地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 地方の会議の写真を見ると、ときどき似た顔ぶれが並んでいることに気づく。地域経済について話し合う席には商工会、観光振興なら観光協会、住民生活に関する会議なら自治会の代表がいる。そこに行政職員や議員、場合によっては学識経験者が加わり、「地域の意見」を聞きながら政策を考えていく。それ自体は不思議なことではなく、市や町の事情を知らない人だけで地域政策を作るより、長く現場に関わってきた人の話を聞く方が合理的である。

 しかし、その当たり前の風景を少し違う角度から眺めると、一つの疑問が浮かぶ。観光協会は、いつから「観光の声」になったのだろう。商工会が話す地域経済とは、その地域で働く人すべての経済なのだろうか。そして自治会の代表が「地域住民としては」と語ったとき、その「住民」には自治会へ加入していない人や、最近移住してきた人、仕事や子育てで地域活動にほとんど参加できない人まで含まれているのだろうか。

 市長・町長や議員なら、少なくとも権限を持つまでの入口は目に見える。選挙があり、有権者が投票し、その結果として公職に就く。しかし地域社会には、住民による選挙を経なくても行政から繰り返し意見を求められ、審議会や協議会に参加し、「地域を代表する声」として扱われる組織や人物が存在する。

 では、その発言力は誰が決めているのだろう。

 実は、この問いに「市長・町長が決めている」「行政が決めている」「昔からの有力者が決めている」と一人の主体を置いてしまうと、かえって地域社会の本当の姿を見失う。地域の発言力は、誰かが一度の決定で与えるものというより、人間関係、組織、情報、参加実績、行政との接点が長い時間をかけて積み重なった結果として形成されている可能性が高いからである。

組織の代表者と「地域の代表者」は同じではない

 最初に区別しておかなければならないのは、ある組織を代表する資格と、地域全体を代表する資格は別のものだということである。

 商工会は法律に基づく組織であり、会員の議決権や役員などについて制度が定められている。したがって、商工会長が何の手続きもなく突然「地域経済の代表」を名乗っているわけではなく、その組織内部では一定の正当性を持つ代表者である。

 しかし、そのことから直ちに、商工会長が地域経済に関わるすべての人を代表しているとは言えない。地域には商工会に加入する事業者もいれば加入しない事業者もおり、店舗を構える人もいれば、自宅からインターネットを使って全国へ商品やサービスを販売する人もいる。農業、建設、福祉、医療、宿泊、飲食、小売では利害も異なり、自治体の外にある会社で働きながら地域内で生活している住民まで含めれば、「地域経済の声」は一つではない。

 それでも行政が地域経済について意見を聞こうとしたとき、地域内の事業者一人ひとりに同じ時間をかけて聞き取りをすることは現実的ではない。そこで、すでに組織があり、代表者がいて、連絡先が明確で、ある程度まとまった意見を伝えることのできる商工会が窓口になりやすい。

 ここには、地方社会を考えるうえで重要な仕組みが隠れている。発言力とは、必ずしも誰かが強引に奪い取ったものではなく、「意見を集約できる組織がある」という事実そのものから生まれることがあるのである。

観光協会が「観光の声」になるまで

 観光協会の場合は、さらに事情が複雑である。全国の観光協会が同じ法律、同じ法人形態、同じ財源、同じ役割で運営されているわけではなく、行政との距離も地域によって異なる。また、観光協会の中にはDMO(Destination Management/Marketing Organization・観光地域づくり法人)として登録され、単なる観光宣伝だけではなく、データ分析、観光戦略の策定、関係事業者との調整など、地域全体の観光経営に関与する団体もあるが、すべての観光協会がDMOであるわけではない。

 この違いを無視すると、「観光協会」という同じ名称の組織が全国で同じ影響力を持っているかのような誤解が生まれる。実際には、行政からの委託や補助、会員構成、観光産業の規模、地域内での歴史などによって、その位置は大きく違うだろう。

 それでも観光協会が行政の重要な相談相手になりやすい理由は理解できる。宿泊施設、飲食店、観光施設、交通事業者など、観光に関わる多くの主体と接点を持っていれば、行政が一軒ずつ事情を聞くより効率的だからである。

 ところが、この便利な窓口が長く使われ続けると、「観光関係者の意見」と「地域全体としての観光に対する意見」がいつの間にか近いものとして扱われる可能性が出てくる。

 たとえば海辺の市や町で、観光客を増やすための大規模な駐車場整備が計画されたとしよう。宿泊施設や飲食店にとっては集客につながるかもしれないが、近隣住民にとっては交通量や騒音が増える可能性があり、観光とは直接関係のない住民から見れば、税金を使う優先順位について別の意見があるかもしれない。

 観光振興という言葉には、売上、雇用、税収、地域ブランド、交流人口など多くの公共的な価値が結びついているため、個々の事業者の利益だったものが「地域全体のための政策」として語られやすい。その転換が合理的な場合もあれば、一部の利害が地域全体の利益として拡張されてしまう場合もある。

