北倉が外部のままでいることに、不便を感じる人間が増えてきたのは、事業がようやく形になり始めたころだった。
最初のうちは、それでも何とか回っていた。 協議会があり、観光協会があり、市役所があり、必要に応じて北倉が間に入る。動線は遠回りでも、誰かが補えば進む。だが、仕事が増え、判断が細かくなり、委託先も支出項目も増えてくると、その遠回りが目につくようになった。 会議のたびに、同じ説明を二度する。 現場で決めたいことが庁内資料の扱いに引っかかって半日遅れる。 観光協会で出た案が市役所へ戻り、市役所の確認が北倉へ渡り、北倉の修正がまた観光協会に戻る。 その一つ一つは大したことのない遅れでも、積み重なると、現場では妙に重くなる。
協議会の実務打合せでも、その苛立ちは隠れなくなっていた。 「この資料、北倉さんに見せられるのが翌日になるの、やっぱり遅いですよ」 安積恵子が言った。 目の前の資料を叩くでもなく、ただ机の上に指を置いたまま言うところに、疲れがにじんでいた。 「庁内資料の扱いがあるので、どうしても手順を踏まないと……」 真鍋はそう答えたが、自分でも言い訳じみて聞こえるのが分かった。 水城海斗がすぐに口を挟む。 「でも、現場はその日のうちに判断ほしいこと多いじゃないですか。撮影の差し替えとか、参加者対応とか、待ってくれないですよ」 「実際、二度手間になってるのは事実なんだよな」 野添課長が、珍しく率直に言った。 資料の束を見ながら、少しだけ眉を寄せる。 「こっちで判断できないことは戻すしかないし、戻したら戻したで北倉さんには庁内で共有しづらいものもあるし」 「そのたびに真鍋さんが間に入ってるのも、正直しんどいですよね」 安積の言葉に、真鍋は苦笑するしかなかった。 しんどいのは事実だった。 だが、それを認めることは、別の何かを認めることにもつながりそうで、簡単にはうなずけなかった。 北倉はそのやりとりを静かに聞いていた。 いつものように、すぐに主導権を取るでもなく、相手が言うべきことを言い終わるまで待っている。その待ち方がうまい。誰かが不満を口にし、それが個人の愚痴ではなく『現場の課題』として聞こえる位置まで待つ。
「外部のままでも、やれなくはありません」 北倉はそう言った。 「ただ、庁内との接続がもう少し早ければ、無駄は減らせると思います」 「無駄、ですか」 真鍋が訊くと、北倉は穏やかにうなずいた。 「同じ説明を何度もすることとか、判断の順番が一つずれることとか。その積み重ねは、現場では結構大きいので」
安積がため息まじりに言った。 「正直、もう少し中に入ってもらえたら助かるんですけどね」 その一言で、会議室の空気が変わった。 誰もすぐには続かなかった。 だが、全員がその可能性を一度頭の中に置いたことだけは分かった。 真鍋はその沈黙の重さを感じた。話題が出た瞬間に、元へは戻れない種類の沈黙だった。 野添が、机の上のペンを転がしながら言った。 「……いっそ正式な立場で入ってもらった方が早いのかもしれないな」 真鍋は顔を上げた。 ついに、その言葉が出た。 北倉が望んだわけではないという形のまま、その席の話だけが、会議室の空気の中で先に輪郭を持ちはじめていた。
それが会議の勢いだけで出た話ではないと分かったのは、その日の夕方だった。
野添は、いつものように軽い調子で真鍋の机の脇に来た。 軽い調子のときほど、本気の話をしていることがあるのを、真鍋はもう知っていた。 「さっきの件だけど」 野添は声を落とした。 「本気なんですか」 真鍋が先に訊いた。 「本気、というか……現実的な選択肢として、だね」 野添は、いかにも言葉を選んでいる顔をしていた。 「任期付きの民間人採用枠もあるし、外部人材登用の名目もいくつかある。地域再生アドバイザーでも、DX推進補佐でも、政策参与に近い置き方でも、やり方はある」 真鍋はしばらく黙っていた。 『やり方はある』。 その言い方が、たまらなく嫌だった。穴があるから通せる、と言われているように聞こえたからだ。
