地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

深く頭を下げれば、政治はリセットされるのか

 政治家の謝罪には、ほとんど決まった風景がある。記者たちの前に立ち、「国民の皆さまに多大なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます」と述べて深く頭を下げると、シャッターの音が一斉に響き、その姿がテレビや新聞、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)を駆け巡る。しかし、それで騒動が終わることはめったになく、その日のうちに「本当に反省しているのか」「辞任しないのか」「謝れば済むと思っているのではないか」という別の問いが始まる。

 考えてみれば、これは少し奇妙である。私たちは政治家に「謝れ」と要求しながら、政治家が実際に謝罪すると、それだけでは納得しない。謝らなければ「なぜ謝らない」と批判し、謝れば今度は「謝って済む問題ではない」と批判するのだから、一見すると有権者の側が矛盾しているようにも見える。しかし、この矛盾こそが政治家の謝罪という行為の特殊さをよく表している。

 そもそも私たちは、政治家に何を求めて「謝れ」と言っているのだろう。反省してほしいのか、事実を認めてほしいのか、それとも職を辞するなど具体的な責任を取ってほしいのか。この三つはしばしば一緒に語られるが、本来は別の問題であり、ここを区別しなければ、「謝った政治家は潔い」「謝らない政治家は卑怯だ」という単純な人物評から先へ進むことができない。

普通の人間関係では、謝罪は壊れた関係を修復する

 日常生活では、謝罪は壊れた関係を修復するための重要な手段として機能する。自分に非があったことを認め、相手が受けた損害や不快感を理解し、可能ならば償い、同じことを繰り返さない意思を示すことで、相手は初めて「この人は何が問題だったのかを理解している」と判断できるからである。

 謝罪を扱った心理学や交渉研究でも、すべての謝罪が同じ効果を持つわけではないことが示されている。ロイ・ルウィッキらが謝罪を構成する要素を比較した研究では、単なる後悔の表明や事情説明だけでなく、自分の責任を認めることや、損なわれたものを修復しようとする姿勢が重要であり、とりわけ責任の承認は高く評価された。一方で、「どうか許してください」と許しを求めるだけでは、十分な信頼回復には結び付きにくかった。

 感覚的にも理解しやすい。誰かが大切な物を壊した後に、「嫌な思いをさせてしまったのなら申し訳ない」と言ったとしても、私たちはどこか釈然としない。問題は相手が嫌な気持ちになったことだけではなく、その人自身が物を壊したことにあるからであり、「あなたが不快になったこと」を謝るのと「私が壊したこと」を認めるのとでは、謝罪の意味がまるで違う。

 ところが、政治の世界へ入ると、この当たり前の仕組みが複雑になる。政治家が「私が間違っていました」と率直に認めることは、人間関係として見れば誠実な行動である一方、政治的には「疑惑を本人が認めた」という新しい情報にもなるからである。

謝罪は誠実さの表明であると同時に、事実を認める行為でもある

 ここに、政治家が簡単には謝罪しない合理的な理由の一つがある。疑惑が報道された直後には、まだ事実関係をよく知らない有権者も多く、「本当にやったのだろうか」「報道が誇張されているのではないか」と判断を保留している人もいる。その段階で本人が全面的に謝罪すれば、有権者は「少なくとも本人は何らかの責任を認めた」と受け止める可能性が高くなる。

 つまり謝罪には、「この人物は自分の責任を認めるだけの誠実さを持っている」というプラスの情報と、「問題とされた行為が実際に存在したらしい」というマイナスの情報が同時に含まれている。この二つの効果が同じ方向へ働かないところに、政治的謝罪の難しさがある。

 この逆説は、政治スキャンダルについて行われた実験研究でも確認されている。ただし、ここで重要なのは研究の適用範囲を広げ過ぎないことである。米国の有権者を対象として、架空の連邦議会議員による性的不祥事を扱った大規模な実験では、不祥事を認めて謝罪した政治家より、疑惑を否認した政治家の方が支持を保つ場合があり、さらに追加の証拠が示された場合でも、謝罪が必ず否認を上回るとは確認されなかった。

 これはかなり刺激的な結果だが、「政治家は謝らない方が得だ」という普遍的な法則を意味するわけではない。この研究が直接示しているのは、米国の有権者、議員、性的不祥事、実験的なシナリオという一定の条件下で、謝罪が必ずしも政治的評価を回復しないということであり、政治資金問題や政策判断の失敗、失言、行政上の過失まで、同じ結果になるとは限らない。

