地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 もし現在の国会議員が、海外のカジノで巨額の金を失ったことを報じられ、その金をめぐって実業家との関係まで国会で追及されたなら、その政治生命はどこまで持つだろうか。さらに数年後、国会の重要な委員会を預かる立場にありながら激しい発言で審議を混乱させ、それでもその後の選挙で再び当選したとすれば、私たちはおそらく「なぜこの政治家は許されたのか」と考える。

 浜田幸一という政治家を振り返ると、まさにその疑問が浮かんでくる。後年、「ハマコー」と呼ばれ、テレビ番組で豪快に笑い、政治の裏話を語る姿だけを覚えている人にとって、浜田は少し口の悪い、どこか憎めない元政治家だったかもしれない。しかし、その政治人生をたどれば、単なる「面白い政治家」という言葉では収まらない。自民党内の激しい抗争の中で存在感を示し、ラスベガスでの賭博問題では議員を辞職し、政界復帰後には衆議院予算委員長となりながら、日本共産党の宮本顕治をめぐる発言によって委員会審議を混乱させ、再び職を辞することになった。

 それにもかかわらず、浜田は政治の世界から完全には消えなかった。むしろ、一度退場した後に選挙で復活し、問題発言によって重要な役職を辞した後にも議席を守り、政界引退後にはテレビの世界で「ハマコー」という新しい人物像を確立した。ここにあるのは、「昔は何でも許された」という単純な昭和懐古ではない。浜田本人だけでなく、彼を再び選んだ有権者、完全には排除しなかった政党、そして後年になって彼を娯楽の世界へ迎え入れたメディアまで含めて考えなければ、この政治家の特異な生存力は理解できないのである。

「許された」という言葉から疑ってみる

 最初に確認しておかなければならないのは、浜田幸一が「何をしても責任を取らなかった政治家」ではないという事実である。1980年、ラスベガスでの賭博問題が大きく取り上げられると、浜田は衆議院議員を辞職した。1988年、予算委員長としての発言をめぐって国会が紛糾した際にも、委員長を辞任している。したがって、「昭和の政治家だから不祥事を起こしても何の責任も問われなかった」と説明してしまうと、かえって事実から遠ざかる。

 興味深いのは、その後である。1979年の衆議院選挙で浜田は7万98票を獲得し、得票率16.7%で旧千葉3区の1位だった。ラスベガス問題による議員辞職を経て、1983年に復帰すると8万5327票、得票率18.3%で再び1位となり、1986年にはさらに10万5908票、得票率23.1%まで伸ばしている。スキャンダル以前より復帰後の方が得票数も得票率も増えている以上、「問題を起こした後も支持基盤が崩壊しなかった」という点は印象論ではなく、選挙結果そのものが示している。

 ただし、ここからただちに「有権者が浜田を許した」と結論づけることはできない。選挙結果から分かるのは、何人が浜田に投票したかという集団としての事実であって、一人ひとりが何を考えて投票したかではないからである。ある人は反省したと考えたのかもしれず、別の人は地元への働きを評価したのかもしれないし、単に同じ自民党候補の中で浜田を選んだ可能性もある。集団の数字から個人の心理を直接読み取れば、生態学的誤謬に陥る。

 したがって、この記事でいう「許された」とは、道徳的な免罪を意味するものではない。より正確に言えば、浜田幸一は重大な問題を経験しながらも、政治的支持を完全には失わず、再び公職へ戻ることを有権者から認められた政治家だったのである。

浜田を支えたのは「昭和の寛容さ」だけではない

 浜田の復活を考えるうえで欠かせないのが、当時の選挙制度である。現在の衆議院選挙では小選挙区制が大きな役割を占めるが、浜田が政治家として活動していた時代の中心は中選挙区制で、一つの選挙区から複数の議員が選ばれ、同じ自民党から複数の候補者が立つことも珍しくなかった。

