地域政経

九条レオンの地域から社会と政治・経済のこれからを考える

 1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば奇妙としか言いようのない首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の左右を代表する二大勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。

 しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ逆であり、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治そのものの土台が崩れ始めたことこそが、村山政権誕生を理解する鍵になる。

自民党が敗れた選挙で、社会党も敗れていた

 物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の揺れはありながらもほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席にとどまり、単独過半数を失う。

 ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、前回の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたわけではない。自民党と社会党という、戦後政治を長く支配してきた二つの巨大な柱が同時に揺れ、その間から新しい政治勢力が一気に伸びてきたのである。

 新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権は、ここでいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した瞬間から矛盾があった。参加していた政党の政治理念はかなり違っており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではない。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。

 彼らを強く結びつけていた最大の共通項は、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。ところが、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党を倒した後、どのような政治をつくるのかという問いである。ここでは意見が一致していなかった。共通の敵がいる間は一緒に戦うことができるが、その敵がいなくなった瞬間、昨日まで見えなかった味方同士の違いが急に大きくなる。非自民連立政権が抱えていたのは、まさにその問題だった。

細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い

 細川護熙は政治改革を実現したものの、政治資金をめぐる問題などから1994年4月に退陣し、後継首相となったのが羽田孜だった。しかし羽田政権は、発足前から大きくつまずいた。新生党、公明党、日本新党、民社党などが「改新」という院内会派を結成したのである。その枠組みに社会党は入っていなかった。

 これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心に、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。もっとも、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、すべての議員が同じ動機で動いていたわけではないからである。

 ただ、政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況はかなり厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う危険があった。そして、この懸念が単なる空想ではなかったことは、その年の暮れに明らかになる。1994年12月、新生党、公明党系勢力、日本新党、民社党などが参加して巨大な新進党が結成されたからである。

 つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは別の競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導するのかという争いである。社会党はその争いの中で、自分たちが脇へ押しやられる可能性に直面していた。「改新」の結成を契機として社会党は羽田政権から離脱し、その結果、羽田内閣は少数与党となる。ここで、日本政治の力関係がもう一度変わり、前年に政権を失った自民党に、思いがけない機会が訪れた。

自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった

 自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党としては当然、政権への復帰を目指す。しかし、自民党単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。

 自民党と社会党が組めば、国会の勢力関係は一気に変わる。羽田政権を支えていた勢力を政権から外し、自民党が再び政府に参加する道が開ける。ただし、社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の敵として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために連立するのでは、支持者への説明が極めて難しい。

 そこで自民党が切ったカードが、社会党委員長の村山富市を首相候補として支持するというものだった。これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけでできているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、官僚機構との関係を回復し、政権与党として政治の中心へ戻る。それらを考えれば、首相の座を社会党に譲る代わりに自民党が政権へ復帰するという選択には、十分な合理性があった。

 したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることによって、自民党は政権へ戻る可能性を手にしたのである。それは同時に、社会党を自民党側へ引き寄せることで、細川政権を生んだ非自民連合を完全に崩し、小沢一郎らを中心として進みつつあった非自民勢力の再編を野党側へ押し戻すという効果も持っていた。後から見れば、自民党が首相の椅子を一度譲ったことは、政権そのものを取り戻すための極めて効果的な選択だったことが分かる。

社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした

 しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。

 それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党がすでに別の危機に直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。自民党は長年の敵だったが、政治では、昨日の敵と明日の脅威が同じとは限らない。

 自民党と社会党は思想的に近づいたわけではなかったが、1994年という一点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で存在感を失いたくないという事情があった。そして新党さきがけには、旧来の巨大政党と新党勢力の双方から一定の距離を取りながら、政治改革を進める位置を確保したいという思惑があった。理念の違う三党が同じ方向を向いたわけではない。それぞれ別の方向から歩いてきた三党が、たまたま同じ交差点に到着したのである。その交差点に立っていた人物が、村山富市だった。

1994年6月29日、政治の左右が入れ替わった夜

 羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の異様さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山に投票し、その村山に対抗する側が、かつて自民党総裁だった海部を担いだのである。政党名だけを見ていると、どちらが自民党側なのか分からなくなるような構図だった。

 衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、過半数を得た候補はいなかったため決選投票に入り、結果は村山261票、海部214票となった。こうして村山富市が内閣総理大臣に指名され、社会党からは片山哲以来47年ぶりとなる首相が誕生した。ただし、この首相指名に至る過程は、後世から見るほど整理されたものではない。

 当時の関係者の証言や記録には、首班指名前にどの程度まで三党間の連立合意が完成していたのかについて、ニュアンスの違いが残っている。自民党側の記録では、首相指名前から村山を首班とする連立政権について相当程度の政治的合意が進んでいたとされる一方、後に菅直人は国会で、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨の説明をしている。

 したがって、「何の合意もないまま突然自民党が村山に投票した」と考えるのも、「詳細な連立協定がすべて完成した後に予定通り村山を選んだ」と考えるのも、実態を単純化し過ぎている。より現実に近いのは、村山を首班とする政治的合意は首相指名前から進んでいたが、三党政権としての政策や具体的な枠組みは、その前後に急速に詰められていった、と見ることだろう。当時の日本政治が、それほど流動的だったということである。こうして自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる、いわゆる「自社さ連立政権」が成立した。

総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった

 しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。ところが政府に入れば、政府として二つの安全保障政策を同時に持つことはできない。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は長くそれに批判的な立場を取ってきた。同じ政権に入る以上、どこかで折り合いをつけなければならなかった。

 村山は首相になると、自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にしていく。これは社会党にとって極めて大きな政策転換だったが、この変化を「村山が首相になった途端、突然それまでの主張を捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでおり、村山自身も後に、党内で数年前から議論が続いていた趣旨を国会で説明している。

 それでも、野党として議論することと、政府として結論を出すことの間には大きな違いがある。野党であれば、「政府の政策に反対する」という立場を取ることができるが、首相になれば、「では日本政府としてどうするのか」という答えを出さなければならない。村山政権は社会党に、長年先送りすることができた問いへの回答を迫り、その回答は結果として社会党自身の姿を変えていった。

社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった

 村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは現実の政府を運営するためには必要な選択だったとも言えるが、支持者から見れば別の疑問が生まれる。

 社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。この問題が社会党の支持基盤に影響したことは否定できない。ただし、その後の社会党の衰退を自社さ連立だけで説明するのは単純すぎる。労働組合を中心とする旧来の支持基盤の変化、新しい選挙制度の導入、政界再編の進行、そして1996年の民主党結成による多数の議員の移動など、複数の要因が同時に作用したからである。

 社会党は1996年に社会民主党へ党名を変更し、同年の衆議院総選挙では議席をさらに減らした。したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」と単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったことは確かだろう。首相の座を得ることと、政党として強くなることは同じではなかったのである。

自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった

 一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。

 わずか二年半ほどの間に、自民党単独を中心とする政権から非自民政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相に戻ったことになる。この流れを見ると、自民党が村山を首相として支持した意味がよく分かる。自民党は一度、首相の座を他党へ譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部で存在感を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。

 もちろん、結果論だけで「最初からそこまで計画されていた」と考えるべきではない。当時の政治はそれほど予測可能ではなかった。それでも、自民党にとって村山首班を受け入れることが、政権復帰への有効な戦略になったことは疑いにくい。政治では、目の前の椅子を取った者が最終的な勝者とは限らない。ときには一つの椅子を譲ることで、部屋そのものへ戻ることができる。1994年の自民党は、それを実行した。

なぜ「村山富市」だったのか

 では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の性格も影響したと考えられる。村山は、華々しい権力闘争によって頭角を現した政治家ではなかった。大分市議、大分県議を経て国政入りし、党内では調整型の政治家として歩んできた。強烈なカリスマ性で周囲を従わせるというより、対立する人間の間に入って合意点を探すタイプだった。

 何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは意外に重要な資質になる。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、互いに異なる政党が「この人物なら首相として受け入れられる」と考えられる人物の方が適している場合があるからだ。もちろん、「村山だったから自社さ政権が成立した」と証明することはできない。歴史に別の村山政権を用意して比較実験をすることはできないからである。