 それでも、この研究が示す意味は大きい。私たちは道徳的には「正直に認めて謝る人を評価したい」と考えるが、有権者が実際に政治家を評価するときには、誠実さだけでなく、「この疑惑は本当だったのか」という事実認識まで同時に更新しているからである。

人は謝罪そのものではなく、新しい情報として受け取っている

 この仕組みは、確率的な情報更新として考えると分かりやすい。疑惑が報道された時点では、有権者一人一人が「本当である可能性は高い」「まだ分からない」「おそらく誤報だろう」と異なる判断を持っている。そこへ本人の謝罪という情報が加われば、「本人が責任を認めたのだから、疑惑が事実である可能性は以前より高そうだ」と判断する人が出てくる。

 逆に政治家が完全否認すれば、一部の有権者は「本人がここまで否定するのなら、まだ確定していないのかもしれない」と判断する。この反応が合理的であるかどうかは別として、政治家の発言自体が有権者の事実認識を変化させる情報として働くことは、実験研究でも確認されている。

 この意味で、謝罪の政治効果は単純な加点方式ではない。「謝罪すれば誠実さが十点上がる」といった問題ではなく、誠実性への評価が上がる一方で、不祥事が事実だったという認識も強まり、その二つが相殺したり、後者が前者を上回ったりする可能性がある。

 政治家の謝罪を理解するには、この二重構造を見なければならない。

支持する政治家の失敗には、私たちは少し甘くなる

 さらに政治を複雑にするのが、政党支持や政治家への既存の好感度である。ある政治家の不祥事を聞いたとき、もともと嫌っていた政治家なら「やはりそういう人物だった」と受け取り、自分が支持している政治家なら「何か事情があるのではないか」「報道の仕方に問題があるのではないか」と考えることは珍しくない。

 これは政治に限った特殊な心理ではない。人間は、自分がすでに持っている信念と一致する情報を受け入れやすく、それと矛盾する情報については慎重に扱ったり、別の説明を探したりする傾向を持つ。政治では、政党支持や政治的立場がその傾向を強めることがある。

 実際、カナダの総選挙期間中に現実の政治スキャンダルを利用して行われた大規模な調査実験では、問題となった政治家と同じ側を支持している有権者ほど、その政治家を許す方向へ動きやすく、反対側の支持者では逆方向の反応が現れた。つまり「その行為が許せるか」という判断は、行為そのものだけから独立して決まるわけではない。

 ここは政治家の謝罪を考えるうえで重要である。同じ言葉、同じ表情、同じ問題行為であっても、誰が謝っているかによって評価が変わるなら、謝罪の成否は政治家の技術だけでは説明できない。謝罪を受け取る有権者の側もまた、結果を作っているからである。

謝らないことが、支持者をつなぎ止める場合もある

 この党派性が強く働くと、「私は間違っていない」と言い続けること自体が政治的な意味を持ち始める。支持者にとって政治家の否認は単なる言い逃れではなく、「われわれの側が不当に攻撃されている」という物語を維持する材料にもなり得るからである。

 米国で行われた複数の実験でも、自分と同じ政治的陣営に属する政治家が問題行為を否認したり正当化したりすると、沈黙する場合より好意的に評価される条件があることが確認されている。ただし、この結果も無条件に一般化することはできず、研究者自身が示しているように、政治家と有権者の党派的関係や、その問題行為が政治的な目的とどう結び付いているかによって効果は変わる。

 したがって、「謝らない政治家ほど強い」と結論付けるのは乱暴である。ただ、「謝罪しないことが必ず政治的損失になるわけではなく、条件によっては支持者との結束を維持する戦略として働き得る」と考えることには、実証的な根拠がある。

 ここまで来ると、政治家が謝らない理由を単純に「反省していないから」と説明することは難しくなる。人間として反省しているかどうかと、政治家としてどの言葉を選択するかは同じ問題ではなく、謝罪、否認、沈黙のどれを選ぶかには政治的な損得計算も入り込むからである。

「申し訳ない」と「私の責任です」は似ているようで違う

 だからこそ、政治家の謝罪を見るときには、頭を何秒下げたかより、何について責任を認めたのかを見る必要がある。

 政治の謝罪では、「このような事態を招いたことは大変遺憾です」「国民の皆さまにご心配をおかけしました」「誤解を招く表現があったとすれば申し訳ありません」といった言葉が使われることがある。一見すると謝罪に見えるが、注意深く読むと「私は具体的に何をしたのか」という主語と行為が曖昧なまま残されている場合がある。