 この制度では、「自民党を支持するかどうか」だけでは選挙は終わらない。同じ自民党候補の中から誰を選ぶのかという競争が起こるため、候補者本人の後援会、人脈、地域との結び付き、知名度、地元への利益還元能力への期待といった、政党とは別の個人的支持基盤が重要になる。浜田幸一が生きたのは、まさにそうした政治環境だった。

 だからこそ、浜田の復活を「有権者が不祥事に甘かった」とだけ解釈するのは弱い。むしろ、問題が起きても崩れないだけの個人的支持基盤があり、その支持基盤を維持できる政治制度が存在し、さらに浜田自身が「この人物なら中央で何かを動かしてくれる」と思わせるタイプの政治家だったという複数の条件が重なったと考える方が合理的である。

 政治家を評価する際、私たちは政策や倫理だけを見ていると思いがちだが、実際の投票行動はそれほど単純ではない。「この人は自分たちの側にいる」「何かあれば動いてくれる」「中央に物を言える」という感覚も一票を生み出す。浜田の選挙結果は、そのような候補者個人への支持が、政治的不祥事を経験してもなお残り得ることを示す一つの事例なのである。

辞めたことと、時間がたったこと

 浜田が復活できた理由として、「問題を起こしたときに一度辞めたからだ」と考えることもできる。確かに、政治における辞職には法律上の責任とは別の意味があり、地位を手放すことによって一つの事件に社会的な区切りを与える作用がある。

 1980年の浜田は議員そのものを辞職したため、1983年の選挙で有権者に問われたのは、「問題を起こした議員をそのまま居座らせるか」ではなく、「一度議席を失った人物をもう一度国会へ送り出すか」という新しい選択だった。この違いは小さくない。

 しかし、辞職だけが復活の原因だったと断定することもできない。ラスベガス問題による辞職から1983年の復帰選挙までは約3年8か月が経過しており、その間に問題そのものが有権者の評価の中で相対的に小さくなった可能性があるからである。政治スキャンダルについては、時間の経過によって選挙への影響が弱くなる傾向が海外の実証研究でも指摘されており、浜田の場合にも、辞職による政治的区切りと時間の経過の双方が作用した可能性を考えるべきだろう。

 つまり、浜田の復活を一つの理由で説明することは難しい。責任を取る行為、時間の経過、強い個人支持、当時の選挙制度、そして本人の政治的な存在感が重なった結果として見る方が、事実には近い。

「やはりハマコーだ」と思わせる人物

 それでも、制度だけでは説明し切れないものが浜田幸一にはあった。彼は最初から清廉潔白な優等生型政治家として自分を売り込んでいた人物ではない。言葉は荒く、行動は派手で、人間関係も政治抗争も泥臭く、その危うさを本人が完全に隠そうとしているようには見えなかった。

 ここには政治心理学的に興味深い問題がある。人間は、人物そのものの欠点だけではなく、自分がそれまで抱いていた人物像との食い違いによって強く反応することがある。清廉さを最大の売りにしてきた政治家に金銭問題が発覚すれば、それは単なる一件の不祥事ではなく、「この人物は自分たちが思っていた人間ではなかった」という期待の崩壊になる。一方、もともと荒っぽく危なっかしい人物として認識されていた政治家の場合、同じ種類の問題が起きても、人物像そのものが完全に反転するとは限らない。

 もちろん、浜田の支持者が実際に「期待を裏切られなかったから投票した」と証明する調査データが存在するわけではない。しかし、政治家の一貫性や真正性、すなわち「この人は良くも悪くも自分を偽っていない」と有権者が感じることが支持に影響するという政治心理学の知見を考えれば、浜田が自分の荒っぽさまで含めて一貫した人物として受け止められていたことが、完全な拒絶を免れた一因だった可能性はある。