「でも北倉さん、すでに協議会と委託先にかなり関わってますよ」 ようやくそう言うと、野添は小さく息を吐いた。 「分かってる。でも、だからこそ中にいた方が早いんだよ」 「それ、逆じゃないですか」 思ったより強い口調になってしまった。 野添が目を細める。 「逆?」 「外部でそこまで関わってる人を、さらに中へ入れるのは……」 真鍋は言い切れなかった。 何がどう危ういのか、自分の中では分かっている気がするのに、制度の言葉へうまく直せない。
「今は、人がいないんだよ」 野添ははっきり言った。 「きれいな原則だけじゃ、町は回らない」 真鍋はその言葉を聞きながら、胸の奥が少し冷えるのを感じた。 人がいない。 それは事実だ。 助かっている。 それも事実だ。 その二つが並べられた時、自分の違和感は『きれいごと』の側へ押しやられる。 さらに悪いことに、市長もどうやら前向きらしかった。
後日、黒瀬市長が廊下で野添と立ち話をしているのを、真鍋は少し離れた場所から聞いてしまった。 「せっかく流れが出てるんだから、止めない方がいい」 黒瀬はそう言った。 「動ける人には、動ける席を用意すればいいんだよ」 その言い方には、いつもの軽さがあった。 だが軽い言葉ほど、たいていはあとで重く効く。 席はまだ置かれていないのに、真鍋にはすでに、その席の分だけ庁舎の内側が静かに空けられていくように思えた。
北倉自身は、その話にすぐ飛びつかなかった。
むしろ一度、引いた。 その引き方がうますぎると真鍋が思ったのは、港へ下る坂の途中で、二人きりになったときだった。 打合せの帰りだった。夕方の光が海の方から斜めに入り、港のクレーンが影になっていた。真鍋は思い切って訊いた。
「この前の話、もし本当に出たらどうしますか」 北倉は少しだけ目を細めた。 「席の話ですか」 「ええ」
北倉はすぐには答えなかった。 港の方へ一度視線をやってから、軽く笑った。 「外部の方が自由に動ける面もありますからね。中に入れば、逆にやりにくくなることもあるでしょう」 「でも、不便も多いですよね」 「それはあります。ただ」 北倉は、そこで言葉を切った。 「僕が席を欲しがっているように見えるのは、本意ではありません」
真鍋は、その台詞に一瞬返事ができなかった。 欲しがっていないように見せる台詞として、あまりに整いすぎている。 だが、北倉の表情は本当にそう思っている人間のそれにも見えた。 「欲しがっているようには、見えませんよ」 真鍋が言うと、北倉は少しだけ肩をすくめた。 「そうならいいんですが」 数歩歩いてから、北倉は続けた。 「僕が必要なんじゃなくて、機能が必要なんです。今の体制だと、判断と実務の距離が少し遠い」 真鍋は黙って聞いた。 「町のために最短を選ぶなら、形にはこだわらない方がいいのかもしれません」 正論に聞こえた。 そして、正論に聞こえること自体が怖かった。 北倉が演技しているのか、本当にそう思っているのか、真鍋には分からなかった。ただ一つ分かるのは、こうして一度引かれると、周囲は余計に「こちらからお願いする形」にしたがるだろうということだった。 北倉は席を求めていないように見えた。だからこそ、その席はますます彼のために用意されるもののように真鍋には思えた。
真鍋が初めて、はっきり止めたいと思ったのは、その翌週だった。
夜の庁舎は静かで、昼間は何でもない蛍光灯の白さが、妙に冷たく見える。 資料室の前で野添を捕まえたとき、真鍋は自分でも驚くほど真っ直ぐに言っていた。
「北倉さん、もう十分深く入ってますよね」 野添は立ち止まり、真鍋を見た。 「それはそうだな」 「協議会、委託、事務局、人脈、全部に関わってる。その人が今度は役所の席まで持つのは……」 「危ういって?」 真鍋はうなずきかけて、少しだけためらった。 だがもう、言わなければ同じだと思った。 「線がなくなります」 野添は少しだけ口元を引き締めたが、怒りはしなかった。
「今さら線をきれいに引いたって、回らないものは回らないよ」 「でも」 「真鍋くん」 野添の声は低かった。 「助かることと、原則を守ることが、きれいに両立するなら、みんな苦労してない」 その言葉は、真鍋の反論を正面から潰すというより、もっと深いところで封じた。 真鍋自身、それが分かってしまうからだった。 北倉がいなければ、いま回っているものの何割かは止まるだろう。 自分も、それを知っている。 だからこそ苦しい。