 「ご心配をおかけしたこと」と「不正な行為を行ったこと」は同じではなく、「誤解を招いたこと」と「誤った発言をしたこと」も同じではない。前者では、問題の中心が政治家自身の行為から、有権者がどう受け取ったかという側へ微妙に移されている。

 一般的な謝罪研究でも、責任の承認は信頼回復にとって重要な要素として示されている。ただし、これは政治家だけを対象とした研究ではないため、「政治家でも必ず同じ効果が生じる」とまで言うことはできない。それでも、人間が謝罪をどのように評価するかという基礎的な心理として、単なる後悔より責任の承認を重視するという知見は、政治的謝罪を読むうえでも重要な手掛かりになる。

能力の失敗と、誠実性の失敗は同じではない

 さらに、政治家が何について謝っているのかによっても意味は変わる。判断を誤った、予測が外れた、説明が不足していたという失敗と、嘘をついた、不正を隠した、私的利益のために権限を利用したという問題では、同じ「申し訳ありません」という言葉でも受け取られ方が違う。

 一般的な信頼修復研究では、能力不足によって失われた信頼は、誠実性そのものを疑わせる違反によって失われた信頼よりも、謝罪によって回復しやすい傾向が示されている。ただし、これも政治家だけを対象にした研究ではなく、一般的な対人関係や組織上の信頼を扱った研究なので、政治家へそのまま当てはめることは避けなければならない。

 それでも理屈は理解しやすい。「判断を間違えました。原因を検証し、次から改善します」という人物なら、経験によって能力が高まる可能性がある。しかし、「私は意図的に嘘をつきました。今後は正直に話します」と言われた場合、その約束そのものを信用してよいかという別の問題が発生する。

 謝罪とは本来、言葉を信じてもらうことによって成立する行為である。そのため、問題行為そのものが「この人物の言葉は信用できない」という疑念を生み出した場合には、謝罪という手段そのものの効力まで弱くなってしまう。

誰が謝るのかによっても、謝罪の意味は変わる

 謝罪の受け取られ方が「何を言ったか」だけで決まらないという点については、日本と韓国を対象にした大規模な実験研究からも示唆が得られている。ただし、これは政治家個人の不祥事ではなく、歴史問題をめぐる国家間・集団間の政治的謝罪を扱った研究であり、個人政治家の謝罪と同一視することはできない。

 その研究では、謝罪の言葉だけでなく、誰が誰を代表して謝るのか、誰に対して謝罪するのかといった要素が、謝罪の受け入れられ方を大きく左右していた。政治家個人の不祥事に直接当てはめることはできないものの、「正しい言葉さえ並べれば謝罪は成功するわけではない」という意味では示唆的である。

 謝罪とは文章ではなく関係である。誰が、どの立場から、誰に向かって、何について責任を認めるのかによって、同じ言葉の重さは変わる。

それでも社会が謝罪を求め続ける理由

 ここまで考えると、「謝っても必ず許されるわけではなく、場合によっては政治的に不利になるのであれば、政治家に謝罪を求める意味などないのではないか」という疑問が生まれる。

 しかし、おそらくそうではない。

 公的な謝罪には、選挙上の損得だけでは説明できない役割がある。政治哲学では、公的謝罪を、責任を持つ側が社会との関係を修復し、何が許され何が許されないのかという規範を改めて確認する行為として捉える議論がある。これは実験によって「謝罪すれば信頼が何%回復する」と証明された経験則ではなく、民主政治における責任とは何かを考える規範的な議論である。

 政治家が不正を行った後に、「私は何も悪くないし、そもそもこの行為の何が問題なのか分からない」と言う場合と、「私の行為は公職者として許されないものであり、責任は自分にある」と認める場合では、同じ問題行為が過去に存在したとしても、その後に共有できる社会的なルールが違う。

 謝罪の価値は、過去を消してしまうことではない。むしろ、過去を消せないからこそ、何が起きたのかを認め、そこから先の行動を評価できる地点まで戻ることに意味がある。

本当に評価すべきなのは、頭を上げた後である

 そう考えると、優れた謝罪とは巧みな謝罪文のことではない。完璧な言葉を並べても、その翌日に同じ行為を繰り返すのであれば意味はなく、反対に表現は不器用でも、事実を明らかにし、自分の責任を認め、必要な処分を受け、制度を改め、同じ問題を防ぐ仕組みを残したのであれば、その方が政治的にははるかに重い。

