地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 田中角栄の古い映像を見ると、不思議な感覚に襲われる。話し方は決して洗練されているとは言い難く、言葉を美しく並べるわけでもなければ、静かな低音と抑制された身ぶりで知性を演出するわけでもない。途中で言葉を継ぎ足し、同じ表現を繰り返し、ときには話が横道へそれる。それなのに、しばらく聞いていると、細かな文言は忘れても「この人は結局、何を言いたかったのか」が妙にはっきり残る。

 政治家の演説は、本来なら政策を説明するためのものである。しかし現実の政治では、政策の内容だけで人が動くわけではない。同じ政策を説明しても、ある人が話せば聞き流され、別の人が話すとなぜか耳を傾けてしまう。そこには政策の中身とは別に、言葉の具体性、話の組み立て方、話者への信頼、聞き手がもともと持っている政治的な好悪、さらには「この人は自分たちのことを分かっている」という感覚まで入り込んでくる。

 田中角栄という政治家を「話がうまかった人」の一言で片づけると、この複雑な構造を見失う。国会会議録をたどると、彼の答弁には「第一」「第二」と論点を区切り、金額、年数、回数、制度といった具体的な材料を会話の途中へ持ち込む例が繰り返し現れる。もちろん、すべての発言が同じ型だったと証明できるわけではない。それでも少なくとも、抽象的な政治課題を聞き手がつかめる大きさまで分解して示す話法が、彼の発言の中に何度も確認できることは確かである。

 では、その田中角栄の話し方を2026年のSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)へ持ってきたら、同じように人を動かせるのだろうか。これは実験で直接確かめることのできない問いである。半世紀前の政治家を現在の情報環境へ置くことはできない以上、答えはどうしても反実仮想になる。しかし、田中角栄の発話に見られる特徴と、現代の認知心理学や政治コミュニケーション研究で分かっていることを重ねれば、「何が現在でも通用しそうで、何が時代とともに変わったのか」を考えることはできる。

「分からせる」より先に、「分かる形」にしてしまう

 政治家が難しい政策を説明するとき、しばしば奇妙な逆転が起こる。正確に説明しようとするほど専門用語が増え、条件を丁寧に付けるほど文章が長くなり、話している本人は説明を尽くしているのに、聞いている側には何の話だったのかが残らなくなる。説明した情報量と、相手の頭に残った情報量が必ずしも比例しないのである。

 田中角栄の答弁には、その罠から逃れようとするような構造が見える。複雑な政策課題であっても、「第一の問題」「第二の問題」と区切り、そこへ金額や年数や制度の仕組みを置くことで、話全体にいくつもの目印を立てていく。聞き手は演説を一字一句記憶する必要はなく、「何が問題で、どれくらいの規模で、結局どうするのか」という骨格だけを持ち帰ることができる。

 これは心理学的にも無理のない考え方である。人間は、処理しやすい情報を理解しやすく感じる傾向を持つ。これをprocessing fluency(処理流暢性・情報をどれほど容易に認知、理解できるかという性質)という。政治的メッセージについても、抽象的で複雑な表現より、具体的で身近な表現の方が理解や説得力の評価に有利に働く場合があることが研究されている。

 ただし、ここで一つ重要な境界を引かなければならない。「分かりやすい」と「支持される」は同じではない。理解しやすい政策説明を聞いたからといって、その人が賛成するとは限らず、政治家への不信感が強ければ、むしろ内容を十分理解したうえで反対することもある。政党への帰属意識や、もともと抱いている政治家への好悪、自分の信念と一致しているかどうかといった要因が、情報の受け止め方に強く作用するからである。

 したがって田中角栄の話術を、「分かりやすかったから人を動かした」という一本の因果関係にしてしまうのは危険である。より現実に近いのは、具体性によって理解の負担を下げ、その上で信頼、人柄、政治的立場、利益への期待、地域との関係など複数の条件が重なったときに、態度や行動へ影響する可能性が高まるという見方だろう。