 だから重要なのは、「観光協会は地域を支配している」と決めつけることではない。誰の利益が、どのような経路を通って「地域の利益」という言葉に変換されているのかを確かめることである。

自治会の「住民代表」はどこまで住民を代表しているのか

 自治会になると、「代表」という問題はさらに身近になる。

 自治会は自治体そのものではなく、一般に住民によって自主的に組織される地域団体である。一方で、防災、防犯、環境美化、ごみ集積所の管理、地域行事、行政情報の伝達など、行政と住民の間にある多くの仕事を担ってきた。

 行政にとって、自治会が持っている情報は貴重である。道路が傷んでいる、街灯が暗い、一人暮らしの高齢者が増えている、空き家が増えた、祭りの担い手が足りないといった地域の細かな変化は、統計表だけでは簡単に把握できない。しかし自治会長に聞けば、「この辺では最近こうなっている」と具体的な話が出てくることがある。

 この情報機能を考えれば、行政が自治会を地域の窓口として利用すること自体には十分な合理性がある。

 ただし、ここでも「地域事情をよく知っていること」と「住民全体を代表していること」は別である。全国的に自治会加入率の低下や役員の担い手不足が課題とされており、地域によっては住民のかなりの割合が自治会に加入していない。加入していても会合には参加しない人、名前だけ加入している世帯、活動の中心を長年同じ少数の住民が担っている地域もあるだろう。

 この状況で自治会長が「地域住民の意見として」と発言した場合、それが住民全体の意見なのか、自治会加入者の意見なのか、役員会で話し合われた意見なのか、それとも地域事情を熟知した会長個人の判断なのかは、本来区別して考える必要がある。

 しかし現実の会議では、その違いが曖昧なまま「住民代表」という一つの言葉にまとめられることがある。

 ここに、地域政治の見えにくさがある。

問題は「誰が話したか」だけではなく「誰がそこに座っているか」にある

 政治について考えるとき、私たちは会議の中で誰が何を発言し、誰が賛成し、誰が反対したかに注目しやすい。しかし、実際にはその前の段階に重要な選択が存在する。

 誰を会議に呼んだのか、という選択である。

 仮に十人の委員による地域振興の会議が開かれ、市長・町長、学識経験者、商工会、観光協会、自治会、福祉関係者などが参加していたとする。会議の中で全員が自由に意見を述べれば、手続きとしては開かれた議論に見える。

 しかし、その十人が住民全体の縮図になっているとは限らない。

 子育て中の住民、若年層、最近移住してきた人、自治会に入っていない人、商工会に加入していない事業者、自治体の外へ通勤する住民、地域活動にはほとんど参加しないがそこで暮らし税を負担している住民は、どの席に座っているのだろうか。

 もちろん、すべての住民を一つの会議に集めることなどできない。だから代表者を選ぶこと自体は避けられない。しかし代表者を選ぶ以上、「誰を代表者として選びやすいか」という仕組みそのものを検討する必要がある。

 地方の見えない権力は、採決の瞬間だけに現れるのではない。ときには、委員名簿を作る段階ですでに輪郭を見せている。

なぜ参加者は住民全体と同じ構成にならないのか

 この問題は感覚だけでなく、統計学的にも考えることができる。

 住民全体から無作為に人を選べば、人数が十分に多くなるにつれて、選ばれた人々の構成は住民全体の構成に近づいていく。しかし地域活動への参加者、団体役員、協議会委員などは通常、住民から完全な無作為抽出によって選ばれているわけではない。

 住民の中には地域活動に積極的な人もいれば、ほとんど参加しない人もいる。仮に住民の20%を積極的参加層、80%をそれ以外の住民とし、積極的参加層が委員候補になる確率を20%、その他の住民を2%と仮定すると、最終的な委員候補の約71%を、人口では20%しかいない積極的参加層が占めることになる。

 これは実際の自治体について測定した数値ではなく、選択の仕組みを理解するための仮想例である。しかし、数学的に示していることは重要である。最初の住民構成に大きな偏りがなくても、「地域活動に参加する」「団体役員になる」「推薦対象になる」「委員に選ばれる」という複数の段階で選ばれる確率に差があれば、最終的に会議へ出てくる人々の構成は住民全体から大きく離れる可能性がある。

 統計学では、このような問題を選択バイアスとして考えることができる。

 つまり、「会議で多く聞こえた意見」が「住民全体で最も多い意見」であるとは限らない。

 十人が強く主張していることと、千人が静かに考えていることのどちらが地域の多数意見なのかは、会議の音量からは分からないのである。

行政が「いつもの人」を呼ぶことには合理性もある

 それでは、行政はなぜ同じ団体や似た人物に繰り返し意見を求めるのだろう。

 ここを「行政と有力者の癒着」とだけ説明すると、現実を単純化しすぎる。

 自治体職員が短期間で新しい政策案を作らなければならないとき、数千人、数万人、あるいはそれ以上の住民すべてに聞き取りを行うことはできない。誰に連絡すればよいのか分かり、会議の日程を調整でき、資料を読んで意見を返し、地域事情も知っている人は、行政にとって非常に扱いやすい情報源になる。