 政治家が謝罪すると、私たちはしばしば「本当に反省している顔か」という心理鑑定を始める。頭を下げる角度、声の震え、目線、表情、謝罪までにかかった時間までが論評されるが、他人の心の中を外から正確に測ることはできない。深く頭を下げたから誠実とは限らず、表情が硬いから反省していないとも限らない。

 民主政治が比較的客観的に評価できるのは、心の中より行動である。何が起きたのかを説明したか、自分の責任を具体的に認めたか、調査に協力したか、被害や損失をどう回復しようとしたか、同じことが繰り返されない制度を作ったかという行動であれば、少なくとも外部から検証することができる。

 このとき初めて、謝罪は一日のニュースではなく、政治的責任の一部になる。

「許すこと」と「責任を問わないこと」は違う

 政治家の謝罪をめぐる議論で最も混同されやすいのが、「許す」という言葉である。政治家が心から反省していると認めることと、その人物を引き続き大臣や首長として働かせることは別の判断であり、人間として謝罪を受け入れながら、公職者として辞任を求めることは何も矛盾しない。

 逆に、その政治家を個人的に好きになれなくても、問題が軽微で、十分な説明と是正が行われ、職務遂行能力にも重大な問題がないのであれば、政治的責任は果たしたと判断することもあり得る。

 ここを一緒にすると、「謝ったのだからもう許してやれ」という議論と、「一度失敗した人物は永久に許してはいけない」という議論の間を往復するだけになってしまう。

 民主政治に必要なのは、感情として許せるかどうかだけではなく、その行為の重大性に対してどの程度の責任を負わせるのが妥当なのかを考えることである。

謝らない政治家が強く見える理由

 それでも現実の政治では、謝らない政治家が強く見えることがある。批判されても引かず、報道機関と争い、自分は間違っていないと言い続ける姿を「信念がある」「ぶれない」と評価する支持者もいれば、逆にすぐ謝罪した政治家を「弱い」「世論に迎合した」と見る人もいる。

 政治が政策の違いだけでなく、自分たちと相手側という集団間の対立として認識されるようになるほど、謝罪は相手側への譲歩や敗北宣言として受け取られやすくなる。その結果、政治家には厄介な誘因が生まれる。正直に問題を認めれば責任を問われる一方、否定し続ければ支持者の一部が残る可能性があるからである。

 近年の米国の実験研究では、実際には存在する政治スキャンダルについて、政治家が「報道は偽物だ」「映像や情報は捏造されたものだ」と主張する戦略の効果も調べられている。複数の大規模実験では、文字情報を中心に不祥事が提示された場合、疑惑そのものを虚偽情報だと否認することで、謝罪するより支持を保ちやすくなる場合が確認された。

 しかし、この効果にも限界がある。本物の映像のような強い証拠が示された場合には、虚偽情報だと主張する戦略の効果は弱くなった。つまり「否定し続ければ何でも押し切れる」ということではなく、有権者が利用できる証拠の種類と強さによっても結果は変わる。

謝罪の効果を、一つの数字で表すことはできない

 ここまでの研究を総合すると、政治家の謝罪には「謝れば支持率が上がる」「謝らなければ支持率が下がる」という単純な法則が存在しないことが分かる。

 謝罪の政治的効果は、謝罪したかどうかだけではなく、不祥事の種類、問題の重大性、証拠の強さ、政治家への既存の好感度、有権者の政党支持、謝罪の内容、責任の認め方、報道媒体、発覚してからの時間、さらには政治家と有権者の関係まで組み合わさって決まる。

 数理的に考えれば、これは一つの原因と一つの結果を結ぶ単純な関係ではなく、複数の要因が互いに影響する多変量の問題である。「謝罪」という同じ行為であっても、自分が支持する政治家か反対側の政治家かによって効果が変わるなら、そこには交互作用が存在する。同じ謝罪でも、政策判断の失敗と意図的な不正では結果が異なる可能性があり、強い証拠がある場合と証拠が曖昧な場合でも効果は変わる。

