リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

短波ラジオから世界が聞こえた頃

ナショナル・プロシード2800とソニーICF-5900の記憶

はじめに――世界はラジオの向こう側にあった

インターネットも、スマートフォンも、動画配信サービスも存在しなかった時代、遠い外国と出会うための入口は、今よりもはるかに限られていた。

外国の街並みを見たければ、テレビの紀行番組を待つか、図書館で写真集を探すしかない。海外の人々が何を考え、どのような音楽を聴き、どんなニュースを伝えているのかを知ることも簡単ではなかった。

しかし、私の部屋には、世界へ直接つながる機械があった。

短波ラジオである。

1978年から1981年にかけての中学生時代、私はナショナルの「プロシード2800」と、ソニーの「スカイセンサー ICF-5900」という2台のラジオを使っていた。

ダイヤルをゆっくり回していくと、雑音の中から、聞いたことのない言葉や音楽が浮かび上がってくる。

その声がどこの国から届いているのか。どれほど遠い場所から、夜空を越えて私の部屋まで届いたのか。

私は机の前に座りながら、世界の広さを想像していた。


前編

2台のラジオと、世界を探した夜

1970年代末の中学生にとっての「世界」

1978年当時、日本はすでに高度経済成長を終え、家庭にはカラーテレビやステレオが普及していた。

それでも、世界はまだ遠かった。

海外との連絡は国際電話か手紙が中心であり、外国の情報が即座に届く時代ではない。学校で習う外国についての知識も、地図帳や教科書の記述が中心だった。

そんな時代に、海外の放送局の声を自分の部屋で直接聞けることは、特別な体験だった。

BCL(Broadcasting Listening・放送受信を楽しむ趣味)が、中学生や高校生の間で大きな人気を集めていた時代でもある。

書店には短波放送の周波数や放送時刻を掲載した雑誌や資料が並び、電器店には大きなダイヤルや多数のスイッチを備えたラジオが展示されていた。

ただ番組を聞くだけではない。

弱い電波を探し、周波数を合わせ、放送局を確認し、受信状態を記録する。

そこには、機械を操作する楽しさと、知らない世界を発見する楽しさの両方があった。


ナショナル・プロシード2800

私が使っていた1台は、ナショナルのプロシード2800、型式名ではRF-2800というラジオだった。

横に長く、存在感のある筐体。前面には周波数表示や大きな選局ダイヤルが配置され、いかにも本格的な通信機器を思わせる外観をしていた。

プロシード2800は、中波、FM(Frequency Modulation・周波数変調)放送に加え、複数の短波帯を受信できるラジオだった。日本向けモデルには赤色のデジタル周波数表示が採用されていたとされる。

デジタル表示があるといっても、現在のラジオのように、ボタンを押せば正確な周波数へ自動的に移動してくれるわけではない。

選局の中心となるのは、あくまで自分の指だった。

大きなダイヤルを回し、目的の周波数に近づけていく。

ザーッという雑音。

ピュー、ピーという混信音。

隣接する放送局の音声が重なり、何を話しているのか分からないこともある。

それでも、ダイヤルをほんの少しだけ左右に動かしていると、雑音の奥から人の声が現れる。

その瞬間がうれしかった。

音質の良い放送を受け身で聞くのではない。

自分で探し、自分で発見した放送を聞くのである。

そこには、現代の検索エンジンでは味わいにくい、偶然の出会いがあった。


ソニー・スカイセンサー ICF-5900

もう1台は、ソニーのスカイセンサー ICF-5900だった。

プロシード2800とは違い、比較的まとまりのよい筐体に、短波受信のための機能が詰め込まれていた。

黒を基調とした正面に並ぶダイヤルやスイッチには、少年の好奇心を刺激するものがあった。

ICF-5900は、FM、中波、3つの短波帯を受信する5バンドラジオとして販売され、クリスタルマーカーとスプレッドダイヤルを使って短波の周波数を細かく合わせられることが特徴だった。短波受信にはデュアルコンバージョン方式が採用されていた。

