「決められない政治」を終わらせたあと、日本は何を手に入れ、何を失ったのか
日本政治を長く見ていると、それぞれの時代を象徴する言葉がある。「官僚主導」「政治主導」、そして「官邸主導」もその一つだろう。しかも、こうした言葉には、いつの間にか善悪の色まで塗られてきた。官僚主導は古い政治であり、政治主導は民主的であり、官邸主導は決断のできる強い政治であるという物語が、1990年代以降の行政改革や政治改革を語る際に繰り返されてきた。
もちろん、この物語には一定の理由がある。かつての日本政治では、農業には農林水産省、産業には通商産業省、社会保障には厚生省、財政には大蔵省というように、それぞれの省庁が大きな専門領域を抱え、その周囲には与党の政策部会、業界団体、審議会、いわゆる族議員などが存在していた。一つの政策について見れば、専門知識と利害調整を積み重ねる精巧な仕組みだったともいえるが、省庁や業界の利害を横断する改革では、政策決定に長い時間がかかる場合があった。それぞれの組織が異なる目的と合理性を持っていたからである。
ただし、かつての日本政治を一律に「決められない政治」と評価するのも正確ではない。省庁中心の政策形成によって、多くの法律や制度が整備され、経済成長や社会基盤の整備が進められてきたことも事実である。問題は、政治が何も決められなかったことではなく、既存制度の見直しや省庁間の利害が対立する政策について、誰が最終的な方向を示し、その結果に責任を負うのかが分かりにくかった点にあった。選挙で政権を選んでも、その後の政策形成が霞が関や与党内部の複雑な調整に入れば、選挙時に示された政治的意思が修正され、時には薄められることもある。こうした状況を背景として、1990年代には、選挙を通じて民主的な正統性を得た政治家が、行政組織をより主体的に統制すべきだという議論が強まっていった。
首相を強くする改革は、制度によって準備された
官邸主導の基盤を形成したのは、特定の首相の個人的な指導力だけではない。1990年代に進められた政治改革と行政改革によって、日本の統治機構そのものが変更されたことが重要である。橋本龍太郎政権で進められた中央省庁改革を経て、2001年には中央省庁再編が実施された。内閣官房の総合調整機能が強化され、内閣府が設置されるとともに、省庁を横断する政策課題について内閣が主導的な役割を果たしやすい制度が整えられた。1998年に成立した中央省庁等改革基本法でも、内閣機能の強化が改革の重要な柱に位置づけられている。
この変化をさらに後押ししたのが、1994年の政治改革関連法によって導入され、1996年の衆議院総選挙から実施された小選挙区比例代表並立制である。中選挙区制のもとでは、同じ政党の候補者が同じ選挙区で競争することも多く、派閥や個々の議員が独自の後援会や資金調達基盤を形成する重要性が高かった。これに対して、小選挙区制では原則として一つの選挙区に一人の公認候補者を擁立するため、候補者の公認や選挙戦略を握る政党執行部の影響力が相対的に高まりやすくなる。
もっとも、選挙制度が変わったからといって、直ちに首相の権力が強くなるわけではない。政党内部の派閥関係、連立政権の有無、国会での議席構成、首相の支持基盤などによって、実際の政策主導力は変化する。それでも、選挙制度改革と内閣機能の強化が重なったことによって、首相と政党執行部が政策の方向を示し、各省庁を調整するための制度的条件が整えられたことは重要である。つまり、官邸主導とは強い性格の首相が偶然登場したことだけで説明できる現象ではない。日本政治が制度改革を通じて、首相と政府中枢に政策形成上の主導権を集中させやすい構造へと変化していった結果でもある。
小泉純一郎は「強くなった官邸」の使い方を示した
制度が変わっても、それを積極的に利用する政治家がいなければ、実際の政策形成は大きく変わらない。その意味で象徴的だったのが、2001年に発足した小泉純一郎政権である。小泉首相は経済財政諮問会議を政策形成の重要な場として活用し、経済財政運営や構造改革の方向を政府中枢から示した。従来であれば各省庁や自民党内部で長い時間をかけて調整されていた政策についても、首相が優先順位を示し、政治的な争点として扱う場面が増えた。郵政民営化をめぐって党内から強い抵抗を受けると、2005年には衆議院を解散し、郵政民営化を総選挙の中心的な争点に据えた。