 しかし少なくとも、村山の調整型の政治姿勢が、自民党、新党さきがけ、社会党という異質な三党から首班として受け入れられるうえで有利に働いた、と考えることには十分な合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の巨大な構造変化の中で、「この人物なら三党が同じ政府に入れる」と判断されたことによって首相へ押し上げられた。その意味で、村山富市は1994年という時代そのものが生み出した首相でもあった。

村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない

 結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に壊れたのである。1993年の選挙で自民党は過半数を失い、社会党も大幅に議席を減らした。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の理念は大きく異なり、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み始め、社会党には新しい政治秩序の中で埋没する危険が生じた。

 自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革の方向性を維持する思惑があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害が一時的に一致したのである。そして、その一致を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。

 だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の座標軸が「自民党対社会党」から別のものへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の敵だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を守れない。そのような状況になれば、政治家は昨日までとは違う選択をする。

 政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政党の生存があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。

 村山富市が社会党委員長なのに自民党と組んで総理になったことが、不思議なのではない。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が崩れていたということである。村山政権は、左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が破れ、その破れた地図の上で、それぞれの政党が次に立つ場所を探した結果として生まれた政権だったのである。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る

1989年7月23日の夜、日本の政治で、それまで動かないと思われていたものが大きく揺れた。

第15回参議院議員通常選挙で、日本社会党は46議席を獲得し、自由民主党の36議席を上回った。社会党は改選第一党となり、自民党は参議院で単独過半数を失った。1955年の結党以来、多少の浮き沈みを経験しながらも日本政治の中心にあり続けてきた自民党優位の政治構造に、明らかな亀裂が走った選挙だった。

その中心にいたのが、日本社会党委員長の土井たか子である。

選挙後の土井を象徴する言葉は、やがて一つの短い表現に凝縮されて人々の記憶に残った。

「山が動いた」。

政治家の言葉の多くは、その選挙が終われば消えていく。ところが、この言葉だけは1989年という時代を説明する言葉として生き残った。

なぜだったのだろう。

そこには、社会党が一度の選挙に勝ったというだけでは説明できないものがある。昭和が終わり、平成が始まったばかりの日本で、それまで政治の中心に見えにくかった人々が、自分たちにも政治を動かせるのではないかと感じた瞬間があった。そして土井たか子という政治家は、その期待を不思議なほど鮮明に背負う人物になったのである。

政治家になる予定ではなかった憲法学者

土井たか子は、最初から職業政治家として人生を設計した人物ではなかった。

1928年に神戸で生まれ、同志社大学で法律を学び、大学院を経て大学で憲法を教えた。1969年の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補して初当選するまで、彼女の立っていた場所は永田町ではなく、憲法を研究し、学生に教える教室だった。

その出発点は、その後の政治家としての土井を理解するときに重要である。

護憲を中心に据え、安全保障や原子力政策などでも明確な立場を取り続けた土井の政治思想には当然、賛否がある。しかし彼女は、時代の風向きに合わせて器用に立ち位置を移す政治家ではなかった。一度、自分にとって原則だと考えたものを簡単には手放さない。その頑固さが支持者には信頼として映り、反対する人には硬直性として映った。

後から振り返れば、それは土井たか子という政治家の強さであると同時に、限界にもなっていく。

ところが、そんな憲法学者出身の政治家が、やがて日本政治でも屈指の「言葉を持つ政治家」になる。

「やるっきゃない」。

「ダメなものはダメ」。

いずれも政策論として精密な言葉ではない。むしろ精密さの反対側にある。

それでも強かった。

政府や政党が長い説明を重ねるより、「この人は何に怒っているのか」「何には譲らないのか」が一瞬で伝わったからである。本人自身は、こうしたキャッチフレーズが独り歩きすることを必ずしも好んでいなかったと、後に土井を取材した記者は記している。

考えてみれば不思議な人生である。

憲法を教えていた大学講師が、難しい法律用語ではなく、誰にでも覚えられる短い日本語によって国民的人気を得たのである。

敗北した社会党が選んだ女性党首

1986年、土井は日本社会党の委員長に就任する。

この人事は、勢いに乗る政党が新しい時代を先取りして女性を党首に据えた、という華やかな話ではなかった。

むしろ逆だった。

社会党は同年の衆参同日選挙で大敗し、戦後長く自民党と対峙してきた最大野党としての存在感を失いつつあった。労働組合を中心とした強固な支持基盤を持ってはいたものの、高度経済成長によって生活が変わり、会社員が増え、都市化が進んだ日本社会に対して、従来の社会党の言葉が届きにくくなっていた。

