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九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

日本の戦後81年は、なぜ大規模な戦争なしに続いたのか~これから平和を続ける条件

戦後81年~「戦後100年」「戦後120年」

 2026年8月15日、日本は1945年の終戦から81年を迎えた。「戦後81年」という言葉には、少し不思議な響きがある。戦争が終わってから81年間が経過したという意味である一方、「戦後」という言葉を使い続けている限り、日本は1945年から続く時間の中にいることになる。

 しかし、それは必ずしも否定的な意味ではない。2045年にも「戦後100年」と呼び、2065年にも「戦後120年」と呼ぶことができるなら、それは少なくとも、その間に日本が新たな大規模戦争によって時代を区切られなかったことを意味する。理想を言えば、戦後150年、200年と、「戦後」が終わらない社会であってよい。

 もちろん、将来、日本が戦争に巻き込まれないことを保証する方法は存在しない。国家間の戦争は、一国の国民の善意だけで決まるものではなく、国際政治、軍事力、領土問題、資源、経済、安全保障上の認識、国内政治、同盟関係、偶発的衝突、指導者の意思決定など、多数の要因が複雑に絡み合って発生する。したがって、「平和を願えば戦争は起こらない」という説明は現実的ではなく、反対に「十分な軍事力さえ持てば戦争は起こらない」と断定することもできない。

 重要なのは、戦争が起こる確率をゼロにできると考えることではなく、戦争へ進む条件を一つずつ減らし、平和が継続する条件を一つずつ増やしていくことである。そのために必要なのは、特別な理念だけではない。民主主義、外交、防衛、教育、歴史認識、情報、経済、国際協力という社会の仕組みを、毎日の政治と生活の中で正常に機能させ続けることである。

81年間を「一つの原因」で説明することはできない

 1945年から2026年まで、日本は大規模な国家間戦争の直接的な当事国になることなく81年間を積み重ねてきた。ただし、この状態が何によって実現したのかについて、一つの原因だけを取り出して科学的に証明することは難しい。

 日本国憲法第9条は、日本国民が国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄すると定めている。これは現在も日本の憲法上の基本原則である。一方、日本政府は、憲法第9条が自衛権そのものを否定しているわけではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは許されると解釈している。また、一定の要件を満たす場合には、自衛のための必要最小限度の武力行使も憲法上許容されるという立場をとっている。その制度的な実体が自衛隊であり、さらに日本の安全保障には日米安全保障体制が組み込まれている。

 したがって、日本の戦後の安全を「憲法があったから」とだけ説明することも、「自衛隊や日米同盟があったから」とだけ説明することも適切ではない。外交、同盟、防衛力、国際連合を含む国際秩序、経済関係、東アジアの力関係、日本国内の政治制度、戦争を避けようとする社会的規範など、多くの条件が同時に存在してきた。

 さらに重要なのは、私たちは「憲法第9条のなかった戦後日本」や「日米同盟のなかった戦後日本」を実際には観察できないことである。そのため、どの要因が何%戦争回避に寄与したのかを実験のように測定することはできない。科学的に慎重な表現をするなら、法制度、民主主義、外交、防衛、同盟、経済、国際秩序、社会的規範などが複合的な安全保障環境を構成し、日本が大規模戦争の当事国とならずにきたことに寄与してきた可能性が高い、と考えるべきである。

「81年間戦争がなかった」ことは、82年目の安全を保証しない

 戦後81年間、日本が大規模戦争の当事国にならなかったという事実は重要である。しかし、それだけから今後も同じ状態が続くと統計的に結論することはできない。

 例えば、毎年同じ確率で戦争が発生し、それぞれの年が互いに独立しているという極端に単純なモデルを考えることはできる。しかし、現実の国際政治はそのようには動かない。1946年と2026年では、日本の経済力、自衛隊の能力、米国との関係、中国やロシアの軍事力、北朝鮮の核・ミサイル能力、国際秩序そのものが大きく異なる。

 さらに国際情勢には連続性がある。ある年に軍事的緊張が高まれば翌年にも影響し、同盟関係や軍備、指導者の交代、戦争、経済危機などによって危険度は変化する。したがって「過去81年間起こらなかったから、次の1年間も起こりにくい」と単純に推計することはできない。戦後81年とは、安全が証明された数字ではなく、あくまで81年間続いてきた結果を示す観測値である。その意味で、過去の成功を将来の保証と取り違えないことが重要になる。

2026年の世界は、平和が自動的に続く環境ではない

 2026年の日本から世界を見れば、平和を楽観できる状況ではない。SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute・ストックホルム国際平和研究所)は2026年版年鑑で、核兵器を国家安全保障や国力の重要な手段として位置付ける傾向が強まり、核をめぐる誤算やエスカレーションの危険が高まっていると指摘している。

 世界の軍事支出も高い水準にある。SIPRIの集計では、2025年の世界の軍事支出は前年比実質2.9%増の2兆8,870億ドルとなり、11年連続で増加した。2016年から2025年までの10年間では41%増加している。ただし、この数字を「軍事費が増えたから戦争が起こりやすくなった」と単純に解釈することもできない。

 軍事費が増える背景には、国際情勢の悪化に対応して各国が防衛力を強化するという因果関係も存在する。軍備の強化によって、攻撃側に大きな損害を予想させ、攻撃を思いとどまらせる抑止効果が働く場合もある。一方で、自国では防衛目的だと考えている軍備増強を相手国が攻撃準備と受け取り、相手も軍備を増強する可能性がある。双方が安全を求めて行動した結果、かえって双方が不安定になる現象は、安全保障のジレンマとして国際政治学で古くから議論されてきた。

 つまり、軍事力は多ければ多いほど安全になるとも、少なければ少ないほど平和になるとも一般化できない。どのような脅威に対して、どのような能力を、どの程度保有するのか、その軍備が相手国にどのように認識されるのかまで考える必要がある。

「防衛か平和か」という二者択一ではない

 日本政府も、日本周辺の安全保障環境について厳しい認識を示し、防衛力の強化を進めている。現在の安全保障政策は、自衛隊や日米同盟だけではなく、外交、安全保障協力、経済、技術、情報などを組み合わせて国の安全を確保する考え方を採用している。

 したがって、平和政策を「防衛か平和か」という二者択一で考えることには限界がある。防衛が必要な部分では、その必要性、能力、規模、費用対効果を検証しながら備える一方、その防衛力を実際に使用しなくて済む国際環境を外交によって作る。この二つを同時に考える必要がある。戦争を防ぐことが目的であるなら、戦争になったときに戦える能力だけでなく、戦争という状況そのものを発生させにくくする能力も安全保障の一部である。

外交とは、仲の良い国と付き合うことだけではない

 平和を維持するための外交というと、友好国との関係を深めることが想像されやすい。もちろん、それは重要である。しかし、戦争を防止するという観点では、意見の合わない国、利害が対立する国、安全保障上の脅威と認識している国とも意思疎通の経路を失わないことが重要になる。

 国際連合憲章第2条3項は、加盟国に対し、国際紛争を国際の平和、安全及び正義を危うくしないよう平和的手段によって解決することを求めている。さらに第33条は、その継続が国際の平和と安全を危うくするおそれのある紛争について、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決などの方法を挙げている。

