地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

総理大臣という仕事には、不思議なところがある。

就任する瞬間には、日本中の視線が一人の政治家に集まり、官邸へ入る車のドアが開くだけでもニュースになり、外国の首脳と並んで歩けば、その一挙手一投足が「日本の意思」として世界に伝えられるのに、退任した瞬間から、その人は突然「元総理」と呼ばれるようになる。もちろん衆議院議員として残る人もいれば、党内で相変わらず大きな力を持つ人もいるのだが、それでも昨日まで自分の判断によって大臣を任命し、衆議院を解散し、国家の進路を決めていた人間が、翌日には別の総理大臣が座る官邸をテレビで眺める側へ回るのである。

考えてみれば、これほど大きな人生の落差も珍しい。

だからこそ政治家という人物を知るには、総理大臣だった時代だけを見るより、むしろ総理大臣でなくなってから何をしたのかを眺めた方が、その人の本質が見えてくる場合がある。権力を失ってもなお権力のそばに居続けようとする人もいるし、驚くほどあっさり政界から距離を置く人もいる。一つの政策に残りの人生を賭ける人もいれば、外交の舞台を歩き続ける人もいる。そして一度は「元総理」になりながら、再び総理大臣になってしまった人物さえいる。

2025年に刊行された日本の元首相を研究した書籍『Former Prime Ministers in Japan』も、日本では元首相が単なる「引退した指導者」になるとは限らず、党内政治、派閥、外交、政策運動などを通じて長期間にわたり影響を残すことを指摘している。つまり日本政治では、総理退任は必ずしも政治人生の終着駅ではないのである。

では、2000年以降に総理大臣を務めた人々は、その巨大な椅子から降りたあと、どのように生きてきたのだろうか。

そこには、思った以上に異なる人生がある。

森喜朗~表舞台を降りても「政治の奥座敷」からは去らなかった人

2001年に総理を退任した森喜朗は、退任後の人生という意味では非常に日本的な元首相だったと言えるかもしれない。

再び首相や大臣になろうとはしなかったが、だからといって政治から離れたわけでもなく、長く自民党の派閥に影響力を残し、2012年に国会議員を引退してからも、かつて自ら率いた政治集団の人事について相談を受ける存在であり続けた。安倍晋三の死後、旧安倍派の後継体制をめぐる局面でも森の影響力が取り沙汰されており、国会議員でなくなってから十年以上たっても政治の奥座敷に席が残っていたというのだから、「引退」という日本語から普通に想像する姿とはかなり違う。

一方で、森が退任後に情熱を注いだもう一つの世界がスポーツだった。ラグビー界との長い関係を持ち、日本でのラグビーワールドカップ開催にも関わり、さらに2014年から東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を務めたことで、首相在任中よりも長い期間、スポーツ行政の中心人物として国民の前に現れ続けた。

しかし、その長い第二の政治人生の終盤で、女性についての発言が国内外から強い批判を受け、2021年に組織委員会会長を辞任することになった。東京大会そのものが新型コロナウイルス感染症による延期という難局にあった時期だけに、その辞任は森の退任後の歩みに大きな影を落とす出来事となった。

森の歩みを見ると、「晩節」とは単に静かに余生を送ることではないのだと思わされる。力を持ち続ければ、その力によって仕事をすることもできるが、その分だけ最後まで評価の舞台から降りることもできないのである。

小泉純一郎~権力から離れたことで、かえって自由になった人

森とは対照的なのが、その後を継いだ小泉純一郎だった。

2006年に五年余りの長期政権を終えると、小泉は後継者として安倍晋三を送り出し、その後しばらく衆議院議員を続けたものの、2009年の総選挙には出馬せず、国会そのものから去った。首相在任中には、郵政民営化をめぐって自民党を二分するほどの闘争を演じ、「自民党をぶっ壊す」という言葉で政治の主役を演じた人物であるだけに、退任後も党内最大級の実力者として振る舞うことは十分可能だったはずだが、その道を選ばなかったところに小泉らしさがある。研究書も、小泉の党内での影響力は退任後かなり早く低下したと分析している。

ところが、政治家として静かになった小泉が再び強い言葉を発するようになったのは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故を経験してからだった。

首相時代には原子力発電を否定していなかった小泉が、退任後には原子力発電からの脱却を唱え、講演を続け、2014年の東京都知事選挙では同じ元首相の細川護熙を支援し、その後も菅直人らとともに原子力政策の転換を訴えるようになる。