 したがって、現在の研究から科学的に言えるのは、「政治家は謝った方が得である」でも「謝らない方が得である」でもない。

 より正確に言えば、政治家の謝罪の効果は、その謝罪が置かれた条件によって変わるのである。

謝罪会見で試されているのは、有権者なのかもしれない

 結局、「政治家は謝罪すると本当に許されるのか」という問いに、一つの答えを与えることはできない。謝罪によって信頼が回復することはあるが、謝罪そのものが責任の承認となって政治的に不利になることもあり、逆に謝らない政治家が支持者との結束を維持する場合もある。そして同じ謝罪を聞いても、ある人は「潔い」と評価し、別の人は「今さら遅い」と感じる。

 つまり、政治家の謝罪を見ているようで、そこで露わになっているのは、政治家だけではない。

 自分が支持する政治家なら事情を考慮し、嫌いな政治家なら即座に断罪していないだろうか。謝罪の言葉そのものを評価しているのか、それとも失敗した後の行動を見ているのか。人間として許すことと、公職者として責任を取らせることを区別できているだろうか。

 カメラの前で政治家が深く頭を下げたとき、私たちはその角度や時間や表情を見てしまう。しかし本当に見るべきなのは、政治家が再び頭を上げた後なのだろう。

 何を説明し、何を認め、何を変えたのか。そして私たち自身も、その謝罪を評価するとき、目の前の行為と証拠を見ているのか、それとも政治家の名前や政党、自分がもともと抱いていた好き嫌いを見ているのか。

 政治家の謝罪は、政治家自身を映す鏡であると同時に、それを見つめる有権者の判断を映す鏡でもある。

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 政治家にとって、口は災いの元である。選挙中なら一言で票が逃げ、大臣になれば記者会見の一節が翌朝の見出しになり、本人が三十分かけて丁寧に説明したつもりでも、その中から十数秒だけ切り取られた映像が独り歩きすることがある。政治家の側から見れば、現代ほど「余計なことを言わない」という能力に高い価値がつく時代はないのかもしれない。

 だから私たちは、失言の少ない政治家を見ると、つい「しっかりしている」と感じる。質問を受けても慌てず、不必要な断言を避け、言葉を選び、記者から何度尋ねられても不用意なことを言わない政治家は、確かに安定して見えるし、大きな組織を率いる人間に言葉の管理能力が必要なのも間違いない。けれども、ここで少し意地の悪い問いを置いてみると、政治家を見る景色は急に違ってくる。

 失言しない政治家とは、本当に優れた政治家なのだろうか。

 もちろん、これは「失言する政治家の方が優れている」という話ではない。他人を傷つける発言、差別的な発言、事実に反する発言、職務への無理解をさらけ出す発言まで、「率直な人だから」で済ませてしまえば、政治家の言葉に責任を求めること自体ができなくなる。問題はそこではなく、失言をしないことと、政治家として優れていることは本来別の尺度であるのに、私たちがいつの間にか両者をかなり近いものとして扱ってはいないか、という点にある。

なぜ十秒の失言が三十分の説明より残るのか

 政治家の発言には奇妙な性質がある。一時間の会見をほとんど問題なく終えても、最後の一言が不用意なら、その言葉だけが翌日のニュースになることがある。「一時間より十秒の方が重要になる」というのはもちろん厳密な統計ではなく比喩だが、人間が好ましい情報より好ましくない情報に強く反応しやすいことは心理学でも知られており、政治ニュースについても否定的な内容に注意が向きやすい傾向が研究されてきた。

 ここで重要なのは、私たちが政治家の発言を均等に記憶しているわけではないということだ。十回きちんと説明したことより、一度の奇妙な言葉の方が人物像を形づくる場合があり、それは必ずしも有権者が愚かだからではなく、人間の認知そのものが珍しい出来事や危険を示す情報に敏感だからでもある。

 政治家自身もそれを知っているので、言葉に保険を掛けるようになる。「現時点では」「さまざまな意見を踏まえ」「総合的に判断し」「適切に対応する」。政治に関心がある人なら何度も聞いたことのある表現だろうし、これらの言葉そのものが悪いわけではない。政策には不確実性があり、一人の政治家だけで決められない問題も多いため、責任ある立場なら軽々しく断言できない場面は当然存在する。

 しかし、安全な言葉ばかりを積み重ねていくと、不思議な現象が起きる。間違ったことは言っていないのに、その政治家が何を考えているのかも分からなくなるのである。

 言葉の安全性を高めるほど本人の考えが見えにくくなり、極端に言えば、「何も間違ったことを言わない政治家」を突き詰めていくと、「何を言っているのか分からない政治家」に近づいてしまう。ここに、失言をめぐる最初の逆説がある。

