地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治の世界には、若いころには同じ方向を見ていたはずなのに、権力が近づくにつれて、まるで別の政治家になったように見える人々がいる。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の三人も、まさにそうだった。三人の姓の頭文字を取ったYKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の頭文字を組み合わせた通称)は、一時期の自由民主党で、単なる仲良し三人組以上の意味を持っていた。同じ派閥に属していたわけでもなく、政策思想が完全に一致していたわけでもない。それでも一つの名前で呼ばれたのは、古い自民党政治の内部にいながら、そのままでは自民党も日本政治も立ち行かなくなるという問題意識を共有していたからである。

 山崎、加藤、小泉はいずれも1972年の衆議院議員総選挙で初当選した。三人は同じ政治世代に属し、高度経済成長が終わり、自民党の長期政権がなお強固である一方、派閥政治や政治資金、利益誘導型政治への批判が次第に強まっていく時代を歩いた。若手議員だったころには、派閥の中で経験を積み、党内調整を重ね、その延長線上で大臣や首相を目指すという戦後自民党の出世構造がまだ機能していたが、三人が中堅から実力者へ成長した1990年代には、その仕組みそのものが揺らぎ始めていた。

 その意味でYKKは、同じ目的地へ向かって同じ道を歩く三人というより、同じ古い建物の中にいて、「このままでは建物が時代に耐えられない」と感じていた三人だったと考えた方が分かりやすい。ただし、どう直すかについては最初から違いがあった。加藤は内部の設計を合理的に改めようとし、山崎は建物全体の力学を見ながら現実的に補強し、小泉は古い構造そのものを政治的争点にする方向へ進んだ。この違いは若いころには大きく見えなかったが、首相という権力が現実のものとして近づくにつれ、三人を別々の政治家へ分けていった。

加藤紘一という「自民党改革派の優等生」

 YKKの三人の中で、従来の自民党政治が持っていた合意形成の論理を最も強く体現していたのが加藤紘一だったと見ることができる。宏池会という自民党有数の名門派閥で育ち、政策や行政機構に詳しく、党内の議論と調整を重視した加藤は、自民党政治の内部からその質を高めることで改革を実現しようとする政治家だった。

 加藤にとって改革とは、敵を作り、その敵を打ち破ることではなかった。複雑な利害を整理し、政策を磨き、党内の合意を積み重ねながら、時代に合わなくなった制度や慣行を修正していくことだった。政治とは単純な勝敗ではなく、多数の異なる利害を一つの方向へ収束させていく知的な作業であるという発想が、加藤の政治手法の根底にあった。

 しかし、その政治手法は、政治環境が変わるにつれて弱点を露呈していった。1990年代、日本政治はバブル崩壊後の長期停滞、政治改革、政界再編、55年体制の終焉を経験し、「誰と誰が合意したか」以上に、「誰が何を変えるのか」が問われるようになった。加藤自身も変化を理解していたと考えられるが、問題は、改革を実行するための政治技術まで従来の党内調整型から完全に切り替えることができなかったことである。

 その矛盾が最も劇的に現れたのが、2000年のいわゆる「加藤の乱」だった。森喜朗政権への不満が高まる中、加藤は山崎とともに倒閣へ動き、野党提出の内閣不信任決議案に同調する構えを見せた。しかし党執行部による激しい切り崩しによって派閥内部が割れ、最終的に加藤の構想は頓挫した。ここで重要なのは、単に倒閣に失敗したことではなく、自民党の内部を知り尽くしていた政治家が、その自民党内部の統制力によって動きを封じられたことである。

 加藤は党内政治を熟知していたからこそ、その論理の中で首相を目指した。しかし最後の勝負では、その論理そのものが彼を拘束した。政策能力、知性、人脈、派閥という従来型自民党政治で重要とされた資源を豊富に持ちながら、それを首相への権力へ転換することができなかったところに、加藤紘一という政治家の悲劇性がある。

「加藤の乱」で、YKKはすでに二対一に分かれていた

 この加藤の乱は、YKKの歴史を考えるうえでも決定的な場面だった。山崎は加藤と行動をともにしたが、小泉は二人に同調しなかった。YKKという呼び名からは三人が政治行動まで常に一致していたような印象を受けるが、実際には最も重要な政局の一つで、加藤と山崎、小泉は二対一に分かれたのである。

 しかも小泉が加藤らの倒閣に加わらなかったことは、その後の政治人生を考えると極めて象徴的である。加藤と山崎は党内の議員を動かすことによって首相を交代させようとしたが、小泉はその方法を選ばなかった。これは小泉が当時から完成された「反派閥政治家」だったという意味ではない。小泉自身も派閥政治の中で育ち、自民党組織の力学を利用してきた政治家だったが、少なくとも加藤の乱の時点で、YKK三人の権力への接近方法はすでに同じではなくなっていた。

 この出来事を境に、YKKは友情や人的関係として残りながらも、政治戦略としては別々の道へ向かい始めたと見ることができる。三人の違いは、後から生まれたものではなく、権力の取り方が具体的な選択として突きつけられた瞬間に、初めてはっきりと姿を現したのである。

山崎拓はなぜ加藤と同じ運命をたどらなかったのか

 山崎拓は、加藤とはまた違った種類の政治家だった。政策に詳しい一方で、その政治感覚はより実戦的であり、自民党という巨大組織の内部で誰が力を持ち、どの局面で対立し、どの局面で妥協するべきかを読むことに長けていた。理念から組織を作り替えることよりも、現実の力関係を読み、その中で自らの影響力を維持することに強みを持つ政治家だったと捉えると理解しやすい。

