地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

野中広務という政治家を振り返るとき、奇妙な事実に気づく。総理大臣にはならなかった。自民党総裁にもならなかった。国会議員になったのは1983年、すでに57歳になってからである。若くして国政へ入り、当選回数を重ね、派閥の階段を上りながら首相を目指すという、戦後自民党政治の典型的な出世コースから見れば、むしろ遅すぎる出発だった。

それにもかかわらず、1990年代後半から2000年代初めの永田町では、野中の名前を抜きに重要な政局を語ることが難しい時期があった。小渕恵三政権では内閣官房長官として連立政権形成に深くかかわり、その後は自民党幹事長として党内を動かした。「影の総理」とまで呼ばれたことがあるのも、後世につくられた誇張だけではない。野中自身の回顧録も、そのように呼ばれた政治家の記録として紹介されている。

では、総理でも総裁でもなかった男が、なぜそこまで大きな力を持つことができたのだろうか。

答えを「裏工作が巧みだったから」の一言で片づけることは簡単である。しかし、それでは野中広務という政治家の本質を取り逃がす。彼の強さは、権力の頂点に立つことよりも、権力が実際に動く場所を知っていたことにあった。そして、その感覚を身につけたのは東京の永田町ではない。京都の地方政治だった。

永田町とは遠いところから始まった政治家

野中は1925年、京都府船井郡園部町、現在の南丹市園部地域に生まれた。旧制京都府立園部中学校を卒業すると鉄道省大阪鉄道局に入り、戦争末期には召集を経験した。戦後に職場へ戻ったのち、1951年に園部町議会議員となり、1958年には園部町長に就任する。その後も京都府議会議員、京都府副知事を務め、1983年に衆議院議員へ転じるまで、30年以上を地方政治と地方行政の中で過ごした。同志社大学に残る略年譜でも、この長い地方政治歴を確認できる。

この経歴は、単なる履歴書の前半ではない。後の野中政治を形づくる訓練期間そのものだったと考えた方がよい。

町長の仕事には、華やかな演説より先に、道路があり、学校があり、福祉があり、災害がある。限られた予算をどこへ配分するのかを決めれば、必ず得をする地域と後回しになる地域が生まれる。住民の要望を聞くだけでは行政は動かず、議会をまとめ、役所を動かし、京都府や国との関係をつくらなければならない。

そこで求められるのは、理想を語る能力だけではない。相手が何を望み、どこまでなら譲り、何だけは譲らないのかを読む能力である。

野中が後に永田町で発揮した「調整力」を、地方政治経験だけで説明することはできない。しかし、地方行政の現場で長く利害の衝突を処理してきた経験が、その政治技術の重要な基盤になったと考えることには十分な合理性がある。

ただし、野中が地方から持ってきたものは、単なる調整術だけではなかった。

京都では長く蜷川虎三知事による革新府政が続き、自民党が中央政府では与党でありながら、京都では思うように主導権を握れない時代が続いた。つまり野中は、自分たちが常に多数派である政治だけを経験してきた人物ではない。相手側にも権力があり、自分たちだけでは何も決められない政治を知っていた。

この経験が後年、意外な意味を持つことになる。

57歳の新人議員は、本当の意味では新人ではなかった

1983年、旧京都2区で前尾繁三郎と谷垣専一の死去に伴う衆議院補欠選挙が行われ、野中は谷垣禎一とともに初当選した。谷垣自身も後年、国会でこの補欠選挙について証言している。

57歳の初当選は、自民党政治家として考えれば遅い。しかし、ここには数字の錯覚がある。

国会議員としては一年生でも、政治家としてはすでに30年以上の経験があった。町議として選挙を知り、町長として行政を知り、府議として議会を知り、副知事として巨大な行政組織の内部を知っている。若い国会議員が永田町で一から学ぶべき事柄のかなりの部分を、野中は別の場所ですでに経験していた。

そのため野中の国政入りは、57歳から政治家人生を始めたというより、地方で身につけた政治技術を国という一段大きな舞台へ移した出来事だったと見る方が実像に近い。

しかし、それだけなら地方行政に詳しいベテラン政治家で終わっていたかもしれない。野中を中央政界の実力者へ押し上げたもう一つの条件は、本人の経歴ではなく、日本政治そのものの変化だった。

1989年から、日本政治のルールが少しずつ変わった

戦後自民党政治を語るとき、1993年の政権交代は大きな断層として記憶されている。細川護熙を首相とする非自民政権が成立し、自民党が1955年以来初めて本格的に野党へ転落したからである。

