地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 2008年9月1日の夜、福田康夫は首相官邸で記者会見を開き、総理大臣を辞任すると表明した。前年9月に就任してから、まだ1年にも満たず、しかもわずか1か月前には内閣改造を行ったばかりだったため、その辞任は国民には唐突に映った。会見の最後に記者から「他人事のように聞こえる」と問われた福田が、「私は自分自身を客観的に見ることはできるんです。あなたとは違うんです」と応じた場面は、その後長く繰り返し紹介され、福田政権そのものを象徴する言葉のようになった。

 しかし、あの一言だけから福田康夫という政治家を見ようとすると、奇妙なことが残る。総理大臣としては、政局を突破できずに短期間で退陣した人物が、その後は中国をはじめアジア諸国の指導者と接触し、日本政府の正式な外交とは少し違う場所で対話の糸をつなぐ役割を長く果たしたからである。総理大臣という最大の権力を持っていた時には行き詰まり、権力を失った後には別のかたちで存在感を示した。この逆説を考えると、福田の辞任は単なる「政権の投げ出し」で終わる話ではなくなる。

最初から自由に動けない総理だった

 福田康夫が総理大臣になったのは2007年9月だったが、その時点ですでに政権運営の条件は厳しかった。同年7月の参議院選挙で自由民主党と公明党は過半数を失い、民主党が参議院第1党となっていたからである。衆議院では与党が多数を確保している一方で、参議院では野党側が多数を占める、いわゆる「ねじれ国会」が成立していた。

 もっとも、参議院で野党が多数だからといって、福田政権が法律をまったく成立させられなかったわけではない。当時の与党は衆議院で3分の2以上の議席を持っていたため、参議院で否決された法律案を衆議院で再可決することが制度上は可能だった。実際、ガソリン税の暫定税率をめぐって、その手法は使われている。しかし、法律を成立させることが可能であることと、安定した政治運営が可能であることは同じではない。参議院での審議が停滞し、最後には衆議院の3分の2で押し戻すという政治が続けば、時間もかかり、野党との対立も深まり、世論から「強引な国会運営」と批判される危険も高まる。

 しかも福田が引き継いだのは、政策を自由に構想できる白紙の政権ではなかった。年金記録問題、薬害C型肝炎問題、防衛省をめぐる不祥事、政治とカネの問題など、それ以前から積み残されてきた課題が次々と政権の前に現れていた。後期高齢者医療制度をめぐる批判も強まり、2008年6月には参議院で福田首相に対する問責決議まで可決される。世論調査でも内閣支持率は低迷し、政権が政策の内容を説明する以前に、「福田政権そのものを続けるべきなのか」が政治問題になりつつあった。

福田の政治は、ねじれ国会と相性が悪かった

 福田康夫は、群衆を熱狂させ、強い言葉によって反対勢力を押し切る政治家ではなかった。森喜朗、小泉純一郎両政権で長く内閣官房長官を務めた経歴にも表れているように、異なる立場の間で調整し、対立を必要以上に激しくしないことを重視する政治家として理解されることが多い。

 もちろん、それを福田の生まれつきの性格だけで説明することはできない。政治家の行動は本人の資質だけではなく、議会制度、党内事情、選挙、世論、相手となる野党の戦略などによって決まるからである。それでも、福田政権の行動を見ると、対立を一方的に押し切るより、相手との合意によって政治を前へ進めようとした形跡は確かに見える。

 その象徴が、2007年秋に浮上した自民党と民主党の大連立構想だった。福田と民主党代表の小沢一郎が党首会談を行い、衆議院と参議院で多数派が異なる政治状況を、与野党の協力によって乗り越えようとしたのである。構想は民主党内の反発によって実現しなかったが、ここには福田政治の特徴がよく表れている。相手を倒して前へ進むより、相手との間に妥協できる場所をつくり、そこから前へ進もうとする政治である。

 ところが、当時の民主党にとって次の衆議院選挙で政権交代を実現することは、すでに現実的な政治目標になっていた。だからといって民主党の反対をすべて政権奪取のためだったと説明することはできず、後期高齢者医療制度や年金、ガソリン税などをめぐる実質的な政策対立も存在したが、福田政権に協力して実績を積ませることが、野党の選挙戦略と必ずしも一致しなかったことも確かだろう。合意を前提にした政治家が、政権交代を争う二大勢力の正面衝突の中へ入れば、調整能力だけでは解けない問題が生まれる。