 その意味では、山崎はYKKの中で最も自民党の伝統的な政治技術を体現していたとも言える。これは「古い政治家」という意味ではない。対立しても関係を完全には切らず、昨日の敵とも次の局面では交渉し、政策、人間関係、派閥、選挙を同時に計算するという自民党政治特有の柔軟性を持っていたということである。

 加藤の乱で山崎は加藤と運命を共にしたように見えたが、その後の二人の軌跡は大きく分かれた。加藤にとって失敗は首相候補としての上昇軌道を決定的に損なう出来事となったのに対し、山崎は党内で再び足場を築き、2001年に小泉が自民党総裁となると幹事長に起用された。ここには、政治的失敗をどのように処理するかという二人の違いが現れている。

 加藤は政治理念と組織論理が衝突したとき、理念の側から組織を動かそうとした。山崎は同じ衝突を経験しても、なお組織の内部へ戻り、次の力関係の中で自らの役割を探すことができた。加藤にとって加藤の乱は自らの政治構想そのものを揺さぶる敗北だったが、山崎にとっては重大な失敗でありながら、それで政治が終わるわけではなかった。この違いが、二人のその後を分けた。

小泉純一郎は、党組織を捨てたのではなく使い方を変えた

 そしてYKKの中で、最終的に首相へ到達したのが小泉純一郎だった。ただし、小泉の成功を「派閥政治を捨てて国民だけを頼ったから」と説明すると、実際の政治構造を単純化しすぎる。小泉もまた自民党という組織の内部で活動し、党の総裁選挙制度、地方組織、党員票、党内人脈を利用した政治家だった。

 小泉が従来の自民党政治と異なっていたのは、党組織を迂回したことではなく、派閥領袖や国会議員の支持だけに依存せず、地方党員票と世論を党内権力へ転換したことである。2001年の自民党総裁選で小泉は地方票を背景に圧倒的な支持を集め、最終的に298票を獲得して橋本龍太郎を大きく引き離した。形式的には自民党内部の総裁選挙でありながら、その背後では世論の動きが国会議員や地方組織の判断に強く作用していた。

 ここに加藤との重要な違いがある。加藤は自民党の中の政治家を動かすことで自民党を変えようとしたのに対し、小泉は地方党員と一般有権者の支持を党内部へ流し込み、その圧力によって国会議員の行動を変えようとした。つまり、小泉は組織を捨てたのではなく、組織に作用する力の入口を変えたのである。

 2001年に小泉が掲げた「自民党をぶっ壊す」という言葉が強い意味を持ったのも、そのためだった。自民党総裁になろうとする政治家が自民党を壊すと語るのは論理的には矛盾している。しかし小泉は、自民党に対する国民の不満を自民党そのものを改革する力へ変換し、その改革者として自分を位置付けた。党への批判を党外へ逃がすのではなく、党内の権力獲得に利用したところに、小泉政治の特徴があった。

三人を分けたのは思想だけではなく「権力への接近方法」だった

 YKKが同じ道を歩まなかった理由を、政策思想の違いだけで説明することはできない。もちろん外交、安全保障、経済政策などについて三人の考え方には違いがあったが、それ以上に重要なのは、政治的権力をどこから獲得し、どのように動かそうとしたかという違いである。

 加藤は党内で信頼と合意を積み重ね、その延長線上で首相になるという戦後自民党型の政治を基礎にしていた。山崎は党内の勢力均衡を読みながら影響力を保ち、その中で機会を作る政治を得意とした。小泉は従来の派閥力学だけでは自分が圧倒的に有利ではないことを理解し、地方党員票と世論を利用して党内の勢力均衡そのものを変えようとした。

 したがって三人の違いを単純化して表現するなら、加藤は組織内の合意形成を重視し、山崎は組織内の力学を利用し、小泉は組織の内外を結びつけることで権力構造を組み替えた、と考えるのが最も実態に近い。

 この違いは政治家としての性格とも関係していたと考えられる。加藤は複雑な問題を複雑なまま理解しようとする傾向が強かったのに対し、小泉は複雑な問題を有権者が理解しやすい一つの争点へ集約することに長けていた。郵政民営化はその典型であり、実際には郵便、郵便貯金、簡易保険、財政投融資、地域金融など多数の論点が絡む政策だったが、小泉はそれを「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という政治的対立軸へ変換した。

小泉を可能にしたのは、人物だけではなく制度だった

 ただし、小泉が成功し、加藤が失敗した理由を、二人の性格や政治能力だけに求めることも適切ではない。二人が活動した時代には、日本政治の制度そのものが変化していた。

 1990年代の政治改革によって衆議院選挙には小選挙区比例代表並立制が導入され、候補者個人だけでなく政党の看板や党首の人気が選挙結果を左右する度合いが高まった。さらに政党による候補者公認の重要性が増し、中央省庁再編などを通じて首相官邸の政策調整能力も強化されていった。こうした制度変化は、派閥間調整を中心とした従来型の首相とは異なる、党首の人気と選挙を直接結びつける政治を可能にする条件となった。