その危機のなかで、土井は委員長になった。

国会に議席を持つ政党のトップに女性が就いたのは、憲政史上初とされる。後に女性初の衆議院議長にもなる土井だが、最初の「女性初」は、政党が追い詰められた場所から始まっていた。

そこには少し皮肉な構図も見える。

組織が安定している間は従来の男性中心の秩序が維持され、行き詰まったときになって初めて、それまでとは違う人物が前面に出てくる。

しかし、社会党が単に「女性だから目新しい」と考えて土井を利用しただけなら、その後に起きた現象までは説明できない。

委員長になった土井は、党の看板を変えただけではなかった。

それまで政治の中心的な議題として語られにくかった生活の問題を、国会の言葉に変え始めたのである。

委員長就任後の代表質問で、土井は「女は三つの老後を生きなければなりません」と語った。親の老後を支え、夫の老後を支え、その後に自分自身の老後が来る。まだ介護保険制度も存在しなかった時代、家庭の中で女性が当然のように背負っていた介護負担を、個人的な家庭事情ではなく政治の問題として国会に持ち込んだ。

これは土井人気を考えるうえで小さくない。

女性だから女性の問題を扱った、というだけではない。

それまで「家の中のこと」として政治から切り離されていたものを、政治の側へ引きずり出したのである。

1989年、政治への不満が行き場を失っていた

もちろん、土井たか子一人に選挙を動かす魔法があったわけではない。

1989年の自民党政権には、いくつもの逆風が重なっていた。

前年から続いたリクルート事件によって政界と企業の癒着が問題となり、竹下登首相は退陣した。1989年4月には3%の消費税が導入され、家計への新たな負担に対する反発が広がっていた。その後を継いだ宇野宗佑首相にも女性問題が報じられ、政権は発足した時点から強い逆風のなかに置かれた。

つまり、山が突然、自分の意思で歩き出したわけではない。

その下ではすでに地殻変動が始まっていたのである。

政治と金への不信、消費税への反発、長期政権への倦怠感。性質の異なる不満が同時に噴き出したとき、それを受け止める顔として土井たか子がいた。

社会党は1989年参院選で46議席を獲得した。さらに、この選挙では女性候補の躍進が大きな話題となり、後に「マドンナ旋風」と呼ばれることになる。

この選挙で女性当選者は22人。改選された126議席の17.46%を女性が占めた。前回1986年の女性当選者10人から倍以上に増え、日本の国政選挙としては画期的な変化だった。

ただし、「マドンナ旋風」という言葉そのものにも、今から振り返れば当時の社会が映り込んでいる。

女性政治家が多数当選したことを歓迎する一方で、政策や思想を持った一人の政治家としてではなく、「女性候補」という特別な集団として眺める視線があったからこそ成立した呼び名でもある。

女性が政治家であること自体がニュースになった時代だった。

土井たか子は、女性政治家の進出を象徴した人物であると同時に、女性政治家がまだ珍しい存在として見られていた日本の姿を映す人物でもあった。

なぜ土井たか子は国民的スターになれたのか

それでも、土井人気を「女性だったから」で説明するのは無理がある。

彼女が登場した1980年代後半は、テレビが国民共通の巨大な窓だった。

インターネットはない。政治家が自分の動画を毎日発信することもない。新聞とテレビが政治家の姿を全国へ届け、夜のニュースで映された数十秒の表情や言葉が、翌日の職場や家庭の話題になる。

そこで強かったのは、一瞬で人物像が伝わる政治家だった。

土井には、それがあった。

よく通る声があり、言葉に歯切れがあり、男性ばかりが並んでいた政治の画面のなかで、遠くからでも分かる存在感があった。「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」といった一般のテレビ番組にも出演し、政治ニュースを熱心に見ない人々にも顔を知られていった。