「何もしなかった首相」ではないが、「物語を作れなかった首相」だった

 福田政権は、後世から見ると印象が薄い。しかし実際には、道路特定財源の一般財源化、消費者行政を一元化する消費者庁構想、社会保障制度をめぐる議論など、後の政策につながる方向を示している。福田自身も辞任会見で、これらを自らの政権が進めてきた課題として挙げていた。

 ただし、それらをすべて福田個人の「大きな実績」と評価するのも慎重であるべきだろう。政策は一つの政権だけで完成するとは限らず、前政権から引き継いだ議論を整理する場合もあれば、ある政権が構想し、次の政権が法律を成立させ、その後の政権が制度として定着させる場合もある。福田は、目立つ成果を自分の名前と結びつける政治より、制度の方向を整える仕事を好んだように見えるが、それはテレビや世論調査を通じて指導者の「分かりやすさ」が求められる時代には不利だった。

 小泉純一郎には「郵政民営化」があり、安倍晋三には後に「アベノミクス」が生まれた。しかし福田政権には、国民が一言で記憶できる政治的な物語がほとんど残らなかった。政策がなかったのではなく、政策を自分の政治的物語として演出する力、あるいは演出しようとする意欲が弱かったのである。

では、なぜ辞めたのか

 2008年9月の辞任を一つの原因だけで説明することはできない。ねじれ国会があり、内閣支持率の低迷があり、参議院での問責決議があり、与野党対立があり、次の衆議院選挙を意識する自民党内の事情もあった。8月には内閣改造を行ったものの、政権を劇的に立て直すほどの効果は生まれなかった。

 そのなかで福田自身が示した判断は興味深い。秋の国会には補正予算や消費者行政など重要案件が控えている以上、自分がそのまま首相を続けて対立を抱えた状態で国会を始めるより、新しい首相に交代した方が政策を進めやすいというのである。本人の辞任会見は重要な一次資料だが、それだけを辞任の「真相」とみなすことはできない。それでも少なくとも、福田が自分自身を政権運営上の一つの変数として見ていたことは確かである。

 普通、政治家は自らを政策実現の主体として考える。しかし福田は、自分自身が政策実現を妨げる要因になったなら、主体そのものを交換すればよいと考えたように見える。これは責任ある判断だったとも、総理大臣として踏ん張る責任を放棄したとも評価できる。後世から一方だけに決める必要はない。ただ、少なくとも「嫌になったから突然辞めた」という説明だけでは、この判断の構造を十分には捉えられない。

 そして「あなたとは違うんです」という言葉も、この文脈に置くと別の色を帯びる。言い方としては感情的であり、首相の言葉として洗練されたものでもなかったが、福田が言おうとしたのは、自分自身を政権の外側から見ることができるということだった。権力の中心にいながら、自分自身まで政治状況を構成する一要素として眺める。その考え方は、総理大臣としては珍しく、同時に危ういものでもあった。

権力を失ってから、福田の政治は別の場所で生き始めた

 福田は首相を退任した後も国会議員を続け、2012年に政界を引退した。しかし、政治的活動そのものをやめたわけではなかった。むしろこの頃から、首相時代とは違う形で外交の世界に居場所をつくっていく。

 2010年から2018年まで、福田はボアオ・アジア・フォーラムの理事長を務めた。中国海南省で開催されるこの国際会議には、アジア各国の政治家、経済人、研究者が集まり、福田はそこで長期間にわたって人的関係を築いた。中国との関係だけでなく、日本インドネシア協会会長として東南アジアとの交流にも関わり続けている。

 ここで重要なのは、福田の退任後外交を本人の性格だけで説明しないことである。対話を重視する姿勢が外交に適していたことは確かだとしても、彼が一定の役割を果たすことができた背景には、「元総理大臣」という肩書、首相時代から築いてきたアジア各国の指導者との人的関係、ボアオ・アジア・フォーラムでの地位、そして現職政治家ではないという自由さがあった。