「強い言葉」と「強い説明」は同じではない

 現在の政治では、短く強い言葉が目立つ。「政治を変える」「既得権益を壊す」「国民を守る」といった言葉は、数秒で意味が伝わり、字幕にも入り、画面を流し見している人の目を止めやすい。SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)では、まず注意を獲得しなければ、その先の政策説明まで届かないのだから、政治家が短く強い表現へ向かうこと自体には合理性がある。

 しかし田中角栄の話し方をよく見ると、その強さは少し種類が違う。形容詞が強いから印象に残るのではなく、抽象的な政治課題を具体的な世界へ降ろしてくるから強いのである。道路の話なら道路がどこへ延びるのか、税金の話ならいくらなのか、制度の話なら誰が何をするのかというところまで言葉を運び、政治を霞の向こうにある巨大な仕組みから、自分の生活と地続きの問題へ変えていく。

 ここには、「強い言葉」と「強い説明」の違いがある。強い言葉は一瞬で感情を動かせるが、その人が政策を理解したとは限らない。一方、自分の暮らしがどう変わるのかまで想像できれば、賛成するにせよ反対するにせよ、政治はそれまでより自分に近い問題になる。田中角栄型の話術から現代の政治家が学べるとすれば、威勢の良い口調をまねることではなく、政策を聞き手の日常生活まで運んでくる技術の方だろう。

田中角栄は「切り抜き」に強かったのか

 現在の政治家は、一時間の演説全体によって評価されるとは限らない。その中の十五秒や三十秒だけが抜き出され、字幕を付けられ、元の演説を一度も見ていない何十万、何百万という人へ届くことがある。その映像を選ぶのも政治家本人とは限らず、支持者が好意的に編集することもあれば、批判する側が不利な部分を取り出すこともある。

 この環境へ田中角栄の話し方を置いたなら、比較的「切り抜きやすい」部分が多かった可能性はある。論点を明示し、数字を置き、結論へ向かう話し方は、発言の一部分だけを取り出しても意味が残りやすいからである。ただし、これはあくまで発話構造から導く仮説であり、「田中角栄なら現在の短尺動画で成功した」と実証できるものではない。

 本当に確かめようとするなら、田中角栄と複数の政治家の発言を同じ長さに編集し、人物名を伏せて被験者に提示したうえで、内容の理解度、記憶率、好感度、信頼度、共有したいと思う割合などを比較する必要がある。それを行わずに、「角栄は短尺動画に強い」と断言することは科学的にはできない。

 しかも、たとえ切り抜きに適した話し方であったとしても、それは長所であると同時に弱点にもなり得る。前後を含めて聞けば理由の分かる強い発言も、数秒だけを残せば「決断力のある政治家」にも「乱暴に断言する政治家」にも編集できる。話者本人が完成させた文脈より、編集した側が作った文脈の方が広く流通する可能性があるからだ。

 その意味で、田中角栄型の話術は、もし現在に存在すれば「切り抜きに強い」のではなく、「切り抜いた後でも形が残りやすい一方、別の物語にも組み替えられやすい」と表現した方が正確だろう。

百人の顔を見る政治から、見えない聴衆へ

 田中角栄の時代にも、もちろん新聞、ラジオ、テレビがあった。昭和の政治家が常に目の前の聴衆だけに向かって話していたわけではなく、田中角栄自身も放送を通して多数の国民へ語りかけている。したがって「昭和は対面、現代はネット」という単純な対比では、歴史を切り分けすぎることになる。

 それでも、現在のSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)が以前のマスメディアと決定的に違うところはある。テレビ放送なら、放送局が番組を編成し、おおよその放送時間と視聴者層を想定できる。ところがSNSでは、政治家が一台のスマートフォンへ話した映像が、その日の夜には数百人しか見られていなくても、翌朝には別の利用者による共有や推薦によって何十万人へ届く可能性がある。そのとき視聴者は、支持者だけではない。反対者、無関心層、偶然表示された人、政治的な対立を面白がって見ている人まで、まったく異なる文脈で同じ映像を受け取る。

