リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 東京の空気は、海の匂いがしない。 だから政治家は、東京でよく深呼吸する。深呼吸しているふりをする。実際に吸っているのは空気ではなく、匂いのない権力だ。  島田幸夫が東京に来るとき、スーツの襟はいつも少しだけ立っていた。 立っている襟は、自信に見える。自信は、人を安心させる。安心した人は、財布も開く。島田はその順番を、心臓の鼓動より正確に知っていた。  第4章で作った土産物——棒グラフ、カタカナ、クリック、回遊データ、協賛枠。  それは地方の観光防災センターの話でありながら、東京では「政策」になった。政策に見える話は強い。強い話は、派閥を呼ぶ。  派閥は、島田にとって『群れ』ではない。 販路だった。

成功事例ショーは、棒グラフで始まる  党本部の会議室は、妙に静かだった。 静かな部屋ほど怖い。政治家は騒がしい場で嘘をつけるが、静かな場では嘘が目立つ。だから島田は、静けさに『笑い』を入れる。  プロジェクターに映されたスライドのタイトルは、わざと長い。 「多言語観光防災DX推進事業 成果報告(暫定)」  暫定。これも便利な言葉だ。 暫定なら間違ってもいい。暫定なら修正できる。暫定なら責任が薄まる。

 島田はマイクを持たない。 マイクを持つと「演説」になる。演説になると敵が増える。 ここは「説明」だ。説明は味方を増やす。 「皆さん、英語は話せますか?」 いきなり聞く。  国会議員は英語を話せない人が多い。 話せない人が多い場で英語の話を振ると、空気は一瞬で同盟になる。 「安心してください。私も話せません」  笑いが起きた。 笑いは『負けの共有』だ。負けを共有すると仲間になる。仲間になると財布が開く。  島田はスライドをめくった。 棒グラフが並ぶ。棒グラフは魔法だ。棒が伸びると、内容が伸びた気がする。 「利用者数は前月比120%。外国語ページ閲覧は150%。協賛枠クリックは——」  ここで島田は、わざと一拍置いた。 間は金になる。 「——すごい勢いで伸びました」  議員たちが頷く。 誰も中身は見ていない。棒が伸びたことだけ見ている。政治はだいたい棒で決まる。棒が伸びると予算が伸びる。

 若手議員が質問した。 「どうやって伸ばしたんですか?」  島田は笑って答えた。「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、数字の作り方です」  会議室がドッと笑った。 笑いは強い。笑いは録音されると弱い。 だが島田は、その『弱さ』をまだ知らなかった。 知りたくもなかった。

「冗談です」 島田は軽く付け足した。冗談と言えば冗談になる。政治の冗談は、だいたい後で冗談じゃなくなる。  彼は続けた。 「伸ばしたのは、言葉ではなく段取りです。 困らない段取り。迷子が出たら、ここ。救護が必要なら、ここ。 そして、スマホで一瞬です」 「アプリか」 誰かが呟いた。  島田はにこやかに頷く。 「アプリです。 アプリは、終わりません。更新が要ります。運用が要ります。 つまり、『困らない』が続きます」  議員たちの目が光った。 『続く』は、予算が続くという意味だ。  会議が終わる頃、島田の前に名刺が積まれた。 名刺は、東京の拍手だ。  そして最後に、派閥の大物が近づいてきた。 顔が「幹部」そのものだ。笑うと怖いタイプ。 「島田君、うちの勉強会で話してくれ」 来た。 招待状は、いつも笑顔で来る。

