による共同調査などが考えられる。ただし、いずれの方式にも利点と課題があり、特定の仕組みを採用すれば自動的に報道の独立性が確保されるわけではない。

 特に公的支援を検討する場合には慎重さが求められる。行政を監視する報道機関が行政から資金を受け取ることになれば、支援制度の設計によっては取材対象との利害関係が生じる可能性がある。そのため、公的資金を活用するのであれば、個別の報道内容に行政が介入できない仕組み、支援対象の透明な選定基準、複数の主体による監督、資金配分の独立性などが重要になる。

 新聞の社会的価値を認めることと、既存新聞社への無条件の支援を認めることは同じではない。必要なのは、社会にとって重要な取材機能を、できる限り独立性と透明性を維持しながら持続可能な形で確保することである。

新聞の価値は、どのように測定すべきなのか

 新聞の必要性を客観的に評価するためには、理念的な説明だけでなく、具体的な指標による検証も重要になる。発行部数や記事の閲覧数は経営上の指標として意味があるが、それだけでは報道の正確性や公共的な貢献を十分に測定できない。

 例えば、無作為に抽出した記事について一次資料との整合性を確認し、重要な事実誤認の割合を調べることで、報道の正確性を評価する方法が考えられる。また、記事の中で資料の出典が明示されているか、異なる立場の意見が適切に扱われているか、事実と論評が区別されているかを調査すれば、検証可能性や編集上の透明性を評価する材料になる。

 訂正記事についても、単純な件数だけでは品質を判断できない。誤りが多い新聞社ほど訂正件数が多くなる可能性がある一方、誤りを積極的に公開する新聞社の方が、訂正件数が多く見える場合もある。そのため、訂正の件数に加え、誤りの重大性、発見から訂正までの時間、訂正内容の明確さ、元の記事を読んだ人へ訂正が届く仕組みなどを組み合わせて評価する必要がある。

 権力監視の成果については、行政発表を紹介した記事と、独自に資料を調査して問題を発見した記事を区別することが有効である。ただし、調査報道の本数が多いことだけで社会的価値を判断するのも適切ではない。重要な問題を一件発見することが、比較的重要性の低い記事を多数掲載することより大きな意味を持つ場合もあるためである。

 地域報道では、議会、決算、公共事業、医療、教育、社会保障などについて継続的な取材が行われているかを確認することも重要になる。単発の記事だけでは分からない政策の変化を長期間追跡できることは、地域社会にとって価値のある機能だからである。

 もちろん、こうした評価指標がすでに統一された基準として確立しているわけではない。しかし、新聞の必要性を主張するのであれば、その必要性を可能な限り測定可能な形で示し、実際の取材成果によって検証する姿勢が求められる。

SNSと新聞は、対立するだけの存在ではない

 新聞とSNSの関係を、どちらか一方が正しく、もう一方が間違っているという二者択一で考えることは適切ではない。SNSには、当事者が直接発信できること、現場の情報を迅速に共有できること、新聞社が取り上げなかった問題を可視化できることなどの長所がある。一方、専門的な報道機関には、継続的な取材、複数の資料や証言の照合、情報の体系的な整理、長期間の記録などで比較優位を持つ可能性がある。

 例えば、住民がSNSで自治体の事業について疑問を提示し、それを受けた新聞記者が契約資料や予算書を調べ、行政と関係者へ取材する。その結果が報道されれば、専門家や市民が公表された資料を使って内容を検証し、新たな問題が見つかれば報道機関が再調査するという循環が生まれる可能性がある。

 このような関係は、一方向に情報を伝える従来の報道構造とは異なる。新聞社が報道すれば市民はそれを受け取るだけという関係ではなく、報道機関と市民の双方が相手の情報を検証し、必要に応じて訂正や再調査を求めることができる。

 ただし、新聞とSNSが常に補完関係にあるわけでもない。利用者の時間、広告収入、情報の独占性などをめぐって競争する場合があり、SNS上の注目度を新聞社が過度に重視すれば、長期的な調査よりも短期的に反応を集めやすい記事へ経営資源が集中する可能性もある。

