地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 政治家について誰かと話していると、不思議なことに気づくことがある。その政治家が具体的に何を実現しようとしているのかを尋ねると、税制や社会保障、産業政策、安全保障といった話はなかなか出てこないのに、「強い」「頼もしい」「怖い」「保守的だ」「はっきりしている」といった人物の印象については、驚くほどすぐ言葉が返ってくるのである。政治というものが本来、制度や予算や法律を扱う営みであることを考えると、これは少し奇妙な現象に見える。

 高市早苗という政治家は、その奇妙さを考えるうえで興味深い存在である。2025年10月に自由民主党総裁となり、同月に内閣総理大臣に就任、その後2026年2月の総選挙を経て第2次高市内閣を発足させた現在、高市氏は「将来の首相候補」として論じられる人物ではなく、実際に日本の政策決定の中心にいる。それにもかかわらず、高市氏について語られるとき、財政政策や産業政策の細部より先に、彼女の話し方や言葉の強さが話題になる場面は少なくない。

 象徴的だったのが、2025年10月、自民党総裁に選出された直後の演説である。高市氏は党の立て直しに向けて自らのワークライフバランスにも触れながら、「働いて」という言葉を五回繰り返した。この発言は広く報じられ、ある人には党を立て直す覚悟の表現として受け取られた一方、別の人には長時間労働を美徳とするような危うさを感じさせる言葉として受け止められた。

 興味深いのは、同じ発言を聞いた人々が、まったく同じ人物像を思い浮かべたわけではないことである。ある人には「覚悟のある政治家」に見え、別の人には「強引な政治家」に見える。言葉そのものは一つでも、その言葉が入っていく先には、すでにそれぞれの高市早苗像が存在している。

 ここに、高市氏個人を越えた現代政治の問題が見えてくる。私たちは政治家の政策を理解し、その結果として人物イメージを作っているのだろうか。それとも、先に作られた人物イメージを通して、その後の政策や発言を読み直しているのだろうか。

「政策の高市」と「言葉の高市」

 高市氏を単純に「強い言葉を使う政治家」とだけ捉えると、実際の政治家像のかなり大きな部分を取り落とすことになる。本人は2026年1月の記者会見で「政策の高市」を自認してきたと述べており、実際、高市政権にはかなり明確な政策体系がある。

 中心に置かれているのが「責任ある積極財政」である。政府が成長分野や安全保障上重要な分野への投資を行い、それを民間投資や所得の増加へつなげ、経済規模を拡大させながら財政の持続可能性も確保しようという考え方で、その周囲には半導体をはじめとする先端産業、経済安全保障、食料安全保障、エネルギー・資源安全保障、防災、国土強靱化、サイバーセキュリティ、医療、研究開発などが配置されている。

 もちろん、それらの政策が期待通りの結果を生むかどうかは別問題である。積極的な政府支出によって成長力を高められるという考えには一定の理屈がある一方、財政負担や金利、市場の信認をどのように管理するのかという論点は消えない。外交・安全保障についても、日本を取り巻く安全保障環境に対応するため抑止力を高める必要があるという見方がある一方、政策や発言の出し方次第では周辺国との緊張を高める可能性を懸念する見方も成り立つ。

 つまり、高市氏の政策を本気で評価しようとすれば、本来かなり長い文章が必要になる。

 ところが、人間の記憶は政策文書をそのまま保存してはくれない。

 何十ページもの政策集より一つの言葉の方が覚えやすく、数年間にわたる財政戦略より「強く豊かに」という表現の方が頭に残りやすい。2026年の施政方針演説でも、高市氏は成長政策を説明するなかで、「成長のスイッチを押す」という表現を印象的に繰り返している。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、高市氏の演説が常に強い言葉だけで作られているわけではないということである。同じ施政方針演説の中では「様々なお声に耳を傾け、謙虚に、しかし、大胆に」といった表現も使われており、協調や慎重さを意識した言葉も存在する。「働いて」「強く」「押す」といった言葉だけを拾い集めれば、当然ながら「高市氏は強い言葉ばかり使う」という結論が生まれやすくなるが、それ自体が、分析する側の選び方によって人物像が作られてしまう一例でもある。