派閥の会食は、入会手続きである  会食はホテルだった。 ホテルの絨毯は踏むだけで「もう戻れない感じ」がする。  政治家にとってホテルの円卓は、宗教に近い。儀式がある。乾杯がある。紹介がある。握手がある。誰も本音を言わない。だから本音が進む。  島田は遅れて入った。遅れは演出だ。主役は遅れて拍手が増える。 実際、拍手が起きた。ホテルの拍手は、音が薄い。だが値段が高い。  幹部が言った。 「君、派閥に入らないんだって?」 島田は、ここで『プレミアム感』を売る。 「はい。群れると歩く速度が合わなくなるので」  幹部が笑った。周りも笑った。 笑いは承認だ。承認は契約の前段階だ。 「いいね。じゃあ、入らなくていい。 『外部顧問』になれ」  外部顧問。これも便利な肩書きだ。 派閥の中に入らず、派閥の力だけ使える。 島田がずっと欲しかった形だ。  島田は首を傾げるふりをした。 ふりをすると、相手は「頼む」形になる。頼まれると価値が上がる。 「そんな大役、私にできますかね」 幹部は即答した。 「できるよ。君のモデルを全国に展開したい」  全国。これも怖い言葉だ。 全国になった瞬間、地方で許されていた『いい加減』が許されなくなる。  だが島田は、怖さより甘さを選ぶ。全国は名誉だ。名誉は防御に見える。防御に見えるものほど、実は首輪だ。 幹部が続ける。 「君のアプリ。あれをうちの先生方の地元にも入れたい。 協賛枠もいい。スポンサーを集めるのは得意だろ?」  島田は笑う。 得意だ。得意すぎる。 協賛枠は、ただの広告枠ではない。関係の枠だ。枠に入った者は、外に出たくなくなる。  円卓の端に、スーツの男が座っていた。 官僚っぽい。いや、官僚だ。官僚はスーツで分かる。 彼は丁寧に言った。 「データも共有いただけますか。回遊、滞在、クリック等…」 データ。  島田の鈴。 鈴は、渡すと鳴る場所が変わる。  島田は一瞬、沈黙した。 沈黙はいつも島田の武器だ。だが今日は迷いだった。

 幹部が笑って言った。 「心配するな。君の功績は守る。 うちの派閥は面倒見がいい」 面倒見がいい。  これは政治の世界で最も危険な言葉の一つだ。 面倒を見ると言う人間は、面倒を『自分の手柄』にする。 島田は、それでも頷いた。 「分かりました。共有します」  この瞬間、島田は自分の首を、自分で締め始めた。 本人だけが気づいていない。いや、気づいているが、気づかないふりをしている。  腹黒い人間は、だいたい自分の腹黒さに酔う。 酔うと、手が滑る。

禁断の献上——棒グラフの作り方まで渡す  翌週から、島田の事務所は「提供資料作成班」になった。 秘書は眠れない。係長は胃が死ぬ。NPO代表は笑顔で帳簿を整える。 老舗警備社長は「安全のためです」を東京向けに練習する。

 島田は言った。 「派閥には、成果を見せればいい。 成果は数字で作れる。数字は指標で作れる」  彼は『盛らない』。盛るとバレる。 代わりに『作り替える』。作り替えると、誰もバレたと言えない。

 なぜなら、指標は政治だからだ。 閲覧数は『ユニーク』にしない。延べでいい。 クリックは『誤タップ』も成果。誤タップも町の魅力。 回遊は『範囲』を広げる。範囲を広げれば人は回遊したことになる。

 島田は、こういう話を冗談っぽく言って、笑わせた。 笑いながら資料は完成する。資料が完成すると、予算が完成する。  そして島田は、最悪の一手を打つ。 アプリの運用会社を、派閥筋に切り替えたのだ。 「全国展開には体力が必要です」 島田は言った。正しい顔で。 体力。  これも便利な言葉だ。体力がある会社は、だいたい政治の体力がある。  NPO代表が小さく囁いた。 「先生、地元のラインが…」

 島田は微笑んだ。 「地元は守る。 でも『運用』は全国で一括。効率です」 効率。  これも反対しにくい。反対すると「無駄が好きなの?」になる。 そしてデータ——回遊、滞在、クリック。 それも『共有』された。  官僚が喜んだ。派閥が喜んだ。 そして派閥の若手が言った。 「これ、横展開できますね。島田先生、すごい」  島田は謙遜した。 謙遜すると価値が上がる。価値が上がると、さらに要求が増える。 要求は増えた。 「スポンサー枠、もっと売れませんか」 「協賛企業のリスト、もらえますか」 「アプリ内で政治家の発信も…」  島田は全部、笑顔で頷いた。 頷くたびに、自分の居場所が消えるとも知らずに。