 外交とは、相手を好きになることでも、相手国の政策を支持することでもない。対立が存在するとき、それを武力以外の方法で管理し、妥協可能な部分と不可能な部分を見極め、事故や誤算によるエスカレーションを防ぐための制度と技術である。その意味では、「対話すること」と「譲歩すること」を混同しないことが重要になる。外交交渉を行うことは、相手国の主張を認めることではなく、むしろ対立しているからこそ交渉が必要になる。

 政府間の電話がつながること、外交官が会えること、首脳同士が話せること、軍や海上保安機関の間に偶発的衝突を避ける連絡手段があることは、一見すると地味である。しかし、重大な誤解や事故を武力衝突へ発展させないための重要な安全装置になる。

相手を理解することと、相手を信頼することは違う

 平和について考えるとき、「相互理解」という言葉が使われることが多い。しかし安全保障では、相手を理解することと、相手を信頼することを分けて考える必要がある。

 相手国の歴史、政治制度、安全保障上の不安、国内世論、軍事戦略、指導者の意思決定の仕組みなどを知ることは、その国の政策に賛成することを意味しない。むしろ、正確に理解しなければ、相手の行動を誤読する危険が高まる。国家間の危機で危険なのは、「相手も自分たちと同じように考えるはずだ」という思い込みであり、同じ出来事を見ても、国家によって歴史的記憶、利益、恐怖、国内政治上の制約は異なる。

 令和の日本人に必要な国際理解とは、外国に好意を持つことだけではない。自分たちとは異なる歴史、利益、恐怖、合理性を持つ主体として他国を見る能力である。安全保障上の対立国について冷静に研究することは、その国を支持することではなく、誤算を減らすための行為でもある。

戦争の記憶を残す目的は、責任を永遠に相続させることではない

 戦後81年となり、戦争を直接経験した世代は急速に少なくなっている。そのため、歴史教育や戦争体験の継承の意味も変化していく。

 戦争の歴史を伝えることは、現在の日本人に、当時の政府や軍の意思決定と同じ責任を負わせることではない。2026年を生きる子どもが1940年代の国家政策について直接的な責任を負うことはできない。しかし、過去の政策がどのような意思決定を経て戦争へ進んだのか、外交はなぜ機能しなくなったのか、軍事行動はなぜ拡大したのか、反対意見はなぜ政策を止められなかったのか、情報はどのように国民に伝えられたのか、政治指導者や軍指導者はどのような判断をしたのか、そして民間人に何が起こったのかを知ることには現在的意味がある。

 歴史教育を「誰を悪者にするか」という問題だけにすると、世代が変わるほど学習の意味が失われやすい。重要なのは、誰かを永久に裁き続けることではなく、どのような制度や意思決定が破局につながり得るのかを検証することである。

 広島市が毎年8月6日に平和記念式典を開催し、原爆死没者を追悼するとともに、核兵器廃絶と恒久平和を訴えていることも、記憶を現在と未来につなぐ社会的な仕組みの一つである。2026年にも被爆81周年の式典が行われ、平和宣言が発表された。

民主主義を正常に機能させることも安全保障の一部である

 戦争というと、外交官、自衛隊、政府などの仕事に見える。しかし、国家がどの程度の軍事力を保有するのか、どの条件で武力を使用するのか、どの国と同盟・協力関係を結ぶのか、防衛にどの程度の予算を投入するのかは、最終的には政治によって決定される。

 その意味で、安全保障政策の民主的統制は重要である。市民が政策を評価するとき、「平和を訴えているから正しい」と即断することも、「防衛力を強化しているから現実的だ」と即断することも避ける必要がある。問うべきなのは、どのような脅威を想定しているのか、その発生可能性と被害規模をどのように評価しているのか、提案される政策によって本当に危険が低下するのか、必要な費用はいくらか、代替案はあるのか、外交にはどのような影響を与えるのか、相手国の反応によって緊張が高まる可能性はないのか、政策が失敗した場合にどのような出口があるのか、といった具体的な問題である。

 こうした問いは、与党だけでなく野党にも、軍備増強を主張する立場にも軍縮を主張する立場にも同じ基準で向ける必要がある。民主主義国家だから必ず平和になるわけではなく、民主主義国家も戦争を行う。しかし、多様な意見、議会審議、選挙、報道、司法、情報公開などを通じて政策を修正できる仕組みを正常に機能させることは、重大な意思決定の誤りを発見する可能性を高める。

SNS時代には「戦争の前の情報」を扱う能力が重要になる

 令和には、昭和の戦争期とは異なる情報環境が存在する。SNS(Social Networking Service・交流サイト)によって、政府、政治家、軍事組織、報道機関、研究者、一般市民、外国政府までが同じ情報空間で直接発信するようになった。

 これは、市民が政府発表や現地情報などの一次情報へ近づきやすくなったという利点を持つ。一方で、誤情報、切り抜き、過去の映像を現在の出来事として紹介する投稿、加工画像、偽動画、感情を刺激する未確認情報も急速に拡散できる。国際的な緊張が高まったとき、「ある国が攻撃を開始した」「政府が事実を隠している」「この映像が証拠だ」といった情報が流れても、それだけで事実と判断することはできない。

 投稿者は誰なのか、映像や写真はいつどこで撮影されたのか、元資料はあるのか、政府や公的機関の情報と整合するのか、複数の独立した報道機関が確認しているのかを確かめる必要がある。令和の市民ができる平和への貢献の一つは、確認できない情報を、確認できないまま拡散しないことである。戦争や危機の際には、情報そのものが世論や政治家の判断に影響するため、情報を慎重に扱うことは、単なるインターネット上のマナーではなく、民主主義社会における危機管理の一部である。

経済関係が深ければ戦争にならない、とは限らない

 経済的な相互依存も、戦争を考えるうえで重要な要素である。貿易や投資が拡大すれば、戦争によって失われる利益が増え、武力衝突の費用が大きくなる。そのため、経済関係が戦争を抑制する可能性はある。

 しかし、経済関係が深い国同士では絶対に戦争が起きないという法則はない。経済関係が一方の国に偏っている場合、その依存関係が政治的圧力の手段として使用されることもある。また、将来、経済関係が悪化すると予想されれば、「現在のうちに行動した方が有利だ」という判断を誘発する可能性も理論上存在する。したがって、経済関係は平和を支える可能性のある一要因ではあるが、それだけで平和を保証するものではなく、外交、防衛、国際法、政治制度などと同様、複数要因の一つとして考えるべきである。

平和とは「何もしない状態」ではない

 「平和」という言葉には静かな印象がある。しかし、国家レベルの平和は、何も起きていない状態とは限らない。外交交渉が行われ、自衛隊が訓練し、海上保安機関が警戒を続け、国際会議が開催され、条約が交渉される。国会では安全保障政策や防衛予算が審議され、研究者が政策を分析し、報道機関が政府の説明を検証する。学校や博物館、公文書館では歴史が保存され、次の世代へ伝えられる。

 日本には国際平和協力の制度もあり、国際連合平和維持活動、国際連携平和安全活動、人道的な国際救援活動、国際的な選挙監視活動などに参加できる仕組みが整備されている。こうした活動が戦争を必ず防いだと証明することはできないが、外交、防衛、国際協力、民主的統制、情報検証といった多数の制度が機能することによって、武力衝突を回避しやすい環境が形成されると考えることには合理性がある。