2005年の総選挙で自民党が大勝したことは、小泉首相の党内における影響力をさらに高めた。政治学の研究でも、総選挙後に首相の政策主導力が強まり、それ以前には調整が難しかった政策の決定が進められたことが分析されている。ただし、同じ研究では、首相が強い主導権を持つことによって、必ずしもすべての政策が成立するわけではないことも示されている。2006年の通常国会では、重要法案の成立に影響する会期延長を見送ったことも、首相自身の政治判断として分析されている。首相が政策形成を動かせるようになったことと、個々の政策が成立したこと、さらにその政策が社会に望ましい成果をもたらしたことは、それぞれ別の問題なのである。
それでも当時の政治が多くの国民に分かりやすく映った理由は理解できる。郵政民営化に賛成するのか反対するのか、改革を進めるのか止めるのかという争点を首相が提示し、その是非を選挙で問い、勝利した政権が政策を実行するという流れは、従来の複雑な政策形成過程よりも政治的な責任の所在を認識しやすかった。一方で、選挙に勝ったことが、提案された政策の経済的合理性や社会的公平性まで証明するわけではない。選挙は政治的な正統性を与える重要な制度だが、政策の効果を検証する科学的な手続きとは異なるからである。官邸主導を単純に権力集中として否定することも、選挙に勝った首相の判断だから正しいと肯定することも、いずれも十分な評価とはいえない。
民主党政権も政治主導を追求した
官邸主導の歴史を考える際に見落としてはならないのが、2009年から2012年まで続いた民主党政権である。日本の政治主導改革は、自民党政権だけによって進められたものではなかった。2009年に政権交代を実現した民主党は、従来の官僚主導から政治主導への転換を重要な目標に掲げた。国家戦略室や行政刷新会議を設置し、各府省では大臣、副大臣、大臣政務官からなる政務三役を中心として政策を形成する仕組みを重視した。事業仕分けなどを通じて、予算の使途や行政事業を政治の側から見直そうとしたことも、その一環である。
しかし、政治家が政策形成の中心に立つという目標と、それを円滑に実行する行政能力を確保することは別の問題だった。政策に関する専門知識、関係省庁との調整、法案作成、予算編成、地方自治体との協議などを政治家だけで担うことは難しい。政治主導を重視するほど、官僚の専門性をどのように活用するかという問題が現れる。民主党政権の経験は、官僚への依存を小さくすれば政治主導が自動的に実現するわけではないことを考えるうえで重要である。ただし、同政権が直面した困難をすべて政治主導改革の失敗に帰することもできない。参議院での議席構成、連立政権内の調整、東日本大震災への対応、国際経済環境など、政策形成に影響した条件は複数存在した。
ここから分かるのは、政治主導と行政能力は対立する概念ではないということである。政治家が明確な方向を示すことと、官僚が専門知識に基づいて政策を設計し、実施可能性を検討することは、本来一体として機能する必要がある。
安倍政権で官邸主導は人事の領域へ広がった
官邸主導を制度面から考えるうえでもう一つ重要なのが、2012年に発足した第2次安倍晋三政権である。2014年には内閣人事局が設置され、各府省の幹部職員について、政府中枢が横断的に人事を管理する仕組みが本格的に導入された。これは、各府省大臣の任命権をなくした制度ではない。幹部職員の適格性審査や、内閣総理大臣及び内閣官房長官との任免協議などを通じて、政府全体として幹部人事を管理する仕組みを整えたものである。
この改革には民主的統制という観点から明確な合理性がある。もし各省庁が事実上自分たちだけで幹部を選び、政治が人事にほとんど関与できないとすれば、選挙によって形成された政権の政策方針が行政組織の内部で十分に反映されない可能性がある。政治家が政策目標を決め、その実行を担う行政組織を適切に統制することには、議院内閣制のもとで一定の制度的根拠がある。
しかし、人事に対する政府中枢の影響力が強くなることで、別の懸念も生じる。官僚が昇進や人事評価への影響を意識し、政権の方針に反する専門的な意見を述べにくくなるのではないかという問題である。実際、2018年に公表された参議院事務局の調査論文でも、内閣人事局による幹部人事管理が官僚の萎縮を招き、意見を言いにくくするという批判が紹介されている。ただし、その記述は新聞に掲載された専門家の論考を引用したものであり、参議院事務局が独自の統計調査によって官僚の萎縮を実証したものではない。
