地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

選挙に勝てば、過去まで清算されるのか

 政治家が不祥事を起こして辞職し、その後もう一度選挙に立候補して当選すると、「有権者の審判を受けた」「みそぎを済ませた」と語られることがあるが、よく考えてみれば奇妙な話でもある。不祥事として問題になった事実が選挙によって消えるわけではなく、説明が不十分だった問題が当選証書を受け取った瞬間に十分な説明へ変わるわけでもないのに、なぜ選挙を一度通過すると、その政治家は再び公職に就く政治的な正統性を得たと考えられるのだろうか。この疑問を解く鍵は、選挙を「過去の行為について有罪か無罪かを決める手続き」と考えるのではなく、「これから誰を代表者として選ぶのかを決める手続き」と考えるところにある。

 不祥事によって議員を辞職した政治家は、それまで持っていた議員としての地位を失うため、再び議員になるためには、立候補資格を失っていない限り、新たな選挙によって選出されなければならない。これを政治理論の言葉で捉えれば、以前の選挙によって得ていた政治的な正統性を辞職によっていったん失い、新しい選挙によって改めて代表者としての正統性を得る過程と考えることができるが、「政治的委任を返し、新しい委任を受ける」という説明はあくまで政治理論上の比喩であり、法律上その名称の契約や委任制度が存在するわけではない。それでも、不祥事が表面化する以前の選挙結果だけを根拠に議員を続ける場合と、その問題が公になった後に改めて立候補し、再び選出された場合とでは政治的な意味が異なるため、そこに「改めて有権者の審判を受けた」という考え方が生まれてくる。

「問題が公になる前の選挙」と「公になった後の選挙」は同じではない

 例えば、ある政治家が選挙で当選してから半年後、選挙以前から存在していた不祥事が発覚したとすると、その政治家が議席を得た選挙では、有権者がその問題について十分な情報を得られないまま投票していた可能性があるため、その当選を持ち出して「私は有権者から信任されているのだから、この問題についても信任されている」と説明することには論理的な無理がある。これに対して、不祥事が公になり、報道や本人の説明、批判や反論などが存在し、有権者がそれらの情報にアクセスできる環境で改めて選挙が行われれば、その選挙が持つ政治的な意味は変わってくる。

 ここで注意しなければならないのは、「不祥事が公になった」ということと、「すべての有権者が不祥事を知り、その内容を正確に理解した」ということは同じではないという点である。政治に関する情報への関心や接触量は有権者によって異なり、報道された問題であっても知らない人は存在するため、再選を「不祥事を知ったすべての有権者が判断した結果」と表現するのは正確ではない。それでも、少なくとも問題についての情報が公に存在し、有権者がその情報を入手できる状態で行われた選挙であるならば、不祥事が知られていなかった以前の選挙とは情報条件が異なり、その条件の下で改めて代表者が選ばれたという意味で、「審判を受けた」という表現には一定の根拠が生まれる。

有権者は不祥事だけを採点しているわけではない

 もっとも、ここから「再選されたのだから不祥事を許された」と進んでしまうと、論理は急に危うくなる。選挙で有権者が評価する対象は不祥事ひとつではなく、政策、所属政党、政治家としての実績、地域への貢献、人物評価、将来への期待、対立候補への評価など多数の要因が同時に存在しており、ある有権者は「不祥事については強く批判するが政策は支持する」と考えるかもしれず、別の有権者は「問題はあったが十分に反省した」と判断するかもしれないし、さらに別の有権者は候補者本人を積極的に評価したのではなく、「対立候補よりはこちらの方がよい」と考えて投票するかもしれない。

 政治学では、有権者が政治家の過去の実績や行動を評価して投票する考え方を「回顧投票」として研究してきたが、現実の投票行動は過去の行動だけによって機械的に決まるわけではなく、政党支持、政策評価、候補者間の比較、情報量、責任を誰に帰属させるかといった複数の要因によって左右される。そのため、不祥事のある政治家に投票したという事実だけを観察して、「この有権者は不祥事を問題視しなかった」と結論づけることはできず、不祥事に強い否定的評価を持ちながら、それを上回る別の理由によって同じ候補者に投票することも十分に起こり得る。

投票箱は票を数えられるが、その理由までは数えられない

 この問題を数理的に考えると、「再選されたのだから許された」という推論がなぜ成立しないのかがさらに明確になる。仮に有権者の候補者に対する総合評価が、政策への評価、政党への評価、政治家としての実績、不祥事への評価、対立候補との比較などの組み合わせによって決まると考えれば、不祥事に対する評価が大きなマイナスであっても、政策や実績、対立候補との比較によるプラスがそれを上回れば、その有権者は不祥事を批判しながら当該候補者に投票することができる。

 ところが実際の選挙で観測できるのは、最終的に誰が誰へ投票したかを集計した得票数であって、その票を構成した複数の評価要因を個別に観測することはできない。統計学的にいえば、観測された投票結果から、その背後にある「不祥事をどの程度許したのか」という観測できない評価を一意に特定することができないのであり、同じ1票でも「不祥事を許したから投票した人」と「不祥事は許していないが、それ以上に政策を評価して投票した人」を開票結果から区別する方法はない。

 選挙とは、実は非常に大胆な情報圧縮装置でもある。有権者が候補者について何十もの論点を考え、最後まで迷いながら投票したとしても、その複雑な判断は最終的に候補者名を書いた1票へ圧縮されるため、投票箱は誰に何票入ったのかを正確に数えることはできても、その1票が怒りを含んだ支持だったのか、消極的な選択だったのか、完全な信頼だったのかまでは教えてくれない。

「40票で当選した」ことから何が分かるのか

 例えば、有権者100人の選挙で80人が投票し、A候補が40票、B候補が30票、C候補が10票を獲得してA候補が当選したとする。この場合、A候補の得票は全有権者に対して40%、実際に投票した80人に対して50%となり、選挙制度上A候補が当選者になったという事実は明確であるが、この40票をそのまま「不祥事を許した40票」と解釈することはできず、反対に残る60人を「不祥事を許さなかった60人」と解釈することもできない。

 A候補に投票した40人の中には不祥事を許していない人が含まれている可能性があり、B候補やC候補に投票した40人についても、不祥事を理由にA候補を拒否したとは限らず、政策や政党、候補者の人物評価など別の理由で投票した可能性があるうえ、棄権した20人についても、その理由を得票結果から知ることはできない。したがって選挙結果から直接確認できるのは、「A候補が制度上必要な票を得て当選した」というところまでであり、「有権者の何%がA候補の不祥事を許したのか」という数字は、選挙結果だけからは算出できないのである。