 平和とは、「何もしなかった結果」と考えるよりも、戦争以外の手段で問題を処理できる制度を動かし続けている状態と考えた方が現実に近い。

戦後100年を迎える2045年

 2045年は戦後100年である。2026年から数えれば19年後であり、決して遠い未来ではない。2026年に生まれた子どもは、その年に19歳になる。

 その世代にとって、1945年は100年前の歴史になる。第一次世界大戦が現在の私たちにとって直接経験者のほとんどいない歴史となったように、アジア・太平洋戦争も次第に「直接知る人がいない歴史」へ移っていく。そのとき重要になるのは、単に記憶の量を増やすことではなく、記憶の質を高めることである。

 「戦争は悲惨だった」という言葉だけでは、なぜ戦争が始まり、なぜ途中で止めることができなかったのかを説明できない。外交、軍事、政治、経済、報道、世論がどのように関係していたのか、日本だけでなく中国、東南アジア、米国、欧州などでは何が起きていたのかまで理解することによって、初めて歴史は現在の政策判断へ接続する。

 戦争体験者がいなくなった社会では、記憶を人から制度へ移す必要がある。公文書、映像、証言録、博物館、研究、学校教育、デジタル資料などがその役割を担うことになる。

そして戦後120年、2065年へ

 2065年、日本が戦後120年を迎えたとする。そのとき、「戦後」という表現に違和感を持つ人もいるだろう。120年前の出来事をいつまで「戦後」と呼ぶのか、と考える人もいるかもしれない。しかし、「戦後を続ける」という表現を、過去に縛られ続けることではなく、新しい大規模戦争によって歴史を区切らないことだと考えることもできる。

 戦後120年まで続けば、その間に日本の政治思想、安全保障制度、国際環境、軍事技術、人口構造、経済力などは大きく変化しているだろう。憲法や自衛隊の制度が現在と同じ形で存在しているかどうかさえ分からない。それでも、一つの政策目標は共有できる。制度の形がどのように変わったとしても、日本社会の目的を「次の戦争に勝つこと」だけに置くのではなく、「そもそも次の戦争が起こる可能性をできる限り低くすること」に置き続けることである。

 もちろん、他国から武力攻撃を受ける可能性まで日本だけの努力で消すことはできない。そのため、防衛という問題から逃れることもできない。同時に、軍事力だけですべての安全を購入することもできない。戦後100年、120年を目指す安全保障政策は、この二つの現実の間に存在する。

令和の日本人にできること

 一人の日本人が、世界の戦争を止めることはできない。日本の首相であっても、日本一国だけの力によって世界から戦争をなくすことはできない。しかし、それは個人に何もできないという意味ではない。

 政策を感情ではなく事実に基づいて判断し、選挙では安全保障政策についても確認する。自分と異なる立場の意見を読み、戦争の歴史を単純な敵と味方だけで整理しない。確認できない情報を拡散せず、外国の政府と、その国に暮らす人々や民族全体を同一視しない。同時に、安全保障上の現実的なリスクから目をそらさない。

 政治家が防衛力を強化すると主張するなら、その必要性、効果、費用を問う。反対に防衛力の縮小を主張するなら、その安全保障上の根拠と代替手段を問う。外交交渉を行うなら、何を守り、何を譲ったのかを確認し、対立が激化したときには、対話と危機管理の経路が残されているかを見る。こうした市民社会が存在しても、戦争を絶対に防ぐことはできない。しかし、戦争へ向かう誤った意思決定を発見し、議論し、修正できる可能性を高めることはできる。そこに民主主義の重要な意味がある。

終戦の日を「過去を見る日」だけにしない

 8月15日は、戦争で亡くなった人々を追悼する日である。政府は1982年の閣議決定によって8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めており、2026年にも政府主催の全国戦没者追悼式が行われた。

 しかし、この日は1945年から何年が経過したかを数えるだけの日ではない。次の1年間を戦後のまま終わらせるために、何が必要なのかを確認する日と考えることもできる。

 2026年から2045年までは19年しかない。戦後100年は遠い未来ではない。2065年の戦後120年も、現在生きている多くの子どもたちが経験し得る時代である。その人たちが8月15日に「今年で戦後120年になった」と言える日本であるために必要なのは、壮大な理念だけではない。外交を続け、必要な安全保障について冷静に考え、国際法を尊重し、民主主義を機能させ、歴史を検証可能な形で残し、異論を排除せず、誤情報に流されず、政治を単純な敵と味方だけで考えないことが必要になる。

 そして最も重要なのは、戦争という極端な手段に至る前に問題を処理できる制度を、時代に合わせて何度でも点検し、修理することである。

 戦後81年という数字は、完成した平和の証明ではない。日本が大規模な国家間戦争の直接的な当事国とならずに81年間を積み重ねてきたという結果を示しているにすぎない。しかし、だからこそ価値がある。平和は、一度達成すれば自動的に保存されるものではない。国際情勢も技術も政治も世代も変化する以上、安全保障の仕組みも常に検証し続けなければならない。

 2026年8月15日の日本に必要なのは、「もう81年間戦争をしなかった」と過去形で振り返ることだけではない。82年目も戦後にし、83年目も戦後にすることである。その積み重ねによって2045年を戦後100年とし、2065年を戦後120年とする。さらにその先も、「戦後」という言葉を1945年から数え続けられる社会であるために、何が必要なのかを問い続ける。

 戦争のない戦後をできる限り長く続けるという願いを現実の政策へ翻訳するなら、それは、戦争を避けるという意思を持つことと、戦争を避けられる可能性を高める制度を不断に作り、検証し、修正し続けることを、同時に行うということなのである。

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「民意の直接反映」という利点と、分断・単純化・誤情報がもたらす危険を検証する

 SNS(Social Networking Service・交流サイト)は、政治の情報流通の仕組みを大きく変えた。かつて政治家が多数の有権者へ直接語りかけるには、新聞、テレビ、ラジオ、街頭演説、政党機関紙などを利用する必要があったが、現在では政治家がスマートフォンから投稿するだけで、短時間のうちに何万人、場合によっては何十万人へ情報が届く。有権者も、その発言に直接反応し、共有し、批判し、自ら別の情報を発信できる。

 この変化には明確な民主的価値がある。既存メディアが十分に取り上げなかった問題を社会へ知らせることができ、大きな政党や組織を持たない政治家や市民運動にも発信の機会が生まれる。政治家本人の発言や政策資料へ直接アクセスできることも、条件によっては政治の透明性を高める。その意味で、SNSそのものを民主主義の敵と考えるのは適切ではない。

 しかし、SNSの情報流通構造と非常に相性のよい政治手法がある。ポピュリズムである。「既得権益を持つエリート対普通の国民」「われわれ対あいつら」「複雑な制度より国民の常識」「専門家より民意」「既存メディアは真実を隠している」といった構図は、短く、理解しやすく、感情を刺激し、共有しやすい。