 現職の総理大臣や外務大臣が外国の指導者と会えば、その言葉は日本政府の公式見解として受け止められる。ところが元首相には、正式な交渉権限がない代わりに、政府が正面から動きにくい時でも相手と会える余地がある。何かを約束することはできないが、相手の考えを聞き、日本側の考えを伝え、完全に切れそうになった関係に細い糸を残すことはできる。

 福田自身は、こうした役割を野球の「球拾い」のようなものだと表現したことがある。自分が試合の主役になるのではなく、外へ飛んでいった球を拾い、もう一度試合ができる場所へ戻す。政治家として華やかな比喩ではない。しかし、福田康夫という人物には不思議によく似合っている。

2014年、日中関係が冷え込んだ時に現れた「非公式の通路」

 福田の長老外交が最も注目されたのは、2014年の日中関係だった。尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相の靖国神社参拝などを背景に、日本と中国の政治関係は深く冷え込み、首脳会談さえ開けない状態が続いていた。

 そのなかで福田は北京を訪れ、習近平国家主席と会談した。日中双方が関係悪化に危機感を持っていることが確認され、その後、11月には北京で安倍晋三首相と習近平国家主席による首脳会談が実現する。

 もっとも、この首脳会談を「福田が実現させた」と説明するのは正確ではない。水面下では谷内正太郎国家安全保障局長をはじめ、外務省、中国政府、政党関係者、経済界など複数の経路が動いており、日中双方にも関係悪化をこれ以上続けることへの経済的・外交的な懸念が存在していた。福田の接触は、そうした複数の対話ルートの一つであり、そのなかでも元首相という立場を利用した比較的重要な経路だったと考えるのが妥当だろう。

 ここに長老外交の本質がある。正式な外交交渉を代替することはできないが、正式な外交が始まる前の空間をつくることはできる。扉そのものを開ける権限はなくても、扉の向こう側にまだ話のできる相手がいることを確かめることはできるのである。

福田の日中重視は、退任後に突然始まったものではない

 福田が中国との関係を重視したのは、総理大臣を辞めてからではない。2007年12月、中国を訪問した福田は北京大学で講演し、「日中関係にとって、平和友好以外の選択肢はあり得ない」と語っている。翌2008年5月には胡錦濤国家主席を国賓として日本に迎え、日中両国は「戦略的互恵関係」を包括的に推進する共同声明を発表した。

 この考え方には、父・福田赳夫の外交を連想させる部分もある。福田赳夫は1978年の日中平和友好条約締結時の首相であり、東南アジア外交では、軍事大国にならず相互信頼を重視する「福田ドクトリン」で知られる。康夫自身も北京大学で父の日中外交について語っているため、父子の外交観に一定の連続性を見ることはできるだろう。

 ただし、父親がそう考えたから息子も同じ外交観を受け継いだ、と単純に結論づけることはできない。政治思想は家族関係だけで形成されるものではなく、本人自身の経験や時代状況によっても変わる。それでも、国家間の関係は一度の会談や一人の首相で完成するものではなく、何十年という時間をかけて維持するものだという感覚が、福田康夫の外交姿勢に強く表れていたことは確かだろう。

総理時代には弱点だったものが、外交では違う価値を持った

 ここまで見てくると、福田康夫の総理辞任と長老外交には一定の連続性が見えてくる。ただし、それを「福田は調整型の性格だったから、内政では失敗し、外交では成功した」という一つの物語だけに閉じ込めるべきではない。政治家の成功や失敗は、性格だけでなく、制度と環境によって大きく変わる。

 総理大臣には、最後には決断しなければならない場面がある。国会で多数派を形成し、反対を押し切ってでも予算や法律を成立させる必要がある。その役割では、福田の慎重さや対話志向は、ときに指導力不足として映った。しかし元首相の外交には、決定権がないからこそできる仕事がある。結論を急がず、相手を屈服させず、意見の違いが残っていても次の会談への道だけは閉ざさない。その役割では、総理時代に弱点と見られた政治姿勢が、別の価値を持つことになる。

