地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1993年8月、日本の政治には、それまで当然と思われていた風景が突然崩れるような出来事が起きた。内閣総理大臣になったのは自由民主党総裁ではなく、日本新党代表の細川護熙だった。1955年の自民党結成以来、38年間ほぼ途切れることなく続いてきた自民党政権が終わり、日本にも「政権は交代する」という現実が姿を現したのである。

 ところが、その細川が首相であった期間はわずか263日だった。1993年8月9日に発足した細川内閣は、翌1994年4月28日に総辞職している。政権交代の象徴として華々しく登場した人物が、一年にも満たないうちに首相官邸を去ったことだけを見れば、細川政権は一瞬の政治的熱狂に終わったようにも見える。しかし、その短さを東京佐川急便からの一億円借入問題だけで説明してしまうと、この政権がなぜ生まれ、なぜ急速に力を失ったのかという本当の構造が見えなくなる。

 細川政権の短命さを理解するには、まず1993年の「政権交代」がどのような政権交代だったのかを見なければならない。それは、一つの野党が選挙で圧勝し、自民党を打ち破った政権交代ではなかった。

自民党は敗れたのではなく、過半数を失った

 1993年7月の衆議院議員総選挙で、自民党は223議席を獲得していた。依然として国会第一党である。これに対して日本社会党は70議席、新生党55議席、公明党51議席、日本新党35議席、新党さきがけ13議席などに分かれており、自民党に代わる巨大政党が出現したわけではなかった。

 それでも自民党は政権を失った。自民党自身の分裂によって新生党や新党さきがけが生まれ、そこへ日本社会党、公明党、日本新党、民社党、社会民主連合などが加わったことで、自民党を上回る国会多数派が形成されたからである。正確には、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の7党と、民主改革連合という1会派が連立に参加した。一般には「8党派連立」と呼ばれる政権である。

 ここで興味深いのは、その中で35議席しか持たない日本新党の細川護熙が首相になったことである。議席数だけを考えれば、細川は連立政権の最大勢力の代表ではない。それでも彼が選ばれたのは、むしろ最大勢力ではなかったからだった。

 旧来の自民党政治から一定の距離を置き、熊本県知事を経験し、新党を立ち上げた細川には、「古い政治を終わらせる新しい顔」という象徴性があった。社会党の代表を首相にすれば保守系の新党がまとまりにくく、新生党の中心人物を前面に出せば自民党分裂の延長に見えてしまう。その間に立つ細川は、異質な勢力を一つにまとめるための政治的な接着剤として適した人物だったのである。

 しかし、この構造には最初から矛盾が含まれていた。細川は国民的には政権の顔であっても、自らの党が35議席しかない以上、国会の多数を自分の判断だけで動かす力を持っていなかった。細川政権は「強い首相が率いる多数党政権」ではなく、「異なる政党が細川という象徴の下で一時的に結びついた連立政権」だったのである。

八党派を結びつけた政治改革

 その異質な勢力を結びつける最大の共通課題が政治改革だった。当時の日本政治では、リクルート事件や東京佐川急便事件などを通じて政治と金への不信が高まり、中選挙区制の下で同じ自民党候補同士が競争し、多額の政治資金を必要とする仕組みそのものが問題視されていた。

 細川政権は、選挙制度と政治資金制度を変えることを最優先課題に据えた。しかし、ここで注意しなければならないのは、八党派が政治改革について完全に同じ考えだったわけではないことである。とりわけ社会党内部には小選挙区制への警戒があり、新生党の小沢一郎と新党さきがけの武村正義との間にも、選挙制度だけでなく、その先の政界再編をどう描くかという点で違いがあった。

 つまり、政治改革によって連立内部の対立が消えていたのではない。対立は初めから存在していたが、「まず自民党長期政権の下で実現できなかった政治改革を成し遂げる」という大きな目標が、その亀裂を覆っていたのである。

 政治改革関連法案の成立過程も平坦ではなかった。1994年1月21日、法案はいったん参議院で否決される。それでも細川首相と自民党の河野洋平総裁が協議し、制度内容を調整したうえで、1月29日に政治改革四法が成立した。さらに、その細川~河野合意を具体化するための改正法が3月に成立し、現在につながる衆議院の小選挙区比例代表並立制や政党助成制度など、新しい政治制度の基本的な枠組みが固まっていった。

 長年議論されながら実現できなかった政治改革を実際に成立させたことは、細川政権の歴史的成果として軽視できない。しかし皮肉なことに、その成功によって、それまで連立政権を一つに束ねていた最大の目標が一段落することになった。

 政治改革が成立したから連立内部の対立が突然生まれたのではない。もともと存在していた考え方の違いや権力関係の緊張を、政治改革という共通目標が覆い隠しにくくなったのである。