 商工会、観光協会、自治会などが行政の会議に繰り返し登場する背景には、この実務上の効率性がある。

 しかも長期間地域活動を続けている人には、単なる肩書以上の知識が蓄積している可能性もある。どの道路が混むのか、どの地区で高齢化が進んでいるのか、誰に話を通せば地域行事が動くのか、過去の政策がなぜ失敗したのかといった知識は、行政の資料だけを読んでも分からない。

 したがって、「同じ人が何度も会議に出ている」という事実だけでは、それが既得権益なのか、行政運営の効率なのか、蓄積された専門性への評価なのかを判断することはできない。

 地域の発言力を分析するときには、少なくとも「権力」「効率」「専門性」という複数の説明を同時に考える必要がある。

発言力があるから呼ばれるのか、呼ばれるから発言力を持つのか

 さらに難しい問題がある。

 ある人物が多くの行政会議に参加しているとしよう。その人は発言力が強いから会議に呼ばれているのかもしれない。しかし逆に、会議へ何度も参加するうちに行政職員や議員との接点が増え、情報が集まり、別の委員を紹介され、結果として発言力が強くなった可能性もある。

 原因と結果が逆方向にも動くのである。

 発言力があるから会議に呼ばれ、会議に呼ばれることでさらに情報や人脈を得て、次の会議にも呼ばれやすくなる。この循環が長期間続けば、最初にどちらが原因だったのかを後から区別することは難しくなる。

 昨日まで無名だった人物が、肩書を得た瞬間に突然「地域の有力者」になるわけではない。祭り、防災訓練、商工団体、観光イベント、行政委員、地域福祉活動などに十年、二十年と関わり、そのたびに新しい人と知り合い、「この問題ならあの人に聞けば分かる」という評価が少しずつ積み重なっていく。

 地域の発言力とは、選挙のように一度の出来事によって誕生するのではなく、長い時間をかけて形成される社会的な信用でもある。

「人脈が広い人」より「異なる世界をつなぐ人」が強い

 ここで地域の人間関係を、少し数理的に見てみよう。

 人を点、人と人との関係を線として描く考え方をSNA(Social Network Analysis・社会ネットワーク分析)という。この視点に立つと、地域の発言力は単純に「知り合いが多い人ほど強い」とは限らない。

 たとえば百人の知人がいても、その百人がすべて同じ自治会の中だけにいる人と、知人は二十人しかいないものの、行政、商工会、観光業、議会、福祉団体、自治会という異なる集団にそれぞれ接点を持つ人では、情報を仲介する能力が違う。

 社会ネットワーク分析では、単純なつながりの数だけでなく、他の集団と他の集団の間に位置して情報や人を仲介できるかという中心性も重要になる。

 地域で本当に影響力を持つ人を探すなら、名刺に書かれた肩書だけを見るより、その人が異なる組織の間をどのようにつないでいるかを見る方が実態に近い場合がある。

 行政にも話ができ、商工会にも顔が利き、観光関係者とも付き合いがあり、自治会の事情も知っている人がいれば、その人物は正式な権限を持っていなくても、情報の交差点になり得る。

 権力とは、「命令できること」だけではない。「誰と誰をつなげられるか」という位置から生まれることもあるのである。

情報を知る時期にも差が生まれる

 地域の発言力を考えるうえで、もう一つ見落とせないものが情報である。

 行政が新しい政策を正式に発表した日だけを見れば、すべての住民が同じ日に情報を得たように見える。しかし政策が正式な形になるまでには、担当部署による情報収集、関係団体への聞き取り、事業者との意見交換、庁内調整などが行われることがある。

 日常的に行政との接点を持つ団体は、こうした政策形成の比較的早い段階から情報や意見交換に接する機会を持つ場合がある。

 これは秘密情報を得ているという意味ではない。政策を作るためには、関係する団体や専門家へ事前に事情を聞かなければならないことも多い。しかし、正式発表を見て初めて問題を知る住民と、それ以前から行政との意見交換に関わっている人では、政策を考える時間や準備できる情報量に差が生まれる可能性がある。

 そのため、地域の発言力を考えるなら、「誰が最終的に発言したか」だけではなく、「誰がどの段階から政策形成に参加していたか」を見る必要がある。

声の大きい人より、声を届ける回路を持つ人

 地方政治について語るとき、「声の大きい人の意見ばかり通る」という表現が使われることがある。しかし、実際にはもう少し複雑だろう。

 一人の住民が行政へ電話して観光政策について意見を述べれば、それは個人の意見として受け止められるだろう。一方、観光協会が正式に意見を提出すれば、行政はそれを観光関係者の意見として捉える可能性があり、商工会からの要望であれば地域事業者の意見、自治会連合組織からの要望であれば一定の地域住民を背景に持つ意見として受け止めることがあり得る。

