1994年6月29日、日本の国会では、戦後政治の常識から見れば奇妙としか言いようのない首相指名選挙が行われていた。候補者の一人は日本社会党委員長の村山富市であり、その村山を首相にしようとしていた最大の政治勢力は、社会党が長年にわたって対決してきた自由民主党だった。自由民主党と日本社会党は、1955年に成立したいわゆる「55年体制」の中で、日本政治の左右を代表する二大勢力として向かい合ってきた。日米安全保障条約、自衛隊、憲法、防衛政策、経済政策をめぐって両党は激しく争い、自民党が政権を担えば、社会党は最大野党としてそれを批判する。その対立構造はあまりに長く続いたため、多くの有権者にとって、自民党と社会党が同じ政権に入ること自体が想像しにくい出来事だった。
しかも、首相になる村山は社会党の一議員ではない。党の最高責任者である委員長だった。その村山の名前を、自民党議員たちが首相指名選挙の投票用紙に書いたのである。なぜ、そんなことが起きたのか。自民党と社会党の思想が突然近づいたからではない。長年の対立を忘れて和解したからでもない。むしろ逆であり、1993年から1994年にかけて、それまで両党を対立させていた日本政治そのものの土台が崩れ始めたことこそが、村山政権誕生を理解する鍵になる。
自民党が敗れた選挙で、社会党も敗れていた
物語は1993年に始まる。それまで自民党は、1955年以来、多少の揺れはありながらもほぼ一貫して政権の中心にいた。ところが政治改革をめぐる党内対立が激化し、小沢一郎や羽田孜らが自民党を離党して新生党を結成する。宮沢喜一内閣に対する不信任決議案には自民党からも造反者が出て、衆議院は解散された。そして1993年7月18日の総選挙で、自民党は223議席にとどまり、単独過半数を失う。
ここまでなら、「自民党が敗れて野党が勝った選挙」と説明したくなるが、実際の選挙結果はもっと複雑だった。それまで最大野党だった社会党も、前回の136議席から70議席へと大幅に議席を減らしていたのである。つまり、有権者が自民党から社会党へ政権を渡そうとしたわけではない。自民党と社会党という、戦後政治を長く支配してきた二つの巨大な柱が同時に揺れ、その間から新しい政治勢力が一気に伸びてきたのである。
新生党、日本新党、新党さきがけといった新党が存在感を増し、公明党や民社党なども加わって、自民党を政権から外す新しい連立の枠組みがつくられた。その結果、日本新党代表の細川護熙を首相とする非自民連立政権が誕生し、1955年以来続いてきた自民党中心の政権は、ここでいったん途切れた。しかし、細川政権には誕生した瞬間から矛盾があった。参加していた政党の政治理念はかなり違っており、社会党と新生党では、安全保障政策も経済政策も政治改革に対する考え方も同じではない。公明党、民社党、日本新党、新党さきがけも、それぞれ異なる政治的背景を持っていた。
彼らを強く結びつけていた最大の共通項は、「自民党を政権から降ろす」という目的だった。ところが、その目的が達成されると、次の問題が現れる。自民党を倒した後、どのような政治をつくるのかという問いである。ここでは意見が一致していなかった。共通の敵がいる間は一緒に戦うことができるが、その敵がいなくなった瞬間、昨日まで見えなかった味方同士の違いが急に大きくなる。非自民連立政権が抱えていたのは、まさにその問題だった。
細川政権の後で始まった「次の政界」をめぐる争い
細川護熙は政治改革を実現したものの、政治資金をめぐる問題などから1994年4月に退陣し、後継首相となったのが羽田孜だった。しかし羽田政権は、発足前から大きくつまずいた。新生党、公明党、日本新党、民社党などが「改新」という院内会派を結成したのである。その枠組みに社会党は入っていなかった。
これを単なる国会内の会派再編と考えると、当時の社会党が受けた衝撃を見落とす。社会党にとって問題だったのは、自分たちが外されたことだけではない。その背後で、新生党の小沢一郎らを中心に、社会党を含まない新しい政治勢力が形成される可能性が見え始めたことだった。もっとも、「社会党は小沢一郎を恐れていた」と一言で断定するのは正確ではない。社会党内部にもさまざまな立場があり、すべての議員が同じ動機で動いていたわけではないからである。
ただ、政治構造として見れば、社会党が置かれていた状況はかなり厳しかった。1993年の総選挙ですでに70議席まで後退している。さらに新生党、公明党、日本新党、民社党などが大きな政治勢力へまとまれば、かつて自民党と並んで日本政治を代表した社会党が、新しい政界再編の中で存在感を失う危険があった。そして、この懸念が単なる空想ではなかったことは、その年の暮れに明らかになる。1994年12月、新生党、公明党系勢力、日本新党、民社党などが参加して巨大な新進党が結成されたからである。