 SNSは政治参加の障壁を下げる一方で、複雑な政治問題を単純な敵味方の対立へ置き換え、怒りや不信を政治資源へ変換する装置にもなり得る。本稿では、ポピュリズムが既存政治の問題を発見する是正機能を持ち得ることを認めたうえで、それでもなぜ長期的には議会制民主主義、多元主義、専門知、少数者の権利、制度的な権力抑制と衝突しやすいのかを、政治学、メディア研究、近年の実証研究から検討する。

1.そもそもポピュリズムとは何か

 「ポピュリズム」という言葉は、日本の日常的な政治報道では「人気取り政策」「大衆迎合」「ばらまき政策」という意味で使われることがある。しかし、政治学上のポピュリズムは、それだけではない。

 政治学者カス・ムッデの定義は、現在のポピュリズム研究で広く参照されている。そこではポピュリズムを、社会を基本的に「純粋な人民」と「腐敗したエリート」という二つの同質的で対立する集団に分け、政治は人民の一般意思を表現すべきだと考える「薄い中心を持つイデオロギー」と捉える。

 重要なのは、ポピュリズムそのものが右翼や左翼を意味するわけではないことである。右派ポピュリズムにも左派ポピュリズムにもなり得るし、保守主義、ナショナリズム、社会主義、反緊縮政策など別の政治思想と結びつく。その核心は個々の政策内容ではなく、「正しい人民」と「腐敗したエリート」という形で政治を道徳的対立として捉えるところにある。

 ここが通常の多元的な民主政治との重要な違いになる。議会制民主主義は、社会には複数の正当な利益と価値観が存在すると考える。農業者と消費者、労働者と経営者、若年者と高齢者、都市住民と地方住民、納税者と給付を必要とする人など、それぞれの利益は異なり、一方だけが「本当の国民」なのではない。民主政治とは、本来、この異なる利益や価値を制度の中で調整する仕組みである。

 ポピュリズムはこれに対し、「国民には一つの本当の意思があり、それを自分たちが代表している」という方向へ傾きやすい。この反多元主義的傾向こそが、ポピュリズムと立憲民主主義との緊張を生む重要な理由である。

2.SNSはなぜポピュリズムと相性がよいのか

 SNS以前、政治家が大勢の国民へ情報を届ける場合、新聞記者、テレビ局、編集者などの中間過程を通ることが多かった。記者が質問し、発言の背景を確認し、反対側にも取材し、数字を検証し、編集者が記事や番組を確認する。もちろん、既存メディアが常に公正で正確だったわけではなく、誤報も偏向も存在する。それでも、大量の人へ情報が届くまでには、一定の確認過程が存在していた。

 SNSでは、その中間過程を大幅に迂回できる。政治家の発言は政治家から支持者へ直接届く。これは民主主義上の長所でもあり、既存メディアによる情報流通の独占を弱める効果を持つ。しかし同時に、第三者による検証も迂回できる。「マスコミが報じない真実です」と政治家が投稿すれば、その文章自体が支持者にとって一次情報となり、報道機関による確認を経なくても急速に共有される。

 さらにSNSでは、支持者自身が情報流通の主体になる。「いいね」、共有、引用、コメント、動画の切り抜き、再編集、短い解説などを通じて、一人ひとりが政治情報の拡散に参加する。これは市民参加という意味では大きな変化だが、政治運動の側から見れば、支持者自身が宣伝ネットワークになることを意味する。

 従来の「政治家から有権者へ」という一方向型の情報伝達は、「政治家から支持者、支持者から知人、さらに別の利用者へ」というネットワーク型へ変化した。しかも実際のSNSネットワークでは、利用者ごとのフォロワー数、共有確率、推薦アルゴリズム、利用者同士の重複などが大きく異なるため、単純に「共有人数×平均フォロワー数」で到達人数を計算することはできない。少数の非常に影響力の強いアカウントが拡散を大きく左右する場合もある。

 それでも、感情的な政治メッセージが拡散に適しているという傾向には研究上の裏付けがある。政治的・道徳的テーマでは、道徳的感情を含む表現が増えるほど共有されやすくなることを示した大規模なSNS研究も存在する。したがって、「許せないと思ったら拡散してください」というメッセージが、「制度上の制約と複数の政策選択肢を比較します」という説明よりSNS上で有利になる可能性は十分に考えられる。

3.ポピュリズムの最大の長所は、既存政治が見落とした不満を可視化すること

 ポピュリズムを一方的に否定することも適切ではない。政治学では、ポピュリズムには民主主義の「是正機能」があり得ることが議論されてきた。既成政党が十分に代表していなかった人々を政治へ取り込み、既存の代表制が見落としていた問題を可視化する可能性があるからである。

 地方衰退、実質賃金の停滞、雇用不安、社会保障への不満、行政の不透明性、都市と地方の格差、大企業と政治との関係などについて、既成政党や大手メディアの問題認識が弱ければ、それらの不満を拾い上げる政治運動には民主的な意味がある。

 したがって、ポピュリスト政治家の支持者を一律に「情報弱者」「政治を理解していない人」と考えるのも誤りである。政治的不満の背後には実際の所得低下、雇用不安、地域衰退、制度的不公平感などが存在する場合がある。ポピュリズムの支持拡大は、民主主義の代表機能に問題が発生していることを知らせる警報器として働くことがあるが、問題は警報が鳴った後である。不満の存在が確認されたことと、ポピュリストが提示する原因分析や解決策が正しいことは別問題であり、診断が正しくても治療法が正しいとは限らない。

4.SNSは政治参加を増やすのか

 SNSは政治参加の費用を大きく下げた。かつて大規模な政治運動を行うには、政党組織、新聞広告、テレビ出演、ビラ、街宣車、事務所、支持団体、資金などが必要だった。現在ではスマートフォン一台でも、理論上は全国規模で政治的主張を届けられる。

 これは新規政党、小規模政党、市民運動にとって大きなメリットである。一方、「SNSを利用すれば政治参加が増える」と単純な因果関係として断定するのは慎重でなければならない。複数の研究を統合した分析では、SNS利用と政治参加との間に正の関連が確認されることが多いものの、すべての研究で同じ結果が得られているわけではない。

 さらに、「SNSを使ったから政治参加する」のではなく、「もともと政治への関心が高く、政治参加する人ほどSNSでも政治情報を利用する」という逆方向の因果関係も考えられる。したがって現在の研究からは、「SNSと政治参加には正の関連があり、政治的ネットワーク形成の費用を下げる可能性があるが、SNS利用そのものが政治参加を引き起こす効果の大きさは一様ではない」と考えるのが適切である。

5.政治家本人の発信は「透明性」を自動的には高めない

 SNSによって、国会議員、地方議員、首長、政党が法案、国会質問、地域活動、災害対応、政策資料などを直接公開できるようになったことには大きな価値がある。既存メディアの記事だけではなく、政治家本人の説明や官公庁の一次資料へアクセスしやすくなった。

 しかし、政治家本人が情報を直接公開することと、政治の透明性が高まることは同義ではない。政治家が自分に有利な数字だけを掲載したり、不都合な事実を示さなかったり、前提条件を省略したりすることもできるからである。したがってSNSによる直接発信は、「一次情報へのアクセス可能性を高め、条件によっては政治の透明性を改善する」と評価するのが適切であり、透明性には情報の公開だけでなく、情報の完全性、検証可能性、訂正可能性、説明責任が必要である。