小沢一郎と武村正義の間にあった二つの政治構想

 細川政権内部の複雑さを理解するうえで見落とせないのが、新生党の小沢一郎と、新党さきがけ代表で官房長官を務めた武村正義との関係である。

 両者の対立を単なる個人的な確執として見るだけでは十分ではない。そこには、日本の政党政治を今後どの方向へ組み替えていくのかという構想の違いがあった。小沢は政治改革を通じて政党再編を進め、より明確な二大政治勢力の競争へ日本政治を変えていくことを志向していた。一方、武村はそのような急速な政界再編や権力集中に警戒を示していた。

 しかも武村は官房長官であり、首相を日常的に支える政権中枢の人物だった。その武村と、連立与党の強力な実力者である小沢との間に政治的緊張が存在する以上、細川は両者の間で政権を運営しなければならない。細川政権の不安定さは、単純に「政党が八つあったから」という数の問題ではなく、連立内部に将来の政治そのものについて異なる設計図が存在していたことから生まれていた。

 政権交代を実現するまでは、「自民党政権を終わらせる」という目標がそれらの違いを超えることができた。しかし政権を取った後には、増税をするのか、社会保障をどう設計するのか、経済政策をどこへ向けるのか、そして政界をどのように再編するのかという問題に一つずつ答えなければならない。政権を倒すための連合と、国家を運営するための連合は、似ているようでまったく別のものだった。

国民福祉税という「34時間」が露出させたもの

 その違いを国民の前に最も鮮明に示したのが、1994年2月の国民福祉税構想だった。

 細川は2月3日未明、消費税を廃止し、将来的に税率7%の「国民福祉税」を導入する構想を記者会見で発表した。ところが、この政策について連立与党内部では十分な合意が形成されておらず、とりわけ社会党などから強い反発が起こった結果、構想は約34時間後に白紙撤回される。

 問題は、7%という税率が高かったか低かったかということだけではなかった。国民生活に直接かかわる重要な税制改革が突然発表され、その直後に同じ与党内部の反対で撤回されたことにより、「この政権では誰が政策を決めているのか」という疑問が一気に表面化したのである。

 ただし、これを単純に「細川首相が決めた政策を連立与党が潰した」と理解するのも正確ではない。国民福祉税構想には、小沢一郎をはじめ政権中枢の一部が深く関与していた一方、社会党や武村官房長官を含め、連立全体の意思決定機構には十分に共有されていなかった。

 つまり露呈したのは、首相が弱かったという一言では片づけられない問題だった。政権中枢の一部で形成された政策を、複数の政党からなる連立与党全体の合意へどのようにつなげるのかという仕組みそのものが未成熟だったのである。

 政治改革までは「制度を変える」という目標でまとまることができた。しかし、税制のように誰かの負担を増やさなければならない政策になると、各党はそれぞれの支持者や理念を背負って判断する。そこで必要になるのは新鮮なイメージではなく、地道で複雑な利害調整だった。国民福祉税の34時間は、細川政権が「新しい政治」を象徴する力には優れていても、「新しい政治を運営する仕組み」を十分につくれていなかったことを映し出した。

政治と金を変える政権に返ってきた一億円問題

 そうした政権内部の緊張が続く中で、細川自身にも政治資金をめぐる問題が重くのしかかることになる。東京佐川急便からの一億円借入問題である。

 細川は、1982年に東京佐川急便から一億円を借りたこと自体は認め、それについては完済したと説明した。しかし国会では、借入目的、返済の経過、関連資料などについて追及が続いた。

 この問題を扱う際には慎重さが必要である。一億円を借りた事実があるからといって、それだけで違法な金銭授受だったと断定することはできない。政治的な疑惑と、法的に確認された違法行為とは区別しなければならないからである。

 それでも、この問題が細川に与えた政治的打撃は大きかった。なぜなら細川政権そのものが、政治と金をめぐる旧来の政治への不信を背景に誕生した政権だったからである。古い政治を変えると登場した首相自身が巨額の資金問題について国会で説明を求められることになれば、たとえ法的な問題とは別であっても、「新しい政治」という政権の物語そのものが傷つく。

 政治家にとって、疑惑の重さは金額や法律論だけでは決まらない。その政治家が何を掲げて登場した人物なのかによっても意味が変わる。政治倫理を掲げる政権にとって、自らの資金問題は通常以上に大きな政治的負担にならざるを得なかった。

細川は一億円問題だけで辞めたわけではない

 1994年4月8日、細川は辞意を表明する。ここを「佐川急便から一億円を借りたことが発覚し、責任を取って辞めた」とだけ説明すると、実際の辞任理由を単純化しすぎる。

 細川自身の辞意表明では、一億円借入問題などをめぐって国会審議が停滞し、自らの問題が予算審議の妨げになっていることへの政治的責任が語られている。さらに、過去に自分の資金を知人に運用させていた問題について、新たに法的な問題がある可能性が明らかになったとして、政治の最高責任者として道義的責任を負う必要があるとも説明した。