 目の前の聴衆へ話す場合、政治家は相手の反応を見ることができる。笑えば分かり、退屈していれば分かり、ざわつけば話題を変えることもできる。SNSでは、その顔の代わりに再生回数、共有数、コメント数、視聴時間といった指標が返ってくる。人間の表情が、数字へ置き換えられるのである。

 ここで政治家にも新しい誘因が生まれる。怒りを示した動画の方が伸びる、対立相手を強く批判した投稿の方が共有される、慎重な説明より断言した発言の方が見られるという傾向が続けば、発信する側には、より反応の取れる表現を選びたくなる圧力がかかる。実際、政治的な対立や外集団への敵意、怒りなどを含む投稿が高い反応を得やすいことは、大規模なSNS分析でも報告されている。

 ただし、「だから政治家はアルゴリズムに操られている」とまで言うのは行き過ぎである。確認できるのは、刺激的な発信を選択する誘因が存在することであって、個々の政治家が実際にどの程度その数字へ適応しているかは別の問題だからだ。それでも、政治家が有権者へ働きかけるだけでなく、政治家自身も情報環境から影響を受けるという相互作用は、現代政治を考えるうえで無視できない。

「分かりやすい政治」が危険になる瞬間

 田中角栄の話し方を評価するとき、分かりやすさそのものを善と考えてしまうと、もう一つ重要な問題を見逃す。

 政策は、本来かなり複雑である。道路を一本造れば便利になるというだけではなく、建設費がかかり、その後には維持費が発生し、交通量が変わり、周辺の土地価格が動き、環境への負荷が生じ、隣接地域との競争条件まで変化するかもしれない。減税も家計にとっては利益になるが、その財源によって維持されていた公共サービスまで含めれば、単純に「税金が減るほど得」とはいえない。

 複雑な政策を生活の言葉へ翻訳することと、都合の悪い複雑さを取り除いてしまうことは、外から見るとよく似ている。前者は政治を理解可能にする行為だが、後者は政治を単純化しすぎる行為である。そして短い動画を中心とする情報環境では、この境界がますます曖昧になる。

 三十分の演説なら、「ただし、この政策にはこういう負担もあります」と補足することができる。しかし三十秒の動画では、条件や例外を付け始めた瞬間に時間がなくなる。その結果、「こうすれば解決する」という断定だけが残り、「その代わり何を失うのか」という部分が消えやすくなる。

 ここで田中角栄型の「分からせる政治」とSNSの短尺文化が結びつけば、非常に強い政治コミュニケーションになり得る。しかし同時に、政策の複雑性を一つの物語へ圧縮する力も強くなる。分かりやすさは民主政治に必要だが、分かりやすさが強すぎると、政治の現実そのものまで単純に見えてしまうのである。

人は論理だけでは動かない

 それでも、田中角栄を「説明がうまかった政治家」だけで理解するのは足りない。彼の話し方には、内容とは別に、聞き手との距離を縮める特徴があったと考えられる。

 政治家の言葉には、「何を言ったのか」と同時に「誰に向かって言っているように聞こえるのか」という情報が含まれている。全国民に向けて慎重に作られた完璧な文章より、少し不格好でも「自分たちに向かって話している」と感じる言葉の方が心に残る場合がある。人間は必ずしも、最も論理的で正確な説明をした人だけを信頼するわけではなく、「この人は自分たちの事情を分かっている」と感じることによって評価を変えることがあるからだ。

 ここでも因果関係を単純化してはいけない。親しみやすい話し方をすれば必ず支持が増えるわけではなく、同じ話し方でも、ある人には「庶民的」に映り、別の人には「粗野」に映ることがある。その違いを生むのは、話し手の言葉だけではなく、聞き手がすでに持っている政治的立場や社会経験、人物像への先入観である。

 田中角栄の話術の強さを考えるなら、「人を説得する魔法の話法」があったと考えるより、具体性、距離の近さ、行動の提示、人物への信頼といった複数の要因が相互作用し、その結果として強い政治的存在感が生まれたと考える方が現実に近い。