この違いは重要である。ある制度に対して専門家が懸念を示していることと、その制度が実際に官僚の行動を変化させたことが因果的に証明されていることは同じではない。仮に官僚が以前より政治家に反論しなくなったとしても、その原因が人事制度の変更なのか、政権の安定性なのか、組織文化の変化なのか、政策分野の特性なのかを区別する必要がある。したがって、内閣人事局を官僚の萎縮の原因と断定することも、反対に萎縮への影響はなかったと断定することも、十分な実証なしにはできないのである。
官僚自身は官邸の影響力をどう見ているのか
官邸主導の実態を考えるうえで参考になるのが、2019年と2023年に実施された主要省庁の官僚意識調査を分析した2025年の研究である。この研究では、首相官邸、内閣官房、内閣府の制度的な機能が強化されている一方で、主要6省の官僚が日常的な政策形成において政府中枢を常に圧倒的な存在として認識しているわけではないことが示されている。また、安倍政権期の認識についても、他の時期と比べて一律に突出していたと単純化することは難しいとされる。
ただし、この調査結果を読む際には、標本の構成と調査方法に注意が必要である。基礎集計で確認できる回答者数は2019年調査が203人、2023年調査が534人であり、調査対象は主要6省に限られている。さらに2019年調査では、回答者が課長級以上に偏っているという標本構成上の限界も報告されている。そのため、調査結果を国家公務員全体の意識として一般化することには慎重でなければならない。回答者の職位や所属省庁が異なれば、官邸との接触頻度や影響力についての認識も変化する可能性がある。また、2019年と2023年の結果を比較する場合にも、回答者の構成や政策環境の違いを考慮する必要がある。
さらに重要なのは、官僚が日常業務で感じる影響力と、首相が重要政策について最終的な政治判断を行う際の影響力は異なるという点である。通常の行政事務では各省庁が大きな裁量を持っていても、安全保障、財政運営、大規模な制度改革などの政治的優先順位が高い案件では、官邸が決定的な役割を果たす可能性がある。したがって、この研究から導けるのは、官邸がすべての政策形成を一方的に支配しているという見方を修正する必要があるということであり、官邸の政治的な影響力そのものが弱いという結論ではない。官邸主導を理解するには、「官邸が強い権限を持っていること」「官邸が実際に政策へ影響を与えていること」「官僚がその影響をどの程度認識していること」を区別する必要がある。
「決められる政治」と「良い政治」は同じなのか
官邸主導を評価するとき、最も注意しなければならないのは、政策を決定できることと政治が良くなることを、無意識に同じものとして扱わないことである。会社を例にすれば分かりやすい。社長がほとんどすべての案件を即断できる会社は、意思決定が速い。しかし、その判断が合理的であるとは限らない。適切な判断であれば組織は素早く前進するが、判断が誤っていれば、同じ速度で損失を拡大する可能性もある。
政治も同じである。官邸主導によって直接強化されるのは、必ずしも正しい政策を選ぶ能力ではなく、政府として一つの方針を定め、関係行政機関を調整し、政策の実施へ向けて動かすための制度的能力である。
従来の省庁中心型政治には、確かに欠点があった。各省庁が自らの所管や既存制度を守ろうとすれば、省庁間調整に時間がかかり、改革案が弱められる場合もある。しかし、その煩雑さの中には別の機能も存在していた。財政担当者が財源を問い、法制度の担当者が法律との整合性を検討し、政策の実施を担当する行政機関が現場での実現可能性を確認する。政治家にとっては面倒な反論であっても、政策にとっては一種の品質検査として機能することがある。
もちろん、こうした調整が常に政策を改善するわけではない。既存の権益を維持するための抵抗や、責任回避のための過剰な手続きが混在する場合もある。重要なのは、省庁間調整を無条件に肯定することでも、政治的な障害として一律に排除することでもなく、何が専門的な検証であり、何が組織防衛のための抵抗なのかを見極めることである。官邸主導が改善しようとしたのは、主として政治的な優先順位の設定や省庁横断的な調整の能力だった。その改革が政策の品質にどのような影響を与えたのかは、別途検証されなければならない。