しかし、変化はその4年前から始まっていた。

1989年の参議院選挙で自民党は大敗し、参議院の単独過半数を失った。これによって、衆議院で多数を持つだけでは法律を安定して成立させにくい状況が生まれ、与野党間の協議や修正交渉の重要性が増していった。政治学的に見れば、1993年に突然連立政治の時代が始まったのではなく、1989年から従来の自民党単独支配の仕組みが徐々に変質していたのである。

これは野中にとって重要な環境変化だった。

自民党が衆参両院で安定多数を持つなら、最も重要なのは党内の派閥や政策部門をまとめる能力である。しかし自民党だけでは決められなくなると、必要な技術が変わる。党内だけではなく、昨日まで敵だった野党の事情まで理解し、その相手と合意をつくらなければ政権を動かせなくなるからである。

野中が地方政治で経験してきたのは、まさにそうした世界だった。

ここで重要なのは、「地方政治を経験したから野中は成功した」と単純な原因と結果で結ばないことである。地方政治家出身者の全員が中央政界の実力者になったわけではない。野中自身の人間関係、旧田中派から竹下派へ続く党内基盤、国会対策での経験、選挙制度改革、政界再編、そして本人特有の記憶力や交渉力など、複数の条件が重なっている。

それでも、地方で培った調整型の政治技術と、1990年代に訪れた「一党だけでは決められない政治」が非常によく適合したという見方は、野中の急速な台頭を説明する有力な仮説になる。

自民党が野党になったとき、野中の経験が生きた

1993年、自民党は下野した。細川政権、続いて羽田孜政権が成立し、長く政権担当を当然の前提としてきた自民党は、突然野党になった。

その翌年、政治史に残る組み合わせが誕生する。

自民党、日本社会党、新党さきがけによる自社さ連立である。

社会党は長年、自民党最大の対抗勢力だった。その社会党の村山富市委員長を首相に担ぎ、自民党が政権へ復帰するという構図は、それまでの左右対立だけで政治を見ていた人々には理解しにくいものだった。

しかし、連立政治とは本来そういうものである。

政策が完全に一致する相手としか協力できないなら、連立そのものが成立しない。どこを譲り、何を共有し、どこを棚上げするかという取引の積み重ねによって、初めて政権は形になる。

野中は、この自社さ連立の形成過程で重要な役割を担い、村山内閣では自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。ただし、村山政権は野中一人がつくった政権ではない。河野洋平、森喜朗、亀井静香、村山富市、武村正義ら多くの政治家が動いた結果であり、野中はその一角を占めた重要な調整者だったと見るのが適切だろう。

野中の価値が高まったのは、まさにこの「誰も一人では決められない政治」が常態化していったからだった。

小渕政権で「影の実力者」は完成した

野中広務の政治力が最も鮮明に表れたのは、小渕恵三政権である。

1998年の参議院選挙で自民党は敗北し、再び参議院で厳しい少数状態に置かれた。そこで小渕が官房長官に起用したのが野中だった。自民党の公式党史も、野中について「野党との交渉に辣腕が期待された」と記している。

ここで野中は単なる政府の報道官ではなくなる。

小渕政権を安定させるには、自民党だけでは足りない。そこで政権は小沢一郎率いる自由党との連立へ向かい、1999年1月に自自連立政権が成立する。同年10月には公明党も加わり、自自公連立へ発展した。自民党史でも、小渕首相、野中官房長官、自民党執行部が参議院での過半数割れを克服するため政権基盤の強化を模索した経緯が記されている。

興味深いのは、野中にとって小沢一郎が決して気心の知れた仲間ではなかったことである。

政治的対立があっても、必要であれば交渉する。昨日まで敵だった相手でも、今日の国会を動かすために必要なら同じ席につく。

そこには、理念がないのではない。

むしろ「政治は結果を出さなければ存在しない」という、地方行政出身者らしい現実感覚があったように見える。

この政治を節操のない権力維持と見ることもできるし、議会制民主主義に不可欠な妥協の技術と見ることもできる。おそらく野中政治の評価が現在まで割れるのは、この二つを簡単に分離できないからだろう。

それでも一つだけ確かなことがある。

首相が小渕恵三であっても、その政権を成立させる議席を誰がどう集め、どの党との間に橋を架けるかという作業を担う人物の影響力は極めて大きい。正式な地位以上に、表から見えにくい調整過程で巨大な影響力を持ったことが、「影の実力者」「影の総理」という野中の人物像につながったと考えることができる。