 したがって、辞任は一つの疑惑だけによって突然引き起こされた出来事ではない。政治改革という最大の共通目標が一段落し、もともと存在した連立内部の対立が見えやすくなり、国民福祉税問題によって意思決定の弱さが露呈し、その上に細川自身の資金問題と国会審議の停滞が重なった結果だったと見る方が実態に近い。

 政治学的にいえば、細川政権の崩壊は単一の原因によるものではない。いくつもの条件が時間をかけて重なり、その最後に首相自身の資金問題が加わった「累積的な政権崩壊」だったのである。

263日しか続かなかった政権は失敗だったのか

 では、263日で終わった細川政権は失敗だったのだろうか。

 政権の安定性だけを基準にすれば、成功した政権とは言いにくい。国民福祉税構想は短時間で撤回され、連立内部の意思決定は安定せず、最終的には首相自身の問題によって国会審議まで停滞した。長期的な政策体系を構築し、それを継続的に実行するところまでは到達できなかった。

 しかし、日本政治に与えた影響まで含めると評価は変わってくる。細川政権は、自民党が国会第一党であっても、過半数を確保できず、他党が多数派を形成すれば政権を失うという議院内閣制の原理を現実の政治として示した。それまで制度上は可能であっても、実際にはほとんど想像されていなかった政権交代を経験したことで、「自民党政権は永続するものではない」という感覚が社会に広がった。

 さらに、長年議論されながら実現できなかった政治改革を成立させたことも残った。後にその制度がどのような結果をもたらしたかについては別の評価が必要だが、日本の選挙制度と政党政治の枠組みを大きく変えたこと自体は否定できない。

 細川政権は、長く統治した政権ではなかったが、日本政治が別の形へ移るための橋のような政権だったともいえる。橋は人が住み続ける場所ではない。それでも、向こう岸へ移るには必要になる。

政権交代の扉を開けることと、その先を統治すること

 細川護熙という政治家の歴史的な意味は、長期政権を築いたことにはない。それまでほとんど開かないと思われていた政権交代という扉を、実際に開いてみせたことにある。

 しかし、扉を開けることと、その向こう側で国家を運営することは別の仕事だった。自民党政権を終わらせるためなら、社会党から保守系新党まで異なる勢力が同じ方向を向くことができる。しかし政権を取った翌日からは、税金を誰が負担するのか、社会保障をどう支えるのか、外交や安全保障をどう考えるのか、将来どのような政党政治をつくるのかという問いに答えなければならない。

 その段階になると、「何に反対するか」ではなく「何を選ぶか」が問われる。しかも一つの政策を選べば、別の選択肢を捨てなければならない。政権交代には異なる勢力を集める力が必要だが、政権運営にはその異なる勢力の間で優先順位を決め、時には不人気な決断まで引き受ける力が必要になる。

 細川政権は、その二つが同じ能力ではないことを日本政治に示した最初の大きな事例だった。

 だから細川護熙は、政権交代の象徴になったにもかかわらず短期間で辞めた、というよりも、政権交代の象徴として成立した政権だったからこそ短命になりやすい条件を抱えていた、と考えた方がよい。細川という人物の新鮮さは異質な八党派を結びつける力になったが、その象徴性を支える巨大な政党組織はなく、連立の内部には政治改革の先にある日本政治について異なる設計図が存在していた。そして政治改革という共通目標が一段落した後、それまで覆われていた亀裂が次第に見えるようになったところへ、国民福祉税問題と細川自身の資金問題が重なった。

 1993年の政権交代が残した最大の教訓は、おそらく「政権を取ること」と「政権を運営すること」はまったく別だということだろう。長く続いた政権を終わらせるとき、人々は一つの旗の下に集まりやすい。しかし、その旗を降ろした後に必要なのは、誰が何を負担し、どの政策を諦め、どの未来を選ぶのかを決めることである。

 細川護熙の263日間は短かった。しかし、その短さの中には、その後の日本政治が何度も直面することになる問題がすでに凝縮されていた。政権交代を可能にすることと、政権交代を安定した統治へ変えることとの間には大きな距離がある。細川政権は、その距離を日本政治が初めて実際に歩き、そして途中で立ち止まった政権だったのである。

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2026年2月8日の夜、岩手3区の選挙結果は、一人の政治家の敗北というだけでは片づけにくい光景をつくった。

1969年、27歳で初当選して以来、半世紀を超えて国会に議席を持ち続け、2024年には19回目の当選を果たした小沢一郎が、自民党の藤原崇に敗れた。2021年にも小選挙区では初めて藤原に敗れたが、そのときは比例代表で議席をつないだ。2024年には再び岩手3区を奪い返したものの、20回目の当選を目指して中道改革連合から立候補した2026年の総選挙では、小選挙区で敗れ、比例代表でも議席を得られなかった。83歳だった。