不祥事は実際に選挙で不利になるのか

 それでは、不祥事は選挙結果とは関係がないのかといえば、そういうことでもない。政治的不祥事と選挙結果を扱った実証研究をまとめると、不祥事を抱えた政治家は平均的には得票を減らし、再選の可能性を低下させる傾向が確認されているため、有権者が政治家の不祥事をまったく評価していないと考えることにも無理がある。

 しかし、ここで重要なのは「平均的には不利になる」ということと、「不祥事を起こした政治家は必ず落選する」ということは全く違うという点である。不祥事がマイナス材料として作用しても、それ以外の政策、政党、実績、知名度、対立候補などの要因が同時に作用するため、マイナスを抱えた候補者が総合的な比較の結果として再選されることは十分にあり得る。この意味でも、再選という結果は「不祥事が評価されなかった」ことを証明するものではなく、「不祥事というマイナス要因を含めた複数の条件の下で、その候補者が選挙制度上の勝者になった」というところまでしか示していない。

選挙は裁判ではなく、未来の代表者を決める制度である

 さらに重要なのは、選挙と司法手続きでは、そもそも答えようとしている問いが違うことである。仮に政治家の行為について刑事上の問題があれば、その行為が犯罪に当たるのか、どのような刑事責任を負うのかは司法手続きによって判断されるのであって、選挙で何万票を獲得したかによって決まるものではなく、当選したから違法だった行為が適法になるわけでも、落選したから新たに違法になるわけでもない。

 これに対して選挙が決めているのは、その人物をこれから代表者として選ぶかどうかであり、裁判が主として過去の行為について法的責任を判断する制度だとすれば、選挙は将来の代表者を選択する制度としての性格を持っている。この時間軸の違いを無視して「選挙で当選したのだから過去の問題も解決した」と考えると、法的責任、政治的責任、道義的評価という異なる問題が混同されることになる。

「有権者の審判」には制度上の根拠がある

 それでも「有権者の審判を受けた」という言葉そのものに根拠がないわけではない。日本国憲法では、公務員を選定し、罷免することを国民固有の権利とし、国会についても選挙された議員によって構成する仕組みを採用しているため、誰を代表者として選ぶのかを選挙によって決定することは、日本の代表民主制の根幹に位置している。

 したがって、不祥事によって辞職した人物が再び立候補し、その問題に関する情報が公になっている状況で選挙を経て再選されたのであれば、「その人物を再び代表者とするかという問いについて、有権者による選挙を経た」という意味で「有権者の審判を受けた」と表現することには制度上、一定の合理性がある。ただし、日本国憲法や公職選挙法に「不祥事を起こした政治家が再選されれば、その不祥事についてみそぎが完了する」という制度が存在するわけではなく、選挙によって生じる法的な結果と、その選挙結果に政治的な意味を与えることは分けて考えなければならない。

なぜ「みそぎ」という言葉がこれほど便利なのか

 そこで登場するのが「みそぎ」という言葉である。本来のみそぎには汚れを清めるという意味があるため、不祥事を起こした政治家が辞職し、もう一度選挙に立候補して当選した場合に使えば、「問題を起こした政治家がいったん身を引き、再び有権者の前に立って判断を求め、その関門を通過した」という分かりやすい物語を作ることができる。

 しかし、この言葉には「再び代表者として選ばれた」という制度上の事実と、「過去について社会から許された」という道義的な評価をひとつにまとめやすい性質があり、そこに注意が必要になる。「選挙で勝った」が「有権者の審判を受けた」へ変わり、さらに「みそぎを済ませた」へ変わっていくにつれて、最初は選挙結果についての説明だったものに、少しずつ過去の問題に対する社会的な許しという意味が加えられていくからである。

そもそも「有権者」が全員その政治家を選んだわけではない

 「有権者の審判」という表現を考えるうえでは、もうひとつ忘れてはならないことがある。それは、当選者が必ずしも全有権者の過半数から積極的な支持を受けているわけではないということであり、投票率、候補者数、選挙制度によっては、全有権者の一部から得た票によって当選することも当然あり得る。

 それでも当選者がその選挙区の代表者になるのは、民主主義が「全員が賛成できる人物を探す制度」ではなく、あらかじめ定められた選挙制度によって社会としての決定を作り出す仕組みだからである。その意味で「有権者から選ばれた」という表現は成立するが、そこから「有権者全体がこの人物の過去を許した」と意味を広げることはできず、より正確には「問題についての情報が公になった状態で選挙が実施され、その選挙制度のルールによって再び代表者として選出された」と理解する方が実態に近い。

再選は「無罪判決」より「政治的な再出発」に近い

 こうして考えていくと、不祥事後の再選を「無罪判決」と捉えるより、「政治的な再出発」と考えた方が実態に近い。政治家は選挙によって議員としての地位を得るが、その途中で辞職すればその地位を失い、再び議員になるためには新しい選挙によって選出されなければならず、そこで当選すれば、少なくとも選挙制度上は新たに議員として活動する正統な地位を得ることになる。

 しかし、新しく議員として選出されたからといって、それ以前に起きた出来事まで消えるわけではなく、刑事上、民事上、政治上、道義上の責任が存在するのであれば、それぞれの基準によって別に判断されることになる。だからこそ、「選挙で審判を受けた」という言葉には一定の合理性がありながら、「選挙で許された」という言葉になると慎重さが必要なのであり、前者は選挙という手続きを通過したことについて述べているのに対し、後者は有権者一人ひとりの投票理由まで推測して、過去への評価を読み込んでいるからである。

投票箱が答えたことと、答えていないこと

 選挙という制度の興味深さは、何万人、何十万人という人々が、それぞれ異なる記憶、怒り、期待、損得、政策への評価を抱えて投票所へ向かうにもかかわらず、最後にはその複雑な判断が候補者ごとの得票数という単純な数字へ変換されるところにある。不祥事を最後まで許せないと思いながら政策を優先した1票も、十分に反省したと考えた1票も、対立候補を選びたくなかったために投じた1票も、開票所では同じ1票として積み上げられ、そこから当選と落選という明確な結果が生まれる。