野中の権力は「人間を一人で見ない」ことから生まれた

野中の強さを、単純な人脈の広さだけで説明するのも十分ではない。

彼が見ていたのは、一人の国会議員だけではなかった。その議員の後ろにある選挙区、後援会、地方議員、支援団体、派閥、そして次の選挙まで含めて、一つの政治的なネットワークとして見ていた。

この特徴が最も劇的に表れたのが、2000年の「加藤の乱」だった。

森喜朗内閣に批判的だった加藤紘一と山崎拓が、野党提出の内閣不信任決議案への対応をめぐって倒閣を図った。表面だけを見れば、自民党内部の派閥抗争である。しかし実際の攻防は、国会議員本人だけに対する説得では終わらなかった。党執行部は公認権や次の選挙を背景に造反予定者への切り崩しを進め、野中もその中心人物の一人として動いた。

ここでも、「野中が一人で加藤の乱を潰した」と考えるのは正確ではない。加藤派内部の温度差、選挙への不安、党公認を失う危険、森派や党執行部全体の動きなど、複数の要因が重なったからこそ倒閣運動は崩れた。

しかし、その複雑な構造を利用して一人ずつ切り離していく政治技術こそ、野中が最も得意としたものだった。

議員に直接「反対するな」と命じるだけではない。その人間が何によって政治家として存在しているのかを調べ、そこへ働きかける。

園部町から永田町まで半世紀近く政治を続けてきた男が最後に身につけていたのは、政治家を見る技術というより、政治家を取り囲む関係を見る技術だったのである。

「影」という言葉には、称賛だけではなく不気味さもある

もっとも、「影の実力者」という表現を格好のよい称号として扱うだけでは、野中政治の半分を見失う。

影で政治を動かすとは、別の言い方をすれば、有権者から見えない場所で重大な決定が行われることでもある。

誰と誰が会い、どのような条件が示され、どこまで譲歩し、その代わりに何を得たのか。派閥、後援会、地方組織、官僚組織、業界団体が複雑につながる政治では、結果は見えても、その過程が国民から十分には見えないことがある。

野中は相手の事情を理解する調整型政治家であると同時に、必要と考えれば党組織と権力を強く使う政治家でもあった。

つまり包容と圧力は、互いに矛盾する性質ではない。

相手が何を恐れているかを理解できるからこそ、説得もできるし、圧力もかけられる。相手の弱点を知らなければ妥協点もつくれないが、その弱点を知れば政治的な武器にもなる。

野中政治の魅力と怖さは、実は同じ場所から生まれている。

だから「実力者」という言葉だけでは足りなかったのだろう。「影」という言葉は、正式な肩書以上の影響力だけではなく、その権力が見えにくいところから働いていたことまで含んでいる。

権力を使いながら、権力を警戒した政治家

ここで野中広務という人物をさらに複雑にするのが、彼が単純な権力至上主義者ではなかったことである。

戦争体験を持ち、地方政治では福祉行政にも深く関わり、国政では沖縄問題や差別の問題について繰り返し発言した。権力を行使する側に立ちながら、国家権力が弱い立場の人間に何をするかという問題に敏感だった人物として評価されることも多い。

しかし、だからといって平和主義者、弱者の味方という言葉だけで整理してしまえば、逆方向の美化になる。

野中は政権担当者であり、国家公安委員会委員長にも官房長官にもなった。沖縄では米軍基地問題を抱える政府側の政治家として現実の政策決定に関与している。理想だけを語り、その結果について責任を負わない立場ではなかった。

そこに野中という政治家の独特な矛盾がある。

権力の危険を知っている。しかし、政治を動かすためにはその権力を使う。

弱者への視線を持つ。しかし政権を守るためなら、反対する政治家へ強い圧力をかける。

敵の事情を理解する。しかし必要なら、その事情を利用して相手を切り崩す。

この矛盾を偽善と呼ぶこともできる。しかし政治とは本来、理念だけでなく結果への責任を引き受ける仕事だと考えるなら、そこに野中政治の現実主義を見ることもできる。

小泉純一郎の登場で、政治の「見せ方」が変わった

2001年、小泉純一郎が自民党総裁となり首相に就任すると、永田町の空気は大きく変わった。

もちろん、野中時代には調整しかなく、小泉時代には対決しかなかったというほど政治は単純ではない。小泉も党内調整を行っていたし、野中も世論を無視していたわけではない。

それでも、政治の見せ方には明らかな違いがあった。

野中型の政治では、対立する相手と水面下で交渉し、最終的に一致点をつくることに価値があった。それに対して小泉は、対立を国民の前に見える形で示し、「改革に賛成するのか、反対するのか」と世論へ直接問いかける政治を得意とした。