6.SNS上の「多数」は国民全体の多数ではない

 SNSでは、フォロワー数、いいね数、共有数、動画再生数、コメント数などが数字として可視化される。このため、「これほど多くの人が支持している」「国民は怒っている」という感覚が生まれやすい。

 しかし、100万回再生された動画が100万人の有権者の支持を意味するわけではない。同じ人が複数回再生している場合もあり、有権者でない人、国外の利用者、批判目的で見ている人も含まれる。推薦アルゴリズムによって同じ利用者へ繰り返し表示されている場合もある。

 さらにSNS利用者そのものが国民全体の無作為標本ではない。2025年のReuters Institute for the Study of Journalism(ロイター・ジャーナリズム研究所)の調査では、日本でSNSを週単位のニュース取得手段として利用する割合は24%とされている。これはSNSが政治情報の重要な経路ではあるものの、SNS上の政治的反応をそのまま日本全体の民意とみなせないことを意味する。

 SNSを積極的に利用する人と利用しない人では、年齢、政治関心、情報行動、意見の強さなどが異なる可能性がある。特に投稿や返信まで行う人は、単なる閲覧者より政治的関心や態度が強い可能性がある。したがって、投稿数は票数ではなく、トレンド入りも国民投票ではない。

7.怒りはSNS上で政治資源になりやすい

 政策とは本来、多くの条件を同時に考える必要がある。社会保障であれば、給付水準、保険料、税負担、世代間公平、財政持続可能性を考えなければならない。財政政策であれば、家計の可処分所得だけではなく、税収、国債、歳出、金利、物価、所得分配、将来負担などを検討する必要がある。

 ところがSNSでは、「政府は国民を見捨てた」「若者だけが損をしている」「官僚が国民から金を奪っている」といった短い表現の方が理解しやすい。敵が明確で、感情を刺激し、共有もしやすいからである。

 ここには重要な構造的問題がある。情報として正確な文章と、拡散に適した文章の性質が一致するとは限らないのである。政策として必要な情報量が多いほど説明は長く複雑になるが、SNSでは短く感情的で対立構造の明確なメッセージが有利になる可能性がある。

8.プラットフォーム企業の合理性と民主主義の合理性は同じではない

 民間SNS企業には、利用者にサービスを長く利用してもらう経済的動機がある。利用者が投稿を見て反応し、共有し、再びアクセスすれば、広告表示などの機会が増える。

 OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)は、デジタル技術によって誤った情報や誤解を招く情報が低コストかつ高速に拡散できるようになったことに加え、オンラインプラットフォームのエンゲージメント最大化のインセンティブが、感情的・政治的反応を生みやすい情報を増幅する可能性を指摘している。

 これは「SNS企業が意図的に民主主義を壊している」という意味ではない。企業として利用時間や反応を増やす合理性と、民主主義に必要な情報環境が完全には一致しないという問題である。民主的意思決定には、正確な情報、反対意見、不確実性の表示、慎重な分析、長期的な視点が必要である一方、利用者の注意を集めやすい情報には、驚き、怒り、恐怖、対立、スキャンダルなどが含まれる可能性があり、この二つの合理性の間に構造的な緊張が存在する。

9.「アルゴリズムが分断を作る」と単純化してはいけない

 SNS批判では、「アルゴリズムがエコーチェンバーを形成し、政治的分断を生んでいる」と説明されることが多い。しかし、科学的には因果関係はそれほど単純ではない。

 2020年米国大統領選挙期のFacebookを対象とした大規模研究では、利用者が接触するコンテンツの多くが政治的に同質的な情報源から来ていることが確認された。一方、2万3,377人を対象に、自分と同じ政治的立場の情報への接触を約3分の1減らす実験を行っても、感情的分極化、思想的極端化、候補者評価、誤情報への信念などについて、測定可能な変化は確認されなかった。

 つまり、「エコーチェンバーが存在する」ことと、「エコーチェンバーを減らせば政治的分断が短期間で改善する」ことは別問題である。政治的分断には、社会階層、地域、所得、教育、政党政治、既存メディア、家族や友人関係、歴史的対立など多くの要因が関係するため、SNSだけを政治分断の原因と考えることも、複雑な社会現象を一つの原因へ還元するという意味で、ポピュリズム的な単純化と似た問題を持つ。

10.それでもエンゲージメント重視が問題を増幅する可能性はある

 一方で、推薦システムの設計が政治的分極化や誤情報の流通へ影響する可能性を示す研究も存在する。2026年にJournal of Public Economicsへ掲載された研究では、「いいね」や共有などの社会的反応を強く重視する推薦システムがエンゲージメントを増やす一方、極端な情報や誤情報を相対的に有利にし、政治的分極化を増幅し得る構造が数理モデルによって示されている。

 Facebookが2018年に導入したMeaningful Social Interactions(意味のある社会的交流を重視するランキング更新)についても、イタリアや米国のデータを利用した研究から、社会的反応を強く重視する変更が思想的極端化や感情的分極化を強めた可能性が示されている。

 したがって、現在の研究から導かれる妥当な結論は、「SNSアルゴリズムが政治分断の唯一の原因である」ではない。より慎重には、「既存の政治的対立や社会的不満が存在する状況において、エンゲージメントを優先する情報流通構造が、感情的・対立的な情報を増幅する場合がある」と考えるべきである。

11.誤情報とポピュリズムの関係も単純ではない

 ポピュリズムを批判する場合にも、「ポピュリストは嘘をつく」と一括して扱ってはならない。2025年にオンライン先行公開され、その後The International Journal of Press/Politicsへ掲載された研究では、26か国、8,000人を超える国会議員による2017年から2022年までの約3,200万件のTwitter投稿が分析されている。

 ただし、この研究は3,200万件すべての投稿内容を一件ずつ「真実か虚偽か」と判定したものではない。投稿に含まれる共有URLを抽出し、それらの情報源について外部の信頼性評価データと照合し、低信頼性情報源へのリンクをどの政治勢力が共有しやすいかを統計的に分析したものである。

 その結果、低信頼性情報を共有する傾向との最も強い関連が確認されたのは「急進右派ポピュリズム」だった。一方、ポピュリズム一般、左派ポピュリズム、単なる右派的政治立場のそれぞれ単独では、同じ関連は確認されなかった。したがって研究から、「右派は嘘をつく」「左派は嘘をつく」「ポピュリストは全員嘘をつく」と結論づけることはできず、確認されているのは特定の政治的組み合わせと低信頼性情報源の共有との統計的関連である。この区別は、政治的立場に関係なく守る必要がある。

12.なぜポピュリズムは反証を困難にしやすいのか

 ポピュリズムは、「われわれの常識」と「腐敗したエリート」を対立させる。この構造が極端になると、専門機関からの反論そのものを陰謀の証拠として扱えるようになる。統計機関が否定すれば「政府機関だから信用できない」、大学研究者が否定すれば「御用学者だ」、新聞社が否定すれば「既存メディアは隠している」、裁判所が否定すれば「司法も既得権側だ」と説明することが可能になる。