官僚が反対できる政府は弱いのか
ここで問題になるのが、政治主導と官僚の専門性をどのように両立させるかという、古くて新しい課題である。官僚が政治家の方針を無視して独自に政策を進めれば、民主的統制が十分に働かなくなる。一方、政治家の方針に対して官僚が専門的な反論を示せなくなれば、政策判断に必要な情報や代替案が政府中枢へ届きにくくなる可能性がある。どちらの場合も、望ましい統治のあり方とはいえない。
理想的には、政治家が政策の目的や優先順位を示し、官僚が専門知識に基づいて実現可能性、財政負担、法的問題、副作用を検討し、異なる選択肢を提示する。そして、それらの情報を踏まえて、法令上の権限と手続きに従い、政治的責任を負う側が最終的な判断を行うことが望ましい。
ここで注意したいのは、日本の行政権は憲法上、首相個人ではなく内閣に属していることである。内閣総理大臣は国会の議決によって指名され、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う。首相が政策を主導することと、首相が法律上すべての政策を単独で決定できることは同じではない。また、法律の制定や予算の議決などには国会の権限が関わるため、官邸主導であっても憲法と法律に基づく権限配分がなくなるわけではない。
政治と行政の関係を考える際には、英国などの議院内閣制における政官関係の議論も参考になる。政治家が方針を示し、官僚が専門的な問題点や選択肢を提示し、その対話を通じて政策を決定するという考え方である。政治主導とは、大臣が官僚に一方的に命令することだけではない。つまり、政治家が決めることと、官僚が黙ることは同じではない。むしろ、官僚が合理的な反論を提示できるからこそ、政治家は多くの情報を踏まえて責任ある決定を行うことができる。
縦割りを壊すための官邸が、巨大組織になっていく
官邸主導が求められた理由の一つは、省庁の縦割り行政だった。人口減少、感染症、エネルギー、安全保障、少子化、デジタル化、人工知能の活用など、現代の政策課題には、一つの省庁だけでは解決できないものが多い。そうであれば、省庁間の調整を行い、政府全体の優先順位を示す機能が必要になるという考え方には合理性がある。
しかし、中央で政策を調整する組織には、別の問題が生じる可能性もある。新たな政策課題が登場するたびに、本部、会議、事務局、担当室などが設置されれば、政府中枢の業務は増加する。調整する組織が多くなるほど、組織間の役割分担を明確にしなければ、かえって新しい調整業務が発生することも考えられる。この問題は単なる推測ではない。政府自身も内閣官房や内閣府の業務拡大を課題として認識し、2015年には内閣官房・内閣府の業務見直しを進め、両組織が重要政策の企画立案や総合調整に集中できるようにするための制度改革を実施した。
この事実は、官邸主導を評価するうえで重要である。政府中枢の組織は一方的に拡大し続けてきたというだけではなく、拡大した機能を見直し、役割を再配分する改革も行われてきた。問題は単純な組織の大小ではなく、政府全体としてどの程度の調整能力を、どれほどの行政コストで実現できているのかという点にある。中央に調整権限を集めることで省庁間の対立を克服できる場合もあれば、官邸と各省庁との間に新たな調整負担が生じる場合もある。そのため、官邸主導によって行政組織全体の効率が高まったかどうかは、職員数や組織数だけではなく、政策決定に要する時間、行政コスト、実施段階での調整負担などを比較しなければ判断できない。
交通事故が起こるたびに運転席だけを大きくしても、自動車が安全になるとは限らない。必要なのは、運転席だけではなく、計器、ブレーキ、ミラー、整備、道路標識まで含めた仕組みであり、政治についても同じことがいえる。
「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治
官邸主導には、民主主義にとって重要な利点がある。それは、政治的な責任の所在を国民が認識しやすくなる可能性があることである。省庁、審議会、与党部会、業界団体などの調整を積み重ねて政策が決まる仕組みでは、政策が失敗した際に責任が分散しやすい。これに対して、首相や政権が特定の政策を掲げ、政府として実行する場合には、選挙を通じてその政治的な判断を評価しやすくなる。