調整の過程を見せないことが政治力だった時代から、対立そのものを見せることが政治力になる時代へ。

少なくとも政治コミュニケーションという点では、そんな変化が起きていた。

政治学的にも、小泉政権は1990年代の制度改革を背景として首相権力を強く行使した政権として分析されている。ただし、その小泉政権でさえ、参議院では青木幹雄ら党幹部との調整を必要としていた。したがって野中型政治が完全に消滅したのではなく、表舞台に立つ政治家と裏側で調整する政治家との力関係が変わったと見る方が正確である。

野中は2003年に国会議員を引退した。1951年の園部町議初当選から数えれば、半世紀を超える政治生活だった。

なぜ野中広務は「影の実力者」になれたのか

野中広務が「影の実力者」となった理由を一つに絞ることはできない。

地方政治で培った行政実務と利害調整の経験があり、旧来の自民党組織の人脈があり、政界再編の荒波を読む能力があり、そして1989年以降、日本政治そのものが一党だけでは決めにくい構造へ変化していった。

それらが重なったところに、野中という政治家の最盛期があった。

もし自民党が衆参両院で安定多数を持ち続けていたなら、野中ほどの調整型政治家があれほど大きな力を持ったかどうかは分からない。逆に、連立政権が必要になったとしても、誰もが野中のように異なる勢力をつなぐことができたわけでもない。

つまり野中の力は、個人の能力だけでも、時代だけでも説明できない。

野中広務という政治家の能力と、1990年代という政治環境が出会った結果だった。

多数を持つ者が強い政治では、調整役は目立たない。しかし誰も単独では決められない政治になると、最後の数票を集める者、昨日までの敵を同じテーブルへ連れてくる者、相手が何を恐れ、何を求めているかを知る者が、時として総理大臣以上の存在感を持つ。

野中は首相の椅子に座ったことはない。

けれども政治というものを、首相の椅子だけから眺めれば、その本当の構造は見えてこない。

演壇で政策を語る人間の背後には、議席を数える人間がいる。敵対する政党との間を歩く人間がいる。地方の事情を中央へ運ぶ人間がいる。誰も譲らない夜に、一人ずつ電話をかけ、どこまでなら折り合えるのかを探る人間がいる。

野中広務は、その仕事を知り尽くしていた。

京都の地方政治家として始まった男が、半世紀をかけてたどり着いたのは、総理大臣という権力の頂点ではなかった。

その頂点を支え、ときに揺らし、ときには誰をそこへ座らせるのかさえ左右する、表からは見えにくい政治の中枢だったのである。

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政治家の経歴を一本の線として眺めたとき、小池百合子ほど、その線が何度も違う方向へ曲がりながら途切れなかった人物は珍しい。

日本新党から国政へ入り、新進党、自由党、保守党を経て自由民主党へ移った。その自由民主党では環境大臣、防衛大臣、党総務会長まで務めながら、2016年には党東京都連の推薦を受けずに東京都知事選挙へ立候補する。翌年には自民党を離れ、地域政党「都民ファーストの会」の代表となり、さらに国政政党「希望の党」を立ち上げた。しかし、その国政進出が期待したほどの成果を上げられなくなると、再び東京都政を自らの政治活動の中心に据えた。

それだけを追えば、「政党を渡り歩いてきた政治家」という評価が生まれるのも理解できる。

けれども、この三十数年を単なる変節の歴史として読んでしまうと、一つの重要な事実を見落とす。

所属する場所は何度も変わったのに、小池百合子という政治家そのものは、政治的な存在感をほとんど失わなかったのである。

2026年現在、小池は東京都知事3期目にある。1992年に参議院議員として初当選してから、国政と東京都政を合わせて三十年以上、政治の第一線に立ち続けてきた。東京都の公式略歴を見ても、1992年の参議院初当選、1993年の衆議院転出、環境大臣、防衛大臣、自民党総務会長を経て、2016年、2020年、2024年と三度東京都知事に当選している。

なぜこれほど長く残ることができたのか。

その理由を考えていくと、「所属政党を変える能力」よりも、もっと重要なものが見えてくる。

小池百合子が繰り返してきたのは、単なる移籍ではない。政治環境が変わるたびに、自分の知名度、発信力、組織との距離、そして選挙制度の特徴を組み合わせ直し、自らが政治的に有効でいられる場所をつくり直すことだった。

「政界渡り鳥」という言葉では、1990年代を説明できない

小池が政治家になったのは1992年である。細川護熙が率いる日本新党から参議院選挙に立候補して初当選し、翌1993年には衆議院へ転じた。

その後の所属は、日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と変わっていく。確かに党名だけを並べれば多い。