その長い政治生活を振り返ると、一人の政治家の履歴というより、日本の政党政治そのものが何度も形を変えてきた時代の地層を眺めているように感じられる。

小沢は政権をつくった。大きな政党もつくった。自民党を下野させ、野党をまとめ、自民党と連立を組み、その自民党を再び政権から引きずり下ろす流れにも中心人物として関わった。それなのに、小沢が力を注いでつくった政治的な器の多くは、やがて分裂するか、消えていった。

そのため、小沢一郎には「剛腕」と並んで「壊し屋」という言葉が付きまとってきた。

しかし、40年近い政界再編を一続きの歴史として眺めると、単に人間関係を壊し続けた政治家という説明では足りない。

むしろ、小沢は政党を壊すことそのものを目的にしていたのではなく、自分が正しいと考える政治の仕組みを実現するためなら、政党という器を取り替えることをためらわなかった政治家だった、と考えた方が理解しやすい。

そして、その考え方こそが、彼を何度も政権の設計者にし、同時に「壊し屋」と呼ばれる原因にもなった。

「剛腕」は自民党を壊すために生まれたのではない

小沢一郎という名前が全国的な権力政治と結びついて語られるようになったのは、1980年代の自民党である。

この時代の小沢は、後年のような反自民の政治家ではなかった。むしろ自民党の中枢にいた。

田中角栄のもとで政治を学び、竹下登、金丸信らと行動し、1985年には田中派内部から生まれた創政会の形成に関わった。その流れは1987年の竹下派・経世会へとつながっていく。田中派という巨大な組織の内部で新しい多数派をつくり、権力の重心そのものを動かしていった経験は、後年の小沢政治を考えるうえで重要である。

1989年8月、小沢は自民党幹事長に就任した。47歳だった。その後も1991年4月まで三期にわたって幹事長を務めている。自民党幹事長は、単なる党務の責任者ではない。候補者の擁立、選挙区の調整、党の資金、国会対策、派閥間の調整など、政党という巨大組織を実際に動かす仕事が集中する役職である。

ここで小沢が身につけたのは、演説によって人々を熱狂させる政治とは少し違った。

政治理念を実現するには議席が必要であり、議席を得るには候補者を立てなければならず、候補者を当選させるには組織と資金と選挙戦術が要る。そして最後には、国会の中で過半数をつくらなければ政策を実現できない。

政治とは理念であると同時に、数でもある。

田中角栄の政治を間近に見ながら、小沢はその現実を徹底して学んだ。

皮肉なのは、自民党という巨大な政党の中で覚えたその技術を、数年後には自民党そのものを政権から降ろすために使うことになる点である。

小沢が壊そうとしたのは、自民党より「政権交代のない政治」だった

1990年代初頭、日本政治を取り巻く風景は大きく変わっていた。

冷戦が終わり、湾岸戦争では巨額の資金を拠出しながら、日本の国際的な役割をどう考えるべきかという問題が残った。一方、国内ではリクルート事件や東京佐川急便事件などによって政治不信が高まり、自民党内部でも最大派閥だった経世会が分裂していく。

1992年には、小沢と羽田孜らが経世会を離れて独自のグループを形成した。

このころ、小沢が考えていたのは単なる派閥争いだけではなかった。

1993年に出版した『日本改造計画』に象徴されるように、彼は政治家が政策決定の責任を負い、有権者が選挙によって政権を選択し、失敗すれば別の勢力に政権を渡す仕組みを重視していた。小選挙区を軸とする選挙制度と、政権を競い合える二つの大きな政治勢力をつくるという構想は、その後も小沢自身が繰り返し語っている。

この発想に立つと、政党の意味も変わる。

政党は一生所属し続ける家ではない。

政治を実現するための器である。

器が目的を果たせないのであれば、作り替えればよい。

後に小沢が何度も政党を離れ、新党をつくり、さらに別の党へ合流していく背景には、この考え方がある。

もちろん、そこには本人の権力闘争や党内対立もあった。小沢の行動をすべて高尚な制度改革だけで説明するのも現実的ではない。

それでも、自民党という組織を守ることと、政権交代可能な政治をつくることが両立しなくなったとき、小沢が前者より後者を選んだことは、その後の行動を見る限り一貫している。

1993年、小沢は初めて自民党を政権から降ろした

1993年、宮沢喜一内閣に対する不信任決議案が衆議院で可決されると、小沢や羽田らは自民党を離れ、新生党を結成した。

総選挙後、自民党は単独過半数を失う。そこで小沢らが動き、日本新党の細川護熙を首相候補として、社会党、公明党、新生党など八党・会派による非自民連立政権を成立させた。