 したがって、両者の関係は補完と競争の双方を含んでいる。重要なのは、媒体の優劣を一律に決めることではなく、情報の発見、検証、流通、訂正という各段階で、どの主体がどの役割を担うことが合理的なのかを考えることである。

新聞は社会に必要だが、新聞社だけが必要なのではない

 新聞の社会的役割を論じる際、最も注意すべきなのは、専門的な報道機能が必要であるという主張と、既存の新聞社が不可欠であるという主張を混同しないことである。

 民主主義社会では、行政や企業の説明を独立した立場から検証し、社会にとって重要な事実を継続的に調査する機能が必要である。新聞社は長年、その重要な役割を担ってきた。しかし、それだけで同じ組織形態が将来も唯一の合理的な選択肢であると証明されるわけではない。

 例えば、独立した報道組織が十分な資金と専門人材を持ち、情報の検証、取材対象への質問、誤報の訂正、長期的な記録を継続できるのであれば、その組織は紙の新聞を発行していなくても、新聞ジャーナリズムと同等の公共的機能を担うことができる。

 逆に、紙の新聞を発行していても、行政発表を十分に検証せず転載するだけで、独自取材も訂正の仕組みも不十分であれば、その新聞社の公共的価値は限定的になる。新聞社という名称や長い歴史だけで、その存在意義が保証されるわけではない。

 したがって、守るべきものを既存の企業組織や紙媒体に限定する必要はない。社会に必要なのは、専門的な取材を行う人材、検証可能な情報を提供する仕組み、編集上の独立性、誤りを訂正する制度、権力に継続して質問できる能力、そして長期間にわたって社会の出来事を記録する基盤である。

「紙の新聞」を守ることと「ジャーナリズム」を守ることは違う

 20世紀の新聞は、ニュースを多くの人々へ届けるための重要な情報流通手段だった。しかし21世紀には、インターネットとスマートフォンの普及によって、紙の新聞だけがその役割を担う状況ではなくなった。速報を受け取ること、映像を見ること、当事者の発言を確認することは、新聞を購読しなくても可能になっている。

 紙の新聞には、情報を一覧できること、関心のない分野の記事にも触れやすいこと、保存や閲覧において一定の利点があることなどの特徴が残っている。また、デジタル機器の操作が難しい人や、インターネット環境が十分でない人にとって、紙媒体が重要な情報源となる場合もある。したがって、紙媒体を直ちに不要と判断することも適切ではない。

 しかし、人口構造、生活様式、情報取得の方法が変化すれば、紙の新聞の発行や配送を現在と同じ規模で維持することが、経済的に難しくなる可能性がある。紙の新聞を守るために、取材や検証に充てるべき資金が過度に圧迫されるのであれば、何を優先すべきかについて検討する必要がある。

 重要なのは、紙の新聞が存在すること自体ではなく、社会に必要な情報が継続的に調査され、正確性を検証され、読者が利用できる形で提供されることである。新聞社が電子版を中心に事業構造を変えても、独立した取材、検証、編集、訂正という機能が維持されていれば、ジャーナリズムの公共的な価値は残り得る。

 一方で、媒体を電子化しただけで経営問題が解決するわけではない。取材費用をどのように回収するか、読者がどの程度料金を負担するか、無料で公開すべき公共的情報をどう確保するかといった問題は残る。新聞の将来を考えることは、印刷技術の将来を考えることではなく、情報を調査する専門職を社会がどのように支えるかを考えることなのである。

新聞は「真実を決める機関」であってはならない

 新聞の必要性を認めることと、新聞に掲載された情報を無条件に信頼することは全く異なる。新聞社が社会にとって重要な機能を担っているからこそ、その報道内容も検証の対象となる必要がある。

 行政の一次資料、統計、議事録、専門家の研究、当事者の証言などを照合することによって、新聞記事に誤りや見落としがないかを確認できる。複数の新聞社が同じ事実を報じている場合でも、同一の発表資料や通信社の記事に依存している可能性があるため、報道件数が多いことだけを独立した証拠の多さと見なすことはできない。

 また、新聞社と異なる意見がSNSで広がっているという事実だけで、新聞の報道が誤っていると判断することも適切ではない。重要なのは、どちらの立場に属しているかではなく、それぞれの主張にどのような根拠があり、反証可能な形で説明されているかということである。

