地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家について誰かと話していると、不思議なことに気づくことがある。その政治家が具体的に何を実現しようとしているのかを尋ねると、税制や社会保障、産業政策、安全保障といった話はなかなか出てこないのに、「強い」「頼もしい」「怖い」「保守的だ」「はっきりしている」といった人物の印象については、驚くほどすぐ言葉が返ってくるのである。政治というものが本来、制度や予算や法律を扱う営みであることを考えると、これは少し奇妙な現象に見える。

 高市早苗という政治家は、その奇妙さを考えるうえで興味深い存在である。2025年10月に自由民主党総裁となり、同月に内閣総理大臣に就任、その後2026年2月の総選挙を経て第2次高市内閣を発足させた現在、高市氏は「将来の首相候補」として論じられる人物ではなく、実際に日本の政策決定の中心にいる。それにもかかわらず、高市氏について語られるとき、財政政策や産業政策の細部より先に、彼女の話し方や言葉の強さが話題になる場面は少なくない。

 象徴的だったのが、2025年10月、自民党総裁に選出された直後の演説である。高市氏は党の立て直しに向けて自らのワークライフバランスにも触れながら、「働いて」という言葉を五回繰り返した。この発言は広く報じられ、ある人には党を立て直す覚悟の表現として受け取られた一方、別の人には長時間労働を美徳とするような危うさを感じさせる言葉として受け止められた。

 興味深いのは、同じ発言を聞いた人々が、まったく同じ人物像を思い浮かべたわけではないことである。ある人には「覚悟のある政治家」に見え、別の人には「強引な政治家」に見える。言葉そのものは一つでも、その言葉が入っていく先には、すでにそれぞれの高市早苗像が存在している。

 ここに、高市氏個人を越えた現代政治の問題が見えてくる。私たちは政治家の政策を理解し、その結果として人物イメージを作っているのだろうか。それとも、先に作られた人物イメージを通して、その後の政策や発言を読み直しているのだろうか。

「政策の高市」と「言葉の高市」

 高市氏を単純に「強い言葉を使う政治家」とだけ捉えると、実際の政治家像のかなり大きな部分を取り落とすことになる。本人は2026年1月の記者会見で「政策の高市」を自認してきたと述べており、実際、高市政権にはかなり明確な政策体系がある。

 中心に置かれているのが「責任ある積極財政」である。政府が成長分野や安全保障上重要な分野への投資を行い、それを民間投資や所得の増加へつなげ、経済規模を拡大させながら財政の持続可能性も確保しようという考え方で、その周囲には半導体をはじめとする先端産業、経済安全保障、食料安全保障、エネルギー・資源安全保障、防災、国土強靱化、サイバーセキュリティ、医療、研究開発などが配置されている。

 もちろん、それらの政策が期待通りの結果を生むかどうかは別問題である。積極的な政府支出によって成長力を高められるという考えには一定の理屈がある一方、財政負担や金利、市場の信認をどのように管理するのかという論点は消えない。外交・安全保障についても、日本を取り巻く安全保障環境に対応するため抑止力を高める必要があるという見方がある一方、政策や発言の出し方次第では周辺国との緊張を高める可能性を懸念する見方も成り立つ。

 つまり、高市氏の政策を本気で評価しようとすれば、本来かなり長い文章が必要になる。

 ところが、人間の記憶は政策文書をそのまま保存してはくれない。

 何十ページもの政策集より一つの言葉の方が覚えやすく、数年間にわたる財政戦略より「強く豊かに」という表現の方が頭に残りやすい。2026年の施政方針演説でも、高市氏は成長政策を説明するなかで、「成長のスイッチを押す」という表現を印象的に繰り返している。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、高市氏の演説が常に強い言葉だけで作られているわけではないということである。同じ施政方針演説の中では「様々なお声に耳を傾け、謙虚に、しかし、大胆に」といった表現も使われており、協調や慎重さを意識した言葉も存在する。「働いて」「強く」「押す」といった言葉だけを拾い集めれば、当然ながら「高市氏は強い言葉ばかり使う」という結論が生まれやすくなるが、それ自体が、分析する側の選び方によって人物像が作られてしまう一例でもある。

 それでも、高市氏の政治言語に、行動を感じさせる動詞が目立つことは確かである。働く、守る、強くする、押す、前へ進む。政策文書の高市早苗が制度を説明する政治家だとすれば、演説の高市早苗は、複雑な政策を動詞へと圧縮して提示する政治家だと言えるのかもしれない。

有権者は政策を全部読んでから投票するわけではない

 しかし、この現象を「有権者は政策を読まない」と批判するだけでは、政治の現実を十分に説明できない。

 そもそも一人の有権者が、税制、社会保障、外交、防衛、エネルギー、農業、教育、医療、産業政策、憲法といった多数の政策について各党の主張を詳細に比較し、それぞれの財源や副作用まで調べたうえで投票することは、現実にはかなり難しい。仕事をし、家庭生活を送りながら、選挙のたびに数百ページの政策資料を読むことのできる人は多くない。

 そこで人は、限られた情報から判断するための手掛かりを使う。政党名、政治家の経歴、話し方、表情、過去の実績、報道で繰り返される言葉などから、「この人物はおそらくこういう政治家だろう」と推測するのである。政治学や政治心理学では、こうした判断の近道はヒューリスティクス(heuristics・限られた情報をもとに効率的な判断を行うための認知的手掛かり)として研究されてきた。

 これは必ずしも愚かな判断方法ではない。政治家が長年にわたって一貫して安全保障政策を重視してきたなら、その経歴を見て「安全保障を重視する政治家だ」と判断することには合理性がある。所属政党から大まかな政策方向を推測することにも一定の情報価値がある。私たちは日常生活でも、すべての情報を一から検証して判断しているわけではなく、過去の経験や信用、評判を使いながら意思決定している。

 問題は、その便利な近道が、いつの間にか判断そのものを支配する可能性があることだ。

 いったん「高市早苗は強い政治家だ」という人物像を持てば、安全保障政策が「決断力」の証拠として見えやすくなるかもしれない。逆に「高市早苗は強硬な政治家だ」という印象を持っていれば、同じ政策が「危うさ」の証拠に見えることもあり得る。人物イメージが必ず政策評価を決定するわけではないが、いったん形成された人物像が、その後の発言や政策の受け止め方に影響する可能性は十分に考えられる。

 同時に、その逆方向もある。新しい政策を知ることで人物イメージが変わることもあり、予想外に穏当な発言を聞けば、それまでの印象が修正されることもある。政治家のイメージと政策評価は、どちらか一方が原因で、もう一方が結果になるほど単純ではなく、互いに影響し合いながら作られていくと考えた方が現実に近いだろう。

「働いて、働いて」は何を意味したのか

 先ほどの「働いて」という発言を、この視点からもう一度見てみると面白い。

 発言の文脈は、自民党を立て直すため、自分自身も党所属議員も徹底的に働くという決意を述べたものだった。その意味では、「日本国民全体に長時間労働を要求した発言」と理解するなら、実際の文脈より広く解釈していることになる。

 しかし一方で、将来の首相就任が現実味を帯びていた政党総裁が、ワークライフバランスを捨てると語れば、それを単なる党内向けの掛け声ではなく、日本社会の働き方に対する象徴的メッセージとして受け止める人が現れることも不自然ではない。政府自身が長時間労働の是正や仕事と生活の両立を政策課題としてきただけに、その発言と従来政策との整合性を問う批判にも理由がある。

 だから、この発言について「何の問題もない」と片づけることも、「長時間労働を国民に強制した発言だ」と断定することも、どちらも言葉を少し単純化してしまう。

 ところが政治の世界では、この「少し単純化された説明」の方が圧倒的に流通しやすい。

 数十分の演説はニュースになると数十秒になり、交流型ソーシャルメディアではさらに短い映像へ切り取られ、最後には一つの言葉だけが記憶に残る。政治家の人格は本来、何年、何十年という政治活動の積み重ねによって判断されるべきものなのに、私たちのスマートフォンの画面の中では、ときに十秒ほどで完成してしまうのである。

高市早苗のイメージを作っているのは誰か

 では、「強い政治家」という高市氏のイメージを作ったのは誰なのだろう。

 最初の作者が高市氏本人であることは間違いない。政治家は自分の言葉を選び、「強い経済」「強い外交・安全保障」「日本列島を、強く豊かに」といった表現を自ら発している以上、高市氏自身が「強さ」という概念を政治的メッセージとして意識的に利用していると見ることには一定の根拠がある。

 しかし、その言葉が社会に届くまでには、何人もの編集者が存在する。新聞やテレビは長い演説の中からニュース価値があると判断した一部分を選び、見出しを付ける。交流型ソーシャルメディアでは利用者がさらに短い場面を切り抜き、そこへ賛成や批判の文章を添える。そして、それを見た別の利用者が再び共有する。

 この過程では、支持者と批判者が正反対の評価をしながら、結果的に同じイメージを強めることもあり得る。支持者が「ここまで言い切れる政治家はいない」と高市氏の映像を繰り返し共有し、批判者が「この言葉こそ危険性の証拠だ」と同じ映像を広めれば、評価そのものは正反対でも、「高市早苗は強い言葉を使う政治家だ」という共通イメージだけは社会に残りやすくなる。

 ただし、これは高市氏について直接実証された結論ではない。実際に確認するためには、交流型ソーシャルメディア上の投稿を大量に収集し、肯定的投稿と否定的投稿の双方でどの発言が共有され、どのような語句とともに拡散されたのかを時系列で調べる必要がある。現段階では、「そのような作用が起こり得る」という仮説として扱うのが妥当だろう。

世論調査は「政策か人柄か」に答えてくれるのか

 2026年8月のテレビ朝日の世論調査には、この問題を考えるうえで興味深い数字がある。

 高市内閣を支持する理由として「政策に期待が持てる」と答えた人は24.1%、「高市総理の人柄が信頼できる」は19.7%、「他の内閣よりよさそう」は32.4%だった。不支持理由では、「政策に期待が持てない」が43.9%、「人柄が信頼できない」が23.0%となっている。

 この数字を見ると、「高市氏は政策よりイメージだけで支持されている」という単純な説明は成り立たない。支持する側にも政策を理由にする人がかなり存在し、むしろ「人柄」より「政策」を選んだ人の方が多い。一方、不支持側でも政策への評価が大きな比重を占めている。

 もっとも、この調査から「高市氏は政策で評価されている」と逆方向に断定することもできない。回答者は複数ある理由の中から一つを選ぶ形式になっているため、実際には「人柄も政策も評価している」という人でも、どちらか一方しか回答できないからである。

 さらに重要なのは、このような世論調査から因果関係までは分からないことである。高市氏の人柄を信頼したから内閣を支持するようになったのか、それとも先に内閣を支持しているため「人柄も信頼できる」と感じるようになったのかは、この数字だけでは判定できない。同じように、政策への評価と人物への評価のどちらが時間的に先に形成されたのかも分からない。

 それでも、この調査から一つ確かなことがあるとすれば、政治的支持が政策だけ、あるいは人物だけで説明できるほど単純ではないということである。私たちは政策を見ながら人物を考え、人物を見ながら政策を読む。その二つは頭の中で切り離されているわけではないらしい。

名前を消したら、高市早苗の政策はどう見えるのか

 ここで、小さな思考実験をしてみたい。

 紙の上から「高市早苗」という名前を消し、「国内投資を増やして先端産業への政府支援を拡大する」「経済安全保障を強化する」「政府支出によって成長力を高めながら、経済規模に対する債務の比率を改善していく」とだけ書いてあったとする。

 それを読んだときと、同じ紙の一番上に大きく「高市早苗」と書かれているときで、政策に対する印象は本当に変わらないだろうか。

 高市氏を支持する人なら、名前を見ることで政策をより好意的に評価するかもしれないし、高市氏に強い不信感を持つ人なら、同じ政策でも警戒するかもしれない。しかし実際には名前の有無で評価がほとんど変わらない人もいるだろう。だから、この思考実験だけで「人は政策ではなく政治家の名前を選んでいる」と結論づけることはできない。

 それでも、この問いを自分に向けることには意味がある。

 もし政治家の名前を隠した瞬間に、自分の政策評価が大きく揺れるのであれば、それまで政策だけを判断していたわけではなかった可能性があるからである。

 そして、この現象は高市氏に限らない。石破茂でも、小泉進次郎でも、野田佳彦でも、麻生太郎でも同じ問いを立てることができる。

 政治家の名前には、その人物の過去、所属政党、報道、支持者、批判者、発言、成功、失敗といった膨大な情報が圧縮されている。「名前を知っている」というだけで、私たちはすでに多くの情報を政策の上に重ねて見ているのである。

