田中真紀子はなぜあれほど人気を集め、そして急速に政治の中心から離れたのか
2001年の日本政治を振り返ると、首相になったわけでもない一人の政治家が、政権そのものの印象を左右していたことに気づく。
田中真紀子である。
正確には田中眞紀子。田中角栄元首相の長女として政界入りした彼女は、政治家としての経歴だけを見れば、長期間にわたり政権を支配したわけでも、自らの名前を冠した巨大な制度改革を残したわけでもない。それにもかかわらず、2001年前後の田中の存在感は、一人の閣僚という範囲を明らかに超えていた。
テレビに映ればニュースになり、街頭に立てば人が集まり、彼女が誰かを評すれば、その言葉が翌日の新聞見出しになった。政治に詳しくない人までが田中の話を聞き、彼女が既成政治を批判すると、「よく言ってくれた」と感じる人がいた。
ところが、その絶頂は長く続かなかった。
2001年4月に日本初の女性外務大臣として小泉純一郎内閣に入閣した田中は、翌2002年1月には更迭される。同年には衆議院議員を辞職し、わずか一年ほど前まで政権の象徴の一人だった政治家が、急速に永田町の中心から外れていった。
もっとも、ここで誤解してはいけない。
田中真紀子は2002年を境に政治から消えたわけではない。2003年には無所属で衆議院議員に返り咲き、その後も国政に残った。2009年には民主党に入り、2012年には野田佳彦内閣で文部科学大臣として再入閣している。
したがって、本稿でいう「政治の中心から離れた」とは、国会議員でなくなったという意味ではない。
2001年当時のように、田中の発言や去就そのものが政権の支持や政治日程に影響するほどの、全国政治の中心的存在ではなくなったという意味である。
では、なぜ田中真紀子はあれほどの人気を集め、その人気を長期的な政治権力へ変えることができなかったのだろうか。
そこには本人の個性だけでは説明できない、1990年代から2000年代初頭という時代そのものが横たわっている。
「田中角栄の娘」だけでは、あの人気は説明できない
田中真紀子を語るとき、父・田中角栄を避けて通ることはできない。
田中角栄は、戦後日本政治の中でも特異な巨大政治家だった。道路を造り、新幹線を引き、地方へ公共事業を導き、「日本列島改造論」を掲げたその政治は、高度経済成長期の日本が抱いていた上昇への欲望と重なっていた。
その娘が1993年の衆議院選挙で初当選したのだから、政治的知名度という点で田中真紀子が最初から圧倒的に有利だったことは否定できない。
だが、父の名前だけで2001年前後の熱狂まで説明することは難しい。
むしろ興味深いのは、父と娘がまったく異なる方法で大衆と結びついたことである。
田中角栄の政治は、道路、鉄道、予算、公共事業という目に見える利益を地方へ配分することによって支持を形成した。それに対して田中真紀子が有権者に与えたものは、道路でも補助金でもなかった。
彼女が提供したものは、「政治に対して自分たちが感じている不満を、代わりに言葉にしてくれる」という感覚だった。
1998年の自由民主党総裁選で、小渕恵三を「凡人」、梶山静六を「軍人」、小泉純一郎を「変人」と評した有名な言葉は、その特徴をよく表している。
この三語には政策論がほとんどない。
しかし政治家の人物像は、一瞬で伝わる。
複雑な派閥力学や政策思想を知らなくても、「凡人・軍人・変人」なら誰にでも分かる。田中は永田町の複雑な出来事を、普通の人が理解できる人物劇へ変換する能力を持っていた。
政治を「翻訳する政治家」だったのである。
田中真紀子を必要とした1990年代
しかし、優れた話術を持つ政治家なら、それ以前にもそれ以後にもいた。
田中人気を理解するには、彼女の能力だけではなく、彼女を必要とした時代を見る必要がある。
1990年代の日本は、政治に対する信頼が大きく揺らいだ時代だった。