 それでも、高市氏の政治言語に、行動を感じさせる動詞が目立つことは確かである。働く、守る、強くする、押す、前へ進む。政策文書の高市早苗が制度を説明する政治家だとすれば、演説の高市早苗は、複雑な政策を動詞へと圧縮して提示する政治家だと言えるのかもしれない。

有権者は政策を全部読んでから投票するわけではない

 しかし、この現象を「有権者は政策を読まない」と批判するだけでは、政治の現実を十分に説明できない。

 そもそも一人の有権者が、税制、社会保障、外交、防衛、エネルギー、農業、教育、医療、産業政策、憲法といった多数の政策について各党の主張を詳細に比較し、それぞれの財源や副作用まで調べたうえで投票することは、現実にはかなり難しい。仕事をし、家庭生活を送りながら、選挙のたびに数百ページの政策資料を読むことのできる人は多くない。

 そこで人は、限られた情報から判断するための手掛かりを使う。政党名、政治家の経歴、話し方、表情、過去の実績、報道で繰り返される言葉などから、「この人物はおそらくこういう政治家だろう」と推測するのである。政治学や政治心理学では、こうした判断の近道はヒューリスティクス(heuristics・限られた情報をもとに効率的な判断を行うための認知的手掛かり)として研究されてきた。

 これは必ずしも愚かな判断方法ではない。政治家が長年にわたって一貫して安全保障政策を重視してきたなら、その経歴を見て「安全保障を重視する政治家だ」と判断することには合理性がある。所属政党から大まかな政策方向を推測することにも一定の情報価値がある。私たちは日常生活でも、すべての情報を一から検証して判断しているわけではなく、過去の経験や信用、評判を使いながら意思決定している。

 問題は、その便利な近道が、いつの間にか判断そのものを支配する可能性があることだ。

 いったん「高市早苗は強い政治家だ」という人物像を持てば、安全保障政策が「決断力」の証拠として見えやすくなるかもしれない。逆に「高市早苗は強硬な政治家だ」という印象を持っていれば、同じ政策が「危うさ」の証拠に見えることもあり得る。人物イメージが必ず政策評価を決定するわけではないが、いったん形成された人物像が、その後の発言や政策の受け止め方に影響する可能性は十分に考えられる。

 同時に、その逆方向もある。新しい政策を知ることで人物イメージが変わることもあり、予想外に穏当な発言を聞けば、それまでの印象が修正されることもある。政治家のイメージと政策評価は、どちらか一方が原因で、もう一方が結果になるほど単純ではなく、互いに影響し合いながら作られていくと考えた方が現実に近いだろう。

「働いて、働いて」は何を意味したのか

 先ほどの「働いて」という発言を、この視点からもう一度見てみると面白い。

 発言の文脈は、自民党を立て直すため、自分自身も党所属議員も徹底的に働くという決意を述べたものだった。その意味では、「日本国民全体に長時間労働を要求した発言」と理解するなら、実際の文脈より広く解釈していることになる。

 しかし一方で、将来の首相就任が現実味を帯びていた政党総裁が、ワークライフバランスを捨てると語れば、それを単なる党内向けの掛け声ではなく、日本社会の働き方に対する象徴的メッセージとして受け止める人が現れることも不自然ではない。政府自身が長時間労働の是正や仕事と生活の両立を政策課題としてきただけに、その発言と従来政策との整合性を問う批判にも理由がある。

 だから、この発言について「何の問題もない」と片づけることも、「長時間労働を国民に強制した発言だ」と断定することも、どちらも言葉を少し単純化してしまう。

 ところが政治の世界では、この「少し単純化された説明」の方が圧倒的に流通しやすい。

 数十分の演説はニュースになると数十秒になり、交流型ソーシャルメディアではさらに短い映像へ切り取られ、最後には一つの言葉だけが記憶に残る。政治家の人格は本来、何年、何十年という政治活動の積み重ねによって判断されるべきものなのに、私たちのスマートフォンの画面の中では、ときに十秒ほどで完成してしまうのである。

高市早苗のイメージを作っているのは誰か

 では、「強い政治家」という高市氏のイメージを作ったのは誰なのだろう。

 最初の作者が高市氏本人であることは間違いない。政治家は自分の言葉を選び、「強い経済」「強い外交・安全保障」「日本列島を、強く豊かに」といった表現を自ら発している以上、高市氏自身が「強さ」という概念を政治的メッセージとして意識的に利用していると見ることには一定の根拠がある。