派閥は守らない。派閥は『最適化』する  ある日、島田は党本部で耳にした。 「次の地方創生DXモデル、あれで行くらしいよ」 「誰がやるの?」 「いや、派閥の事務局。運用会社も決まった」 「島田先生は?」 「…『監修』じゃない?」 監修。 便利な言葉だ。

 功績を残しつつ、責任だけ取らせる言葉だ。 島田は笑顔のまま、その場を通り過ぎた。 笑顔が崩れると負けだ。政治家は笑顔が崩れた瞬間に死ぬ。  夜、島田のスマホが鳴った。 派閥の若手からだ。 「先生、次の勉強会、先生じゃなくて、運用会社さんが説明することになりました。 『現場の声』ってことで」  現場の声。 島田が今まで散々使ってきた言葉だ。 その言葉で、島田が切られた。  島田は答えた。 「いい判断だね。現場が大事だ」 声は温かい。 温かい声で言えば、どんな負けも美談になると思っている。 思っているのが腹黒い。腹黒いからこそ、負けを負けだと認めない。  電話を切った後、島田は一枚のメモを見た。 そこには彼が会議で冗談として言った言葉が書かれている。 「嘘をつくのは、数字の作り方です」 秘書が言った。 「先生、この発言、動画で回ってます」  島田は目を細めた。 「誰が?」  秘書は震える声で答えた。 「…火種屋です。 『国会珍英語ツアー』じゃなくて、 『国会棒グラフツアー』にしたみたいです」  島田は笑った。 笑ってしまった。 笑った瞬間、島田は自分の腹黒さの匂いに気づいた。遅い。 鈴は鳴る。通知音で鳴る。  派閥は島田を守らない。 派閥は島田を『最適化』する。 最適化とは、余計な部品を外すことだ。  数日後、島田は派閥のLINEグループに招待された。 「外部顧問(仮)」という、ふざけた名前のグループだ。 島田は一瞬、勝った気がした。 群れない男が、群れの入口を持った。そう思った。  しかし翌週、通知が鳴った。 「あなたはこのグループから削除されました」 ピコン。  たったそれだけだ。 説明もない。挨拶もない。政治家らしい情けもない。 派閥は情けを見せない。情けを見せると弱くなるからだ。  島田はしばらく画面を見つめた。 そして、ゆっくりと息を吐いた。 鈴が鳴った。 投票箱の底ではない。 朱肉のスタンプでもない。 スポンサー枠のクリック音でもない。 『君はもう要らない』という、静かな通知音で鳴った。  島田は机の上の資料を見た。 棒グラフ。カタカナ。KPI。回遊。協賛。 そこには、島田の名前がなかった。  彼は、自分の武器を売った。 売ったつもりだった。  実際は、渡した。 渡したものは戻らない。戻らないものは、必ず誰かの手柄になる。  島田は最後に、いつもの紙片を取り出した。 今日の一文を書こうとして、ペンが止まった。 「本日、午後四時に——」 書けなかった。

 午後四時に鳴る鈴は、もう自分のものではない。 鳴る場所は、東京のどこかだ。派閥の事務局のどこかだ。運用会社のサーバのどこかだ。  島田は、初めて『困った』。 困った顔をしてはいけない男が、困った。 そして気づいた。

——群れは、入口を作る。 でも、入口は出口にもなる。  島田が自分で開けた扉は、 島田を外へ押し出す扉だった。  遠くで、もう一度、鈴が鳴った気がした。 今度は通知音ではない。  書類を綴じるホチキスの音だった。

カチャン。

それは、島田抜きの計画書が完成した音だった。