1955年以来、ほぼ一貫して政権の中心にいた自民党が下野した。

戦後日本政治の大きな転換点だった。

小沢自身は首相にならなかった。

その代わりに、首相をつくった。

この構図は、その後の小沢政治を考えるうえで象徴的である。

自分が表舞台の頂点に立つより、候補者を立て、勢力を組み合わせ、過半数をつくり、政権そのものを設計するところに異常なまでの力を発揮した。

ところが、政権を成立させることと、成立した政権を維持することは、同じ仕事ではなかった。

ここから「剛腕」と「壊し屋」が少しずつ同じ輪郭を持ち始める。

政権をつくる力は、時として政権を不安定にする力にもなった

細川政権を成立させた連立勢力は、「自民党政権を終わらせる」「政治改革を進める」という点では協力できた。

しかし外交、安全保障、税制、社会政策、さらには政権運営そのものについてまで同じ考えを持っていたわけではない。

自民党に代わる政権を一度つくるための合意と、一つの政権として何年も統治するための合意は、似ているようで違う。

小沢は前者を組み立てることには極めて強かった。

だが政治には、その後がある。

予算をつくり、政策の細部を詰め、連立各党の主張を聞き、昨日反対した相手とも翌日には妥協しなければならない。改革の速度を落とさなければ組織がついてこないこともある。

そこで必要になるのは「決める力」だけではない。

時には待ち、譲り、不満を抱えた仲間を同じ船に乗せ続ける力も必要になる。

細川政権は1994年4月に退陣したが、その直接的な背景には政治資金問題などもあり、政権崩壊を小沢一人の責任に帰すことはできない。

続く羽田孜政権についても事情は単純ではない。羽田政権発足直前に新生党などが統一会派「改新」を結成したことに社会党が反発して連立を離れ、羽田内閣は発足時から少数与党になった。約2か月後には退陣に追い込まれるが、ここにも社会党との対立、連立各党の利害、国会の議席構成など複数の要因が絡んでいる。

したがって、「小沢が細川政権や羽田政権を壊した」と単純に言うことは正確ではない。

それでも興味深いのは、こうした政権再編のほとんどの転換点に小沢がいたことである。

政権を誕生させる局面にもいた。

連立の組み替えにもいた。

崩れた後に次の政党をつくる場面にもいた。

小沢自身がすべてを壊したわけではない。しかし、政治が大きく動く場所に小沢が繰り返し現れたことが、「壊し屋」という印象を強くしたのである。

新進党という巨大な実験

非自民連立政権が崩れた後、小沢は諦めなかった。

むしろ、一度の連立では足りないと考えたように見える。

自民党に対抗できる本格的な大政党をつくらなければ、安定した政権交代は実現しない。

その考えの延長線上に、1994年12月の新進党結成があった。

新生党、公明系勢力、旧民社党系などが集まり、衆参両院に多数の国会議員を抱える巨大野党が誕生した。小選挙区を中心とする新しい選挙制度のもとで、自民党と真正面から政権を争うための器をつくろうとしたのである。

理念だけを見れば、小沢が1990年代初めから追っていた構想とよくつながっている。

ところが、大きな党をつくることはできても、その党に一つの政治文化を与えることは容易ではなかった。

旧自民党系、公明系、旧民社党系など、異なる歴史を持つ政治家たちが同居していた。自民党に対抗することでは一致していても、政策や組織運営についてすべてが一致するわけではない。

小沢の強力な指導力は、選挙を戦う場面では武器になったが、同時に「独断的だ」という反発を生む原因にもなった。

1996年の衆議院選挙で新進党は自民党から政権を奪えず、内部対立は深まっていく。

そして1997年12月、小沢党首のもとで新進党は解党へ向かった。

巨大な野党をつくった本人が、その巨大政党を解体する。

「壊し屋」という言葉が、小沢という政治家の代名詞になっていった大きな理由がここにある。

ただ、小沢の側から見れば違う論理もあったのだろう。

政権交代を実現するためにつくった器が、その役割を果たせなくなったのであれば、器そのものを残す理由はない。

問題は、その判断が他の政治家よりはるかに速かったことだった。

自民党を倒した男が、自民党と組んだ

1998年、小沢は自由党を結成した。

そして翌1999年、小渕恵三政権の自民党と連立を組む。

1993年に自民党を飛び出し、その自民党を政権から降ろす中心人物となった男が、わずか6年後には自民党政権に参加した。

この動きを「反自民の政治家」としてだけ見ると、理解しにくい。

しかし、「日本の政治システムを自分の考える方向へ組み替えたい政治家」として見ると、別の景色が見える。

小沢にとって、自民党を倒すこと自体が最終目的ではなかった。

必要なら自民党とも組む。

政策や制度を動かせるのであれば、その組み合わせを選ぶ。

実際、自民・自由両党の連立では、議員定数削減や副大臣・政務官制度、政府委員制度の廃止など国会・政治制度改革が議論された。後に公明党も加わり、自民・自由・公明の三党連立となる。