 しかし、その言葉が社会に届くまでには、何人もの編集者が存在する。新聞やテレビは長い演説の中からニュース価値があると判断した一部分を選び、見出しを付ける。交流型ソーシャルメディアでは利用者がさらに短い場面を切り抜き、そこへ賛成や批判の文章を添える。そして、それを見た別の利用者が再び共有する。

 この過程では、支持者と批判者が正反対の評価をしながら、結果的に同じイメージを強めることもあり得る。支持者が「ここまで言い切れる政治家はいない」と高市氏の映像を繰り返し共有し、批判者が「この言葉こそ危険性の証拠だ」と同じ映像を広めれば、評価そのものは正反対でも、「高市早苗は強い言葉を使う政治家だ」という共通イメージだけは社会に残りやすくなる。

 ただし、これは高市氏について直接実証された結論ではない。実際に確認するためには、交流型ソーシャルメディア上の投稿を大量に収集し、肯定的投稿と否定的投稿の双方でどの発言が共有され、どのような語句とともに拡散されたのかを時系列で調べる必要がある。現段階では、「そのような作用が起こり得る」という仮説として扱うのが妥当だろう。

世論調査は「政策か人柄か」に答えてくれるのか

 2026年8月のテレビ朝日の世論調査には、この問題を考えるうえで興味深い数字がある。

 高市内閣を支持する理由として「政策に期待が持てる」と答えた人は24.1%、「高市総理の人柄が信頼できる」は19.7%、「他の内閣よりよさそう」は32.4%だった。不支持理由では、「政策に期待が持てない」が43.9%、「人柄が信頼できない」が23.0%となっている。

 この数字を見ると、「高市氏は政策よりイメージだけで支持されている」という単純な説明は成り立たない。支持する側にも政策を理由にする人がかなり存在し、むしろ「人柄」より「政策」を選んだ人の方が多い。一方、不支持側でも政策への評価が大きな比重を占めている。

 もっとも、この調査から「高市氏は政策で評価されている」と逆方向に断定することもできない。回答者は複数ある理由の中から一つを選ぶ形式になっているため、実際には「人柄も政策も評価している」という人でも、どちらか一方しか回答できないからである。

 さらに重要なのは、このような世論調査から因果関係までは分からないことである。高市氏の人柄を信頼したから内閣を支持するようになったのか、それとも先に内閣を支持しているため「人柄も信頼できる」と感じるようになったのかは、この数字だけでは判定できない。同じように、政策への評価と人物への評価のどちらが時間的に先に形成されたのかも分からない。

 それでも、この調査から一つ確かなことがあるとすれば、政治的支持が政策だけ、あるいは人物だけで説明できるほど単純ではないということである。私たちは政策を見ながら人物を考え、人物を見ながら政策を読む。その二つは頭の中で切り離されているわけではないらしい。

名前を消したら、高市早苗の政策はどう見えるのか

 ここで、小さな思考実験をしてみたい。

 紙の上から「高市早苗」という名前を消し、「国内投資を増やして先端産業への政府支援を拡大する」「経済安全保障を強化する」「政府支出によって成長力を高めながら、経済規模に対する債務の比率を改善していく」とだけ書いてあったとする。

 それを読んだときと、同じ紙の一番上に大きく「高市早苗」と書かれているときで、政策に対する印象は本当に変わらないだろうか。

 高市氏を支持する人なら、名前を見ることで政策をより好意的に評価するかもしれないし、高市氏に強い不信感を持つ人なら、同じ政策でも警戒するかもしれない。しかし実際には名前の有無で評価がほとんど変わらない人もいるだろう。だから、この思考実験だけで「人は政策ではなく政治家の名前を選んでいる」と結論づけることはできない。

 それでも、この問いを自分に向けることには意味がある。

 もし政治家の名前を隠した瞬間に、自分の政策評価が大きく揺れるのであれば、それまで政策だけを判断していたわけではなかった可能性があるからである。

 そして、この現象は高市氏に限らない。石破茂でも、小泉進次郎でも、野田佳彦でも、麻生太郎でも同じ問いを立てることができる。

 政治家の名前には、その人物の過去、所属政党、報道、支持者、批判者、発言、成功、失敗といった膨大な情報が圧縮されている。「名前を知っている」というだけで、私たちはすでに多くの情報を政策の上に重ねて見ているのである。