「強い言葉」は悪いことなのか

 ここまで考えると、「強い言葉を使う政治家は危険だ」という結論にも慎重になる必要がある。

 民主政治では、複雑な政策を社会へ伝えるために、ある程度の単純化は避けられない。「責任ある積極財政」という表現も、「強い経済」という表現も、本来は何十もの政策を短い言葉にまとめた入口である。政治家が有権者に方向性を示そうとする以上、記憶に残る言葉を使うこと自体は政治コミュニケーションの一部であり、それだけで良いとも悪いとも言えない。

 むしろ問題になるのは、入口だったはずの言葉が、そのまま出口になってしまうときである。

 「強い日本」という言葉を聞いて安心して終わるのではなく、何を強くするのか、そのためにいくら費用が必要なのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、別の選択肢と比べて何が優れているのかを見る必要がある。「積極財政」という言葉を聞いて期待するだけでなく、どの支出が成長を生み、どの支出が将来負担として残る可能性があるのかまで考えなければならない。

 これは高市氏を批判する側にも同じように当てはまる。強い言葉を聞いた瞬間に「危険な政治家」と結論づけてしまえば、それもまた政策を検討する手続きを省略していることになる。政策を批判するのであれば、どの部分に問題があり、どのような代替案があり、その結果がどう違うのかまで問わなければ、支持者とは逆方向の近道を走っているだけかもしれない。

最後の編集者は私たち自身である

 高市早苗という政治家のイメージを作っているのは誰なのか。

 高市氏本人が言葉を発し、政党がそれを政治メッセージに整え、報道機関が一部分を選び、交流型ソーシャルメディアがさらに切り取り、支持者と批判者がそれぞれ意味を与える。

 しかし、その長い工程の最後にいる人物を忘れてはいけない。

 それは、私たち自身である。

 画面に流れてきた十秒の映像を見て「やはりこの人は頼りになる」と感じたときにも、「やはりこの人は危険だ」と感じたときにも、私たちの頭の中では一人の政治家像が少しずつ出来上がっている。そして一度形成されたその像は、次に入ってくる政策や発言を解釈するときのレンズになり得る。

 だから高市早苗について考えるとき、本当に興味深い問いは、「高市氏は強い政治家なのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「私はなぜ高市氏を強い政治家だと思うようになったのか」と自分自身に問い返すことである。

 高市氏自身の言葉なのか。テレビの見出しなのか。交流型ソーシャルメディアで繰り返し見た映像なのか。支持する人から聞いた評価なのか。批判する人から聞いた評価なのか。それとも、実際に政策を読み、自分なりに考えた結果なのか。

 おそらく、そのすべてが少しずつ混ざっている。

 高市早苗が「政策」より「強い言葉」で先に理解されているということを、現在の資料だけから科学的事実として断定することはできない。政治家イメージが政治評価と関係すること、有権者が政党名や人物像のような手掛かりを利用して判断することについては研究の蓄積がある一方、高市氏について「強い言葉が先に認知され、その結果として政策評価が変化した」という一連の因果関係が直接測定されたわけではないからである。

 しかし、だからこそ、この問いは面白い。

 高市氏には実際にかなり具体的な政策体系があり、それを短く記憶に残る言葉へ圧縮する政治的な話法もある。そして私たち有権者の側には、複雑な政策をすべて処理する代わりに、人物像や政党、印象的な言葉を判断の手掛かりとして利用する性質がある。

 政治家が言葉を作り、メディアがその言葉を選び、交流型ソーシャルメディアがそれを増幅し、最後に私たちが意味を与える。その共同作業の中で、「高市早苗」という政治家像が出来上がっていく。

 政治家を見るという行為は、政治家だけを見ることではない。

 その人を見ている自分が、何を選んで見て、何を忘れ、どの言葉だけを記憶しているのかまで含めて初めて、政治家を見ていることになるのかもしれない。

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 町の政治を知ろうと思えば、まず町役場を見ることになる。町長がいて、議会があり、予算書や条例が公開され、議事録を読めば誰が何を発言したのかも分かる。選挙になれば候補者の名前も得票数も数字として残り、誰が住民から正式な権限を託されたのかはかなり明確である。民主主義とは、権力の所在をできるだけ見えるようにする仕組みでもあるから、ここまでは分かりやすい。

 ところが、一つの町に長く暮らしていると、その制度上の地図だけでは説明しにくい場面に出会うことがある。「この話は、まずあの人に伝えておいた方がいい」「役場に直接話すより、あの人から話してもらった方が伝わりやすい」といった会話である。その「あの人」は町長でも議員でも役場職員でもなく、現在は自治会長ですらないかもしれない。それでも地域の事情に詳しく、さまざまな人とつながり、困り事が起きれば相談を受け、何かを始めようとすれば自然に名前が挙がる。

 こうした人物を、私たちはしばしば「有力者」と呼ぶ。しかし、その言葉から、町長や議員を裏から操る秘密の支配者を想像すると、本質を見誤る。地方政治を考えるうえで面白いのは、正式な権力とは別に、人間関係や信用、情報、仲介によって生じる影響力があり、その二つが重なる場所で町の意思決定が進むことがある、という点なのである。

町長と議会には「決定する権力」がある

 最初にはっきりさせておかなければならないのは、町長や議員の権力が形式だけのものではないということである。地方自治では、首長と議会議員を住民がそれぞれ直接選ぶ二元代表制が採られており、首長は自治体の行政を執行し、議会は条例や予算などについて議決し、行政を監視する役割を担う。道路を整備するにも、公共施設を建てるにも、福祉事業を始めるにも、公費を支出する以上は正式な制度と手続きを通らなければならない。

 したがって、選挙に出ていない人物が電話一本で予算を成立させたり、条例を書き換えたりするわけではない。少なくとも制度上の最終決定権という意味では、町長と議会が中心にいるという理解は変わらない。

 しかし、政治を「最後に誰が決めたか」という一点だけから見ると、その決定が生まれるまでの過程が見えなくなる。町には数え切れないほどの要望や不満や提案が存在するが、そのすべてが役場に届き、そのすべてが議会で議論されるわけではない。ある問題は行政へ伝わり、別の問題は伝わらない。ある要望には役場が早く反応し、別の要望は長く放置される。その違いがどこで生まれるのかを考えると、正式な決定権とは別の種類の力が見えてくる。

 政治学では、誰が最終的に決定したかだけでなく、「そもそも何を政治的な問題として取り上げるのか」を左右する力が重要だと考えられてきた。これを議題設定力と呼ぶなら、町長や議会が「決める力」を持っている一方で、町のさまざまな人々は「何を決める問題にするのか」に影響することがある。

 表に現れる政治は採決の瞬間だが、そのずっと前から政治は始まっている。

「有力者」という肩書はどこにもない

 面白いことに、「有力者」という正式な役職は存在しない。選挙管理委員会が認定するわけでもなく、辞令も任期もなければ、町役場の組織図にも載らない。それでも、ある地域では「この人は顔が広い」「この問題ならこの人に聞けば分かる」と認識されている人物がいる。

 その影響力を単純に財産や家柄だけで説明するのは難しい。もちろん、地域によっては地主、大きな事業者、旧家などが歴史的に強い発言力を持ってきた場合もあるだろう。しかし、現代の地域社会で人を動かす力を考えるなら、より重要なのは、その人がどれだけ多くの人や組織の間をつないでいるかである。

 長年商売をしてきた人なら、多くの住民を客として知っているかもしれない。自治会、商工団体、祭礼、防災活動、学校関係などに長く関わってきた人なら、役場職員、地域団体、事業者、住民のそれぞれと接点を持っている可能性がある。冠婚葬祭や地域行事を通じて人間関係を蓄積し、「この問題なら誰に相談すればよいか」を知っている人もいる。

 こうした力は、社会学では人間関係そのものを一種の資源として考えることができる。政治的な有力者や組織とのつながりを「関係的資源」として捉える研究もあり、影響力は個人の能力や財産だけでなく、誰と誰につながっているかによって生まれることがある。

 人口統計にも資産台帳にも、この種類の力は簡単には表れない。しかし、地域社会では「あの人を通せば話が早い」という信用が積み重なり、結果として人と人の間に立つ人物へ相談や情報が集まっていく。

 命令するから強いのではない。人が集まるから強くなるのである。

「人間関係が集中する場所」に立つ人

 社会ネットワークの考え方を使うと、この現象はさらに分かりやすい。人間関係を点と線で描いたとすれば、全員が同じ位置にいるわけではなく、異なる集団の間をつないでいる人物が現れる。商店街の人々とも付き合いがあり、自治会とも関係があり、行政とも話ができ、移住者のグループとも接点を持つ人物がいれば、その人を経由して多くの情報が行き来することになる。

 社会ネットワーク分析には、異なる人や集団の間にどれほど位置しているかを見る「媒介中心性」という考え方がある。現実の町の有力者をそのまま数式で決められるわけではないが、「有力者とは人間関係が集中した場所にいる人物である」という見方には、一定の理論的な裏付けがある。

 この視点に立つと、町の有力者は必ずしも一人ではないことにも気づく。商業について影響力を持つ人物と、福祉に詳しい人物は違うかもしれない。祭りでは中心人物でも、行政政策についてはほとんど発言力を持たない人もいる。ある地区では頼られている人物が、隣の地区ではほとんど知られていないこともある。

 つまり「この町を動かしている人は誰か」という問いそのものが、少し乱暴なのである。より正確には、「どの問題について、誰が誰をつなぐ位置にいるのか」と考えた方がよい。

小さな町だから有力者が生まれる、とは限らない

 地方政治を論じるとき、「人口の少ない町では有力者が強く、大都市ではそうではない」と単純化するのも危険である。大都市にも企業、業界団体、地域団体、専門職、メディアなど、政治や行政へ影響を与える多くの主体が存在する。

 ただし、人口規模の小さな地域や、人の移動が比較的少ない地域では、一人の人間を複数の関係で知ることが起こりやすい。取引先だった人物が自治会でも一緒になり、子どもの学校でも顔を合わせ、祭礼では同じ実行委員になり、選挙になれば候補者とも知り合いだった、という関係である。

 ここで重要なのは、人口の少なさそのものよりも、人間関係がどれほど重なっているかである。人口が少なくても住民の入れ替わりが激しく、地域組織への参加が少なければ、人間関係は必ずしも密にならない。一方、人口規模が比較的大きくても、長期間同じ地域で生活し、複数の地域組織へ参加する人が多ければ、関係は重なりやすい。

 したがって、「人口が少ないから有力者が生まれる」という一本道の説明より、地域の歴史、人口移動、産業構造、住宅所有、地域組織への参加、世代構成などが重なった結果として、特定の人物や団体へ人間関係が集中する場合がある、と考える方が現実に近い。

行政にとっても「話の分かる人」は便利である

 ここから問題は少し複雑になる。

 役場が地域住民一人一人と日常的に話をすることは現実には難しい。住民の考えは一様ではなく、行政職員の時間にも限りがあるため、防災、環境美化、地域行事、福祉、広報などを進めるとき、自治会や地域団体を通して住民へ情報を伝えたり、地域側から事情を聞いたりする場面が生まれる。

 日本の自治会や町内会は、単なる親睦団体ではなく、地域によって程度の差はあるものの、行政と住民との接点として機能してきた。災害時に地域の事情を知っている人がいること、高齢者や困窮世帯について行政だけでは把握しきれない情報を地域側が持っていること、行政が新しい施策を説明するときに住民との橋渡しをする人がいることには、現実的な利点がある。

 したがって、行政が地域事情に詳しい人物や団体と継続的な関係を持つこと自体を、直ちに癒着や古い地方政治と決めつけることはできない。制度だけでは拾えない情報を、人間関係が補完している面があるからである。

 しかし、便利な仕組みほど固定化したときに問題が生まれる。

「住民の声」は、誰の声なのか

 ある地区について行政が意見を聞きたいとする。そこで、長年その地区で活動している自治会役員や地域団体の代表へ相談する。相手は地域事情に詳しく、多くの住民を知っているから、行政にとっては合理的な方法である。

 ところが、その人物の意見が、いつの間にか「地域の意見」に変わったとき、問題が生じる。

 百人が暮らしている地区で、一人の人物が「この地域ではみんなそう思っています」と話しても、科学的に見れば、それだけで百人全員の意見を代表しているとはいえない。本人が意図的に話を誇張しているとは限らず、自分の周囲で日常的に接している人々の意見を、そのまま地域全体の意見だと認識している可能性もある。

 ここには、統計学でいう選択バイアスに似た問題がある。地域活動に積極的に参加する人だけから意見を聞けば、得られるのは「地域活動に参加する人々の意見」であって、「住民全体の意見」と一致するとは限らないからである。