曖昧に話す政治家は、本当に逃げているのか

 政治家が曖昧な話し方をするのは、単なる性格の弱さとは限らない。政治学では古くから、候補者が自分の立場をあえて明確にしすぎない「戦略的曖昧性」が研究されてきた。

 選挙を考えてみれば、その理由は分かりやすい。ある政策について明確に賛成すれば、反対する有権者を失う可能性があるし、反対を明言すれば賛成派を失うかもしれない。それなら「状況を見ながら判断する」と言っておけば、異なる立場の有権者がそれぞれ自分に都合よく解釈してくれる余地が残る。実際、候補者の政策姿勢が曖昧でも有権者が必ずしもその候補者を嫌うわけではなく、支持政党などの情報を手掛かりに、自分に近い立場だろうと補って理解することがある。

 ただし、曖昧に話せば必ず得をするわけでもない。所属政党や過去の発言から立場を推測されることもあり、場合によっては曖昧に語るより、その問題について何も言わない方が政治的には安全なことさえある。政治家にとって、明確に話すこと、曖昧に話すこと、沈黙することには、それぞれ違った危険があるのである。

 この関係を少し数理的に考えると、なぜ政治家の言葉が無難になっていくのかが見えやすい。政治家にとって明確な発言には、政策を理解してもらえる利益がある一方、反発や失言によって受ける損失もある。その期待損失は、簡単に考えれば「問題が起きる確率」と「問題が起きたときの損失」を掛け合わせたものになる。

 たとえば、はっきり語れば政策を理解してもらう利益が大きい一方、炎上する可能性も高くなるとする。反対に、抽象的に語れば説明としての価値は小さくなるが、炎上する可能性も低くなる。このとき社会にとっては明確な説明の方が有益でも、政治家個人にとっては曖昧に話す方が合理的になる場合がある。

 つまり、政治家が曖昧だからといって、その政治家だけを責めれば済む問題ではない。「何を言ったか」より「何か間違ったことを言わなかったか」に注目が集まる社会では、政治家にとって安全な言葉を選ぶこと自体が合理的な戦略になってしまう。

失言した瞬間、本性が見えたと思いたくなる

 それなら、思ったことをそのまま言う政治家の方が信用できるのだろうか。この問題もそれほど単純ではない。

 慎重な言葉ばかり聞かされていると、遠慮なく物を言う政治家は魅力的に見える。「この人は本音で話している」と感じられるからだ。しかし、十分に考えた末に不人気なことを言う政治家と、深く考えずに刺激的なことを言う政治家は、外から見ると意外によく似ている。

 逆方向の間違いもある。政治家が失言すると、私たちは「つい本音が出たのだ」と考えたくなる。しかし、すべての言い間違いが深層心理の告白であるはずもない。

 統計的に考えるなら、一度の発言は一回の観測値にすぎない。ある政治家の考え方や知識を知りたいとしても、その発言には本人の考えだけでなく、質問の聞き違い、即興で答えたことによる言葉選びの失敗、疲労、その場の文脈などが混ざっている。

 一度だけ起きた奇妙な発言なら偶然の誤差かもしれないが、似た種類の発言が何度も繰り返されれば、偶然だけでは説明しにくくなる。科学的に見るなら、「失言したか、しなかったか」という二択より、その失言がどの程度その人物についての情報を含んでいるのかを見る方が重要なのである。

 たとえば、十分な知識を持つ人でもしばしば犯す言い間違いなら、その一回から政治家の能力を大きく下げて評価するのは合理的ではない。しかし、その分野を理解している人ならほとんどしないような重大な誤りを何度も繰り返すなら、それは政治家の知識や判断力についてかなり強い情報になる。

 言い換えれば、一言は証拠ではある。ただし、一言だけで人物全体を確定できるほど強い証拠とは限らない。

日本の政治家は、失言すると本当に終わるのか

 この問題について、日本政治を対象にした興味深い研究がある。2026年に公表された研究では、1960年から2024年までの日本の首相や閣僚について新聞報道を調べ、単なる言い間違いや小さな事実誤認を除いたうえで、344件の政治的失言を分析している。