 だから選挙結果から確実に読み取れるのは、「誰が、その選挙制度の下で代表者として選ばれたのか」ということであり、「その人物の過去について有権者がどのような道義的判断を下したのか」までではない。不祥事についての情報が公になった後に再び選挙へ立ち、そこで当選したのであれば、確かにその政治家は以前とは異なる情報環境の中で有権者による選択を経ており、その意味では「改めて有権者の審判を受けた」と表現することができるが、その選挙結果だけを根拠として「だから不祥事について許された」「だから説明責任は終わった」「だから過去を再び問題にする必要はない」とまで結論づけることはできない。

 投票箱が出した答えは、過去についての無罪判決ではなく、「この人物をこれから代表者にするか」という問いに対する選挙制度上の答えであり、そこに「許された」「みそぎは終わった」という意味まで与えるのは、投票箱そのものではなく、その結果を解釈する政治の側なのである。

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深く頭を下げれば、政治はリセットされるのか

 政治家の謝罪には、ほとんど決まった風景がある。記者たちの前に立ち、「国民の皆さまに多大なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます」と述べて深く頭を下げると、シャッターの音が一斉に響き、その姿がテレビや新聞、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)を駆け巡る。しかし、謝罪だけで騒動が収束するとは限らず、「本当に反省しているのか」「辞任しないのか」「謝れば済むと思っているのではないか」という新たな問いが始まることもある。

 考えてみれば、これは少し奇妙である。私たちは政治家に「謝れ」と要求しながら、政治家が実際に謝罪すると、それだけでは納得しない。謝らなければ「なぜ謝らない」と批判し、謝れば今度は「謝って済む問題ではない」と批判するのだから、一見すると有権者の側が矛盾しているようにも見える。しかし、この反応は必ずしも矛盾ではなく、人々が謝罪という言葉に異なる役割を求めていることの表れとも考えられる。

 そもそも私たちは、政治家に何を求めて「謝れ」と言っているのだろう。自分の非を認めてほしいのか、反省してほしいのか、事実を説明してほしいのか、それとも辞職や損失の回復など具体的な責任を取ってほしいのか。これらはしばしば一緒に語られるが、本来は別の問題であり、ここを区別しなければ、「謝った政治家は潔い」「謝らない政治家は卑怯だ」という単純な人物評から先へ進むことはできない。

 政治心理学や社会心理学の研究を見ても、謝罪によって政治家の評価が改善する場合もあれば、逆に不利になる場合もある。しかも、そこには謝罪の内容だけでなく、不祥事の重大性、証拠の強さ、支持政党、有権者の既存の認識などが複雑に関係している。政治家の謝罪は、私たちが日常生活で経験する謝罪と共通する部分を持ちながら、選挙や権力、制度的責任が関わることで、まったく異なる問題を生み出しているのである。

普通の人間関係では、謝罪は壊れた関係を修復する

 日常生活では、謝罪は壊れた関係を修復するための重要な手段として機能する。自分に非があったことを認め、相手が受けた損害や不快感を理解し、可能であれば償い、同じことを繰り返さない意思を示すことで、相手は初めて「この人は何が問題だったのかを理解している」と判断できるからである。

 謝罪を扱った心理学や交渉研究でも、すべての謝罪が同じように評価されるわけではないことが示されている。2016年にロイ・ルウィッキらが発表した研究では、謝罪を、後悔の表明、事情の説明、責任の承認、反省の表明、修復の申し出、許しの要請という六つの要素に分け、その組み合わせによって謝罪の有効性に対する評価がどう変化するかを調べた。その結果、特に重要と評価されたのは責任の承認であり、次いで修復の申し出が重視された。一方、許しを求めるという要素の重要度は相対的に低かった。

 ただし、この研究が直接確認したのは、提示された謝罪がどの程度有効だと評価されたかということであり、謝罪した人物が現実に信頼を回復したか、長期的に関係を改善できたかということではない。まして、政治家が謝罪した後の支持率や選挙結果を測定した研究でもない。それでも、人が謝罪を評価するときに、単に申し訳ないという感情を示すだけでなく、責任を認め、問題を修復しようとする姿勢を重視するという点は、政治家の謝罪を考えるうえでも参考になる。

 感覚的にも理解しやすい。誰かが大切な物を壊した後に、「嫌な思いをさせてしまったのなら申し訳ない」と言ったとしても、私たちはどこか釈然としない。問題は相手が嫌な気持ちになったことだけではなく、その人自身が物を壊したことにあるからであり、「あなたが不快になったこと」を謝るのと「私が壊したこと」を認めるのとでは、謝罪の意味が異なる。

 ところが、政治の世界に入ると、この仕組みが複雑になる。政治家が「私が間違っていました」と率直に認めることは、人間関係として見れば誠実な行動である一方、政治的には「本人が疑惑や問題行為を認めた」という新しい情報にもなるからである。

謝罪は誠実さの表明であると同時に、責任を認める行為でもある

 政治家が簡単には謝罪しない理由の一つは、謝罪によって得られる評価と失われる評価が必ずしも一致しないことである。疑惑が報道された直後には、まだ事実関係を十分に知らない有権者も多く、「本当にその行為があったのだろうか」「報道が誇張されているのではないか」と判断を保留している人もいる。その段階で本人が具体的な行為を認めて謝罪すれば、有権者は「少なくとも本人が問題への関与を認めた」と受け止める可能性がある。

 つまり、責任を認める謝罪には、「この人物は自分の非を認めるだけの誠実さを持っている」というプラスの情報と、「問題とされた行為が実際に存在した可能性が高い」というマイナスの情報が同時に含まれる。この二つの効果が同じ方向へ働かないところに、政治的謝罪の難しさがある。

 この逆説について、2024年に発表された米国の政治スキャンダル研究は興味深い結果を示している。研究者たちは、架空の連邦議会議員が性的不祥事の疑惑を持たれたという状況を設定し、その議員が謝罪した場合と否認した場合とで、有権者の評価がどう変化するかを比較した。三つの調査実験には合計1万人を超える回答者が参加し、不祥事の重大性や追加証拠の有無なども検討された。

