~「オールドメディア」批判を超えて考える新聞の社会的役割
スマートフォンを開けば、世界中で起きている出来事がほとんど瞬時に流れてくる。X(旧Twitter)やFacebook(フェイスブック)、Instagram(インスタグラム)、YouTube(ユーチューブ)などのSNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)では、事件や災害が発生すれば、新聞社やテレビ局が報じるより早く現場の映像が投稿されることも珍しくない。
そのような時代に、「新聞はもう必要ないのではないか」という疑問が生まれるのは当然である。
さらに近年では、新聞やテレビなどの既存報道機関をまとめて「オールドメディア」と呼び、その報道姿勢や情報発信のあり方を批判する言説も広く見られるようになった。
報道が偏っているのではないか。都合の悪い情報を報じていないのではないか。インターネット上ではすでに知られている事実を新聞は後から報じているだけではないか。記者や新聞社の価値観によってニュースが選別されているのではないか。
こうした批判には、検討すべき内容が含まれている。
しかし、新聞に問題があることと、新聞という制度が不要であることは同じではない。
むしろ情報社会の構造を冷静に考えるならば、結論は逆になる。
誰もが自由に情報を発信できる時代になったからこそ、職業として情報を調査し、確認し、編集し、記録し、その内容について責任を負う組織が必要なのである。
新聞がSNSより優れている理由を「情報を早く伝えること」に求めるなら、新聞はすでに敗れている。
しかし、新聞の本来の社会的価値は速報性ではない。
確認すること、調査すること、権力に質問すること、情報を体系的に整理すること、そして社会が共有できる事実を形成すること。
そこにSNS時代の新聞の存在理由がある。
「オールドメディア」という批判は何を意味しているのか
「オールドメディア」という言葉には、単に新聞やテレビが古い媒体であるという意味だけでなく、既存の報道機関に対する不信が込められている場合が多い。
新聞社やテレビ局がニュースの入口を独占していた時代には、市民が大勢に情報を届ける方法は極めて限られていた。
新聞に掲載されない情報、テレビで放送されない情報は、社会全体には広がりにくかった。その意味では、既存メディアは長い間、社会における情報流通の「門番」のような役割を持っていた。
インターネットとSNSは、この構造を大きく変えた。
市民自身が映像を公開できる。専門家が直接説明できる。政治家が記者会見を経由せず自ら発信できる。新聞やテレビが取り上げなかった問題がSNSから社会問題になることもある。
この変化によって、従来の報道機関が持っていた情報流通上の特権性は確実に弱くなった。
これは社会にとって基本的には望ましい変化である。
新聞社もまた、以前のように「新聞に掲載されたものだけが社会的事実になる」という姿勢を取ることはできない。
したがって、「オールドメディア批判」を単なる新聞嫌いとして片づけるべきではない。
報道機関が自らの誤報を十分に検証しているのか。政治的あるいは組織的な思い込みによってニュースの選択が偏っていないか。訂正記事は元の記事と同じ程度に読者へ届いているのか。取材対象と報道機関の距離が近過ぎないか。
これらは新聞が真正面から受け止めるべき問題である。
しかし、ここから「だから新聞は不要だ」という結論を導くことはできない。
なぜなら、既存メディアに対する批判の多くは、新聞の持つ取材・検証・編集という機能そのものが不要だと証明するものではないからである。
むしろ新聞への批判が意味を持つのは、新聞が社会的に重要な機能を担っているからでもある。
「情報が多い社会」と「正しい情報が多い社会」は同じではない
インターネット以前、ニュースを全国へ届けるためには、新聞社や放送局のような大規模な設備と組織が必要だった。
現在では、この条件はほぼ消滅した。
スマートフォンを一台持っていれば、個人でも世界へ情報を発信できる。
これは情報社会における大きな進歩である。
災害現場では住民自身が状況を発信できる。事件現場では目撃者が映像を公開できる。行政や報道機関が把握していない問題を当事者自身が社会へ訴えることもできる。