 さらに福田の場合には、元首相という肩書、長年築いてきた中国や東南アジアとの人的関係、国際会議での活動、現職政府から一定の距離を持つ立場が重なった。つまり、福田が長老外交で存在感を示したのは、性格が外交向きだったからだけではなく、その性格と経歴と立場が、退任後の国際環境のなかでうまく組み合わさったからだった。

「あなたとは違うんです」の後に続いていた政治

 福田康夫の総理大臣在任期間は365日だった。それだけを見れば、日本政治に数多く存在する短命政権の一つにすぎない。しかし、総理大臣を辞めた後に外交へ関わった期間は、その何倍にもなる。2020年代に入っても中国側要人との会談を続け、日本インドネシア協会を通じた交流にも関与している。

 考えてみれば、福田康夫という政治家には、最初から主役らしくないところがあった。総理大臣になっても大きな言葉で時代を名付けず、退任した後も自分の外交を歴史的業績として語ろうとはしない。その代わり、関係が壊れそうになった時に相手と会い、話し合いの場所がなくなりそうになれば細い通路を残す。その仕事は、選挙で票になるわけでもなく、大きな政策名として教科書に残るわけでもない。

 2008年9月、福田は自分自身を客観的に見ることができると言って官邸を去った。当時、その言葉は総理大臣を途中で辞める人物の捨てぜりふとして受け取られた。しかし、その後の歩みまで含めて見ると、もう一つの読み方ができる。

 自分が権力の中心にいることと、自分が政治に役立つことは同じではない。総理大臣でいることが政治を動かすなら総理大臣でいればよいが、自分が退くことで政治が動くなら退く。そして権力を失った後には、権力を持たない者だからこそできる仕事を探す。福田の辞任を正しかったと評価する必要はないし、長老外交を過度に美化する必要もない。それでも、彼の政治人生には、「自分が主役であること」より「関係や仕組みを次へ渡すこと」を重視する一つの一貫性があったように見える。

 福田康夫は、総理大臣として大きな物語を残した政治家ではなかった。しかし政治には、物語を作る人だけでなく、物語が途切れないように次のページへつなぐ人もいる。総理大臣としては、その静かな政治手法が時代に合わなかった。そして総理大臣を辞めた後、その同じ静けさが、外交という別の場所で初めて居場所を見つけたのかもしれない。

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 選挙の季節になると、どこかで聞き覚えのある名字を目にする。父が国会議員だった人、その父も政治家だった人、祖父が大臣を務めた人。政治家の家に生まれた子どもが政治家になり、やがてその子どもも選挙に出る。その光景を前にすれば、「これでは民主主義ではなく、現代の世襲制ではないか」と感じる人がいても不思議ではない。王や大名の時代は終わったはずなのに、政治の世界だけは名字と地盤が受け継がれているように見えるからである。

 しかし、この問題は「世襲政治家が多いから民主主義は壊れている」と簡単に結論づけられるほど単純ではない。少なくとも代表民主制の基本原則から考えれば、政治家の子どもが政治家になること自体が民主主義に反しているわけではなく、政治家の家に生まれた人にも、そうでない人と同じように政治に参加し、立候補する自由がある。有権者が自由な選挙を通じてその人物を選んだのであれば、その結果だけを見て「非民主的だ」と断定することはできない。

 むしろ、政治家の子どもであるという理由だけで立候補を禁止すれば、別の問題が生まれる。日本国憲法第44条は、国会議員や選挙人の資格について、門地、つまり家柄などによって差別することを認めていない。もちろん、世襲候補に一定の規制を設ける制度が直ちに憲法違反になると単純には言えないが、出生によって立候補の可能性を制限する制度は、立候補の自由や平等原則との関係で重大な憲法上の検討を必要とする。

 それでは、世襲政治家がどれほど増えても民主主義には何の問題もないのだろうか。ここで話は反転する。世襲政治の核心は、「政治家の子どもが政治家になること」にあるのではなく、「政治家の子どもでなければ政治家になりにくい仕組み」が形成されているかどうかにあるからである。

投票箱の前では平等でも、その手前は平等なのか

 選挙の日、有権者には同じ一票が与えられる。大企業の経営者も大学生も会社員も年金生活者も、投票箱に入れられる票は一票であり、この意味で民主主義は驚くほど平等な制度である。しかし、その一票を投じる候補者がどのような過程を経て投票用紙に名前を載せたのかまで遡ると、景色は少し違って見えてくる。