だが、それだけなら人気タレント型の政治家で終わっただろう。

土井にはもう一つ、奇妙な強みがあった。

彼女は政治家なのに、「政治の外から来た人」に見えたのである。

1989年の時点で初当選からすでに20年近くが経過している。政治経験の浅い新人ではない。それなのに、永田町の専門家としてではなく、永田町へ普通の人々の感覚を持ち込む人物として受け取られた。

政治経験があるのに、政治屋には見えない。

制度を知っているのに、専門用語ばかりで話さない。

国会の内部にいるのに、国会の外側にいる人々の不満を代弁しているように見える。

この距離感こそ、土井たか子という政治家の最大の資産だったのではないだろうか。

人々は彼女を「おたかさん」と呼んだ。

最大野党の党首であり、首相候補にもなり得る政治家なのに、呼び名だけを聞けば近所のよく知っている人のようだった。

権力の中心へ近づくほど、普通の人から遠ざかって見える政治家は多い。

土井は、逆だった。

政治の中心へ近づくほど、「自分たちの側から政治を見ている人」に見えたのである。

「山の動く日」は女性たちの目覚めを歌った言葉だった

そして、あの「山」に戻る。

土井が若いころから愛唱していたとされるのが、与謝野晶子が1911年の『青鞜』創刊号に寄せた『そぞろごと』である。

その冒頭は「山の動く日来る」で始まる。

現在、この冒頭部分だけを取り出して「山の動く日」と呼ばれることも多いが、厳密には『青鞜』創刊号に掲載された作品の総題が『そぞろごと』で、その冒頭の詩が後世、広く知られるようになったものである。そこでは、長い間眠っていた女性たちが目覚め、動き始める姿が「山」に重ねられている。

土井が社会党委員長だったころ、東京・三宅坂の社会党本部にあった委員長室には、「山の動く日」と書かれた額が掲げられていたという。

だから本来、土井にとって「山」は自民党そのものではなかったのだろう。

長い間、政治の中心に十分な場所を持てなかった女性たちであり、政治を自分とは遠いものだと考えていた市民であり、「どうせ政治は変わらない」と諦めていた有権者でもあった。

ところが1989年の大勝によって、この言葉には別の意味が重なっていく。

眠っていた女性が動くという与謝野晶子の山と、動かないように見えた戦後政治の山が、一つの映像になった。

言葉が政治家本人の手を離れ、時代の言葉になった瞬間だった。

女性が首相として指名された日

参議院選挙からわずか半月ほど後、その勢いを象徴する出来事が起きる。

1989年8月9日の内閣総理大臣指名選挙で、参議院は土井たか子を内閣総理大臣に指名した。

一方、衆議院は自民党の海部俊樹を指名した。両院協議会でも一致しなかったため、日本国憲法第67条第2項による衆議院の優越によって、最終的には海部の指名が国会の議決となった。

したがって、土井たか子内閣が成立したわけではない。

しかし、この出来事を「結局首相にはなれなかった」で終わらせると、その歴史的意味を取り逃がす。

1989年の日本で、国会を構成する二つの議院の一方が、一人の女性を内閣総理大臣として正式に指名したのである。

女性首相がまだ遠い未来の話に思われていた時代に、参議院だけを見れば、土井たか子はすでに首相に選ばれていた。

その瞬間、彼女が「日本で最も首相に近づいた女性」だったと表現しても、大きな誇張ではない。

社会党が数年前まで低迷していたことを考えれば、なおさら異例の光景だった。

それでも山は動き続けなかった

だが、政治には残酷な性質がある。

熱狂を得票に変える力と、その得票を持続的な政権基盤へ変える力は同じではない。

社会党は1990年の衆議院議員総選挙でも大幅に議席を増やした。それでも自民党政権を倒すところまでは届かず、翌1991年の統一地方選挙で社会党が敗北すると、土井は委員長を辞任する。

ほんの数年前には衰退政党と思われていた社会党を復活させ、首相指名にまで到達した人物が、驚くほど短い時間で党首の座を去ることになった。

ここに「土井ブーム」の本質と限界が見える。

1989年に社会党へ向かった票は、一枚岩の社会党支持ではなかった。

政治腐敗への怒りがあり、消費税への反発があり、自民党長期政権への倦怠感があり、女性政治家への期待があり、土井本人への好感があった。

異なる場所から流れてきた水が、一時的に同じ低地へ集まったのである。

洪水のような票だった。

しかし洪水は、必ずしも一本の川にはならない。

社会党が本当に政権を担うためには、「自民党に反対する人々」の受け皿であるだけでは足りなかった。安全保障をどうするのか、経済をどう運営するのか、現実の国際関係のなかでどこまで従来の政策を維持するのかという問いに、一つの政権構想として答える必要があった。