 第一の実験では、婚外関係の疑惑から強姦の疑惑まで重大性の異なる事例を設定したところ、謝罪した場合より否認した場合の方が、議員の辞任を求める評価が低くなる傾向が確認された。謝罪と比較した否認の効果は、婚外関係の条件では辞任支持尺度上で約5.5点、強姦の疑惑の条件では約18.6点の差として報告されている。ただし、これは実験内の評価尺度における差であり、現実の支持率や選挙得票率がそれだけ変化したという意味ではない。

 さらに、疑惑を裏付ける追加証拠を示した実験でも、謝罪が否認より政治的に有利になるとは確認されなかった。ただし、提示された証拠が回答者にとって十分に決定的ではなかった可能性もあり、強い証拠が存在するあらゆる状況で否認が有利だと証明されたわけではない。

 この研究は刺激的だが、「政治家は謝らない方が得だ」という普遍的な法則を意味するものではない。対象となったのは米国の有権者、架空の議員、性的不祥事、実験的に提示された状況であり、日本の政治資金問題や政策判断の失敗、失言、行政上の過失について同じ結果になるとは限らない。また、実験で測定された辞任支持や政治的評価を、実際の選挙結果と同一視することもできない。

 それでも、この研究には重要な意味がある。私たちは道徳的には「正直に認めて謝る人物を評価したい」と考えるが、政治家への評価には誠実さだけでなく、「そもそも問題行為をした人物なのか」という判断も関係している。そのため、謝罪による誠実性の評価が、不祥事を認めたことによる不利益を必ずしも上回らないのである。

人は謝罪を新しい情報として受け取っている

 この仕組みは、確率的な情報更新として考えると分かりやすい。疑惑が報道された時点では、有権者一人一人が「事実である可能性は高い」「まだ分からない」「おそらく誤報だろう」と異なる判断を持っている。そこへ本人の謝罪という情報が加われば、謝罪の内容によっては、「本人が責任を認めたのだから、疑惑が事実である可能性は以前より高そうだ」と考える人が現れる。

 例えば、ある疑惑が真実である事前の確率を30%と仮定し、疑惑が真実だった場合に政治家が謝罪する確率を80%、真実でなかった場合にも謝罪する確率を20%と仮定する。この条件でベイズの定理を使って計算すると、謝罪という情報を得た後に疑惑が真実であると推定される確率は約63.2%となる。これは実際の政治家や有権者から得られた統計値ではなく、謝罪という情報が判断を変える仕組みを説明するための仮想的な計算である。

 重要なのは、この結果が特定の条件に依存していることである。謝罪によって疑惑の真実確率が高まるのは、疑惑が真実である場合の方が、そうでない場合より謝罪が行われやすいという前提が成り立つときである。政治家が自分の不正を認めたのではなく、組織の混乱や行政上の不手際について管理責任を感じて謝罪した場合には、同じ推論をそのまま適用することはできない。

 また、現実の有権者が必ずしも確率計算に従って判断しているわけではない。支持政党への感情、情報源への信頼、既存の印象などが影響するため、人間の判断は理論上の合理的な確率更新から外れることもある。それでも、謝罪を単なる礼儀や感情表現ではなく、有権者が新しい判断材料として受け取る情報と捉えることには、数理的な合理性がある。

 この意味で、謝罪の政治効果は単純な加点方式ではない。謝罪すれば誠実さが一定程度評価されるとしても、問題行為が事実だったという認識が強まれば、その効果が相殺されることもある。何について責任を認めたのか、どの程度の証拠が存在していたのか、謝罪の前に有権者が何を信じていたのかによって、結果は変わるのである。

支持する政治家の失敗には、私たちは少し甘くなる

 さらに政治を複雑にするのが、政党支持や政治家への既存の好感度である。ある政治家の不祥事を聞いたとき、もともと嫌っていた政治家なら「やはりそういう人物だった」と受け取り、自分が支持している政治家なら「何か事情があるのではないか」「報道の仕方に問題があるのではないか」と考えることは珍しくない。

 これは政治に限った特殊な心理ではない。人間には、自分がすでに持っている信念と一致する情報を受け入れやすく、それと矛盾する情報については別の説明を探したり、厳しく吟味したりする傾向がある。政治心理学では、こうした現象を動機づけられた推論という考え方から説明することがあり、政党への帰属意識や選挙結果への期待が、不祥事の評価にも影響すると考えられている。

 実際、2019年のカナダ総選挙期間中に、ジャスティン・トルドー首相の過去の人種差別的な仮装が問題となった際の大規模な調査実験では、3万1,559人の回答者を対象として、政治家の不祥事に関する情報が寛容さの判断にどのような影響を与えるかが分析された。その結果、トルドー首相が所属する自由党の支持者では、問題となった政治家を明示することによって、過去の不適切な行為を許容する方向への変化が確認された。

 具体的には、自由党支持者が過去の人種差別的行為を理由に政治家を公職不適格と判断する推定確率は、比較対象となる条件より14.4ポイント低かった。一方、主要な対立政党である保守党の支持者全体については、同じ情報提示による統計的に有意な変化は確認されなかった。また、自由党にも保守党にも属さない支持者や無党派層の一部にも寛容になる反応が見られ、その傾向は望まない選挙結果などによって異なっていた。

 したがって、この研究から「支持政党の政治家なら許し、反対政党の政治家なら必ず厳しくなる」と単純化することはできない。重要なのは、現実の政治スキャンダルへの反応が、問題行為の内容だけでなく、誰がその行為をしたのか、どの政党が利益や不利益を受けるのかという事情によって変化し得ることが確認された点である。

 もっとも、この実験は謝罪の有無だけを切り離して、その効果を測定したものではない。現実に起きた不祥事や当事者の名前、謝罪への言及を含む情報提示が政治的な判断に及ぼす影響を調べたものであり、純粋な謝罪効果と党派性の影響を完全に同一視することはできない。

 それでも、政治家の謝罪を評価するときには、有権者自身の立場が判断に影響している可能性を考慮する必要がある。同じ問題行為を同じ基準で評価しているつもりでも、実際には政治家の名前や所属政党によって評価が変わっているかもしれないからである。

謝らないことが支持者をつなぎ止める場合もある

 政党への帰属意識が強く働くと、「私は間違っていない」と主張し続けること自体が政治的な意味を持つ場合がある。支持者にとって政治家の否認は、単なる言い逃れとしてではなく、「自分たちの側が不当に攻撃されている」という認識を維持する材料になることも考えられる。