しかし、ここで時計を現在から巻き戻しておかなければならない。

1990年代の日本政治は、現在のように主要政党の枠組みが比較的安定していた時代ではなかった。小池が最初に所属した日本新党は1994年に解党し、その流れから参加した新進党も1997年末に解党した。その後に加わった自由党も、2000年には連立政権への対応をめぐって分裂する。小池はその後、保守党を経て2002年に自由民主党へ入った。

つまり、小池の党籍変更をすべて同じ種類の行動として数えてしまうこと自体が危うい。

「自分の意思で安定した政党を離れた場合」と、「所属政党そのものが消滅した場合」と、「政党が分裂して所属先を選ばなければならなくなった場合」は、政治的な意味がまったく違うからである。

所属政党の数を数えて、その数が多いから理念が弱いと結論することはできない。党籍変更という観測された結果には、本人の選択だけではなく、1990年代の政界再編という外部環境が含まれている。

むしろ、この時代に政治家としての最初の十年を送ったことは、小池の後の政治行動を理解するうえで重要なのかもしれない。

日本新党も新進党も消えた。

昨日まで同じ党だった政治家が別々の党へ分かれ、昨日まで別々だった政治家が同じ党へ集まる。そんな政治を間近で経験すれば、政党という組織を永久不変の帰属先として見る感覚は生まれにくい。

これは小池本人がそう考えていたと証明できる話ではない。

ただ、少なくとも彼女の政治家としての出発点が、「党に入ればその党で政治人生を終える」という時代ではなかったことは確かである。

変わったのは思想より、政治活動の足場だった

もう一つ注意したいのは、小池が所属政党を変えるたびに、政策的立場まで正反対へ移動してきたわけではないという点である。

日本新党から新進党、自由党、保守党、自由民主党という大きな流れを見れば、政治改革や行政改革、市場を重視する政策、安全保障への積極姿勢などを持つ非社会党系の改革勢力から、次第に保守政治の中へ位置を定めていったと見る方が自然である。

もちろん、三十年以上の政治人生の中で政策上の変化がなかったという意味ではない。

政治家は社会状況によって政策判断を変えるし、政党間で政策そのものも変化する。

それでも、「所属政党が変わった」という事実と「基本的な政治的位置が毎回反転した」という評価は同じではない。

ここに小池政治の特徴が一つ見えてくる。

変化してきたのは、何を主張するかだけではなく、どこから主張するかだったのである。

テレビの経験が与えた「伝える政治」という武器

小池百合子を他の政治家と分ける特徴として、政界入りする以前からテレビの世界で広く知られていたことがある。

キャスターとして政治や経済を伝えてきた経験は、政策を作る能力とは別の能力を小池にもたらした。

複雑な問題を、短い言葉や映像で理解できる形に変換する能力である。

2003年に環境大臣となった小池は、地球温暖化対策の一環としてクールビズの推進役となった。

温室効果ガス、冷房温度、企業活動、エネルギー消費という話だけなら、多くの人にとって政策は遠い。しかし「夏の仕事ではネクタイを外して軽装する」と置き換えれば、政策が日常生活の行動になる。

政治課題そのものを単純化することと、政治課題を理解可能な形へ翻訳することは同じではない。

小池の強みは、後者にあった。

それがより鮮明に表れたのが、2005年の郵政選挙だった。

小泉純一郎首相は郵政民営化に反対した自民党議員を公認せず、その選挙区へ別の候補者を擁立した。小池も兵庫から東京10区へ選挙区を移し、いわゆる「刺客候補」の一人として当選した。