 ここが浜田幸一という政治家の少し不気味なところでもある。欠点を隠さないことは、欠点そのものを消すわけではない。それにもかかわらず、人は「最初からこういう人だった」と感じた瞬間、その欠点を人物像の中へ吸収してしまうことがある。

国会議員として危険な性質が、大衆には魅力になった

 1988年、衆議院予算委員長だった浜田は、日本共産党の宮本顕治をめぐる激しい発言を行い、野党の反発を招いた。予算委員会は約1週間にわたって審議が止まり、浜田は最終的に委員長を辞任した。

 予算委員長という役職には、政治的主張以前に議事を公平かつ安定して運営する責任がある。その意味で、浜田の行動が批判を受けたことには十分な理由があり、「率直だったから仕方がない」と美化することはできない。

 ところが、浜田の政治家としての危うさと、大衆に言葉を届ける能力は、実は同じ場所から生まれていた。国会答弁では、制度上の事情もあって「検討する」「適切に対応する」「総合的に判断する」といった慎重な表現が多くなり、それは政治を安定させる一方で、有権者には何を考えているのか分かりにくく映ることがある。浜田はその反対側に立ち、言い過ぎるほど言い、感情を隠さず、相手の名前を挙げ、自分の考えをむき出しにした。

 委員長として見れば危険だが、テレビで見れば分かりやすい。この矛盾こそが、のちに「ハマコー」というキャラクターが成立する土台になったと考えることができる。

1990年の選挙を見ると、「完全に許された」わけではない

 もっとも、浜田への支持が何の影響も受けなかったと考えるのも正しくない。1986年には10万5908票、得票率23.1%で1位だった浜田は、1988年の予算委員長辞任を挟んだ1990年の選挙では8万5120票、得票率16.7%となり、順位も3位に下がっている。

 単純計算では得票数が2万788票、約19.6%減っており、これだけを見るなら「問題発言によって支持を失った」と考えたくなる。しかし、この推論にも注意が必要である。1986年は自民党が全国的に大勝した選挙だったのに対し、1990年には社会党が大きく伸び、旧千葉3区でも社会党候補がトップ当選しているため、浜田個人の問題だけではなく、全国的な政治状況や候補者構成の変化も数字に含まれているからだ。

 したがって、1988年の問題が浜田の得票にどの程度影響したのかを、この数字だけで分離することはできない。ただし、「問題を起こしても全く票を失わなかった」という説明も成立しないことは分かる。

 浜田は何をしても無傷だったわけではない。しかし、傷を負っても議席を失うところまでは崩れなかった。この違いこそ、「なぜ許されたのか」を考えるうえで重要なのである。

テレビは政治家の欠点を別の価値に変えた

 1993年に政界を引退した後、浜田幸一はテレビへ活動の場を移していく。そこで起きたのは、彼自身が突然別人になったことではなく、同じ性格の社会的な意味が変わるという現象だった。

 国会議員が大声で相手を攻撃すれば、権力を持つ人物の粗暴さとして問題になる。しかし、すでに公職を離れた人物がテレビで同じことをすれば、それは「歯に衣着せぬ発言」と呼ばれ、番組の見せ場になる。政治家時代には欠点だった遠慮のなさ、怒りっぽさ、豪快さ、裏話を包み隠さず話す性格が、テレビの世界ではそのまま商品価値へ変換されたのである。

 これを「テレビによって浜田が無害化された」と表現することはできるが、それは厳密な実証結果というより一つの解釈である。より正確には、政治権力を持った人物の粗暴さとして受け止められていたものが、権力を離れた後にはテレビ出演者の個性として消費されるようになった、と考えるべきだろう。

 人は、ときとして人物そのものを許すのではなく、その人物が置かれる場所を変えることで受け入れる。政治家として危険だったものが、芸能的な人物としては面白さになるという変化は、浜田幸一の後半生を象徴している。