ただし、政治的責任の所在が分かりやすくなることと、法律上の責任がすべて首相へ集中することは異なる。行政権の行使に関する内閣の連帯責任、個別法令に基づく大臣や行政機関の権限、国会による立法と予算の議決など、制度上の責任配分は官邸主導によって消滅するわけではない。さらに、意思決定が政府中枢へ集中すれば、誰が政治的な方向を示したかが分かりやすくなる一方で、少人数での非公開の調整が増えた場合には、なぜその結論に至ったのかを外部から検証しにくくなる可能性がある。
もっとも、官邸主導そのものが不透明さを生み出すわけではない。小泉政権期の経済財政諮問会議では、議事要旨や議事録が公開され、政策形成の過程を国民が確認できる仕組みが整えられていた。従来の非公式な調整に比べて、むしろ議論の透明性が高まる場合もある。重要なのは、政策を誰が主導したかだけではなく、判断に使われた資料、検討された代替案、専門家や官僚の異論、政策を採用した理由がどこまで記録され、後から検証できるかということである。
公文書管理が重要なのも、そのためだ。民主主義においては、決定された政策だけではなく、なぜ別の政策が選ばれなかったのかを、国会や国民が検証できることが望ましい。「誰が決めたか」が見える政治と、「なぜ決めたか」が見える政治は、似ているようで別のものである。
官邸主導によって政策の質は落ちたのか
この問いに、簡単な答えを出すべきではない。政治学や行政学では、官邸主導によって政策決定が政府中枢に集中すると、十分な政策分析や代替案の比較が行われにくくなる可能性が指摘されている。安倍政権期の政策形成を分析した研究にも、官邸主導の強化に対して、政策の品質を確保するための政策分析や行政組織の機能が十分に対応できているのかを問題にするものがある。しかし、こうした研究上の問題提起が存在することと、日本政府全体について政策の質が統計的に低下したことが証明されていることは異なる。
そもそも、政策の質を一つの数字で測ることは難しい。外交政策と社会保障政策では成功の尺度が異なり、感染症対策と経済政策でも評価すべき項目が違う。政策を早く決めることが重要な場面もあれば、十分な情報収集と異論の検討に時間をかけるべき場面もある。また、一つの政策が経済成長を促しても、所得格差を拡大する可能性があるように、政策の成果には複数の評価軸が存在する。
官邸主導によって意思決定が速くなったとしても、それだけで政策の質が向上したとは判断できない。反対に、政策決定が速くなったことをもって、十分な検討が行われなかったと断定することもできない。緊急時には、意思決定の遅れ自体が大きな社会的損失を生む場合もあるからである。したがって、官邸主導が政策の質を高めたのか低下させたのかを科学的に評価するには、政策ごとの目標、費用、効果、副作用、実施までの期間などを検証する必要がある。さらに、その成果が官邸主導という制度の効果によるものなのか、政権の議席数、経済情勢、国際環境、官僚組織の能力など、別の要因によるものなのかも区別しなければならない。
官邸主導の成果を統計的に測ることはできるのか
官邸主導によって日本政治が良くなったのかを検証するには、まず何をもって政治が良くなったと判断するのかを定義する必要がある。例えば、意思決定能力であれば、政策提案から政府決定までに要する日数や、省庁間調整に要する期間が指標になり得る。政策実行力であれば、決定された政策の実施状況や目標達成率が考えられる。行政効率については、政策実施に要した費用や行政組織の業務負担を測定する方法がある。さらに、透明性を評価するなら、議事録の公開状況、政策判断の根拠となった資料の保存状況、国会による検証可能性などが重要になる。
しかし、これらの指標を単純に比較するだけでは十分ではない。政策決定に要する日数が短くなったとしても、対象となった政策の難易度が変化していれば、その違いを官邸主導の効果と判断できない。また、政策目標の達成率が高まった場合でも、景気や人口構造など外部環境の変化が影響している可能性がある。
統計学や政策評価の観点から特に重要なのは、官邸主導改革が行われなかった場合に、日本政治がどうなっていたかという反実仮想である。制度改革の成果を厳密に測るためには、実際に観察された結果と、改革がなかった場合に想定される結果との差を推定する必要がある。ところが、日本全国で実施された制度改革について、改革が行われなかった別の日本を同時に観察することはできない。改革前後の比較だけでは、選挙制度の変化、政党構造、国際経済、社会情勢、情報技術などの影響を十分に分離できないのである。