しかし、情報量が増えることと、社会が正確な情報を得られることは同義ではない。
人間には、意外性の高い情報、感情を刺激する情報、自分の信念と一致する情報、誰かに知らせたくなる情報へ強く反応する性質がある。
SNSでは、この人間の心理と情報拡散の仕組みが結びつく。
怒りを誘う情報、驚きを伴う情報、敵味方を明確に分ける情報は拡散されやすい。
一方で、「まだ確認できていない」「複数の可能性がある」「現時点では結論を出せない」といった慎重な情報は、大きな反応を集めにくい。
SNS上で虚偽情報が真実の情報より速く広く拡散する傾向については、過去の大規模研究でも指摘されている。
重要なのは、「SNSには嘘を書く人がいる」という単純な問題ではない。
人間が共有したくなる情報と、社会にとって正確で重要な情報が必ずしも一致しないという構造的問題が存在する。
ここに専門的な情報検証機関が必要になる理由がある。
新聞は「情報発信装置」ではなく「情報検証装置」である
新聞も誤報する。
新聞記者にも思想や価値観がある。新聞社ごとに政治的・社会的な論調の違いも存在する。
したがって、「新聞に書いてあるから正しい」という考え方は適切ではない。
新聞を必要と考えることと、新聞を無条件に信用することは全く別の問題である。
それでも、個人によるSNS投稿と新聞報道との間には重要な制度上の違いがある。
一般的な新聞社には取材を担当する記者が存在し、その記事を確認するデスクや編集部門が存在する。
取材源を確認し、複数の関係者から話を聞き、資料と証言を照合し、記事として掲載できるのかを判断する。
掲載後に重大な誤りが判明すれば、新聞社という法人が社会的責任を問われる。
この仕組みが常に完全に機能するわけではない。
しかし重要なのは、
誰が取材したのか。 誰が確認したのか。 誰が掲載を決めたのか。 誤りがあった場合に誰が責任を負うのか。
という責任の連鎖が制度として存在していることである。
SNSでは、一人の投稿者が取材者、編集者、発行者のすべてを兼ねることができる。
これは自由という点では大きな長所である。
一方で、投稿前に第三者が確認する制度は基本的には存在しない。
したがって新聞とSNSの本質的な違いは、紙かインターネットかという媒体の違いではない。
情報を社会に公開する前後に、検証と責任の仕組みが存在するかどうかである。
新聞社が将来、紙の新聞を発行しなくなり、すべて電子版になったとしても、取材、検証、編集、責任という機能が残っていれば、新聞ジャーナリズムの本質は残る。
逆に紙に印刷されていても、取材も検証も行われていなければ、新聞としての公共的機能は弱い。
新聞の最大の役割は「まだニュースになっていないこと」を見つけることである
SNSは、すでに誰かが知っている出来事を急速に広げることに非常に優れている。
火災が発生した。地震が起きた。著名人が発言した。政治家が問題発言をした。
このような「起きたことが分かりやすいニュース」はSNSとの相性が良い。
しかし、社会にとって本当に重要な問題の多くは、最初から分かりやすい事件として表面化するわけではない。
自治体の予算に不自然な支出がある。
公共事業の契約が特定の業者へ偏っている。
病院で同じ種類の事故が繰り返されている。
企業が発表している説明と内部の状況が一致していない。
行政が公表している統計数字に矛盾がある。
こうした問題は、誰かが資料を読み、過去の数字と比較し、関係者へ取材し、行政に質問し、必要なら情報公開制度を利用して資料を入手しなければ、そもそもニュースとして存在しない。
ここに新聞記者の重要な役割がある。
SNSは、発見された情報を広めることには強い。
新聞を中心とする職業ジャーナリズムは、まだ発見されていない社会問題を見つけることができる。
両者は同じ仕事をしているわけではない。
「新聞は後追いばかり」という批判をどう考えるか
オールドメディア批判では、「ネットでは昨日から話題になっていたことを、新聞は今日になって報じている」という指摘も多い。
速報性だけで比較すれば、この批判は正しい場合がある。
新聞がSNSより早く情報を伝えることは構造上困難である。
しかし、ここで考える必要があるのは、情報報道の評価基準を「誰が最初に投稿したか」だけにしてよいのかという問題である。