ここには少し皮肉な構図がある。総理大臣だった時には、政党、官僚組織、財界、国際関係、電力供給という巨大な現実を背負わなければならなかった政治家が、その椅子から降りたことによって初めて、一人の政治家として自分が正しいと思うことだけを語れるようになったのである。

小泉の晩年が比較的すっきりして見える理由も、おそらくそこにある。彼は「元総理」という肩書を権力への通行証として使うより、発言を聞いてもらうための拡声器として使った。その主張に賛成するかどうかとは別に、総理退任後の生き方として一つの完成された形である。

安倍晋三と麻生太郎~「元総理」が終着点にならなかった二人

しかし、政治家にとって総理退任後の人生が静かな余生であるという常識を最も劇的に壊したのは、安倍晋三だった。

2007年、第一次安倍政権はわずか一年ほどで終わり、健康問題もあって退任した。その時点で、多くの人には安倍の政治人生が頂点を越えたように見えただろう。ところが安倍は一議員として雌伏し、その間に自らの政治手法や経済政策を再構築し、2012年に自民党総裁へ返り咲くと総選挙に勝利し、再び総理大臣になった。

元総理が再び総理になる例は日本政治史にもあるが、2000年以降では安倍だけであり、一度失敗した政権の記憶を抱えたまま政治的に復活し、その後は憲政史上最長の首相在任期間を築いたという経歴は、「晩節」という言葉そのものを一度無意味にしてしまったほどである。研究書でも、1989年以降の元首相の中で安倍を最も強い再登板意欲を示した人物として位置付けている。

そして2020年、二度目の退任を迎えたあとも、今度は本当の引退にはならなかった。安倍は2021年に自民党最大派閥の会長となり、外交・安全保障や経済政策をめぐって発言を続け、後継世代の政治家にも強い影響を及ぼしていたが、その時間は2022年7月の銃撃事件によって突然断ち切られた。

その安倍と長く政治行動をともにしながら、また別の意味で「元総理になっても終わらなかった」のが麻生太郎である。

麻生は2009年、総選挙で自民党が大敗して政権を失った時の首相だったから、本来なら政治家として大きな責任を負って第一線から遠ざかっても不思議ではなかった。しかし三年後、安倍政権が復活すると、副総理兼財務大臣として政権中枢へ戻り、その後約九年間にわたって巨大な存在感を示した。さらに首相退任から十七年近くたった2026年になっても衆議院議員であり、高市早苗総裁の下で自民党副総裁を務めている。

ここまで来ると、麻生に「首相退任後の晩節」という言葉を当てはめること自体が難しい。首相という地位は彼の長い政治人生の一時期にすぎず、退任によって人生が前半と後半に分かれたのではなく、一本の長い政治生活の途中に首相在任期間が挟まっていたようにさえ見えるからである。

福田康夫と鳩山由紀夫~同じ「元首相外交」でも、残る印象はまったく違う

首相を辞めた人物には、現職首相にはできない仕事もある。

政府の正式な代表ではないから外交交渉の責任を負うことはできない代わりに、政府同士の関係が冷え込んでいる時にも相手国へ赴き、長年築いた人脈によって対話の糸をつなぐことができる。福田康夫の退任後は、その典型に近い。

2008年に首相を辞任した福田は2012年に国会議員を退いた後も、ボアオ・アジア・フォーラムをはじめとする国際組織や日中関係に関わり続け、特に中国との関係では、政府間関係が難しい時期にも首脳級と接触できる元首相として役割を果たしてきた。研究書は、福田が元首相として「長老政治家」に近い国際的役割を担い、中国との緊張緩和に非公式に寄与した局面を指摘している。

福田の興味深いところは、首相時代より退任後の方が、その人物像が分かりやすくなったように見えることである。政権運営では「地味」「調整型」と評されることの多かった性質が、元首相外交になると、むしろ相手の話を聞き、派手な自己主張をせず、長い時間をかけて関係をつなぐという長所へ変わった。

ところが、同じように東アジアとの対話を退任後の仕事にした鳩山由紀夫の人生は、まったく異なる評価を呼ぶことになった。

鳩山は2012年に政界を引退し、翌2013年には東アジア共同体研究所を設立して、自らが首相時代から唱えていた東アジア共同体や「友愛」という理念を追求し続けた。首相在任中に十分実現できなかった理念を、政治権力を失った後も個人として追い続けたという点では、その行動には驚くほど一貫性がある。