 2025年に学術誌へ掲載された米国の政治心理学研究では、三つの実験を通じて、不祥事を起こした政治家が謝罪、否認、正当化、沈黙などの対応を取った場合に、有権者の評価がどのように変化するかが分析された。その結果、自分と同じ政党の政治家が不祥事を否認したり正当化したりすると、沈黙する場合よりも好意的に評価される条件が確認された。特に、問題行為が支持政党の政治的目標に結び付いている場合や、その政治家の議席が党にとって重要な場合に、こうした効果が強くなる傾向があった。

 ただし、同じ政党の政治家が謝罪したからといって、必ず否定的に評価されたわけではない。研究が示したのは、党派的な関係や政治的利害によって、否認や正当化が沈黙より好意的に受け取られる条件が存在するということであり、謝罪より否認が常に優れているという結論ではない。

 この点は重要である。政治家が謝罪しない理由を単純に「反省していないから」と説明することはできず、謝罪、否認、沈黙のどれを選ぶかには政治的な損得計算が入り込む可能性がある。一方で、政治的に有利な対応を選んでいるからといって、その政治家が内心では反省していないと断定することもできない。外部から観察できる言動と本人の内面的な反省は、区別して考える必要がある。

 さらに、政治的に有利な戦略が社会的にも望ましいとは限らない。仮に否認によって支持を維持できたとしても、事実関係が不明確なまま放置されたり、必要な制度改革が進まなかったりするのであれば、政治家本人の短期的な利益と民主政治全体の利益は一致しない可能性がある。

「申し訳ない」と「私の責任です」は似ているようで違う

 だからこそ、政治家の謝罪を見るときには、頭を何秒下げたかより、何について責任を認めたのかを確認する必要がある。

 政治の謝罪では、「このような事態を招いたことは大変遺憾です」「国民の皆さまにご心配をおかけしました」「誤解を招く表現があったとすれば申し訳ありません」といった言葉が使われることがある。一見すると謝罪に見えるが、注意深く読むと「自分が具体的に何をしたのか」という主語と行為が曖昧なまま残されている場合がある。

 「ご心配をおかけしたこと」と「不正な行為を行ったこと」は同じではなく、「誤解を招いたこと」と「誤った発言をしたこと」も同じではない。前者では、問題の中心が政治家自身の行為から、有権者がどう受け取ったかという側へ移される可能性がある。ただし、政治家本人の違法行為が確認されておらず、行政組織の混乱や社会的な不安について責任を感じているのであれば、「ご心配をおかけした」という表現が必ずしも責任逃れになるわけではない。

 例えば、疑惑が調査中の段階で、政治家が「事実関係を確認しているが、行政への信頼を損なう事態となったことについては責任を感じている」と述べた場合、その発言は特定の不正行為を認めたこととは区別できる。反対に、調査によって本人の不正が確認された後も、具体的な行為への責任を避けて「誤解を招いた」と説明し続けるなら、謝罪の対象が問題の本質と一致しているかを問う必要がある。

 謝罪を評価するためには、事実が確定している部分と未確定の部分を分けたうえで、政治家がどの範囲の責任を認め、何について説明を避けているのかを確認しなければならない。曖昧な謝罪をすべて不誠実と決めつけることも、謝罪らしい言葉があったというだけで説明責任を果たしたと判断することも、適切ではないのである。

能力の失敗と誠実性の失敗は同じではない

 政治家が何について謝っているのかによっても、謝罪の意味は変わる。政策判断を誤った、予測が外れた、説明が不足していたという失敗と、意図的に嘘をついた、不正を隠した、私的利益のために権限を利用したという問題では、同じ「申し訳ありません」という言葉でも受け取られ方が異なる。

 一般的な信頼修復研究では、能力不足によって失われた信頼と、誠実性そのものを疑わせる違反によって失われた信頼とでは、謝罪への評価が異なることが示されている。ルウィッキらの研究でも、能力に関する信頼違反の後の謝罪は、誠実性に関する違反の後の謝罪より有効だと評価される傾向が確認された。ただし、これは実際の政治家の選挙結果を測定したものではなく、提示された謝罪の有効性に対する評価を比較した結果である。

 それでも、両者の違いには合理的な説明がある。「判断を間違えました。原因を検証し、次から改善します」という人物なら、知識や経験、制度の変更によって同じ失敗を減らせる可能性がある。しかし、「私は意図的に嘘をつきました。今後は正直に話します」と言われた場合には、その約束そのものを信用してよいかという別の問題が発生する。

 謝罪は、発言した人物の言葉を一定程度信用してもらうことによって成立する行為である。そのため、問題行為そのものが「この人物の言葉は信用できない」という疑念を生み出している場合には、謝罪の効力まで弱くなる可能性がある。こうした場合、信頼を回復するためには謝罪文の工夫だけでは不十分であり、第三者による調査、情報公開、損害の回復、再発防止策など、本人の言葉以外から確認できる行動が重要になる。

誰が誰に謝るのかによっても意味は変わる

 謝罪の受け取られ方は、言葉の内容だけで決まるわけではない。誰が、どの立場で、誰を代表し、誰に対して謝罪するのかという関係も重要である。

 2024年に発表された日本と韓国を対象とする研究では、日本の2,700人、韓国の3,000人を対象に、歴史問題をめぐる政治的謝罪のさまざまな組み合わせがどの程度受け入れられるかを調べた。その結果、謝罪の内容だけでなく、謝罪する主体や受け手に関する条件が大きく影響し、国内の集団間でも評価に相当の違いが存在することが確認された。

 もっとも、この研究は国家間の歴史問題に関する集団的な謝罪を扱っており、政治家個人の不祥事を直接検証したものではない。そのため、国家間の謝罪に関する結果を、そのまま個人政治家の謝罪に適用することはできない。それでも、謝罪の評価を言葉の巧拙だけで説明できないという点では、重要な示唆を与えている。

 さらに、2026年に発表された韓国を対象とする二つの事前登録実験では、日本による歴史問題への謝罪に具体的な修復措置が伴う場合、言葉だけの謝罪より努力を伴うものとして認識され、誠実性や信頼性の評価が高まることが示された。ただし、これは謝罪に具体的な措置を伴わせることが評価に影響するという結果であり、その措置によって歴史問題そのものが解決されたことや、長期的な外交関係が改善したことを証明したものではない。