「強い言葉」は悪いことなのか

 ここまで考えると、「強い言葉を使う政治家は危険だ」という結論にも慎重になる必要がある。

 民主政治では、複雑な政策を社会へ伝えるために、ある程度の単純化は避けられない。「責任ある積極財政」という表現も、「強い経済」という表現も、本来は何十もの政策を短い言葉にまとめた入口である。政治家が有権者に方向性を示そうとする以上、記憶に残る言葉を使うこと自体は政治コミュニケーションの一部であり、それだけで良いとも悪いとも言えない。

 むしろ問題になるのは、入口だったはずの言葉が、そのまま出口になってしまうときである。

 「強い日本」という言葉を聞いて安心して終わるのではなく、何を強くするのか、そのためにいくら費用が必要なのか、誰が利益を得て誰が負担するのか、別の選択肢と比べて何が優れているのかを見る必要がある。「積極財政」という言葉を聞いて期待するだけでなく、どの支出が成長を生み、どの支出が将来負担として残る可能性があるのかまで考えなければならない。

 これは高市氏を批判する側にも同じように当てはまる。強い言葉を聞いた瞬間に「危険な政治家」と結論づけてしまえば、それもまた政策を検討する手続きを省略していることになる。政策を批判するのであれば、どの部分に問題があり、どのような代替案があり、その結果がどう違うのかまで問わなければ、支持者とは逆方向の近道を走っているだけかもしれない。

最後の編集者は私たち自身である

 高市早苗という政治家のイメージを作っているのは誰なのか。

 高市氏本人が言葉を発し、政党がそれを政治メッセージに整え、報道機関が一部分を選び、交流型ソーシャルメディアがさらに切り取り、支持者と批判者がそれぞれ意味を与える。

 しかし、その長い工程の最後にいる人物を忘れてはいけない。

 それは、私たち自身である。

 画面に流れてきた十秒の映像を見て「やはりこの人は頼りになる」と感じたときにも、「やはりこの人は危険だ」と感じたときにも、私たちの頭の中では一人の政治家像が少しずつ出来上がっている。そして一度形成されたその像は、次に入ってくる政策や発言を解釈するときのレンズになり得る。

 だから高市早苗について考えるとき、本当に興味深い問いは、「高市氏は強い政治家なのか」ではないのかもしれない。

 むしろ、「私はなぜ高市氏を強い政治家だと思うようになったのか」と自分自身に問い返すことである。

 高市氏自身の言葉なのか。テレビの見出しなのか。交流型ソーシャルメディアで繰り返し見た映像なのか。支持する人から聞いた評価なのか。批判する人から聞いた評価なのか。それとも、実際に政策を読み、自分なりに考えた結果なのか。

 おそらく、そのすべてが少しずつ混ざっている。

 高市早苗が「政策」より「強い言葉」で先に理解されているということを、現在の資料だけから科学的事実として断定することはできない。政治家イメージが政治評価と関係すること、有権者が政党名や人物像のような手掛かりを利用して判断することについては研究の蓄積がある一方、高市氏について「強い言葉が先に認知され、その結果として政策評価が変化した」という一連の因果関係が直接測定されたわけではないからである。

 しかし、だからこそ、この問いは面白い。

 高市氏には実際にかなり具体的な政策体系があり、それを短く記憶に残る言葉へ圧縮する政治的な話法もある。そして私たち有権者の側には、複雑な政策をすべて処理する代わりに、人物像や政党、印象的な言葉を判断の手掛かりとして利用する性質がある。

 政治家が言葉を作り、メディアがその言葉を選び、交流型ソーシャルメディアがそれを増幅し、最後に私たちが意味を与える。その共同作業の中で、「高市早苗」という政治家像が出来上がっていく。

 政治家を見るという行為は、政治家だけを見ることではない。

 その人を見ている自分が、何を選んで見て、何を忘れ、どの言葉だけを記憶しているのかまで含めて初めて、政治家を見ていることになるのかもしれない。

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