 政治の世界では昔から、選挙に強い候補には「地盤・看板・鞄」があると言われてきた。地盤とは後援会や支持組織などの人的基盤、看板とは知名度、鞄とは政治活動や選挙運動を支える資金力を意味する。一般の新人候補者は、これらをほとんど何もないところから築かなければならないが、現職政治家の親族であれば、長年形成された支援者との関係、知られた名字、政治活動の経験、政党や業界との人脈といった政治的資源を引き継げる場合がある。

 日本の世襲政治を対象とした実証研究でも、この差が単なる印象ではないことはかなり明確に示されている。1990年代後半から2000年代にかけての選挙を分析した研究では、世襲政治家は非世襲政治家より選挙資源に恵まれ、選挙に強い傾向が確認されている。また、自民党の新人候補を比較した研究でも、世襲候補には非世襲候補より有利な選挙条件が存在することが示されている。

 ここで重要なのは、有権者が世襲候補を強制的に選ばされているわけではないという事実である。最終的には有権者自身が投票している。しかし、選挙という競争を100メートル走にたとえるなら、全員が同じゴールを目指していても、スタート地点まで同じとは限らない。ある候補者は知名度も後援組織もないところから走り始め、別の候補者はすでに整備された支援組織と名字を背負って走り始める。最後に誰が勝ったかだけを見れば競争は成立しているが、その競争に参加するまでの条件まで公平だったかどうかは、別に考えなければならない。

世襲だから能力が低いとは言えない

 ただし、ここで世襲批判を一歩進めすぎると、別の誤りに陥る。選挙上のスタート地点が有利であることと、その人物の政治家としての能力が低いことは、まったく別の問題だからである。

 政治家の家庭で育てば、政治、行政、選挙、政策形成に触れる機会が一般家庭より多くなる可能性は十分考えられる。親の仕事を通じて政治家、官僚、企業、地方自治体、支援者などが政策について語る場面を見ることもあるだろうし、政治という職業を身近な進路として認識する機会も多いだろう。このような人的・情報的環境が、政治家として必要な知識や人脈の形成に有利に働く可能性はある。

 もっとも、これは世襲政治家の能力が高いことを証明するものでもない。重要なのは、少なくとも「世襲だから能力が低い」と判断できる十分な実証的根拠が存在するわけではないということである。世襲議員と非世襲議員の国会活動を比較した研究でも、世襲議員が一貫して活発であるとも、一貫して不活発であるとも言えない。政治家の能力には政策立案、行政監視、交渉、外交、地域調整など多くの側面があり、血縁関係だけからその優劣を判断することはできない。

 つまり、問題にすべきなのは血筋そのものではなく、その血筋を通して政治的資源まで継承され、それが競争条件にどの程度の差を生み出しているのかという点なのである。

有権者は本当に「名字」だけで選んでいるのか

 世襲政治を批判するとき、「有権者が有名な名字に弱いから世襲が残る」と説明されることがある。しかし、この説明も単純すぎる。

 日本の有権者を対象とした近年の研究では、世襲候補であることそのものに対して必ずしも好意的ではない人でも、政治的ネットワークを持っていること、大臣などの重要な役職に就く可能性が高いこと、中央政府との交渉力を持っていること、地元に公共事業や予算をもたらす能力があることなどは、候補者を評価する要素として重視する傾向が確認されている。

 ここから見えてくるのは、「世襲だから支持される」というより、「世襲によって蓄積された政治資源が評価されている」可能性である。有権者にとっては、長く地域を代表してきた政治家一族の後継者であれば、前任者との人的・政策的な連続性を予測しやすく、地域事情を知っていると期待する理由もある。政治家本人への白紙委任ではなく、「この候補者なら中央との交渉ができる」「困ったときにどこへ相談すればよいか分かる」といった現実的な判断が投票行動に影響しているのであれば、有権者の選択を単なる無知や旧習として片づけることも適切ではない。