 政治家個人の問題に置き換えて考えるなら、謝罪を受ける側が求めているものは一様ではない。行政サービスの失敗によって不利益を受けた住民、政治資金の不透明さを問題視する有権者、議会の信頼回復を求める同僚議員では、必要と考える説明や是正措置が違っていても不思議ではない。謝罪とは単なる文章ではなく、責任を負う者とその影響を受けた者との関係の中で意味を持つ行為なのである。

謝罪と法的責任は別の問題である

 政治家の謝罪を考えるうえで、心理学や選挙上の評価とは別に整理しなければならないのが、日本の法制度における責任である。政治家が謝罪したからといって、法律上の責任が自動的に消滅するわけではなく、反対に謝罪したことだけで違法行為の成立が確定するわけでもない。

 例えば、政治資金をめぐる問題では、政治資金規正法に基づく収支報告書の記載義務や罰則が問題になることがある。しかし、収支報告書に誤りがあったという事実と、政治家本人が刑事責任を負うという判断は同じではない。違反行為の内容、本人の関与、故意など、該当する法令が定める要件を個別に確認する必要があり、謝罪会見でどのような言葉を使ったかだけで刑事責任を判断することはできない。

 また、政治家の責任には、刑事責任、民事責任、議会内部の懲罰、政党による処分、有権者からの政治的評価など、異なる制度や判断が存在する。仮に刑事事件として立件されなかったとしても、政治的な説明責任がなくなるわけではない。一方、強い批判を受けているからという理由だけで、法律違反が成立したと判断することもできない。

 特に地方議会では、謝罪に近い行為が正式な懲罰制度の一部となっている。地方自治法第135条は、地方議員に対する懲罰として、公開の議場における戒告、公開の議場における陳謝、一定期間の出席停止、除名という四つを規定している。ここでいう陳謝は、議員が自分の判断で記者会見を開いて謝罪する行為とは異なり、議会の懲罰として位置づけられるものである。

 ただし、地方議会の懲罰は、地方自治法や会議規則などに関わる議会内部の規律違反を対象とする制度であり、あらゆる不祥事について自由に科すことができるものではない。さらに、議員の除名については厳格な議決要件が設けられており、議会の判断だけで無制限に議員の地位を奪えるわけではない。

 国会についても、日本国憲法第58条は衆議院と参議院にそれぞれ院内の秩序を乱した議員への懲罰権を認め、議員を除名するには出席議員の3分の2以上の多数による議決が必要だと定めている。このように、日本の政治制度では、政治家が自発的に謝罪することと、法律や議会の規則に基づいて責任を問われることは区別されている。

 したがって、謝罪したから責任を果たしたと判断することも、謝罪しなかったから直ちに法的責任が重くなると考えることも適切ではない。何について責任を負うのか、その責任を判断する権限は誰にあるのか、どのような手続が必要なのかを明確にしなければ、政治的な批判と制度上の責任が混同されてしまう。

「謝ったのだから辞任すべきだ」は必ずしも正しくない

 政治家が謝罪したとき、次に問題となるのが辞任である。しかし、謝罪した政治家が必ず辞任しなければならないという一般的な法律上の義務はなく、実際にどの程度の政治的責任を負うべきかは、問題の性質や重大性によって異なる。

 例えば、政策の効果を予測できず、結果として行政サービスに混乱が生じた場合には、政策の見直しや説明責任を果たすことが中心になるかもしれない。これに対し、政治家本人が私的利益のために権限を利用したり、意図的に不正を隠蔽したりした場合には、職務への適格性や公職にとどまることの妥当性が、より厳しく問われる可能性がある。

 ただし、政策判断の失敗だから軽微であり、不正だから必ず辞任しなければならないと機械的に区分することもできない。判断の失敗であっても被害が重大であれば強い責任が問題となるし、法令違反の疑いがあっても事実関係が未確定であれば、調査や適正な手続を経ずに結論を出すべきではない。

 政治的責任の判断には、行為の重大性、故意や過失の程度、被害の規模、本人の関与、調査への協力、問題発覚後の対応、職務継続による影響など、複数の要素が関係する。辞任は責任の取り方の一つだが、それだけが責任を果たす唯一の方法ではなく、辞任したことによって事実解明や被害回復の必要性がなくなるわけでもない。

 この区別をしないまま議論すると、「謝ったのだからもう許してやれ」という考え方と、「問題を起こしたのだから直ちに辞任すべきだ」という考え方の対立に終始し、問題の重大性に見合った責任が何であるかという本来の議論が置き去りになってしまう。

それでも社会が謝罪を求め続ける理由

 ここまで考えると、「謝っても必ず許されるわけではなく、場合によっては政治的に不利になるのであれば、政治家に謝罪を求める意味はないのではないか」という疑問が生まれる。

 しかし、公的な謝罪には、選挙上の損得だけでは説明できない役割がある。政治哲学では、公的謝罪を、責任を持つ側が社会との関係を修復し、何が許され何が許されないのかという規範を改めて確認する行為として捉える議論がある。これは実験によって「謝罪すれば信頼が何%回復する」と証明された経験則ではなく、民主政治における責任の意味を考える規範的な議論である。

 政治家が不正を行った後に、「私は何も悪くないし、この行為の何が問題なのか分からない」と主張する場合と、「私の行為は公職者として許されないものであり、責任は自分にある」と認める場合では、たとえ過去の問題行為そのものを変えられなくても、その後に共有できる社会的なルールが違ってくる。

 例えば、公職者が公金を私的に使用していたとすれば、問題はその金額だけではない。公金を私的な目的に使ってはならないという基本的な規範が守られていなかったことにも問題がある。その際、政治家が事実を認め、何が許されない行為だったのかを明確にすることには、単なる選挙戦略を超えた社会的な意味がある。

 もっとも、謝罪をすれば政治的規範が回復されるというわけでもない。実際に責任を認めた言葉と、その後の行動が一致しなければ、謝罪が形式的な儀式にとどまる可能性がある。だからこそ、謝罪の価値は過去を消してしまうことではなく、過去に何が起きたのかを認め、その後の対応を検証できる状態をつくることにある。

本当に評価すべきなのは、頭を上げた後である

 優れた謝罪とは、必ずしも巧みな謝罪文のことではない。完璧な言葉を並べても、その翌日に同じ問題を繰り返すのであれば、信頼回復は難しい。反対に、表現は不器用でも、事実を明らかにし、必要な責任を認め、被害や損失の回復に取り組み、同じ問題を防ぐ制度を残したのであれば、その対応には実質的な意味がある。