 同じ内容でも、個人として発言するのか、一定の構成員を持つ団体として発言するのかによって、その意見がどの範囲を代表するものとして認識されるかは変わり得る。

 ここで強いのは、人間の声量ではない。

 意見を行政へ届けるための安定した回路を持っていることである。

地域団体をなくせば民主的になるわけではない

 ここまで読むと、商工会や観光協会、自治会の力を小さくすれば、より民主的な地域社会になるように思えるかもしれない。

 しかし、それも単純ではない。

 これらの団体がなければ、行政は地域の細かな事情を知るために別の方法を用意しなければならず、行政と住民の距離がかえって広がる可能性もある。災害時の連絡、防犯、地域福祉、商業政策、観光政策などでは、地域内のネットワークを持った団体が存在すること自体に大きな公共的価値がある。

 したがって、問題は商工会、観光協会、自治会が意見を述べることではない。

 その意見が「誰の意見なのか」を曖昧にしないことである。

 商工会の意見なら、その商工会が代表できる範囲の意見であり、観光協会の意見なら、その組織が把握している観光関係者を中心とした意見である。自治会の意見も、その自治会が接触できる住民や地域活動の中から形成された意見であり、必ずしも自治体住民全体の統計的な縮図ではない。

 どの組織の意見も重要である。

 しかし、どの組織の意見も地域社会そのものではない。

 複数の部分的な声を集め、それぞれが誰を代表しているのかを確認しながら政策を作るのであれば、地域団体は民主主義を支える重要な装置になる。反対に、一つの部分的な意見を「地域の総意」と読み替えた瞬間、そこに含まれない人々が見えなくなる。

本当の「地域の声」は、簡単には見つからない

 では、どうすれば本当の住民意見を知ることができるのだろう。

 残念ながら、一つの方法だけで完全に把握することは難しい。

 自治会から聞けば地域活動に参加する人の声を詳しく知ることができ、商工会から聞けば事業者の事情を把握しやすい。観光協会には観光現場の情報が集まり、住民アンケートでは普段会議へ出ない人の意見を拾うことができる。無作為抽出による調査を使えば住民全体に近い構成から意見を得ることも可能になるが、回答率が低ければ別の偏りが生じる。

 つまり「住民の声」とは、どこかに一つの完成品として存在しているものではない。

 異なる方法で集めた声を比較し、その偏りを理解しながら近づいていくしかないのである。

誰が発言力を決めているのか

 最初の問いに戻ろう。

 商工会、観光協会、自治会などの発言力を、いったい誰が決めているのだろう。

 おそらく答えは、「誰か一人ではない」である。

 組織の内部で役員が選ばれ、行政が意見を求め、担当者が委員候補として推薦し、市長・町長が相談し、議員が接触し、地域行事で顔を合わせ、報道機関がコメントを求める。その小さな選択が何年も繰り返されるうちに、「地域のことならこの人に聞けばよい」という社会的な位置が形成されていく。

 そこでは、肩書、人脈、専門知識、情報、信頼、参加実績が互いに絡み合っている。

 だから地域の権力を知ろうとして、市長・町長や議員の名前だけを調べても十分ではない。誰がどの審議会に参加しているのか、同じ人物が複数の団体や委員を兼任しているのか、行政がどの組織に繰り返し意見を求めているのか、どの団体が補助金や委託事業を受けているのか、そして「地域の声」という言葉の後ろに誰がいるのかを追っていく必要がある。

 もし人物を点、所属、委員兼任、行政との接点などを線として描けば、地域社会の人間関係は一つのネットワークとして見ることもできる。そこで重要なのは、単に知り合いが多い人物ではなく、行政、経済、観光、地域団体といった異なる世界を結んでいる人物である可能性がある。

 そうして地域を眺め直すと、選挙結果だけを見ていたときとは別の政治地図が浮かび上がってくる。

 ただし、それをすぐに「癒着」「既得権益」「地方の闇」と呼んでしまえば、かえって本質は見えなくなる。同じネットワークは、あるときには権力として働き、別のときには行政の効率を高め、災害時には住民を助ける連絡網となり、長年蓄積された地域知識を次世代へ伝える装置にもなるからである。

 地方の見えない権力が興味深いのは、秘密の会議で誰かが地域を支配しているからではない。

 むしろ誰も「この人を地域の有力者にしよう」と正式に決めていないのに、長い時間の中で発言力の差が自然に形成されていくところにある。

 そして、その仕組みを作っているのは、会議に出る少数の人だけではない。地域活動には参加せず、委員にもならず、「誰かがやってくれているから」と地域の運営を任せてきた多数の住民も、その構造の外側にいるのではなく、沈黙という形でその構造の一部になっている。

 地域で本当に強いのは、声の大きな人なのか。肩書のある人なのか。人脈の広い人なのか。それとも、他の誰より長く、その場所に座り続けてきた人なのか。

 その答えを知りたければ、市長室や町長室だけを見るのでは足りない。

 商工会の会議室、観光協会の事務所、自治会館の長机、行政の審議会名簿、そして何気なく繰り返される「この件なら、あの人に聞いてみよう」という一言まで見なければならない。