この選挙では、郵政制度という本来複雑な政策が、「改革を進める側」と「改革に抵抗する側」という極めて分かりやすい対立構図へ変換された。

小池がそこから何を学んだのかを外部から断定することはできない。

しかし、その後の政治活動を見ると、政治課題を有権者が理解できる構図へ変える能力が、繰り返し重要な役割を果たしたことは確認できる。

自民党の中で見えた、知名度だけでは越えられない壁

自由民主党に入った後、小池は環境大臣、防衛大臣などを歴任し、党内でも地位を上げていった。

そして2008年、自民党総裁選挙へ立候補する。

結果は麻生太郎351票、与謝野馨66票、小池百合子46票、石原伸晃37票、石破茂25票だった。小池は5人中3位で、得票は全体のおよそ9%にとどまった。

この結果から、「なぜ46票しか取れなかったのか」という原因を一つに決めることはできない。

派閥、人間関係、当時の政局、候補者それぞれの党内基盤など、総裁選挙の結果には多くの要因が作用するからである。

しかし、少なくとも一つだけ確実に言えることがある。

全国的な知名度を持ち、閣僚経験があっても、それだけでは自民党総裁に選ばれるだけの党内支持を形成できなかったということである。

一般有権者からの知名度と、巨大政党の内部で頂点へ上がる力は同じではない。

テレビに強いことも、全国で顔を知られていることも、自民党国会議員や地方組織から多数の支持を集めることを自動的には意味しない。

小池の政治的な強みと、自民党総裁選挙という制度との間には、少なくとも2008年の段階では距離があった。

その後も小池は国政から退出したわけではない。衆議院議員として当選を続けた。

しかし2016年、その政治活動の舞台を大きく変える選択をする。

永田町とは異なる「中心」~東京都知事という選択

2016年の東京都知事選挙で、小池は自民党東京都連から推薦を受けないまま立候補した。

ここには正確な区別が必要である。

この時点で小池は自民党を正式に離党していたわけではない。離党届を提出したのは翌2017年6月1日で、小池自身が東京都の記者会見でその経緯を説明している。

したがって2016年の行動は、「自民党を辞めて自民党と戦った」というより、自民党籍を残したまま党東京都連の推薦を得ず、自民党側が支援する候補と争ったと表現する方が正確である。

政治的にはきわめて危険な選択だった。

大政党の正式な組織支援を受けられないことは、通常なら選挙で不利になる。

しかし小池は、その不利を別の意味へ読み替えることに成功した。

党組織に支援されていない候補ではなく、既存の都政や党組織に挑む候補として自らを位置づけたのである。

結果は鮮明だった。

小池は291万2628票を獲得し、自民党などが支援した増田寛也の179万3453票を大きく上回って初当選した。

ここで起きたことは、小池百合子という政治家を考えるうえで重要である。

政治では、客観的な条件そのものと同じくらい、その条件が有権者から何を意味するものとして受け取られるかが重要になる。

大政党の推薦を得られないことが「孤立」と解釈されれば弱点になる。

しかし「既存勢力から独立している」と解釈されれば、改革を期待する有権者には強みに変わる。

2016年の小池は、その意味の転換に成功した。

2017年、個人の人気が政党を動かし、そして限界も見せた

知事就任後、小池の政治的勢いは東京都議会へ広がった。

2017年東京都議会議員選挙では、小池が率いた都民ファーストの会が49議席を獲得して第1党となり、自民党は選挙前の57議席から23議席へ激減した。

これは興味深い現象だった。

2016年には一人の候補者に集まった支持が、翌年には複数の候補者を当選させる力へ転換されたからである。

個人ブランドが、短期間ではあっても政治組織のブランドへ拡張された。

そして小池は、さらに国政へ踏み出す。

2017年9月、希望の党を立ち上げた。

しかし、ここでは東京都知事選挙や都議会選挙と同じ展開にはならなかった。

民進党との合流をめぐる過程で、小池が候補者について「排除します」と発言したことは大きく報道され、それまで改革者として機能していた強い言葉が、今度は別の印象を与える結果となった。

ただし、希望の党の失速をこの一言だけで説明するのは適切ではない。

候補者調整、民進党との合流過程、政策上の違い、立憲民主党の急速な結成、小池自身が衆議院選挙に立候補しなかったことなど、複数の要因が同時に存在していたからである。

最終的に2017年衆議院選挙で希望の党は50議席を獲得したが、立憲民主党の54議席を下回り、野党第一党にはならなかった。

50議席は小政党として見れば決して小さな数字ではない。

しかし、選挙前に生まれていた「小池旋風が国政まで変えるのではないか」という期待との比較では、成功とは評価されなかった。

ここで小池政治の重要な限界が見えた。

東京都知事選挙では、一人の候補者の知名度、発信力、行政実績が大きな力になる。

しかし全国の多数の選挙区で候補者を擁立する国政政党には、地方組織、候補者育成、政策調整、党内統治、資金、継続的な人材供給が必要になる。

一人の政治家のブランドが極めて強くても、それだけで全国政党を短期間に完成させることは難しい。

希望の党の経験は、小池百合子の強さだけではなく、その強さが最も機能する政治空間の範囲まで示したのである。

勝ち続けたのではない。失敗した場所に居続けなかった

小池の長期的な政治生命を考えるとき、ここから先がむしろ興味深い。

政治家の能力というと、人は勝つ力を考える。

しかし三十年という時間で見れば、負けない政治家などほとんどいない。

重要になるのは、失敗した後に何をするかである。

希望の党の国政進出が失速した後、小池は国政で主導権を取り返そうとして政治資源を投入し続ける道を選ばなかった。

東京都知事としての活動へ軸足を戻した。

結果として、2020年東京都知事選挙では366万1371票を獲得して再選した。2016年より約75万票多い。

そして2024年には3選を目指した。

ここでは2016年とは政治的な景色が大きく変わっていた。

2016年には自民党東京都連と対立することが、小池の選挙戦の重要な構図だった。

ところが2024年には、小池は無所属で立候補しながら、自民党、公明党、都民ファーストの会などから支援を受けた。公明党は党として「自主的に支援する」と明確に表明している。