しかし、その連立も長くは続かなかった。

2000年4月、自民、公明、自由の党首会談で今後の政権運営について合意できず、自由党の連立離脱が決定的になる。一方、連立に残ることを望んだ自由党議員は保守党を結成し、自由党は分裂した。衆議院の公式記録にも、この経過が明確に残されている。

また一つ、小沢が率いた党が割れた。

だが、小沢はそこで政界の中心から消えなかった。

次に目を向けたのは、民主党だった。

自由党を消してでも、より大きな野党をつくる

2003年、小沢の自由党は民主党と合併した。

ここは、小沢政治を語るときに注意が必要なところである。

民主党を小沢がつくったわけではない。

民主党は自由党との合併以前から存在していた。

2003年9月24日、民主党代表の菅直人と自由党党首の小沢一郎が合併協議書に調印し、民主党を存続政党、自由党を解散政党として合併することが正式に決まった。国会の公式資料にも、その形が明記されている。

つまり小沢は、ここでも自分の政党を残すことにはこだわらなかった。

自由党という名前を守るより、自民党と政権を争える大きな野党をつくる方を優先した。

新生党をつくり、新進党をつくり、それを解体し、自由党をつくり、その自由党も民主党へ溶かしていく。

この動きを節操のなさと見ることもできる。

だが別の角度から見れば、政党を政治家の「家」と考えず、政権交代を可能にするための「器」と考えていた一貫性も見えてくる。

そして、この合併から6年後、小沢が長く追い続けた風景が現実になる。

首相にならない男が、二度「首相」に指名された

2006年、小沢は民主党代表に就任した。

翌2007年の参議院選挙では民主党が躍進し、参議院で第一党となる。

ここから、小沢の政治人生には少し奇妙な場面が生まれる。

2007年9月、安倍晋三首相の退陣を受けて後継首相を指名した際、衆議院は福田康夫を指名したが、参議院は小沢一郎を指名した。両院の指名が一致せず、両院協議会でも合意できなかったため、憲法の規定によって衆議院の議決が国会の議決となり、福田が首相になった。

翌2008年9月にも同じことが起きる。

福田内閣の総辞職を受けた首相指名で、参議院では最初の投票で過半数を得た候補がいなかったため、小沢一郎と麻生太郎による決選投票になった。その結果、小沢125票、麻生108票、白票7票となり、参議院は再び小沢を内閣総理大臣に指名した。

しかし衆議院では麻生が指名され、両院協議会でも一致しなかったため、最終的には衆議院の議決が優先され、麻生が首相となった。

小沢一郎は結局、一度も内閣総理大臣には就任しなかった。

それでも、日本の国会の一院からは二度にわたり首相に指名されている。

何人もの首相の誕生や退陣に関わり、自分自身は首相官邸に入らなかった小沢一郎という政治家を象徴する、不思議な史実である。

2009年、小沢が追い続けた政権交代が実現する

小沢が民主党代表として力を入れたのは、再び選挙だった。

地方を回り、候補者を擁立し、自民党の強い農村部にも候補者を立て、選挙区ごとの勝敗を積み上げていった。

かつて自民党幹事長として身につけた選挙の技術が、今度は自民党政権を終わらせるために使われた。

ただし、2009年の政権交代直前に、小沢は民主党代表を退くことになる。

この部分では、二つの政治資金事件を分けて考える必要がある。

2009年3月、西松建設からの政治献金をめぐる事件で、小沢の資金管理団体の会計責任者だった公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、後に起訴された。この問題をめぐる批判が続く中、同年5月、小沢は民主党代表を辞任した。

一方、その後、小沢本人が強制起訴された陸山会事件は、土地購入をめぐる政治資金収支報告書の記載をめぐる別の事件である。

小沢は一審で無罪となり、2012年11月には東京高裁も無罪判決を維持した。検察官役の指定弁護士が上告を断念したことで、小沢本人の無罪が確定した。

したがって、「2009年の秘書逮捕」と「小沢自身が強制起訴された陸山会事件」を一つの事件として扱うのは正確ではない。

それでも、小沢が代表を辞任した後も、民主党の選挙戦における影響力は残った。

2009年8月30日の衆議院選挙で、民主党は308議席を獲得した。選挙前の115議席から193議席を増やす圧勝だった。自民党は119議席にまで減少し、鳩山由紀夫政権が成立した。

1993年の細川政権は、多数の政党が集まった非自民連立だった。

2009年は違った。

民主党という一つの大政党が総選挙で自民党を上回り、選挙によって政権を交代させた。

小沢が1990年代から訴えてきた「政権交代可能な政治」に、最も近い形が実現した瞬間だった。

ところが、その完成したはずの器から、小沢は数年後に自ら出ていくことになる。

なぜ、ようやくつくった民主党まで離れたのか

2009年の民主党政権が小沢政治の一つの到達点だったのなら、その民主党を守り抜く道もあったはずである。

しかし、鳩山由紀夫政権から菅直人政権、野田佳彦政権へと移るにつれて、小沢と党執行部との距離は広がっていった。

決定的な対立となったのが、消費税増税だった。

2012年6月、社会保障と税の一体改革に伴う消費税増税法案の衆議院採決で、小沢らは党の方針に反して反対票を投じた。その後、小沢らは民主党を離れ、7月11日に新党「国民の生活が第一」を結成する。