もし田中角栄が2026年にいたなら

 田中角栄が現在生きていたら、十五秒の動画を毎日大量に投稿しただろうか。それは分からないし、分からないことを断定する必要もない。ただ、彼の発話構造から推測するなら、短い動画だけで完結させるより、短い言葉を入口として長い説明へ人を連れていく形の方が似合ったのではないかと思える。

 田中角栄の話は、強い一言だけで終わるものではなく、論点を置き、数字や具体例を積み、その後で「だからこうする」という行動へ向かう。その構造を現在へ移すなら、三十秒の動画で注意を引き、その先に数分、さらに詳しい説明を置くという形になるだろう。

 ここに、現代の政治コミュニケーションを考えるうえで重要な問題がある。再生されることと理解されることは違い、理解されることと説得されることも違い、説得されることと支持されることも、さらに投票や政治参加という行動へ移ることも同じではない。

 一千万回再生された政治動画を見た人が、翌日には内容をほとんど覚えていないこともあり得る。一方、百人しか聞いていない演説が、その百人の投票行動や地域活動を変えることもあり得る。再生回数だけを見れば前者の圧勝だが、「人を動かしたか」という尺度では必ずしもそうならない。

 SNS時代の政治では、「何人に届いたか」という数字が目立つ。しかし本当に重要なのは、その言葉が誰に届き、その人の理解や判断をどれだけ変え、最終的にどのような行動へつながったのかである。そこまで追わなければ、情報の拡散量と政治的影響力を同じものとして扱うことになる。

角栄の声ではなく、構造を盗む

 では、田中角栄の話し方はSNS時代でも人を動かせるのか。

 科学的に答えるなら、「そのまま通用すると証明することはできない」が最も正確である。しかし同時に、彼の発話に確認できるいくつかの特徴は、現代の認知研究や政治コミュニケーション研究から見ても、人に理解されやすい条件とかなり重なっている。

 難しい政治を生活の言葉へ変え、抽象論の中へ数字を置き、話の途中に節目を作り、最後には「それで何をするのか」を示す。その方法は、半世紀を経たからといって古くなったわけではない。むしろ情報があふれ、数秒で次の情報へ移ってしまう現在だからこそ、複雑な話の骨格を失わずに分かりやすく伝える能力は、以前より重要になっている可能性がある。

 ただし現在の政治家には、田中角栄の時代とは異なる難しさが加わった。言葉はテレビや新聞だけでなく、無数の利用者が参加するネットワークへ放たれ、本人の手を離れた後で切り取られ、題名を付け替えられ、別の政治的物語へ組み込まれる。昭和の街頭政治では、政治家は目の前の聴衆の反応を見ながら話すことができた。テレビの向こうには顔の見えない大衆もいたが、現在ではさらに、誰がどこで、どの文脈で受け取るのかさえ予想しにくいネットワークが加わっている。

 その環境で、田中角栄の口調だけをまねても意味はない。豪快に話すことも、言葉を荒くすることも、断言を増やすことも本質ではない。学ぶ価値があるとすれば、その下にある構造である。

 政治を、自分とは遠い世界の出来事だと思っている人のところまで運び、そこで使われている言葉へ翻訳する。数字を数字のまま投げるのではなく、それが一人の暮らしに何を意味するのかを示す。そして、分かりやすく語りながらも、都合の悪い条件や副作用まで消してしまわない。

 田中角栄の話術がSNS時代にも生き残る可能性があるとすれば、それは昭和的な迫力が現在でも通用するからではない。

 人を動かす言葉とは、相手を圧倒する言葉ではなく、遠くにある政治をその人の足元まで運んでくる言葉だからである。メディアが新聞からテレビへ、テレビからネットワークへ変わっても、その一点だけは、案外変わっていないのかもしれない。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