つまり、かつて対立することで政治的な力を生み出した組織と、後には協力関係を形成したのである。

これを「一貫性がない」と見ることもできる。

しかし選挙戦略という観点から見ると、別の構造が見えてくる。

小池は、一つの政党との永続的な対立を自らの政治的アイデンティティーにはしなかった。

必要なときには距離を取り、別の局面では協力する。

固定された敵と味方を持つというより、その選挙、その政策、その時点の政治状況によって支援連合を再構築する。

その柔軟性が、小池の政治生命を長くしている可能性は高い。

三つの都知事選挙の数字が示すもの

ここで感覚的な評価から少し離れ、実際の票数を見てみると興味深い。

小池の東京都知事選挙での得票は、2016年が291万2628票、2020年が366万1371票、2024年が291万8015票である。

2016年から2024年まで8年が経過している。

対立候補も違う。政治情勢も違う。投票に参加した有権者も同じではない。

それにもかかわらず、2016年と2024年の小池の得票差はわずか5387票だった。

2016年の得票を基準にすれば、差は約0.18%にすぎない。

もちろん、この数字から「小池には290万人の固定支持者がいる」と結論することはできない。

2016年に小池へ投票した人と2024年に投票した人が同じであることを示すデータは存在しないからである。

むしろ注目すべきなのは、異なる政治状況の下でも、最終的に約290万票規模の支持を二度形成できたという事実である。

さらに2020年には、その水準を約75万票上回る366万票を獲得した。

この推移は、小池支持を一つの固定集団だけで説明するより、一定の支持基盤に、その時々の選挙環境によって異なる層が加わったり離れたりすると考えた方が自然である。

2024年の共同通信の出口調査でも、自民党支持層の66%が小池へ投票した一方、無党派層でも30%が小池を選んでいる。

つまり小池の強みは、一種類の支持者だけを固めることよりも、性質の異なる支持層を同じ選挙で重ね合わせられるところにある。

無所属なのに孤立しないという政治的位置

一般的な政治家は、所属政党から多くの政治資源を受け取る。

政党名による信用、地方組織、選挙運動、政策スタッフ、資金、支持団体である。

その代わり、政治家自身も党の政策、人事、内部秩序に拘束される。

小池の場合、この関係が少し異なっている。

2024年東京都知事選挙での党派は「無所属」だった。東京都選挙管理委員会の公式結果にもそのように記録されている。

しかし、無所属だから政治組織と無関係だったわけではない。

自民党や公明党、都民ファーストの会などから組織的な支援を受けている。

ここで重要なのは、「無所属」と「無組織」が同義ではないことである。

小池は政党に完全に包摂される位置から離れながら、政党組織の支援を排除しているわけでもない。

この中間的な位置は、政治家にとって強い。

党の不人気がそのまま本人の評価になる危険を一定程度避けながら、必要な選挙協力は得ることができるからである。

もちろん誰でも同じことができるわけではない。

政党側から見て支援する価値があるだけの知名度や当選可能性を持つ政治家だから成立する関係でもある。

小池百合子の政治的自立とは、組織を必要としないことではない。

一つの組織だけに政治生命を預けなくても、複数の組織と関係を結べることなのである。

政治的生存を一つの能力で説明しない

三十年以上にわたって政治の第一線に残る現象を、「メディア戦略がうまいから」「選挙に強いから」「政党を渡り歩いたから」と、一つの理由だけで説明するのは無理がある。

長期的な政治的生存には、いくつもの条件が必要になる。

全国的な知名度があっても、選挙に勝てなければ議席は得られない。

選挙に強くても、行政能力への評価を失えば現職として再選を重ねることは難しい。

政策を持っていても、それを有権者へ伝える能力がなければ支持につながりにくい。

個人人気が高くても、必要な場面で政党や議会と協力できなければ行政運営は行き詰まる。

逆に巨大な政党組織だけに依存していれば、その党内で地位を失った瞬間に政治生命そのものが弱くなる。

小池はこれらの要素を、すべて最高水準で持っていると断定する必要はない。

重要なのは、一つが突出しているのではなく、知名度、発信力、選挙適応力、行政経験、組織との接続力が同時に一定水準を超えていることである。

政治家の長期生存は、足し算というより掛け算に近い。