 結果を見ると、「政治家は一度失言すれば政治生命が終わる」というイメージとは少し違った風景が見えてくる。失言の約四分の一は報道が一日で終わり、約七割は一週間以内に大きな報道が収まっていた。つまり、失言の大半が長期間続く政治的事件になったわけではないのである。

 さらに興味深いのは、失言そのものより、その発言に対して誰が批判したかとの関係だった。主要な政治・社会的主体から批判されなかった失言では辞任に結びついた例がなかった一方、批判する主体が一種類の場合には約5.7%、二種類になると約16.7%、三種類になると約42.9%が辞任に関連していた。

 もちろん、この数字から「批判する人が増えたから大臣が辞めた」と単純に因果関係を決めることはできない。そもそも深刻な発言だからこそ多方面から批判された可能性もある。それでも、失言の政治的破壊力は、発言内容だけで自動的に決まるわけではないことを示す材料にはなる。

 不用意な一言があり、報道され、野党が批判し、与党内部でも問題視され、社会団体などが反応することで、単なる失言が政治的なスキャンダルへ成長していく。失言とは、口から出た瞬間に完成する事件ではなく、その後に社会との相互作用の中で大きさが決まっていく現象でもある。

 そう考えると、政治家の失言を一つの言葉だけで評価することが、いかに危ういかが分かる。

「失言しない政治家」を求めると何が起きるのか

 ここから先は、慎重に考えなければならない。

 失言を強く恐れる政治家ほど曖昧な表現を選びやすくなるという理屈にはかなり説得力がある。しかし、それだけで「失言を恐れる政治家は政策判断までしなくなる」と断定することはできない。発言を慎重にすることと政策判断を避けることは別の行動であり、その二つが必ず連動するという強い実証的証拠があるわけではないからだ。

 それでも、政治家が政治的損失を最小化しようとすれば、批判を招きやすい行動そのものを避ける誘因が生まれる可能性はある。

 政治という仕事には、正解のない決断が多い。医療にどこまで予算を振り向けるのか、高齢化した地域の公共交通をどこまで維持するのか、税負担を誰にどれだけ求めるのか、人口が減る自治体で学校や公共施設をどう再編するのか。誰も損をせず、誰からも反対されない政策など、ほとんど存在しない。

 ここで政治家が「何かを変えて失敗する損失」と「何も変えず問題が続く損失」を比べることになる。前者はその政治家本人の責任として見えやすいが、後者は社会全体にゆっくり広がるため、誰の責任なのか分かりにくい。

 道路を造って失敗すれば「無駄な公共事業」と批判されるが、何も造らず十年間交通が不便なままでも、その損失が一人の政治家の名前と結びつくとは限らない。改革を実行して問題が起きれば責任者が見えるのに、改革をしなかったことで失われた機会は見えにくいのである。

 だから失点回避を重視する政治文化では、何かを実行するより現状を維持する方が、政治家個人にとって安全になる可能性がある。ただしこれは「失言する政治家の方が改革者である」という意味ではないし、「失言を許せば政治が良くなる」という話でもない。むしろ、政治家を評価するときに、失点の少なさと成果の大きさを同じものとして扱わない方がよい、という話である。

政治家は試験を受けているのか

 学校の試験なら、間違えないほど点数が高くなる。しかし政治は試験ではない。

 ところが、政治家の評価には試験と似た減点方式が入り込みやすい。一度の失言、一度の答弁ミス、一度の数字の言い間違いが大きく報道される一方、政策によって回避できた問題や、十年後に現れる利益は点数にしにくい。

 すると「大きな成果を出したが失言もした政治家」と「大きな成果はないが問題発言もしなかった政治家」を、どう比べればよいのかという難しい問題が出てくる。

 政治家の能力を一つの数字で表せると仮定しても、その中身は失言の少なさだけではないはずだ。政策知識、判断力、実行力、倫理性、説明能力、危機管理能力、反対意見を聞く能力、間違えたときに修正する能力など、いくつもの要素が重なって初めて政治家としての能力になる。

 失言の少なさは、そのうち言葉を管理する能力を推測する一つの材料にはなる。しかし、「失言ゼロだから優秀」と判断するのは、多数の変数で決まる問題を一つの変数だけで説明しようとするのに近い。