つまり1994年春の段階で、日本政治ではすでに、「自民党対社会党」という古い構図とは別の競争が始まっていた。誰が次の政界再編を主導するのかという争いである。社会党はその争いの中で、自分たちが脇へ押しやられる可能性に直面していた。「改新」の結成を契機として社会党は羽田政権から離脱し、その結果、羽田内閣は少数与党となる。ここで、日本政治の力関係がもう一度変わり、前年に政権を失った自民党に、思いがけない機会が訪れた。
自民党が欲しかったのは「村山首相」よりも政権復帰だった
自民党から見れば、1993年の下野は極めて大きな事件だった。長年にわたって政権を担ってきた政党が、突然野党になったのである。自民党としては当然、政権への復帰を目指す。しかし、自民党単独では衆議院の過半数に届かない。そこで重要になったのが、社会党と新党さきがけだった。
自民党と社会党が組めば、国会の勢力関係は一気に変わる。羽田政権を支えていた勢力を政権から外し、自民党が再び政府に参加する道が開ける。ただし、社会党が自民党総裁を首相にして連立に入ることは容易ではない。社会党の立場からすれば、長年最大の敵として戦ってきた自民党の総裁を首相にするために連立するのでは、支持者への説明が極めて難しい。
そこで自民党が切ったカードが、社会党委員長の村山富市を首相候補として支持するというものだった。これは自民党にとって非常に大きな譲歩だったが、政治権力は首相の椅子一つだけでできているわけではない。閣僚を送り込み、政策決定に参加し、国会運営を担い、官僚機構との関係を回復し、政権与党として政治の中心へ戻る。それらを考えれば、首相の座を社会党に譲る代わりに自民党が政権へ復帰するという選択には、十分な合理性があった。
したがって、「自民党は村山を首相にしたかった」とだけ考えると本質を見誤る。より正確には、村山を首相として受け入れることによって、自民党は政権へ戻る可能性を手にしたのである。それは同時に、社会党を自民党側へ引き寄せることで、細川政権を生んだ非自民連合を完全に崩し、小沢一郎らを中心として進みつつあった非自民勢力の再編を野党側へ押し戻すという効果も持っていた。後から見れば、自民党が首相の椅子を一度譲ったことは、政権そのものを取り戻すための極めて効果的な選択だったことが分かる。
社会党も「自民党と組む」という常識外れの選択をした
しかし、自民党側の事情だけでは村山政権は成立しない。社会党にも連立を受け入れる理由があった。もちろん、自民党と組むことには大きな抵抗があった。社会党にとって自民党は、何十年にもわたって批判してきた相手であり、支持者の多くも、自民党政治に対抗する政党として社会党を支持してきたからである。
それでも、自民党との連立という選択肢が現実味を持ったのは、社会党がすでに別の危機に直面していたからだった。1993年の選挙で大幅に議席を失い、非自民連立政権の中でも主導権を握れない。さらに自分たちを外した政界再編が進めば、社会党は新しい政治秩序の中で埋没する可能性がある。自民党は長年の敵だったが、政治では、昨日の敵と明日の脅威が同じとは限らない。
自民党と社会党は思想的に近づいたわけではなかったが、1994年という一点では利害が交差した。自民党には政権へ戻りたいという事情があり、社会党には政界再編の中で存在感を失いたくないという事情があった。そして新党さきがけには、旧来の巨大政党と新党勢力の双方から一定の距離を取りながら、政治改革を進める位置を確保したいという思惑があった。理念の違う三党が同じ方向を向いたわけではない。それぞれ別の方向から歩いてきた三党が、たまたま同じ交差点に到着したのである。その交差点に立っていた人物が、村山富市だった。
1994年6月29日、政治の左右が入れ替わった夜
羽田内閣の退陣を受け、1994年6月29日に首相指名選挙が行われた。候補者は村山富市と、元自民党総裁で元首相の海部俊樹だった。ここには、当時の政界再編の異様さが凝縮されている。自民党議員の多数が社会党委員長の村山に投票し、その村山に対抗する側が、かつて自民党総裁だった海部を担いだのである。政党名だけを見ていると、どちらが自民党側なのか分からなくなるような構図だった。