バブル経済が崩壊し、長い経済停滞が始まった。1993年には自民党が一時政権を失い、その後も新党の結成と解散、政党の合流と分裂が繰り返された。官僚不祥事も続き、それまで日本を支えてきたはずの政治家、官僚、金融機関、大企業への信頼が少しずつ崩れていった。
それでも永田町では、派閥、人事、政局という一般国民には理解しにくい論理が動いているように見えた。
そこに田中真紀子が現れた。
彼女は「政治とは複雑なものだから仕方がない」とは言わなかった。
むしろ、その複雑さ自体を笑った。
政治家をあだ名のような言葉で評し、官僚の論理を茶化し、自民党内部にいながら自民党の古さを批判する。
その姿は、政治家というより、ときに永田町へ送り込まれた国民代表の評論家のように映った。
この時代背景を考えれば、田中人気は本人の話術だけによって生まれたものではない。
「既成政治を信用できない」という社会側の需要と、「既成政治を分かりやすく批判できる」という田中の能力が一致した結果だったと考える方が合理的である。
人気を一つの原因だけで説明するのではなく、田中角栄という政治的資産、本人の言語能力、テレビという媒体、政治不信の拡大、自民党への閉塞感が重なった結果として考えるべきだろう。
テレビ政治と田中真紀子
さらに、田中真紀子の政治家としての性格は、テレビという媒体と非常に相性がよかった。
テレビは長い政策説明より、一瞬で意味が伝わる言葉を好む。
財政政策について十分間説明する政治家より、「この人は凡人です」と一言で言う政治家の方が映像として強い。
田中には表情があり、声に抑揚があり、言葉に毒があった。
だから発言の一部を切り取ってもニュースになる。
これは政策能力とは別の能力である。
政治家の人気を考える場合、本来なら「政策形成能力」「組織管理能力」「選挙能力」「説明能力」「メディア適応能力」といった複数の能力を分けて考えなければならない。
田中が突出していたのは、その中でも説明能力とメディア適応能力だった。
ところが視聴者から見ると、その区別は見えにくい。
分かりやすく話す政治家は、政治そのものにも強そうに見える。
ここに、後に田中政治が直面する問題の萌芽があった。
人気は政治家を権力の入口まで運ぶ。
しかし、人気と統治能力は同じものではない。
小泉純一郎と田中真紀子という「最強の組み合わせ」
2001年、この田中人気を最大限に利用した政治家が小泉純一郎だった。
森喜朗政権末期、自民党に対する閉塞感は極めて強かった。そこへ小泉は、「自民党を変える」「自民党をぶっ壊す」という、従来の自民党総裁候補とは異なる姿勢で登場した。
田中は小泉支持に回った。
ここで二人の政治スタイルが奇妙なほど一致する。
小泉は政治を「改革する側」と「抵抗する側」という物語に変えた。
田中もまた、「普通の国民」と「古い永田町」という構図で政治を語ってきた。
政策の内容まで同じだったわけではない。
しかし政治を複雑な利害調整ではなく、分かりやすい対立として示すという方法では非常によく似ていた。
田中の人気が小泉総裁選勝利のどれほどを説明するのかを数量的に分離することはできない。総裁選の結果には地方票、小泉自身の人気、森政権への反発、党内事情など多くの要因が存在するからである。
それでも、田中が小泉陣営に「古い自民党と闘う」という象徴性を加えたことは否定しにくい。
そして2001年4月、小泉が首相になると、田中真紀子は外務大臣に就任した。
政治を批判する人から、政治を実際に動かす人へ。
ここで、田中真紀子の政治人生は大きく変わった。
外から批判する政治と、中から動かす政治
外務省は当時、決して平穏な組織ではなかった。
機密費をめぐる不祥事などによって国民の信頼を失い、組織改革を迫られていた。田中が「外務省改革」を掲げたこと自体には、十分な社会的背景があった。
さらに、その後の外務省自身の調査でも、鈴木宗男衆議院議員と外務省との関係について、行政の公平性や透明性への疑念を招く問題が存在していたことが認められている。