例えば、大規模な事故が起きた直後には、SNS上にさまざまな情報が流れる。
死傷者数、事故原因、関係者の名前、映像、原因企業についての情報。
事故直後には、それらの情報のどれが正しいのか分からない。
報道機関が確認に時間をかければ、SNSより遅くなる。
しかし、その遅さがすべて欠点とは限らない。
確認してから報じるために遅くなるのであれば、その時間差そのものが情報品質のための費用なのである。
もちろん、単に対応が遅いだけの場合もある。
したがって「遅いから新聞は駄目」でも、「遅いから新聞は慎重で正しい」でもない。
重要なのは、なぜ遅れたのか、その間にどのような確認を行ったのかである。
新聞の本質は権力監視にある
新聞の存在理由として最も重要なのが、行政、政治、企業などに対する監視機能である。
ジャーナリズムでは、これをウォッチドッグ(Watchdog・権力監視)機能と呼ぶ。
民主主義では、政府や自治体は選挙によって選ばれる。
しかし選挙だけでは権力を十分に監視できない。
自治体では毎日のように契約が行われ、予算が執行され、条例が作られ、許認可が行われる。
住民一人一人がこれをすべて監視することは不可能である。
そこで記者が議会へ行く。
予算書を読む。
行政へ質問する。
企業へ取材する。
現場へ行く。
内部告発者から情報を得る。
必要なら何か月、何年も調査する。
この仕事はSNSへの投稿だけでは容易に代替できない。
なぜなら継続的な取材には人件費が必要だからである。
一人の記者が数週間かけて調べても、結果として大きな不正が見つからないこともある。
それでも調査を続けられるのは、報道を職業として支える組織が存在するからである。
新聞がなくなると社会に実際の費用が発生する可能性がある
新聞の必要性は、「民主主義には新聞が必要だ」という理念だけで論じられているわけではない。
米国では、地方新聞が廃刊した地域と自治体の資金調達との関係を調べた実証研究がある。
地方新聞がなくなった地域では、地方自治体の借入コストが上昇する傾向が確認された。
これは重要な結果である。
なぜ新聞がなくなると自治体の資金調達にまで影響する可能性があるのか。
考えられる仕組みの一つが「情報の非対称性」である。
行政内部の人間は自治体の財政状況や行政運営について多くの情報を持っている。
一般住民や外部の投資家は、それほど多くの情報を持っていない。
新聞記者が自治体を継続的に取材していれば、その情報格差の一部を埋めることができる。
新聞がなくなれば、行政を外部から監視する主体の一つが失われる。
結果として行政について判断するための情報が減り、不確実性が高まる可能性がある。
つまり新聞は、単なるニュース商品ではなく、
社会に存在する情報格差を小さくする制度
として考えることができるのである。
地方ほど新聞が必要になる
新聞の必要性が最も明確になる場所の一つが地方社会である。
国会や中央省庁には多数の報道機関が取材に入る。
しかし人口数万人の町の議会を、全国紙やテレビ局が毎回取材することは現実的ではない。
町長がどのような政策を提案したのか。
学校が統廃合されるのか。
地域病院の診療科が縮小されるのか。
公共施設が廃止されるのか。
上下水道料金が上がるのか。
道路整備にいくら使われるのか。
観光施設へどれほど公費を投入するのか。
こうした問題は全国ニュースにはなりにくい。
しかし住民の日常生活には極めて重要である。
これを継続して追う役割を担うのが地方紙や地域報道機関である。
地方紙がなくなるということは、単に紙の商品が一つなくなるという意味ではない。
その自治体を毎日取材する職業人が一人減る可能性があるということである。
町議会を毎回見る人がいなくなる。
決算資料を毎年読む人がいなくなる。
町長へ継続的に質問する人がいなくなる。
警察、消防、病院、学校を日常的に取材する人がいなくなる。
ここで行政自身がSNSで発信すればよいという反論が考えられる。
しかし行政広報と新聞報道は根本的に役割が違う。
行政は、自らの政策や活動を説明する当事者である。
新聞は、本来、その説明が妥当なのかを外部から検証する側である。
発表する人と、それを検証する人を同一にしてしまえば、監視機能は成立しない。
新聞は社会に「共通の議題」を作る
新聞には、もう一つ重要な役割がある。