 政治家が謝罪すると、私たちはしばしば「本当に反省している顔か」という心理鑑定を始める。頭を下げる角度、声の震え、目線、表情、謝罪までにかかった時間などが論評されることもある。しかし、外見的な振る舞いだけから他人の内面を正確に判断することは難しく、深く頭を下げたから誠実とは限らず、表情が硬いから反省していないとも限らない。

 もちろん、表情や態度が受け手の印象に影響すること自体は否定できない。非言語的な表現を含む謝罪研究でも、反省しているように見える振る舞いが好意的な反応につながる場合が示されている。ただし、好意的な印象を与えることと、本人が実際に反省していること、さらには被害を受けた人が許すことは、同じ現象ではない。

 民主政治において比較的客観的に評価できるのは、心の中より行動である。何が起きたのかを説明したか、確認された事実について自分の責任を具体的に認めたか、調査に協力したか、被害や損失をどう回復しようとしたか、同じ問題が繰り返されない制度を整えたかという行動であれば、少なくとも外部から検証することができる。

 さらに重要なのは、再発防止策を発表しただけで満足しないことである。制度を改めたと主張しても、実際に運用されていなければ効果は期待できない。第三者による確認、情報公開、改善措置の実施状況などを継続的に点検し、問題が繰り返されていないかを確認する必要がある。

 このとき初めて、謝罪は一日のニュースではなく、政治的責任を果たす過程の一部になる。

「許すこと」と「責任を問わないこと」は違う

 政治家の謝罪をめぐる議論で最も混同されやすいのが、「許す」という言葉である。政治家が心から反省していると認めることと、その人物を引き続き大臣や首長として働かせることは別の判断であり、人間として謝罪を受け入れながら、公職者として辞任を求めることは矛盾しない。

 反対に、その政治家を個人的に好きになれなくても、問題が比較的軽微で、十分な説明と是正が行われ、職務遂行能力にも重大な問題がないのであれば、政治的責任は一定程度果たしたと判断することもあり得る。ここでは、個人への好感度と、公職者としての適格性を区別する必要がある。

 また、政治心理学の研究を比較するときにも、何をもって「許された」と判断しているかに注意しなければならない。謝罪を受け入れたか、誠実だと評価したか、辞任すべきだと考えたか、再び投票したいと回答したか、実際に選挙で得票したかという指標は、互いに関係していても同一ではない。

 例えば、調査で謝罪を受け入れると答えた人が多数いたとしても、その人たちが次の選挙で同じ政治家に投票するとは限らない。また、辞任すべきではないと考える人が多かったとしても、その政治家への信頼が以前の水準まで回復したとは限らない。実験で測定した態度と実際の政治行動の間には隔たりがあり、その違いを無視して研究結果を読み替えることはできないのである。

 民主政治に必要なのは、感情として許せるかどうかだけではなく、その行為の重大性に対してどの程度の責任を負わせるのが妥当なのかを考えることである。謝罪を受け入れることは法的責任の免除を意味せず、政治家を選挙で再び当選させることも、過去の行為について法的な免責を与えるものではない。

謝らない政治家が強く見える理由

 それでも現実の政治では、謝らない政治家が強く見えることがある。批判されても引かず、報道機関と争い、自分は間違っていないと言い続ける姿を「信念がある」「ぶれない」と評価する支持者もいれば、逆に早い段階で謝罪した政治家を「弱い」「世論に迎合した」と見る人もいる。

 政治が政策の違いだけでなく、自分たちと相手側という集団間の対立として認識されると、謝罪が相手側への譲歩や敗北宣言として受け取られる可能性がある。こうした条件では、政治家が正直に問題を認めれば責任を問われる一方、否認し続ければ支持者の一部を維持できるという誘因が生まれ得る。

 近年の米国の研究では、この構造をさらに複雑にする問題として、政治家が不都合な報道を虚偽情報や捏造だと主張する戦略が調べられている。2025年に学術誌へ掲載された研究では、1万5,000人を超える米国の成人を対象とした五つの調査実験を通じ、現実に存在した政治スキャンダルについて政治家がどのような対応を取ると支持が変化するかが分析された。

 その結果、文章によって不祥事が報じられた場合には、政治家が報道を虚偽情報だと主張することによって、謝罪や沈黙などと比較して支持を維持しやすくなる条件が確認された。研究では、情報の真偽について不確実性を生み出す方法と、支持者に対して政治的な対立を強調する方法の双方が検討され、こうした否認が政治的利益を生み出す場合があることが示された。

 しかし、この効果にも限界があった。不祥事の証拠として映像が提示された場合には、文章による報道と比較して虚偽情報だという主張の効果は大幅に弱くなった。つまり、否認し続ければどのような証拠があっても押し切れるというわけではなく、有権者が利用できる証拠の種類や説得力によって結果は変わるのである。

 ただし、この研究も現実の選挙得票率の変化を直接測定したものではない。実在した不祥事を題材としながら、政治家の対応を実験的に設定して評価を調べた研究であり、現職政治家が実際の選挙で同じ戦略を用いた場合に、どの程度の得票上の利益が生まれるかまでは確定できない。

 さらに、短期的に支持を維持できたことと、長期的な政治的信頼を維持できたことも異なる。否認が後に事実と矛盾すると明らかになった場合、どのような影響が生じるかは、報道環境、支持者の反応、新たな証拠などによって変わり得る。短期間の調査実験だけから、政治家の長期的な生存戦略を断定することには慎重でなければならない。

謝罪の効果を一つの数字で表すことはできない

 ここまでの研究を総合すると、政治家の謝罪について、「謝れば支持率が上がる」「謝らなければ支持率が下がる」という単純な法則を設定することは難しい。

 謝罪の政治的効果は、不祥事の種類、問題の重大性、証拠の強さ、政治家への既存の好感度、有権者の政党支持、謝罪の内容、責任の認め方、報道媒体、問題発覚からの時間など、複数の要因によって変化する可能性がある。さらに、それぞれの要因が独立して働くとは限らず、互いに影響し合うことも考えられる。

 統計学では、ある要因の効果が別の要因の水準によって変化することを交互作用という。例えば、同じ謝罪でも、自分が支持する政治家が謝罪した場合と反対側の政治家が謝罪した場合とで評価の変化が異なるなら、謝罪と政党支持の間に交互作用が存在する可能性がある。また、同じ謝罪でも、政策判断の失敗と意図的な不正では受け取られ方が異なるなら、謝罪と問題行為の種類との交互作用を検討できる。