外務省はその関係を、「社会通念に照らしてあってはならない異常な状態」とまで総括した。
したがって、田中が外務省と政治家との関係に問題意識を持ったこと自体を、単なる思い込みや感情的反発として処理するのは公平ではない。
実際に改革すべき問題は存在していたのである。
しかし、ここからが難しい。
問題を発見する能力と、問題を解決する能力は同じではない。
政治家が役所の外から官僚を批判するなら、「ここがおかしい」と指摘するだけでも政治的意味がある。しかし大臣になれば、その役所は翌朝から自分が動かさなければならない組織になる。
昨日批判した官僚とも会議をしなければならない。
外交日程を組み、人事を決め、外国政府と交渉し、国会へ答弁し、首相官邸とも調整する。
外務省という巨大組織を改革するには、問題を暴くだけでは足りない。
組織内部に協力者をつくり、制度を変更し、その制度を継続して動かす必要がある。
田中の政治手法は、対立点を鮮明にする局面では非常に強かった。
一方で、対立した相手を含む組織を内部から動かさなければならない局面では、大きな摩擦を生じさせた。
これは田中個人の人格を断定する話ではない。
政治手法と役職との適合性の問題である。
「既成組織を批判する政治家」として効果的だった方法が、「既成組織を使って政策を実行する大臣」になったときには、必ずしも同じ成果を生まなかったのである。
NGO問題では、何が確定しているのか
その矛盾が最も大きく表面化したのが、2002年1月のアフガニスタン復興支援国際会議をめぐる問題だった。
NGO(Non-Governmental Organization・非政府組織)の会議参加をめぐり、田中外相と外務省事務方との説明が食い違った。
田中側は鈴木宗男議員の関与を問題視した一方、外務省側とは事実認識に相違が生じ、国会審議まで混乱することになる。
ここは、後から振り返るほど慎重に区別しなければならないところである。
鈴木宗男氏と外務省との関係に問題が存在していたこと自体は、その後の外務省調査によって確認されている。
しかし、それによって、このNGO参加問題について田中の認識がすべて正しかったと証明されたわけではない。
「外務省と政治家との間に不適切な関係が存在した」という事実と、「この個別案件がその政治的圧力によって決定された」という事実は同じではない。
後者については当事者の説明に食い違いが残った。
田中真紀子の外相時代を公平に評価するなら、「彼女の問題意識には根拠があった」ということと、「個々の判断や行政運営が適切だったか」ということを分けて考えなければならない。
批判対象に問題があったからといって、批判する側のすべての判断が正しくなるわけではない。
逆に、行政運営に混乱を生じさせたからといって、指摘していた問題まで存在しなかったことになるわけでもない。
田中真紀子をめぐる評価が今も分かれる理由の一つは、この二つがしばしば混同されるからだろう。
2002年1月29日、更迭
国会の混乱が続く中、小泉首相は2002年1月29日、田中外相を更迭した。
政府は後の国会答弁で、特定の一発言への処分というより、NGO問題をめぐって国会審議が混乱した状況を収拾し、審議を正常化するための判断だったと説明している。
それでも国民の側から見れば、別の物語が成立した。
古い自民党や官僚組織と闘っているように見えた田中が、その政治の内部から排除された。
小泉も結局、既存組織に妥協したのではないか。
その印象が政権に大きな打撃を与えた可能性は高い。
実際、時事通信の世論調査では、小泉内閣の支持率は2002年1月の67.8%から、2月には46.5%へ低下した。
下落幅は21.3ポイントに達する。
相対的に見れば、直前の支持率水準の約31%に相当する極めて大きな落ち込みだった。
ただし、この数字を扱う場合には注意が必要である。
時間的には、田中更迭と支持率急落がほぼ同時に起きている。