 高齢者には高齢者の人間関係があり、商店主には商店主の世界があり、昔から住んでいる人には昔からの住民同士のネットワークがある。その一方で、移住してきたばかりの人、自治会へ加入していない人、仕事で昼間町にいない人、地域活動へ参加する時間のない子育て世帯、そもそも政治や地域活動について発言しない人もいる。

 行政が効率よく住民の意見を知ろうと代表者を立てるほど、その代表者につながっていない住民の声が見えにくくなる可能性がある。この矛盾は、地域民主主義を考えるうえでかなり重要である。

本当に影響力のある人は、よく発言する人とは限らない

 権力を観察するとき、私たちは目立つ人物を見てしまう。会議で長く発言する人、行政へ何度も要望する人、議員へ頻繁に相談する人は分かりやすい。しかし、影響力は必ずしも発言回数と同じではない。

 本人が何も言っていなくても、「この案について、あの人はどう思うだろう」と周囲が気にしているなら、そこにはすでに影響力が存在する。

 これは政治権力を考えるうえで興味深い現象である。誰かに命令された後で行動を変えるだけが権力ではなく、相手の反応をあらかじめ予想して、自分から行動を変えることもあるからだ。

 例えば、地域で何か新しい事業を始める人が「まず○○さんへ挨拶しておこう」と考え、地域行事を変えようとする人が「先に○○さんへ説明した方がいい」と考え、行政側まで「この件は地域の○○さんへ事前に話した方がよい」と判断するようになれば、その人物は正式な決定者ではなくても、意思決定過程の一つの通過点になっている。

 しかし、この種類の影響力は記録に残りにくい。町長が予算案を提出すれば公文書に残り、議員が質問すれば議事録に残り、選挙なら得票数も記録されるが、「先にあの人へ相談しておこう」と考えたことは通常どこにも記録されない。

 地域の「見えない権力」が見えにくいのは、それが秘密裏に行使されているからとは限らない。日常の判断や人間関係の中に溶け込んでいるため、制度の記録だけでは観察しにくいのである。

有力者がいることと、民主主義が壊れていることは同じではない

 ここまで読めば、有力者という存在そのものが民主主義に反するように見えるかもしれない。しかし、人間社会から非公式な影響力を完全になくすことはできないし、なくすべきだとも限らない。

 長年地域活動を続けてきた人が信頼され、地域事情について詳しい人の意見に重みが生まれるのは自然なことである。経験を積んだ人と、昨日その町へ来た人とでは、地域について持っている情報量が同じとは限らない。災害、防災、福祉、土地利用などでは、長年の経験が実際に役立つこともある。

 問題は、影響力の存在そのものではなく、その影響力へ他の人が挑戦できなくなったときに生じる。

 行政が何年も同じ人物だけを地域の窓口として扱い、地域団体でも同じ人々だけが意思決定に参加し、新しく入ってきた住民が意見を述べる経路がほとんどない状態になれば、地域社会の経験を生かす仕組みは、少しずつ閉鎖的な仕組みに変わっていく。

 さらに、「政策に反対すること」と「地域に協力しないこと」が同じ意味で受け取られるようになれば、本来は別であるはずの人間関係と政策判断が混ざり始める。

 異論を述べれば人間関係まで悪くなると感じる社会では、人は発言する前に自分で言葉を飲み込むようになる。そのとき政治は、議会の採決よりずっと前の段階ですでに狭くなっている。

 民主主義に必要なのは、すべての人が同じ影響力を持つことではない。強い意見を持つ人にも異論を唱えられ、従来とは違う人が新しい担い手になれ、これまで地域活動に関わってこなかった人にも参加する入口が開かれていることの方が重要である。

移住者から見ると、町には二つの地図がある

 地方へ移住した人が戸惑う理由の一つも、この正式な制度と非公式な人間関係の違いにあるのかもしれない。

 町役場のホームページを見れば、町長の名前も議員の名前も分かり、役場の組織図も委員会の構成も確認できる。しかし実際に生活を始めると、それとは別の地図が存在していることに気づく。

 誰と誰が昔から付き合いがあるのか、地域行事を実際に動かしているのは誰なのか、商工関係なら誰が詳しいのか、防災なら誰に聞けばよいのか、行政と地域の両方を知っているのは誰なのかといった情報は、公式サイトにはほとんど掲載されていない。

 昔から住んでいる人には当然の知識でも、新しく来た人には見えない。

 この情報格差が「地方は閉鎖的だ」という感覚を生むことがある。ただし、すべてを排他性だけで説明するのも正確ではない。長年かけて形成された信用のネットワークに、新しく来た人がまだつながっていないだけの場合もあるからである。

 それでも、公共的な意思決定に関わる部分については、「時間がたてば分かる」で済ませない方がよい。誰が参加できるのか、地域団体の代表はどのように選ばれるのか、行政へ意見を伝える方法は何通りあるのかを見えるようにすることは、古くからの住民と新しく来た住民の双方にとって利益になる。

 伝統を残すことと、入口を閉じることは同じではない。

昔ながらの「有力者」を支えた環境は変わりつつある

 もう一つ注意すべきなのは、地域の影響力の構造が固定されたものではないということである。

 自治会や町内会の加入率は長期的に低下傾向を示す地域があり、人口移動の増加、職業構造の変化、生活時間の多様化などによって、かつてのように多くの住民が同じ地域団体へ参加することが難しくなっている。また、政治家や行政自身がインターネットを通じて住民へ直接情報を届けるようになり、地域の中間的な人物を経由しなくても意見や情報を交換できる場面が増えている。

 ただし、これを根拠に「昔の有力者は消えた」と結論づけることはできない。地域団体への参加が減れば、人間関係の中心人物の影響力も必ず弱くなるとは限らず、逆に参加者が減った結果として、少数の担い手へ仕事や情報が集中する可能性もある。

 したがって、より慎重にいえば、昔ながらの有力者を支えてきた社会環境が変化し、それに伴って地域の影響力の形も変わりつつある、と考えるのが妥当だろう。

 さらに現在では、地域内で百人とつながっている人物だけでなく、インターネット上で地域内外の何千人へ情報を届ける人物も現れる。顔の見える人間関係を束ねる従来型の影響力と、画面を通して人々の認識を変える新しい影響力が、同じ地域の中で並存する時代になっている。

 前者には地域事情を深く知っている強みがあり、同時に人間関係が閉じやすいという弱点がある。後者には従来の地域組織につながっていない人の声を可視化できる可能性がある一方、地域外の人々まで巻き込んだ感情的な議論が急速に広がる危険もある。

 地方政治の「見えない影響力」は、なくなったというより、その姿が変わっていると考えた方がよさそうである。

「有力者」を科学的に見ることはできるのか

 では、町の有力者を感覚ではなく、もう少し客観的に捉えることはできるだろうか。

 単に「町で有名な人は誰ですか」と尋ねるだけでは不十分である。誰かが有力者だと評判になっていることと、その人が実際の意思決定に影響していることは同じではないからだ。

 むしろ、行政や議員、地域団体との接触がどの程度あるのか、異なる組織をどれほど結びつけているのか、地域の人々から相談を受ける頻度はどの程度か、地域の問題を行政へ伝える役割をどれだけ果たしているのか、その問題が実際に行政や議会で取り上げられたのか、といった行動を見る必要がある。

 こうして考えると、「有力者」という曖昧な言葉は、少しずつ分析可能な対象へ変わっていく。

 面白いのは、そこまで調べた結果、町の人々が「一番の有力者」と考えていた人物が、実際には政策過程でそれほど大きな役割を果たしていない可能性もあることである。逆に、目立った肩書もなく、会議でほとんど発言しない人物が、異なる集団をつなぐことで重要な役割を果たしていることも考えられる。

 権力を科学的に見るということは、「黒幕」を探すことではない。人と情報と意思決定が、どのような経路を通っているのかを確かめることである。

町の権力を見るなら、「誰が決めたか」の一歩前を見る

 地域政治の記事では、議会で誰が賛成し、誰が反対したのかを追うことが多い。それはもちろん重要である。しかし、その一歩前へ戻って、「なぜこの問題が議会で扱われることになったのか」を考えると、違う町の姿が見えてくる。

 その問題を最初に役場へ伝えたのは誰だったのか、行政は地域事情を誰から聞いたのか、議員へ相談した人は誰だったのか、賛成する人だけでなく反対する人にも発言する機会があったのか、そして、そもそも声を上げなかった多数の住民はどう考えていたのか。

 こうした問いを重ねていくと、町の政治は町長と議員だけによってできているわけでも、特定の「有力者」がすべてを動かしているわけでもないことが分かってくる。

 むしろ、その中間にある。

 商業について人をつなぐ人がいて、福祉について詳しい人がいて、自治会で人をまとめる人がいて、行政との橋渡しをする人がいる。同じ人物が複数の役割を持つ場合もあれば、それぞれ異なる人物が担っている場合もある。

 町の影響力は、一人の人物が所有するものというより、人と人の関係の中を移動するものとして見た方が理解しやすい。

選挙に出ない人々のところから、政治が始まることがある

 選挙の日、住民は町長と議員を選び、その結果によって正式な権限を持つ人物が決まる。この仕組みが地方民主主義の中心であることは変わらない。

 しかし町の政治は、選挙の日だけに存在しているわけではない。地域の困り事を聞く人がいて、それを誰かへ伝える人がいる。行政と住民の間をつなぐ人がいて、地域行事を何十年も支えてきた人がいる。誰かの相談に応じ続けた結果、本人が望んだわけでもないのに、多くの情報と信用が集まる人物もいる。

 そこには善意も利害もあり、献身も自己利益もあるだろう。長年の経験が地域を助けることもあれば、古い人間関係が新しい考えを入りにくくすることもある。

 それらをすべて「利権」と呼べば現実を単純化しすぎるし、反対にすべてを「地域の絆」と呼べば問題を見落とす。

 地方政治の興味深さは、その中間にある。

 役場の組織図には名前がなく、選挙公報にも載っていない。それでも、ある問題が起きると自然に相談が集まる人物がいるなら、「この人が町を支配している」と考えるのではなく、まず「なぜこの人のところに人と情報が集まるのだろう」と考えてみる。

 そこには、その町が長い時間をかけてつくってきた信用、人間関係、産業、歴史、人口移動、地域組織のあり方が凝縮されている。

 町で本当に影響力を持っているのは町長なのか、議員なのか、それとも選挙に出ない有力者なのかという問いに、一人の名前で答えることはできない。

 町長と議会には、制度によって与えられた「決定する権力」がある。その外側には、人をつなぎ、情報を運び、問題を行政へ伝え、ときには何を政治的な議題にするのかに影響する力がある。そして、現実の地域政治は、おそらくその二つが交わる場所で動いている。

 だから議会で何かが決まったとき、採決結果だけを見るのではなく、ほんの少し時間を巻き戻してみるとよい。

 「この話は、最初に誰のところから始まったのだろう」。

 その問いを持った瞬間、選挙結果や役場の組織図だけでは見えなかった、もう一つの町の政治が姿を現し始める。

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 選挙の日が来たのに、選挙がない。候補者のポスターが町を埋めることも、選挙カーの声が朝の静けさを破ることもなく、それでも告示の日が過ぎれば議員や首長が決まっている。無投票当選とは、候補者数が定数を超えなかったため投票を行わずに当選者が決まる制度上まったく合法的な仕組みであり、それ自体を直ちに民主主義の異常と呼ぶことはできない。しかし、その静けさが一度だけではなく、各地で繰り返されるようになったとき、その背後には人口減少時代の地方自治が抱える構造的な変化が見えてくる。

 本稿では、首長選挙や都道府県議会議員選挙でも発生する無投票のすべてを一括して論じるのではなく、なり手不足の問題がとりわけ鮮明に表れている町村議会議員選挙を中心に考えていく。選挙の種類が違えば無投票になる理由も完全には同じではなく、たとえば首長選挙では現職の強さや政党・地域勢力の関係などが大きく作用するため、「地方選挙の無投票には一つの原因がある」と考えること自体が適切ではないからである。

町村議会では、無投票はすでに珍しい出来事ではない

 全国町村議会議長会の集計を見ると、町村議会議員の一般選挙で無投票となった町村の割合は、2011年5月から2015年4月までの20.4%から、2015年5月から2019年4月には21.9%、2019年5月から2023年4月には27.4%へと上昇している。さらに2023年の統一地方選挙だけを見ると、町村議会議員選挙が行われた373町村のうち123町村、33.0%が無投票となった。