 政治家にとって、口は災いの元である。選挙中なら一言で票が逃げ、大臣になれば記者会見の一節が翌朝の見出しになり、本人が三十分かけて丁寧に説明したつもりでも、その中から十数秒だけ切り取られた映像が独り歩きすることがある。政治家の側から見れば、現代ほど「余計なことを言わない」という能力に高い価値がつく時代はないのかもしれない。

 だから私たちは、失言の少ない政治家を見ると、つい「しっかりしている」と感じる。質問を受けても慌てず、不必要な断言を避け、言葉を選び、記者から何度尋ねられても不用意なことを言わない政治家は、確かに安定して見えるし、大きな組織を率いる人間に言葉の管理能力が必要なのも間違いない。けれども、ここで少し意地の悪い問いを置いてみると、政治家を見る景色は急に違ってくる。

 失言しない政治家とは、本当に優れた政治家なのだろうか。

 もちろん、これは「失言する政治家の方が優れている」という話ではない。他人を傷つける発言、差別的な発言、事実に反する発言、職務への無理解をさらけ出す発言まで、「率直な人だから」で済ませてしまえば、政治家の言葉に責任を求めること自体ができなくなる。問題はそこではなく、失言をしないことと、政治家として優れていることは本来別の尺度であるのに、私たちがいつの間にか両者をかなり近いものとして扱ってはいないか、という点にある。

なぜ十秒の失言が三十分の説明より残るのか

 政治家の発言には奇妙な性質がある。一時間の会見をほとんど問題なく終えても、最後の一言が不用意なら、その言葉だけが翌日のニュースになることがある。「一時間より十秒の方が重要になる」というのはもちろん厳密な統計ではなく比喩だが、人間が好ましい情報より好ましくない情報に強く反応しやすいことは心理学でも知られており、政治ニュースについても否定的な内容に注意が向きやすい傾向が研究されてきた。

 ここで重要なのは、私たちが政治家の発言を均等に記憶しているわけではないということだ。十回きちんと説明したことより、一度の奇妙な言葉の方が人物像を形づくる場合があり、それは必ずしも有権者が愚かだからではなく、人間の認知そのものが珍しい出来事や危険を示す情報に敏感だからでもある。

 政治家自身もそれを知っているので、言葉に保険を掛けるようになる。「現時点では」「さまざまな意見を踏まえ」「総合的に判断し」「適切に対応する」。政治に関心がある人なら何度も聞いたことのある表現だろうし、これらの言葉そのものが悪いわけではない。政策には不確実性があり、一人の政治家だけで決められない問題も多いため、責任ある立場なら軽々しく断言できない場面は当然存在する。

 しかし、安全な言葉ばかりを積み重ねていくと、不思議な現象が起きる。間違ったことは言っていないのに、その政治家が何を考えているのかも分からなくなるのである。

 言葉の安全性を高めるほど本人の考えが見えにくくなり、極端に言えば、「何も間違ったことを言わない政治家」を突き詰めていくと、「何を言っているのか分からない政治家」に近づいてしまう。ここに、失言をめぐる最初の逆説がある。

曖昧に話す政治家は、本当に逃げているのか

 政治家が曖昧な話し方をするのは、単なる性格の弱さとは限らない。政治学では古くから、候補者が自分の立場をあえて明確にしすぎない「戦略的曖昧性」が研究されてきた。

 選挙を考えてみれば、その理由は分かりやすい。ある政策について明確に賛成すれば、反対する有権者を失う可能性があるし、反対を明言すれば賛成派を失うかもしれない。それなら「状況を見ながら判断する」と言っておけば、異なる立場の有権者がそれぞれ自分に都合よく解釈してくれる余地が残る。実際、候補者の政策姿勢が曖昧でも有権者が必ずしもその候補者を嫌うわけではなく、支持政党などの情報を手掛かりに、自分に近い立場だろうと補って理解することがある。

 ただし、曖昧に話せば必ず得をするわけでもない。所属政党や過去の発言から立場を推測されることもあり、場合によっては曖昧に語るより、その問題について何も言わない方が政治的には安全なことさえある。政治家にとって、明確に話すこと、曖昧に話すこと、沈黙することには、それぞれ違った危険があるのである。