 政治的な成功を単一の原因で説明することはできない。小泉の成功は、本人の政治的個性だけでなく、世論の支持、地方党員票、選挙制度、党執行部の公認権、首相としての制度的権限、そしてそれらを使いこなす戦略が組み合わさった結果と見る方が妥当である。

 逆に考えれば、加藤の乱の失敗も、加藤個人の弱さだけで説明することはできない。党内議員の造反によって政権を倒そうとした加藤の戦略は、当時の自民党執行部が持つ統制力と正面から衝突した。政治家の能力だけでなく、その能力がどのような制度環境で使われたのかを見る必要がある。

「加藤の乱」と「郵政解散」は、二つの改革手法の対照だった

 2000年の加藤の乱と2005年の郵政解散を並べると、YKK三人の違いと自民党政治の変化が鮮明になる。どちらも自民党内部の現状を変えようとした政治行動だったが、その方法は正反対だった。

 加藤は国会議員を動かすことによって政権を変えようとした。それに対し、小泉は郵政民営化関連法案が参議院で否決されると、衆議院を解散し、有権者に判断を求めた。さらに衆議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員を原則として公認せず、その選挙区の多くに別の候補者を擁立した。党内対立を閉じた党内交渉で処理するのではなく、選挙という公開された場へ持ち出したのである。

 この2005年の衆議院選挙で自民党は296議席を獲得し、単独で衆議院全体の六割を超える議席を占める大勝となった。加藤の乱では党内執行部による議員の切り崩しが倒閣運動を止めたのに対し、郵政解散では首相自身が公認権と選挙を使って党内反対派へ圧力を加えた。わずか五年間の違いだが、そこには自民党政治における権力の使い方の大きな変化が表れていた。

小泉政治と「テレビ政治」をどう見るか

 小泉政治を語るとき、テレビの存在を無視することはできない。小泉は短く分かりやすい言葉を使い、複雑な政策を明確な対立構図へ変え、ニュース番組が扱いやすい政治的場面を作ることに長けていた。2005年の郵政選挙でも、郵政民営化への賛否や、いわゆる「刺客候補」などが大量に報道され、選挙に対する有権者の関心を高めた。

 しかし、「テレビが小泉を勝たせた」とまで言うのは正確ではない。小泉への支持と自民党への支持が相互に結びついた「小泉効果」は統計的研究でも確認されているが、メディア報道だけが支持を直接生み出したと単純に証明されているわけではない。より慎重に言えば、小泉の政治手法と、テレビを中心とした当時の政治報道環境との親和性が非常に高かったのである。

 加藤の政治は、長い説明と交渉によって合理的な結論へ到達する政治だった。それに対して小泉の政治は、対立軸をはっきりさせ、その選択を有権者に示す政治だった。どちらが政治として優れているかは一概には言えないが、テレビを通じて政治が大量の有権者へ直接伝わる時代には、小泉型の政治の方が大きな動員力を持ちやすかった。

YKKという名前が隠していたもの

 YKKという呼び名は、三人を一つの政治グループのように見せる。しかし振り返ってみると、この名前の最も興味深いところは三人の共通点ではなく、その内部に最初から存在していた違いである。

 加藤には、政策と理性、そして党内合意によって自民党を改善できるという信頼があった。山崎には、政治とは理念だけでは動かず、力関係を読み続けなければならないという現実主義があった。そして小泉には、自分を阻む既存の仕組みがあるなら、その仕組みそのものを国民の前で争点化し、世論を党内権力へ変えてしまうという政治技術があった。

 若いころには、これらの違いは互いを補う個性に見えた。しかし三人が首相候補として権力の近くへ進むほど、その違いは拡大した。権力が遠くにあるうちは、三人とも「改革」という言葉で結ばれることができる。ところが首相という椅子が現実のものになると、誰を説得し、誰と戦い、誰を味方にし、どこまで組織と対立するのかという具体的な選択を迫られる。

 権力とは、人間の性格を突然変えるものというより、その人がもともと持っていた政治観を拡大して見せる装置なのかもしれない。加藤の乱で、山崎は加藤と行動をともにし、小泉はそこから離れた。そのわずか一年後、小泉が首相となり、敗れた山崎を幹事長として自らの政権を支える側へ迎え入れたという事実は、政治における人間関係と権力関係の複雑さを象徴している。

同じ道を歩まなかったからこそ、YKKは面白い

 もし山崎、加藤、小泉の三人が最後まで同じ政治行動を取り続けていたなら、YKKはこれほど興味深い存在として残らなかったかもしれない。三人が別々の道を歩いたからこそ、1990年代から2000年代にかけて、自民党政治がどのように変質したのかが、その政治人生を通して見えてくる。

 加藤の政治には、戦後自民党が長く培ってきた合意形成型政治の成熟と、その限界が現れていた。山崎の政治には、状況が変わっても組織の中に戻り、次の局面で影響力を取り戻す自民党政治の柔軟さが現れていた。そして小泉の政治には、地方党員票、世論、選挙、党執行部の権限を組み合わせ、党内権力の構造そのものを動かす新しい政治手法が現れていた。

 三人は同じ1972年に国会へ入り、同じ自民党という巨大な船に乗り、長いあいだ同じ海を航海した。しかし船が古くなり、外から大きな波が押し寄せたとき、加藤は船内の秩序を組み替えようとし、山崎は船の中の力学を読みながら生き残る場所を探し、小泉は乗客の声まで利用して船の進路そのものを変えようとした。