現在のデジタル式受信機のように、周波数を数字で入力するわけではない。

まず主ダイヤルで受信したい放送局の周辺に合わせ、そこから細かな調整を重ねる。

この操作には、ある程度の慣れが必要だった。

目的の局が聞こえないとき、それが自分の選局の問題なのか、放送時間が違うのか、電波状態が悪いのかは、すぐには分からない。

だからこそ、聞こえたときの喜びは大きかった。

プロシード2800とICF-5900は、それぞれに違った魅力を持っていた。

プロシード2800には、大型受信機らしい堂々とした雰囲気がある。

ICF-5900には、限られた大きさの中で電波を追い込んでいく、道具としての凝縮感がある。

私は2台を使い分けながら、夜ごと周波数表とラジオの目盛りを見比べていた。


夜になると開かれる世界

短波放送は、いつでも同じように聞こえるわけではない。

昼に聞きやすい周波数もあれば、夜になってから遠くまで届く周波数もある。季節や時間帯、太陽活動や大気の状態によっても受信状況が変わる。

中学生だった私は、電離層の仕組みを完全に理解していたわけではない。

それでも、夜になると遠くの局が聞こえ始めることを、経験として知っていた。

夕方から夜へと変わる頃、ラジオの前に座る。

ロッドアンテナを伸ばし、方向を変える。

場合によってはアンテナ線を工夫し、少しでも受信状態が良くなる場所を探す。

ダイヤルを合わせると、日本語による海外向け放送が聞こえることもあった。

外国語の放送も聞いた。

言葉の意味は分からなくても、音楽や話し方、時報、放送局名らしい言葉を手がかりにして、どこの局なのかを考えた。

同じ周波数に複数の局が重なることもある。

聞こえている局が本当に目的の放送局なのか、確信が持てないこともあった。

放送局の開始音楽やインターバル・シグナル、時報、局名アナウンスを待つ。

そして目的の局だと分かったときには、小さな達成感があった。

世界地図の上では、ただの点や国名だった場所。

そこから実際に電波が送られ、自分のラジオから音になって出ている。

その事実に、不思議な感動を覚えた。


雑音もまた、放送の一部だった

現在は、音声が途切れたり雑音が混じったりすると、通信品質が悪いと判断される。

しかし、短波放送を聞いていた頃、雑音は邪魔であると同時に、遠距離受信の実感でもあった。

電波は強くなったり弱くなったりした。

人の声が急に遠ざかり、数秒後にまた近づいてくる。

音が波のように揺れるフェージングも、短波放送では珍しくなかった。

雷による雑音が入ることもあった。

家庭内の電気製品から発生する雑音に悩まされることもあった。

それでも、その聞きにくさが、遠くから届いているという証拠のように思えた。

何千キロメートルも離れた国から届く声が、最初から明瞭である必要はなかった。

雑音の向こう側に人の声がある。

それだけで十分だった。


夏休みと「ヤロメロ」

短波ラジオの思い出は、海外放送だけではない。

夏休みには、ラジオたんぱの番組を聞いていた。

中でも印象に残っているのが、大橋照子さんの「ヤロウどもメロウどもOh!」、通称「ヤロメロ」である。

「ヤロメロ」は、日本短波放送、当時のラジオたんぱで放送されていた公開生放送の番組だった。1977年から1985年まで続き、当時の中学生や高校生を中心に支持された。