 地方の政治は、選挙の日だけ動いているわけではないのである。

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 町の政治を知ろうと思えば、まず町役場を見ることになる。町長がいて、議会があり、予算書や条例が公開され、議事録を読めば誰が何を発言したのかも分かる。選挙になれば候補者の名前も得票数も数字として残り、誰が住民から正式な権限を託されたのかはかなり明確である。民主主義とは、権力の所在をできるだけ見えるようにする仕組みでもあるから、ここまでは分かりやすい。

 ところが、一つの町に長く暮らしていると、その制度上の地図だけでは説明しにくい場面に出会うことがある。「この話は、まずあの人に伝えておいた方がいい」「役場に直接話すより、あの人から話してもらった方が伝わりやすい」といった会話である。その「あの人」は町長でも議員でも役場職員でもなく、現在は自治会長ですらないかもしれない。それでも地域の事情に詳しく、さまざまな人とつながり、困り事が起きれば相談を受け、何かを始めようとすれば自然に名前が挙がる。

 こうした人物を、私たちはしばしば「有力者」と呼ぶ。しかし、その言葉から、町長や議員を裏から操る秘密の支配者を想像すると、本質を見誤る。地方政治を考えるうえで面白いのは、正式な権力とは別に、人間関係や信用、情報、仲介によって生じる影響力があり、その二つが重なる場所で町の意思決定が進むことがある、という点なのである。

町長と議会には「決定する権力」がある

 最初にはっきりさせておかなければならないのは、町長や議員の権力が形式だけのものではないということである。地方自治では、首長と議会議員を住民がそれぞれ直接選ぶ二元代表制が採られており、首長は自治体の行政を執行し、議会は条例や予算などについて議決し、行政を監視する役割を担う。道路を整備するにも、公共施設を建てるにも、福祉事業を始めるにも、公費を支出する以上は正式な制度と手続きを通らなければならない。

 したがって、選挙に出ていない人物が電話一本で予算を成立させたり、条例を書き換えたりするわけではない。少なくとも制度上の最終決定権という意味では、町長と議会が中心にいるという理解は変わらない。

 しかし、政治を「最後に誰が決めたか」という一点だけから見ると、その決定が生まれるまでの過程が見えなくなる。町には数え切れないほどの要望や不満や提案が存在するが、そのすべてが役場に届き、そのすべてが議会で議論されるわけではない。ある問題は行政へ伝わり、別の問題は伝わらない。ある要望には役場が早く反応し、別の要望は長く放置される。その違いがどこで生まれるのかを考えると、正式な決定権とは別の種類の力が見えてくる。

 政治学では、誰が最終的に決定したかだけでなく、「そもそも何を政治的な問題として取り上げるのか」を左右する力が重要だと考えられてきた。これを議題設定力と呼ぶなら、町長や議会が「決める力」を持っている一方で、町のさまざまな人々は「何を決める問題にするのか」に影響することがある。

 表に現れる政治は採決の瞬間だが、そのずっと前から政治は始まっている。

「有力者」という肩書はどこにもない

 面白いことに、「有力者」という正式な役職は存在しない。選挙管理委員会が認定するわけでもなく、辞令も任期もなければ、町役場の組織図にも載らない。それでも、ある地域では「この人は顔が広い」「この問題ならこの人に聞けば分かる」と認識されている人物がいる。

 その影響力を単純に財産や家柄だけで説明するのは難しい。もちろん、地域によっては地主、大きな事業者、旧家などが歴史的に強い発言力を持ってきた場合もあるだろう。しかし、現代の地域社会で人を動かす力を考えるなら、より重要なのは、その人がどれだけ多くの人や組織の間をつないでいるかである。

 長年商売をしてきた人なら、多くの住民を客として知っているかもしれない。自治会、商工団体、祭礼、防災活動、学校関係などに長く関わってきた人なら、役場職員、地域団体、事業者、住民のそれぞれと接点を持っている可能性がある。冠婚葬祭や地域行事を通じて人間関係を蓄積し、「この問題なら誰に相談すればよいか」を知っている人もいる。

 こうした力は、社会学では人間関係そのものを一種の資源として考えることができる。政治的な有力者や組織とのつながりを「関係的資源」として捉える研究もあり、影響力は個人の能力や財産だけでなく、誰と誰につながっているかによって生まれることがある。

 人口統計にも資産台帳にも、この種類の力は簡単には表れない。しかし、地域社会では「あの人を通せば話が早い」という信用が積み重なり、結果として人と人の間に立つ人物へ相談や情報が集まっていく。

 命令するから強いのではない。人が集まるから強くなるのである。

「人間関係が集中する場所」に立つ人

 社会ネットワークの考え方を使うと、この現象はさらに分かりやすい。人間関係を点と線で描いたとすれば、全員が同じ位置にいるわけではなく、異なる集団の間をつないでいる人物が現れる。商店街の人々とも付き合いがあり、自治会とも関係があり、行政とも話ができ、移住者のグループとも接点を持つ人物がいれば、その人を経由して多くの情報が行き来することになる。

 社会ネットワーク分析には、異なる人や集団の間にどれほど位置しているかを見る「媒介中心性」という考え方がある。現実の町の有力者をそのまま数式で決められるわけではないが、「有力者とは人間関係が集中した場所にいる人物である」という見方には、一定の理論的な裏付けがある。