結党時には衆議院議員37人、参議院議員12人の計49人が参加した。

支持する側から見れば、2009年総選挙で掲げた政策や「国民の生活が第一」という政治理念を守ろうとした行動になる。

一方、批判する側から見れば、ようやく実現した政権交代可能な大政党を再び分裂させた行動になる。

ここでも、小沢に対する二つの評価が同時に成立する。

信念を持っていたから党を出たと見ることもできる。

組織内で妥協できなかったから党を割ったと見ることもできる。

この二つは、必ずしも矛盾しない。

自分が正しいと考える政治構想を政党より上位に置くのであれば、その構想を守る行動は本人にとって一貫していても、組織の側から見れば破壊的になるからである。

小沢は本当に政権を「壊した」のか

ここまで小沢の政治人生を追ってくると、「政権をつくっては壊した」という言葉には強い説得力があるように見える。

しかし、事実関係を公平に見るためには、一度この印象から距離を置く必要がある。

細川政権の退陣を小沢一人の責任にはできない。

羽田政権の崩壊にも、社会党の連立離脱や少数与党という事情があった。

新進党解党には、小沢の党運営への反発だけでなく、異質な政治勢力を一党にまとめたこと自体の難しさがあった。

民主党政権の失敗についても、鳩山政権の基地問題、菅政権期の東日本大震災と原発事故への対応、野田政権下の政策対立など、複数の問題が重なっていた。

それをすべて小沢一郎という一人の政治家に還元することは、政治史として正確ではない。

では、なぜ「壊し屋」という呼び名がこれほど定着したのか。

それは小沢自身がすべてを破壊したからではなく、政治の秩序が壊れ、新しい秩序が生まれる場所に、あまりにも頻繁に小沢がいたからではないだろうか。

自民党が割れたときにもいた。

非自民政権ができたときにもいた。

新進党ができたときにも、その党がなくなるときにもいた。

自由党と自民党が組むときにも、自由党が連立から離れるときにもいた。

民主党が政権を取る過程にも、その民主党が割れる場面にもいた。

これほど何度も政界再編の中心に現れた政治家は珍しい。

その存在そのものが、政治の変化と結びついて記憶されるようになったのである。

なぜ「つくる」ことには強く、「維持する」ことには苦しんだのか

小沢政治を40年という長い時間で見ると、ある特徴が浮かび上がる。

政治が行き詰まった瞬間に、極めて強い。

既存の均衡を壊し、敵と味方を組み替え、候補者を集め、議席を計算し、新しい多数派をつくる。

1993年の細川政権もそうだった。

1994年の新進党もそうだった。

2003年の民由合併もそうだった。

そして2009年の政権交代も、その長い流れの先にある。

ところが、一度新しい秩序ができると、政治に必要な能力は少し変わる。

大きな改革より、毎日の小さな妥協が重要になる。

敵を倒すことより、味方を逃がさないことが重要になる。

100点の政策を実現するより、60点や70点でも同じ組織に人々を残しながら前へ進めることが求められる。

小沢が繰り返し苦しんだのは、この局面だったのではないか。

新しい家を建てる建築家と、完成した家を何十年も修繕しながら維持する管理人には、違う才能が必要である。

小沢一郎は、日本政治でも屈指の政治的建築家だった。

問題を見つければ、壁を動かし、間取りを変え、場合によっては家そのものを建て替えようとした。

だから政治が停滞しているときには、大きな変化を起こすことができた。

しかし一緒に暮らしている人々からすれば、ようやく落ち着いたと思ったところで、また壁を壊されることにもなる。

「剛腕」と「壊し屋」は、別々の性格ではなかったのかもしれない。

同じ能力を、政治を動かした側から見れば剛腕と呼び、動かされた側から見れば壊し屋と呼んだのである。

小沢がつくった政党は消えても、問いは残った

小沢がつくり、あるいは大規模な再編に関わった政党の多くは、現在では存在しない。

新生党は新進党へ合流し、新進党は解党した。自由党は民主党との合併で解散し、「国民の生活が第一」も短期間で別の政党再編へ向かった。

民主党については事情が異なる。小沢がつくった政党ではないが、自由党を率いて合流し、その後、政権交代の器として巨大化していった政治勢力である。その民主党も2012年に政権を失い、その後の分裂と再編を経て、2009年当時の形では存在していない。

政党名だけを追えば、小沢政治は失敗の連続にも見える。

しかし制度の側を見ると、もう少し複雑である。

1990年代の政治改革によって衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入され、政党同士が総選挙で政権を争う仕組みは、それ以前より明確になった。2009年には実際に総選挙による本格的な政権交代が起きた。