衆議院の第1回投票では、村山241票、海部220票となり、過半数を得た候補はいなかったため決選投票に入り、結果は村山261票、海部214票となった。こうして村山富市が内閣総理大臣に指名され、社会党からは片山哲以来47年ぶりとなる首相が誕生した。ただし、この首相指名に至る過程は、後世から見るほど整理されたものではない。
当時の関係者の証言や記録には、首班指名前にどの程度まで三党間の連立合意が完成していたのかについて、ニュアンスの違いが残っている。自民党側の記録では、首相指名前から村山を首班とする連立政権について相当程度の政治的合意が進んでいたとされる一方、後に菅直人は国会で、首班指名の段階では自民党を含めた詳細な三党合意が完成していたわけではなく、社会党と新党さきがけの政策協議が先行していたという趣旨の説明をしている。
したがって、「何の合意もないまま突然自民党が村山に投票した」と考えるのも、「詳細な連立協定がすべて完成した後に予定通り村山を選んだ」と考えるのも、実態を単純化し過ぎている。より現実に近いのは、村山を首班とする政治的合意は首相指名前から進んでいたが、三党政権としての政策や具体的な枠組みは、その前後に急速に詰められていった、と見ることだろう。当時の日本政治が、それほど流動的だったということである。こうして自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる、いわゆる「自社さ連立政権」が成立した。
総理大臣になった瞬間、社会党は野党ではいられなくなった
しかし村山にとって、本当に難しい政治はここから始まった。社会党は長年、自衛隊や日米安全保障体制について自民党とは大きく異なる立場を取ってきた。ところが政府に入れば、政府として二つの安全保障政策を同時に持つことはできない。自民党は自衛隊を合憲とし、日米安全保障条約を日本外交の基軸と考える一方、社会党は長くそれに批判的な立場を取ってきた。同じ政権に入る以上、どこかで折り合いをつけなければならなかった。
村山は首相になると、自衛隊を憲法上認められる存在とし、日米安全保障体制を堅持する立場を明確にしていく。これは社会党にとって極めて大きな政策転換だったが、この変化を「村山が首相になった途端、突然それまでの主張を捨てた」と理解するのも正確ではない。冷戦終結など国際環境が大きく変化する中で、社会党内部ではそれ以前から安全保障政策の見直しをめぐる議論が進んでおり、村山自身も後に、党内で数年前から議論が続いていた趣旨を国会で説明している。
それでも、野党として議論することと、政府として結論を出すことの間には大きな違いがある。野党であれば、「政府の政策に反対する」という立場を取ることができるが、首相になれば、「では日本政府としてどうするのか」という答えを出さなければならない。村山政権は社会党に、長年先送りすることができた問いへの回答を迫り、その回答は結果として社会党自身の姿を変えていった。
社会党は首相を得たが、自民党との違いを説明することが難しくなった
村山政権の成立直後だけを見れば、社会党は大きな成果を得たように見える。何しろ自民党を差し置いて、自党の委員長が総理大臣になったのである。しかし政治の勝敗は、その日の首相指名だけでは決まらない。社会党は政権を担うことによって、自衛隊や日米安全保障体制など、それまで党の重要な特徴を形成してきた政策を修正した。それは現実の政府を運営するためには必要な選択だったとも言えるが、支持者から見れば別の疑問が生まれる。
社会党が自民党と同じ政府に入り、自衛隊を認め、日米安全保障体制も認めるのであれば、自民党と社会党の違いはどこにあるのか。この問題が社会党の支持基盤に影響したことは否定できない。ただし、その後の社会党の衰退を自社さ連立だけで説明するのは単純すぎる。労働組合を中心とする旧来の支持基盤の変化、新しい選挙制度の導入、政界再編の進行、そして1996年の民主党結成による多数の議員の移動など、複数の要因が同時に作用したからである。
社会党は1996年に社会民主党へ党名を変更し、同年の衆議院総選挙では議席をさらに減らした。したがって、「村山政権に参加したから社会党が消えた」と単純な因果関係を置くことはできない。しかし、自民党との連立と基本政策の転換が、社会党の存在理由を支持者に説明することを難しくした重要な要因の一つだったことは確かだろう。首相の座を得ることと、政党として強くなることは同じではなかったのである。
自民党は首相の椅子を譲りながら、政権の中心へ戻っていった