しかし、「更迭後に支持率が21.3ポイント下がった」という観測事実と、「田中を更迭したため21.3ポイント下がった」という因果関係は同じではない。
当時の政治状況には、外務省問題そのものへの不信や経済状況、政権運営への評価など複数の変数が存在した。
田中を更迭しなかった場合の小泉内閣支持率を観測することはできない以上、21.3ポイントのすべてを田中更迭の効果とみなすことはできない。
それでも、下落の時期と大きさを考えれば、更迭が小泉政権にとって重要な政治的転機の一つだったと評価することには十分な合理性がある。
つまり、田中真紀子は一閣僚だったにもかかわらず、その去就が政権全体の「改革イメージ」と結びつくほど大きな存在になっていたのである。
それでも「改革者の悲劇」だけでは終わらなかった
もし田中が外相を更迭されただけなら、その後も「官僚機構に抵抗して排除された改革者」という物語によって、人気を維持した可能性はあった。
しかし、その年、政治状況はさらに変わる。
公設秘書給与をめぐる疑惑が浮上し、自民党は田中に2年間の党員資格停止処分を決めた。田中は不正を否定したが、2002年8月には衆議院議員を辞職する。
重要なのは、その後の司法判断である。
東京地方検察庁は最終的に田中を起訴せず、2003年には不起訴となった。
したがって、この問題を「田中真紀子が秘書給与を不正に取得した事件」と断定するのは適切ではない。
疑惑が政治問題化したことと、犯罪が立証されたことは別である。
しかし、政治の時間は司法判断より速く進む。
外相を更迭された政治家が、その数カ月後には党から処分され、さらに国会議員を辞職した。
2001年春から見れば、わずか一年余りである。
この速度が、「田中真紀子は突然消えた」という後世の印象をつくった。
ただし実際には、ここで政治生命が終わったわけではなかった。
田中真紀子は、一度消えてから戻ってきた
2003年の衆議院選挙で、田中は無所属として新潟5区から出馬し、当選する。
これは重要な事実である。
もし2001年の田中人気がテレビだけによってつくられた一時的な現象だったなら、一度議員を辞めた後に選挙で国政へ戻ることは容易ではない。
少なくとも地元には、なお相当な政治基盤が残っていた。
そこには田中角栄以来の後援基盤、田中本人への支持、外相更迭への同情など、複数の要因が作用していたと考えるべきだろう。
その後、田中は2009年に民主党へ入党する。
田中角栄の娘が、自民党から政権を奪おうとしていた民主党に加わったという出来事には、日本政治の30年間を凝縮したような皮肉があった。
そして民主党政権下の2012年10月、野田佳彦第3次改造内閣で文部科学大臣となる。
外相更迭から約10年。
田中真紀子は再び大臣として中央政治へ戻ったのである。
だから、田中真紀子の政治人生を「2002年に失脚して終わった」と書くのは正確ではない。
本当に問うべきなのは、なぜ復活したにもかかわらず、2001年当時のような圧倒的な政治的存在感を取り戻すことができなかったのか、ということである。
文部科学大臣でも繰り返された「問題提起と実施」の距離
2012年、田中文部科学大臣は再び大きな論争を起こした。
大学設置・学校法人審議会が設置を認める答申を出していた三大学について、田中は当初、認可しない方針を表明した。
背景には、少子化にもかかわらず大学数が増えてきたことや、大学設置行政そのものを見直す必要があるという問題意識があった。
この問いそのものは、その後の日本社会を考えても無意味ではない。
人口が減り、18歳人口も減少する中で、大学の数と教育の質をどう考えるのかは現在まで続く政策課題だからである。
しかし、制度全体を改革すべきだという問題意識と、現行制度に従って長期間準備を進め、審議会の答申まで得た個別大学を認可しないことは別問題だった。
学生募集を予定していた大学や受験生に混乱が広がり、国会でも大きな問題となる。