 この視点に立つと、町の有力者は必ずしも一人ではないことにも気づく。商業について影響力を持つ人物と、福祉に詳しい人物は違うかもしれない。祭りでは中心人物でも、行政政策についてはほとんど発言力を持たない人もいる。ある地区では頼られている人物が、隣の地区ではほとんど知られていないこともある。

 つまり「この町を動かしている人は誰か」という問いそのものが、少し乱暴なのである。より正確には、「どの問題について、誰が誰をつなぐ位置にいるのか」と考えた方がよい。

小さな町だから有力者が生まれる、とは限らない

 地方政治を論じるとき、「人口の少ない町では有力者が強く、大都市ではそうではない」と単純化するのも危険である。大都市にも企業、業界団体、地域団体、専門職、メディアなど、政治や行政へ影響を与える多くの主体が存在する。

 ただし、人口規模の小さな地域や、人の移動が比較的少ない地域では、一人の人間を複数の関係で知ることが起こりやすい。取引先だった人物が自治会でも一緒になり、子どもの学校でも顔を合わせ、祭礼では同じ実行委員になり、選挙になれば候補者とも知り合いだった、という関係である。

 ここで重要なのは、人口の少なさそのものよりも、人間関係がどれほど重なっているかである。人口が少なくても住民の入れ替わりが激しく、地域組織への参加が少なければ、人間関係は必ずしも密にならない。一方、人口規模が比較的大きくても、長期間同じ地域で生活し、複数の地域組織へ参加する人が多ければ、関係は重なりやすい。

 したがって、「人口が少ないから有力者が生まれる」という一本道の説明より、地域の歴史、人口移動、産業構造、住宅所有、地域組織への参加、世代構成などが重なった結果として、特定の人物や団体へ人間関係が集中する場合がある、と考える方が現実に近い。

行政にとっても「話の分かる人」は便利である

 ここから問題は少し複雑になる。

 役場が地域住民一人一人と日常的に話をすることは現実には難しい。住民の考えは一様ではなく、行政職員の時間にも限りがあるため、防災、環境美化、地域行事、福祉、広報などを進めるとき、自治会や地域団体を通して住民へ情報を伝えたり、地域側から事情を聞いたりする場面が生まれる。

 日本の自治会や町内会は、単なる親睦団体ではなく、地域によって程度の差はあるものの、行政と住民との接点として機能してきた。災害時に地域の事情を知っている人がいること、高齢者や困窮世帯について行政だけでは把握しきれない情報を地域側が持っていること、行政が新しい施策を説明するときに住民との橋渡しをする人がいることには、現実的な利点がある。

 したがって、行政が地域事情に詳しい人物や団体と継続的な関係を持つこと自体を、直ちに癒着や古い地方政治と決めつけることはできない。制度だけでは拾えない情報を、人間関係が補完している面があるからである。

 しかし、便利な仕組みほど固定化したときに問題が生まれる。

「住民の声」は、誰の声なのか

 ある地区について行政が意見を聞きたいとする。そこで、長年その地区で活動している自治会役員や地域団体の代表へ相談する。相手は地域事情に詳しく、多くの住民を知っているから、行政にとっては合理的な方法である。

 ところが、その人物の意見が、いつの間にか「地域の意見」に変わったとき、問題が生じる。

 百人が暮らしている地区で、一人の人物が「この地域ではみんなそう思っています」と話しても、科学的に見れば、それだけで百人全員の意見を代表しているとはいえない。本人が意図的に話を誇張しているとは限らず、自分の周囲で日常的に接している人々の意見を、そのまま地域全体の意見だと認識している可能性もある。

 ここには、統計学でいう選択バイアスに似た問題がある。地域活動に積極的に参加する人だけから意見を聞けば、得られるのは「地域活動に参加する人々の意見」であって、「住民全体の意見」と一致するとは限らないからである。

 高齢者には高齢者の人間関係があり、商店主には商店主の世界があり、昔から住んでいる人には昔からの住民同士のネットワークがある。その一方で、移住してきたばかりの人、自治会へ加入していない人、仕事で昼間町にいない人、地域活動へ参加する時間のない子育て世帯、そもそも政治や地域活動について発言しない人もいる。

 行政が効率よく住民の意見を知ろうと代表者を立てるほど、その代表者につながっていない住民の声が見えにくくなる可能性がある。この矛盾は、地域民主主義を考えるうえでかなり重要である。

本当に影響力のある人は、よく発言する人とは限らない

 権力を観察するとき、私たちは目立つ人物を見てしまう。会議で長く発言する人、行政へ何度も要望する人、議員へ頻繁に相談する人は分かりやすい。しかし、影響力は必ずしも発言回数と同じではない。

 本人が何も言っていなくても、「この案について、あの人はどう思うだろう」と周囲が気にしているなら、そこにはすでに影響力が存在する。

 これは政治権力を考えるうえで興味深い現象である。誰かに命令された後で行動を変えるだけが権力ではなく、相手の反応をあらかじめ予想して、自分から行動を変えることもあるからだ。