 さらに重要なのは、実際に無投票となった自治体だけを見ても候補者不足の全体像は分からないことである。2019年5月から2023年4月までの町村議会議員選挙では、無投票となった町村に、候補者数が定数をわずか1人だけ上回った町村まで加えると全体の59.7%に達しており、これは町村議会の約6割が「候補者があと一人少なければ無投票」という境界付近にあったことを意味する。無投票選挙は、もはやごく一部の山間部や離島だけで起きる例外的な現象ではなく、地方議会の候補者供給そのものが細くなっていることを示す現象として考える必要がある。

人口が少ない自治体ほど無投票になりやすいのは確かである

 最初に思い浮かぶ原因は人口減少だろう。住民が少なくなれば議員になろうとする人の母数も小さくなるため、小規模自治体ほど無投票になりやすいという説明には直感的な説得力があり、実際の統計もその傾向をかなり明瞭に示している。

 2017年5月から2021年4月までの市町村議会議員選挙を分析した研究では、無投票となった252選挙のうち241選挙、95.6%が「選挙人5万人以下、当選者20人以下」という比較的小規模な範囲に入っていた。また、無投票自治体の選挙人平均は約1万2900人だったのに対し、投票が行われた自治体では約5万4200人となっており、自治体規模と無投票との間には明瞭な関連が確認できる。

 ただし、ここで「人口が少なければ無投票になる」と単純化してしまうと、現象のかなり重要な部分を見落としてしまう。同じ研究では自治体の面積そのものには極端な差がみられなかった一方、1平方キロメートル当たりの選挙人数は、無投票自治体で約69人、投票が行われた自治体では約253人と大きく異なっていた。つまり、人口の総数だけでなく、人がどの程度まとまって暮らしているかという人口密度も無投票と関連しているのである。

 もっとも、この数字から「人口密度が低いことが無投票を引き起こす」と因果関係まで断定することはできない。人口密度の高い自治体では企業や商店、学校、地域組織、政党活動、職業構成なども同時に異なるため、人口密度だけの効果を切り離すことは難しいからである。統計が確実に示しているのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が多いという相関であって、その背後にどのような社会構造が介在しているかは、さらに考える必要がある。

同じ5000人の町でも、候補者を生み出す力は同じではない

 人口5000人の町を二つ想像してみよう。一方には駅があり、その周囲に住宅、商店、学校、診療所、事業所が集まり、多様な職業や世代の住民が日常的に交わっている。もう一方では広い山間部に小さな集落が点在し、若い世代の多くが町外へ通勤し、地域組織の担い手も高齢化している。同じ人口5000人であっても、この二つの町から新しい議員候補が生まれる可能性まで同じだと考える理由はない。

 選挙とは、住民の頭数から一定割合で候補者が発生する仕組みではなく、政治に関心を持つ人が存在し、その人が立候補を現実的な選択肢だと考え、仕事や家族生活との調整ができ、周囲から一定の支援を受け、選挙に必要な時間と費用を負担できて初めて候補者が一人誕生する制度である。この過程のどこか一つでも大きな障壁が生じれば、人口が存在していても候補者は出てこない。

減っているのは「議員になれる年齢の人」だけではない

 町村議会の変化を見るうえでは、人口減少とともに年齢構成にも注意する必要がある。全国町村議会議長会の調査では、町村議会議員の平均年齢は2015年の62.7歳から2019年には63.9歳、2023年には64.4歳へ上昇している。また、在職20年以上の議員割合も12.3%から15.3%、16.2%へ増加している。

 一方、在職4年未満の議員割合は2015年の26.3%から2019年には24.9%へ低下し、2023年には25.9%までやや回復したものの、2015年をなお下回っている。このため「新人議員が一貫して減り続けている」と表現するのは正確ではないが、長期在職者の比率が高まり、議会構成の高齢化が進んでいることは確かであり、新しい世代への交代が十分に進んでいるとは言いにくい。

 問題は単なる年齢ではなく、現役世代が地方議員という仕事を選択できる生活条件を持っているかどうかである。若い人が町に残っていても、住宅ローンを抱え、子どもを育て、会社員としてフルタイムで勤務しているなら、地方議員への立候補は容易ではない。したがって候補者不足を考えるとき、本当に見るべきなのは「25歳以上の住民が何人いるか」ではなく、「現実に立候補できる生活条件を持つ人が何人いるか」なのである。

月額約22万円の議員報酬をどう見るか

 町村議会議員の報酬の低さも、なり手不足を考えるうえで無視できない。全国町村議会議長会の2025年調査では、町村議会議員の平均月額報酬は約22万3000円であり、人口5000人未満の町村では平均約19万2000円にとどまっている。

 もちろん、議員報酬が低いという事実だけで無投票が発生するわけではなく、報酬を上げれば候補者不足が自動的に解消するとも限らない。しかし、地方議員の仕事には本会議への出席だけでなく、委員会、行政資料の調査、住民相談、地域行事、政策研究などが伴うため、十分な生活収入を得られる専業職とは言いにくい一方、副業として簡単にこなせるほど軽い仕事でもないという矛盾が生じる。

 この条件は、とりわけ会社員に重くのしかかる。勤務先に兼業制度や休職制度がなければ立候補を機に退職せざるを得ない場合があり、しかも選挙に当選する保証はなく、当選しても4年後に再選できる保証はない。そのため、40代や50代の会社員が「地域のために働いてみたい」と考えても、その意欲だけでは越えられない経済的な壁が存在する。

 地方議会のなり手不足とは、政治に関心のある人がいない問題というより、政治に関心があっても職業生活を維持したまま参加することが難しい問題として捉えた方が実態に近い。

小さな町ほど、立候補は本人だけの問題ではなくなる

 小規模地域では住民同士の関係が密接であり、それは災害時の助け合いや高齢者の見守りでは大きな長所となるが、選挙では必ずしも政治参加を促進する方向だけに作用するとは限らない。

 全国町村議会議長会が行った現地調査では、小規模な町村では候補者本人だけでなく家族や親族まで地域から注目されるため、家族の反対によって立候補を断念した事例や、地域の推薦を受けていない移住者が立候補を考えた際に周囲から難色を示された事例などが報告されている。また、一部地域には、自ら立候補することを「出過ぎた行為」と捉える文化的な感覚が残っているとの指摘もある。

 ただし、これらは全国すべての小規模自治体に共通することを統計的に証明した結果ではなく、現地調査や聞き取りから得られた事例であることには注意が必要である。それでも、立候補が匿名性の高い都市部とは違って本人の政治的決断だけでは完結せず、家族や地域の人間関係を巻き込む場合があるという指摘は、候補者不足を人口統計だけでは説明できない理由の一つになる。

 ここには地方政治の難しい逆説がある。地域とのつながりが強い人ほど議員に向いているように見える一方、その人ほど立候補によって失う可能性のある人間関係も多い。商売をしていれば顧客との関係を考え、会社員なら勤務先を考え、家族は近所付き合いを考えるため、政治参加によって生じる社会的な費用が大きくなれば、「そこまでして議員にならなくてもよい」と判断することも個人にとっては合理的なのである。

候補者だけでなく、候補者を「担ぐ人」も減っている

 地方選挙では、候補者本人がある日突然政治家を志し、すべてを一人で準備して立候補するとは限らない。かつては自治会、商工団体、農業関係者、地域の世話役などが候補者を探し、「次はあの人に出てもらおう」と本人を説得し、選挙運動を支えることも珍しくなかった。候補者の背後には、候補者を発見し、支援し、政治へ送り込む地域社会の仕組みが存在していたのである。

 ところが人口減少と高齢化は、候補者になる世代だけでなく、その「担ぎ手」となってきた地域組織の側にも及んでいる。全国町村議会議長会の調査でも、従来の選挙を支えた組織や担ぎ手が弱まり、初めて立候補する人が選挙手続きや人員確保、資金準備などを自ら行わなければならない状況が指摘されている。

 もっとも、自治会や商工会などの縮小が候補者数をどの程度減らすのかを全国的な統計から数量的に示した研究は十分ではないため、「地域組織が弱くなったから無投票が増えた」と直接的な因果関係を断定することはできない。それでも、政治参加には候補者本人だけでなく候補者を発掘し支援する社会的な基盤が必要だという考え方には十分な合理性がある。

 人口減少から無投票へ至る経路は、「人口が1割減れば候補者も1割減る」という単純なものではないのかもしれない。人口が減ることで若年層が減り、事業所や商店が減り、地域組織が弱まり、候補者を探す人も支援する人も少なくなり、その長い連鎖の最後に候補者不足が数字となって表れると考える方が、地方社会の実態には近い。

定数を減らせば解決するという単純な話でもない

 候補者が少ないのであれば議員定数を減らせばよいという考え方も、一見すると合理的である。定数12人に候補者が12人しかいないため無投票になるのであれば、定数を10人に減らせば候補者12人で選挙が成立するからである。

 しかし、定数削減には別の作用もある。議席が少なくなれば一人の候補者が当選するために必要な支持は相対的に大きくなり、既存の支持基盤を持たない新人にとって参入障壁が高くなる可能性がある。町村議会を対象とした研究でも、低い議員報酬だけでなく少ない議員定数と無投票との関連が指摘されている。

 もちろん、定数を減らせば必ず候補者がさらに減るという意味ではなく、短期的には候補者数と定数との差が広がり、無投票を回避できる自治体もあるだろう。しかし、無投票を解消することだけを目的として定数を減らし続ければ、形式上は選挙が成立していても、新しい人が政治へ参入するための入口まで狭くしてしまう可能性がある。

無投票になりやすい自治体にあるのは、一つの原因ではなく「条件の重なり」ではないか

 ここまでを整理すると、無投票選挙が増える自治体の特徴を一つの数字だけで説明することは難しいことが分かる。統計的にかなり確実なのは、小規模で人口密度の低い自治体ほど無投票が発生しやすいということであり、その背景には高齢化、議員報酬の低さ、会社員が立候補する際の職業上のリスク、地域組織の担い手不足、新人が参入する際の障壁など、複数の条件が重なっている可能性がある。

 したがって、「人口5000人以下なら無投票になる」といった明確な境界線を設定することはできない。同じ5000人の町でも人口密度、産業構造、通勤形態、議員報酬、議員定数、地域組織、移住者の割合、地域社会の開放性などが違えば候補者供給の条件も異なるからである。

 科学的に重要なのは、ここで相関と因果を混同しないことである。小規模自治体ほど無投票になりやすいことはかなり強いデータで確認できるが、「人口が少ないから無投票になる」という単独の因果関係が証明されているわけではない。むしろ自治体が小規模になるにつれて、候補者を生み出す社会的・経済的条件が複数同時に厳しくなると考える方が、現在確認できる研究には整合的である。

本当に問題なのは「選べない状態」が続くことである

 無投票選挙については、選挙費用がかからず、地域内で候補者への合意が形成されているのであれば合理的ではないかという考え方もできる。実際、一度無投票になったという事実だけから、その自治体の民主主義が機能していないと断定することはできない。

 しかし、無投票が何度も繰り返される場合には別の問題が生じる。選挙がなければ候補者同士の政策比較は行われず、住民は複数の選択肢から地域の将来像を選ぶ機会を持たない。選挙期間中に本来行われるはずだった政策論争そのものが発生しないため、誰が当選するかという結果だけでなく、地域社会が政治を考える過程そのものが失われることになる。

 競争性の低い選挙と投票率との関連を示す研究は存在するものの、「無投票が続くことで住民の主権者意識が低下し、その結果としてさらに候補者が減る」という因果の連鎖までが全国的なデータによって十分に証明されているわけではない。逆に、もともと政治参加の低い地域だからこそ無投票が起こりやすいという逆方向の因果も考えられる。

 したがって、無投票が住民の政治意識を必ず低下させると断定するよりも、無投票が繰り返されれば、住民が候補者を比較し、政策を選択し、地域の将来について議論する機会が継続的に失われるという事実そのものを問題として捉える方が適切である。

無投票率は「地域の更新能力」を映す指標になり得るか

 ここから先は、現在の研究によって確立された結論ではなく、一つの仮説として考えてみたい。無投票率は、その地域社会が新しい担い手をどれだけ生み出せるかという「地域の更新能力」を見る補助的な指標として使えるのではないだろうか。

 人口減少率や高齢化率は地域の人口構造をよく表すが、それだけでは新しい住民が地域活動へ参加できるのか、若い世代が意思決定に入れるのか、既存組織の外から新しい人が出てこられるのかまでは分からない。もし人口規模や高齢化率がほぼ同じ二つの自治体で、一方では毎回複数の新人候補が現れ、もう一方では何期も無投票が続いているとすれば、その違いには人口統計だけでは捉えられない社会的な条件が存在する可能性がある。

 この仮説を検証するには、自治体ごとの無投票回数と人口減少率、高齢化率、人口密度、議員報酬、定数、産業構造、新人候補割合、移住者割合、地域組織への参加状況などを長期間にわたって比較する必要がある。その研究が十分に行われているわけではない以上、「無投票率が地域衰退を示す」と断定することはできないが、地域社会の政治的な新陳代謝を見る材料として注目する価値はある。