最終的に田中は方針を変更し、三大学は認可された。
ここには、外相時代とある程度共通する構造を見ることができる。
既存制度に対する問題点を発見し、それを強い言葉で提示するところでは田中の政治は大きな注目を集める。
しかし、その問題を現行制度の中でどう処理し、どの順序で制度改革へつなげるかという段階になると、大きな摩擦が起きる。
一度だけなら偶然かもしれない。
しかし外務大臣時代と文部科学大臣時代という、約10年離れた二つの局面で似た現象が見られたことを考えれば、「田中の政治手法には、問題提起の強さに比べて制度的実装の段階で摩擦が大きくなりやすい傾向があった」という仮説には一定の説明力がある。
ただし、それは田中という人物の性格を心理的に断定することとは違う。
政治家として観察された行動パターンについての評価である。
2012年の落選だけを、田中人気の消滅とは読めない
2012年12月の衆議院選挙で、田中は新潟5区から民主党候補として出馬した。
得票は5万1503票。
自民党の長島忠美は8万0488票を獲得し、田中は敗れた。
票差は2万8985票であり、決して僅差ではなかった。
この選挙を境に、田中は国会議席を失い、その後、再び国政の中心へ戻ることはなかった。
しかし、ここでも原因を単純化すると歴史を読み違える。
2012年の衆議院選挙は、民主党政権全体が猛烈な逆風を受けた選挙だった。
2009年の政権交代で308議席を得た民主党は、この選挙で大幅に議席を失う。
したがって田中の落選を、田中個人への評価だけで説明することはできない。
個人人気の低下、民主党政権への失望、自民党への政権回帰、選挙区事情などが同時に作用した結果と考える方が妥当である。
田中真紀子の政治人生は、いつも一つの原因で説明することが難しい。
人気が出たときもそうだった。
人気を失ったときもそうだった。
なぜ人気を「権力」に変えられなかったのか
ここまでを振り返ると、田中真紀子という政治家の特徴が少し違って見えてくる。
「毒舌だから人気が出て、毒舌だから失敗した」という説明では不十分である。
田中人気を形成した要因は少なくとも複数存在していた。
父・田中角栄から受け継いだ圧倒的な知名度と選挙基盤があり、1990年代の政治不信があり、テレビ政治の発達があり、自民党政治への閉塞感があり、そこへ田中自身の卓越した言語表現能力が重なった。
さらに2001年には、小泉純一郎というもう一人の強力なメディア型政治家との組み合わせが生まれた。
これらが同時に作用したため、田中人気は爆発的なものになった。
一方、政治の中心から遠ざかった理由も一つではない。
外務省との対立だけではなく、行政組織を率いることの難しさ、NGO問題による国会混乱、秘書給与問題による政治的打撃、自民党との関係悪化、その後の政党移動、民主党政権への逆風、2012年の大学認可問題などが時間をかけて重なった。
つまり田中真紀子を理解するには、一つの原因から一つの結果が生まれたと考えるより、複数の要因が相互作用した多変量的な政治現象として見る方がよい。
そして、その中でも特に重要なのが「人気」と「統治」の違いではないだろうか。
人気政治家には、人々の感情を言葉に変える能力が必要である。
しかし政権中枢に長く残る政治家には、それとは別の能力も必要になる。
役所を動かし、党内をまとめ、対立する相手とも交渉し、制度へ落とし込み、法律や予算として残す能力である。
田中真紀子は、前者では平成政治を代表するほど強かった。
後者については、少なくとも外務大臣時代と文部科学大臣時代を見る限り、その強さを同じ程度には示すことができなかった。
ここに、彼女の人気と権力との間に生まれた距離がある。
小泉純一郎との違いは、どこにあったのか
この点で、小泉純一郎との比較は興味深い。
二人とも既成政治を批判し、分かりやすい言葉を使い、テレビと相性がよかった。