 例えば、地域で何か新しい事業を始める人が「まず○○さんへ挨拶しておこう」と考え、地域行事を変えようとする人が「先に○○さんへ説明した方がいい」と考え、行政側まで「この件は地域の○○さんへ事前に話した方がよい」と判断するようになれば、その人物は正式な決定者ではなくても、意思決定過程の一つの通過点になっている。

 しかし、この種類の影響力は記録に残りにくい。町長が予算案を提出すれば公文書に残り、議員が質問すれば議事録に残り、選挙なら得票数も記録されるが、「先にあの人へ相談しておこう」と考えたことは通常どこにも記録されない。

 地域の「見えない権力」が見えにくいのは、それが秘密裏に行使されているからとは限らない。日常の判断や人間関係の中に溶け込んでいるため、制度の記録だけでは観察しにくいのである。

有力者がいることと、民主主義が壊れていることは同じではない

 ここまで読めば、有力者という存在そのものが民主主義に反するように見えるかもしれない。しかし、人間社会から非公式な影響力を完全になくすことはできないし、なくすべきだとも限らない。

 長年地域活動を続けてきた人が信頼され、地域事情について詳しい人の意見に重みが生まれるのは自然なことである。経験を積んだ人と、昨日その町へ来た人とでは、地域について持っている情報量が同じとは限らない。災害、防災、福祉、土地利用などでは、長年の経験が実際に役立つこともある。

 問題は、影響力の存在そのものではなく、その影響力へ他の人が挑戦できなくなったときに生じる。

 行政が何年も同じ人物だけを地域の窓口として扱い、地域団体でも同じ人々だけが意思決定に参加し、新しく入ってきた住民が意見を述べる経路がほとんどない状態になれば、地域社会の経験を生かす仕組みは、少しずつ閉鎖的な仕組みに変わっていく。

 さらに、「政策に反対すること」と「地域に協力しないこと」が同じ意味で受け取られるようになれば、本来は別であるはずの人間関係と政策判断が混ざり始める。

 異論を述べれば人間関係まで悪くなると感じる社会では、人は発言する前に自分で言葉を飲み込むようになる。そのとき政治は、議会の採決よりずっと前の段階ですでに狭くなっている。

 民主主義に必要なのは、すべての人が同じ影響力を持つことではない。強い意見を持つ人にも異論を唱えられ、従来とは違う人が新しい担い手になれ、これまで地域活動に関わってこなかった人にも参加する入口が開かれていることの方が重要である。

移住者から見ると、町には二つの地図がある

 地方へ移住した人が戸惑う理由の一つも、この正式な制度と非公式な人間関係の違いにあるのかもしれない。

 町役場のホームページを見れば、町長の名前も議員の名前も分かり、役場の組織図も委員会の構成も確認できる。しかし実際に生活を始めると、それとは別の地図が存在していることに気づく。

 誰と誰が昔から付き合いがあるのか、地域行事を実際に動かしているのは誰なのか、商工関係なら誰が詳しいのか、防災なら誰に聞けばよいのか、行政と地域の両方を知っているのは誰なのかといった情報は、公式サイトにはほとんど掲載されていない。

 昔から住んでいる人には当然の知識でも、新しく来た人には見えない。

 この情報格差が「地方は閉鎖的だ」という感覚を生むことがある。ただし、すべてを排他性だけで説明するのも正確ではない。長年かけて形成された信用のネットワークに、新しく来た人がまだつながっていないだけの場合もあるからである。

 それでも、公共的な意思決定に関わる部分については、「時間がたてば分かる」で済ませない方がよい。誰が参加できるのか、地域団体の代表はどのように選ばれるのか、行政へ意見を伝える方法は何通りあるのかを見えるようにすることは、古くからの住民と新しく来た住民の双方にとって利益になる。

 伝統を残すことと、入口を閉じることは同じではない。

昔ながらの「有力者」を支えた環境は変わりつつある

 もう一つ注意すべきなのは、地域の影響力の構造が固定されたものではないということである。

 自治会や町内会の加入率は長期的に低下傾向を示す地域があり、人口移動の増加、職業構造の変化、生活時間の多様化などによって、かつてのように多くの住民が同じ地域団体へ参加することが難しくなっている。また、政治家や行政自身がインターネットを通じて住民へ直接情報を届けるようになり、地域の中間的な人物を経由しなくても意見や情報を交換できる場面が増えている。

 ただし、これを根拠に「昔の有力者は消えた」と結論づけることはできない。地域団体への参加が減れば、人間関係の中心人物の影響力も必ず弱くなるとは限らず、逆に参加者が減った結果として、少数の担い手へ仕事や情報が集中する可能性もある。

 したがって、より慎重にいえば、昔ながらの有力者を支えてきた社会環境が変化し、それに伴って地域の影響力の形も変わりつつある、と考えるのが妥当だろう。

 さらに現在では、地域内で百人とつながっている人物だけでなく、インターネット上で地域内外の何千人へ情報を届ける人物も現れる。顔の見える人間関係を束ねる従来型の影響力と、画面を通して人々の認識を変える新しい影響力が、同じ地域の中で並存する時代になっている。