 この関係を少し数理的に考えると、なぜ政治家の言葉が無難になっていくのかが見えやすい。政治家にとって明確な発言には、政策を理解してもらえる利益がある一方、反発や失言によって受ける損失もある。その期待損失は、簡単に考えれば「問題が起きる確率」と「問題が起きたときの損失」を掛け合わせたものになる。

 たとえば、はっきり語れば政策を理解してもらう利益が大きい一方、炎上する可能性も高くなるとする。反対に、抽象的に語れば説明としての価値は小さくなるが、炎上する可能性も低くなる。このとき社会にとっては明確な説明の方が有益でも、政治家個人にとっては曖昧に話す方が合理的になる場合がある。

 つまり、政治家が曖昧だからといって、その政治家だけを責めれば済む問題ではない。「何を言ったか」より「何か間違ったことを言わなかったか」に注目が集まる社会では、政治家にとって安全な言葉を選ぶこと自体が合理的な戦略になってしまう。

失言した瞬間、本性が見えたと思いたくなる

 それなら、思ったことをそのまま言う政治家の方が信用できるのだろうか。この問題もそれほど単純ではない。

 慎重な言葉ばかり聞かされていると、遠慮なく物を言う政治家は魅力的に見える。「この人は本音で話している」と感じられるからだ。しかし、十分に考えた末に不人気なことを言う政治家と、深く考えずに刺激的なことを言う政治家は、外から見ると意外によく似ている。

 逆方向の間違いもある。政治家が失言すると、私たちは「つい本音が出たのだ」と考えたくなる。しかし、すべての言い間違いが深層心理の告白であるはずもない。

 統計的に考えるなら、一度の発言は一回の観測値にすぎない。ある政治家の考え方や知識を知りたいとしても、その発言には本人の考えだけでなく、質問の聞き違い、即興で答えたことによる言葉選びの失敗、疲労、その場の文脈などが混ざっている。

 一度だけ起きた奇妙な発言なら偶然の誤差かもしれないが、似た種類の発言が何度も繰り返されれば、偶然だけでは説明しにくくなる。科学的に見るなら、「失言したか、しなかったか」という二択より、その失言がどの程度その人物についての情報を含んでいるのかを見る方が重要なのである。

 たとえば、十分な知識を持つ人でもしばしば犯す言い間違いなら、その一回から政治家の能力を大きく下げて評価するのは合理的ではない。しかし、その分野を理解している人ならほとんどしないような重大な誤りを何度も繰り返すなら、それは政治家の知識や判断力についてかなり強い情報になる。

 言い換えれば、一言は証拠ではある。ただし、一言だけで人物全体を確定できるほど強い証拠とは限らない。

日本の政治家は、失言すると本当に終わるのか

 この問題について、日本政治を対象にした興味深い研究がある。2026年に公表された研究では、1960年から2024年までの日本の首相や閣僚について新聞報道を調べ、単なる言い間違いや小さな事実誤認を除いたうえで、344件の政治的失言を分析している。

 結果を見ると、「政治家は一度失言すれば政治生命が終わる」というイメージとは少し違った風景が見えてくる。失言の約四分の一は報道が一日で終わり、約七割は一週間以内に大きな報道が収まっていた。つまり、失言の大半が長期間続く政治的事件になったわけではないのである。

 さらに興味深いのは、失言そのものより、その発言に対して誰が批判したかとの関係だった。主要な政治・社会的主体から批判されなかった失言では辞任に結びついた例がなかった一方、批判する主体が一種類の場合には約5.7%、二種類になると約16.7%、三種類になると約42.9%が辞任に関連していた。

 もちろん、この数字から「批判する人が増えたから大臣が辞めた」と単純に因果関係を決めることはできない。そもそも深刻な発言だからこそ多方面から批判された可能性もある。それでも、失言の政治的破壊力は、発言内容だけで自動的に決まるわけではないことを示す材料にはなる。