しかし小泉は、郵政民営化という具体的な政策目標へ政治エネルギーを集中させた。
党内で反対されると衆議院を解散し、反対派を公認せず、選挙で多数を取り、最後には法案を成立させる。
その政策自体をどう評価するかは別問題である。
重要なのは、小泉が自分の政治的メッセージを、党の公認、選挙、議席数、国会採決、法律という制度へ変換したことである。
田中の政治は、それとは違った。
彼女の最大の武器は、「誰も口にしない違和感を、一言で言葉にする」ことだった。
それによって世論を動かすことはできた。
しかし、その違和感を法律や制度へ変えるところまで政治を継続することは、はるかに難しかった。
ここに二人の決定的な違いがある。
小泉は分かりやすさを権力へ変換した。
田中は分かりやすさそのものが政治的魅力だった。
それでも、田中真紀子が記憶から消えない理由
では、田中真紀子は失敗した政治家だったのだろうか。
そう結論づけると、やはり何か重要なものを落としてしまう。
首相にはならなかった。
外相在任は短かった。
文部科学大臣としても長期政権を担ったわけではない。
田中の名前を冠した巨大な制度改革が残ったわけでもない。
それでも、2001年前後の日本政治を語るとき、田中真紀子を抜きにその時代の空気を説明することは難しい。
なぜなら田中が表現していたものは、田中自身だけの感情ではなかったからである。
「政治家はなぜこんなに分かりにくいことを話すのか」
「官僚は本当に国民のために動いているのか」
「派閥の都合で政治が決まっているのではないか」
「もっと普通の言葉で説明できないのか」
1990年代から2000年代初頭の日本社会に蓄積していたそうした疑問を、田中はテレビの前で言葉にした。
だから、人々は彼女に自分たちの不満を重ねることができた。
そこに田中人気の本質があった。
そして、そこに田中政治の限界もあった。
政治を外から見る人間にとって、「おかしいものを、おかしいと言う」ことは政治参加になる。
しかし政治の中心に入った人間には、その次の仕事がある。
おかしい制度をどう変えるのか。
誰を説得するのか。
どの法律を変えるのか。
予算はいくら必要なのか。
反対する人間とはどこまで妥協するのか。
そこから先の政治は、テレビではあまり面白くない。
会議があり、根回しがあり、文書があり、修正協議があり、採決がある。
だが、国家を実際に動かしているのは、その退屈な部分でもある。
田中真紀子は、その退屈さに苛立つ国民の感情を、驚くほど鮮明に表現した政治家だった。
だからこそ、人々は彼女を支持した。
一方で、政治の中心に長く残るためには、その退屈な政治そのものを引き受けなければならない。
そこに田中真紀子という政治家の最大の逆説があったのではないだろうか。
人気が政治家を権力の入口まで運ぶことはある。
一人の閣僚の更迭が、政権支持率を大きく揺らすことさえある。
しかし人気は、官僚組織を自動的に動かしてくれるわけではない。
法律を成立させてもくれない。
対立する政治家との合意をつくってもくれない。
田中真紀子の政治人生が示したのは、人気と政治的実行力が同じものではないという、民主政治にとって単純だが厄介な事実だった。
彼女は政治の中心に長くいたから記憶されているのではない。
政治の外から永田町を切り、その言葉によって一気に中心へ入り込み、中心に入ったことで自らの政治手法の限界にも直面し、それでも一度は戻り、最後には再び中心から離れていった。
その軌跡そのものが、平成という時代の政治を映している。
田中真紀子はなぜ、あれほど人気を集めたのか。
国民が言いたかったことを、国民より先に言ったからである。
では、なぜその人気を長期的な権力へ変えられなかったのか。
政治には、言うこととは別に、動かすことが必要だったからである。
田中真紀子という政治家を振り返ったとき最後に残るのは、おそらくこの二つの事実の間に横たわる距離なのである。