選挙がなくなる前に、何が地域から失われているのか

 無投票選挙の増加を人口減少だけの問題として処理すると、「人口が少ない地域では仕方がない」という結論になりやすい。しかし、実際には同じ規模の自治体であっても選挙になるところと無投票になるところが存在している以上、人口だけでは説明できない何かがある。

 そこには議員という仕事の経済条件、会社員が政治参加するための制度、候補者を支える地域組織、外部から来た住民や若い世代を受け入れる地域社会の開放性、そして議会そのものが住民から魅力ある政治参加の場として見えているかどうかまで、多くの要素が絡んでいる可能性がある。

 選挙とは、誰を選ぶかを決める制度である。しかし、その前にはもっと根本的な条件が存在する。選ばれようとする人が複数いなければ、住民が「選ぶ」という行為そのものが成立しないからである。

 地方自治にとって本当に注意すべき変化は、投票率が50%を切ることだけではないのかもしれない。そのさらに手前で、投票率を計算する選挙そのものが行われなくなっていくことにも目を向ける必要がある。

 人口が静かに減る町では、最初に学校が統合され、商店が閉じ、路線バスが消えるとは限らない。それらの変化と並行して、「次の選挙に出る人がいない」という政治の担い手不足が先に姿を現すこともある。ポスターのない選挙期間は静かであり、住民の日常生活が直ちに変わるわけでもない。しかし、その静けさが4年ごとに繰り返されるようになったとき、私たちは「選挙がなくて困らない」と考えるだけでなく、なぜこの地域から選ばれようとする人が生まれにくくなったのかを問い直す必要がある。

 無投票選挙が発しているのは、「人口が減った」という単純な警報ではない。それは、地域社会が新しい担い手を生み出し、世代を交代させ、異なる意見を政治へ送り込む力が今も残っているのかを問いかける、人口減少時代の地方自治から届く静かな警告なのかもしれない。

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 町役場が道路を直す。学校の空調設備を更新する。庁舎の清掃を委託し、公用車を購入し、給食の食材を調達する。自治体が何かを買うたび、住民から集められた税金は企業の売上へと姿を変えるが、その契約書に地元企業の名前が記されていれば、私たちはどこか安心する。「どうせ税金を使うのなら、地元に落とした方がいい」という感覚は分かりやすく、地域振興という言葉ともよくなじむ。

 実際、町外の大企業が公共工事を受注し、資材も作業員も地域外から持ち込み、工事が終わると利益まで町の外へ出ていくように見えれば、「これでは地域経済のためにならない」と感じるのは自然である。それなら、多少価格が高くても地元企業へ仕事を回し、従業員の給与や企業利益を地域に残した方がよいのではないか。給与を受け取った住民が町内の商店で買い物をすれば、そのお金はさらに別の企業の売上となり、地域の中を循環していくようにも思える。

 ところが、公共調達を地域経済の側から真面目に考え始めると、この一見単純な話は急に複雑になる。なぜなら、自治体にとっての「得」、地元企業にとっての「得」、住民全体にとっての「得」は必ずしも一致せず、しかも地元企業への発注額そのものと、地域経済に実際に残る所得も同じではないからである。

「地元に一億円落ちた」という言葉の危うさ

 そもそも「地元企業」とは何を意味するのだろう。本社が町内にある企業なのか、営業所があれば地元企業なのか、従業員の多くが町民なら地元企業なのか、それとも町内企業から多くの商品や資材を購入している企業なのか。この定義を少し変えるだけでも、地域経済に残るお金の量はかなり変わる。

 たとえば町内に本社を置く建設会社が一億円の工事を受注したとしても、その一億円すべてが町内に残るわけではない。鋼材やコンクリートを町外から購入し、重機を町外企業から借り、専門工事を他地域の会社へ再発注すれば、その部分のお金は地域外へ出ていく。一方で町外企業が受注した場合でも、町民を雇用し、地元の事業者から資材を購入し、町内企業へ下請工事を発注するなら、かなりの金額が地域経済へ流れ込む可能性がある。

 経済学的に重要なのは、契約書に記された企業の住所よりも、その支出によって地域内にどれだけ所得、雇用、利益、取引が残ったかである。地域経済分析では、地域内で生まれた所得が再び地域内で消費されれば追加的な需要が生まれる一方、仕入れや所得の多くが地域外へ流れれば、その波及効果は小さくなると考える。

 したがって「地元企業への発注額が増えた」という数字だけでは、地域振興政策の成功を証明することはできない。簡単に測れるのは受注額だが、本当に知りたいのは、そのうちどれだけが地域の所得として残り、さらに何度地域内を循環したかなのである。

一億円の工事を一億一千万円で発注する意味

 地元企業優先について、もう一つ避けて通れない問題が価格である。ただし、ここでは誤解しない方がよい。地元企業だから必ず価格が高いわけではなく、地元企業の方が移動費や情報収集費を抑えられ、結果として安くなるケースもあり得る。問題になるのは、所在地などによって競争相手を過度に絞り込み、十分な競争が働かなくなった場合である。

 仮に同じ品質の工事について、広域的に競争すれば一億円で契約できるところを、地元企業を優先した結果、一億一千万円になったとしよう。この一千万円には、地域内雇用や企業利益を支える効果があるかもしれない。しかし、その一千万円もまた住民の税金であり、その金額を追加で支払えば、別の道路補修、学校設備、福祉、防災、子育て支援などに使える予算は減る。

 ここで比較すべきなのは、「地元企業へ一億一千万円を払った場合」と「より安い企業へ一億円を払い、残った一千万円を別の行政サービスへ使った場合」である。前者では地域企業に所得が残る可能性があるが、後者でも追加の行政支出を通じて別の雇用や住民サービスが生まれる可能性があり、一方だけを見て地域経済への効果を判断することはできない。

 これは経済学でいう機会費用の問題である。一つの政策へ使った税金は、同時に別の政策へ使うことができない。人口減少によって税収の大幅な伸びが期待しにくい自治体ほど、この考え方は重くなる。

 したがって、本来の問いは「地元企業を優先するべきか、するべきでないか」という二択ではない。地元企業への発注によって得られる地域所得、雇用、技術維持、災害対応力などの便益が、競争低下や価格上昇による追加負担をどこまで上回るのかという比較なのである。

地元企業が存在すること自体に価値がある仕事

 もっとも、公共調達を単に価格だけで判断するのも危険である。道路、水道、除雪、設備修繕、災害復旧などでは、自治体の近くに事業者が存在していること自体が公共サービスを支える能力になっている場合があるからだ。

 平常時なら数十万円安い町外企業に発注できても、台風で道路が寸断された翌朝に重機を動かし、倒木や土砂を撤去できるのは地域の建設会社かもしれない。深夜に水道管が破裂したとき、短時間で現場に駆けつけられる設備会社が近くに存在することにも価値がある。こうした緊急対応能力は通常の入札価格だけでは十分に表現できない。

 日本でも建設業は災害時の応急復旧やインフラ維持を担う「地域の守り手」として政策上位置づけられており、公共工事の評価でも、工事の性格によっては地域精通度、災害協定、地域貢献、維持管理能力などが考慮されることがある。したがって、地域企業の存在そのものに一定の公共的価値を認める考え方は、単なる感情論ではない。

 ただし、「一度企業がなくなれば二度と戻らない」とまで言い切る必要はない。より正確には、長い時間をかけて形成された技術者、設備、取引網、地域事情への知識、緊急時の連絡体制などを、一度失った後で短期間に再構築することは難しいということである。

 公共調達には、今日の工事を買うという役割だけでなく、将来もその地域で工事や修繕を行える供給能力を一定程度維持する側面がある。価格だけを見れば多少高く見える契約でも、長期的な維持管理や非常時の対応力まで含めれば合理的となる場合があり、逆に、その価値がほとんどない業務まで「地元だから」という理由だけで高く契約すれば、住民にとっては単なる追加負担になりかねない。

「守ること」がいつの間にか目的になる危険

 地域企業を残すことに価値があるとしても、その論理をどこまでも広げてよいわけではない。地元企業優先が長期間固定されれば、公共調達市場そのものが閉じた市場になる可能性があるからである。

 毎年ほぼ同じ企業が入札し、役所も発注者も互いの事情をよく知り、新規企業が入りにくい状態が続けば、競争参加者は減っていく。公共調達については、一般に競争可能な企業が多いほど価格競争が働きやすく、日本の公共工事を用いた研究でも、有効な入札者が増えるほど落札価格が低下する傾向が報告されている。

 もっとも、ここでも因果関係を単純化することはできない。競争が激しければ激しいほど常に企業の生産性や技術革新が高まるとは限らず、市場構造や産業によって効果は異なる。それでも、特定企業が恒常的に保護され、新規参入がほとんど起こらない市場では、価格低減、生産性向上、新技術導入への圧力が弱まる可能性があるという指摘には十分な理論的根拠がある。

 地元企業を育てるための制度が、結果として企業を公共需要への依存体質にしてしまえば、政策の目的と結果は逆転する。役所から仕事をもらうことには強くても、民間企業や他地域から仕事を獲得する競争力を持たない会社が増えたのであれば、それを地域産業の強化と呼べるかは疑問である。

「中小企業を参加させること」と「地元企業を勝たせること」は違う

 ここには重要な区別がある。公共調達で中小企業が参加しやすくする政策と、地元企業を無条件に優先する政策は、似ているようで本質的には違う。

 公共調達の契約があまりにも大きければ、資金力や人員の限られた中小企業は最初から入札できない。過剰な売上高要件、巨大な過去実績、複雑な書類、長い支払い期間なども、中小企業にとって事実上の参入障壁となる。そのため、必要に応じて契約を合理的な単位に分割したり、過剰な資格要件を見直したり、手続きを簡素化したりすることで、中小企業の参加機会を増やす方法がある。

 この場合、目的は競争者を減らすことではなく、むしろ競争へ参加できる企業を増やすことである。

 それに対して「町内に本社がある企業だけ」「一定距離以内の企業だけ」という条件を強く設定すれば、参加者を減らすことになり、競争性を低下させる可能性がある。つまり、地域企業支援という同じ看板を掲げていても、「競争に入れる企業を増やす政策」と「競争から外す企業を増やす政策」では経済的な意味が大きく異なる。

 国や自治体が中小企業の受注機会拡大を進めていることも、「所在地だけを理由に地元企業へ契約を与えることが常に望ましい」という意味ではない。公共調達では、中小企業の参加機会、公正な競争、適正な価格、品質を同時に考える必要がある。

公共調達に地域振興をどこまで背負わせるのか

 さらに根本的な疑問がある。公共調達は、そもそもどこまで地域振興政策を担うべきなのだろう。

 道路工事を発注する第一の目的は、地元建設会社の売上を増やすことではなく、安全で必要な道路を適切な費用で整備することである。学校給食を調達する目的は食品会社を支援することではなく、安全で安定した食事を子どもへ提供することであり、行政システムを導入する目的も、情報技術企業を育成することではなく、行政サービスを改善することである。

 公共調達に地域雇用、環境、福祉、企業育成、防災、脱炭素など多くの政策目標を加えることには意味がある一方、目的を増やしすぎれば、調達そのものの価格や品質を客観的に評価しにくくなる。

 だからといって最安値だけを選べばよいわけでもない。安い工事を選んだ結果、耐久性が低く数年後に再施工が必要になれば、最初の価格差は簡単に消える。設備についても、購入価格は安いが修理費や保守費が高い製品なら、長期的には割高になる。

 公共調達で本当に求められているのは単純な最安値ではなく、税金一円当たりから住民が受け取る長期的な価値を大きくすることである。

地元企業だから評価するのか、地域に価値を残すから評価するのか

 ここまで考えると、「地元企業だから加点する」という考え方より、「その企業が地域にもたらす実質的な価値を評価する」という発想の方が合理的に見えてくる。

 たとえば緊急時に短時間で出動できる体制、地域住民の雇用、地域内の下請企業との取引、継続的な維持管理能力などが契約の目的と実質的に関係するのであれば、それらを適切に評価する余地はある。

 しかし、公共調達では発注者が自由に地元企業を優遇できるわけではない。日本の公共調達には、公平性、透明性、競争性という原則があり、一定規模以上の調達では国際的な政府調達ルールとの整合性も求められる。したがって、地域貢献や所在地をどこまで評価できるかは、契約の種類、金額、発注主体、業務内容などによって異なり、「地域振興になるから」という理由だけで自由に差を設けられるものではない。