 もちろん、政府機関、大学、新聞、裁判所が常に正しいわけではない。しかし、反証を提示する主体の属性だけを理由として証拠そのものを無効化すれば、どのような反証が出ても主張を維持できる。科学的方法では、仮説が証拠によって修正され得る反証可能性が重要であり、あらゆる反証を「敵の工作」と説明できる理論は政治的には強力でも、事実検証の方法としては極めて弱い。

13.短文政治は政策のトレードオフを消してしまう

 財政政策を例に考えると分かりやすい。減税すれば家計の可処分所得が増える可能性があるが、同時に税収が減少する。その穴を国債で埋めるのか、歳出削減で対応するのか、将来の増税で補うのか、物価や金利にどの程度影響するのか、所得階層ごとの恩恵はどう変化するのかを考える必要がある。

 政策分析とは、本来、便益だけでなく費用、副作用、分配、時間軸を同時に検討する作業である。ところがSNSでは、「減税か増税か」「国民か財務省か」という二項対立へ圧縮できる。この方が政治的メッセージとしては強力だが、政策分析としての情報量は低下する。ポピュリズムの問題の一つは、複雑な政策上のトレードオフを、善悪や敵味方の問題へ変換しやすいことである。

14.「専門家は間違う」と「専門知は不要」は違う

 専門家は間違う。経済学者も医師も官僚も研究者も新聞記者も誤ることがある。だからこそ、データ、再検証、反論、査読、司法審査、選挙など複数の検証制度が必要になる。

 しかし、「専門家が間違うことがある」という事実から、「一般的な直感と専門的な分析には同じ情報価値しかない」という結論は出ない。橋の耐震構造を多数決だけで決めることはできず、感染症の治療法を人気投票だけで決定することもできない。金融政策、原子力安全、感染症対策、社会保障制度などにも専門的な制約が存在する。

 民主政治において国民が決めるべきなのは、社会として何を目標にするかという価値判断である。具体的な実現方法や予想される副作用については専門知が必要になる。国民が目的を選び、専門家が複数の選択肢、費用、効果、不確実性を示し、最終的な政治責任を政治家が負うという役割分担が合理的である。

15.ポピュリズムと「中間制度」の関係

 議会、裁判所、官僚組織、独立行政機関、中央銀行、報道機関、大学、専門家組織、地方自治体などは、政治家と国民の間に存在するため、時に「国民の意思を邪魔する存在」のように見える。実際、これらの制度には遅さや非効率性があり、改革すべき問題が存在する場合もある。

 しかし、これらをすべて同じ役割を持つ制度として扱うのも正確ではない。裁判所などは多数派政治を直接制約する役割を持つ一方、中央銀行や独立機関には専門性や政策の時間的一貫性を確保する機能がある。地方自治には権力分散と住民自治の役割があり、報道機関や大学には情報と知識の多元性を維持する機能がある。

 共通するのは、政治権力を一つの主体へ集中させないことである。多数派であっても法律を守り、政府も司法審査を受け、政府統計を政治家が自由に書き換えず、政権が批判的報道を直接統制しない。こうした制度的制約を含めて立憲民主主義が成立している。

16.実証研究では、ポピュリスト政権の民主主義への影響は概して否定的である

 ここはポピュリズムを評価するうえで重要である。近年の国際比較研究を整理した2025年の政治学研究では、ポピュリストが政権を握った場合、自由権、報道の自由、政府に対する水平的な権力抑制、選挙の公正性などへ悪影響が生じる傾向が、複数の研究でかなり一貫して確認されている。

 一方、ポピュリズムが政治参加や代表性を改善するという「是正効果」については、肯定的証拠が存在するものの、民主主義制度への悪影響ほど一貫した結果にはなっていない。

 欧州とラテンアメリカを対象とした研究でも、ポピュリスト政権下では平均的に、選挙民主主義、自由民主主義、熟議民主主義の指標が悪化する一方、参加民主主義や平等民主主義について期待された改善効果が明確には確認されなかった。この研究は2022年にオンライン公開され、2023年に学術誌へ掲載されたものであり、「2026年の研究」とするのは適切ではない。

 さらに2026年にも、より新しい比較研究が発表され、ポピュリスト政権と自由民主主義的制度の弱体化との関連が改めて報告されている。したがって、「ポピュリスト政権は常に民主主義を破壊する」と断定することはできないものの、平均的には自由民主主義の制度と緊張しやすいという評価には相当な実証的根拠がある。

17.民主的に選ばれることと、民主的に統治することは同じではない

 「選挙で選ばれた政権なのだから民主的ではないか」という疑問は当然である。実際、選挙によって政府を選択することは民主主義の中核であるが、民主主義には少なくとも二つの側面がある。一つは国民が政府を選べることであり、もう一つは選ばれた政府であっても権力が制限されることである。

 ポピュリズムは前者の正統性を非常に重視する。「われわれは国民から選ばれた」という主張自体は正しい。しかし、それが「選挙に勝った以上、裁判所、野党、報道機関、独立機関、少数派などが政権を制限するのは民意への反逆だ」という考えに変われば、立憲民主主義との衝突が始まる。51%の支持を得た政府にも、49%の国民の権利を自由に制限する権限が与えられるわけではなく、多数決は民主主義に必要だが、多数決だけでは民主主義は完成しない。

18.SNSは人物中心型政治を強める可能性がある

 従来の政党政治では、党首、幹事長、政策責任者、国会議員、地方組織、党員など複数の階層が存在する。SNS時代になると、一人の政治家の個人アカウントが政党そのものより大きな影響力を持つ場合がある。

 その結果、「政党や政策を支持する」という関係から、「特定の人物を支持する」という関係へ変化することがある。政治家本人が日常的に直接発信するため、支持者が疑似的な親密さを感じる場合もあり、人物中心型政治が極端になると、党内の異論が「政策上の反対」ではなく「リーダーへの裏切り」とみなされやすくなる。しかし健全な政党には内部の異論が必要であり、政策の誤りを修正する最初の機会だからである。

19.支持者による自発的攻撃という問題

 SNSでは、政治家本人が「この記者を攻撃しろ」「この研究者へ嫌がらせをしろ」と直接命令しなくても、一部の支持者が大量の批判や攻撃を行うことがある。影響力の大きな政治家が特定の記者、研究者、議員などについて、「偏っている」「国民を理解していない」「裏切り者だ」と強い言葉で繰り返し名指しすれば、それを受け取った多数の支持者が自発的に行動する可能性がある。

 政治家本人が攻撃を直接指示していない以上、支持者のすべての行動について責任を負わせることはできない。しかし、影響力の大きな人物には、自分の発言が支持者の行動へどう影響するかについて一定の注意が求められる。これは右派か左派かに関係しない。

20.政策評価と人格攻撃を分けなければならない

 SNSでは、政策批判より人物批判の方が短く、理解しやすく、拡散しやすい。「この財政政策では政府債務がどの程度増えるか」という説明より、「この政治家は無能だ」という言葉の方が瞬間的に理解できる。

 しかし、政治家の能力は、政策立案能力、説明力、交渉力、実績、政策修正能力、法制度への理解、組織運営能力などから評価すべきである。容姿、家族、出身地、性別、話し方などを政治的攻撃の材料にしても政策の良否は分からず、ポピュリズムが感情政治へ接近すると、政策への批判と政治家個人への人格攻撃との境界が崩れやすくなる。