しかし元首相は、本人が私人になったつもりでも、外国から見れば完全な私人にはならない。2015年に政府の方針に反してロシアが併合したクリミアを訪問した際には日本政府から強い批判を受け、さらに2025年には北京で中国政府が開催した抗日戦争勝利80年の記念行事にも私人として出席した。

鳩山自身から見れば、それは首相時代から続く東アジア和解という思想の延長なのだろう。しかし国家の元代表者という肩書は、その人が官邸を去った日には消えてくれないため、本人が「個人の外交」と考える行動も、国内外では日本政治の一部として読まれてしまう。

福田と鳩山を並べると、元首相外交の難しさがよく見える。政治的立場を越えて相手国と話せることは元首相の財産だが、その自由が大きくなるほど「日本を代表しているのか、していないのか」という境界も曖昧になるのである。

菅直人と野田佳彦~敗れた政権の記憶を、どう背負って生きたか

2009年に始まった民主党政権の三人の首相は、いずれも短期間で官邸を去ったが、その後の歩みはかなり違う。

菅直人の場合、退任後の人生から福島第一原子力発電所事故を切り離すことはできなかった。

事故当時の首相だった菅は、政権を離れてから原子力発電に依存しない社会を強く主張するようになり、小泉純一郎らとも行動をともにした。それと同時に、事故対応をめぐる自らの判断について著書や講演で説明を続けており、研究者から見れば、政策運動と同時に「自分があの時何をしたのかを歴史に説明し続ける元首相」という側面を持っている。

そして2024年の衆議院選挙には立候補せず、国政から退いた。

小泉が福島事故を外から見て原子力政策を変えた人物であるのに対し、菅は事故の渦中にいた当事者として原子力政策を変えた人物であり、同じ脱原発という結論に至っていても、その言葉の背後にある人生はまるで違う。

ところが野田佳彦は、首相退任から十年以上たってから再び政治の中心へ戻ってきた。

2012年の総選挙で民主党政権が大敗すると代表を辞任したが、国会議員を続け、駅頭での活動や国会論戦を積み重ね、2024年には立憲民主党代表へ返り咲いた。かつて首相として政権を失った人物が、十年以上後に野党第一党を率いて再び政権交代を目指す姿は、安倍とは方向こそ逆であっても、「政治家の人生は一度の敗北では終わらない」という点でどこか似ている。

さらに政治はそこで終わらず、2026年1月には公明党側と合流して中道改革連合を結成し、野田は共同代表となった。しかし2月の衆議院選挙で同党は49議席にとどまり、選挙後に野田と斉藤鉄夫は責任を取って共同代表を辞任し、その後、野田は党顧問となった。

首相退任から十四年後、再び大きな政治的勝負に出て、再び敗北の責任を負って代表を降りたことになる。

だから野田の晩節は、まだ「静かな晩節」と呼べるものではない。むしろ、総理経験者でありながら駅前に立ち、野党政治家としてもう一度勝負し、それでも選挙に敗れれば代表を辞めるという、政治家という職業からなかなか降りようとしない人生そのものが、野田という人物を表しているように思える。

菅義偉~元の「裏方」に戻り、最後は自分で幕を引いた

安倍政権で七年八か月にわたり官房長官を務めた菅義偉は、もともと派手な理念を語る政治家というより、物事を動かす政治家だった。

そのため2021年に首相を退任すると、彼は不思議なほど自然に、かつて得意としていた裏方の世界へ戻っていった。派閥には属さず、しかし党内の若手や中堅との人脈を持ち、2024年の自民党総裁選挙では小泉進次郎を支援した後、決選投票では石破茂を支持し、その石破体制で党副総裁に就くなど、表舞台の主役ではないまま「誰を主役にするか」に影響を与える政治家になった。

だが麻生とは違い、菅はその立場をいつまでも続ける道を選ばなかった。

2026年1月、77歳になった菅は次の衆議院選挙に立候補せず、後進に道を譲るとして政界引退を表明した。秋田の農家に生まれ、東京へ出て、政治家秘書、横浜市議、衆議院議員、官房長官を経て総理大臣まで上り詰めた人物が、最後には自ら「引き際」を決めたのである。