 YKKがなぜ三人とも同じ道を歩まなかったのかという問いに、一つだけの答えはない。性格の違いもあれば、政策思想の違いもあり、政治制度や時代環境の違いもあった。しかし最も重要なのは、三人が共有していたのが「このままではいけない」という問題意識までであり、「では、どこから力を得て、どう変えるのか」という問いへの答えは最初から同じではなかったということである。

 首相になれなかった加藤、首相を支える側へ戻った山崎、そして首相となり自民党内部の対立そのものを国民に問いかけた小泉。同じ時代、同じ年に政治家として出発した三人の軌跡を重ねると、政治家の運命を決めるのは政策の正しさや能力だけではなく、制度と世論が変化する瞬間に、自分の政治手法をその変化へ適応させられるかどうかであることが見えてくる。

 YKKとは、三人が同じだったことを示す名前ではない。むしろ、同じ場所から出発し、同じ時代の自民党に違和感を抱いた三人が、権力という分岐点を前にしたとき、まったく異なる方法を選んだことを後世に残した名前なのである。

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 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに制止され、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたが大将なんだから行っちゃ駄目だ」と訴えた場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、当時の世論調査やその後の政治情勢と照らしても、現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで、2000年4月5日に発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。ただし、党内の後継協議と憲法に基づく首相指名手続きは区別しなければならない。森は自民党の両院議員総会で総裁に選出され、国会でも正式に首相指名を受けている。したがって、法的な手続きそのものが存在しなかったわけではない。問題とされたのは、後継者選びに至る党内の意思決定が、国民や一般党員から見て十分に開かれていなかったことである。

 森内閣の厳しい状況は、当時の世論調査にも表れていた。中央調査社が公表した時事通信社の月例世論調査によれば、森内閣の支持率は2000年4月の33.3%から6月には18.2%へ低下した。わずか2か月で15.1ポイントの下落であり、その後も支持率は20%前後で低迷した。7月には不支持率が56.9%に達し、政権に対する不満が一時的なものではなくなりつつあることを示していた。

 この調査は全国の20歳以上の男女2,000人を対象とする月例面接調査で、回収率はおおむね70%だった。世論調査である以上、標本の偏りや回答しなかった人の影響を完全に排除できるわけではない。それでも、複数月にわたって低い支持率が続いたことは、森政権の求心力が弱まっていたという評価を支える十分な材料になる。加藤の政権批判は、少なくともこうした客観的な状況と整合していたのである。

 もっとも、内閣支持率が低いことと、直ちに倒閣すべきことは同じではない。支持率は国民の評価を示す一つの指標にすぎず、政権交代によってどのような政策改善が実現するのか、国会の多数派を組み直せるのか、解散総選挙になった場合にどのような結果が生じるのかまでは教えてくれない。低支持率を根拠として政権への批判を強めることは合理的でも、不信任案に賛成するという具体的な手段が最善だったかどうかは、別に検証する必要がある。

 実際、森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには低支持率だけでなく、政権運営上の問題や自民党内部の事情が重なっている。後から政権が終わったという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、後知恵による評価になりかねない。森政権が弱体化しているという認識は妥当だったとしても、その後の政治展開を加藤が正確に予測していたことまで証明されるわけではない。

 したがって、加藤の問題認識については「正しかった」と断定するより、「当時の客観的な政治状況とかなり整合していた」と評価する方が正確だろう。加藤は政権の重大な弱点を捉えていた可能性が高い。しかし、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには多くのアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も後のインタビューで、当時は一日に1,000通から2,000通の電子メールが寄せられていたと振り返っている。既存の政治組織を通さずに支持や期待を直接感じ取れることは、当時としては新しい経験だった。

 しかし、そこには統計的な落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではない。政治家に積極的に電子メールを送る人は、もともと関心や期待の強い人に偏る傾向がある。さらに当時はインターネットの利用者構成も現在とは異なり、年齢や職業、情報環境による偏りが大きかった。大量の激励が届いたとしても、その人数や意見の分布から、有権者全体の支持率を直接推定することはできなかった。

 この問題は、統計学でいう自己選択による偏りに近い。自分から発信する人々の意見を集計しても、発信しなかった人々の意見まで代表しているとは限らない。また、国民全体の内閣支持率から個々の国会議員の行動を予測する場合には、異なる集団の関係を同一視する誤りにも注意しなければならない。世論調査で森政権への不支持が多かったとしても、その人々が加藤を次の首相に望んでいたかどうかは分からず、まして自民党議員が野党の不信任案に賛成するかどうかを、その数字だけから判断することはできない。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけでなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1994年の選挙制度改革によって、小選挙区比例代表並立制が導入され、1996年の衆議院総選挙から実施されたことで、党公認の重要性は以前より高まっていた。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は、議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 この変化は政治学の実証研究とも整合している。選挙制度改革前後の自民党の候補者公認を分析した研究では、小選挙区制への移行後、党総裁や幹事長に近い派閥の影響力が候補者選定で強まったことが示されている。ただし、これは公認過程全体の傾向を分析した結果であり、加藤の乱で造反を断念した議員一人一人が、どの程度公認を失うことを恐れていたかを直接証明するものではない。