 実際の制度設計では、地域対応力が契約履行に本当に必要なのか、その評価方法が透明なのか、特定企業を恣意的に優遇していないかという点が問われる。

 ここは地域振興政策と公共調達制度の間にある緊張関係である。地域にお金を残したいという政治的要求がある一方、税金を使う以上、公平な競争を確保しなければならない。この二つを同時に満たす制度設計こそが難しい。

行政境界と地域経済の境界は同じではない

 もう一つ、「地元」という言葉そのものを考え直す必要がある。経済活動は市町村境界で止まっていないからである。

 住民は隣町のスーパーで買い物をし、隣市の病院へ通い、別の自治体にある会社へ勤務する。企業も同じで、仕入れ先、従業員、顧客、下請会社は複数の自治体にまたがっている。

 人口数千人程度の町では、とりわけこの傾向が強い。町内だけで建設、医療、物流、情報技術、設備保守など、あらゆる産業を完結させることは現実的ではなく、隣接自治体を含む生活圏や経済圏が実質的な地域を形成している。

 そのため「町内企業か町外企業か」という二分法だけで経済効果を判断すると、実際の地域経済を見誤る可能性がある。町外企業でも町民を多数雇っている場合があり、町内企業でも仕入れや従業員の大半が町外であれば、地域内に残る所得は意外に少ないかもしれない。

 公共調達を地域政策として利用するのであれば、「地元企業とは誰か」ではなく、「どの範囲を一つの地域経済圏として考えるのか」という問いまで進まなければならない。

本当に測るべきものは「地元企業受注率」ではない

 自治体が地域企業支援の成果を示すとき、「地元企業への発注率」は分かりやすい数字である。しかし、分かりやすい数字が必ずしも重要な数字とは限らない。

 仮に地元企業受注率が五十%から八十%へ上昇しても、入札参加企業が減り、落札率が上昇し、新規参入がなくなり、毎年ほぼ同じ企業が契約するようになったのであれば、その政策を成功と呼べるかは疑わしい。

 反対に地元企業受注率がそれほど高くなくても、地域企業が公共調達を通じて技術や実績を蓄積し、町外自治体や民間市場から仕事を獲得するようになり、雇用や所得を増やしているなら、産業政策としてはこちらの方が健全かもしれない。

 本当に評価するのであれば、地元企業受注率だけではなく、入札参加企業数、新規参入数、落札率、契約価格、地域雇用、地域内仕入れ、地域内下請、災害対応実績、受注企業の公共部門依存度、生産性、町外市場での売上などを長期的に見る必要がある。

 さらに科学的に厳密な評価を行うなら、「地元企業優先政策を実施した地域」と「実施しなかった類似地域」の変化を比較するなど、政策を実施しなかった場合に何が起きていたかという反実仮想を考えなければならない。単に地元企業の売上が増えたという事実だけでは、その増加が政策の効果なのか、景気や公共事業増加など別の要因によるものなのかは分からないからである。

地元優先か最安値かという二択から離れる

 公共調達の議論は、「税金なのだから一円でも安くするべきだ」という考えと、「地域経済のために地元企業を優先するべきだ」という考えに分かれやすい。しかし、どちらも単独では十分ではない。

 最安値だけを追えば、品質、維持管理、緊急対応力、将来の地域供給能力を失う可能性がある。一方で地元企業だけに閉じた市場をつくれば、競争参加者が減少し、価格やサービス改善の圧力が弱まる可能性がある。

 現実的なのは、その間に制度を設計することである。契約を必要以上に巨大化せず、中小企業も参加できる規模にし、過剰な参加条件を取り除き、新規企業が入りやすくする一方、価格だけでは測れない品質、維持管理、緊急対応能力なども合理的な範囲で評価する。

 その競争の結果として地元企業が選ばれるのであれば、それは地域経済にとって望ましい姿だろう。

 地元企業を「競争から守る」のではなく、「競争に参加できるようにする」という考え方である。わずかな言葉の違いに見えるが、政策としては全く異なる。

公共調達は十年後の地域に何を残すのか

 一件の公共工事だけを見れば、それは道路を直したり、建物を建てたりする契約にすぎない。しかし、毎年繰り返される公共調達を十年、二十年という時間で眺めれば、その選択によって地域の企業構造そのものが少しずつ形づくられていく。

 誰へ仕事を発注するかによって企業が残り、技術者が育ち、設備が維持され、雇用が生まれることがある。一方で、その企業を守るために自治体が高い費用を払い続ければ、他の公共サービスへ回せる財源は減る。

 そのため、「地元企業への公共調達は地域経済に得なのか」という問いに、全国共通の一つの答えはない。

 地域内に残る所得が大きく、地域雇用を生み、災害対応や維持管理能力を支え、価格差も小さいのであれば、地元企業への発注には十分な合理性がある。しかし、所在地だけを理由に競争を狭め、価格差が大きく、同じ企業だけが受注し続け、企業自身の競争力も育っていないのであれば、その制度は地域経済を支えているというより、公共支出への依存を固定している可能性がある。

 結局、見るべきなのは「地元企業への発注率」ではない。その政策によって地域内にどれだけ所得と雇用が残り、企業の技術と競争力がどれだけ育ち、災害時や人口減少時の供給能力がどれだけ維持され、そのために住民が追加的にどれだけの費用を負担したのかという全体の収支である。

 地域経済を守るという言葉は美しい。しかし、本当に強い地域経済とは、役所が守り続けなければ生き残れない企業が多い地域ではなく、地域の仕事を担いながら、外の市場とも競争できる企業が存在する地域なのではないだろうか。

 公共調達をそのための入口として利用することはできる。ただし、出口まで公共調達に依存させてはいけない。

 公共調達で本当に問われているのは、「税金を地元に落としたか」ではない。その一円によって、十年後の地域にどれだけの所得、技術、競争力、そして非常時にも機能する供給能力を残せたのかなのである。

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 政治家の失敗には、少なくとも二つの種類がある。判断そのものを誤った失敗と、問題の所在はかなり正確に見抜いていたのに、それを現実に変える方法を誤った失敗である。前者は比較的分かりやすく、結果が出れば、どこで情勢を読み違えたのかを検証できる。しかし後者は厄介である。時間がたつほど「あの人の言っていたことにも一理あった」という再評価が生まれる一方で、それならなぜ、その人物は政治的な勝者になれなかったのかという疑問が残るからだ。

 加藤紘一という政治家を振り返るとき、この疑問から逃れることは難しい。とりわけ2000年11月に起きた、いわゆる「加藤の乱」は、一人の政治家の失敗談としてだけ読むには惜しい事件である。そこには、世論と議員行動のずれ、正論と組織の力の違い、選挙制度と党公認権、集団行動が崩れる仕組み、そして政治において「正しいこと」と「正しいことを実現すること」がなぜ別の能力なのかという問題が、ほとんど標本のように詰まっている。

 2000年11月20日、野党が森喜朗内閣に対する不信任決議案を提出すると、自民党の有力政治家だった加藤紘一は、山崎拓とともにこれに同調する姿勢を示した。ところが、決定的な局面に近づくにつれて党執行部による猛烈な切り崩しが進み、加藤を支持するとみられていた議員たちは次々に造反から離れていった。加藤は最後には自ら国会へ向かおうとしたものの、側近たちに止められ、本会議を欠席する。不信任案の採決そのものは日付をまたいだ11月21日未明に行われ、賛成190票、反対237票で否決された。

 その直前、加藤を制止した谷垣禎一が「あんたは大将なんだから」と語った場面は、平成政治を象徴する映像として長く記憶されることになった。敗北したのは不信任案だけではなかった。加藤自身が党内で築いてきた政治的影響力も、この一件によって大きく傷ついたのである。

 この光景だけを切り取れば、政局を読み違えた政治家が無謀な倒閣運動を起こし、最後には自ら投票することさえできずに敗れた話に見える。しかし四半世紀ほどの距離を置いて眺めると、それほど単純でもない。加藤が見ていた森政権の脆弱さそのものは、少なくとも現実から大きく外れた認識ではなかったからである。

森政権を危ういと見た判断は間違っていたのか

 森喜朗内閣は、小渕恵三首相の急病という異例の状況のなかで発足した。その政権継承をめぐっては、党幹部らによる協議のあり方が「五人組」「密室政治」と厳しく批判された。森自身は、次の首相を密室で決めたわけではないと国会でも反論しており、したがって歴史的事実として「密室で森首相が決められた」と断定するのは適切ではない。それでも、そのような批判が強く存在し、政権発足時から正統性に疑問を持つ世論があったことは確かである。

 その後も失言や政権運営をめぐる問題が重なり、森内閣の支持率は低下した。加藤が動いた2000年秋には、森政権をこのまま続けてよいのかという疑問は、加藤一人の思いつきではなく、自民党内部にも社会にも存在していた。

 重要なのは、この後の歴史を見て「だから加藤は正しかった」と単純に結論づけないことである。森政権は加藤の乱から約5か月後の2001年4月に終わるが、そこに至るまでには森内閣の低支持率だけでなく、複数の政治問題や党内事情が重なっている。後から政権が崩れたという結果だけを見て、加藤が将来を完全に予見していたと考えるのは、典型的な後知恵になりかねない。

 それでも、加藤が感じ取っていた政権基盤の弱さそのものを、単なる妄想と片づけることもできない。森政権は実際に短期間で求心力を失い、翌春には新しい総裁を選ばざるを得なくなった。したがって加藤の問題認識については、「正解だった」と言うよりも、「少なくとも重大な問題の存在を捉えていた」と評価する方が正確だろう。

 ところが、政治では問題を正確に発見することと、その問題を解決できることは同じではない。

世論が動いても、国会議員が動くとは限らない

 加藤の乱が起きた2000年は、日本の政治にインターネットが影響を与え始めていた時期でもあった。加藤のホームページには大量のアクセスが集まり、激励の電子メールが多数送られた。加藤自身も、そこに社会からの期待を感じ取っていた。

 しかし、ここに大きな落とし穴があった。インターネット上で強く観察される支持と、国民全体の支持は同じではなく、さらに国民の支持と国会議員の投票行動も同じではないからである。

 有権者がテレビを見ながら「森政権を代えた方がいい」「加藤にやらせてみてもいい」と考えることには、大きな個人的代償はない。しかし、自民党所属の国会議員が野党提出の内閣不信任案に賛成するとなれば事情はまったく違う。そこでは自分の信念だけではなく、次回の選挙で党公認を受けられるのか、後援会や地方組織はどう動くのか、党内の役職や政治的将来を失わないか、自分だけが敗者側に取り残されないかという問題まで、一度に判断しなければならない。

 しかも1990年代の選挙制度改革によって衆議院に小選挙区制が導入されると、自民党公認の意味は以前より重くなった。中選挙区制では同じ自民党から複数候補が競うことも普通だったが、小選挙区では原則として一つの政党から一人の公認候補が出る。そのため、党執行部が持つ公認権は議員の政治生命により直接的な影響を与えるようになった。

 野中広務ら党執行部が強かったのは、森喜朗の政治的主張の方が加藤紘一より論理的に優れていることを証明したからではない。造反しようとしている議員一人一人が何を恐れ、何を失いたくないのかを理解し、その条件に働きかけることができたからである。

 ここに、正論と権力が一致しない最初の理由がある。正論は人間の考えを変えようとするが、権力は人間が行動を選ぶ条件そのものを変える。

「森首相を辞めさせたい」と「加藤についていく」は同じではなかった

 政治では、多くの人間が同じ不満を持っていても、それだけで集団行動が成立するとは限らない。

 当時の自民党議員の中に森政権への不満を持つ者がいたとしても、「森首相は交代した方がよい」と考えることと、「野党の内閣不信任案に賛成し、自分の政治生命まで賭けて加藤と行動を共にする」ことの間には大きな距離がある。

 しかも一人一人の判断は、他の議員がどう行動するかによって変わる。例えば五十人が確実に造反すると分かっていれば、自分も加わろうと考える議員がいるかもしれない。しかし、途中で三十五人しか集まらないと分かった瞬間、その議員にとって造反の期待値は変わる。そこで一人が離れれば三十四人になり、その情報を見た別の議員も離れる。このように、ある人数を下回った瞬間から集団行動が連鎖的に崩れていく現象は、政治だけでなく、企業組織や社会運動にも起こり得る。

 加藤の乱は、この協調問題が政治の現場で可視化された事件だったとも考えられる。

 加藤の大きな誤算の一つは、森政権に対する不満の大きさそのものよりも、その不満が自分への政治的支持として結晶化すると期待したことだったのではないか。森政権への不満が六十あっても、加藤への支持が六十あるとは限らない。加藤への好感が六十あったとしても、加藤のために党執行部と戦う覚悟を持つ者が六十いるとは限らないのである。