小沢自身も後年、1993年と2009年の二度の政権交代を、自らが長年求めた政権交代可能な議会制民主主義の文脈で語っている。

ただし、現在の日本政治に見られる「官邸主導」までを、小沢一郎の改革の成果だと考えるのは行き過ぎである。

首相官邸機能の強化には、橋本龍太郎政権以降の中央省庁再編や内閣機能強化など、別の制度改革も大きく関わっている。

小沢が強く主張してきた政治主導、政権交代、国会改革という問題意識の一部がその後の政治に残った、と考える程度が妥当だろう。

そして何より、小沢が思い描いた安定的な二大政党政治が完成したとは言い難い。

選挙制度は変わった。

2009年には政権も交代した。

それでも野党はその後、分裂と再編を繰り返している。

ここに小沢政治の大きな限界があったのかもしれない。

制度を変えることはできる。

選挙制度を変えれば、政治家の行動もある程度変わる。

しかし、政治家同士の信頼や政党文化までは、法律だけではつくれない。

同じ党に長くとどまり、意見の違う相手と妥協し続ける習慣もまた、政治制度とは別の時間をかけて形成される。

政治を制度設計の問題として考え続けた小沢が、最後まで完全には解けなかった問題がそこにあったのではないだろうか。

2026年、小沢一郎の敗北が映したもの

2026年2月8日の総選挙で、小沢一郎は岩手3区の議席を失った。

岩手県選挙管理委員会の記録にも、この日に第51回衆議院議員総選挙が行われたことが残っている。岩手県議会でも、その後、岩手3区で藤原崇が小沢を破った結果が取り上げられた。

1969年に始まった小沢の国会議員生活は、19回の当選を重ねたところで、少なくとも一度途切れることになった。

だが、小沢一郎という政治家を当選回数だけで評価するのは難しい。

彼が若手議員だったころ、日本政治には自民党が政権を担い続けることを前提とした空気があった。

その自民党を割った。

非自民政権をつくった。

それが崩れれば、今度は自民党に対抗する巨大政党をつくった。

うまくいかなければ解体し、また別の党をつくった。

自民党とも組んだ。

再び離れた。

最後には自由党そのものを解散させ、民主党へ入り、2009年の政権交代へつながる大きな流れをつくった。

この歩みを、すべて改革の信念だったと美化する必要はない。

強引な党運営への反発もあった。

権力闘争もあった。

小沢の判断によって亀裂が深まった政治局面もあった。

同時に、すべてを「壊し屋の身勝手」で説明するのも、40年の政治史を単純化しすぎる。

小沢一郎にとって、政党は守ること自体が目的となる故郷ではなかった。

政治を変えるための乗り物だった。

だから、その乗り物が目的地へ向かわないと判断すると、別の乗り物へ移った。

必要なら新しいものをつくり、場合によっては自分がつくったものさえ壊した。

普通の政治家は、自分が所属する党の中で権力の頂点を目指す。

小沢は少し違った。

自分が首相にならなくても、首相を生み出す政治状況をつくった。

実際には一度も首相官邸の主にならなかったにもかかわらず、参議院からは二度、内閣総理大臣に指名された。

政権を取ることだけが目的なら、もっと早く自ら首相を目指したはずだ。

一つの党で出世することだけが目的なら、自民党から出なかった方が合理的だったかもしれない。

自分の名前を残す政党を政治的遺産にしたいのであれば、新進党や自由党をもっと長く維持する道もあっただろう。

それでも小沢は、何度も器を替えた。

その結果として、日本政治には多くの瓦礫も残った。

同時に、政権交代という、それ以前には現実感の薄かった風景も一度は現実のものとなった。

だから、小沢一郎の40年を最後に問い直すとき、「なぜこれほど政党を壊したのか」という問いだけでは足りない。

むしろ問うべきなのは、別のことなのだろう。

小沢一郎は、何を完成させようとしていたのか。

自民党を倒すことだったのか。

二大政党政治をつくることだったのか。

政治家が官僚機構を主導する政治だったのか。

あるいは、有権者が選挙によって政権そのものを選び、失敗すれば取り替える政治だったのか。

その答えは一つではない。

ただ、その問いをたどっていくと、「剛腕」「壊し屋」と呼ばれた一人の政治家の向こう側に、政権交代を可能にしながら、それを安定した政治文化として定着させることには成功しなかった、日本政治そのものの40年が見えてくる。

おそらく小沢一郎という政治家の最も大きな意味は、そこにある。

彼が壊したものだけを見るのでもなく、彼がつくったものだけを見るのでもない。

つくろうとした政治と、実際に残った政治との距離を眺めること。

その距離の中にこそ、「剛腕」の40年を読む本当の面白さがあるのである。

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