しかも、そのころ世界の方が先に変わり始めていた。

1989年にはベルリンの壁が崩れ、東欧の社会主義体制が相次いで崩壊し、米ソ冷戦も終結へ向かう。

戦後日本政治を支えてきた「保守対革新」という対立軸そのものが揺らぎ始めたのである。

土井人気によって一時的に覆い隠されていた社会党の古い問題が、時代の変化とともに再び姿を現した。

土井たか子の長所は、そのまま弱点でもあった

土井は、権力政治の職人というタイプではなかった。

むしろ、そう見えなかったことが彼女の人気を支えた。

原則を語り、生活者の言葉で政治を批判し、曖昧な表現で逃げない。その姿は、派閥、密室協議、根回しによって物事が決まる印象の強かった当時の政治とは鮮明な対照をなしていた。

しかし政権を取る側に回れば、政治に求められるものは変わる。

異なる考えを持つ人々と合意し、政策に優先順位をつけ、財源を割り振り、ときには支持者が望まない妥協もしなければならない。

「ダメなものはダメ」という言葉は、野党政治家としては強い。

だが政府を運営する側は、その次に「では何をするのか」を示さなければならない。

何を認め、何を捨て、誰と組み、どこまで譲るのか。

土井たか子という政治家の魅力と、社会党が本格的な政権政党になり切れなかった問題は、この地点で微妙に重なっていた。

もっとも、その責任を土井一人に帰すのは公平ではない。

安全保障政策、党内の路線対立、労働組合との関係、変わりゆく社会と支持基盤のずれ。社会党が抱えていた問題の多くは、土井が委員長になるはるか以前から存在していた。

むしろ一人の人物の人気によって、衰退過程にあった政党が数年間とはいえ政権をうかがう位置まで戻ったこと自体が異例だった、と見る方が歴史には近いのではないか。

土井たか子は、社会党を救えなかった政治家だったというより、社会党がまだ救えるかもしれないと国民に思わせた最後の政治家だった。

女性初の衆議院議長へ

そして土井の政治人生は、「山が動いた」で終わらない。

1993年の衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を失い、細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立した。

その新しい国会で、土井たか子は第68代衆議院議長に選ばれる。

女性として初めての衆議院議長だった。在任期間は1993年8月6日から1996年9月27日までである。

社会党委員長として自民党と激しく対決した人物が、今度は国会全体を代表し、与党と野党双方を公平に扱わなければならない席に座った。

議長時代には、議員を呼ぶ際の慣例だった「君」ではなく「さん」を用いたことでも知られる。

小さな変更に見える。

だが、いかにも土井らしい。

制度そのものを大声で否定するのではなく、その制度のなかに残っている「なぜ昔からこうなのか分からない慣習」を一つ問い直す。

女性だから特別扱いしてほしい、という話ではない。

そもそも男性ばかりだった時代につくられた慣習を、なぜそのまま続けなければならないのか。

土井たか子の政治には、そうした問い方が一貫していた。

女性政治家が「珍しかった時代」のスターだったのか

土井たか子を振り返るとき、「女性だったから人気が出た」という説明は半分しか当たっていない。

確かに、女性党首という新鮮さは大きかった。

テレビ画面に男性政治家がずらりと並ぶなか、土井はそれだけで目立った。

しかし、珍しいというだけで何年も国民的人気は続かない。

土井が強かったのは、彼女が登場することによって、周囲の政治の古さが逆に見えてしまったからではないだろうか。

男性ばかりの国会。

派閥を中心に動く自民党。

組織中心の社会党。

家庭内で女性が担っていた介護や家事を、政治問題として十分に扱ってこなかった社会。

政治家は政治家の言葉を話し、普通の人々はそれを遠くから眺めている。

その風景の中へ土井が入る。

すると、土井自身が特別に新しいという以上に、その周囲に残っていた「昔からこういうものだ」という政治の姿が古く見えた。

政治家がスターになるとき、その人物一人の能力だけで現象が起きるとは限らない。

社会の方がすでに変わり始めているのに、制度や政治文化だけが取り残されているとき、そのずれを一人で可視化してしまう人物が現れることがある。

1989年の土井たか子は、その位置にいた。

「山が動いた」から36年後、日本に女性首相が誕生した

1989年から36年後の2025年10月21日、高市早苗が衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で指名され、第104代内閣総理大臣に就任した。