 当時の野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。もちろん、派閥内の人間関係や政治的忠誠、政策上の意見の違いも無視できず、離脱した議員全員を公認喪失への恐怖だけで説明することはできない。それでも、制度的な権限が個々の議員の行動を左右する重要な条件だったことは否定しにくい。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。人は主張の内容だけで行動を決めているわけではない。自分が置かれた制度や組織のなかで、その行動がどのような利益や損失をもたらすかも計算している。正論による説得と制度的な権力は互いに排他的なものではないが、正論だけで人間の行動条件を変えられるとは限らないのである。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離があった。

 この違いは、加藤自身がどのように行動を開始したかを振り返ると、さらに明確になる。加藤は2000年11月上旬、森政権の継続に強い危機感を示し、自ら政権を担う意欲を表明した。しかし、当時の報道では、その意思表明が山崎拓や加藤派の幹部にも十分に事前共有されていなかったことが指摘されている。加藤派の若手には行動を支持する声があった一方、ベテラン議員には慎重論が存在し、同じ派閥に属していても倒閣の方法について意見は一致していなかった。

 この状況は、組織論でいう協調問題として理解できる。ある行動に参加することの利益と損失は、ほかの人々が何人参加するかによって変わる。例えば、50人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で35人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待利益は変化する。そこで一人が離れれば34人になり、その情報を見た別の議員も離れる。この数字は実際の加藤派の人数を示したものではなく、集団行動が連鎖的に崩れる仕組みを説明するための仮定である。

 社会学では、ある人数以上の参加者が集まらなければ自分も参加しないという行動を、閾値モデルによって説明することがある。参加に必要な人数の基準は人によって異なり、ほかの人々の参加状況が変わることで、自分の選択も変化する。その結果、集団の中に同じ不満を持つ人が多数存在していても、実際には誰も行動しない場合や、一度始まった行動が途中で急速に崩れる場合が生じる。

 政治家の判断を数理的に考えるなら、造反の期待利益は、成功確率と成功した場合の利益、失敗確率と失敗した場合の損失、さらに行動そのものに伴う費用によって変化する。党執行部が公認剥奪や処分の可能性を示せば、造反に失敗した場合の予想損失は大きくなる。同時に、仲間の離脱が進むと造反の成功確率も低下するため、残っている議員にとっても参加する合理性が弱まっていく。

 ただし、実際の議員がこうした計算式を用いて判断していたわけではない。政治家には政策上の信念や人間関係、過去の恩義、名誉への思いもある。また、各議員が考えていた成功確率や損失の大きさを事後的に正確に測定することも難しい。数理モデルは人間の判断を理解するための道具ではあるが、個々の政治家の心理を完全に説明するものではない。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさを、自分への政治的支持と同じように捉えたことだったのではないか。森政権への不満が強くても、加藤への支持が同じ程度に存在するとは限らない。加藤への好感があったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が同じ人数いるとは限らないのである。

 政治における支持には、意見としての支持と、実際の行動を伴う支持がある。前者を集める能力が高くても、後者を十分に確保できなければ、議会で多数派を形成することはできない。加藤の乱は、こうした二つの支持の違いを際立たせた事件だった。

採決結果を数字で見ると、加藤には何が足りなかったのか

 加藤の乱の実際の採決結果を数字で見ると、敗北の構造はさらに明確になる。2000年11月21日未明の衆議院本会議では、森内閣不信任案に対する賛成が190票、反対が237票だった。投票総数427票に占める賛成の割合は約44.5%、反対は約55.5%であり、両者の差は47票だった。

 ここで、採決に参加した議員の一部が行動を変えていたと仮定してみよう。反対票を投じた議員のうち24人が賛成に転じれば、賛成214票、反対213票となり、不信任案は可決される。一方、反対票を投じた議員が単に投票を取りやめるだけなら、賛成190票が反対票を上回るには48人の離脱が必要になる。また、反対237票が変わらない状態で、欠席者から新たに賛成票が加わる場合も、48人の追加が必要になる。

 当時の採決では、加藤派から21人、山崎派から17人の合計38人が欠席していた。この38人全員が不信任案に賛成したと仮定しても、賛成228票、反対237票で否決される。そこから可決に持ち込むには、反対側から少なくとも5人を賛成に転じさせるか、さらに10人の賛成票を加える必要があった。

 もちろん、この計算は実際の投票結果を固定し、特定の議員だけが行動を変えたとする仮定に基づいている。38人全員が本当に賛成する意思を持っていたことを示すものではなく、採決前に造反の規模が拡大すれば、ほかの議員の判断まで変化した可能性もある。政治的な多数派形成は静的な足し算だけで決まるものではないが、この数字は加藤・山崎両派の欠席者が全員まとまったとしても、それだけで可決できる状況ではなかったことを示している。

 つまり、加藤に必要だったのは、自分に近い議員を説得することだけではなかった。ほかの派閥や無所属議員を含めて、どの程度の支持を確実に確保できるのかを見極め、その人数を採決の瞬間まで維持する仕組みが必要だったのである。

 実際には、加藤派の中から不信任案に反対する議員も現れた。単に他派閥への働きかけが不足していたのではなく、自派閥の内部にも行動方針の一致を妨げる事情があった。加藤が率いる派閥の全員が、森政権への不満と不信任案への賛成を同じものとして考えていたわけではない。

 この点を考えると、加藤の乱の失敗を「最後に加藤が投票しなかったから」と説明するのは不十分である。投票しなかったことは象徴的な出来事だったが、その前に、可決に必要な人数を安定的に確保できていないという、より根本的な問題が存在していたのである。