夏休みの午後。

学校へ行く必要もなく、普段よりも自由な時間が長く感じられた。

ラジオから聞こえてくる大橋照子さんの声には、通常の放送とは違う親しみがあった。

短波放送というと、遠い外国のニュースや異国の音楽を聞くものという印象が強い。

しかし、ラジオたんぱから流れてくるヤロメロは、もっと身近だった。

スタジオにいる出演者と全国のリスナーが、電波を介して同じ時間を過ごしている。

その感覚があった。

海外放送を聞いて世界の広さを知る一方で、ヤロメロを聞くことで、日本のどこかに同じ番組を聞いている同世代の人たちがいることを感じた。

私にとって短波ラジオは、外国へ向かう窓であると同時に、全国のリスナーとつながる場所でもあった。


前編のおわりに

プロシード2800とICF-5900の前で過ごした時間は、単なる機械遊びではなかった。

ダイヤルを回すことは、世界のどこかを探すことだった。

雑音の中から聞こえてくる声に耳を澄ますことは、自分の知らない世界が確かに存在することを確かめることだった。

そして、放送を聞いた後には、もう一つの楽しみが待っていた。

受信したことを記録し、受信報告書を書き、放送局へ送ることである。

数週間、あるいは数か月後、外国の切手が貼られた封筒が自宅に届く。

その中には、放送を受信した証明となるベリカードが入っていた。

後編では、世界各国と日本国内の放送局へ受信報告書を送り、ベリカードの到着を待った日々について振り返りたい。


はじめて自分のものになったパソコン――ソニーHiTBiT HB-F500の記憶【第1回】

手が届かなかったPC-88とMZ-2500、その少し近くへ

家庭のテレビ画面に、テレビ番組とはまったく異なる文字が並んでいた。

黒や青を基調とした画面に、アルファベットや数字が表示される。キーボードから何かを入力すると、画面の中の機械がそれに応える。いま振り返れば、それはコンピュータとしてはごく基本的な動作にすぎない。しかし、私にとっては、家庭の中にそれまで存在しなかった新しい世界が開いた瞬間だった。

私が初めて自分で購入したパソコンは、ソニーのHiTBiT HB-F500だった。

HB-F500は、MSX(Microsoftとアスキーが提唱した家庭用パソコンの共通規格)の第二世代に当たるMSX2対応機である。1985年に登場した機種で、本体とキーボードが分かれたセパレート型の外観を持っていた。当時のMSXパソコンには、キーボードと本体が一つになった一体型の製品も多かったが、HB-F500はそれらとは少し違って見えた。

本体があり、その手前に独立したキーボードがある。

その姿は、私が雑誌や店頭で見ていた、本格的なパソコンに少し近かった。

当時、本当に欲しいと思っていたのは、NEC(日本電気)のPC-8800シリーズ、一般にPC-88と呼ばれていたパソコンや、シャープのMZ-2500だった。

PC-88は、当時のパソコン雑誌を開けば必ずと言ってよいほど目に入る存在だった。豊富なソフトウェアがあり、ゲームにもプログラミングにも使える。雑誌の記事や広告からは、MSXより一段上の、本格的なパソコンという印象が伝わってきた。

MZ-2500もまた、強い憧れを抱かせる機械だった。

シャープのMZシリーズが積み重ねてきた流れの先にあり、8ビットパソコンの完成形とも思えるような高性能機だった。雑誌の写真や仕様表を眺めるだけでも、そこには自分の知らない高度な世界があるように感じられた。

しかし、PC-88やMZ-2500は高価だった。

欲しいと思うことと、実際に購入できることとの間には、大きな距離があった。

現在であれば、インターネットで価格を比較し、中古品を探し、全国の販売店から購入することもできる。しかし当時は、そうではない。パソコンとの出会いは、近所や市内の電気店、専門店、雑誌の通信販売など、限られた場所に依存していた。

私の場合、HB-F500は市内の電気店で購入することができた。

遠い場所にある憧れの機械ではなく、自分が生活している町の中で、現実に手に入れることのできるパソコンだった。

セパレート型に感じた「本格的なパソコンらしさ」

HB-F500を選んだ理由の一つは、セパレート型だったことである。

本体とキーボードが分かれている。

ただそれだけのことが、当時の私には重要だった。

一体型のMSXにも優れた機種は数多くあった。価格が抑えられ、家庭のテレビにつなげばすぐに使えることは、MSXの大きな魅力でもあった。しかし、私が求めていたものは、単にゲームができる家庭用の機械だけではなかった。

PC-88やMZ-2500のような、本格的なパソコンに少しでも近いものが欲しかった。

HB-F500の独立した本体とキーボードは、その願いに応えてくれるように見えた。

性能だけを比較すれば、PC-88やMZ-2500と同じではない。それでも、机の上に本体を置き、手前にキーボードを置くと、そこに自分だけのコンピュータ環境ができあがったように感じられた。

機械を所有する満足感とは、必ずしも数値化できる性能だけから生まれるものではない。

本体の形、キーボードの位置、電源を入れる手順、画面が表示されるまでのわずかな時間。その一つ一つが、自分がパソコンを持ったという感覚を形づくっていた。

HB-F500は1985年に発表・発売されたソニーのMSX2機で、セパレート型の外観と内蔵フロッピーディスクドライブを備え、当時の希望小売価格は12万8,000円だったとされる。