 逆に、一回失言しただけで「無能」と判断するのも同じ種類の単純化である。

謝る政治家は優れた政治家なのか

 失言の後に「謝罪したかどうか」を重視する人もいるが、これも単純ではない。

 政治家の謝罪についての研究では、謝れば必ず評価が上がるという結果は出ていない。問題の種類によっては、謝罪した政治家の方が不利になる場合さえあり、反対に歴史的・外交的問題では、謝罪が相手側の評価を改善することもある。

 つまり、「謝れば許される」という万能な法則は存在しない。

 それでも、失言の後を見る意味がないわけではない。むしろ重要なのは、謝罪という儀式そのものより、その人物が何を問題と理解しているかである。

 「誤解を招いたことは遺憾だ」とだけ言い続けるのか、それとも自分の発言のどこが不適切だったのかを理解し、必要なら認識を修正するのか。同じ失言でも、この違いから得られる情報はかなり大きい。

 人間が一度も間違えないことを前提にするより、間違いを認識し、修正できるかを見る方が現実的だという考え方は、科学的事実というより民主政治についての価値判断に属する。それでも、現実の政治家が人間である以上、「一度も間違えない政治家」という理想より、「間違えたときにどう行動する政治家か」を見る方が、少なくとも人物を多面的に判断する材料にはなるだろう。

私たちは政治家の「中身」を見ているのか

 失言探しが政治の中心になると、奇妙なことが起こる。

 質問する側は不用意な一言を引き出そうとし、答える側はそれを避けようとするようになり、記者会見や国会答弁が、政策を理解する場所というより「言葉の事故が起きるかどうかを見る場所」に近づいてしまう。

 政治家が公式の場所で安全な言葉しか使わなくなると、今度は有権者が別の場所に「本当の政治家」を探し始める。街頭演説、雑談、過去の動画、短く切り取られた映像、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)での投稿などから、「こちらが本音なのではないか」と考える。

 しかし、人間には公式の顔もあれば私的な顔もあり、どちらか一方だけが偽物というわけではない。政治家についても、一つの発言だけを「本性」と決めつけるより、異なる場面でどんな判断を繰り返しているかを見る方が、その人物を知るには適している。

 ここまで考えると、失言の問題は政治家だけの問題ではなくなってくる。

 私たち有権者が何に反応し、報道機関が何を大きく扱い、政党が何を攻撃材料にし、その結果として政治家がどんな言葉を選ぶようになるかという、一つの循環が存在するからである。

 政治家の言葉は有権者に影響するが、有権者の評価方法もまた政治家の言葉を変えている。

「言葉の無事故運転」だけでは政治はできない

 失言しない政治家には確かに能力がある。言葉を管理し、状況を読み、不必要な摩擦を避ける能力であり、それは政治にとって決して小さなものではない。

 しかし政治家には、不人気でも必要なことを説明する力、複雑な問題を自分の言葉で語る力、反対されても判断を示す力、そして自分が間違えたときに認識を修正する力も求められる。

 車にたとえるなら、事故を起こさない運転手は確かに優秀である。しかし政治家の場合、ただ安全に走ればよいわけではなく、どこへ向かうのかも決めなければならない。道路が傷んでいれば補修するのか迂回するのかを選び、乗客が違う方向へ行きたがれば説明し、必要なら反対されても進路を決めることになる。

 駐車場から一度も出なければ、交通事故を起こす可能性は限りなく低い。

 けれども、それを優れた運転と呼ぶ人はいないだろう。

 政治家を見るときにも、同じ問いを置いてみると面白い。その人物は言葉を間違えないのか、それとも間違える危険を避けるために重要なことを語っていないのか。慎重なのか、それとも責任の生じる判断を避けているのか。そして反対に、失言した政治家についても、その一言が本当に知識不足や価値観を示す強い証拠なのか、それとも一度の言葉選びの失敗なのかを見分ける必要がある。

 政治家を選ぶのは有権者だが、その前に政治家たちは、有権者が持っている「良い政治家とはこういう人物だ」という物差しによって選別されている。

 だから、「失言しない政治家は本当に優れた政治家なのか」という問いは、政治家についての問いだけではない。

 私たちは政策を判断する政治家を求めているのか、それとも決して私たちを不快にさせず、決して言葉を間違えず、決して炎上しない人物を求めているのか。

 もし後者であるなら、政治家たちは私たちの期待に適応して、ますます安全な言葉を選ぶようになるだろう。けれども、安全な言葉が増えることと、良い政治が増えることは、必ずしも同じではない。

 そして、何も間違えないための最も確実な方法は、昔から変わらない。

 何も言わないことである。

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