比較する政策分野や政権を適切に選び、政策の複雑さや議席構成などを統計的に調整する方法は考えられる。しかし、それでも観察できない要因の影響を完全に取り除くことは難しい。したがって、官邸主導という大規模な制度改革の効果を、単一の数値で厳密に表すことには大きな限界がある。現時点で比較的確かなのは、政府中枢の政策調整権限や幹部人事管理機能が制度的に強化されたことである。それによって個々の政策の質、行政効率、経済成長、政治への信頼まで一律に改善したと結論づけるには、別の実証的な根拠が必要になる。
政策を決めた後に、検証する仕組みはあるのか
ここで重要になるのが、政策の事後評価である。政治の役割は、政策を決定して実行することだけではない。政策が期待した成果を生んだのか、想定外の副作用はなかったのか、財政負担は合理的だったのか、別の手段の方が効果的ではなかったのかを、実施後に確認することも重要である。
日本には既に、行政機関が実施する政策を評価する制度が存在する。政策評価法に基づく各府省の政策評価や、行政事業レビュー、決算審査、会計検査院による検査、国会による行政監視などは、そのための仕組みとして位置づけられる。したがって、官邸主導のもとで政策を検証する制度が全く存在しないという理解は正確ではない。問題にすべきなのは、既にある制度がどの程度機能し、政策の修正や廃止につながっているのかという点である。
政策評価の報告書が作成されていても、その結果が次の予算や制度改正に反映されなければ、検証の実効性は限定的になる。反対に、政策が当初の想定と異なる結果を生んだことを確認し、その根拠を公開したうえで内容を修正できるなら、政治の意思決定能力と政策の改善能力は両立し得る。ここには政治的な難しさもある。政策を推進した政権にとって、自らの判断に誤りがあったことを認めることは容易ではない。政策評価が政治的な成功を示すためだけの手続きになれば、失敗や副作用を発見するという本来の役割が弱まる可能性がある。
だからこそ、政策評価には、評価指標の事前設定、検証に必要な資料の保存、結果の公開、外部からの検証可能性などが求められる。政策の成功だけでなく、失敗の原因を分析して次の政策へ反映させる仕組みが重要なのである。
「日本政治が良くなった」とは何を意味するのか
ここまで考えると、この記事の題名に含まれる「良くした」という言葉そのものが、慎重な検討を必要とすることが分かる。政治が良くなったかどうかを、政策決定の速さで測るのか、選挙公約の実現率で測るのか、経済成長で測るのか、行政コストで測るのか、透明性で測るのか、少数意見が尊重されたかどうかで測るのかによって、官邸主導への評価は変わる。
もし評価対象を、首相と政府中枢が政策課題を設定し、省庁を越えて政府全体を調整するための制度的能力に限定するなら、1990年代以降の改革は一定の成果を上げたと評価できるだろう。内閣機能の強化や幹部人事管理制度の整備によって、政府中枢が政策を主導するための手段が増えたことは、制度史から確認できる。しかし、制度的な能力が強化されたことと、その能力が常に適切に使われたことは別の問題である。また、政治の目的を、国民生活を改善する政策を選び、間違った場合には修正することに置くなら、評価はさらに複雑になる。
政府が迅速に意思決定できても、政策の根拠となる情報が不十分であれば、適切な判断に至らない可能性がある。逆に、専門家や行政機関の意見を十分に検討していても、政治的な決断ができずに必要な政策が遅れれば、そのこと自体が社会的な損失を生む場合もある。したがって、良い政治を実現するためには、決断力と慎重さのどちらかを選ぶのではなく、政策の性質に応じて両者を適切に組み合わせる必要がある。特に、緊急性の高い政策では迅速な意思決定と事後検証が重要になり、長期的な制度改革では事前の十分な分析と多様な関係者との調整が重要になる。すべての政策について同じ意思決定方法が最適であるとは限らないのである。
強い指導者より、間違いを直せる制度の方が強い