一方、自民党のその後を見ると、村山政権の持つもう一つの意味が見えてくる。自民党は1993年8月に政権を失ったが、1994年6月には村山内閣の与党として政府へ復帰し、さらに1996年1月、村山が首相を退くと、後継首相になったのは自民党総裁の橋本龍太郎だった。
わずか二年半ほどの間に、自民党単独を中心とする政権から非自民政権へ移り、そこから社会党首相の自社さ政権が成立し、最後には再び自民党総裁が首相に戻ったことになる。この流れを見ると、自民党が村山を首相として支持した意味がよく分かる。自民党は一度、首相の座を他党へ譲ったが、その代わりに政権へ戻り、政権内部で存在感を回復した後、最終的には首相の座まで取り戻したのである。
もちろん、結果論だけで「最初からそこまで計画されていた」と考えるべきではない。当時の政治はそれほど予測可能ではなかった。それでも、自民党にとって村山首班を受け入れることが、政権復帰への有効な戦略になったことは疑いにくい。政治では、目の前の椅子を取った者が最終的な勝者とは限らない。ときには一つの椅子を譲ることで、部屋そのものへ戻ることができる。1994年の自民党は、それを実行した。
なぜ「村山富市」だったのか
では、社会党委員長であれば誰でもよかったのだろうか。そこには村山富市という人物の性格も影響したと考えられる。村山は、華々しい権力闘争によって頭角を現した政治家ではなかった。大分市議、大分県議を経て国政入りし、党内では調整型の政治家として歩んできた。強烈なカリスマ性で周囲を従わせるというより、対立する人間の間に入って合意点を探すタイプだった。
何十年も対立してきた自民党と社会党が同じ政府に入るとき、これは意外に重要な資質になる。自分の構想を強力に押し通す指導者よりも、互いに異なる政党が「この人物なら首相として受け入れられる」と考えられる人物の方が適している場合があるからだ。もちろん、「村山だったから自社さ政権が成立した」と証明することはできない。歴史に別の村山政権を用意して比較実験をすることはできないからである。
しかし少なくとも、村山の調整型の政治姿勢が、自民党、新党さきがけ、社会党という異質な三党から首班として受け入れられるうえで有利に働いた、と考えることには十分な合理性がある。村山は自分一人の巨大な政治構想によって首相になったというより、日本政治の巨大な構造変化の中で、「この人物なら三党が同じ政府に入れる」と判断されたことによって首相へ押し上げられた。その意味で、村山富市は1994年という時代そのものが生み出した首相でもあった。
村山政権は「自民党と社会党が仲良くなった政権」ではない
結局、村山富市が社会党委員長でありながら自民党と連立し、総理大臣になった理由を、「自民党と社会党が和解したから」と説明することはできない。むしろ、自民党と社会党を長年対立させてきた55年体制の方が先に壊れたのである。1993年の選挙で自民党は過半数を失い、社会党も大幅に議席を減らした。細川非自民連立政権が生まれたものの、参加政党の理念は大きく異なり、羽田政権では社会党が離脱した。その一方で、小沢一郎らを中心とする新しい政界再編が進み始め、社会党には新しい政治秩序の中で埋没する危険が生じた。
自民党には政権復帰という目的があり、社会党には政界再編の中で自らの位置を確保する必要があり、新党さきがけには両者を仲介しながら政治改革の方向性を維持する思惑があった。三党は同じ思想を持っていたわけではなく、それぞれの利害が一時的に一致したのである。そして、その一致を成立させる首相候補として村山富市が選ばれた。
だから1994年6月29日、自民党議員が社会党委員長の名前を投票用紙に書いたことは、単なる政界の珍事ではない。それは、日本政治の座標軸が「自民党対社会党」から別のものへ移り始めたことを示す象徴的な出来事だった。昨日まで最大の敵だった政党と組まなければ、明日の自分たちの立場を守れない。そのような状況になれば、政治家は昨日までとは違う選択をする。
政治を動かすものは理念だけではない。議席があり、政権があり、政党の生存があり、次の選挙があり、政界再編の主導権がある。それらが絡み合ったとき、何十年も敵対してきた二つの政党が、一つの内閣をつくることさえある。
村山富市が社会党委員長なのに自民党と組んで総理になったことが、不思議なのではない。本当に見るべきなのは、そのような政権を生み出すほど、1993年から1994年にかけて日本政治の古い秩序が崩れていたということである。村山政権は、左右が突然仲良くなった物語ではない。戦後政治を支えてきた地図が破れ、その破れた地図の上で、それぞれの政党が次に立つ場所を探した結果として生まれた政権だったのである。