安価な機械ではなかった。

それでも、当時のセパレート型MSX2機の中では比較的抑えられた価格設定だったとされる。

私にとっては、手の届かなかったPC-88やMZ-2500の代わりというだけではない。

それらの機械が象徴していた世界へ入っていくための、現実的な入口だった。

MSX-DOSに感じた、将来へのつながり

もう一つ、HB-F500を選ぶうえで大きかったのが、MSX-DOSだった。

MSX-DOS(MSX用のディスク・オペレーティング・システム)は、MS-DOS(Microsoft Disk Operating System・マイクロソフトのディスク基本ソフト)に近い操作体系を持っていた。

当時、MS-DOSは、より本格的な16ビットパソコンの世界で使われる基本ソフトという印象があった。

MSXは家庭用パソコンの規格だったが、MSX-DOSを使うことで、その先にあるMS-DOSの世界へ少し近づけるように思えた。

MSX-DOSは、MS-DOSとの互換性を意識して開発され、COMMAND.COMなどMS-DOSに近い構成を持っていた。

もちろん、実際のMS-DOSとMSX-DOSは、動作するハードウェアも使用できるソフトウェアも同じではない。しかし、ファイルを管理し、コマンドを入力して機械を操作するという考え方には共通する部分があった。

私は、目の前のMSXだけを見ていたのではなかった。

その先にあるPC-88やPC-98、さらに大きなコンピュータの世界を見ていた。

HB-F500は、いま使うための機械であると同時に、将来、別のパソコンへ進むための学習装置でもあった。

後から振り返れば、この感覚は間違っていなかったと思う。

私はその後、PC-8800シリーズ、PC-9800シリーズ、DOS/Vパソコンへと移っていくことになる。さらにMacintosh SEを使い、Windows、Linux、Macへと使用環境を広げていった。

しかし、その始まりにはMSX-DOSがあった。

コマンドを入力すること。

ファイルという単位でデータを考えること。

ディスクに保存されたソフトウェアを読み込むこと。

自分が機械に対して何を命令しているのかを、少しずつ理解すること。

現在のパソコンは、利用者が基本ソフトを強く意識しなくても使えるようになっている。画面上のアイコンを選び、アプリケーションを起動し、クラウド上にファイルを保存する。

便利になった一方で、機械の中で何が起きているのかは見えにくくなった。

HB-F500を使っていた頃は、不便ではあったが、機械の動作が現在よりも身近に感じられた。

家のテレビがパソコンの画面になった

HB-F500は、家にあったテレビに接続して使っていた。

現在のように、パソコンを購入すれば当然のように専用ディスプレイを用意する時代ではなかった。MSXでは、家庭にあるテレビを表示装置として利用することが一般的だった。

テレビは、それまで放送を見るための機械だった。

決められた時間に番組が始まり、こちらはそれを見る。映像は放送局から送られてくるものであり、視聴者が画面の中身を変えることはできない。

しかし、HB-F500を接続すると、テレビは別の機械になった。

自分がキーボードから入力した文字が画面に現れる。

命令を入力すれば、表示が変わる。

プログラムを実行すれば、図形や文字が動く。

それまで受け取るだけだったテレビ画面に、自分の操作が反映される。

この違いは大きかった。

BCL(Broadcast Listening・海外放送や遠距離放送の受信を楽しむ趣味)をしていた頃、ラジオは世界から届く電波を受信する機械だった。ダイヤルを回し、雑音の中から放送局を探し、遠い国の声を聞いた。

HB-F500では、自分が機械に命令を与える側になった。

ラジオでは受信者だった私が、パソコンでは入力者になった。

どちらも機械を通して未知の世界へ近づく体験だったが、関わり方は異なっていた。

短波ラジオは、すでに世界に存在する電波を探すものだった。

パソコンは、自分の入力によって、まだ画面に存在していないものを作り出す機械だった。

雑誌に並んでいた16進数

HB-F500を購入したからといって、すぐに自由自在に使えたわけではない。

当時は、現在のようにインターネット上からソフトウェアを簡単に入手することはできなかった。アプリケーションストアもなければ、検索すれば使い方を説明する動画が出てくるわけでもない。

頼りになるのは、説明書とパソコン雑誌だった。

雑誌には、BASIC(Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code・初心者向け汎用記号命令コード)のプログラムだけでなく、16進数のダンプリストが掲載されていた。