官邸主導について考えるとき、最も重要なのは、首相を強くするべきか弱くするべきかという二択から離れることだろう。人口減少、安全保障、エネルギー、感染症、人工知能など、複数の省庁にまたがる政策課題が増える現代社会では、各省庁が個別に政策を積み上げ、最後に首相が承認するだけの仕組みに全面的に戻ることは現実的ではない。政府全体の優先順位を決め、省庁間の利害を調整する機能は必要である。
しかし、その機能を政府中枢に集中させるのであれば、同時に政策の前提を検証する仕組みも確保しなければならない。官僚が昇進や人事評価への影響を過度に恐れず、専門的な異論を提示できること、政策に関する重要な検討過程が記録として残されること、有識者会議では政府の方針を支持する意見だけでなく、異なる見解も適切に検討されることが望ましい。さらに、最終的な政策判断に至った理由が公表され、国会や国民がその判断を検証できることも重要である。政策を実施した後には、予想した効果が得られたかどうかを確認し、必要であれば制度を見直す仕組みが求められる。
ここで目指すべきなのは、官僚に政治家の判断を拒否する無制限の権限を与えることではない。民主的に正統性を得た政治家が責任を持って決断することを前提としながら、その判断に必要な情報や専門的な反論が確実に届くようにすることである。政治の意思決定能力と、政策を検証し修正する能力は、互いに対立するものではない。両者が適切に機能してこそ、政府は迅速さと正確さの双方を高めることができる。強い政治とは、指導者が何でも決められる政治ではない。誤った判断を発見し、その理由を説明し、必要な修正を実行できる政治である。
官邸主導が日本政治に残した本当の宿題
「官邸主導は日本政治を良くしたのか」という問いに、単純な答えはない。しかし、制度的な変化については、かなり明確に説明できることがある。日本政治はこの三十年ほどの改革によって、各省庁や与党内部に分散していた政策形成上の主導権を、首相と政府中枢がより強く行使できる方向へ変化させてきた。中央省庁再編、選挙制度改革、経済財政諮問会議の活用、民主党政権による政治主導の試み、内閣人事局の設置などは、その過程を構成する重要な出来事である。
それは小さな変化ではない。省庁を横断する政策を推進するための制度的な手段が整備され、首相や政権の政治的な方針を行政運営へ反映させやすくなったことには、一定の合理性がある。一方で、制度的な主導権が強化されたことを、そのまま政策の質や民主主義の改善と同一視することはできない。政策の成果を正確に評価するためには、政府中枢の意思決定能力だけでなく、専門的な分析、異論の検討、法律上の手続き、公文書管理、国会による監視、政策の事後評価まで含めて考える必要がある。
官邸主導によって日本政治は、従来より強力なアクセルを手に入れたといえるかもしれない。しかし、アクセルが強くなったからといって、自動車全体の性能が向上したとは限らない。安全に目的地へ到達するためには、ブレーキ、計器、ミラー、整備の仕組みも適切に機能していなければならない。かつて日本政治が抱えていた重要な問いの一つは、なぜ必要な政策を迅速に決定できないことがあるのかというものだった。官邸主導の時代には、それに加えて、強化された意思決定能力をどのように検証し、誤った判断をどう修正するのかという問いが生じている。
日本には既に、国会による行政監視、会計検査、政策評価、公文書管理、司法審査などの制度が存在する。したがって、問題は検証制度が全くないことではなく、それらの制度が強化された政治的意思決定に対して十分に機能しているかどうかである。首相が政策を主導すること自体は、議院内閣制に反するものではない。しかし、その判断に対して専門家が前提の誤りを指摘できるのか、官僚が実施上の危険を明らかにできるのか、国会が意思決定の根拠となる資料を確認できるのか、そして数年後の国民が政策の成果を検証できるのかという問題は、首相の権限を強くするだけでは解決しない。
日本政治は官邸主導という一連の改革によって、誰が政策形成を主導するのかという問いに対し、以前より明確な制度的な答えを与えてきた。しかし、その先にある問いについては、なお検証すべき課題が残されている。
「決めた人が間違えたとき、それをどう発見し、誰が止め、どう直すのか」。
官邸主導の本当の成否は、単に首相が強くなったかどうかではなく、この問いに対して日本の政治制度がどれだけ実効性のある答えを用意できているかによって評価されるべきなのだろう。