 民主主義を真剣に考えるなら、有権者が世襲候補を選んだという結果だけではなく、なぜその候補者を合理的な選択肢だと感じたのかまで見なければならない。

地元に利益を持ってくる政治家は「良い政治家」なのか

 世襲政治家については、興味深い研究結果がもう一つある。日本の選挙区を調べた研究では、世襲政治家が非世襲政治家より多くの政府支出や補助金を選挙区へもたらす傾向が報告されている。

 これは世襲政治を単純に批判できない理由の一つでもある。地方の有権者からすれば、中央政府との人脈を持ち、道路、公共施設、補助事業などの予算を地域へ持ってこられる政治家を選ぶことには現実的な利益がある。政治家が地域の代表である以上、「地元のために何を持ってきたか」は評価基準になり得る。

 しかし、ここにはもう一つの難しい問題が隠れている。政府から多くの予算を獲得した地域が、その結果として長期的に豊かになるとは限らないからである。日本の世襲政治家を分析した研究では、選挙区への分配的利益が多い一方で、それが地域経済の良好な成果に直結しているとは言えないことも示されている。ただし、地域経済には人口構造、産業構成、都市化、高齢化など多くの要因が影響するため、「世襲政治家が地域経済を悪くする」とまで断定することはできない。

 それでも少なくとも、「予算を持ってくる能力」と「地域を長期的に豊かにする能力」は同じではない。ここには地方政治にも国政にも付きまとう古い矛盾がある。自分の選挙区にとって優秀な政治家が、国全体にとって最適な政治家であるとは限らないのである。

民主主義には二つの入口がある

 世襲政治について考えていると、民主主義には二つの入口があることが見えてくる。一つは有権者が誰を選ぶかという入口であり、もう一つは誰が候補者として「選ばれる側」に立てるかという入口である。

 私たちは前者には非常に敏感である。投票が強制されれば民主主義ではないし、票が改ざんされても民主主義ではない。しかし後者については、選挙そのものほど注意を向けてこなかった。政党の公認を誰が受けるのか、選挙資金を誰が集められるのか、支援組織を誰が持てるのか、政治家を志す普通の市民に候補者になる現実的な道が開かれているのかという問題である。

 仮に、選挙自体は完全に自由であっても、主要政党の候補者になれる人が事実上ごく限られ、長年蓄積された後援組織や政治資金、人脈を持つ者だけが有力候補になれる社会であれば、投票箱の中では自由な競争が行われていても、その前段階には大きな参入障壁が存在することになる。

 もっとも、どこまでの条件差を「民主主義の欠陥」と呼ぶべきかは、実証研究だけでは決められない。医師の家庭から医師が生まれやすく、経営者の家庭から経営者が生まれやすいように、家庭環境によって知識や人脈、職業への関心が次世代へ伝わること自体は、政治家だけに見られる特殊な現象ではない。

 だからこそ、世襲政治を考えるうえでは、家庭を通じて自然に形成された経験や知識と、政治制度や政党組織によって閉鎖的に継承される選挙資源を区別する必要がある。親が政治家だったため政治に詳しくなったことと、親の後援会や政治的地位がそのまま子どもの当選可能性を押し上げることは、同じ「世襲」であっても民主主義にとって持つ意味が違う。

権力は次の権力を生むのか

 この問題をさらに考えさせる研究がアメリカにある。1789年以来の連邦議会を長期的に分析した研究では、政治家として長く権力を持った議員ほど、その後に親族が連邦議会へ進出する可能性が高くなることが示されている。

 この研究が興味深いのは、単に「政治家一族はもともと政治家になりやすい」という相関だけを見ているわけではなく、長く政治権力を持つこと自体が次世代の政治進出を促す可能性を統計的に検討している点にある。政治家として在職する間に築かれた知名度、人脈、資金調達能力、政党との関係などが、本人の引退後にも家族の政治資源として残るのであれば、政治権力は一代限りで消えるものではなく、次の権力を生み出す装置になり得る。

 もちろん、これはアメリカ議会を対象とした研究であり、同じ因果関係がそのまま日本に当てはまると断定することはできない。しかし、世襲政治を文化的な「血筋好き」だけで説明するのではなく、政治権力そのものが継承可能な資産を作り出すという視点は、日本の政治を考えるうえでも重要である。