21.「敵を作る政治」は集団を結束させやすい

 集団を結束させる方法の一つが、共通の敵を設定することである。「われわれ」という定義だけでは集団の境界は曖昧だが、「われわれは、あいつらに搾取されている」と説明すると境界が明確になる。

 敵として設定される対象は右派と左派で異なる。官僚、大企業、外国人、富裕層、既存メディア、政治家、専門家、労働組合、金融機関、国際機関など、さまざまな対象が使われ得る。

 もちろん、それぞれの組織や集団について正当な政策批判はあり得る。企業が違法行為をすれば処罰すべきであり、官僚制度に問題があれば改革すべきであり、報道機関が誤報すれば検証すべきである。問題は、個別の行為や制度を批判することから、集団全体を道徳的な「敵」とみなす方向へ移行することである。

22.ポピュリズムは政策失敗を修正しにくくする可能性がある

 政治で重要なのは、最初から完璧な政策を選ぶことだけではない。実施した政策の効果が予想と異なった場合に、それを修正できることも重要である。

 しかし、政策と政治家への支持が道徳化すると、政策への批判が政治家本人への攻撃、支持者への攻撃、さらには「国民への攻撃」と受け取られることがある。その結果、「この政策の効果は予想より小さかったので変更する」という合理的な政策修正が、政治的敗北や裏切りのように扱われる。

 科学では、証拠によって仮説を修正することは進歩である。民主政治でも、本来はデータによって政策を修正できることが統治能力の一部であり、「われわれは常に正しい」という政治文化は、この修正能力を弱める危険がある。

23.SNS上の成功と政策上の成功は違う

 SNSでは成功が数値として見える。再生回数、共有数、フォロワー数、トレンド順位などである。一方、政策の成功は別の指標で測定しなければならない。経済政策なら、実質賃金、生産性、雇用、物価、税収、企業投資、財政収支、所得分布などを見る必要があり、医療政策なら死亡率、罹患率、医療アクセス、費用、地域格差などを検証する必要がある。

 100万回再生された経済政策が優れた経済政策とは限らない。逆に、社会的に重要でも説明が難しい制度改革は、ほとんど共有されない場合がある。SNSにおいて情報市場で勝つ能力と、政策を成功させる能力は別の能力であり、人気は統治能力の代理変数ではない。

24.「国民の声を聞く」と「声の大きい人に従う」は違う

 SNSによって政治家は国民の反応を即座に確認できるようになった。しかし、投稿へ積極的に返信する人々は国民の無作為標本ではなく、政治への関心が高い人、強い意見を持つ人、強く支持している人、強く反対している人ほど発言する可能性が高い。この自己選択があるため、政治家がSNS上の反応をそのまま「民意」と考えると、声の大きい少数者へ政策が引っ張られる可能性がある。

 民主主義では、選挙、世論調査、公聴会、議会、パブリックコメント、統計、当事者調査など複数の方法を組み合わせて民意を把握する必要がある。SNSはその一つではあるが、国民全体を代表する測定装置ではない。

25.ポピュリズム批判がエリート主義になってもいけない

 ポピュリズムを批判する側が、「一般市民は複雑な政治を理解できない」「専門家に任せればよい」という態度を取れば、かえって政治不信を深め、ポピュリズムを強める可能性がある。

 専門家は政策を決定する主権者ではない。例えば、「税負担を増やして社会保障を厚くするか」「税負担を抑えて給付を限定するか」という問題は、科学だけでは決められない。どのような社会を望むかという価値判断を含むからである。

 専門家ができるのは、それぞれの選択肢について、予想される費用、効果、副作用、不確実性を示すことである。国民が目的を選び、専門知が実現可能性を検証し、政治家が決定と結果について責任を負うことが民主政治と専門知の合理的な関係である。

26.左右どちらのポピュリズムも同じ基準で評価すべきである

 ポピュリズムは右派だけの問題ではない。右派では外国人、国際機関、リベラルなエリートなどが敵として設定される場合があり、左派では富裕層、大企業、金融機関、経済エリートなどが敵として設定される場合がある。

 それぞれに正当な政策批判はあり得る。移民政策、国際機関の権限、大企業の市場支配、所得格差、金融規制などは民主政治の正当な争点である。しかし、「具体的な制度や行為を批判する」ことと、「特定の集団そのものを悪とみなす」ことは別であり、評価基準は左右によって変えてはならない。本稿が問題視するのは特定の政治思想ではなく、複雑な社会を「純粋な人民対敵」という構図だけで説明し、異論の正統性そのものを否定する政治手法である。

27.SNS時代のポピュリズムのメリットとデメリット

項目 メリット デメリット
政治参加 参加の費用を下げる 熱心な少数を民意と誤認しやすい
政治家との距離 本人の説明へ直接アクセスできる 第三者による検証を迂回できる
小規模政党 発信機会が増える 強い感情を伴う情報が有利になり得る
既存政治批判 見落とされた問題を可視化できる 政治不信そのものを動員資源にできる
メディア批判 誤報や偏向を監視できる 報道機関全体への不信へ発展し得る
専門家批判 権威や専門知を検証できる 専門知そのものを否定しやすい
情報流通 高速かつ低コスト 誤情報も高速に流通する
政治的動員 無関心層を参加させ得る 怒りや敵意による動員になり得る
政策説明 簡潔に伝えられる 複雑なトレードオフが消えやすい
リーダーシップ 責任者が明確になる 人物中心政治や組織弱体化につながり得る

 このように見ると、SNS政治の特徴には、多くの場合、長所と短所が同時に存在していることが分かる。直接発信は情報アクセスを改善する一方で検証を迂回でき、政治参加の費用低下は新規参入を促す一方で感情的動員も容易にする。したがって、問題はSNSという技術そのものではなく、どのような制度、政治文化、メディア環境の中でSNSを利用するかである。

28.ポピュリズムの危険性は政権獲得後に大きくなる

 野党時代のポピュリズムには、既存権力を監視し、見過ごされていた問題を政治課題にする効果がある。しかし、政権を取れば自分自身が権力者になる。

 それにもかかわらず、「われわれは人民であり、批判者はエリートである」という物語を維持すると、政府を批判するメディア、政府の行為を違法と判断する裁判所、政府を監査する機関、政府に反対する野党などが、制度的なチェックではなく「人民の敵」とみなされる可能性がある。

 近年の国際比較研究がポピュリスト政権下で自由権、報道の自由、水平的権力抑制、選挙制度などの悪化を確認していることは、この問題と整合的である。したがって、ポピュリズムの本質的な危険は単に言葉遣いが激しいことではなく、権力を抑制する制度そのものの正統性を弱める可能性にある。

29.SNSを規制すれば解決するのか

 ここにも単純な答えはない。誤情報対策として政府がSNSの投稿内容を強く規制すれば、今度は政府が「何が真実か」を決定する危険が生じる。政権に不都合な正当な批判まで削除されれば、ポピュリズム以上に深刻な民主主義上の問題となる。

 OECDも、偽情報対策では表現や意見の自由を守りながら、プラットフォームの透明性と説明責任を高め、多元的で質の高い情報環境を形成する方向を重視している。必要なのは、投稿内容を政府が全面的に管理することより、推薦システムの透明性、政治広告の公開、自動アカウントの識別、広告主や資金源の表示、研究者へのデータ提供、訂正情報へのアクセスなどを改善することである。