社会が何を問題として考えるのかという「共通の議題」を形成する機能である。
マスメディア研究では、これをアジェンダ・セッティング(Agenda Setting・議題設定)という概念で説明する。
もちろん新聞が人々の考え方を自由に決定できるわけではない。
しかし社会には、毎日無数の出来事が起きている。
その中から、人口減少、医療、教育、外交、福祉、経済、災害などを継続的に取り上げることで、「この問題は社会全体で考える必要がある」という共通認識の形成に影響する。
SNSでは、この共通空間が細分化されやすい。
投資に興味がある人には投資情報が流れる。
政治に興味がある人には政治情報が流れる。
スポーツに興味がある人にはスポーツ情報が流れる。
これは個人にとって非常に便利である。
しかし、自分が関心を持っていない重要問題を知る機会は減る可能性がある。
新聞を紙面全体から読むと、自分が検索しなかった情報も目に入る。
国際情勢、政治、地方行政、経済、医療、教育、科学、文化、訃報まで、関心の異なる情報が同じ紙面上に存在する。
これは情報取得の効率だけを考えれば無駄に見える。
しかし民主主義社会では重要である。
社会は、自分が興味を持っている問題だけで構成されているわけではないからである。
「偏向報道」という批判から新聞は逃げてはいけない
一方で、新聞の必要性を強く主張するなら、既存メディアに向けられている「偏向報道」という批判についても正面から考えなければならない。
すべての新聞記事が完全に価値中立になることは難しい。
どのニュースを一面に掲載するか。
誰に取材するか。
どの数字を示すか。
見出しをどう付けるか。
どの事件を継続的に報じるか。
これらの判断には編集上の選択が存在する。
問題は、選択が存在すること自体ではない。
その選択が読者から検証可能であるかどうかである。
新聞が信頼を維持するためには、事実報道と論評を可能な限り区別しなければならない。
誤りがあれば明確に訂正する必要がある。
自社に不利な事実であっても報道する姿勢が必要である。
異なる立場の意見を意図的に排除してはならない。
そして、自分たち自身も権力を持つ組織になり得るという自覚が必要である。
新聞が「われわれは正しい。SNSは間違っている」という姿勢を取れば、オールドメディア批判はさらに強まるだろう。
新聞に必要なのは権威ではなく、検証可能性と説明責任である。
記者クラブ、横並び報道、誤報という問題
日本の新聞報道には以前からさまざまな批判が存在する。
記者クラブを通じて情報源との距離が近くなり過ぎるのではないか。
複数社が同じ発表を同じ角度から報じる横並び報道になっていないか。
政治家や行政機関の説明を十分に検証せず報じることはないか。
一度大きく報じた誤報について、訂正が小さく掲載されるだけになっていないか。
これらは軽視できない問題である。
むしろ新聞の社会的重要性を認めるからこそ、厳しく検証すべきである。
しかし、ここでも論理を分けなければならない。
制度に問題があるなら制度を改善すべきなのであって、取材そのものをなくすことが解決策になるわけではない。
病院で医療事故が起きたから医療制度そのものを不要とは考えない。
裁判に問題があるから司法制度をなくそうとも考えない。
同じように、新聞に誤報や偏りが存在することは、新聞ジャーナリズムを改善すべき理由にはなっても、取材・検証・権力監視という機能を社会からなくしてよい理由にはならない。
SNSもまた完全に中立ではない
オールドメディアへの批判では、新聞やテレビには編集者が存在する一方、SNSでは市民が自由に情報を選べるという対比が行われることがある。
しかし現実はそれほど単純ではない。
SNS上で利用者が目にする情報も、すべてを無作為に見ているわけではない。
利用者の過去の行動や関心などを基に、各サービスのアルゴリズム(Algorithm・一定の処理を行う手順や規則)が表示する情報を選択している。
したがって新聞には編集者による情報選択が存在し、SNSには別の形の情報選択が存在する。
問題は「新聞は選別するがSNSは選別しない」ということではない。
誰が、どのような基準で、自分が見る情報を選んでいるのかが分かることが重要なのである。