「昭和だから許された」では、何も分からない

 浜田幸一を語るとき、「昭和はおおらかな時代だった」という言葉は便利である。しかし、それだけで説明してしまえば、かえって当時の政治を単純化することになる。

 浜田のラスベガス問題は当時も大きく批判され、その結果として本人は議員を辞職している。予算委員長時代の発言も問題となり、その職を失った。当時の社会が政治家に何をしても許していたのであれば、そもそも辞職も辞任も必要なかったはずである。

 違ったのは、「一度問題を起こした人間は二度と政治へ戻ってはならない」という判断が必ずしも共有されていなかったことであり、そこには当時の選挙制度、地域に根差した後援会政治、政治家個人への支持、責任を取った後の再挑戦を認める感覚などが複雑に重なっていた。

 したがって、浜田幸一を「昭和だから存在できた政治家」とだけ呼ぶのでは不十分である。彼は昭和政治の制度と文化の中で強かった政治家であると同時に、人間が政治家を政策と倫理だけでは評価しないという、時代を超えた問題を見せている。

浜田幸一は、本当に許されたのか

 ここで、最初の問いそのものを疑ってみたい。浜田幸一は、本当に「許された政治家」だったのだろうか。

 衆議院議員を通算七期務めたとはいえ、彼は政治家として完全に無傷だったわけではない。議員辞職も経験し、予算委員長も辞任し、選挙では得票を落とした時期もある。閣僚に就くこともなく、最終的には1993年に政界を去った。

 それでも彼は完全には排除されなかった。

 この事実を説明するのに、一つの美しい物語を作る必要はない。中選挙区制の下で個人票が重要だったこと、地元に強い支持基盤が存在したこと、問題後に地位を手放したこと、復帰まで時間があったこと、荒っぽさまで含めて人物像に一貫性があったこと、そして政界引退後にはテレビがその性格を別の価値へ変えたこと、それらが重なったと考える方が自然である。

 だから浜田幸一について「有権者が不祥事を忘れた」と考える必要も、「昔の日本人は政治倫理に鈍感だった」と決めつける必要もない。選挙結果が示しているのは、もっと人間臭い現実である。人は政治家に欠点があると知っていても、それとは別の価値を高く評価すれば票を投じることがある。

最後に残るのは、浜田ではなく有権者の問題である

 浜田幸一という人物を追いかけていくと、やがて「なぜ浜田は許されたのか」という問いが、「私たちは政治家の何を見ているのか」という問いへ変わっていく。

 私たちは政策を比較して政治家を選んでいるつもりでいても、実際にはその人の話し方、表情、親しみやすさ、力強さ、自分たちの側にいるように見えるかどうか、そして期待していた人物像を裏切ったかどうかまで含めて判断している。そこでは政策評価と人物評価を完全に切り離すことは難しく、倫理的な問題があったからといって、その人物が持つ他の政治的価値が自動的にゼロになるわけでもない。

 浜田幸一は、完全に許された政治家だったというより、問題を起こしては代償を払い、それでも支持基盤を失い切らず、政治の舞台を降りた後には別の役割を与えられながら社会の中に残った政治家だった。

 そして、その生き残り方を可能にしたものを浜田本人の特殊な才能だけに求めてしまえば、もっと重要なものを見落とす。

 政治家は、有権者が選ぶから政治家になる。

 浜田幸一という政治家が存在できた背景には、浜田幸一を必要とし、評価し、ときには批判しながらも完全には拒絶しなかった社会があった。だから「なぜ浜田幸一は許されたのか」という問いは、最後には「なぜ私たちは、ある政治家には厳しく、別の政治家には驚くほど寛容になるのか」という問いへ戻ってくる。

 そこまで考えたとき、浜田幸一は単なる昭和の名物政治家ではなくなる。彼は、民主政治が政策や制度だけでは動かず、感情、人物像、地域との関係、記憶、時間、そして人間の好き嫌いによっても動いていることを、きわめて分かりやすい形で残した政治家だったのである。

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