日本で初めての女性首相だった。

もちろん、土井たか子と高市早苗の政治思想は大きく異なる。

だから、女性という一点だけで二人の政治を直線的につなぐべきではないだろう。

それでも歴史として眺めれば、不思議な連続性がある。

1989年、参議院は土井たか子を首相として指名した。

しかし衆議院では届かなかった。

それから36年を経て、初めて女性が実際に内閣総理大臣となった。

その翌年である2026年は、日本の女性が国政選挙で初めて選挙権と被選挙権を実際に行使してから80年に当たる。

ここは年月を正確に分けて考える必要がある。

女性の国政参政権は、1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によって制度上認められた。そして翌1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、女性は初めて投票し、立候補した。この選挙では39人の女性衆議院議員が誕生している。したがって、参政権獲得から数えれば2025年が80年、実際の国政選挙での行使から数えれば2026年が80年となる。

80年という時間を置いて眺めると、土井たか子の位置が少し違って見えてくる。

彼女は女性首相になった政治家ではない。

女性政治家が当たり前になった時代の政治家でもない。

女性が大政党の党首になること自体が歴史的事件であり、女性候補が多数当選すれば「旋風」と呼ばれた時代に、その珍しさを弱点ではなく政治的な力へ変えた人物だった。

しかも彼女は、最後まで「女性問題だけを語る女性政治家」にはならなかった。

憲法を語り、外交を語り、税制を語り、介護を語った。

社会党を率い、参議院で自民党を過半数割れに追い込み、参議院から首相に指名され、最後には衆議院議長になった。

その意味では、土井たか子を単に「女性政治家の先駆者」と呼ぶだけでは、少し小さすぎるのかもしれない。

山とは何だったのか

結局、1989年に動いた「山」とは何だったのだろう。

社会党だったのか。

自民党だったのか。

女性だったのか。

おそらく、そのどれか一つではない。

長い間、「政治とはこういうものだ」と考えられてきた常識そのものが山だったのではないか。

政治家は男性である。

政権は自民党が握る。

家庭の問題は家庭で解決する。

普通の市民が政治を動かすことなどない。

その一つ一つは法律に書かれていたわけではない。

それでも社会の中には、岩盤のように存在していた。

だから一つの選挙で社会党が勝っただけなのに、人々はそこに何か巨大なものが動く感覚を見た。

もちろん、山は完全には崩れなかった。

社会党はその後衰退し、土井ブームも終わった。1989年に集まった熱狂が、そのまま新しい政治体制をつくったわけでもない。

それでも、動かなかったことにはならない。

山は、動いた後に元の場所へ戻ることもある。

少しだけ形を変え、その変化が次の時代からは当たり前に見えることもある。

女性が政党の党首になること。

女性が衆議院議長になること。

女性が首相候補として扱われること。

そして、実際に女性が首相になること。

1989年には、そのどれもが現在ほど当たり前には見えなかった。

土井たか子という政治家を今振り返る意味は、彼女の政策に賛成することでも、かつての社会党を美化することでもない。

政治の景色が変わるときには、その変化が起きる少し前に、「こんなことは起きない」と多くの人が思っている。

その固定観念が崩れる瞬間を、一人の政治家が象徴することがある。

1989年の夏、その場所に立っていたのが土井たか子だった。

そして彼女が見た山は、社会党の山でも、自民党の山でもなかったのだろう。

長い間眠っていた人々が、自分たちも政治を動かす側に立てるかもしれないと感じた、その巨大な塊こそが山だった。

「山が動いた」という言葉が今も残っているのは、だからなのかもしれない。

九条レオンのリベラル文庫

九条レオンの作品やエッセイをまとめています。

リベラル文庫を見る