 もっとも、統計モデルの中で交互作用を設定できることと、実際のデータでその交互作用が確認されたことは別である。研究によっては党派性による違いが確認される一方、別の研究では、謝罪と否認の相対的な効果が支持政党の違いによって統計的に明確に変化しない場合もある。したがって、政治家の謝罪には常に党派性との交互作用が存在すると断定することもできない。

 さらに、研究で報告される効果の大きさにも注意が必要である。辞任支持尺度における数点の差、調査回答の確率における数ポイントの差、実際の選挙得票率における数ポイントの差は、それぞれ測定対象が異なる。研究の標本数が大きければ小さな差でも統計的に有意になることがあり、逆に統計的に有意な差が確認されなかったとしても、効果が完全に存在しないと証明されたわけではない。

 また、外国の調査実験で確認された結果が、日本の国政選挙や地方選挙でも同じ大きさで現れるかは別の問題である。選挙制度、政党との結び付き、報道環境、地域社会における人間関係、政治家の知名度などが異なれば、謝罪に対する反応も変わる可能性がある。

 特に地方政治では、首長や地方議員と有権者との距離が比較的近い場合がある一方、地域によって政治的な人間関係や情報環境には大きな違いがある。国政を対象とした研究で得られた結果を、そのまま市町村長や地方議員に当てはめることはできない。日本の地方政治について確かな結論を得るには、実際の謝罪事例や選挙結果を対象とした独自の実証分析が必要になる。

 したがって、現在の研究から科学的に言えるのは、「政治家は謝った方が得である」でも「謝らない方が得である」でもない。より正確には、謝罪の効果はその謝罪が置かれた条件と、何を結果として測定するかによって変わるのである。

政治家の謝罪をどう評価すればよいのか

 では、有権者は政治家の謝罪をどのように評価すればよいのだろうか。研究結果を踏まえるなら、謝罪の言葉だけに注目するのではなく、事実認定、責任の所在、是正措置、政治家への評価を区別することが重要になる。

 まず確認すべきなのは、実際に何が起きたのかという事実関係である。報道された疑惑、本人が認めた行為、調査によって確認された事実、まだ結論が出ていない事項を混同してはならない。疑惑の存在だけで不正を確定させることも、本人が否認しているという理由だけで疑惑が事実ではないと判断することも、適切ではない。

 次に、その政治家がどの範囲の責任を負っているのかを考える必要がある。本人が直接行った不正なのか、部下の行為に対する監督責任なのか、政策判断の失敗なのかによって、求められる説明や責任の内容は異なる。単に頭を下げたかどうかではなく、何を認め、どの事実について説明し、何を否定しているのかを確認することが重要である。

 そして、謝罪の後に何が行われたのかを検証する必要がある。調査への協力、資料の公開、被害の回復、関係者への処分、制度の改善などは、言葉だけでは確認できない責任の履行を判断する材料になる。ただし、再発防止策を発表しただけで十分だと考えるのではなく、その措置が実際に実施され、問題の再発を防ぐ仕組みとして機能しているかまで評価しなければならない。

 さらに、最終的な政治的評価を下す際には、自分自身の立場についても考える必要がある。同じ行為を支持政党の政治家が行った場合と、反対政党の政治家が行った場合とで、自分が求める責任の程度が変わっていないだろうか。好意的な政治家には事情を考慮する一方、嫌いな政治家には同じ事情を認めないという判断になっていないだろうか。

 もちろん、有権者が政治家の政策や能力、政治的立場を総合的に評価すること自体は民主政治の自然な姿である。しかし、不祥事に関する事実認定まで好き嫌いによって変えてしまえば、同じ行為に対して異なる基準を適用することになる。政治家を公正に評価するためには、政治的な支持と、事実や証拠に関する判断をできる限り区別する姿勢が求められる。

謝罪会見で試されているのは、有権者なのかもしれない

 結局、「政治家は謝罪すると本当に許されるのか」という問いに、一つの答えを与えることはできない。謝罪によって誠実性への評価が高まる場合もあれば、責任を認めたことで政治的に不利になる場合もあり、逆に否認によって支持者との結束が維持される条件もある。そして同じ謝罪を聞いても、ある人は「潔い」と評価し、別の人は「今さら遅い」と感じる。

 しかし、ここで区別しておきたいのは、政治家にとって選挙上有利であることと、社会にとって望ましいことが必ずしも一致しないという点である。たとえ否認し続ける方が支持を維持しやすい状況があったとしても、そのことだけで否認が正しい対応になるわけではない。反対に、謝罪という行為が道徳的に望ましいとしても、謝罪だけで十分な責任を果たしたことにはならない。

 政治家の謝罪は、政治家の性格や誠実性だけを映しているのではない。問題行為について何を事実と認めるのか、誰にどの程度の責任を求めるのか、どのような行動があれば信頼を回復できると考えるのかという、有権者自身の判断のあり方も映し出している。

 私たちは、政治家が謝罪したという事実だけで評価を上げていないだろうか。反対に、謝罪したことを不正の確定と受け止めたり、謝罪しないという態度だけで無実を信じたりしていないだろうか。自分が支持する政治家には寛容で、嫌いな政治家には厳しいという判断になっていないだろうか。

 カメラの前で政治家が深く頭を下げたとき、私たちはその角度や時間、表情を見てしまう。しかし、本当に見るべきなのは、政治家が再び頭を上げた後なのだろう。何を説明し、何を認め、何を変えたのか。そして、その後の行動をどのような証拠によって確認できるのか。

 政治家の謝罪を受け入れることと、その政治家の責任を問わないことは違う。謝罪の言葉を評価することと、公職者としての適格性を判断することも違う。民主政治において重要なのは、この違いを理解したうえで、問題の重大性と証拠に応じて一貫した基準を適用することである。

 政治家の謝罪は、政治家自身を映す鏡であると同時に、それを見つめる有権者の判断を映す鏡でもある。だからこそ、問われるべきなのは、謝ったか謝らなかったかという一瞬の態度だけではない。その政治家がどのような責任を負い、何を実行したのかを検証するとともに、私たち自身も、同じ行為に対して同じ基準で判断できているのかを問い続ける必要があるのである。

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