 政治における本当の支持とは、拍手の数ではない。最後の一票を投じるところまで同じ方向に歩いてくれる人数である。

なぜ「最後に投票しなかったこと」が重かったのか

 加藤の乱では、最後に加藤自身が不信任案へ賛成票を投じなかったことが、しばしば決定的な場面として語られる。

 もっとも、これを単純に「臆病だった」と説明するのは公平ではない。加藤一人が本会議へ向かえば、それまで行動を共にしてきた議員たちにも厳しい処分や政治的損失をもたらす可能性があった。派閥の長として仲間を守ろうとした判断だったと考える余地はあるし、もはや勝算のなくなった戦いを続けることに意味はないと判断した可能性もある。

 しかし権力という観点から見れば、撤退には別の代償が生じる。

 政治における発言の力は、その内容だけで決まるわけではない。「この人物は、最後には本当に実行する」と周囲が予測することによって、初めて交渉力になる。反対者が「強いことを言っていても、最後には撤退するだろう」と考えるようになれば、その人物が次に行う政治的な威嚇や交渉の効果は低下する。

 もちろん、もし加藤が一人でも本会議に出席して不信任案へ賛成していたなら、その後の評価が上がったと断定することはできない。逆に「勝算もないのに党を混乱させた政治家」として、さらに厳しく批判された可能性もある。しかし少なくとも、言葉どおり最後まで投票した政治家として、現在とは異なる記憶が残った可能性はある。

 加藤の乱が単なる敗北ではなく、「挫折」という印象を伴って記憶された理由もそこにある。負けたことだけでなく、勝負を宣言した人物が最後の決定的な場面で勝負そのものから降りたように見えたのである。

小泉純一郎は、なぜ加藤と同じ道を選ばなかったのか

 加藤紘一の敗北を考えるうえで、もっとも興味深い比較対象は小泉純一郎である。

 ここで一つ、重要な事実を確認しておかなければならない。後に「自民党をぶっ壊す」と訴え、旧来の自民党政治に挑戦する象徴となった小泉は、加藤の乱では加藤側に立っていない。それどころか森派の有力政治家として、野中広務らとともに加藤・山崎両派の造反を阻止する側に回っていた。

 この事実は、小泉を単純な改革者、加藤をその先駆者として並べる見方を難しくする。しかし同時に、二人の違いをより鮮明にもする。

 加藤は、自民党執行部に正面から反旗を翻し、野党提出の内閣不信任案という制度を利用して、一気に森政権を倒そうとした。成功すれば劇的だったが、失敗した場合の政治的損失も極めて大きかった。

 一方の小泉は、その時点では党を割る側には回らず、加藤の反乱を止める側に立った。それにもかかわらず、わずか約5か月後の2001年4月には、自民党総裁選という党内の正規手続きに立候補し、橋本龍太郎らを破って総裁になる。そこで小泉は、従来の自民党政治への国民的不満を自らの政治資源へ変え、「自民党を変える」という物語の中心人物になった。

 加藤と小泉の違いは、単純に改革派と保守派の違いではない。同じ党内に存在する不満や社会の閉塞感を、どの制度的な回路を通して権力に変換するかという違いだった。

 加藤は堤防を壊して川の流れを変えようとした。小泉は堤防を壊す戦いには加わらず、その後に開いた水門を使って自分が流れの中心に入った。

 この比喩で見るならば、加藤が完全に時代を読み違えていたとは言いにくい。むしろ、時代の変化を感じ取りながら、それを自分の権力へ変換する装置を最後まで作れなかった政治家だったと考えた方が、二人の違いを説明しやすい。

加藤紘一は、本当に「正しい政治家」だったのか

 しかし、ここまで読んで加藤を「正しかったのに権力政治に敗れた人物」と美化してしまえば、今度は別の誤りに陥る。

 政治家の主張は数学の答案ではない。二十年後に答え合わせをして、丸かバツかを付けられるものばかりではないからである。森政権をいつ倒すべきだったのか、景気対策と財政再建をどう両立するべきだったのか、中国とどの程度協調するべきだったのか、安全保障政策をどこまで拡張するべきだったのかには、それぞれ複数の合理的立場が存在する。

 加藤はその後、自民党内では比較的穏健な保守政治家として、日中関係を重視し、小泉首相の靖国神社参拝を批判した。イラク戦争にも反対・慎重な立場をとり、自衛隊派遣にも慎重だった。イラク戦争については、開戦前に想定されていた大量破壊兵器の大規模な備蓄が戦後の調査で確認されなかったため、開戦に慎重だった政治家たちの議論を後から再検討する材料は増えた。

 しかし、それによって加藤が常に正しく、反対した政治家が常に間違っていたことにはならない。

 むしろ加藤紘一という政治家を考えるうえで興味深いのは、後から振り返ったときに無視できない論点をたびたび提示しながら、それを持続的な政治的多数派へ変えることができなかったという事実である。

 正しさと権力の距離を考えるなら、その方が重要だ。

正論は、それだけでは政治にならない

 私たちは政治を語るとき、ときに「正しいことを言えば人は動く」という考えに引き寄せられる。その反動として政治の現実を知ると、「結局は数だ」「結局は権力だ」と冷笑したくもなる。

 しかし、どちらも政治の半分しか見ていない。

 正しさだけがあって権力がなければ、政策は実行されない。一方、権力だけがあって正しさを問わなくなれば、その権力を何のために使うのか分からなくなる。民主政治が難しいのは、この二つを同時に必要とするからである。

 正しいと考える政策を現実に変えるには賛同者が必要であり、その賛同者が決定的な瞬間まで離れない仕組みが必要になる。反対者が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを理解し、ときには妥協し、ときには待ち、ときには退路を断つ必要もある。それは思想だけではできず、組織だけでもできない。政治とは、利害も恐怖も野心も異なる人間を、ある時点で同じ方向へ動かす仕事だからである。

 加藤紘一には言葉があった。政策を考える能力があり、外務官僚出身の国際感覚を持ち、自民党幹事長まで務めた経験もあった。それでも総理大臣にはなれなかった。

 その理由を「いい人だったから」「正論を言ったから」と説明してしまえば、政治という営みのもっとも重要な部分を取り逃がすことになる。問題を発見する能力と、その問題を解決できる多数派を作る能力は別だからである。

「正しかったのに負けた」という物語の危うさ

 敗れた政治家を後世から眺めると、私たちはしばしばそこに物語を付け加える。勝者は権力に汚れ、敗者は信念を守ったという物語である。

 しかし、加藤紘一の政治人生はそれほどきれいには整理できない。

 加藤自身も権力を望んでいた。自民党総裁となり、総理大臣になることを目指していた政治家である。森政権を倒した後に、自らが政治の中心に立つことも当然、視野に入れていた。つまり加藤は、権力から距離を置いた孤高の思想家ではなく、権力を獲得しようとして失敗した政治家だった。

 だからこそ、この人物は興味深い。

 加藤の乱から見えてくるのは、善と悪の対決でも、正論と悪辣な権力者の対立でもない。政治における「問題認識の正しさ」と「実行能力」のずれである。森政権が弱体化しているという認識に相当な根拠があったとしても、不信任案を利用して倒閣するという方法まで適切だったとは限らない。国民の不満を感じ取ることができても、それが自分への支持に変わるとは限らず、自分への支持があったとしても、それが造反票になるとは限らない。

 さらに、時代の方向をある程度見抜いていたとしても、いつ動くのか、どの制度を利用するのか、誰と組むのか、誰を敵に回すのか、どの時点で退路を断つのかという判断を誤れば、政治的には敗北する。

 したがって、「加藤紘一は正しかったのに負けたのか」という問いに対する答えは、単純な「はい」でも「いいえ」でもない。

 少なくとも加藤の乱についていえば、加藤は森政権の弱さという問題の存在をかなり正確に捉えていた。しかし、その問題認識を実際の権力へ変換する設計には失敗した。正しかったから負けたのではない。自分が正しいと考えた方向へ政治を動かすために必要な人数、制度、タイミング、組織、覚悟を、一つの力として束ねることができなかったから負けたのである。

 そして、その事実を最も鮮烈に示しているのが小泉純一郎なのかもしれない。加藤の乱では反乱を阻止する側にいた小泉が、そのわずか数か月後には党内の正規の総裁選を利用して権力を獲得し、今度は自らが自民党改革の象徴となった。この逆転には、政治というものの奇妙さが凝縮されている。

 政治とは、正しい人を選び出す試験ではない。自分が正しいと考える方向へ、異なる利益、恐怖、計算を持つ人間たちを動かし、制度を通して現実を変えていく技術である。

 加藤紘一の敗北が今なお考える材料になるとすれば、それは一人の政治家の悲劇だからではない。私たち自身もまた、「正しいこと」と「正しいことを実現できること」を、つい同じものだと思ってしまうからである。

 正論は、それだけでは権力を生まない。しかし、権力が正論をまったく必要としなくなった社会も危うい。その二つの間に橋を架けることこそ政治家の仕事なのだとすれば、加藤紘一は橋の向こう岸を比較的早く見つけながら、そこへ至る橋そのものを最後まで完成させることができなかった政治家だったのかもしれない。

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 「自民党をぶっ壊す」。小泉純一郎という政治家を語るとき、今もこの強烈な言葉が思い出される。ただし、正確に言えば、小泉が訴えた論理は「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」というものだった。自民党という政党そのものを消滅させると言ったわけではなく、変化を拒む古い自民党ならば壊してでも改革するという意味であり、この違いを押さえておかなければ、その後に起きた政治の逆説も見えにくくなる。

 2001年、小泉は自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。それから4年後の2005年、郵政解散によって行われた衆議院総選挙で、自民党は296議席を獲得する歴史的な大勝を収めた。2003年の237議席から59議席も増え、公明党と合わせた与党は327議席に達したのである。「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」と訴えて登場した政治家が、結果として自民党に巨大な議席をもたらしたのだから、表面だけを見れば奇妙な話に見える。

 では、小泉純一郎は結局、自民党を壊したのではなく、むしろ強くした総理だったのだろうか。この問いは、2005年の296議席だけを見れば簡単に答えられそうだが、実際にはそれほど単純ではない。なぜなら、小泉が弱めようとした自民党の「強さ」と、小泉時代に新たに生まれた自民党の「強さ」は、同じものではなかったからである。

小泉が壊そうとしたのは自民党そのものではなかった

 戦後長く政権を担ってきた自民党は、単純な一枚岩の政党ではなかった。党内には複数の派閥が存在し、その周囲には農業団体、建設業界、医療関係団体、商工団体をはじめとするさまざまな組織が結びついていた。政治家は選挙区へ予算や政策を持ち帰り、支持者や業界団体は選挙で政治家を支え、派閥は所属議員を支援しながら総裁、大臣、党役員などのポストを競う。現在の感覚では古い政治に見えるが、こうした複雑な利害調整の仕組みそのものが、自民党の長期政権を支えていた。

 この仕組みには欠点もあった。政策決定が遅れ、改革が必要だと分かっていても、影響を受ける業界や議員への配慮によって抜本的な変更が難しくなる場合がある。しかし、その反面、自民党内部に異なる価値観や利害を抱え込み、対立を党内で調整できるという利点もあった。財政支出を増やしたい政治家も、財政規律を重視する政治家も、農村を重視する政治家も、都市部を重視する政治家も、一つの政党の中に存在することができたのである。

 小泉が強く批判したのは、まさにこの仕組みだった。政策を実行する前に派閥や業界団体へ配慮し、党内調整を重ねなければならない政治では、大きな改革は進まないと考えたからである。したがって、小泉の「自民党を変える」という主張は、自民党という政党の看板を消すことではなく、長年続いてきた党内調整型、利益配分型の政治を変えることに向けられていたと考える方が実態に近い。

小泉以前から始まっていた自民党の変化

 ただし、ここで注意しなければならないのは、自民党の構造変化をすべて小泉一人の功績、あるいは責任と考えてはいけないということである。日本政治では1990年代から大きな制度改革が進められており、その段階ですでに自民党の権力構造は変化し始めていた。

 特に重要だったのが、1994年の政治改革によって導入された小選挙区比例代表並立制である。それ以前の中選挙区制では、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるため、自民党の候補者同士が同じ選挙区で競争することも珍しくなかった。そのため、候補者は党の看板だけではなく、派閥や後援会、業界団体など自前の支持組織を必要としていた。

 ところが小選挙区制では、基本的に一つの選挙区から一人しか当選できない。そのため、どの人物を党の候補者として公認するかという党執行部の権限が以前より重くなる。政治資金制度の改革や政党交付金の導入も、派閥や個々の政治家より政党本部の重要性を高める方向に作用した。