新聞であれば少なくとも紙面を見れば、編集部が何を重要と判断したのかが分かる。
SNSの情報選択では、その仕組みの全体を一般利用者が把握することは容易ではない。
したがって、オールドメディアを批判的に見るのであれば、同時にデジタルメディアの情報選択の仕組みも批判的に見る必要がある。
SNSは新聞の代替ではなく、補完関係にある
SNSには新聞にはない重要な機能がある。
当事者が直接発信できる。
災害情報を迅速に共有できる。
専門家が直接解説できる。
少数者が自分たちの立場から社会に訴えることができる。
新聞社が見落とした問題を市民自身が発見することもある。
したがってSNSを否定して、新聞中心の社会へ戻ればよいという議論にはならない。
新聞とSNSは本来、得意分野が違う。
SNSは情報の流通に極めて強い。
新聞などの職業ジャーナリズムは、情報の調査・検証・編集に強い。
この二つを組み合わせる方が合理的である。
市民がSNSで問題を発見する。
新聞記者が取材する。
新聞報道を専門家や市民がSNS上で検証する。
新しい情報が出れば報道機関が再取材する。
この循環が機能すれば、かつての一方向型マスメディアよりも健全な情報環境を形成できる可能性がある。
問題は「新聞かSNSか」という二者択一ではない。
どのように相互監視させるかという制度設計の問題なのである。
新聞がなくなった社会で、誰が市役所に質問し続けるのか
新聞が必要なのかを考えるとき、最も分かりやすい問いがある。
市役所の説明がおかしいとき、誰が質問するのか。
公開された決算書の数字に不自然な点があるとき、誰が過去10年分を比較するのか。
議会で住民生活に大きな影響を与える条例が審議されているとき、誰が継続して傍聴するのか。
企業の説明と住民の証言が食い違ったとき、誰が双方を取材するのか。
一度質問して回答を拒否された後も、翌週、翌月と質問し続けるのは誰なのか。
市民がSNSで行うこともできる。
実際に優れた市民ジャーナリズムは存在する。
しかし、それを全国すべての自治体で恒常的に無償の市民活動へ依存することは現実的ではない。
取材には時間がかかる。
資料を読む必要がある。
法制度を理解する必要がある。
現場へ行く交通費も必要になる。
場合によっては取材拒否や法的圧力を受けることもある。
それでも仕事として継続するためには、報酬を受け取る専門職としての記者と、それを支える組織が必要になる。
新聞購読料や電子版の利用料を単なる「ニュースを読む料金」と考えると、新聞の価値は分かりにくい。
社会全体から見れば、それは部分的には、
行政や企業などを継続的に監視する専門職を維持する費用
でもある。
「紙の新聞」を守ることと「新聞」を守ることは違う
ここまでの議論から、もう一つ重要な点が見えてくる。
必要なのは必ずしも紙ではない。
人口構造や生活様式が変化すれば、紙の新聞の発行部数は今後も減少する可能性が高い。
若い世代がスマートフォンで記事を読むのであれば、新聞社も電子版を中心に事業構造を変える必要がある。
新聞販売店の仕組みも変わるだろう。
朝刊と夕刊という形態も永続するとは限らない。
しかし、それと新聞ジャーナリズムの必要性は別問題である。
守るべきなのは紙ではない。
取材する人間がいること。 情報を検証する仕組みがあること。 編集責任者が存在すること。 権力者に質問できること。 誤りがあれば訂正する制度があること。 長期間にわたり社会を記録すること。
これらを経済的に維持できる仕組みである。
「新聞は必要だ」という主張を「毎朝紙の新聞を配達し続けなければならない」という議論にしてしまえば、本質を見失う。
新聞という制度は、媒体を変えてでも維持する価値がある。
「オールドメディアだから不要」では議論が止まってしまう
社会制度は、新しいか古いかだけで価値を判断することはできない。
議会制度も古い。
裁判制度も古い。
大学も図書館も古い。
しかし古いという理由だけで不要になるわけではない。
重要なのは、その制度が現在の社会においてどのような機能を果たしているかである。
同じことが新聞にも当てはまる。
新聞が古い媒体であることは事実である。
しかし、
古い媒体であることと、古い機能しか持っていないことは同じではない。
むしろSNS時代になったことで、新聞が担うべき役割は以前より明確になったともいえる。