 不用意な一言があり、報道され、野党が批判し、与党内部でも問題視され、社会団体などが反応することで、単なる失言が政治的なスキャンダルへ成長していく。失言とは、口から出た瞬間に完成する事件ではなく、その後に社会との相互作用の中で大きさが決まっていく現象でもある。

 そう考えると、政治家の失言を一つの言葉だけで評価することが、いかに危ういかが分かる。

「失言しない政治家」を求めると何が起きるのか

 ここから先は、慎重に考えなければならない。

 失言を強く恐れる政治家ほど曖昧な表現を選びやすくなるという理屈にはかなり説得力がある。しかし、それだけで「失言を恐れる政治家は政策判断までしなくなる」と断定することはできない。発言を慎重にすることと政策判断を避けることは別の行動であり、その二つが必ず連動するという強い実証的証拠があるわけではないからだ。

 それでも、政治家が政治的損失を最小化しようとすれば、批判を招きやすい行動そのものを避ける誘因が生まれる可能性はある。

 政治という仕事には、正解のない決断が多い。医療にどこまで予算を振り向けるのか、高齢化した地域の公共交通をどこまで維持するのか、税負担を誰にどれだけ求めるのか、人口が減る自治体で学校や公共施設をどう再編するのか。誰も損をせず、誰からも反対されない政策など、ほとんど存在しない。

 ここで政治家が「何かを変えて失敗する損失」と「何も変えず問題が続く損失」を比べることになる。前者はその政治家本人の責任として見えやすいが、後者は社会全体にゆっくり広がるため、誰の責任なのか分かりにくい。

 道路を造って失敗すれば「無駄な公共事業」と批判されるが、何も造らず十年間交通が不便なままでも、その損失が一人の政治家の名前と結びつくとは限らない。改革を実行して問題が起きれば責任者が見えるのに、改革をしなかったことで失われた機会は見えにくいのである。

 だから失点回避を重視する政治文化では、何かを実行するより現状を維持する方が、政治家個人にとって安全になる可能性がある。ただしこれは「失言する政治家の方が改革者である」という意味ではないし、「失言を許せば政治が良くなる」という話でもない。むしろ、政治家を評価するときに、失点の少なさと成果の大きさを同じものとして扱わない方がよい、という話である。

政治家は試験を受けているのか

 学校の試験なら、間違えないほど点数が高くなる。しかし政治は試験ではない。

 ところが、政治家の評価には試験と似た減点方式が入り込みやすい。一度の失言、一度の答弁ミス、一度の数字の言い間違いが大きく報道される一方、政策によって回避できた問題や、十年後に現れる利益は点数にしにくい。

 すると「大きな成果を出したが失言もした政治家」と「大きな成果はないが問題発言もしなかった政治家」を、どう比べればよいのかという難しい問題が出てくる。

 政治家の能力を一つの数字で表せると仮定しても、その中身は失言の少なさだけではないはずだ。政策知識、判断力、実行力、倫理性、説明能力、危機管理能力、反対意見を聞く能力、間違えたときに修正する能力など、いくつもの要素が重なって初めて政治家としての能力になる。

 失言の少なさは、そのうち言葉を管理する能力を推測する一つの材料にはなる。しかし、「失言ゼロだから優秀」と判断するのは、多数の変数で決まる問題を一つの変数だけで説明しようとするのに近い。

 逆に、一回失言しただけで「無能」と判断するのも同じ種類の単純化である。

謝る政治家は優れた政治家なのか

 失言の後に「謝罪したかどうか」を重視する人もいるが、これも単純ではない。

 政治家の謝罪についての研究では、謝れば必ず評価が上がるという結果は出ていない。問題の種類によっては、謝罪した政治家の方が不利になる場合さえあり、反対に歴史的・外交的問題では、謝罪が相手側の評価を改善することもある。