日本人は本当に血筋を好むのか

 日本では世襲政治家が目立つため、ときに「日本人は家柄を重視するから世襲政治が残る」と説明される。しかし、これも十分な説明ではない。

 日本の選挙制度は1994年に大きく改革され、それ以前の中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制へ移行した。この改革によって候補者個人の後援会を中心とした選挙から、政党をより強く意識した選挙へと環境が変わり、その後、政党による候補者公募なども広がった。研究では、こうした制度や候補者選定方式の変化に伴って、新人世襲候補が以前より減少したことが確認されている。

 この事実は重要である。もし世襲政治が日本人固有の血統志向だけから生じているのであれば、選挙制度や政党の候補者選定方式を変えても、世襲候補の割合はそれほど動かないはずである。ところが実際には制度変更によって変化している。したがって、日本の世襲政治は文化的な血統志向だけでは説明できず、選挙制度や政党組織のあり方によって増減する政治現象だと考える方が妥当である。

 ここまで来ると、世襲政治の問題は「政治家一族の倫理」の問題から、「候補者を生み出す制度」の問題へと姿を変える。

世襲政治家を禁止すれば解決するのか

 それなら、世襲候補そのものを禁止してしまえば問題は解決するのだろうか。おそらく、それほど簡単ではない。

 政治家の子どもであるという本人には選べない事情だけで、一定期間、親と同じ地域から立候補できないようにする制度や、親族の立候補そのものを制限する制度を設ければ、立候補の自由や平等原則との緊張関係が生じる。世襲候補の規制が直ちに憲法違反になると断定することはできないものの、少なくとも強い憲法上の検討が必要になる。

 それ以上に重要なのは、世襲候補を一律に排除しても、政治への参入障壁そのものが残っていれば、本質的な問題は解決しないことである。政治資金を集められる富裕層、有名人、大企業や大組織の支援を受けられる人だけが候補者になるのであれば、政治家の親族を排除しても別の形の閉鎖性が生まれる可能性がある。

 したがって民主主義の改善策として重要なのは、特定の家系を排除することより、政治家の家に生まれていない人でも有力候補になれる仕組みを作ることだろう。政党が候補者をどのように選んでいるのかを透明にし、公募などを通じて政治参加への入口を広げ、政治資金や後援組織についても透明性を高める。そして有権者が名字や知名度だけではなく、政策、実績、専門性、政治活動を比較できる情報環境を整えることの方が、民主主義の原則には適している。

問うべきなのは「世襲議員が何人いるか」だけではない

 世襲政治家の割合を見ると、私たちはつい、その数字そのものを民主主義の成績表のように扱いたくなる。しかし、世襲政治家が一人もいない国が必ず民主的であるわけではなく、世襲政治家が存在する国が必ず非民主的であるわけでもない。

 政治家の息子と無名の会社員が同じ選挙に立候補し、同じように政党公認を得る機会があり、有権者が政策や実績を比較したうえで政治家の息子を選ぶのであれば、その結果は民主主義の敗北とは言えない。ところが、無名の会社員には政党公認を得る機会も政治資金を集める機会もほとんどなく、政治家の息子だけが既存の支援組織と知名度を引き継いで有力候補になれるのであれば、民主主義の問題は投票日よりずっと前に始まっている。

 投票箱だけを見ていると、その違いは見えない。

 民主主義とは、誰を選ぶのかを決める制度であると同時に、誰が「選ばれる側」に進むことができるのかを決める制度でもある。そう考えるなら、世襲政治家の多さは民主主義の欠陥そのものというより、政治への入口がどれほど開かれているかを測る一つの警告灯だと考えた方が正確だろう。

 だから本当に知りたい数字は、国会議員の何割が世襲なのかだけではない。政治家の家に生まれなかった普通の市民が政治を志したとき、政党の候補者になる機会がどれだけあり、十分な情報と資金を得て選挙を戦うことができ、現職や世襲候補と現実的に競争できるのかという数字である。

 世襲政治について考えているつもりが、最後に私たちがたどり着くのは、血筋の問題ではない。民主主義とは、投票する権利だけを平等にすれば完成する制度なのか、それとも政治家になろうとする人がスタートラインへたどり着く機会まで含めて考える制度なのかという、もっと根本的な問いなのである。

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