別の日、堂本忍にも、遠回しにそれらしいことを漏らしてしまった。 「席ってのは、便利な人への謝礼じゃありません」 堂本は庁舎前の自販機の横で、缶コーヒーも買わずに言った。 「分かってます」 真鍋が答えると、堂本はすぐに返した。 「分かっていて止められないなら、もっと厄介ですね」 真鍋は何も言えなかった。 「町が誰かに席を与えるとき、一緒に見ないふりするものも増えるんですよ」 堂本はそう言って去った。 その背中を見ながら、真鍋は初めて、反対の言葉が北倉に向かうだけでなく、自分のここまでの判断や沈黙にも向かうことを思い知った。 反対の言葉を口にしかけるたびに、真鍋にはその言葉が北倉ではなく、自分自身のここまでをも否定するもののように思えた。
席は、考え方ではなく、手続きとして用意された。
そのことの怖さを真鍋は、総務から回ってきた簡単な確認メールで最初に知った。 件名はそっけない。 外部人材受入れに係る肩書き等確認 本文を開くと、業務内容、所属、任期、メールアドレス発行、入館証、机の配置。 ただの事務処理に見える。 だが、それぞれが確実に『内側の人間』のための手続きだった。
「肩書きは『地域再生推進アドバイザー』でいきますか」 総務の職員が言う。 「それで通るならそれで」 野添はあっさり答える。 「所属は地域戦略課付け、ですか」 真鍋が確認すると、野添はうなずいた。 「実務上はそこが一番扱いやすい」 「庁内メールと入館証も必要ですね」 総務職員が事務的に続ける。 真鍋は思わず訊いた。
「……名札も作るんですか」 総務の職員は、少し不思議そうに真鍋を見た。 「当然でしょう」 当然。 その一言の重さを、たぶんこの場で真鍋だけが妙に強く感じていた。 名札。 机。 庁内メール。 入館証。 それらはどれも、紙の上の役職よりはるかに強く、その人間を『中の人』にしてしまう。
さらに数日後、庁舎の一角に本当に机が置かれた。 真鍋の席から少し離れた窓際で、以前は資料置き場になっていた場所だった。 パソコンが入り、電話が引かれ、名札が立つ。 白いプレートに黒い文字で、北倉恒一郎と印字されていた。 席とは考え方ではなかった。名札であり、机であり、入館証であり、その一つ一つが北倉を町の内側へ固定していった。
北倉がその席に座った朝、庁舎の空気は思ったより普通だった。
誰かが特別に拍手をするわけでもなく、庁内放送が流れるでもない。 観光協会の安積は「これで話が早くなりますね」と安堵のように笑い、水城は少し誇らしげにその様子を見ていた。野添は肩の力を抜いた顔で、「まあ、ここまで来たらこの方が自然だろう」と言った。 全員にとって、それは合理化だった。 少なくとも表向きは。
北倉本人は、最初からそこにいた人間のように自然に椅子を引いた。 ぎこちなさがない。 だから余計に真鍋には不気味だった。 「ご迷惑をおかけしないようにします」 北倉はそう言って、周囲に軽く頭を下げた。 「……よろしくお願いします」 真鍋も、そう返すしかなかった。
最初の庁内会議で、北倉はすでに『中の人』の言葉で話していた。 「では、次回以降の委託整理と現地側調整を並行して進めます。内部の確認フローも少し短くできると思います」 内部。 その言葉が、ごく自然に口から出ていた。 協議会も、委託も、現場も、人脈も知っている人間が、今度は庁内の資料と判断の流れにも触れている。 それが何を意味するのか、真鍋にはもう十分すぎるほど分かっていた。
安積にとっては助かるのだろう。 水城にとっては希望なのだろう。 野添にとっては合理化だろう。 市長にとっては成果を早く出すための近道だろう。 だが真鍋には、それが効率のための椅子には見えなかった。 これまで何とか外に残っていたはずの線が、そこで静かに消えていく場所に見えた。 席はただの机ではなかった。そこに座ることを町が認めた瞬間、北倉は外から関わる人ではなく、町の線を内側から動かせる人になった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.