 前者には地域事情を深く知っている強みがあり、同時に人間関係が閉じやすいという弱点がある。後者には従来の地域組織につながっていない人の声を可視化できる可能性がある一方、地域外の人々まで巻き込んだ感情的な議論が急速に広がる危険もある。

 地方政治の「見えない影響力」は、なくなったというより、その姿が変わっていると考えた方がよさそうである。

「有力者」を科学的に見ることはできるのか

 では、町の有力者を感覚ではなく、もう少し客観的に捉えることはできるだろうか。

 単に「町で有名な人は誰ですか」と尋ねるだけでは不十分である。誰かが有力者だと評判になっていることと、その人が実際の意思決定に影響していることは同じではないからだ。

 むしろ、行政や議員、地域団体との接触がどの程度あるのか、異なる組織をどれほど結びつけているのか、地域の人々から相談を受ける頻度はどの程度か、地域の問題を行政へ伝える役割をどれだけ果たしているのか、その問題が実際に行政や議会で取り上げられたのか、といった行動を見る必要がある。

 こうして考えると、「有力者」という曖昧な言葉は、少しずつ分析可能な対象へ変わっていく。

 面白いのは、そこまで調べた結果、町の人々が「一番の有力者」と考えていた人物が、実際には政策過程でそれほど大きな役割を果たしていない可能性もあることである。逆に、目立った肩書もなく、会議でほとんど発言しない人物が、異なる集団をつなぐことで重要な役割を果たしていることも考えられる。

 権力を科学的に見るということは、「黒幕」を探すことではない。人と情報と意思決定が、どのような経路を通っているのかを確かめることである。

町の権力を見るなら、「誰が決めたか」の一歩前を見る

 地域政治の記事では、議会で誰が賛成し、誰が反対したのかを追うことが多い。それはもちろん重要である。しかし、その一歩前へ戻って、「なぜこの問題が議会で扱われることになったのか」を考えると、違う町の姿が見えてくる。

 その問題を最初に役場へ伝えたのは誰だったのか、行政は地域事情を誰から聞いたのか、議員へ相談した人は誰だったのか、賛成する人だけでなく反対する人にも発言する機会があったのか、そして、そもそも声を上げなかった多数の住民はどう考えていたのか。

 こうした問いを重ねていくと、町の政治は町長と議員だけによってできているわけでも、特定の「有力者」がすべてを動かしているわけでもないことが分かってくる。

 むしろ、その中間にある。

 商業について人をつなぐ人がいて、福祉について詳しい人がいて、自治会で人をまとめる人がいて、行政との橋渡しをする人がいる。同じ人物が複数の役割を持つ場合もあれば、それぞれ異なる人物が担っている場合もある。

 町の影響力は、一人の人物が所有するものというより、人と人の関係の中を移動するものとして見た方が理解しやすい。

選挙に出ない人々のところから、政治が始まることがある

 選挙の日、住民は町長と議員を選び、その結果によって正式な権限を持つ人物が決まる。この仕組みが地方民主主義の中心であることは変わらない。

 しかし町の政治は、選挙の日だけに存在しているわけではない。地域の困り事を聞く人がいて、それを誰かへ伝える人がいる。行政と住民の間をつなぐ人がいて、地域行事を何十年も支えてきた人がいる。誰かの相談に応じ続けた結果、本人が望んだわけでもないのに、多くの情報と信用が集まる人物もいる。

 そこには善意も利害もあり、献身も自己利益もあるだろう。長年の経験が地域を助けることもあれば、古い人間関係が新しい考えを入りにくくすることもある。

 それらをすべて「利権」と呼べば現実を単純化しすぎるし、反対にすべてを「地域の絆」と呼べば問題を見落とす。

 地方政治の興味深さは、その中間にある。

 役場の組織図には名前がなく、選挙公報にも載っていない。それでも、ある問題が起きると自然に相談が集まる人物がいるなら、「この人が町を支配している」と考えるのではなく、まず「なぜこの人のところに人と情報が集まるのだろう」と考えてみる。

 そこには、その町が長い時間をかけてつくってきた信用、人間関係、産業、歴史、人口移動、地域組織のあり方が凝縮されている。

 町で本当に影響力を持っているのは町長なのか、議員なのか、それとも選挙に出ない有力者なのかという問いに、一人の名前で答えることはできない。

 町長と議会には、制度によって与えられた「決定する権力」がある。その外側には、人をつなぎ、情報を運び、問題を行政へ伝え、ときには何を政治的な議題にするのかに影響する力がある。そして、現実の地域政治は、おそらくその二つが交わる場所で動いている。

 だから議会で何かが決まったとき、採決結果だけを見るのではなく、ほんの少し時間を巻き戻してみるとよい。

 「この話は、最初に誰のところから始まったのだろう」。

 その問いを持った瞬間、選挙結果や役場の組織図だけでは見えなかった、もう一つの町の政治が姿を現し始める。

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