0から9までの数字と、AからFまでの英字が、紙面いっぱいに並んでいる。

現在の感覚で見れば、あれほど単調な文字列をよく入力していたと思う。

しかし当時は、それを入力すれば、手元になかったプログラムが自分のパソコンの中に現れる。

雑誌のページは、単なる読み物ではなかった。

紙に印刷されたソフトウェアそのものだった。

私は、その16進数のダンプリストを必死に入力した。

一行入力しては、次の行へ進む。

数字が続く。

英字が混じる。

一文字でも間違えれば、正しく動作しない可能性がある。

入力を終えて実行しても、何も起きないことがある。画面が乱れることもあれば、途中で止まることもある。

そのたびに、雑誌のページと画面を見比べた。

どこかで数字を一つ間違えていないか。

Aと4を取り違えていないか。

Bと8を見間違えていないか。

一行飛ばしていないか。

入力した位置がずれていないか。

自分の間違いなのか、雑誌側の誤植なのか。

何度も見直した。

現在なら、ファイルをコピーすれば数秒で終わる作業である。

当時は、プログラムを入手するために、自分の指で何百、何千という文字を入力しなければならなかった。

効率だけを考えれば、決して合理的な方法ではない。

しかし、そこには現在とは違う意味があった。

入力しているうちに、データがどのように並んでいるのかを意識するようになる。

同じような数値が続く部分、急に異なる値が現れる部分、規則的に見える並び。意味は完全には分からなくても、プログラムが文字と数字の集積として存在していることを、身体で覚えていった。

動いたときの喜び

長いダンプリストを入力し終え、プログラムが動いたときの喜びは大きかった。

自分がプログラムを設計したわけではない。

自分が考えたゲームでもない。

雑誌に掲載されたデータを、そのまま入力しただけとも言える。

しかし、紙の上に印刷されていた数字の列が、自分の指を通してパソコンに入り、画面上で動き始める。

そこには、単なる複製以上の達成感があった。

入力作業には時間がかかった。

間違いを探すのにも時間がかかった。

途中で嫌になることもあった。

それでも、最後まで入力して動かした。

現在は、ソフトウェアを使うまでの障壁が低い。購入やダウンロードが終われば、すぐに利用できる。利用者にとっては、その方がよい。

しかし、手に入れるまでに苦労しない分、そのソフトウェアがどのようなデータからできているのかを意識する機会は少ない。

HB-F500を使っていた頃、私はコンピュータの内部を深く理解していたわけではない。

それでも、画面の中の動作は、どこかから自然に生まれてくるものではなく、命令やデータの積み重ねで作られていることを感じていた。

動かなければ、原因がある。

間違っていれば、どこかを直さなければならない。

分からなくても、調べて試す。

この姿勢は、その後、別のパソコンを使うようになってからも残った。

最初の一台は、最高の一台とは限らない

HB-F500は、当時もっとも高性能なパソコンではなかった。

私が最も欲しかった機械でもなかった。

本当に憧れていたのはPC-88やMZ-2500だった。

それでも、実際に自分の机の上に置き、家のテレビにつなぎ、キーボードをたたいたのはHB-F500だった。

人の人生を変えるのは、必ずしも最も高性能な道具ではない。

遠くから眺めていた憧れの機械ではなく、現実に手に入り、毎日触れ、失敗しながら使った機械であることが多い。

HB-F500は、私にとってそのような一台だった。

市内の電気店で購入したセパレート型のMSX2。

PC-88やMZ-2500の世界に少しでも近づきたいという思いで選んだパソコン。

家のテレビに接続し、雑誌の16進数を何時間もかけて入力した機械。

やがて私は、このHB-F500をゲームやプログラム入力だけでなく、日本語の文章を作り、紙に印刷するためにも使うようになる。

コンピュータが、憧れの機械から実用的な道具へ変わり始めたのである。

しかし、使えば使うほど、同時に別の感情も生まれてきた。

もっと速い機械が欲しい。

もっと多くのソフトウェアを使いたい。

もっと本格的な環境へ進みたい。

HB-F500は、私を満足させるためだけの機械ではなかった。

次のパソコンを求める気持ちを育てる機械でもあった。

第2回では、カセットで提供されたワープロソフト、第二水準漢字、ブラザーのドットインパクトプリンターによる印刷、そしてHB-F500に物足りなさを感じるようになった私が、PC-88、PC-98、DOS/V、Macintosh SEへ進んでいった過程を振り返りたい。