速報競争ではSNSに勝つ必要はない。
新聞が競争すべきなのは、速さではなく、
正確性、調査能力、説明能力、検証可能性、権力監視、地域社会への継続的な取材
である。
ここに経営資源を集中する方が、新聞の存在理由として合理的である。
新聞は「真実を決める機関」ではない
最後に、新聞を必要と考えるうえで最も注意しなければならないことがある。
新聞は社会にとって重要だからといって、「新聞が真実を決定する」という考え方になってはいけない。
新聞も検証される側である。
新聞記事を他紙の記事と比較する。
行政の一次資料を見る。
統計資料を確認する。
専門家の論文を読む。
SNS上の当事者証言と照合する。
これが現在の情報社会にふさわしい読み方である。
理想的なのは新聞を信じる社会でも、SNSを信じる社会でもない。
複数の情報源が相互に監視し、市民自身も検証できる社会である。
その中に職業ジャーナリズムが存在することが重要なのである。
SNS時代だからこそ新聞は必要である
20世紀の新聞は、社会へニュースを届けるために不可欠な媒体だった。
21世紀には、その独占的な役割は終わった。
速報だけならSNSの方が速い。
映像なら動画サービスの方が分かりやすい。
当事者発信ならSNSの方が直接的である。
この変化を新聞は受け入れなければならない。
そして「オールドメディア」と批判される理由が存在するなら、既存報道機関は自らを改革しなければならない。
誤報を減らす。
訂正を明確にする。
事実と論評を可能な限り分離する。
情報源への過度な依存を避ける。
異なる意見を検討する。
報道の判断過程について説明責任を果たす。
新聞がこれを怠れば、読者の信頼を失うのは当然である。
しかし、それでも新聞ジャーナリズムそのものをなくしてよいという結論にはならない。
社会には、
何が起きたのかを調べる人が必要である。
本当に起きたのかを確認する人が必要である。
政府に質問する人が必要である。
自治体の決算書を読む人が必要である。
企業の説明を検証する人が必要である。
議会を継続的に見る人が必要である。
社会にとって重要だが注目されにくい問題を取材する人が必要である。
そして、それらを後世に残す人が必要である。
これらの仕事は、「いいね」の数だけでは十分に供給されない。
新聞は古いから必要なのではない。
新聞社が偉いから必要なのでもない。
権力を持つ側とは独立した人間が、費用と時間をかけて継続的に事実を調査する制度が、民主主義社会には必要だから新聞が必要なのである。
SNSによって、私たちは「誰でも情報を発信できる社会」を手に入れた。
それは大きな進歩だった。
しかし次に問われるのは、
誰でも発信できる社会で、誰が事実を確認するのか。
という問題である。
SNSと新聞は、敵対する存在である必要はない。
市民がSNSで発信し、新聞が調査する。
新聞が報じ、市民がSNSで批判する。
その批判を新聞が検証し、必要なら訂正する。
この相互監視こそが、現代の情報社会に必要な構造ではないだろうか。
したがって、「オールドメディア」という批判に対する答えは、新聞を無条件に擁護することではない。
新聞自身が変わることである。
しかし同時に、社会も理解しておかなければならない。
新聞社が消えれば、紙が一つ消えるだけではない。
地域を取材する記者が消える。
議会を傍聴する人が消える。
行政へ質問する人が消える。
長期間にわたって社会を記録する人が消える。
その空白をSNSが自動的に埋めてくれる保証はない。
情報が少なかった時代には、新聞は情報を届けるために必要だった。
情報があふれる時代には、新聞は情報を調べ、確かめ、問い直すために必要になる。
そして「オールドメディア」という批判が広がる現在だからこそ、新聞には、かつての権威に依存するのではなく、取材と検証によって自らの存在価値を証明することが求められている。
SNS時代に必要なのは、新聞の消滅ではない。新聞の再定義である。
紙を守るのではなく、ジャーナリズムを守る。
権威を守るのではなく、検証する仕組みを守る。
新聞社を無批判に信頼するのではなく、新聞社を批判できる社会の中で、それでも専門的な取材機能を維持する。
それこそが、情報が無限に流通する時代に新聞を必要とする最も合理的な理由である。