どれか一つが極端に弱ければ、ほかの能力だけでは補えない。

小池百合子という政治家の珍しさは、その組み合わせを三十年以上維持し、政治環境に応じて比重を変えてきたところにある。

ただし、「生き残る能力」と「政治的成果」は同じではない

ここまで小池の政治的生存力を見てくると、一つ注意しなければならないことがある。

政治家として長く残ること自体が、政治家として高く評価されることを意味するわけではない。

選挙に勝つ能力と、良い政策を実現する能力は異なる。

政党間の距離を柔軟に調整する能力と、理念的一貫性も同じではない。

さらに個人のブランドによって作られた政治勢力には、その本人がいなくなった後も制度や組織を残せるのかという問題がある。

2017年の希望の党が短期間で求心力を失った経験は、この弱点を示している。

強い個人を中心に形成された政治勢力は、選挙では急速に拡大できる。

しかし、その個人の人気を党組織、政策体系、次世代の政治家へ転換できなければ、継続的な政治勢力にはなりにくい。

この点で、小池百合子自身の政治的成功と、小池が作った政治組織の持続性は別に評価する必要がある。

もう一つは、政治的な居場所を柔軟に変える姿勢が、「理念より勝てる場所を優先しているのではないか」という批判につながりやすいことである。

この評価についても、外部から本人の動機を断定することはできない。

実際に確認できるのは、小池が複数の政党を経験し、自民党内部で総裁選に挑戦し、東京都知事へ転じ、地域政党と国政政党を設立し、国政進出の失速後には東京都政を再び中心に据えたという行動の軌跡である。

その軌跡を「変節」と評価するか、「適応」と評価するかは、政治を見る立場によって変わる。

だからこそ人物評ではなく、構造を見る必要がある。

所属する場所を変えたのではなく、「政治の中心」の定義を変えた

小池百合子はなぜ、所属する場所を変えながら政治の中心に残り続けることができたのか。

一つの答えだけでは足りない。

1990年代の激しい政党再編の中で政治家として出発したこと。

テレビキャスターの経験から、複雑な政治を有権者が理解できる言葉へ変換する力を持っていたこと。

自由民主党という巨大組織の資源を利用しながらも、政治生命そのものを党内地位だけに依存しなかったこと。

自分の強みが生きにくい政治空間に固執せず、東京都知事という別の巨大な政治空間へ移ったこと。

そして失敗した局面があっても、その失敗した場所で消耗し続けず、自分が再び多数を形成できる場所へ政治活動の重心を戻したこと。

これらが重なっている。

ここまで考えると、小池百合子を単に「所属政党を変えてきた政治家」と呼ぶことが、急に狭い見方に思えてくる。

国会議員から東京都知事へ移ることを、国政の中央から地方政治へ降りたと考えることもできる。

しかし東京都は人口1400万人規模を抱え、日本最大の自治体予算を動かし、その知事の政策や発言は全国ニュースになる。

東京都知事になることは、必ずしも政治の周辺へ移ることではない。

むしろ小池にとっては、自民党内部で多数の国会議員から支持を集めなければ頂点へ行けない世界から、東京都民が直接一人の知事を選ぶ世界へ舞台を変えることだった。

2008年の自民党総裁選挙では46票だった政治家が、8年後の東京都知事選挙では291万票を得た。

もちろん二つの選挙は制度も有権者も違うから、数字そのものを単純比較することはできない。

しかし、この違いこそ重要なのである。

政治家の力は、本人だけで決まるのではない。

その能力と、その能力が使われる制度との組み合わせによって決まる。

小池百合子は、どの制度の中でも最強だった政治家ではない。

2008年の自民党総裁選挙と2017年の希望の党は、そのことを示している。

しかし、自分の強みが生きる制度を見つけ、その場所で政治的な支持を再構築する能力については、戦後日本の政治家の中でも際立っている。

政治の中心とは、永田町の一か所に固定されているわけではない。

人々の関心が集まり、大きな予算と行政権限を持ち、政党の選挙戦略にまで影響を及ぼす場所もまた、政治の中心になり得る。

小池百合子は、中心から外れそうになるたびに同じ場所へ戻ってきた政治家ではない。

三十年以上の軌跡を見るかぎり、むしろこう表現した方が近いだろう。

所属する場所が変わっても、自分が政治的に意味を持てる場所を探し、その場所を新しい「中心」に変えてきた政治家なのである。

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