 新聞社は、自社の報道が批判されたときにも、その批判の内容を検証し、合理的な指摘であれば訂正や追加取材を行う必要がある。一方、市民や専門家も、新聞記事を批判する際には、具体的な事実や資料に基づいて検討することが望ましい。

 理想的なのは、新聞を無条件に信頼する社会でも、SNSを無条件に信頼する社会でもない。複数の情報源が相互に検証し、市民自身も一次資料へアクセスできる社会である。その中で専門的な報道機関が取材と検証を担うことに、公共的な価値がある。

SNS時代に必要なのは、新聞の消滅ではなく、報道機能の再定義である

 新聞が社会に必要なのかという問いに対して、紙の新聞を現在と同じ形で維持し続けなければならないと答える必要はない。また、既存の新聞社が長年にわたって社会的役割を果たしてきたという理由だけで、将来の存在を無条件に正当化することもできない。

 新聞社の存在意義は、過去の実績や社会的な権威によってではなく、現在どのような取材を行い、どの程度正確な情報を提供し、行政や企業の説明をどれほど独立した立場から検証しているかによって判断されるべきである。誤報があれば明確に訂正し、事実と論評を区別し、取材対象との関係を適切に保ち、読者が報道の根拠を確認できるようにすることが求められる。

 同時に、社会もまた、専門的な調査報道が費用と時間を必要とすることを理解する必要がある。誰でも情報を発信できる環境が整っても、行政の決算書を長期間比較し、公共事業の契約を検証し、企業の説明と現場の実態を照合し、必要に応じて何度も質問を重ねる仕事が、十分に供給されるとは限らない。

 地域社会では、この問題がより具体的に現れる。住民生活に重要な政策ほど、全国的には注目されにくく、報道による収益も限られる場合がある。取材する記者が減少し、地域の行政や議会を継続して確認する主体が不足すれば、住民が政策の妥当性を判断するための情報も不足する可能性がある。

 ただし、その空白を埋める主体が従来型の新聞社でなければならないわけではない。地方紙、独立した地域報道機関、非営利組織、専門家、市民団体などが、それぞれの長所を生かして取材と検証を分担することも考えられる。重要なのは、それらの活動が継続可能であり、取材対象からの独立性と情報の正確性が確保されることである。

 情報が限られていた時代、新聞は社会へニュースを届ける主要な媒体として重要だった。情報があふれる現在では、発信された情報の真偽を確認し、社会的に重要な問題を発見し、権力者の説明を検証し、出来事を長期間にわたって記録する機能の重要性が改めて問われている。

 その意味で、SNS時代に必要なのは、新聞を無条件に擁護することでも、古い媒体だから不要だと断定することでもない。新聞社の公共的な役割を認めると同時に、その報道内容と経営構造を客観的に検証し、必要な機能を維持するための新しい制度を考えることである。

 新聞は、真実を決定する機関ではない。社会に代わって最終的な判断を下す存在でもない。新聞の役割は、社会が判断するために必要な事実を調査し、その根拠を示し、異なる立場からの検証を可能にすることにある。

 そして、その役割を果たすためには、新聞自身も常に批判と検証を受け入れなければならない。自らの正しさを主張するだけでは信頼は維持できず、実際の取材成果、正確性、透明性、説明責任によって、その存在価値を示す必要がある。

 SNS時代に社会が必要としているのは、紙の新聞そのものではなく、独立性と専門性を持ち、継続的に情報を調査・検証し、権力を監視する報道機能である。新聞社はその重要な担い手であり続ける可能性があるが、その地位は自動的に保証されるものではない。

 誰でも情報を発信できる社会になった今、本当に問われているのは、誰が事実を確かめ、誰が権力に質問し、誰がその結果を社会に残していくのかということである。

 紙を守るのではなく、ジャーナリズムを守る。権威を守るのではなく、検証可能な情報を確保する。そして、新聞社を無批判に信頼するのではなく、新聞社自身も検証される社会の中で、専門的な取材機能を持続的に維持する。

 それこそが、SNS時代に新聞の必要性を考えるうえで、最も合理的な結論ではないだろうか。

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