不信任案が可決されても、加藤政権が誕生するとは限らなかった

 加藤の乱を理解するには、内閣不信任案という制度が持つ意味も確認しておく必要がある。日本国憲法第69条は、衆議院で内閣不信任決議案が可決された場合、内閣は10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならないと定めている。つまり、不信任案の可決は森内閣の継続を困難にするが、それだけで加藤が次の首相になるわけではない。

 仮に不信任案が可決されていたとしても、衆議院の解散と総選挙に進む可能性があった。その場合、自民党所属議員が野党の不信任案に賛成した結果、自分たちも厳しい選挙に直面することになりかねない。一方、内閣が総辞職した場合でも、新たな首相は国会で指名される必要があり、加藤がその座を得るには、改めて国会の多数派を形成しなければならなかった。

 当時の与党は自民党、公明党、保守党による連立政権だった。加藤が政権を担おうとすれば、自民党内部の勢力関係だけでなく、連立相手の意向や野党との関係も考えなければならなかった。森首相を退陣させることに賛成する議員が存在したとしても、その後に加藤を首相にすることまで同意していたとは限らない。

 この制度上の分岐は、加藤の戦略を評価するうえで重要である。政治では現在の政権を倒すための多数派と、次の政権を成立させるための多数派が同じになるとは限らない。前者について一定の見通しがあったとしても、後者の構想が十分でなければ、政権交代後の政治的な安定まで保証されないのである。

 加藤自身は、森政権を倒した後に自ら政治の中心に立つことを視野に入れていた。当時の報道でも、加藤が首相就任を強く意識し、人事や政策の構想に言及していたことが伝えられている。したがって、加藤を権力から距離を置いた純粋な改革者として描くことは適切ではない。加藤は自ら権力を獲得しようとしていた政治家であり、そのために既存の政権を倒すという大きな賭けに出たのである。

 問題は、その賭けが成功した場合に、どのような政治的多数派が新たな政権を支えるのかという設計だった。加藤の乱の弱点は、不信任案を可決するための人数の不足だけでなく、その先の政権構想を確実な支持基盤に結びつけられなかったことにもあったと考えられる。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。谷垣禎一の制止を受けて国会へ向かうことを断念した場面は、政治家としての決断と派閥の長としての責任が衝突した瞬間として見ることもできる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。組織の責任者にとって、撤退そのものが常に誤った決断になるわけではない。

 しかし、権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する可能性がある。

 これは交渉理論における約束や威嚇の信頼性という問題に近い。相手が実行すると信じない約束や威嚇は、交渉の場では十分な効力を持たない。ただし、政治家の信頼性は一度の行動だけで決まるものではなく、それまでの実績や政策能力、組織内の関係、その後の行動によっても変化する。加藤が欠席したことで、その後の交渉力がどの程度低下したのかを数量的に測定することは難しい。

 また、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案に賛成していたなら、その後の評価が高まったと断定することもできない。逆に、勝算がなくなった後も党を混乱させた政治家として、さらに厳しく批判された可能性もある。結果が異なっていた場合の政治的評価を、後から一つに確定することはできないのである。

 それでも、加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由は理解できる。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたからである。政治では合理的な撤退であっても、指導者への期待や信頼という別の観点から、厳しく評価されることがある。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、興味深い比較対象は小泉純一郎である。加藤、山崎拓、小泉の三人は、それぞれの名前の頭文字から「YKK」と呼ばれ、自民党の次世代を担う有力政治家として注目されていた。しかし、2000年11月の加藤の乱では三人が同じ行動を取ったわけではない。

 後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。森派の有力政治家として党内にとどまり、加藤の造反には同調しなかった。小泉が森政権の継続にどのような評価を持っていたかと、実際に野党の不信任案へ賛成するかどうかは別の問題だったのである。

 一方、加藤は自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も大きかった。これに対して小泉は、その時点で党を割る側には回らず、数か月後の2001年4月に自民党総裁選という党内の正規手続きを通して権力獲得を目指した。

 ただし、この比較には重要な補足が必要である。加藤自身も、党内の正規手続きを利用して総裁を目指した経験があった。1999年9月21日の自民党総裁選では、小渕恵三が350票を獲得して再選されたのに対し、加藤は113票、山崎は51票にとどまった。加藤はすでに、通常の総裁選によって党内の多数派を形成することの難しさを経験していたのである。

 この経緯を踏まえると、加藤と小泉の違いを、制度を利用したかどうかだけで説明することはできない。加藤も正規の制度による権力獲得を試み、その後に別の手段を選んだ。一方、小泉も1995年と1998年の総裁選に挑戦して敗れており、2001年の勝利が最初から約束されていたわけではなかった。二人とも複数回の政治的挑戦を経験していたのである。

 さらに、2001年の総裁選では制度そのものにも重要な変化があった。全国の都道府県連が持つ票数は、従来の各1票から各3票に拡大された。背景には政治不信の高まりと、一般党員や地方組織の声をより強く反映すべきだという要求があった。小泉は地方組織で強い支持を獲得し、4月24日の総裁選では298票を得て、橋本龍太郎の155票、麻生太郎の31票を大きく上回った。