首相の退任そのものは、新型コロナウイルス感染症への対応などをめぐる支持率低下の中で迎えたものだった。しかし政治家としての最後まで同じ空気を引きずったわけではなく、数年間の元首相時代を経て、自分で後継者を示し、選挙に出ないと決めて去った。

晩節という言葉を「最後にどのように権力を手放したか」と考えるなら、菅の2026年の決断は、2000年以降の元首相の中でも比較的輪郭のはっきりした引き際だったと言えるだろう。

岸田文雄と石破茂~まだ「晩節」と呼ぶには早すぎる二人

岸田文雄と石破茂については、ここまでの元首相たちと同じ物差しで評価するのは早い。

岸田は2024年に首相を退任した後も衆議院議員を続け、2026年現在、自民党の日本成長戦略本部長として経済政策に関わっている。総理を辞めたからといって長老になったわけでも、政界を去ったわけでもなく、まだ68歳であり、元首相としての第二幕が始まったばかりである。

さらに新しい元首相が石破茂である。

石破は2025年10月に首相を退任した後も国会議員を続け、2026年の衆議院選挙でも鳥取1区で議席を維持した。退任から一年も経過していない2026年8月現在も、消費税、社会保障、皇室制度、自民党のあり方などについて積極的に発言しており、元首相というより、首相経験を持つ現役政治家と呼ぶ方が実態に近い。

岸田も石破も、これから麻生のように党内で長期間力を持つのか、福田のような長老型へ移るのか、小泉のように特定の政策課題へ向かうのか、それとも比較的早く政界から離れるのかは分からない。

晩節は、本人が書いている最中にはまだ晩節には見えないのである。

「立派な元総理」とは、静かな元総理のことなのだろうか

こうして2000年以降の首相たちを並べてみると、意外なことに気づく。

首相を辞めた後の人生に、模範解答など存在しない。

小泉純一郎のように政界そのものから離れ、一つの政策を訴える人生もある。福田康夫のように政府の外側から国際関係をつなぐ人生もあり、麻生太郎のように首相退任後の方がはるかに長く政権中枢に居続ける人生もある。安倍晋三は一度失った首相の座そのものを取り戻し、野田佳彦は政権を失って十年以上たってから再び野党の先頭に立った。菅直人は自らが首相として遭遇した巨大事故と向き合い続け、鳩山由紀夫は首相時代に実現できなかった外交理念を私人となってからも追い続けた。森喜朗はスポーツと党内政治に長く影響を残し、菅義偉は最後には自ら政治家としての終わりを決めた。

そこに共通しているものがあるとすれば、人間は一度この国の最高権力を経験すると、完全に「普通の人」に戻ることは難しいということなのかもしれない。

昨日まで外国首脳が自分を待ち、大臣が自分の判断を仰ぎ、全国の新聞が自分の言葉を一面に載せていた。その世界を知った人間が、翌日から庭を眺めて余生を過ごせと言われても、それほど簡単な話ではないだろう。

だから元首相の晩節を考えるとき、本当に問われるのは「政治を続けたか、辞めたか」ではない。

むしろ、自分がもう総理大臣ではないという事実と、どのように折り合いをつけたのかということなのだろう。

かつての肩書を使って後継者を動かすのか。その名声を一つの社会運動へ使うのか。国際社会との橋渡しに使うのか。それとも、自分が去るべき時を自分で決めるのか。

総理大臣として何を成し遂げたかは、教科書にも年表にも残る。

しかし、その人が本当はどんな政治家だったのかは、首相官邸の玄関から最後に出ていった、その後の人生にこそ表れるのかもしれない。

権力を握った時よりも、権力を失った時の方が、人間は隠しようがない。

2000年以降の元総理たちの人生を眺めていると、「晩節」という古い言葉が、少し違って聞こえてくる。

それは人生の最後をきれいに飾ることではない。

自分がかつて持っていた巨大な力と、最後にどのような距離を取ることができたのか。

おそらく政治家の晩節とは、その距離の取り方そのものなのである。

※本稿は2026年8月時点の公開情報をもとに、2000年以降に首相を務め、その後退任した人物を対象としている。小渕恵三は2000年4月まで首相を務めたが在任中に病に倒れ、退任後の政治活動を比較できないため本文の対象から外した。現職の高市早苗首相についても当然ながら対象としていない。歴代内閣の在任期間は首相官邸の公式記録による。

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