 つまり、小泉が登場する以前から、日本政治には「派閥や個人中心の政治」から「党執行部や党首中心の政治」へ移る制度的な流れが存在していたのである。小泉はこの流れを一人で作った人物ではない。しかし、その新しい制度を誰より大胆に利用し、政治の表舞台で目に見える形にした人物ではあった。

2001年、自民党内部から自民党改革を訴える

 小泉の政治手法は、総裁になる過程からすでに従来型とは異なっていた。2001年の自民党総裁選では、地方の党員票で小泉への強い支持が示され、それが国会議員の投票行動にも大きな影響を与えた。

 ここには、小泉政治を理解する重要な特徴がある。小泉は自民党内部の派閥だけを相手に総裁の座を争ったのではなく、自民党に不満を持つ党員や一般の有権者へ直接訴えかけ、その世論を党内政治へ持ち込んだのである。制度上、日本の総理大臣を国民が直接選ぶわけではないが、政治的には、党首が世論を背景に党内を統率する性格が以前より強く表れるようになった。

 従来型の自民党では、総理大臣であっても党内の派閥や有力者を無視することは難しかった。これに対して小泉は、「国民が改革を支持している」という世論を一つの政治資源として利用し、党内の反対勢力を押し切ろうとした。党内の力関係だけではなく、党の外にある世論を使って党内政治を動かす。この手法が、後の郵政解散で最も劇的な形を取ることになる。

郵政民営化は政策であると同時に政治の物語になった

 2005年、小泉政権最大の争点となったのが郵政民営化だった。郵政事業を民営化するという政策の是非については、当時もさまざまな議論があり、現在から振り返っても評価は一つに決められない。しかし、政治史として重要なのは、その制度設計以上に、小泉がこの問題をどのような政治的構図へ変えたかである。

 郵政民営化法案に自民党内部から反対者が出ると、小泉は彼らを単なる政策上の異論を持つ仲間として処理しなかった。参議院で法案が否決されると衆議院を解散し、郵政民営化に反対した自民党議員の一部を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。後に「刺客候補」と呼ばれた人々である。

 この瞬間、本来ならば「与党対野党」となるはずの総選挙に、別の対立軸が生まれた。「小泉対抵抗勢力」である。

 この構図は極めて強力だった。政権与党である自民党は、本来なら長期政権に対する不満を受ける側にいる。しかし小泉は、自民党総裁でありながら自民党内部の古い勢力と戦う改革者として振る舞ったため、政治を変えたいという有権者が必ずしも野党へ向かわなくてもよくなった。政権交代をしなくても、小泉を支持すれば自民党内部から政治を変えられるという選択肢が提示されたのである。

 これは、自民党が政権与党でありながら、同時に改革勢力として振る舞えるという不思議な政治構図だった。長期政権の責任を負う側でありながら、既存政治と戦う側にも立つことができる。この二重性によって、小泉は政権への不満の一部まで自民党自身の票へ取り込むことに成功したと考えられる。

テレビ政治が作ったのか、それともテレビが映しやすかったのか

 2005年の選挙は「劇場型政治」と呼ばれることが多い。郵政民営化という政策を中心に、「改革する小泉」と「改革に抵抗する勢力」という分かりやすい物語が形成され、テレビでも連日のように報道された。

 ただし、ここで「テレビが小泉を勝たせた」と断定するのは慎重でなければならない。政治学的には、メディア接触と政治意識の間に一定の関連が確認される研究がある一方で、テレビ報道そのものが投票行動を直接変えたという因果関係を完全に証明することは難しい。

 それでも、小泉政治がテレビという媒体と非常に相性がよかったことは確かだろう。郵政制度の詳細な設計を長時間説明するより、「改革か抵抗か」という構図の方が映像として伝えやすく、新しい候補者が登場し、旧来の自民党議員と対決する構図はニュースにもなりやすかった。小泉自身も長い政策説明より、短く印象に残る言葉を使うことに長けていたため、政治が制度の議論であるだけでなく、一つの物語として国民へ届くようになったのである。

296議席は何を意味していたのか

 2005年総選挙で、自民党は296議席を獲得した。2003年の237議席から59議席増えたのであるから、選挙結果だけを見れば圧倒的な勝利だった。

 しかし、この数字をそのまま「自民党への支持が59議席分増えた」と考えることはできない。2005年の自民党の小選挙区得票率は半数を超えていなかったにもかかわらず、小選挙区では全議席の7割を超える議席を獲得した。小選挙区制では、わずかな得票率の差が大きな議席差へ拡大されることがあり、2005年選挙ではこの制度的な増幅効果も強く働いたからである。

 したがって、小泉が自民党を強くしたかどうかを議席数だけで測るのは危険である。より正確に言えば、小泉は自民党への支持を広げると同時に、小選挙区制の特徴を最大限に生かして、その支持を巨大な議席へ変換することに成功した。

 それでも296議席という結果が持つ政治的意味は大きかった。選挙に勝ったことで、小泉は党内で圧倒的な正統性を得たからである。郵政民営化に反対していた勢力は政治的に弱まり、総理と党執行部の政策決定力は強くなった。選挙で得た国民の支持が、そのまま党内統率の力へ変換されたのである。

小泉が強くしたのは「どの自民党」だったのか

 ここで初めて、「小泉は自民党を強くしたのか」という問いをより正確に考えることができる。

 自民党の「強さ」にはいくつもの種類がある。選挙で票を集める力、議席を獲得する力、総裁が党を統率する力、政策を実行する力、地方組織を維持する力、業界団体との関係を保つ力、さらに党内の異なる意見を調整する力まで含めれば、「強い政党」という言葉は一つの数字では測れない。

 小泉時代に明らかに強まったのは、総裁の指導力、選挙で争点を設定する力、公認権を使って候補者を統制する力、そして党首人気を全国的な議席へ変える力だった。それまでの自民党が地域組織、後援会、業界団体、派閥など無数の小さな力を積み重ねて強さを作っていたとすれば、小泉時代には総裁を中心として全国の支持を一気に集約する能力が大きくなった。

 一方で、従来型の自民党が持っていた別の強さまで同時に増したとは言えない。地方組織や業界団体との長期的な関係、党内に異論を抱え込みながら調整する能力、複数の派閥が相互に牽制することで権力を分散させる仕組みなどは、むしろ相対的に弱くなった面がある。

 つまり、小泉時代に起きたのは自民党の単純な強化ではなく、強さの種類そのものの変化だったのである。

「抵抗勢力」を切る政治には強さと弱さが同居する

 小泉政治の特徴の一つは、複雑な党内対立を「改革する側」と「抵抗する側」に分けたことだった。この方法は有権者にとって非常に分かりやすく、政治決定を加速させる効果もあったが、その一方で、現実の政策には単純な賛成と反対だけでは整理できない問題も多い。

 郵政民営化そのものには賛成でも制度設計には反対する人がいるかもしれないし、改革の必要性を認めながら地域経済への影響を心配する政治家もいる。そのような中間的な立場まで「抵抗勢力」という一つの言葉にまとめれば、政治は分かりやすくなる反面、異なる意見を調整する余地は狭くなる。

 古い自民党の派閥政治には多くの問題があったが、それでも異なる利益を党内に抱え込み、時間をかけて妥協点を探す機能を持っていた。小泉政治はその調整過程を短縮し、総裁の判断によって政策を前へ進める力を強めたが、それは同時に、党内で意見を調整する能力を弱くする可能性も持っていたのである。

 会社に例えれば、会議ばかりで決定が遅い企業に強力な社長が現れ、「改革に反対する者には構わず進める」と宣言すれば、意思決定は劇的に速くなるだろう。しかし、その会社が長期的にも強くなったかどうかは別問題である。社長がいる間は動いても、組織内部で異なる意見を調整する仕組みが失われていれば、その人物が去った後に不安定になる可能性があるからである。

2009年の敗北を小泉改革だけで説明することはできない

 小泉は2006年に総理を退任した。そのわずか3年後の2009年衆議院総選挙で、自民党は119議席まで減少し、民主党に政権を明け渡した。2005年に296議席を獲得した政党が、4年後には119議席まで落ち込んだのである。

 この落差だけを見れば、小泉時代に作られた自民党の強さは一時的なものだったと考えたくなる。しかし、2009年の敗北を小泉改革だけの結果として説明することはできない。小泉退任後には安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短期間で総理大臣が交代し、政権運営に対する不信が強まった。世界金融危機による経済環境の悪化もあり、民主党に対して「一度政権を担当させてみよう」という期待も広がっていた。

 さらに、自民党の伝統的な支持構造の揺らぎ自体は、小泉政権以前の1990年代から始まっていた。したがって、2009年の政権交代を「小泉が自民党を壊した結果」と一直線に結びつけるのは、因果関係を単純化しすぎている。

 それでも2005年と2009年を並べると、重要なことが見えてくる。小選挙区制の下では、比較的小さな得票率の変化が巨大な議席変動へ拡大される。さらに、固定的な支持組織より党首や政党イメージに左右される有権者が増えれば、支持が集まったときには大勝できる反面、支持を失ったときには大敗する危険も大きくなる。2005年の296議席と2009年の119議席は、その振幅の大きさを象徴していたとも考えられる。

小泉は「自民党の勝ち方」を作り替えた

 ここまで考えてくると、小泉純一郎を「自民党を強くした総理」と単純に呼ぶことも、「自民党を壊した総理」と呼ぶことも、どちらも十分ではないことが分かる。

 小泉が大きく変えたのは、自民党という組織そのもの以上に、自民党の勝ち方だった。

 かつての自民党は、地方の後援会、農業団体、業界団体、派閥、公共事業などを通じて支持を積み上げ、その総和として全国選挙に勝っていた。小泉時代には、そうした仕組みが完全に消えたわけではないが、その上に別の勝ち方が加わった。総裁が全国共通の争点を設定し、党の公認権を使って候補者を統制し、メディアを通じて有権者へ直接訴え、無党派層を含む大量の票を一気に動かす政治である。

 これは自民党の「組織の厚み」に依存する政治から、「党首を中心とした集中力」を利用する政治への重心移動だった。

 この変化は強さを生んだが、同時に新しい弱さも生んだ。地方組織や固定支持層に支えられた政党は急激には崩れにくいが、党首の人気や政党イメージに依存する政治では、世論の変化によって支持が大きく動く可能性がある。強い指導者の下では非常に強くても、その人物が去れば同じ力を維持できるとは限らない。

「自民党を壊す」という言葉が本当に意味したもの

 小泉純一郎の政治を振り返ると、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」という言葉は、単なる選挙向けの刺激的な標語だったとは言い切れない。

 小泉は自民党を離れて別の政党を作ったわけではなかった。自民党の中に残り、自民党総裁として自民党内部の古い仕組みを攻撃し、その攻撃によって自民党への支持を集めた。普通なら政権への不満は野党への支持につながるはずだが、小泉は自民党内部に「改革する自民党」と「改革に抵抗する自民党」という対立を作り、政治を変えたいという有権者のエネルギーまで政権与党へ引き寄せたのである。

 それは、日本政治では極めて珍しい成功だった。

 しかし、その成功が残した問いは今も消えていない。政党の強さとは、選挙で多くの議席を取ることなのか、全国に安定した支持組織を持つことなのか、異なる意見を内部で調整する能力なのか、それとも強い指導者の下で迅速に政策を実行できることなのか。どの基準を採用するかによって、小泉政治への評価は変わる。

 少なくとも2005年の選挙を見る限り、小泉は自民党の選挙力と総裁の統率力を大きく高めた。しかし同時に、派閥や業界団体を介した従来型の調整政治を弱め、自民党が長い時間をかけて形成してきた強さの一部を変質させた。そのため、小泉を「自民党を強くした総理」とだけ評価するのも、「自民党を壊した総理」とだけ評価するのも、歴史を単純化しすぎている。

 より実態に近いのは、小泉純一郎が「古い自民党の強さを壊しながら、新しい自民党の強さを作った総理だった」と考えることである。

 「自民党をぶっ壊す」という言葉だけを聞けば、失敗した宣言のようにも見える。自民党は消滅するどころか、その後も日本政治の中心にあり続けたからである。しかし、自民党が何によって選挙に勝ち、誰が党を動かし、どのように有権者へ訴えるのかという仕組みまで含めて考えるなら、小泉の言葉は意外なほど現実になったとも言える。

 彼が壊したのは自民党という名前ではなかった。壊したのは、長年当然だと思われていた自民党政治の一部であり、その跡に現れたのは、より党首の力が強く、より全国的な世論に敏感で、より大きく勝つことも大きく負けることもあり得る自民党だった。

 その意味で、小泉純一郎は「自民党を壊して弱くした総理」でも、「自民党を守って強くした総理」でもない。自民党の強さそのものの形を作り替えた総理だったのである。

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