 この結果は、制度が政治家の勝敗に与える影響を示している。仮に国会議員だけの判断で総裁を選ぶ状況であれば、派閥の力関係がより直接的に結果を左右した可能性がある。しかし、地方票の比重が高まれば、党員や地方組織からの支持を国会議員票と組み合わせることができる。小泉は、国民的な注目や党改革への期待を地方組織での支持につなげ、それを総裁選の票へと変換することに成功した。

 もっとも、制度変更だけで小泉の勝利が説明できるわけではない。小泉自身の知名度、発信力、改革姿勢、支持議員の動向、橋本に対する党内外の評価など、複数の要因が関係していた。1999年と2001年では投票制度や候補者の顔ぶれも異なるため、加藤の113票と小泉の298票を単純に比較して、政治家としての能力差を測ることもできない。

 それでも、二人の明暗を分けた一つの重要な違いは見えてくる。加藤は既存の執行部に対する反乱を通じて権力関係を変えようとしたが、その行動を支える議員多数派を確保できなかった。小泉は政治不信が高まる状況のなかで、地方票の比重が拡大した党内制度を利用し、自らへの支持を総裁選の勝利に結びつけたのである。

 加藤が堤防を壊して川の流れを変えようとしたのに対し、小泉はその戦いには加わらず、後に変化した水門の仕組みを利用して流れの中心に立った、と表現できるかもしれない。ただし、その水門が開いたのは小泉個人の政治技術だけによるものではなく、自民党自身が選挙制度を変え、党内外の政治情勢が変化した結果でもあった。

 この比較から導けるのは、小泉が加藤より常に優れた政治家だったという単純な評価ではない。政治家が持つ支持を、実際の権力に変えるためには、その支持を受け止める制度と、適切な時期と、実行可能な組織的基盤が必要になるということである。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的な立場が存在する。

 政治的な判断を評価する場合、事実認識の正確さ、政策目的の妥当性、手段の合法性、実行可能性、そして結果の有効性を分けて考える必要がある。例えば、森政権の支持率が低下していたという認識は客観的な統計で検証できるが、その時点で政権を倒すことが国民にとって最善だったかどうかは、政策の継続性や代替政権の実現可能性を含めた判断になる。加藤の問題認識に根拠があったとしても、そこから採用した手段の正当性や有効性まで自動的に導かれるわけではない。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも批判的な立場を示し、自衛隊派遣に慎重だった。2004年1月には、イラクへの自衛隊派遣承認案をめぐる衆議院本会議で、党の賛成方針に同調せず、採決直前に退席している。これは、加藤が加藤の乱の後も政策上の異論を表明し続けたことを示す具体的な行動だった。

 イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が、戦後の調査で確認されなかった。この事実は、開戦の根拠を疑問視していた政治家たちの議論を後から評価する重要な材料になる。しかし、それによって加藤の外交・安全保障政策が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。ある問題で事実認識が適切だったことと、政治家としての全体的な判断能力は区別すべきだからである。

 また、加藤の政治人生を評価する際には、2000年の敗北だけに注目することも避けなければならない。2002年には、元事務所代表の脱税事件や政治資金をめぐる問題が表面化し、加藤は同年3月に自民党を離党、4月には衆議院議員を辞職した。加藤本人は事件への直接の関与を否定した一方、事務所を管理する立場として重大な監督責任があることを認めた。

 この出来事も、加藤の政治的信用や首相候補としての将来を考えるうえで無視できない。加藤の乱によって党内基盤が傷ついたことと、その後の政治資金問題によって政治活動が大きな打撃を受けたことは、別の出来事として評価する必要がある。加藤が総理大臣になれなかった理由を、2000年の戦略的失敗だけに帰属させるのは、歴史を単純化しすぎることになる。

 加藤は2003年の総選挙で衆議院に復帰し、自民党にも復党した。その後も外交や安全保障などについて独自の見解を示し続けたが、かつてのように総裁候補として党内の中心に立つことはなかった。この経緯を見ると、加藤の政治人生は、一度の敗北によってすべてが決まったというより、複数の政治的事件や本人の判断が重なり、党内での立場が変化していった過程として理解する方が適切である。

 それでも、加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという点にある。ただし、それは加藤一人に固有の欠点というより、政治家が政策的な問題提起と組織的な支持形成を同時に求められることの難しさを示しているのかもしれない。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。政策の内容に合理性があっても、それを実現できる多数派がなければ制度は変わらない。一方、多数派を形成する技術だけに長けていても、その権力を使って何を実現するのかという目的を見失えば、民主政治の意味そのものが薄れてしまう。

 民主政治では、政策の妥当性と意思決定の正統性を区別しながら、両方を成立させなければならない。ある政策が専門的な知識に基づいて合理的に設計されていたとしても、それだけで民主的な手続きを省略してよいことにはならない。逆に、選挙や議会で多数を確保したからといって、その政策が必ず合理的であるとも限らない。民主政治における多数決は、政策の科学的な正しさを証明する仕組みではなく、異なる価値観や利害を持つ人々の間で、正統な決定を行うための制度なのである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。ただし、すべての場面で退路を断つことが正しいわけではない。勝算が乏しいと判断すれば撤退することも合理的な選択になり得るし、逆に短期的な損失を引き受けて原則を守ることが、長期的な信用につながる場合もある。