 つまり、「謝れば許される」という万能な法則は存在しない。

 それでも、失言の後を見る意味がないわけではない。むしろ重要なのは、謝罪という儀式そのものより、その人物が何を問題と理解しているかである。

 「誤解を招いたことは遺憾だ」とだけ言い続けるのか、それとも自分の発言のどこが不適切だったのかを理解し、必要なら認識を修正するのか。同じ失言でも、この違いから得られる情報はかなり大きい。

 人間が一度も間違えないことを前提にするより、間違いを認識し、修正できるかを見る方が現実的だという考え方は、科学的事実というより民主政治についての価値判断に属する。それでも、現実の政治家が人間である以上、「一度も間違えない政治家」という理想より、「間違えたときにどう行動する政治家か」を見る方が、少なくとも人物を多面的に判断する材料にはなるだろう。

私たちは政治家の「中身」を見ているのか

 失言探しが政治の中心になると、奇妙なことが起こる。

 質問する側は不用意な一言を引き出そうとし、答える側はそれを避けようとするようになり、記者会見や国会答弁が、政策を理解する場所というより「言葉の事故が起きるかどうかを見る場所」に近づいてしまう。

 政治家が公式の場所で安全な言葉しか使わなくなると、今度は有権者が別の場所に「本当の政治家」を探し始める。街頭演説、雑談、過去の動画、短く切り取られた映像、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)での投稿などから、「こちらが本音なのではないか」と考える。

 しかし、人間には公式の顔もあれば私的な顔もあり、どちらか一方だけが偽物というわけではない。政治家についても、一つの発言だけを「本性」と決めつけるより、異なる場面でどんな判断を繰り返しているかを見る方が、その人物を知るには適している。

 ここまで考えると、失言の問題は政治家だけの問題ではなくなってくる。

 私たち有権者が何に反応し、報道機関が何を大きく扱い、政党が何を攻撃材料にし、その結果として政治家がどんな言葉を選ぶようになるかという、一つの循環が存在するからである。

 政治家の言葉は有権者に影響するが、有権者の評価方法もまた政治家の言葉を変えている。

「言葉の無事故運転」だけでは政治はできない

 失言しない政治家には確かに能力がある。言葉を管理し、状況を読み、不必要な摩擦を避ける能力であり、それは政治にとって決して小さなものではない。

 しかし政治家には、不人気でも必要なことを説明する力、複雑な問題を自分の言葉で語る力、反対されても判断を示す力、そして自分が間違えたときに認識を修正する力も求められる。

 車にたとえるなら、事故を起こさない運転手は確かに優秀である。しかし政治家の場合、ただ安全に走ればよいわけではなく、どこへ向かうのかも決めなければならない。道路が傷んでいれば補修するのか迂回するのかを選び、乗客が違う方向へ行きたがれば説明し、必要なら反対されても進路を決めることになる。

 駐車場から一度も出なければ、交通事故を起こす可能性は限りなく低い。

 けれども、それを優れた運転と呼ぶ人はいないだろう。

 政治家を見るときにも、同じ問いを置いてみると面白い。その人物は言葉を間違えないのか、それとも間違える危険を避けるために重要なことを語っていないのか。慎重なのか、それとも責任の生じる判断を避けているのか。そして反対に、失言した政治家についても、その一言が本当に知識不足や価値観を示す強い証拠なのか、それとも一度の言葉選びの失敗なのかを見分ける必要がある。

 政治家を選ぶのは有権者だが、その前に政治家たちは、有権者が持っている「良い政治家とはこういう人物だ」という物差しによって選別されている。

 だから、「失言しない政治家は本当に優れた政治家なのか」という問いは、政治家についての問いだけではない。

 私たちは政策を判断する政治家を求めているのか、それとも決して私たちを不快にさせず、決して言葉を間違えず、決して炎上しない人物を求めているのか。

 もし後者であるなら、政治家たちは私たちの期待に適応して、ますます安全な言葉を選ぶようになるだろう。けれども、安全な言葉が増えることと、良い政治が増えることは、必ずしも同じではない。

 そして、何も間違えないための最も確実な方法は、昔から変わらない。

 何も言わないことである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る