30.政治家側にもSNS利用の原則が必要である

 政治家のSNS利用についても、右派・左派を問わず一定の原則が必要である。一次資料を提示し、統計には年度と出典を示し、速報段階の情報を断定せず、誤りが判明した場合には訂正することが重要である。

 さらに、支持者へ特定個人への攻撃を促さず、批判者を「国民の敵」と扱わず、政策の便益だけでなく費用や副作用も説明する必要がある。自分に不利な事実についても、合理的な反証であれば無視せず説明することが望ましく、SNSは政治家の説明責任を弱める道具にも、強める道具にもなり得る。最終的には使い方の問題である。

31.有権者が確認したいポピュリズムの兆候

 SNS上の政治発信を見るときには、「われわれだけが本当の国民を代表している」という主張が繰り返されていないかを確認する必要がある。選挙で多数を得たとしても、支持しなかった人も同じ国民だからである。

 また、社会問題の原因が毎回、官僚、外国人、企業、富裕層、メディアなど特定の集団だけに帰されていないか、複雑な社会保障、人口問題、外交、財政などに副作用のない極端に簡単な解決策が提示されていないかを見ることも重要である。

 専門家の反論を内容ではなく「御用学者だから」「官僚だから」と属性だけで否定すること、個々の報道への批判から「すべてのメディアは敵だ」という全面的不信へ飛躍すること、「みんな怒っている」といった感情だけで政策効果を説明すること、政策への異論を人格的な裏切りとみなすことなどが重なるほど、反多元主義的ポピュリズムの性格は強くなる。

32.日本の議会制民主主義では「直接性」と「熟議」の両方が必要である

 SNSは非常に直接的であり、国民の反応を即座に政治家へ届ける。しかし、民主主義は意思決定が速ければよいわけではない。

 法律を作るには、問題を把握し、法案を作成し、利害関係者の意見を聞き、委員会で審議し、野党が問題点を指摘し、必要なら修正し、衆議院と参議院で審議する。こうした手続きは遅く、面倒に見えるが、この遅さには意味がある。間違いを発見し、異なる利害を調整し、副作用を確認する時間だからである。

 熟議民主主義の観点から見れば、SNS上で一時的に多数となった意見を、そのまま即座に政策へ反映することが常に民主的とは限らない。熟議とは国民の意思を無視する制度ではなく、異なる国民の意思を調整し、より検証可能な政策へ変換する過程である。

33.必要なのは「参加型の熟議民主主義」

 ポピュリズムが指摘する問題の中には正当なものがある。政治家が国民から遠い、行政が分かりにくい、政策決定が閉鎖的である、専門家の説明が難しい、既存メディアにも誤報や偏りがあるという問題は改善されなければならない。

 しかし、その解決方法を「議会や専門家を排除し、指導者と国民を直接結べばよい」と考える必要はない。むしろ、政策資料を公開し、議会審議を分かりやすくし、政府統計を利用しやすくし、住民参加を増やし、パブリックコメントを実質化し、政策評価を公開する方向が重要である。

 政治家は短いスローガンだけではなく、必要であれば長文でも政策を説明し、専門家は専門用語だけではなく国民が理解できる言葉で不確実性や選択肢を説明する。そのうえで国民が判断する。こうした仕組みは時間がかかり、SNS映えもしないが、民主主義を持続させるには、派手な政治的動員より地道な制度改善の方が重要である。

34.総合評価 ポピュリズムは民主主義の警報器にはなるが、統治原理としては問題が大きい

 ポピュリズムについては、「既存政治が見落としている問題を発見する機能」と、「社会を人民と敵へ二分して統治する原理」を分けて考える必要がある。

 前者には価値がある。既成政党が見落としてきた生活不安、地域格差、行政への不信、政治と経済権力との関係などを政治課題として可視化することは、民主主義の代表機能を修正する契機になる。

 一方、後者には大きな問題がある。「われわれだけが国民を代表する」と考え、異論を正当な政治的立場ではなく「人民の敵」と位置づければ、多元主義、司法、報道の自由、独立機関、少数者の権利などと衝突する。

 近年の国際比較研究でも、ポピュリスト政権は平均的に、自由権、報道の自由、政府への権力抑制、選挙の公正性、熟議民主主義などへ否定的な影響を与える傾向が確認されている。一方、政治参加や代表性を改善する効果については、それほど一貫した証拠が得られていない。したがって、ポピュリズムは民主主義の異常を知らせる警報器として役立つ場合はあるが、国家を継続的に運営する統治原理として採用することには大きなリスクがある。

結論 SNSが民主主義を壊すのではなく、単純な政治がSNSによって増幅されることが問題である

 SNSは民主主義に重要な利益をもたらした。政治家と国民の距離を縮め、小さな政治勢力にも発言機会を与え、既存メディアを経由しない一次情報へのアクセスを容易にし、市民が政治情報の流通へ参加できるようにした。したがって、SNSそのものを民主主義の敵とみなす結論は適切ではない。

 問題は、その情報環境がポピュリズム的な政治コミュニケーションと非常に相性がよいことである。ポピュリズムは複雑な社会を「人民対エリート」という単純な物語へ変換しやすく、SNSは短く、感情的で、対立構造の明確な情報を高速に流通させることができる。

 この二つが結びつけば、怒りが政治的支持へ変わり、支持が共有へ変わり、大量の共有や再生回数が「民意」のように見え、その可視的な多数がさらに政治的正統性として利用される可能性がある。しかし、SNS上の多数は国民全体ではなく、共有回数は投票ではなく、再生回数は政策効果ではなく、フォロワー数は統治能力ではない。この区別を失ってはならない。

 同時に、ポピュリズムの支持者を批判するだけでは問題は解決しない。ポピュリズムが支持される背景に政治不信、地域格差、生活不安、行政の不透明性、既成政党の代表機能の低下、メディアへの不信などが存在するのであれば、それらを民主主義の制度の中で解決する必要がある。

 SNSについても、政府が発言内容を一元的に管理する方向ではなく、推薦システム、政治広告、自動アカウント、資金源などの透明性を高め、研究者や市民が情報流通の仕組みを検証できる環境を整える方が望ましい。

 民主主義に必要なのは、国民の怒りを無視することでも、その怒りを無制限に増幅することでもない。怒りや不満の原因を検証し、それを政策へ翻訳する過程で、事実、専門知、少数意見、費用、副作用、不確実性を確認することである。

 熟議民主主義と立憲民主主義の観点から見れば、政治家の役割は、有権者がすでに持っている怒りをさらに増幅して敵を作ることではなく、複雑な現実を説明し、自らの理念を示し、異なる利害を調整し、実現可能な政策によって国民を説得することにある。「敵を作って結束させる政治」と「事実を示し、異論を認めながら説得する政治」は同じではなく、SNS時代だからこそ、この二つを明確に区別する必要がある。

 ポピュリズムは、民主主義の異常を知らせる警報器として役立つかもしれない。しかし、警報器に国家を運転させるべきではない。民主政治を動かすべきなのは、熱狂や敵意だけではなく、事実、議論、制度、妥協、そして検証可能な政策である。

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