 こうした政治的判断には、数学的に考えられる部分と、数学だけでは決められない部分がある。必要な票数や議席の分布、選挙制度が生む誘因、政策実施に必要な予算などは、数理的に分析できる。しかし、どの価値を優先するか、どの損失を受け入れるか、どの時点で妥協するかという判断には、政治家や有権者の価値観が関わる。合理的な手段を選ぶことは重要だが、何を実現することが望ましいかまで、一つの計算式で決められるわけではない。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みの重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別であり、さらに、権力を獲得した後に政策を実現し、その結果に責任を負う能力もまた別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家であり、1999年の総裁選にも立候補していた。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも視野に入れていたのである。

 つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。加藤の乱を善良な改革者と強大な党執行部の対決としてだけ描くなら、本人が権力獲得を目指していた事実や、その過程で犯した戦略上の誤りを見落とすことになる。

 同時に、勝利した小泉の行動を、後から見てすべて合理的だったと評価することにも注意が必要である。小泉が総裁選で勝利したのは事実だが、それは小泉が取った行動のすべてが正しかったことを意味しない。加藤が2000年11月に造反をせず、2001年の総裁選まで待っていればどうなったか、あるいは小泉が加藤の乱に同調していたらどうなったかは、歴史上実際には観察できない別の可能性である。勝者の行動だけを成功要因として取り上げ、敗者の行動だけを失敗要因として扱えば、結果を知っていることによる判断の偏りが生じる。

 政治的な成功は、個人の能力と制度的な条件、組織内の利害関係、社会の状況、さらに本人にも予測しきれない偶然が重なって成立する。ある人物が勝ったという事実から、その人が常に最良の選択をしていたと結論づけることはできない。反対に、敗れたという事実だけで、その人が提示した問題の重要性まで否定することもできないのである。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における問題認識の妥当性と実行能力のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが議会での造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。逆に、ある時点で敗北したからといって、それ以前の問題提起や政策判断に価値がなかったと結論づけることもできない。

 政治家を評価する際には、少なくとも三つの問いを分ける必要がある。その人物は何を問題と考えたのか。その問題を解決するために、どのような手段を選んだのか。そして、その手段は実際にどのような結果を生んだのか。この三つを混同すると、勝った政治家を過大評価し、負けた政治家を過小評価するか、逆に敗者を過度に美化することになりやすい。

 加藤紘一の場合、森政権の弱体化という問題認識には客観的な根拠があった。しかし、党内の支持を不信任案への賛成票に変える仕組みは十分ではなく、仮に不信任案が可決されても、その後の政権を支える多数派が確実に存在していたわけではなかった。この制度的な問題と組織的な問題を合わせて考えることが、加藤の乱の敗北を理解するうえで重要になる。

加藤紘一は正しかったのに負けたのか

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。加藤は森政権の弱さという問題の存在を、当時の世論や政治情勢に照らして相当程度正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の政権交代へ結びつけるための多数派形成には失敗した。そこには、自派閥内部の意見の不一致、党執行部による切り崩し、選挙制度が生む公認権の重み、野党提出の不信任案に賛成することへの抵抗、そして行動を開始する時期や準備の問題など、複数の要因が関係していた。

 さらに、仮に加藤の乱が成功して森政権を倒したとしても、それだけで加藤政権が実現したわけではない。内閣不信任案の可決には衆議院解散や内閣総辞職という制度上の分岐があり、その後の首相指名や連立政権の形成には改めて多数派が必要だった。加藤の政治的構想を評価するには、政権を倒すための戦略だけでなく、倒した後に何を実現するかという統治の構想まで考えなければならない。

 その意味で、加藤の乱は「正しいことを言ったために権力者から排除された」という単純な事件ではない。加藤自身が権力を求め、その獲得手段として選んだ政治行動が、必要な支持と制度的条件を十分に確保できなかった事件だった。ただし、敗北の原因を本人の覚悟や政治的能力の不足だけに帰属させることも適切ではない。加藤が置かれていた党内の力関係、1990年代の選挙制度改革、当時の連立政権の構造、そしてその後に起きた政治資金問題も、政治人生全体を左右した要因として考える必要がある。

 そして、この事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では造反に同調しなかった小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、自民党改革の象徴となった。ただし、小泉の勝利もまた、本人の政治的技量だけによるものではなかった。都道府県連の持ち票が拡大された総裁選制度、地方組織からの支持、党内外の政治不信などが重なり、小泉への期待が実際の票へと変わる条件が整ったのである。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。異なる利益、恐怖、計算、価値観を持つ人々を、制度に従って同じ方向へ動かし、現実の政策を変えていく営みである。そこでは問題を発見する能力と、多数派を形成する能力、さらに権力を行使して結果に責任を負う能力が必要になる。一人の政治家がそのすべてを備えるとは限らず、ある能力に優れていることが別の能力の不足を補うとも限らない。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。政治を評価するときには、主張の内容だけでなく、それを実現する制度と組織をどのように構築したのか、実際に何を達成したのか、その結果にどのような責任を負ったのかまで見る必要がある。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論や合理的な政策判断をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の重要な仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸に存在する問題を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

 そして、その橋を架けるために必要なのは、正しいと信じる主張を繰り返すことだけでも、権力を握るために数を集めることだけでもない。問題を正確に認識し、異なる立場の人々が参加できる条件を整え、制度のなかで合意を形成し、結果を引き受けることである。加藤の乱が四半世紀を経てもなお問いかけているのは、政治家の人格の優劣よりも、正論を現実の政治に変えることの難しさなのである。

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